第二十六話 不屈の記憶 後編
照は勢い良くカーテンを開けて、灰色の空を見上げながら盛大な欠伸をしてから呟いた。
「ふわぁ〜〜ぁふっ……すっごい雨……」
こんな豪雨になるならば、麻純を気にせずアレを吊せば良かったと後悔しつつ、照は顔を洗ってパジャマのままキッチンへ向かった。キッチンでは貴美が手でレタスを千切っていたが、由之真はシンクで何かをじゃぶじゃぶ洗っていた。
「…おはよー!」
「おはよ」
「おはよう!今日は雨でちょっと残念だけど、午後は晴れるみたいよ」
「そーなんだ、よかった!」
照はエプロン姿の母親を一時見つめてから、テーブルの上の皿を見渡して尋ねた。
「…お母さんらって、朝はパンだっけ?」
「ううん、大抵ご飯だけど、由くんが炊飯器使うから」
「ああ、そっか!一つしかないしね。…私ポーチドエッグ作ろうかな。由ちゃん食べるでしょ?」
由之真は、洗った物を金ザルにあけて答えた。
「…うん、じゃあベーコン焼こうか」
「うん!お母さんは?」
「…どうせなら、みんなの分も作っちゃったら?」
「そーだね!」
そして午前七時半を少し回って陽祐が現れ、そのすぐ後に麻純が現れた頃には人数分の立派なポーチドエッグトーストができていた。陽祐は新聞を開きながら、早速トーストに齧り付いた。
「お父さん、テーブルに新聞置かないで」
「うん。…んー、朝っぱらから美味いな!照、コーヒーポーチっと頂戴」
「…自分でやって。…麻純さん、勝手に作っちゃったけど、多かったら残していいですから」
夕べあれだけ食べたので今朝は少し控え気味にしようと思っていた麻純だが、その思いとは裏腹に腹が鳴った瞬間言っていた。
「…いやいや、是非平らげますよ?」
「フフッ!」
そして和やかな朝のひとときが過ぎて、陽祐はジャケットの内ポケットから愛用の万年筆を取り出し、由之真の前でインクを調べてから不敵な笑みを浮かべて言った。
「異常なし!」
「…フフッ」と、愉快そうな苦笑を浮かべる由之真の頭をぐりぐりと撫で回し「頑張れよ」と囁いて、陽祐はアタッシュケースを手に取った。
「いってらっしゃい!気を付けてね!」
休みが取れなかった陽祐は、自分だけがお見舞いに行けぬことを昨日からぼやいていたが、それはそれとして、娘に送り出される喜びを噛み締めながら朗らかに答えた。
「いってきまーーす!」
斯くして、待望久しい舞台の幕がようやくのんびりと上がり始めたが、よもやその舞台が一ヶ月以上前から仕掛けられていたとは思いも寄らず、それぞれがそれぞれの期待や不安を胸に舞台へ臨もうとしていた。
「……それなぁに?」
洗い物が済んでもキッチンから離れない二人に麻純が尋ねると、照は嬉しそうに金ザルの中身を見せて答えた。
「由ちゃんが採ってきたホンシメジ!真由叔母さんきのこの炊込み御飯大好きだから、お土産にこれから作るんです!」
(…ホンシメジ?)
一応都市で育った麻純にはあまり聞き慣れぬ言葉だが、麻純が金ザルを覗くと、裂いた白いきのこがたっぷり入っていた。
「…ほー!炊立てのお土産だね!」と麻純が素直に感嘆すると、聞かれもせずに貴美が苦笑を浮かべて説明した。
「ウチのしきたりって言うかね、いいきのこが採れたら、炊込み御飯にするって決まってるの。それで私が小さい頃にね、秋から冬にかけてずーっときのこ御飯ばっかりでうんざりしたことがあったけど、真由だけは毎日美味しい美味しいって、ガツガツ食べてたのよ!フフッ」
「そんなに!フフフッ」
照達はお見舞いに必ず郷里のお土産を持参していたが、貴美によれば真由はつわりの時でさえきのこ御飯を食べていたらしいので、そこまで好きなら感謝の一言でも貰えたらと願いつつ、照と由之真はせっせとホンシメジ御飯をこしらえて。そして丁度午前十時頃、首尾良くお土産ができたところへ貴美が来て言った。
「……いま電話したらね、本家の人と遺産の話しが終わったら、みんなリビングで待ってて欲しいって。あとー…」
貴美は頭を掻きながら、少し困ったような苦笑を由之真に向けて続けた。
「やっぱりね、遺産の話し合いには参加しないから、由くんが決めたらいいって」
「…はい」
(……)
照はちらと由之真を窺い、その表情に何の落胆もないことを見て一人安堵した。昨日の貴美の話しを聞いてから、照は今回のお見舞いがいつもと違うことを内心とても喜んでいた。それは、これまで一方通行だった感覚が急に霧散したことで、これから何かが変わるような、いままでとは少し異なる期待が生まれたからだが、照はそれを悟られぬよういつものように言った。
「お母さん、スーパーでお花買ってくよね?」
「そうね。じゃあ、もうそろそろ出ましょう」
「うん!」
そして十時二十分頃に家を出ると、雨は小降りになっていて雲も明るくなっていた。照達はスーパーで思い思いの花を選び、十一時十分前に真由の家に着いた。玄関の鍵は開いていて、チャイムを押しても返事や出迎えがないのは前回と同じだったが、照も前回と同じように覚悟を決めて宣言した。
「こんにちはー!お邪魔しまーす!」
貴美と照は早速キッチンで花を生けて、由之真がお茶の準備をしている間、手持無沙汰の麻純はきょろきょろとリビングを見渡した。リビングというより応接室のようなその部屋は、木製の重厚なテーブルと色褪せたベージュの長ソファーが斜めに設置されていて、他には部屋の角に古いテレビが一台と、東側の壁には一台の小さなスピーカーが乗っているサイドボードが置いてあるだけの飾り気のない洋間だった。
しかし、カーテンやカーペットは麻純が好きな淡いパステル調で、サイドボードの中にはカラフルで可愛いティーセットが三種類と、これまた可愛らしい花柄の皿などが並んでいて、部屋自体は明るく居心地が良いと麻純は感じた。(…そう言えば、結婚したのも覚えてないって……じゃあ、由くんが十一歳だから…)未婚である今の自分と似た感覚なのかもと思いつつ、麻純はカーテンを開けて庭を眺めた。
庭は枯れ葉もなく、所々に赤とピンクのコスモスと赤いゼラニューム、そして白い花を咲かせた枇杷の木と、高い檜が二本立っているのが見えた。その向こう側には低い緑の生垣が見えたが、生垣は広い敷地をぐるっと囲んでいて、照が言っていた十三本の木の半分以上は敷地の北側に立っていた。
「……そろそろね…」と呟きながら貴美が腕時計を見ると、時刻は丁度十一時になろうとしていた、その時だった。
ピンポーン
「あっ、来たわ!照、お茶お願いね」
「うん!」
貴美は玄関へ向かい、ドアの前で一度深呼吸してからドアノブを回した。
「…っ!?」
しかし、初顔合わせの緊張を解そうとしたその深呼吸は、全くの無駄だった。ドアの向こうに立つ人物の白い顔を見た瞬間、貴美ははっと息を呑み、目を見開いてそのまま一時固まった。
「……」
幸いにもその人物が何も言わないので、貴美はすぐに我に返り、振り返ってリビングにいる由之真の姿を確かめてから、やっとの思いでどうにか声を絞り出した。
「……や、八岐さんですか?」
「…」
その人物は無表情な顔でこくりと小さく頷き、静かに半歩進んだ。
「!…どっ、どうぞ!」と、貴美は慌てて退きながらその人物を招き入れ、素早くスリッパを出してからすたすたとリビングに入った。
「…?……っ!?」
そして、貴美の様子がおかしいことに照と麻純が気付いた直後、二人は貴美と同じように目を剥いて絶句してしまった。グレーのジャケットにブラックジーンズという暗い装いの人物は、音もなくゆっくりとリビングに入り、由之真だけを無言で真っ直ぐ見つめた。すると由之真は一瞬目を丸くして、きょとんとした声で言った。
「……彰ちゃん」
(彰ちゃん!?この人が!?)と、貴美と照は同時に思ったが、彰の存在を知らない麻純は、彰と由之真の顔を何度も交互に見比べながら(違うよね?双子じゃないよね?違うよね??)と、何度も頭で繰り返した。そんなみんなの困惑を余所に、彰は素早く頷きながら自分と由之真を指差して、何やら両手をひらひらと動かした。
(…手話だ!)と照が気付いた瞬間、由之真は胸に右手を当ててすっと手を下ろし、デイパックを持って彰と共に玄関へ向かって歩き出した。
「……由ちゃん?」
辛うじて照が尋ねると、由之真は立ち止まり微笑んで答えた。
「ちょっと外で話してきます」
「…外って?」と貴美が思わず聞き返すと、由之真は「その辺です。すぐに戻ります」と答えて玄関を出て行った。
残された三人は暫し呆然と玄関を見つめ、すぐに互いの顔を見合って最初に麻純が不安げな声で切り出した。
「……ゆ、由くん、…双子じゃないですよね?」
突然の脅威が消えた安堵からか、貴美は吐息をついてから手の平をジーンズで拭って答えた。
「…ええ、違うわ。でも、…まさか本家の子が来るなんて……確か、又いとこだっけ?いとこは似るって言うけど、ちょっと気味が悪いくらいそっくりねぇ…」
照はもう一度玄関に目を向けて、呟くように言った。
「…うん…でも、顔はそっくりだけど……なんだか由ちゃんとは全然違う感じだよ。…ていうか、由ちゃん手話できたんだ…」
「…そうね……」
貴美と照は、それぞれ勝之真と由之真から『本家の彰は、一族切っての風繰り手』としか聞いておらず、その他は由之真が本家似であることを照が由之真から聞いていたくらいだった。そして、手話を見た時点で彰は耳が聞こえないと思い込んだ三人は、彰が由之真を連れ出したことには特に疑問を抱かず、由之真が戻るまで自分がどれ程驚いたかを互いに披露し合った。
玄関を出た由之真は、北側の庭に進む彰を小走りに追い掛けた。そして二人は無言で少し歩き、不意に彰がハスキーな声で切り出した。
「…由ちゃ、三回忌来んのげ?」
由之真は一度俯いてから、彰に顔を向けて答えた。
「……母さんが行かないみたいだから、俺も行かないよ」
彰は腕を組み、前を向いて静かに言った。
「…その方がいい。今行っても、遺産目当てだど思われるだげだがら…」
「……」
二人は一度立ち止まり、また歩き出して彰は続けた。
「……智義さん入院してんの、知ってっか?」
「…ううん、どうして?」
「九月にバイクで事故ったのさ。当でられだんだけど、歩げるまで一年掛がるって」
「…そうなんだ」
