第三話 供物の乙女
「ユウーノシーン、ヤマーター」
車が交差点を左折して、学校へ続く桜の並木道に入った時だった。突然路子が言い出したので、不意を衝かれた香苗と美夏は思わず吹き出してしまった。
「……ブハハッ!似てる!チョー似てる!」
「ハハハッ!そっくり!」
助手席にいた由之真は、真っ白な桜並木から目を逸らさずに苦笑して、運転中の百合恵は笑いを噛み殺すのに必死だった。それは合同英会話授業のエミリー先生の口真似だったが、もちろん路子はエミリー先生を侮辱したわけではなく、由之真をからかうつもりもなく、ただ妙に静かな車内の空気を壊したかっただけだった。そして車内が静かになっていたのは、みんながそれぞれ今日のことを思い出していたからだった。
菜畑小中学校小学部では、四年生からクラブ活動の週二時間を英語の時間に割り当てていた。はじめの内は全て百合恵が教えていたが、村内の教員会に出席した時に村立第二小学校にAET(英語指導助手)として訪問している村立第二中学校のエミリー・パーカー先生と知り合ったのがきっかけで、百合恵達は去年の秋から月二回、二小の英会話授業に参加していた。
元々香苗達は入学当初から、第二第四金曜日は二小で合同体育授業に参加していたが、英会話授業とは曜日が異なり、月に四度も学校を行き来するのは一苦労だった。そこで本年度から両校の時間割を調整して、第二第四金曜日の四時間目から五時間目まで昼休みを挟んで丸々三時間の合同授業日となり、香苗達にとって合同授業日はちょっとした遠足のような感覚だった。
「エミリー先生、驚いてたよね」
「あー、みんなもな。これでもう相田なんか、二度と偉そうなこと言わないな……フフ」
この場合の「みんな」とは二小の児童達のことであり、百合恵は普段から児童達の関係に割り込まないようにしていたが、少しは知っておいた方が良いと思ってさりげなく尋ねた。
「……相田さんって、偉そうなこと言ってるの?」
百合恵は路子に尋ねたが、路子の代わりに香苗が答えた。
「葵ちゃんはいっつも自慢するよ。ゴールド受かったとか、シンガポールに友達いるとかさ」
「そうなの……でも、ゴールドは自慢してもいいんじゃない?」
「いいけど、言い方がムカツクんだよな。にやにやしてさ」
ゴールドとは、ブロンズ、シルバー、ゴールドという児童英検のレベルで一番上のレベルだった。香苗達は春休み前の試験でシルバーに合格していたが、その時ゴールドに合格した相田葵が、「あれ?あんたらもゴールドじゃなかったの?」と言ったことを思い出して、路子はつい本音が出てしまった。
「そう……でも、ムカツクとかは、どうでしょう?」
百合恵はいつものように、苦笑しながら路子の言葉遣いを注意した。口調はぶっきらぼうでも、路子は普段から一応言葉には気を付けていたが、それでも先生に使って良い言葉ではないと素直に認めた。
「あー…はい」
そんな路子のフォローではないが、香苗は愉快そうに路子の言葉を肯定した。
「でもさ、マジでもう葵ちゃん、自慢しないと思うよね」
「フフ、そうだねー」と美夏は笑って頷いたが、もちろん美夏が笑ったのは相田葵のことではなく、今日の合同英会話授業そのものだった。
はじめての合同英会話授業で、由之真は早速エミリーの餌食となった。ネイティブ同然の発音で自己紹介した由之真に対して、みんなが目を丸くして驚くことは百合恵も想像していたが、その後の展開までは読めなかった。エミリーは由之真に、どこで英語を学んだのか、学んだ期間は何年かと母国語で質問して、百合以外は誰もその会話を理解できなかった。
そしてエミリーは突然、「Oh !」とオーバーに驚いた。それは由之真が通っていたスクールの一つをエミリーが知っていただけだが、その小さな偶然は、エミリーにとって郷里を懐かしむには十分の偶然だった。勢いづいたエミリーは、呆然とするみんなや百合恵の苦笑にも気付かず、自分が住んでいた場所まで説明し始めた。しかしエミリーの暴走を止めたのは、意外な人物だった。
