第二十五話 不屈の記憶 前編
「……あれだよね?」
「…うん」
駅を出た照と由之真は駅の隣のバスターミナルへと急いだが、二人はターミナルから出るバスをバス停で見送っていた。
「あと三〇秒早かったら…」という言葉を飲み込んで、照は時刻表と腕時計を見て言った。
「……んーと、次のまで十五分かぁ…早く着いちゃうけど、タクシーで行っちゃおっか?」
「うん」と由之真が頷いた直後、照のポケットが鳴った。
「あっ、ちょっと待って!きっとお母さん……ん?……由ちゃん知ってる?」
小首を傾げならが液晶画面を由之真に向けて尋ると、由之真は液晶の数字を見つめて微かに頭を振ってから答えた。
「…出てみたら?」
普段照は携帯電話での非通知と未登録の着信を無視することにしていたが、今日からの三日間は特別な日なので由之真の言葉に従った。
「…はい、もしもし?……」
しかし返事は無く、もう一度呼び掛けようとした時だった。不気味な女性の囁き声が照の耳に触れた。
『……あなたが照ちゃん?』
「っ!?」
直ぐに携帯電話を耳から遠ざけて、照は眉間に皺を寄せながら小声で由之真に訴えた。
「な、なんかヘンな人っ!私のこと知ってる!」
由之真は腕を組み、真顔で軽く頷いてから小声で答えた。
「うん。ヘンだと思う」
「…?」と、由之真の反応に矛盾を感じた時だった。
「もしもーーし!」
「!?」
危うく電話を落とすところだったが、照は素早く振り返って声の主を探した。すると十五メートル程離れた電話ボックスから、白いパンツに茶色のジャケットを着た人好きのする顔の女性がひょいと出てきた。その二十歳前後と思しきスタイルの良い女性は、栗色の短い天然パーマを手で掻上げて、さも愉快そうに微笑みながら白い携帯電話を耳に当て、照達に歩み寄りつつ直に聞こえる声で言った。
「もしもーし!照ちゃんと由くんでしょ?…違うの?」
「……」
照はぽかんと口を開け、反射的に「…そーです」と力無く答えたが、その時女性が少し吹き出したように見えた瞬間、バチン!と携帯電話を閉じた。そして顎をつんと聳やかし、背筋を伸ばして女性の目を見据え、やや棘のある声で毅然と尋ねた。
「どちら様ですか?」
(あ、やっちゃったかな?)
予想外の気迫に圧された女性は、すぐに手を合わせて謝った。
「ごめんごめん!やっぱ覚えてるわけないよね!十年くらい前に一回会ったっきりだもんね…」
「……」
しかし照に気を許す気配がないと見るや、女性は丁寧に頭を下げて右手を差し出し、真顔で言った。
「はじめましてって言った方がいいね。私は石倉吉乃の娘の、石倉麻純です!」
石倉吉乃は石狩家の親戚で、由之真の母親である八岐真由の支援者の一人だが、照は「へっ!?」と大声で驚きつつも、吉乃に大学生の娘がいたことを思い出しながら慌てて麻純の手を握って言った。
「は、はじめまして!…でも、なんで?…」
照の緊張が解れたことに内心胸を撫で下ろしつつ、麻純は握った手を大きく振って苦笑交じりに答えた。
「フフッ、ビックリするかと思ったんだけど、とにかくごめんねっ!そんでよろしくっ!」
照の問い掛けは麻純が此処にいる理由だったが、取り敢えず照は茶目っけたっぷりな三いとこの手を強く握り、「フフッ!よろしくお願いします!」と笑顔で答えてから由之真を紹介した。
「えっと、もう知ってるみたいですけど、従弟の由ちゃんです!」
由之真はすぐに右手を差し出して、いつものように静かに言った。
「…はじめまして、八岐由之真です」
(この子が真由さんの…)
麻純は一時由之真の目の奥をそっと覗いてから、勢い良く由之真の手を握って「よろしくねっ!」と挑むように答えたが、すぐに手を離して悪戯っぽい笑みを浮かべて尋ねた。
「…でも、由くんはわかってたよね?ずっと見てたよね?」
(?)