ゆっくりと歩きながら、彰は左手でそっと檜に触れてから苦笑気味に続けた。
「……そんで時婆も糖尿拗らして、もうじき車椅子でさ。だがら弱気になってんだと思うげど……まあいい」
彰は足を止め、にやっと笑いながらジャケットの胸ポケットから小型のボイスレコーダーを取り出して、徐に尋ねた。
「由ちゃ、時婆の遺産どうする?」
由之真は貴美に言われた通りに、思ったことをそのまま答えた。
「……母さんがいらないなら、俺もいらないよ」
「いらねっつっても、遺言にやるって書がれだらどうする?」
「…その時は放棄するよ。俺には父さんの家があるから」
すると彰は片笑みを浮かべながら、今度は少し意地悪そうに尋ねた。
「じゃあ、やっぱ由ちゃは石狩んなんのげ?」
由之真は一時ぽかんと口を開けたが、困ったような笑みを浮かべながら軽く首を横に振って素直に答えた。
「…そんなつもりないけど、わかんないよ」
「……」
彰は由之真に見えるようにボイスレコーダーのスイッチを切って、歩き出しながら言った。
「…ホントは由ちゃに会いてぇだげだがら、一回ぐらい会いに行げば済むっけ…」
「うん、今度……いつか必ず行くって言っといて」
「ヤダよ。…十万で言ってやってもいいげど、自分で言え」
「フフッ、うん…」
そして二人は庭の西側に立つ檜の前で足を止め、彰は檜と生垣の間に疎らに生えた笹を見つめて、思わず呟いた。
「……綺麗だな」
「うん」
「……由ちゃが張ったのげ?」
「ううん、お婆ちゃん」
笹の間には、色褪せた小さな十二枚の紙垂がついた、直系約十五センチ、太さが一センチ程の茅の輪が地面から約一メートルの高さに垂直に浮いていて、その輪に結ばれた無数の細い縄が放射状に伸びていて、縄同士が複雑なレース編みのように絡み合い、まるで揚羽蝶の羽のように見えた。彰はその美しい結び目をうっとり見つめながら言った。
「……こんな小せぇ大結界、見だごどね。…由ちゃの婆ちゃんすげーな……」
由之真は珍しく、少し自慢げな口調で言った。
「お婆ちゃんには、誰も敵わないよ」
「フッ、石狩の鬼哲でもか?」
「うん。フフッ」
そして一頻り眺めて、彰は不意に黙って歩き出した。由之真は彰の背中を見ていたが、十メートル程離れてから声を掛けた。
「……彰ちゃん」
「……」
彰は立ち止まってゆっくり振り返り、由之真の右手を見て眉間に皺を寄せた。由之真はデイパックから稲刈り鎌を取り出して、静かに言った。
「……時間あるかな?…無いなら…いいけど…」
「……」
彰はそのまま由之真を見据えてから歩み寄り、由之真に二〇センチまで迫り、由之真の瞳の奥を鋭く見つめながら低く囁いた。
「……何した?」
「……え、帰っちゃったの?」
玄関を出てからおよそ十分、一人で戻った由之真はすぐにソファーに腰掛けて、苦笑しながら照の問いに答えた。
「…うん」
帰ってきたところを密かに写メでも撮ろうと思っていた照は、腕を組んで残念そうに眉を顰めて言った。
「なーんだ、折角来てくれたのに…それで、どうだったの?」
「うん。三回忌に行かないことと、遺産もいらないって返事を録音してくれて、持って行ってくれるみたい」
「…そっか……」と照は何故かほっとして、一度頷いてから質問を続けた。
「…でも由ちゃんが手話できるなんて、私ちっとも知らなかった。彰ちゃんと話すために覚えたの?」
由之真は一瞬きょとんとしたが、すぐに思い当たって答えた。
「……ああ、そうじゃなくて、あれは彰ちゃんが話しを聞かれたくなかったんだと思う。彰ちゃんは、普通に話せるよ」
「えっ!?」と驚いたのは、照よりも貴美の方だった。貴美は眉間に皺を寄せ、腰に手を当て苛立たしく捲し立てた。
「何よその秘密主義?手話まで使うなんて…ったく由くんには悪いけど、ハッキリ言って私は八岐がいけ好かないわ。いくら由くんに似ててもね!」
似ていることは無関係だし、照と麻純は言い過ぎだと思ったが、由之真はどう答えてよいか判らず、取り敢えず「…すみません」と謝った。すると貴美は慌てて両手をばたつかせながら、「分家じゃなくて本家よ!分家はいいの!本家だけ!」と言ったところで、貴美の携帯電話が鳴った。
「…はい、ああ真由!…」
(きた!)
由之真を待つ間、誰も口には出さなかったが、ついに訪れた待望の瞬間に照の胸は早鐘を打ち、照は静かに深呼吸して貴美の言葉に耳を傾けた。しかし、貴美の顔は俄に曇り、声には動揺が混ざっていた。
「……え?どう言うこと?……スイッチって…ああ、このスピーカーね?」
(…どうしたの?)
照達が見守る中、貴美はサイドボードの上のスピーカーの裏を覗き、スピーカーのスイッチを入れた。
「オンにしたわ。……もしもし?」
しかし既に電話は切られていて、代りにスピーカーから『ブツッ』という小さな音がした。そして一拍置いて、感情を押し殺したような低い女性の声が静かに響いた。
「……聞こえる?そのまま答えて…」
「………」
全員が言葉を失ったが、辛うじて貴美が辺りを見回しながら答えた。
「……え、ええ。聞こえるけど…これは一体なんなの?」
その問いに答えず、何の挨拶も無く間髪を容れずにスピーカーは告げた。
「全員、サッシ側のドアから隣の部屋に入ってください」
「…ちょっと真由、どうしたの?」
「入ってから話します」
(……)
有無を言わせぬ一方的さに、照の胸には不安と苛立ちが交じった灰色の感情が生まれ、照は思わず麻純を押し退け隣の部屋へ通じるドアを開けた。
(!?…照ちゃん?)
しかし、仄暗い部屋の東の壁を見た瞬間、照は唖然と立ち尽くした。
(……何これ?…)
部屋に真由はいなかったが、部屋の東の壁には三〇インチはあろう大型液晶テレビが横一列に三台掛けてあり、その間に一台のスピーカーが置かれ、部屋の西よりに三つのパイプ椅子が並べられていた。咄嗟に貴美はみんなに動揺を与えまいと、少し砕けた口調で言った。
「…真由、どうしたの?上映会でもやるの?」
しかしやはり真由は答えずに、抑揚のない低い声で静かに言った。
「…八岐由之真、君だけ奥の部屋に入りなさい。他の方はそこで座って、モニターを見ていてください」
「……」
それは照が知る限り、帰国後の真由が由之真に与えた最初の言葉だった。あまりにも無情な呼び方に我慢の限度を超えた照は、拳を固く握り締め、怒りの炎を吐き出そうと思い切り息を吸い込んだ、その時だった。突然誰かに腕を握られ、驚き振り返った照は目を見開いた。
(!?)
その妙に見覚えのある、少し意地悪そうでとても愉快そうな笑みが目に映った瞬間、何故か照の怒りは霧散していた。しかしその笑みはすぐに消え、由之真は風呂敷包みを持って奥の部屋へ通じるドアへ向かったが、照はそれに気付かず、たった今見た由之真の顔をどこで見たのか必死に思い出そうとした。
(……あの顔……あの目って………)
由之真はドアノブを回して、ドアを開けた。
(いつだっけ?…いつ見たっけ?…いつ………あっ!!)
照が完全に思い出した時、由之真は部屋に入って静かにドアを閉めた。
「……ねえ真由?こんなやり方私は賛成できないわ。お願い、今日は考え直してくれない?明日もあるし…」
しかし尚も真由は答えず、代りに照が元気な声で答えた。
「大丈夫だよお母さん!座ってモニター見よっ!」
「!…」
貴美は一時娘の目を覗き、それがけして空元気ではないと判ると「…そうね」と素っ気なく言ってどかっと椅子に腰を下ろし、腕を組んでモニターを睨めつけた。そして、照も同じように腕を組んでモニターを睨んだが、その口元には不敵な笑みが浮かんでいた。
(…大丈夫…絶対大丈夫!……だってあれは最初の顔だもん!あの顔の由ちゃんは……)
最初の顔とは文字通り、幼い照が最初に見た由之真の顔だったが、今はその最も大切な思い出よりも、突如目の前に映った由之真の無表情な顔に、照は全神経を集中した。
(………私…なんでここにいるの?…)
ふと我に返れば薄暗い部屋で椅子に座り、大画面の中の由之真を眩しそうに眺めながら、麻純は未だ状況を把握できないでいた。しかし、急に自分を押し退けた照の機嫌が戻ったようなので、取り敢えず(まあ……いいかな)と思った時、誰かがどこかのドアを開けた音が聞こえた。
その部屋は六畳ほどの縦に長い、分厚いカーテンで遮光された洋室だった。部屋の中央には一メートル四方の机が三つ縦に繋がれて、机の両端にはパイプ椅子が、両脇には机よりもやや低い台が置かれ、その二つの台と中央の机にビデオカメラの三脚が立っていた。そして、東西の壁の上方には照明が眩しく輝き、光は南側の椅子に向むけられていて、その他には何もなかった。
「……」
カメラの台で部屋が仕切られているので、由之真が取り敢えず南側の椅子に腰掛けると、三つのモニターの中央に由之真の顔が現れた。モニターは左から順に由之真の斜め右前、正面、斜め左前からの映像を映していて、スピーカーからは由之真が座る音が聞こえた。そしてすぐに、誰かがドアを開ける音がした。
「……」
艶やかな長い黒髪をゆったりと後ろで束ね、清楚な白いブラウスにベージュのタックスカートを纏ったその美しく嫋やかな女性……八岐真由は、息子とよく似たなめらかな弧を描く眉の下に、姉とは異なる静かで知的な光を湛えた瞳を一度由之真に向けてから、腕に抱えた書類の束と黒いノートパソコンを机に置いた。そして真由の入室と同時に立ち上がった由之真に、静かに言った。
「…ドアをロックしてください」
由之真がすぐにドアノブのボタンを押して椅子に戻ると、真由は北側の椅子に腰掛けながら、「…座ってください」と言って、何やら書類やノートを机上に並べ始めた。
(……)
画面には前を見つめる由之真が映っているが、貴美と照は真由の言動が音しか判らないことに不満を抱いた。しかし、その不満はすぐに遮られた。真由はノートを一冊、バサッと机に投げ出して、由之真を冷たく見つめながら静かな声で言った。
「私の日記を知りませんか?」
(…日記?)と誰もが思ったが、画面の由之真は無表情のまま静かに答えた。
「知りません」
「……そうですか」と、真由は書類の束を拾い上げて続けた。
「私は先月二週間、ロスでいろいろ調べました」
そして真由は、突然由之真の前にバサリと書類を放った。
(!)