その人物は挙手をして、おっとりとした声で言った。
「……わかりません」
その直後全員が頷き、ようやく自分の暴走に気付いたエミリーは、両手を合わせて頬を染めながらみんなに謝罪した。しかし百合恵は内心、この暴走に感謝していた。それはエミリーの暴走が、由之真に注がれる好奇の目を一旦逸らせて、由之真とみんなの間にワンクッション置いてくれたからだった。とは言え、帰国子女でバイリンガルの転入生が英会話の授業を受けるというトリプルパンチは、そんな薄いクッションで防げるはずもなく、授業が終わっても香苗達以外で由之真に話し掛ける者はなかった。しかし、次の合同体育授業が終わる頃には、由之真は合同クラスの一員となっていた。
合同体育は五チームに分かれての男女混合フットサルで、香苗達は四人とも一つのチームに入れられた。ゲームは勝つと三点、引き分けで一点、負けると〇点という総当たり戦だったが、なんと香苗達のCチームが全勝優勝を果たした。二小の先生は、女子が多いCチームが優勝するとは思いもよらず、チームのバランスをとるためにサッカーが得意な男子を一人Cチームに入れていてた。しかし二小の先生は、当然ながら由之真を知らなかった。
得点の殆どはその男子によるものだが、ディフェンスの由之真による正確なロングフィードが勝因であり、香苗は三ゴール、路子は五ゴール決めて、なんと美夏までも足に偶然ボールが当たってゴールとなり、香苗達は優勝よりも全員がゴールしたことを喜び合った。
斯くして、由之真の二小デビューは無事終わり、百合恵はサイドブレーキを掛けながら朗らかに言った。
「とーちゃーく!」
百合恵はみんなを駐車場に並ばせ、帰りの会を始めた。
「……はい!今日は菜畑小チームが優勝できて、先生は本当に嬉しいです!」
するとさっきの仕返しとばかりに、路子がすかさず揚げ足をとった。
「菜畑小チームじゃないし」
「いーのです!先生は勝手にそー思ってたの!……とにかく今日は先生、良い日でした!大大大満足の一日でした!」
その赤裸々な嬉しさは素直に伝わり、香苗達もそれぞれ満面の笑みを浮かべた。しかし次の一言によって、その気持ちは台無しになりかけた。
「ということで、今日の感想文は原稿用紙四枚です!」
「えーっ!?」
途端に香苗達は眉間に皺を寄せながら抗議の声をあげた。しかしその声に満足した百合恵は、にこやかに続けた。
「その代り、提出は月曜日までとします!それと、明日は他の宿題を出しません!」
「……おー!」
いつも週末は山ほど宿題を出されているので、それはまんざら悪い取引ではなく、香苗達は忽ち元気を取り戻した。
「それじゃあ、みんな気を付けて。さようなら!」
「さよーならー!」
そして香苗達は駐車場の出口へ向かい、飼育当番だった由之真は百合恵と共に歩き出した。しかし由之真はふと立ち止まり、香苗達の方へ駆け寄って声を掛けた。
「……待って」
由之真が呼び止めることは珍しいので、全員が一斉に振り返り、真剣な目で由之真の言葉を待った。
「照が……明後日のお昼、みんなでお花見しないかって。場所は名合の道か、雨だったら家で……お昼はみんな家で用意するから、よかったら来て」
「行く!」と香苗は即答したが、美夏は残念そうに「えっと……用事があるから」と断わり、路子はちらと香苗を見てから「あー……考えとく」と素っ気なく答えた。
由之真から手渡されたノートを開き、百合恵は驚きの声をあげた。
「あっ、また産んだのね!」
そして百合恵は卓上カレンダーに「これで……三個目っと!」と卵のマークを書き足して、まだ後ろに立っている由之真に向き直って言った。
「今日の卵が孵るのは来月の中頃ね……それじゃあ、気を付けて帰って」
しかしまだ帰るつもりはなかった由之真は、答えずに尋ねた。