意味がわからずきょとんと由之真を見ると、由之真は何も答えず麻純から目を逸らした。その仕草に疑念を抱いた照は、迷わず由之真を睨めつけて問い質した。
「…なあに?由ちゃん麻純さんのこと知ってたの?」
照と同じように吉乃に娘がいることしか知らなかった由之真は、どう答えてよいかわからず取り敢えず「ううん。知らなかったけど…」と素直に答えたが、その曖昧な答え方は疑念を深めただけで、照は腰に手を当て眉間に皺を寄せながら由之真に一歩詰め寄った。
「けどなあに?じゃあ、何わかってたの?」
容赦ない追求に半歩退きながら、由之真は苦笑を浮かべてしどろもどろに答えた。
「…わかってたわけじゃないよ。…何となく電話ボックスにいる人が携帯弄ったのが見えて……すぐに掛かってきたから、…ちょっとヘンだと思っただけ」
(……)
それは偶然見えたものと現状を結びつけたという、勘が良い由之真らしい答えではあった。そういえば由之真が『ヘン』と言ったことを思い出した照は、「…ふーん」と一応納得して、次は何やらずっと苦笑している麻純に最初の疑問を尋ねた。
「…でもあの、もしかして迎えに来てくれたんですか?」
多少やり過ぎてしまったが充分楽しめたので、麻純は腰に手を当て「そのとーり!」と満足そうに大きく頷き、空を見上げて言った。
「…なんだか降ってきそうだし、とにかく行こっか!詳しいことは車で話すから!」
「はい!」
そして三人は駐車場に置いた麻純の車に乗り込んで、照の両親が住まうマンションへと向かった。
「…インフルエンザ?」
「そーなの…」
一拍置いて、麻純は苦笑を浮かべながら溜息交じりに続けた。
「…今朝照ちゃんから電話来たすぐ後だけど、朝ご飯食べたら戻しちゃって。…その後急にぶるぶる震えだしたもんだから、お父さん焦って救急車呼ぶとか言い出しちゃって、結局私が病院に連れてったんだけどね…、ホント、マジで今朝は大騒ぎだったの!」
その口振りから大事には至らなかったと察したが、今朝早く掛けた電話で吉乃の元気な声を聞いていた照は、「…はぁ…」と息を漏らしてから尋ねた。
「…じゃあ、入院されたんですか?」
麻純はルームミラーに映る照の不安げな顔に、笑顔を向けて答えた。
「ううん、点滴したら一時間で楽になっちゃって、九時頃家に戻っておじや食べて、今頃ぐっすり寝てると思う…」
そして麻純は、信号を右折してから続けた。
「…とまぁね、そーゆーわけで今日のこと頼まれたんだけど…照ちゃん、お昼ご飯どうする?」
(…?)
この時照は奇妙な違和感を覚えたが、取り敢えず素直に予定を伝えた。
「…あー、そろそろお母さんから連絡あると思うんですけど、お昼は家で食べるつもりでした」
「そっか。じゃあお見舞いの後はどうするの?」
(!)
照は問いに答えず素早く由之真に顔を向けて、はっと息を呑んだ。由之真は目の前の運転席を見据えながら、普段の口調で尋ねた。
「…吉乃さんに何を頼まれたんですか?」
唐突な問い掛けに多少戸惑いつつも、麻純は一度ルームミラーを見てから素直に答えた。
「…んーとね、…照ちゃんと由くんが明後日帰るまで一緒にいてって」
「…それだけですか?」
「うん。そーだよ?」
(……)
その答えによって先程の違和感の正体に……麻純が何も知らされていないことに気付いた照は、思わず怪訝な目を由之真に向けた。由之真は照に悪戯っぽい笑みを返してから、今度は少し明るい声で言った。
「…お見舞いは、明日の午前中なんです」
「えっ、そーなの!?……なーんだ!てっきり今日だと思ってたから、明日はディズニーランドに行こうと思ってたんだけど、ちょっと残念だねー…でもでも、東京サマーランドとかなら半日でも結構遊べるし…あ、行ったことある?」
それがどちらに向けた言葉かは判らないが、最初に予定を聞かれた照が答えた。
「……ないですけど、今日はお昼食べたら私と由ちゃんで家のお掃除して、あとは晩御飯のお買い物がてら、真由叔母さん家のそばまで散歩しようと思ってました」
(…ん?…そばまでって…)
麻純はこの時初めて八岐真由の家がマンションから近いことを知ったが、同時に湧いた素朴な疑問を尋ねずにはいられなかった。
「…どうして家に行かないの?」
「え?…ああ、それは…えっと…」と口籠りながら照が由之真を見た時、照のポケットが鳴った。
「すみせん、ちょっと……あっ、お母さん!……うん!……お昼前に着くよ。………いいよ、作って待ってるから。……大丈夫!……うん、じゃあね!」
照は携帯電話を閉じながら、麻純に向かって言った。
「お母さん十二時過ぎにお昼食べに帰ってきますけど、麻純さんも一緒に食べますよね?」
「うん、そのつもりだけど…」
「じゃあ、リクエストあります?」