書類がカメラの三脚に当たって一瞬中央の画面が震え、丁度その画面を見ていた麻純はびくりと身を強ばらせたが、真由は間を置かず静かに続けた。
「…それは向こうで関った方々の言葉を、文字にしたものです。最初に住んだアパートから、最後に住んだ家の家政婦や隣人、私の職場と君が通っていた学校の関係者も、可能な限り詳しく…もちろん『BENTO』の従業員にも会って、誰が何をしていたかを調べました…」
(……誰がって…由くんのこと?)と貴美は思ったが、この時由之真の目が微かに和らいだのを照は見逃さなかった。しかし真由はノートを拾い上げ、ページをパラパラと捲りながら尚も静かに続けた。
「…私に十二歳から日記を書く習慣があることを、多くの人が知っています。在米中は職場を拠点に生活していたようですが、それでもほぼ毎日書いていたことを、十五人が目撃していました」
真由は文字で埋め尽くされたノートを開き、由之真に見せながら続けた。
「…日記があることは去年一月に知りました。それからほぼ一年放っておきましたが、去年の暮れから読み始めて、わかったことがあります」
(…)
ほんの刹那、照は希望を持ち掛けたが、そうであるならこんな目には会っていないと意識を画面に戻した。真由はノートを机に置き、一枚の紙を拾い上げてすらすらと読んだ。
「…平成六年の三月と四月、七月から九月までの五冊、翌年二月から四月と九月の四冊、平成十年七月と八月の二冊の、合計十一冊の日記がありませんでした」
そして紙を置き、ノートパソコンに左手を乗せて、由之真を真っ直ぐ見据えながら今度はやや語気を強めて言った。
「……平成十三年六月三〇日の日記によると、私はその翌日から、平成十六年十一月十六日まで、……事故の前日まで、このパソコンで日記をつけていたようですが……八月の日記のデータだけ、そっくり四年分ありませんでした」
「……」
真由は一度由之真から目を逸らして息を吐き、一時たりとも表情を変えない、まるで人形のような顔に目を戻して静かに厳然と言った。
「…もちろん、私が八月だけ日記をつけなかった可能性はありますが、調べたところ、私が入院した十一月二十日の翌日から、一時退院した二六日までの間に、誰かが私のパソコンを使ったログが残ってました」
「……」
一拍置いて、真由は由之真から目を逸らさずに、普段の声で言った。
「…お姉ちゃん、私のパソコン使った?」
「へっ?」
唐突な問い掛けに、貴美は戸惑い目を瞬いたが、まるでそれが見えているかのように、真由は優しく促した。
「落ち着いてよく思い出して。そこにマイクあるから、そのまま言って」
(……真由……)
ここまで日記に拘るのは、おそらく忘れた過去の糸口を探す為だろうとは思ったが、真由がしていることは尋問以外の何物でもなかった。貴美はきつく目を閉じて、自分が証人になってまでこの不快な裁判を続けさせるべきか迷ったが、微動だにせず、片時も目を逸らさずに画面の少年を見つめる娘の意志を尊重することにした。
「……触ってもいないわ」
真由は同じ口調で、もう一度尋ねた。
「本当に触ってない?」
「ええ」
「…そう。じゃあ二六日まで、他に誰が家にいたの?」
「……吉乃さんと、ミセスジョディーと……由くんだけよ」
「……」
真由は日記を手に取り一時じっと見つめてから、由之真に目を向け口調を戻して尋ねた。
「君にもう一度聞きます。……私の大切な日記を知りませんか?」
しかし由之真は、最初に答えた時と寸分違わぬ声で答えた。
「知りません」
バサバサッ、と何かが落ちる音がして、麻純はまたびくりと身を震わせた。画面からは判らなかったが、それは真由がノートを手で払った音だった。真由は肩を落としながら荒い息を吐き、落としたノートを拾い上げて言った。
「……では質問を変えます。…君は……」
(…!?)
次の言葉を察した貴美は、咄嗟に何か言おうとしたが、遅かった。真由は俯きながら、か細い声で尋ねた。
「思い出して欲しくないんですか?」
「…なに言ってんの?」と堪らず照は呟いたが、一拍置いて由之真は、いつものように静かに答えた。
「……はい」
(由ちゃん??)と照が心で叫んだ時、ドンッ!という大きな音と共に中央の画面が激しく揺れて、スピーカーから真由の低く震える声が響いた。
「…ならどうして来たのよ?…嘘つき……嘘ばっかり……」
「……」
しかし、由之真は最初と変わらぬ目差しで、ただ真っ直ぐ真由を見つめた。そして、その沈着な目差しが怖くて殆ど視線を交せなかった夏を思い出した真由は、弱々しく立ち上がり、由之真を見ずに疲れた苦笑を浮かべながら寂しげに言った。
「………嘘をつく子は嫌いです。今日はもう話すことはありません。さよなら」
「ちょっと真由、待ちなさいっ!」
貴美は急いで廊下側のドアを開けようとしたが、何故か開かなかったので慌ててリビングの方へ回った。照はこのまま終わるわけがない!と堅く信じて画面の由之真をただじっと見据え、麻純は東京サマーランドを諦めながら、どうやって二人を慰めようかと思案した。しかし由之真は、廊下側のドアノブに手を伸ばした真由に、実に約一年振りに声を掛けた。
「……待ってください。次は俺の番です」
「!」
(そうだよ!今度は由ちゃんの番っ!)と、照は今日の目的を半ば忘れて、画面に食い入った。由之真はゆっくり立ち上がり、机の右へ回って台の上のビデオカメラを机にどかし、空いた台に風呂敷包みを置いてから薄く微笑み静かに言った。
「……これ、照と作ったホンシメジ御飯です。…作ってすぐに持ってきたから、まだあったかいです。どうぞ」
「……」
ドアの前で呆然としていた真由は、無意識に歩み寄りながらまじまじと由之真を見つめた。ある目的のためとはいえあんなに酷いことを言ったのに、まるで何もなかったかのように振舞える理由が判らず、もしかしたら本当に嘘はついていないのでは?と思い掛けつつ、無言で風呂敷包みに手を伸ばした、その時だった。
(!?)
由之真は悪戯っぽく微笑んで、さも嬉しそうに言った。
「ウソ!ホントはもうあったかくないよ。でもきっと母さん、ほっぺ落ちるよ!」
(……)
真由が驚いたその一瞬、由之真が素早く背中から何かの棒を取り出したのと、貴美が廊下側のドアを開けたのはほぼ同時だった。そしてその棒が、風呂敷包みに伸ばした真由の左手に触れた刹那……。
バンッッッ!!
「っっ!?」
耳を劈く炸裂音と共に真由の左手から放たれた稲妻の如き閃光と衝撃は、全てのモニターを真っ白に染めた。そして、衝撃をまともに食らった由之真はもんどり打って天井へ、貴美は廊下へと瞬時に弾き飛ばされ、閃光を直視した真由は手で目を覆って悲鳴を上げた。
「キャアアッッ!?」
そして悲鳴と同時に、照と麻純は信じられない現象を体験した。
ゴオォッッ!
「ふあっ!?」
「ひゃっ??」
何もないはずの西側の壁から津波のような暴風が発生して、立ち掛けていた二人は共につんのめった。そしてその暴風は真由を爆心地として壁を突き抜け吹き荒び、天井に当たって落ち掛けた由之真を再び天井へと押し上げて、部屋に入ろうとした貴美を廊下に押し戻した。廊下に両膝をつき、意味不明の猛烈な向い風を両腕で必死に防ぎながら、貴美は苦々しく吐き捨てた。
「なっ、なんなのよっっ!?」
「くっ……由ちゃんっ!!」
摂理を越えたその風を身体で覚えていた照は、廊下がダメなら外ならばと懸命にサッシの方へ移動した。しかし、一瞬凪いだその隙にすかさずサッシを開けた照の瞳には、帰ったはずの人物が映っていた。
「…っ!?」
檜の前で足を前後に開いた彰は、両腕を一杯に拡げた瞬間、右足を踏み込みながら強烈な柏手を打った。
パーーンッッ!!
(風繰り!?)
ゴォアァッッ!!
その凄まじい空気のうねりは、まるで竜巻が真横に吹いたかに見えた。そして、風が凪ぐと同時に、ダンッという奇妙な音がして、次いで真由を呼ぶ貴美の叫びが響いた。照は直ぐさま隣の部屋のサッシに飛び付いたがサッシはロックされていて、照はサッシをバンバン叩いて叫んだ。
「由ちゃんっ!お母さんっ!」
一拍置いてカーテンが開き、由之真が左肩をさすりながらカラカラとサッシを開けた。そして、照の瞳に由之真の平静な顔が映った瞬間だった。
「…てっ!?」
照は由之真に飛び掛かり、二人は重なりドッと床に倒れ込んだ。そして照は気合と共に、渾身の力で由之真の身体を締め付けた。
「ふんっっ!」
「んむっ!…」
貴美より強い締めに体重が加わり、堪らず由之真は呻きを洩らしたが、照は容赦せずもう一度力を振り絞った。
「ふんっっ!」
そして由之真が「みょっ」と奇妙に呻いたところで力を抜いて、照はすぐに飛び起きて貴美に尋ねた。
「…大丈夫?」
床にぺたりと座り込んだ真由の左腕を調べながら、貴美は不安げな面持ちで答えた。
「…うん…大丈夫みたいだけど……」
照が歩み寄ると、真由のブラウスの左袖は肘から下がずたずたに裂けていた。しかし、その裂け目の下に覗く無数の細い桃色の痣を見た照は、思わず口の中で呟いた。
「……樹冠紋…」
「…え?」
「…ううん」と照は咄嗟に首を横に振ったが、実はその呟きがハッキリと聞こえていた貴美は、この時事態の大旨を悟った。
(…でもどうして真由が……いや!)