「……熊手と鎌を使います」
一瞬百合恵はきょとんとしたが、すぐに「農具の使用は許可を得てから」という自分が定めた規則を思い出した。
「……これから草刈りするの?」
「はい。明日は雨が降りそうなので」
「……そう」
校舎裏の畑の草刈りは既に三分の二ほど済んでいて、残りは次の総合の時間までに刈り取る予定だった。しかし指導計画に天気が合わせてくれるとは限らないので、もちろん百合恵は二つの指導案を作っていたが、確かに由之真の言うとおり、農作業はやれる時にやっておくのが基本だった。百合恵はできれば自分もやりたかったが、今日はすることが山ほどあったので、とりあえず下校時間の四時半に一度職員室に戻ってから下校するという条件で畑の草刈りを許可した。
「じゃあ、鎌には十分注意して!……あと、カラスにも気を付けてね」
「はい」
由之真は飼育小屋の隣にある物置から、熊手と草刈り鎌を取り出した。そして戸を閉めようとした時、ふと、物置の奥にある赤錆びた稲刈り鎌に気付き、それを手に取った。
「……」
由之真は少し考えて、その稲刈り鎌を物置に戻さず戸を閉めた。樅のトンネルを抜けた由之真は、一度足を止めて北の鬱蒼とした森を眺めた。すると木々の間から無数の黒い塊が飛び出し、喧しく喚き立てた。
それは百合恵達が畑の草刈りを始めた総合の時間に飛来したカラスの群れだった。その時百合恵は、「追い出された虫とかカエルを狙って来たのよ」と香苗達に説明したが、次の日の放課後にはカラスが倍に増えていた。その時点で百合恵は校長と相談して、場合によっては役場に駆除を申請することにしたが、今日もカラスは昨日よりも確実に増えていた。
「……」
由之真は森から北東の檜林に目を移し、林に向かって歩き出した。そして歩き出してすぐ、冷たい微風が由之真の髪を揺らし、由之真は右手の稲刈り鎌を一度だけ左右に軽く振った。するとカラスが一層喚きだしたが、由之真はそのまま小径を歩き続けた。小径は檜林の約七メートル手前で途切れ、林と小径の間は膝ほどの草が繁茂する窪地になっていた。そして由之真が窪地の前で足を止めた時だった。
「ギャアッッ!」
数羽のカラスが森から飛び立ち、由之真目がけてきりもみしながら降下した。しかしカラスは由之真の頭をかすめ、何枚かの羽をまき散らして森へ戻った。由之真はカラスには目もくれず、林の奥に漂う霧を見つめた。
「………」
由之真は熊手を置いて傾斜した草むらに寝ころんだ。するとまた数羽のカラスが来て、まるでからかうかのように由之真の頭上を飛び回ったが、由之真は気にせず林の奥を見つめた。
下校の音楽が終わった瞬間、百合恵は畑へ向かった。
「……!」
樅のトンネルを抜けた百合恵の目に無数のカラスが映った時、百合恵は一瞬ひやりとした。急いで畑を見渡したが、由之真の姿はなく、百合恵は胸騒ぎを覚えながら小径を歩き出した。そしてそれは、大きな声で由之真を呼ぼうとした時だった。
「っ!?」
草の間に横たわる由之真が見えた時、百合恵は頭から冷水を浴びたような悪寒に襲われ、すぐに言葉が出てこなかった。百合恵の脳裏に最悪の光景が浮かびそうになったが、百合恵は全力でその光景を否定し、ありったけの力を込めて叫びながら駆け出した。
「……八岐くんっ!!」
「!?」
しかし、その声に驚いた由之真の集中力が切れた途端、今まで気にしていなかった周りのカラスが、一斉に威嚇の声を発しながら声の主へ向かった。
「ギャギャーーッ、ガーッッ!」
「きゃあっ!?」
由之真は咄嗟に鎌を放し、素速く立ち上がると同時に両手を広げ、半ば無意識に柏手を打った。
パンッ!!
破裂音と同時に、由之真の足下から凄まじいつむじ風が吹き上がった。
「!?」
風は由之真自身が驚くほどの瞬間的な竜巻となり、無数のカラスを一瞬にして吹き飛ばし、カラスはそのまま一目散に森へ飛び去った。
(………?)