胸に湧いた不安と疑問を強引に隅へ追い遣って、貴美はとにかく目の前へ意識を戻した。
「真由、立てる?」
「……ええ……」
真由はきつく閉じた目を右手で覆ったまま、貴美の手を借りながら怖々立ち上がったが、すぐに貴美に寄り掛かってしまった。
「…大丈夫?」
「……ね…眠い……ベッド……て…」と懸命に訴えて、真由はそのまま貴美の胸で意識を失った。
「…真由?……真由?」
聞いたよりも早い睡魔に貴美は少し危ぶんだが、すぐに由之真が平静に説明した。
「疲れ過ぎて眠っただけだから、大丈夫です」
(……何が大丈夫よ?あとで取っちめてやるから!)と心に決めつつ、貴美は取り敢えず経験者の言葉を信じることにして、廊下にきょとんと佇む麻純に声を掛けた。
「…麻純ちゃん、ちょっと肩貸してくれる?真由の部屋に運ぶから」
「あ、はい!」
貴美は急いで廊下の向い側のドアノブを回したが、ドアには鍵が掛けられていた。ポケットからジャラジャラと合鍵を出しながら、貴美はぶつぶつとぼやいた。
「ったく玄関明けっ放しのクセに、自分の家の自分の部屋にフツー鍵なんか掛ける?もう秘密はうんざりよ!…」
しかしドアを開け、真由の肩を抱きながら先に入室した貴美は、廊下側の壁を見た瞬間慌てて囁いた。
「…!?…麻純ちゃんドア閉めて!早く!」
「は、はい!」
そして真由をベッドに降ろした直後、麻純はその壁を見て目を丸くして呟いた。
「……これ…」
「…フフッ……天邪久にも程ってあるわよねぇ?」
「フフフッ!ですね!」
その白い壁の半分は、全て由之真が微笑む写真で埋め尽くされていた。写真の撮影者は判らないが、殆どは在米中の写真であり、中には貴美が撮った四〜五歳頃の写真もあった。しかし一際大きいA4サイズの五枚は、百合恵が贈った記念アルバムの写真を拡大コピーしたものだった。
(……ったく…)
それならば何故あんなことを……と貴美は感じたが、もはや真由の失われた日記に由之真が関わっているのは明白で、それが必死に記憶を手繰り始めた真由の目には、出端を折る行為に映ったのかもしれない……そして、その日記こそが今日の顛末を招いたならばと、今や貴美も日記に興味を抱き始めたが、あれだけ証拠を突き付けられても顔色一つ変えずに白を切り通した頑な瞳を思い出した瞬間、もしかしたら焦る必要は無いのでは?と思うと同時に、気持ちが妙に和らいだ。
(…ま、今までよりずっとマシよね。話しさえできなかったんだから…)と、ふと真由の介護をしていた去年を思い出した貴美は、急に『ずっとマシ』どころか、何百歩も前進したような気がしてきて、いびきをかき始めた妹にそっと毛布を掛けてから壁を指差して言った。
「…麻純ちゃん。…これのこと、みんなにはまだ内緒にしたいの」
「はい、…口が裂けても言いませんよ!」
「あーいや、裂けるくらいなら言っちゃっていいけど、フフッ、裂けないなら言わないでね」
「はい、フフッ!」
「…ふうっ、お腹空いてきたわ」と独り言ちて、あとは由之真をどうしてくれよう?と貴美は思ったが、今日の顛末はまだ途中だった。
母親を貴美に任せた由之真はすぐに庭へ向かったが、その前に照は由之真に尋ねた。
「…由ちゃん、真由叔母さんに何したの?」
しかし、「ごめん、ちょっと待って」と答えて由之真が外へ出たので(…あっ、そーいえば!)と、照は彰の存在を思い出した。
(……!)
照が庭へ出ると、彰は項垂れ両手をだらりと下げて、両足を投げ出して檜に凭れていた。由之真は、彰の前で膝をついて尋ねた。
「…大丈夫?」
彰はすぐに顔を上げて、悪戯っぽい笑みを浮かべて呟くように言った。
「……丙が…」
「…たぶん」
由之真が頷くと、彰は眉間に皺を寄せながら苦笑して言った。
「ったぐ合図ぐらしろ。こっちは気しか見えねんだがら」
「ごめん。中々できなくて…」と苦笑気味に答えると、彰は急に優しげな口調で尋ねた。
「…あんなじゃ何年も掛がっから、やってやっか?」
由之真は、微笑みながら首を横に振って答えた。
「…何年でも掛けるよ」
「ハッ、ごーじょっぱり!」
「フフッ…」
(……)
由之真が愉快そうに笑った時、照の胸が微かに疼いたが、それよりも照は二人の会話をずっと聞いていたいと思った。すると由之真は背中から稲刈り鎌を取り出して、彰に差し出して言った。
「ごめん、こんなになっちゃったけど…」
(!?…いつの間…なにそれ!?)
照はこの時、由之真が破魔刀を持ってきていたことに初めて気付いた。しかし、それよりも破魔刀の刃が螺旋状に三回転していることに目を奪われていると、彰は一時目を丸くしてから笑って言った。
「……ハハッ!それは鍛え直して由ちゃが持っとげ。結界見してもらったがらロハでいい」
「…うん、ありがとう」と由之真が静かに頭を下げると、照も無意識に頭を下げていた。そしてそこへ貴美達が現れて、貴美は目を丸くして言った。
「あっ!……え?…帰られたんじゃ…」
しかし彰は貴美を見ようとせず、そのことに貴美が気付いた瞬間、素早く東の方へ顔を向けた由之真の髪が踊った。
「?…」
彰以外の全員が由之真の視線を追ったが、そこには何もなかった。しかし、その三秒後……。
「……っ!?」
家の角から現れた人影が目に入った時、貴美と照は目を剥いて息を呑んだ。黒いタートルネックのニットに黒いタイトなパンツを履いたスレンダーな……由之真宅の仏壇にある写真に良く似たその美女は、長い漆黒の髪を静かに揺らしながらリビングの前を通り過ぎて、音もなく由之真に歩み寄った。
「……」
誰もが彰の関係者か或いは母親では?と感じたが、あまりの唐突さと言い知れぬ無言の威圧が相俟って、誰も開いた口から言葉を出せずに、ただその女性の一挙手一投足を見ていた。女性はちらと由之真を見て、由之真の頭にポンと優しく手を乗せてから、照を見て薄らと微笑んだ気がした。
(……)
勝之真に似ている所為か、初めは何だか怖いと思ったが、今はむしろ少し嬉しいような、恥ずかしいような気持ちで照はその女性を見つめた。すると女性は彰の前に跪き、「…あ?」と不遜な声を出した彰を、あっという間に軽々と抱え上げた。
「ちょっ!?歩げっからいいって!…降ろせってば!」と、彰は白い顔を赤く染めて猛然と抗議したが、その女性がつと彰の顔を覗き込むと「…わがったよ」と彰は諦め、女性は踵を返した。そしてリビングの前を通り過ぎようとした時、我に返った貴美が意を決して声を掛けた。
「……あ、あの、失礼ですが、八岐…静樹さんですか?」
「…」
女性は一時足を止めたが、振り向きもせずにまた静かに踏み出した。貴美は眉間に皺を寄せたが、その皺は彰の声で消えた。
「…あ?…なんて?……ああ」と言ってから、彰は顔を起こして言った。
「由ちゃ、南天。…南天に降りだって」
由之真はきょとんと目を丸くしてから、明朗に答えた。
「…ありがとう彰ちゃん、またね!……静伯母さんもお元気で!」
けして大きな声ではなかったが、麻純はその声が身体に響いた気がした。そして彰と女性は門の向こうに停まった黒い車に乗り込んで、車はすぐに走り去った。
「………」
時が止まったかのような五秒間の後、ついに貴美は溜まりに溜まったストレスを吐き捨てた。
「…何よアレ?人ん家の庭に勝手に入ってきて、挨拶の一つもないわけ?それとも挨拶する気も無いってわけ?八岐の人ってどーなんてんの?ヘンなしきたりはあるし!秘密主義だし!」
照と麻純は呆気にとられたが、一応八岐を名乗る少年は謝罪した。
「…すみません。本家の人は、あんまり関係ない人とは普通に話すんですけど、必ずまた会いたい人とは、別れの挨拶はしないんです」
真由は眉間に深い縦皺を作り、まじまじと由之真を見て尋ねた。
「……なんで?」
由之真は、少し困ったような笑みを浮かべながら答えた。
「昔からの本家の決りです。別れの言葉は、その人ともう会えない時に言う決りなんです」
(……何よそれ?それでも挨拶ぐらいしたっていいでしょ!)と思いつつも、俄には信じ難い、もはや苦行としか思えぬ奇習に呆れ果てた貴美は、盛大な溜息を吐いてから若干つっけんどんに尋ねた。
「…他に何かヘンな決りあるの?」
由之真は腕を組み、しかつめらし顔つきで五年以上前の記憶を答えた。
「……決りかどうかわからないけど、傘は禁止でした。…あとみんな必ず納豆に砂糖を入れてました。…あとお雑煮の餅の中に梅干しが入ってました。あとは…」と言い掛けて、「もーいいわ!」と、貴美は苦笑して続けた。
「よーするに、やっぱりヘンテコな家ってことね!真由が嫁いだ方が本家じゃなくて、ホントに良かったわ!」
そして由之真が苦笑を浮かべた時だった。昔を話す由之真が珍しくて、黙って興味深げに聞いていた照の腹が、「クゥ〜ゥ〜」と可愛らしい音を立てると、続けて麻純の腹も鳴り、照は照れ笑いながら腕時計を見て言った。
「ハハッ!もうすぐお昼だし、そろそろ御飯にしよっ!」
照に釣られて腕時計を見た貴美は、まだ十二時前であることに驚きつつも、その前にすべきことを思い出した。
「…そうね。…でも、由くんにちょっと聞きたいことがあるの…」
貴美が由之真を見つめると、由之真はきょとんと顔を上げた。そして一拍置いて、貴美は由之真の目の奥を見つめながら真顔で尋ねた。
「ホントに大丈夫?…後で大怪我してたなんて、私は絶対許さないわよ?」
(そんなの私も許さないから!)と、由之真を締め付けた照も思ったが、別室にいた照達は元より、真由の影にいた由之真は見えなかったし、あの閃光の瞬間に天井まで弾き飛ばされ、その後も天井でもがいていた由之真も角度的に見えず、ようやく貴美が見た由之真は既に真由の前に平然と立っていた。それ故由之真に問題はないと思いつつも、当然貴美はその時由之真の安否を確認していたが、由之真はその時と同じように左手で右肩をさすりながら微笑んで答えた。
「少し肩が痛いだけで、ホントに大丈夫です」
「…そう。もう一個…」
貴美は真顔のまま本題を尋ねた。
「……真由は神中りね?」
(かみあたり?)と麻純が思わず照を見ると、腕の痣で何となく気付いてた照は貴美と同じように由之真を見つめていた。由之真は、そんな照の目をちらと見てから静かに答えた。
「…はい」
「……」
正直なところ、聞きたいことや言いたいことは山ほどあったが、貴美は腰に手を当てて、鼻で吐息をついてから尋ねた。
「…他に知ってる人は?」
由之真は一度俯いてから、顔を上げて答えた。
「……お爺ちゃんとお婆ちゃんと、大士郎さんです。…あと本家の大婆様と、静伯母さんと彰ちゃんです」
貴美は由之真から目を逸らさずに、もう一度尋ねた。
「……本当にそれだけ?もう内緒は無しだからね?」
「本当です。…すみません」
すると貴美は、急に優しげな笑みを浮かべて言った。
「…フフッ、ちゃんと理由があるんでしょ?なら謝んなくていいから、これからも由くんが思った通りにしなさい!…真由だって私だって、照だってそうするから!…麻純ちゃんもね!」
「へっ?あー、頑張りますよ?」と、麻純が思ったままに答えると、それが何だか可笑しくて照と貴美は笑った。
「フフフッ!」
この時点での貴美の最たる懸念は、由之真がたった一人で全てを背負い込んでいる可能性だった。しかし、この世界の錚々たる重鎮達が味方とあらば、日記のことは一時忘れ、これまで通り自分は真由をサポートし、由之真は照に任せ、改めてゆっくり歩いて行こうと思った。そして、せめて味方の一人は取っちめてやろう心に決めながら、精々とした声で言った。
「よーしっ!じゃあお昼作ろっか!…あ、真由いびきかいてぐーすか寝てるし、ホンシメジ御飯食べちゃおっか?」
「ダメだよ!あれは真由叔母さんの!」
「フフッ、冗談に決まってるでしょ!ホントに食べたら、背中に跳び蹴り食らうわよ!」
「ハハッ、そんなにまで好きなんですか?」
「ええもう!つわりも何の其ので、もーりもりぱーくぱくよ!」