辺りが急に静まり、百合恵はハッと由之真を見上げた。由之真は呆然と自分の両手を見つめていて、あんなにいたカラスはどこにもいなかった。カラスに襲われた後のことはわからないが、由之真の立ち姿を見た百合恵は、自分でも驚く程の大きな声を出していた。
「八岐くんっ!」
しかし少しも怯まずきょとんと顔を上げた由之真を見て、かっと頭に血がのぼり、百合恵は生まれて此の方一度も出したことのないヒステリックな声で言い放った。
「四時半に戻りなさいって言ったでしょっ!?」
言った後、すぐに百合恵は苛立たしげに目を逸らした。こんな風に頭ごなしに叱りつけても、子供は恐怖に囚われるか反発するだけで、物事を叱られるか否かで判断しろと強制しているだけだった。何よりも恐怖で相手を縛ることは、百合恵にとって最も忌むべき行為の一つであり、百合恵はやりきれない思いで由之真に目を戻した。しかし由之真は腕時計を見て、微塵の怯えもない、いつもの穏やかな瞳で百合恵を見て静かに答えた。
「……すみません。時間を忘れてました」
「……」
その瞬間百合恵の苛立ちは霧散し、百合恵は腰に手を当て盛大な溜息をついてから、今度は柔らかい口調で言った。
「……カラスに気を付けてって言ったのも、忘れちゃった?」
「覚えてます……」
「じゃあ……」と言い掛けて、百合恵は由之真が寝ころんでいたことを思い出した。疲れ過ぎた子供は突然ぱたりと眠る場合があり、由之真も今日の疲れからうたた寝してしまったのかと思った百合恵は、説教をする前に尋ねた。
「……もしかして、寝ちゃってたの?」
寝てはいなかったが、由之真はそこではじめて俯き、少し考えてから顔を上げて答えた。
「カラスは大丈夫だと思って、……本当は、豊饒の祈祷をしようと思ってました」
「……」
意外過ぎる言葉に思考を奪われた百合恵は、一瞬唖然とした後、説教するのも忘れて怪訝な顔で聞き返した。
「豊饒の祈祷って……お祭りとかの?」
「はい」
考えてみれば、実家が神社の子供の発想としては不思議ではないが、由之真の真剣な顔を笑って良いのかどうか迷ったあげく、百合恵は苦笑を噛み殺して尋ねた。
「……まあ……それはそれで、先生は別にいいと思うけど………八岐くんのお祖父さんに、わざわざここへ来てもらうの?」
「……今ここで、五分でできます。してもいいですか?」
「え?……八岐くんがするの?」
「はい。供物もあります」
「……」
百合恵はひとまず「?」を置いて、もし本当に五分で終わるなら付き合ってみたいと感じた自分の好奇心に従った。
「じゃあいいけど……供物ってなんなの?」
「乙女の髪です」と由之真が百合恵の髪を指さした瞬間、百合恵は今まで溜めていたおかしさを吐き出した。
「フフフッ!……いやいや!先生は乙女じゃないから!香苗ちゃんとかの方が御利益あるでしょ」
しかし、由之真は真顔できっぱりと言った。
「先生の方がいいです。一本ください。すぐに終わります」
「……そう?」
これ以上断る理由もないので、百合恵は髪を指で梳いて渡した。由之真は手放した稲刈り鎌を拾い上げて、百合恵を畑の中心にある杏子の木の傍へ連れて行った。そして稲刈り鎌で杏子の木の枝を二〇センチ程度切り取り、その枝と髪の毛を四等分して、小枝に髪の毛を器用に結んだ。
「動かないで待っててください。すぐ戻ってきます」
由之真は走って東の丘へ、次に西の井戸の裏へ、南の杉林へ、そして最後に北の小径の外れへ行って、小枝を地面に差して戻ってきた。
「……今から先生を捧げて、その木を畑の守り神にします」
「へ?……先生を捧げるの?」と少し慌てた百合恵に、由之真は微笑んで答えた。
「大丈夫です。すぐ終わるから、その木を見ててください」
由之真の笑みに乗せられ、百合恵は少し緊張しながら言われたとおり杏子の木を見つめた。由之真は百合恵の後ろに回り、一度頭を下げてから小声で早口に、そして滑らかに語り出した。
吐普加身依身多女
寒言神尊利根陀見
祓ひ玉ひ清め給ふ(ハライタマイキヨメタマウ)
(割と本格的なのね……)と百合恵が素直に驚いていると、由之真は最後に優しく囁いた。
「杏子の木の神様……櫛田百合恵を守り賜へ、幸栄え賜へ」
(……私を?)