「ハハハッ!」
そして、貴美達は早速有り合わせの食材で昼食を用意して、和気あいあいと食事を楽しみながら、取り敢えず麻純は一か八か駄目元で言ってみた。
「……ねえ照ちゃん、割と近いから今からでも結構遊べると思うけど、東京サマーランドどうする?」
「あっ、どーしよ?」と、照は満更でもない顔を由之真に向けて、次に貴美を見た。貴美は苦笑を浮かべながら言った。
「…行ってきたら?私行ったことあるけど、なんとかフォールとか言うヤツかな?ちょっとちびっちゃうぐらい凄いわよ!私はお金もらったって、二度とゴメンだけどね」
「ハハハッ!じゃあ由ちゃんどうする?」と由之真に笑顔を向けると、由之真は「…うん」と少し曖昧に答えたことを貴美は聞き逃さなかった。
「…真由は私が見てるから大丈夫よ!行きたくないならアレだけど、たまにはぱーっと遊ぶのもいいんじゃない?…ほら!晴れてきたし…」と、貴美は俄に明るむ庭の方へ目を向けた。由之真は、その柔らかな陽射しを見て静かに答えた。
「……じゃあ、遊んできます。母さんをお願いします」
「うんっ!」
「フフッ、よーし、そのなんとかフォール絶対乗ろっ!麻純さんは乗ったことあります?」
麻純は言って良かったと心底思いつつ、意地悪そうな目をして答えた。
「ふっふっふ、フリーフォールは三回乗ったけど、覚悟しといた方がいいよ?私一回目は立てなくなっちゃったから!」
「ハハッ!望むところっ!」と照が笑った直後、突然由之真が「あ」と立ち上がった。
「どうしたの?」
「…照、電話貸して」
「?…うん」
照が携帯電話を渡すと、由之真はぱたぱたとリビングへ向かった。
一方その頃、とある村のとあるボロっちぃ小学校の家庭科室では、とある女性教員の誕生会が催されていた。黒板には色とりどりのチョークで、『HAPPY BIRTHDAY,DEAR 櫛田百合恵先生!』という大きな字が書かれてあり、その下には『プレゼントはチョーびっくり!お楽しみクイズのあとのお楽しみ!チョーご期待!』とあり、その女性教員……櫛田百合恵が最初にそれを見た時は嬉しくて目頭が熱くなり、その気持ちは自分の児童達と共にバースデーケーキを作り終えるまで続いた。しかし、その後始まった『お楽しみクイズ』は残念ながら百合恵にとってお楽しいクイズではなく、クイズですらなかった。
お下げの少女はノートを片手に、さも愉快そうに微笑みながら意地悪そうに言った。
「ジャガジャンっ!質問その八っ!…先生はいつ結婚するんですか?」
百合恵は作り笑いを浮かべながら、即座に答えた。
「ウルトラトップシークレット!」
すると百合恵の向かいに座っているショートカットのボーイッシュな少女が、素っ気なく言った。
「あー、そればっか。でもこないだ公民館で先生と一緒にいたイケメンは、絶対彼氏」
(!?)
百合恵はびくりと背筋を伸ばし、耳まで赤く染めながらフォークを振って力説した。
「…とっ、とんでもないっ!あの人はエミリー先生のお友達の永田さんよ!先生あの日は教員会だったの!」
しかし、もう一人の少女が大きな瞳をきらきら輝かせながら、おっとりと追い討ちをかけた。
「そのイケメンさんに先生何かもらってたよね?プレゼントっぽいの」
(ぜ、全部見てたの!?)と驚愕しつつも、百合恵は懸命に反撃した。
「…だからあの人は永田さんでっ、あれはエミリー先生からのいただき物でっ、永田さんは持ってきてくれただけですっ!それにあの場にはいなかったけど、永田さんは奥さんといらしてたのよ!」
しかし、お下げの少女が眉間に皺を寄せながら止めを刺した。
「…じゃあフリン?ミチ、フリンはダメだよね?」
「あー、たぶんダメだな」
「うん、きっとダメだと思う」
(……もー無理…)
あと二つ拷問に……ではなく、みんなが一生懸命考えてくれた楽しいクイズに答えればプレゼントにありつけるが、そろそろ本気で家に帰りたいと百合恵が思った時だった。
『ピンポンパンポーーン!…櫛田先生、櫛田先生、大至急職員室までお戻りください。櫛田先生、櫛田先生、大至急職員室までお戻りください』
「!?」
天の助けか、はたまた本当に緊急事態か、とにかく百合恵はこれ幸いとばかりに「ちょっと待ってて!」と職員室へ走った。そして「はーい!」と元気に返した直後、三人娘は……香苗と路子と美香は、さも意地悪そうにほくそ笑みながらすっくと立ち上がった。
百合恵が職員室に飛び込むと、百合恵の机の電話が鳴っていた。職員室には受話器を片手に真顔で立つ事務の石井しかおらず、百合恵が慌てて受話器を取ると、石井は百合恵を見ながら早口で言った。
『…櫛田先生!八岐くんから緊急の連絡です!繋ぎます!』
(緊急!?八岐くんから!?)と百合恵は俄に緊張したが、石井が受話器を置くと同時に呼び掛けた。
「…代わりました!どうしたの?」
『……』
しかし返事はなく、それは百合恵がもう一度呼び掛けようと息を吸った時だった。
『…誕生日おめでとうございます』
「……へ?」と、我知らず間の抜けた声が百合恵の口から洩れたが、聞こえなかったと思った由之真は、今度は少し大きな声でハッキリと繰り返した。
『誕生日、おめでとうございます!』
「……………」
百合恵は混乱した頭を整理するために、眉間に皺を寄せながら五秒ほど呆然と石井の背中を見つめ、そしてふらふらと椅子に座ってから惚けた声で答えた。
「……あ、ありがとう…でも……はっ!?」と、まさかと思いつつ百合恵が猛然と振り返ると、けたたましい笑い声が廊下に響き渡った。
「…アハハハハッッ!」
「キャハハハッッ!」
(……)
ほんの一瞬、百合恵は大切な校内放送を遊びに使った三人を叱ろうかと思ったが、それが判らぬ香苗達ではないし、今の校舎に自分達しかいないことを見越した上での犯行だろうと思い直した。そして、おそらくは事務の石井まで抱き込んで、遠隔の地の由之真まで加えるという手の込んだ悪戯が大成功すれば、さぞや……と思った直後、百合恵は受話器を耳に当てたまま吠えた。
「…ったくもうっ!この悪戯っ子っ!ビッックリしたわよっっ!!」
「ウハハハッッ!」
香苗達は腹やこめかみを手で押えながら最高の賛辞に酔い痴れつつ、「やーったねっ!フハハハッ!」と返礼したが、百合恵の賛辞が怒号に聞こえた受話器の向こうの少年は、目をぱちくりさせてから素直に謝罪した。
『…すみません』
「えっ!?…フフッ!八岐くんじゃなくて、香苗ちゃんらに言ったのよ!でも八岐くんもひどいわ!石井さんまで組んで、みんなして先生を驚かすなんて!…フフフッ!」
その愉快そうな笑みにほっと胸を撫で下ろしつつ、由之真は香苗に渡された紙を読んだ。
『…あ、先生、早く俺のロッカーを開けてください。開けないと大変なことになります。急いで』
しかし、もはやそんな棒読みに騙されるはずもなく、百合恵は「フフッ、なぁに?ちょっと切らないで待ってて!」と一旦机に受話器を置いた。そしてまだクスクス笑っている香苗達をキッと睨めつけてから、百合恵は職員室の由之真専用ロッカーを、まるでびっくり箱を開けるように開けた。
「……あ!」
ロッカーの中には、赤いリボンが結ばれた大きな白い紙包みがあり、百合恵がその軽めの包みを取り出すと、香苗は自分がプレゼントをもらったかのように嬉々として言った。
「早く開けて開けて!ビリビリ破って!」
「…え、ええ!」と、急かされるままに包みを引き裂くと、それは今百合恵が使っている薄汚れたトートバッグと似たサイズの、百合恵の好きな明るいベージュ色の厚い綿キャンバスで作られた、ハンドメイドのトートバッグだった。
「………」
そしてそのトートバッグは、長めの持ち手と口の縁に薄い茶色の革が使われ、似た色のキャンバスで底から三センチまで二重底になっていて、前後の中央にファスナー付きの大きなポケットがある見事な出来栄えのバッグだった。更に前ポケットの中央には、実に可愛らしい模様の小さなパッチワークがあしらってあり、一目でその模様が気に入った百合恵はうっとりとバッグを見つめた。
香苗達はその反応に大満足の笑みを浮かべてから、美香が自慢げに切り出した。
「先生、そのマークなんだと思う?」
ようやく本当のお楽しみクイズにありつけた百合恵は、散々いじめられた復讐を込めて自信たっぷりに答えた。
「…先生をなめないでください!これはバースデーキルト!今日のマークよ!」
「ピンポーンっ!なーんだ、やっぱり知ってたんだ!」と、若干残念そうに香苗達は微笑んだが、百合恵はみんなまとめて抱き締めたい衝動を必死に堪えながら、「…みんなありがとう…」とまではなんとか言えたが、その後は不意に溢れた大粒の滴を頬に伝わせながら黙ってしまった。しかし、夜な夜なミシンを踏みながらそれを想定していた路子は、すかさず素っ気なく言った。
「あー、やっぱ泣くし」
「アレだよ。歳取ると泣き虫になるってお婆ちゃん言ってたし」
「うん、その通りだね」と美香がおっとり同意すると、百合恵は頬を拭いながら笑って抗議した。
「ハハッ!まだそんな歳じゃないわ!それに泣き虫じゃなくて、涙もろくなるって言うの!覚えましょう!」
「ハハハッ!」
そして、ずっと震えながら静観していた石井がついに吹き出して言った。
「フハハッ!…櫛田先生!電話電話!」
「…あっ!」と、百合恵は慌てて机に走って素早く受話器を引っ攫い「八岐くんごめんなさいっ!」と謝った。しかし由之真は、女の子の声で答えた。
『…うわビックリ!フフッ、やっと出た!』
「えっ!?…ああ!照ちゃん?」
『はい!由ちゃん今お手洗いに行っちゃったんですけど、櫛田先生、お誕生日おめでとーっ!』
百合恵は苦笑を浮かべながら「フフッ、ありがとう!」と照れ臭そうに答えると、今度は受話器の向こうから『照、ちょっと代わって!』と女性のせっつく声が聞こえた。そして、百合恵にとっては初めて聞くその声の持ち主は、挨拶も無く唐突に捲し立てた。
『もしもし!櫛田先生、あのアルバム贈っていただいて、ホンっっトにありがとうございましたっ!素晴らしいアルバムでしたっ!」
百合恵は目を丸くしながらも、懸命に答えた。
「…あー…ど、どういたしまして!えっとー、はじめまして!」
『ああ!そう言えばそうですね!ごめんなさい!はじめまして、石狩貴美と申します!照の母です!』
「…」
アルバムと聞いてあることが気になった百合恵は、それを尋ねようかと一時迷ったが、そんな百合恵の都合などお構い無しに、貴美はリビングを離れて答えを囁いた。
『………あのですね……色々あってまだアレなんですが、妹も…由之真の母親も、あのアルバムを随分気に入ってるんですよ!』
「えっ!?本当ですか?」
『!』
百合恵の嬉しげな大声に今度は貴美が目を丸くしたが、貴美はありったけの親しみを込めて囁いた。
『ええ、本当です!由くんの写真の中でも一番気に入っているみたいですよ!ですが…』
一拍置いて、貴美は続けた。
『…大変厚かましいお願いなんですが、このことはまだ内緒にしていただけます?本人の確認が取れるまで…』
何を秘密にすれば良いのかは百合恵にはよく判らなかったが、元々記念アルバムは由之真に断りなく送っていたので、とにかくアルバムのことかと思って快諾した。
「…はい。承知しました!」
そして丁度そこへ由之真が戻り、貴美は早口に別れを告げた。
『ありがとうござます!それでは、由くんに代わりますね。お誕生日おめでとうございました!』
「フフッ、はい!」
由之真はハンカチをジーンズのバックポケット入れてから、携帯電話を耳に当てた。
『…もしもし、代わりました』
「もしもし、…八岐くん、素敵なバッグありがとうね!」
『いいえ、どういたしまして』
貴美には聞きそびれたが、百合恵は思い切って尋ねた。
「…お母さんは元気?」
『…はい、元気です。あの、お祭のアルバムありがとうございます』
(えっ?)
貴美の内緒がすっかりバレていると思った百合恵は、仕方なく素直に答えることにした。
「…ああ…どういたしまして!作り過ぎたから贈ったんだけどね……とにかく、お母さんがお元気で良かったわ!…じゃあ…」と、百合恵は後ろの香苗達に代わるつもりだったが、ずっと我慢していた香苗は、「あっ!」と百合恵の腰を押して言った。
「切っちゃダメだよ!先生もういいなら、早く交替して!」
「フフッ、ちょっと待って!」
百合恵は一度しか押したことがない『スピーカ』ボタンをそっと押してから、受話器を戻した。するとまた香苗が「あっ!」と声を上げたが、百合恵は意地悪そうな笑みを浮かべて言った。
「だいじょーぶ!八岐くん聞こえる?」
『…はい、聞こえます』
「なーんだ!」と、香苗は百合恵を睨めつけてから早速勝利を報告した。
「ヤマっち!ヤマっちの電話遅いから時間稼ぎ大変だったけど、フフッ、作戦大成功っ!カンペキだったよっ!」
(え、あれが時間稼ぎ?…ひどい)と百合恵は胸を痛めたが、由之真は笑って答えた。
『フフッ、間に合って良かった』
路子は大役を果たした由之真の労を労った。
「あー、八岐グッジョブ。先生のボケっ面サイコーだった」
(ボっ……ひど過ぎるわ!)と百合恵は心で抗議したが、由之真は愉快そうに笑って言った。
『フフッ、そーなんだ』
美香はプレゼントの結果をおっとりと暴露した。
「八岐くん、先生プレゼントもらって大泣きしたんだよ!」
「大泣きはしてません!」
「ハハハハッ!」
『フフフッ…』
スピーカーから聞こえる由之真の笑い声が愉快そうで、みんなはこのままずっと話していたかったが、頃合いを見て百合恵が言った。
「…さあっ!もう一時過ぎたし、ケーキを食べて、後片付けして帰りましょう!」
「はーい!じゃあねヤマっち、また明後日!お土産なんていらないよ?マジで!」
『フフッ、うん、また明後日』
斯くして、実に二週間越しの謀略が見事に実を結んだ喜びを胸に、みんなは意気揚々と家庭科室へ戻り、もう一人の立役者たる石井にケーキの報酬を支払った。そして、その晩仲村に二度目の誕生会に誘われた百合恵も、新しいトートバッグを手に意気揚々といつもの店へ繰り出した。しかし、翌日必死にバッグのクリーニング店を探しながら、百合恵は金輪際このバッグと共にみかど屋の暖簾はくぐるまいと堅く心に誓った。
由之真達はその後すぐに家を出て、照と麻純は声が嗄れるまで絶叫マシンを堪能した。フリーフォールから降りた照は母親と似たことを言って麻純に散々笑われたが、いつか必ず復讐しようと思った。片やフリーフォールでは目を剥いて絶句した由之真は、メリーゴーランドと観覧車ではずっと嬉しげに微笑んでいた。そんな二人とあちらこちらへ走りながら、麻純は当初の目的を達成した充実感に満ちてした。そして瞬く間に時が過ぎて、三人は午後六時頃マンションに到着した。
「………うん。………そうなんだ。………うん、わかった。じゃあね!…うん!」
受話器を置いた照は、そのまま少し考えてからキッチンの由之真に報告した。
「……由ちゃん、真由叔母さん五時半頃起きて、あんまり話しはできなかったみたいだけど、夕御飯食べたらまた寝ちゃったって。由ちゃんの時とそっくりだね」
由之真はネギを刻みながら、「…うん、ありがとう」と答えた。そして、「チーン」という音がして、麻純が鍋つかみをはめてオーブンから大きな皿を取り出すと、香ばしいチーズの匂いがキッチンに広がった。
「おー、大成功!やっぱりおっきなオーブンあると便利だねー!」
「うわっ、美味しそーっ!」
麻純自慢のハンバーグドリアを褒めてから、照はまた由之真に言った。
「…あとね、……お母さんが言ったら、全然驚かなかったって。…だから、きっと自分で判ってたんじゃないかって…」
由之真は、刻んだネギを鮪に振りかけてから答えた。
「…うん。俺もそう思うよ」
(……)
照は一度俯き、微かに首を横に振ってから続けた。
「……あと、二の腕の真ん中ぐらいで止まったみたいだけど、どのくらい掛かるのかな?」
由之真は振り返り、いつものように微笑んで答えた。
「…俺より長いと思うけど、大丈夫だよ。母さんは強いから」
その笑顔を信じた照は、清々とした声で言った。
「そーだね!…あ!そー言えばね、真由叔母さんとお母さんで、ホンシメジ御飯全部食べちゃったって!」
「えっ!?…あれ全部?」と驚きの声を上げたのは、二人の会話に耳を傾けていた麻純だった。
真由がきのこ御飯に目が無いとは言え、およそ三合炊いたホンシメジ御飯を照が全て重箱に詰めたのを見た時、てっきりみんなで食べるのか或いは二日分かと思っていた麻純は、さも怪訝そうな目を照るに向けて言った。
「嘘でしょ?…嘘だよね?」
しかし、照は吹き出すのを堪えながら首を横に振るだけで、代りに由之真が苦笑しながら答えた。
「多分本当です。元々母さん二人前は平気で食べるから。お昼も抜いてるし」
「……平気でって…」
麻純は唖然と言葉を詰まらせたが、我慢の限界を超えた照は、愉快そうに真由の素性を暴露した。
「アハハッ!…麻純さん、真由叔母さんってホントに痩せの大食いなんですよ!高校生の頃なんて大盛りどんぶりが真由叔母さんの普通盛りで、お母さんが絶対太る!って言ったら、頭使ってるから大丈夫って言い返されて、でもホントに太らないし成績も良かったから、ちょっと憎たらしかったって!フフッ!」
麻純は目を丸くして「…はぁ〜」と気が抜けた声を洩らしてから、「…ハハッ、でも凄いねぇ!三合飯に四合鮓って言うけど、一回食べるとこ見てみたいね……ってゆーか、そー言えば私、真由さんと挨拶もしてないんだよね?…なんか今日って不思議な感じ!フフッ!」と、今更ながらと笑ったが、それは麻純の率直な今日の感想だった。
薄暗い部屋で画面の由之真を見て、よく判らない日記の話を聞き、何故か部屋の中で突風に襲われ、何故か気絶した真由を部屋に運んだが、実のところ、麻純はあの壁の写真を見るまで全てが不可解で正直不安だった。しかし、写真を見て貴美と共に笑った後は、真由の秘密を握ったことと、彰と静樹の出現の方へ気が回り、それまでの事はそれ程気にならなくなっていた。
そして、この美点と言える大らかな暢気さが照達を遊びに誘う心の余裕を作っていたが、ずっと張り詰めていた緊張が昼食で解けつつあったとは言え、あの時あの状況で誘ってくれた麻純に照と貴美は感謝していた。そして、たった今もそう感じた照は安心しきって相槌を打った。
「フフッ、私もです!…今日はなんだか不思議で、長〜い一日でしたね!」
「うん!」と微笑んで答えたが、麻純はまた「…あ!」と何かを思い出した。
「…どうしたんですか?」
麻純は腕を組み、今度は難しそうな顔をして言った。
「…あのね、…不思議って言えば思い出したんだけど……あの部屋で突然吹いた風ってさ、もしかして『ことぶき風』って言うんじゃない?」
「えっ…そうなんですか?」と咄嗟に照が尋ねると、麻純は苦笑を浮かべながら小首を傾げて答えた。
「うん、…昔お爺ちゃんから聞いたんだけどね、何でもないのに突然吹くおめでたーい不思議な風のことを、ことぶき風って言うんだって。…違うかもだけど、そうだったらいいね!」
「…そーですね」と答えたが、おめでたいかどうかは別として、もちろん照は『異吹』が真異に関る風の総称であることを知っていた。しかし、自分より詳しいクセに何食わぬ顔で舌を出し、ぺろりと出汁を舐めた由之真を照が軽く睨めつけると、麻純がまた難しそうな顔で「…でもさぁ……」と言い出したが、麻純の話は戻っていた。
「…ウチ今家族四人で、四合炊けば一日余裕で間に合っちゃうんだけど……一番不思議なのはやっぱり真由さんのお腹だよね?」
「アハハハッ!きっと真由叔母さんのお腹ってブラックホールなんですよ!」と照が腹を抱えると、麻純は四人分のハンバーグドリアを指差して言った。
「そうだ由くん!試しにこれ半分ぐらい食べてみない?由くんが真由さんの子供なら、絶対半分は大食いの遺伝子持ってるから大丈夫だからっ!」
由之真は、首をブルブルと激しく横に振って答えた。
「…夜中に鼻血出ます」
「ハハッ!そっか、鼻血出ちゃうか!」
「ハハハッ!」
そして、丁度そこへ風呂上がりの陽祐が現れて嬉しげに言った。
「…おっ!今日はハンバーグドリアか!…肉々しい程美味そうだな!ドリャドリャ、ちょっと味見を………あれ?」
ディナーのメニューは既に告知済みであり、それはまたしても陽祐がお風呂で考えたダブル駄洒落だったが、和やかなキッチンは一気に冷え込み、陽祐は冗談で出した手を引っ込めながら心許無げな声で尋ねた。
「照、…今日は解禁って言ったろ?」
明日はもう帰るし今日ぐらいは……と思って陽祐の駄洒落を解禁したが、照は腕をさすりながら薄く眉間に皺を寄せて答えた。
「…やっぱりダメ」
「えーっ?」と声を上げた陽祐の悲しげな顔を見た麻純は、思わず吹き出して言った。
「ハハッ!いーですよ陽祐さん!バンバン言っちゃってください!その代わり、こっちも照ちゃんと容赦しませんから!」