そして由之真は二回お辞儀をして、パンッパンッと二回手を叩いた。
(……)
その時不意に少し甘い香りが漂い、百合恵が思わず振り返ると、由之真は頭を上げて微笑んで言った。
「終わりました」
「そう……お疲れ様でした」と笑みを返してから、百合恵は率直な感想を述べた。
「先生が前にお祭りで見たのと比べると、随分短かいお祈りね。どういう意味だか、八岐くんは知ってるの?」
「……簡単に言うと、どうか神様笑って、この大地を守ってくださいって意味です」
「へぇー……」と感心しつつ百合恵が腕時計を見た時、由之真は足下に置いた稲刈り鎌を拾い上げて言った。
「先生、この鎌まだ使いますか?」
「それは……捨てるつもりだけど、どうして?」
由之真は稲刈り鎌を見て、少し考えてから答えた。
「……魔除けに使います」
それに応じる言葉が思いつかない百合恵は、怪訝な顔で繰り返した。
「……まよけ?」
「はい。石狩神社オリジナルのおまじないです。捨てるなら、もらってもいいですか?」
「んー……」
百合恵は腕を組み、きつく目を閉じ首を傾げてから答えた。
「ちゃんと廃棄してくれるならあげるけど、おまじないってどんなことするの?危険なことなら、あげられないわ」
「……こうするだけです」と言うなり、由之真はくるりと北の森に身体を向けた。そして稲刈り鎌を振り上げ、ピュンッと勢い良く振り下ろした。
「ギャギャアッ!」
「!?」
咄嗟に森を見ると、優に一〇〇羽は超えるカラスが森から飛び立って、全て西の杉林の向こうへ姿を消した。
(……あんなにいたのね)
由之真は向き直り、呆然と空を見上げる百合恵に言った。
「終わりです」
「え……今のがおまじないだったの?」
「はい」
「……そう」
よもやおまじないがカラスを撃退したとは思えないが、少し寒気を感じた百合恵はこれ以上尋ねるのを止めた。
「さてと、もう帰らなくちゃね。その前に……」
百合恵は右手の小指をぴんと立てて、しかつめらしい顔つきで言い渡した。
「八岐くんと先生のお約束、その一。下校の時間は必ず守ること!いい?」
「……」
そもそもそれは学校の規則だが、由之真は一瞬きょとんとして、中学部校舎の方を見てから答えた。
「今日は……照の部活日で、少し遅くなるから待つように言われました。照が来るまで草刈りしててもいいですか?」
「……」
百合恵は軽く溜息をつきながら(それは先に言ってもらわないと……)と思ったが、由之真の下校の問題が早めに表面化したことは却って良かったと感じた。
基本的に長距離の単独下校はバスの利用が推奨されていたが、学校側はそれを強制できないので、百合恵は可能な限り照と由之真が共にバスで登下校することを望んでいた。そのため多少下校時間を過ぎたとしても、由之真が教室で照を待つことを黙認していたが、あまり照が遅くなるのであれば、いっそのこと由之真を先に下校させた方が良いのではないかと考えた故の「お約束」だった。
しかし由之真が「今日は」と言ったので、元より平日は常に六時過ぎまで、時には八時過ぎまで学校にいる百合恵は、照の部活日がそう多くないのであれば、照を待ちたいという由之真の希望を叶えてあげたいと思った。
「……照ちゃんの部活日って何曜日なの?」
「水曜と金曜です」
「……じゃあこうしましょう!」
百合恵はもう一度小指を立てて仕切り直した。
「お約束その一!照ちゃんが遅い日だけは校舎か畑で待っててもいいけど、帰る前に必ず先生と会って、できるだけバスで帰ること!他の日は下校の時間をちゃんと守ること!いい?」
「……はい」
由之真は百合恵の小指に自分の小指を絡ませた。百合恵は意地悪そうに口元を歪ませてから、愉快そうに調子を取った。
「せーのっ、オヤクソク!」
指を離して、まるで少女のように微笑む百合恵に気圧され、由之真ははにかみながら百合恵から目を逸らした。そして百合恵はもう一度腕時計を見てから言った。
「先生六時半まで学校にいるから、教室か職員室で待っててもいいけど」