(えっ!?)と照は思ったが時既に遅く、陽祐の目は途端に輝きだした。
「よーしっ!…じゃあ由!教えてやるから由はこっちの味方な!」
「だ、ダメだよ!由ちゃんが駄洒落言うようになったら、私絶対ヤだからねっ!」
「お?もしかして、…由が駄洒落由か?」
「っ!?」
強引過ぎる駄洒落で揚げ足を取られた照は、一瞬本気で目を剥いたが、苦笑している由之真をキッと睨めつけてから低い声で言った。
「……わかった。麻純さん、こーなったらもう徹底的にぶっ倒して、お父さん泣かしましょ」
「ハハッ、別に泣かさなくてもいいんじゃない?」
「はっはっは、返り討ちにしてくれるわ!」
こうしてその夜、実に十五回の酷評に微塵も怯まぬ陽祐は、照と麻純を震撼させた。しかし、陽祐が前日同様ハイペースで柚酒を呷り続けた御陰で、その猛吹雪は二時間以内におさまった。結局由之真は微笑んでいただけで一つも駄洒落は言わなかったが、その後暫く照と麻純は由之真に愚痴っていた。そして、互いの趣味や興味事などを話しながら和やかに夜も更け、午後十時半頃に照の携帯電話が鳴った。
「……うん、もう寝るとこ。…うん!」と言って、照は「はい由ちゃん!」と由之真に電話を渡した。
「由之真です。こんばんは」
貴美は苦笑浮かべながら、小声で言った。
『…こんばんは。由くん、真由はさっき起きたんだけど、御飯食べてる最中にまた寝ちゃったわ』
「フフッ、そうですか」
『ええ、もう例の模様も止まったし、色も治まったみたいだけど、……私ね、まだお爺ちゃんらには何も言ってないの』
(!)
疾うの昔に伝わっている思い込んでいた由之真は、きょとんと照を見てから尋ねた。
「……どうしてですか?」
貴美は意地悪そうに、にやりと笑って言った。
『…由くんの真似したのよ!…ってゆーのは冗談で、もう少し真由の様子見てからと思ったんだけど、ホントに言っていいのね?』
「はい、お願いします」
『ええ、わかったわ。…あ、そっちに連れてこうかって思ったけど、真由が此処が良いって言うから、前の家政婦さんにまた来てもらうことにして、私も暫くこっちに住むことにしたわ。陽祐にはちょっと悪いけどね。フフッ』
「ありがとうございます。そこはとても安定してるから、他の場所よりもそこにいた方が早く治ると思います。あと、…言わなくても母さんはすると思うけど、歩けるようになったら、なるべく庭を歩くように言ってください。いくら食べても、身体が鈍ると気が鈍るから」
(……)
今までにない由之真の言葉に、貴美は新鮮な力強さを感じた。が、やはりもっと早く話して欲しかったと、それも考えあってのことかもしれぬと思いつつ答えた。
『…そう。じゃあ何かあったら、すぐに経験者に聞くわね。他には何かない?』
由之真は、布団を敷く照を見てから言った。
「……庭の南天を大事にしてください」
南天と聞いて、貴美は彰が最後に言ったことを思い出しながら尋ねた。
『…南天って、家の裏の?』
「はい、そうです」
『……そう』と答えながら、この時彰の言葉を完全に思い出した貴美は、真由の真異が南天に降りたことに気付いた。しかし、俄に浮かんだ様々な疑問を軽く頭を振って追い払い、今はまだ始まったばかりと思って言った。
『…でも大事にするって、どうすればいいの?』
「……名前付けて、時々声を掛けるだけでいいです」
それは貴美が母親に幾度も言われた言葉だが、貴美は苦笑を浮かべながら尋ねた。
『フフッ、じゃあそうするけど、やっぱり真由が名前付けた方がいいの?』
由之真は、もう一度照を見てから微笑んで答えた。
「…いえ、伯母さんと照にお願いします。元々強い霊木が神木になるなんて凄いから、凄い名前を付けてください」
「えーっ?」という驚きの二重奏に由之真は笑ったが、照の声が聞こえた貴美も笑って言った。
『フフッ!凄い名前って言われても困るけど、ま、照と相談するわね!じゃあ、照に代わってくれる?』
「はい、おやすみなさい」
『おやすみさい!』
「…もしもし?なあに?」と照が出ると、貴美は囁くように尋ねた。
『……由くん、本当に大丈夫ね?』
「うん!帰ってきた時はちょっと疲れてたっぽいけど、もう大丈夫みたい。ってゆーか、お父さんの駄洒落吹雪で、私と麻純さんの方が疲れちゃったよ!フフッ」
『ハハハッ!お疲れさんっ……はぁ〜あ……明日帰っちゃうなんて…寂しいわ…』
(!)
突然の涙声に一瞬慌てたが、照は陽気に笑って言った。
「フフッ、騙されないよ!どーせまたすぐ会えるんだから!」
『…そうね!…でもまあ、今回照はよく頑張ったわ!』
照は由之真に背を向けて、顔を真っ赤に染めながら囁いた。
「…そーかな?」
貴美はありったけの親しみを込めながら、力強く頷いた。
『うん!さすがは私の娘!石狩家の要石よ!…なーんて、手前味噌過ぎるか?』
「過ぎるし、変なプレッシャー掛けないでよ!……じゃあ明日早いし、ウチらそろそろ寝るね。明日七時半出発だから、絶対遅れないで来てよね!」
『はいはい。それじゃあ、おやすみ!』
「おやすみなさーい!」
そして二人は電気を消して床に就き、長い長い運命の一日が終わろうとしてたが、ふと照が静かに口を開いた。
「……由ちゃん」
「…ん?」
由之真は照の方へ顔を向けたが、照はそのまま天井を見つめながら言った。
「……彰ちゃんて凄いね。私あんな風繰り見たことないよ……なんか、横に倒れた竜巻みたいだった…」
由之真は天井に目を向けて、普段は聞かれても殆ど話さない彰のことを静かに語った。
「…あれはたぶん、『兎転風』だと思う。彰ちゃんの得意繰りだよ」
(……)
正直照は驚いたが、それを由之真に気取られぬように尋ねた。
「…とってんぷー?なんかちょっと、変な名前だね」
「うん。…兎を転ばす風繰りで、彰ちゃんは『熊転風』って言う、熊を倒す繰りも得意だよ」
「え、…彰ちゃん熊倒すの?」と思わず照が顔を向けると、由之真も照に顔を向けて答えた。
「ううん、いくら彰ちゃんでも熊は倒せないよ。ビックリさせてその隙に逃げたり、昔は鉄砲で撃ったりしたらしいよ」
「…へぇー…」
照は風繰りに種類があることは知っていたが、自分ができないことと、精気を消耗させるという危険が伴うこともあり、風繰り自体にはあまり興味を持っていなかった。しかし、ひょっとすると由之真は風繰りが好きなのかと思い、そうならば多少は諌める気で照は鎌をかけてみた。
「じゃあ……由ちゃんの得意な風繰りは何て言うの?」
一拍置いて、由之真は静かに答えた。
「……得意はないよ。俺はあれしかできない」
照は、ほっと胸を撫で下ろして言った。
「…そっか。由ちゃん祓うの嫌いだもん、あるわけないよね。……でも私さ、風繰りはどーでもいいけど、風弾きはやってみたいかも……」
すると由之真は、きょとんと答えた。
「……したことあるよ?」
「え、私が?…いつしたの?」
由之真は、クスっと愉快そうに微笑んで答えた。
「帰ってから言うよ」
「…約束だよ?」
「……うん」と静かに答えて由之真が目を閉じたので、照もそっと目を閉じて夢の世界へ旅立った。
翌朝照達は六時前に起床して、六時半頃に起きてきた寝惚け顔の麻純と陽祐に美味しい朝ご飯を振舞い、朝食を食べずに七時前に駆け付けた貴美にも朝食を作り、ほぼ予定通りに駅へ向かった。そして駅のホームにて、麻純は鼻を啜りながら照に手を差し出して言った。
「…今度は絶対ディズニーランド行こうね!……朝から行って、みんなで夜まで遊ぼうねっ!」
照は苦笑を浮かべながら、麻純の手を強く握って答えた。
「はい!…でも麻純さんも、良かったらウチの方に遊びに来てください!遠くて遊ぶ場所なんてないけど、三食昼寝付きで、きっとのんびりできますよ!」
「うん!絶対行くっ!ぜーったいのんびりしに行くから、由くん美味しい御飯作ってね!」
「はい」と、由之真が微笑んで答えたところへ丁度電車が来て、照はバッグを肩に掛けて言った。
「…じゃあお母さん、着いたら電話するね。お父さんはお酒飲み過ぎないでね!」
「うん、気を付けてね…」
「……」
陽祐は手で目尻を拭いながら無言で何度も頷き、照達は電車に乗り込んだ。そして昼頃我が家に着いた瞬間、照は晴々とした声で言った。
「はぁー、やーっと着いた!ただいまーーっ!」
「…おかえり」と後ろの由之真が答えて、リビングに入るなり照は早速尋ねた。
「由ちゃん、私がいつ風弾きしたのか教えてよ!早くっ!」
由之真は一時きょとんとしてから、苦笑を浮かべて答えた。
「…『茶摘み』だよ。教えてくれたの、覚えてる?」
茶摘みとは手遊び歌のことだが、その言葉を聞いた瞬間、照の脳裏に目の前で微笑む幼い由之真の顔が鮮やかに浮かんだ。しかし、あの茶摘みが風弾きとは思えない照は、取り敢えず問いに答えた。
「……覚えてる」
由之真は照の正面に歩み寄り、あの時と同じように楽しげな笑みを浮かべながら、両手を差し出して言った。
「…本気モードで」
(……)
照が由之真の手を取り、二人は幼い日のように弾んだ声で調子を取った。