「……照はここに来るから、草刈りして待ってます」
照が畑に来るということは、それを由之真が照に望んだからであり、由之真にとって畑で照を待つことは一石二鳥に他ならず、それがわかった百合恵は由之真が本当に畑が好きであることを痛感しながら言った。
「そう……じゃあ、頑張り過ぎないようにね!」
草刈りを始めた由之真はふと手を休め、手のひらを見つめてから北の森を見上げた。夕風に吹かれ、ざわざわと揺らぐ大きなケヤキやクヌギの上に、一羽の鳶が浮かんでいた。その時また甘い香りが漂い、由之真は杏子の木を見上げた。由之真がこの学校へ来る前に杏子の花は散っていたが、よく見ると木のてっぺんに小さな白い花が幾つか残っていた。由之真は少しの間その花を見ていたが、また草刈りに戻った。そして約一五分で畳六畳ほどの広さを刈り取り、その草を草置き場に運び終えた時に照が駆け寄ってきた。
「お待たせー!……」
由之真がタオルで汗を拭った時、照は由之真の手のひらが赤くなっていることを見逃さなかった。
「……どうしたの?」
「何が?」
照は由之真の手を取り、もう一度尋ねた。
「これ……何したの?」
「ああ……」
由之真は自分の赤い手のひらを見て、次に檜林を見ながら言った。
「あの奥の神社って、いつ移したのかな?」
照は腰に手を当て、小首を傾げながら答えた。
「えっとね………沢村神社が移ったのは、由ちゃんが向こうに行ってすぐかな」
「そうなんだ……」
由之真は森を見上げ、それから檜林を見て言った。
「………あそこに地主がいたけど、かなり弱ってた」
「えっ……地主だけ?」
「うん」
地主とは、その地に住まう地主神と呼ばれる超自然的存在の集合体であり、通常は人が祀った鎮守神に従いその土地を守護する存在だが、稀に人の都合で他所の社に合わせ祀る時、何故かはわからないが、どうしても生まれた土地を離れない地主がいた。そして一旦鎮守されてから放置された地主の力は、誰かが再び祀らなければいずれ消える運命だった。しかし、それと手の関係がわからないので、照は続けて尋ねた。
「そっか。……でも結局それどうしたの?まさか地主と喧嘩したわけじゃないよね?」
「うん。喧嘩はしてないけど、これは……」と由之真はゆっくりと歩き出し、苦笑混じりに答えた。
「……先生がカラスに襲われて……ちょっと焦って、祓っちゃった」
「は……祓ったの?」
「……うん」
「………」
相手が何であれ祓いたがらない由之真の性格を知っていた照は、おそらく百合恵を助けるために慌てて気を込め過ぎた不可抗力だろうと考えた。また、止むを得ない場合の地主祓いは許されているし、地主は完全には祓えない存在なので、これ以上地主のことは考えないことにした。
「……先生は大丈夫なの?」
「うん。畑の祈祷を手伝って……」
由之真はそこで言葉を切って顔を逸らしたが、もう遅かった。照は由之真の肩に手を掛け無理矢理向き直らせて、由之真の目を見据えて尋ねた。
「祈祷したの?」
「……うん」と聞くなり、照は由之真が言い訳する間も与えず憤然と捲し立てた。
「お祓いと祈祷一緒くたにやったらダメじゃん!しかも勝手に余所んとこでやって!バレたらお爺ちゃんに叱られんの私なんだからねっ!!」
「照が言わなきゃバレないよ」と喉まで出掛かったが、それを言ったら説教が何倍にもなることは目に見えていたので、代わりに由之真は「…ごめん」と素直に謝った。
「………」
止むを得ず祓うことは許されても、祈祷などの祭儀は許可が必要であり、更に由之真は管轄外の地鎮行為で二重に違反していたが、照が怒った本当の理由は違反ではなかった。照は一度由之真を睨めつけて、それからから盛大な溜息をつき、苦笑を浮かべて言った。
「……まあでも、ここは由ちゃんの畑みたいなもんだから、きっとお爺ちゃん許してくれると思うけど……でもね……」
照はしかつめらしい顔を作り、勿体ぶって言い渡した。
「今回はお爺ちゃんに言わないけど……やるんなら一個一個時間置いてやんないと危ないんだから、お祓いと祈祷一緒にやるのは絶対禁止だからね!」