「せっせっせーのよいよいよいっ!なーつーもーちーかづっくっはーちじゅうーはーちーやっ!!のーに………」
最後に二回手を叩き合った直後、ほのかな桃の香の柔らかな旋風が二人の髪を優しく踊らせ、照は呆然と右手を出し掛けたまま辺りを見渡した。
「……」
そして、一度怪訝そうに自分の両手を見てから尋ねた。
「…いま…吹いたよね?」
由之真は微笑んで頷いた。
「うん、前は気を込めてなかったから」
「……なーんだ、そーだったんだ!」と合点が行った照は苦笑したが、由之真は微笑みながら首を横に振って言った。
「今も込めなかったけど」
「……?」
意味が判らず、照は薄く眉間に皺を寄せて尋ねた。
「…だって、女の人に風繰りはできないでしょ?」
由之真はもう一度微笑みながら、首を振って答えた。
「できるよ。誰かと一緒なら、先生だってできるし」
「えっ!?」と照が目を見張った瞬間電話が鳴り響き、照は電話と由之真を交互に見てから電話に向かった。
「…はい、もしもし!…あ、お母さん!ごめん、さっき着いたんだけど………えっ?こがめ?………『こがめんも』ね、ちょっと待って!」
照はメモ帳に『コガメンモ』と書いて言った。
「…うん、聞いてみる!……ううん、いいよ。後でまた掛けるから……ハハッ!…うん、じゃあね!」
そして照はリビングに戻り、サッシを見つめている由之真に尋ねた。
「…ねえ由ちゃん、コガメンモって知ってる?さっき真由叔母さんが御飯の後に言ったんだって。何か思い出したわけじゃなくて、言ってすぐに寝ちゃったみたいだけど……?」
しかし、振り向きもせず答えない由之真に何かを感じた照は、慎重に歩み寄って尋ねた。
「…どーしたの?……!」
由之真は薄く眉間に皺を寄せ、鋭い目をサッシに向けたまま、口に人差指を当てて静かに答えた。
「……待って、今見るから……」
(見るって……あっ!…アレしてるんだ…)
何故か夏頃からしなくなったが、由之真には昔見たものをもう一度目で見る驚異的な集中力があることを思い出した照は、ゴクリと唾を飲み込んだ。すると由之真は、キョロキョロと辺りを見始めた。
(……)
由之真は、まず昔テレビを置いていた辺りを左手で指差し、次に昔カレンダーを掛けていた壁を右手で指差して何かを呟いてからサッシを開けた。そしてサッシの縁に腰を下ろした瞬間ビクッと身体を震わせたあと、ふと微笑んで言った。
「……中耳炎」
「…え?」
由之真は立ち上がり、袖で額の汗を拭いながら尋ねた。
「中耳炎になったの覚えてる?」
「…うん。んーっと…確か六つか七つの時だよね?六つかな?」と答えつつ、俄に煌びやかな夏の光景が照の目に浮かんできたが、由之真は少し意地悪そうな笑みを浮かべながら、サッシの縁を指差して言った。
「うん。俺と母さんはジャンケンに勝って、ここに座ってアイス食べてたから、父さんと照の声がよく聞こえたよ」
「…私の声?…なぁに?判ってるなら、意地悪しないで早く教えてよ!」と照が眉を上げてせっつくと、由之真は微笑みながら軽く首を横に振って言った。
「意地悪なんてしてないけど、じゃあ、虎縞の大きくて怖そうな蜘蛛のことは?」
「……コガネグモがどー…」したの?と問い掛けたが、照はその蜘蛛の名を思い出すと同時に、自分にその名を教えた者も思い出した。そして、その時中耳炎の所為で『コガネグモ』が正確に聞き取れず、聞こえた通りに発音した言葉を思い出した瞬間、照は我知らず叫んでいた。
「コガメンモっっ!!」
「…わっ!?」
照は無理矢理由之真の両手を捕まえて、ぶんぶんと激しく上下させ「ハハハッ!やったやったっ!」と嬉しげにはしゃいで飛び跳ねながらもう一度叫んだ。
「やぁーったーーっっ!!!」
そして、歓喜で潤んだ瞳を輝かせながら由之真の両肩を鷲づかみにして、そのままぐいぐいと肩を揺さ振りながら捲し立てた。
「凄いよっ!私ずっと忘れてたのにっ!一回しか言ってないのにっ!さーすが由ちゃんのお母さんだよっ!!由ちゃんもっ!!」
照の激しい喜びに、由之真はたじろぎ目を丸くしていたが、ようやく困ったように笑いながら、「…う、うん!…」と小刻みに頷いた。すると照は俯き、一度深い安堵の吐息をついてから呟くように言った。
「よかった。ホントによかった……」
もちろん照は、真由が何かを思い出したわけではなく、これから思い出すとも限らないことは判っていた。しかしたった五文字だが、最初に真由が取り戻した一言が自分の言葉であるという事実は、幾度も塞がり掛けた照の胸を明々と照らす揺るぎない希望の炎となった。そして由之真が、「…うん」と静かに答えた直後、照は俄に気忙しくあちこちへ顔を向けながら、その炎を口から吐き出した。
「そうだっ!!早くお母さんに言わなくちゃっ!あっ、お婆ちゃんらにもっ!麻純さんや築根さんや大士郎さんにも言わなくちゃっ!!私お母さんらに言うから、由ちゃん社務所に走って行ってっ!!…ほら早くっ!」
不屈の記憶 終わり
第二十六.五話 不屈の記憶 取っちめ編
照が貴美からの電話を受けた、約一時間ほど前のこと。真由の家に戻った貴美は、昨日のことを話すべく実家に電話を掛けた。しかし、貴美は電話に出た母親に挨拶をしてから、父親を出すように頼んだ。由貴は保留ボタンを押してから、庭で築根と栗を焼いていた哲を呼んだ。
「……てっちゃん!貴美ちゃんから電話!」
「…おう!…築根、焼けたの端に寄せといてくれ」
「はっ!」
哲は大急ぎで家に上がり、受話器を取って威勢の良い声で言った。
「もしもし俺だ!どうした?元気かい?」
貴美は聞こえるように溜息を吐いてから、低い声で単刀直入に切り出した。
『……真由って神中りだったのね』
(!)と、さしもの哲も驚きつつ嫌な予感がしたが、それを貴美に悟られぬよう気軽な口調で尋ねた。
「…あー、なんだ、ついに由坊がなんかしやがったな?…大丈夫か?」
一拍置いて、貴美は口調を変えずに答えた。
『……どっちもしたけど、どっちも大丈夫よ。…それよりちょっとお尋ねしますが、どーして教えてくれなかったの?』
一瞬迷ったが、哲は辺りを見渡してから囁いた。
「…しょうがねぇだろ?貴美ちゃんに言ったら真由ちゃんにバレちまうから、言わねぇでくれって由坊に頼まれたのさ」
しかし、貴美は更に声のトーンを落として言った。
『ふーん、私ってそんなに信用無いわけ?』
哲はありったけの親しみを込めて「…んなわけねぇだろ?」と言ってから、由之真を若干恨みつつ話した。
「…あのな、真由ちゃんの中にどんな真異が在すかてんで判らねぇし、発破掛けて焦ったりしねぇようにしたかっただけで、由坊は照にも言ってねぇのさ。だからそんな、由貴みてぇにおっかねぇ言い方しねぇでくれ」
貴美は眉間に薄く皺を寄せ、少し考えてから多少声色を戻して尋ねた。
『……いつからなの?』
「ん?…ああ、由坊が帰ってきた日だ。…俺も前から真由ちゃんの具合は普通じゃねぇと思ってたんだが……石狩の録にはねぇが、八岐の録に似てる中りがあるって、突然由坊が言ったのよ。自分の名前だけ忘れちまうとか、そういうのがな…」
録とは人と真異の歴史が刻まれている『真異録』のことだが、門外不出な上に一族であろうと限られた者しか閲覧できない古文書だった。そしてそれを知っていた貴美は、おそらくその所為で由之真が口に出せなかった可能性を感じつつ、貴美は一度盛大な溜息を吐いてから、苦笑を浮かべながら口調を変えずに言った。
『……じゃあとにかく、由くんが決めたのね?』
「まあ、そう怒んねぇでやってくれ。…由坊はそれで由貴と大喧嘩して、由貴に一間も張っ飛ばされたんだ。あ、由貴には言うなよ?由貴はあの後ずっとしょげてて、やっとこ春に仲直りしたんだから、蒸し返さねぇでくれよ?」
しかし何やら癇に障ったのか、貴美は即座に鼻で笑って吐き捨てるように言った。
「フンッ、そんなこと知ったこっちゃないわ!そーゆーのが向っ腹立つって、男共は全然判ってないのよ!…ったく、お母さんが気の毒よ!」
哲は頭をぼりぼりと掻きつつ、苦笑しながら思ったことを素直に言った。
「…あー、そりゃ悪ぃけどよ…まあ、由坊ってのは勝っちゃんと真由ちゃんの子なんだよ。そーゆーヤツなんだよ」
貴美はもう一度鼻で吐息を吐いてから、ようやくいつもの、ややぞんざいな声で父親に言った。
『そんなの知ってるわよ。でもね、照が許すなら由くんは許してあげるけど。お父さんだけは一生許さないから。じゃあね!…あ、お母さんには後で私が話すから何も言わないでおいて。もし言ったらマジで許さないからね?…ブッ、ツー、ツー…」
「おいちょっと待て!…貴美ちゃん?…」
哲ゆっくりと受話器を置きながら、滅多にしない深い溜息を吐いてからそっと独り言ちた。
「はぁ〜……何から何まで、由貴そっくりになってきやがった…」
しかし、哲のすぐ後ろからどすの利いた女性の低い声が響いた。
「…何が私とそっくりなの?」
「おわぁっ!?…なっ、何でもねぇよっ!気配殺して近付くなよっ!ビックリすんじゃねーか!」
終わり