照の顔つきと言い方のせいか、一瞬脳裏に百合恵との「お約束」が浮かんだ由之真は、ここで笑ったら全てが台無しになるので必死に苦笑を噛み殺して答えた。
「……うん」
「あと、とにかく勝手に余所んとこ祈祷するのはダメ!する時はお爺ちゃんに聞いてからじゃないと、お爺ちゃん拗ねるんだから!」
「うん、わかった」
(……ったく、返事だけはいいんだから)と思いつつも、とにかく言いたいことを言ってすっきりした照は、朗らかな声で言った。
「じゃあ帰ろっか!」
「待って、先生に帰るって言ってくる」
由之真は歩きながら、百合恵と交わした「お約束」を照に説明した。
「えっ!?ホントに先生とアレしたの?」
「うん」
「アハハハッ!見たかったー!」
百合恵と香苗がしていた「お約束」を覚えていた照は、あれを由之真がしたかと思うと笑わずにはいられなかった。しかし由之真を待たせたのは自分なので、それは素直に謝った。
「そっか、ごめんね由ちゃん。ついこの前までいたのに、六月まで下校が四時半なのすっかり忘れてたっけ」
照は久しぶりに担任だった柏葉先生と会えると思ったが、残念ながら職員室には百合恵しかいなかった。しかしふと思い出して尋ねた。
「……そー言えば由ちゃん、みんなに言ってくれた?お花見のこと」
「うん……あ、先生にはまだ」
何のことかと百合恵がきょとんとしていると、照はにこっと微笑んで言った。
「先生、明後日よかったらお花見しません?名合の道も家の桜も、ちょうど明後日頃満開になるから!」
「へぇ、照ちゃん家って桜があるの?」
神社の桜は自慢の種なので、照は両手を広げて嬉しそうに答えた。
「ありますよ!神社だもん!学校のよりおっきいです。庭にもありますよ!」
「へー!……他に誰が来るの?」
「それがみんな誘ったんだけど、友達も仲村先生も日曜はすることがあるって……あ、だからって先生を誘うわけじゃなくって、もちろん先生も最初から誘うつもりだったんです!」
まるで百合恵が日曜することがないような言い方をしたと思った照は慌てて言い繕ったが、百合恵は一瞬きょとんとして、すぐに苦笑して答えた。
「……フフ、気にしないで。実際日曜は、そんなにすることないから」
「ハハ……じゃあ、来ます?」
実のところ明後日は指導案を書き上げる予定だったが、頑張れば土曜には終わると考え、百合恵はその御招ばれを受けることにした。
「そうね、参加するわ。……何か用意するものある?」
「いーえ!ぜーんぶうちで用意しますから。お弁当も!」
お弁当と聞くと、もはや由之真が持ってくる立派なお弁当しか思い浮かばなくなっていた百合恵は、俄に胸がわくわくしてきて嬉しそうな声で言った。
「それは楽しみだわ!じゃあ先生が柏葉先生に聞いとくわね」
「はい、お願いします」
そして照と由之真は、純白の綿を被ったような校庭の桜のトンネルをくぐってから校門を出て行った。そんな二人を職員室の窓から見送っていた百合恵は、その光景がなんだかおとぎ話の挿絵のようだと感じて、少しだけ胸が疼いた。
桃色の夕日に照らされた名合の桜の道は、まるで桃色に輝く雲の道に見えた。四月の名合の道は菜の花やタンポポ、水仙などの黄色い花が主役だが、顎を上げて歩くこの二週間は、照が一年で一番好きな二週間だった。由之真が何も言わないので、照も何も言わず黄昏色の空気の中を夢心地で歩いていた。聞こえるのは鳥の声とせせらぎと、二人の揃った足音だけで、今この世界に自分と由之真しかいないと照が感じた時だった。
「由坊!」
突然世界は不躾な声に切り裂かれ、照は声の主を不満げに睨めつけた。しかし声の主は王子様に貢ぎ物を献上した。
「ヤマメ食うか?今朝ジロ沢で釣ってきたヤツだ」
「はい」
王子様は貢ぎ物を受け取って、お姫様に言った。
「唐揚げにしよう」
王子様の顔が嬉しそうだったので、お姫様は全てを許して言った。
「おじさんありがとっ!……あっ!一匹イワナいるよ由ちゃん!」
終わり