「んーと、何でもいいけど…もしかして、照ちゃんがご飯作ってくれるの?」
照はもう一度由之真を見てから、嬉しげに答えた。
「そーです!お昼は私が作って、夜は由ちゃんと天ぷらとかお刺身とか作りますけど、あ!麻純さん食べられないものありますか?」
照の言葉を半分冗談と受けた麻純は、半ば呆れたような声で答えた。
「……えーっと、そうねえ、匂いがきつい物以外なら、何でも大丈夫!」
「じゃあ、お任せでいいですね?」
「うん!いいです!」と頷きながら、麻純は出掛けに吉乃と話したことを思い出していた。
(……そーいや、料理好きとか言ってたっけ……)
つい二時間程前のこと、突然吉乃から三いとこに当たる照と由之真の世話を頼まれた麻純は、どちらかと言えば子供好きな方だし、ディズニーランドにでも連れて行ったら喜ぶだろうと思い付き『…いいよ!いま試験休みで暇だしね』と気軽に請け負った。そして一応照の性格を尋ねると『照ちゃんはね、文句無しにベリーグッドな気立ての子!』と、吉乃は何故か自慢げに語ったが、照と握手をした時に麻純もそう感じた。
しかし次に由之真のことを尋ねると、ベッドの中で吉乃は眉間に皺を寄せ、たっぷり十秒考えてからふらふらと起き上がり、戸棚のアルバムから一枚の写真を取り出した。そして何か懐かしむような、優しげな声で語った。
『……由くんって子はね、料理人だったお父さんの影響で、こんなの作っちゃうぐらい料理が好きな子なのよ……』
実のところ、麻純は由之真の父親が一昨年の初冬に急逝したことしか知らなかったが、吉乃と祖父の石倉純一郎が、記憶障害を患う八岐真由に時折会っているとは聞いていたので、きっとその時に撮った写真だろう……と思った通り、それは今年の夏に照の両親のマンションで撮られた写真だった。しかし、エプロン姿の由之真の前に並ぶ豪勢な料理を小学生が作ったとは思えず、おそらく後ろに写っている照の母親が作った品で、吉乃の言葉は一生懸命料理を手伝う男の子の努力を誇張したのだろうと解釈していた。
ともあれ、後部座席の内気そうな少年は小生意気なやんちゃ坊主ではなさそうなので、麻純はこの二泊三日の子守を存分に楽しもうと思った。……が、もし麻純に未来がわかれば、明日の今頃は驚愕のお見舞いに巻き込まれずに済んだかもしれないが、残念ながら麻純に未来を予知する能力はなかった。
(……行ってなくて良かったー、東京サマーランド結構面白いし……でもお見舞いって何時かな?…)
明日の遊興に一人思いを馳せながら、麻純は鼻唄交じりに車を止めて陽気に言った。
「…とーちゃーく!お疲れーっ!」
合鍵で玄関を開けるなり、照は誰もいない部屋に向かって声を張った。
「お邪魔しまーす!ってゆーかただいまーっ!」
そして振り返り、「お邪魔しまーす」と玄関に入った麻純に笑顔で答えた。
「よーこそ私の別荘へ!フフッ!」
照はまずリビングのサッシを少し開けて、次に麻純をゲストルームへ案内した。
「この部屋自由に使ってください。トイレは玄関の右で、その奥がお風呂と洗面所です」
「うん、ありがと!」
「じゃあ私お昼作りますから、テキトーに寛いでてください!」
ゲストルームは四畳半程の簡素な洋室で、ソファーベッドとポールハンガー、そして碁盤程の小さな木のローテーブルが備えてあり、テーブルの白い花瓶にはクリーム色の洋蘭が生けられていた。麻純は上着をハンガーに掛けて、東の窓から景色を見渡した。
(…へー、結構眺めいいね…)
マンションは南側に広めのベランダがある4LDKの賃貸マンションの三階で、麻純は春先に一度吉乃と共に訪れていた。そして今、その時は二人で住むには広過ぎるような気がしたのをふと思い出したが、もしかしたら照と由之真も住む予定だったのでは?とすれば、何故一緒に住まないのか?という疑問が浮かんだ。しかし家庭の事情は千差万別と思うに止まり、麻純は何やらばたばたし始めたキッチンへと向かった。
「んー…」
キッチンではエプロン姿の照が腕を組み、冷蔵庫の中を見据えて唸っていた。ダイニングチェアに登った由之真がキッチンの上の戸棚から「あった」と言ってスパゲッティーを取り出すと、照は「よしっ、決ーめた!」と気合いを入れてから麻純に向かって言った。
「…今日のランチは、ブロッコリーとたっぷりホタテのアンチョビ風味スパゲッティー!あーんど、さっぱりオニオンスープですっ!」
一瞬麻純は、目をぱちくりさせてから尋ねた。
「…ほー、美味そうだね!私も何か手伝う?」
「じゃあ、えーっと…そうだ!由ちゃんと一緒にデザート作ってください!」
(デザート!?)
軽い気持ちで言ったことを少し後悔しつつも、麻純は取り敢えず「う、うん!」と空元気良く頷いたが、直ぐさまリビングのローテーブルを拭いている由之真に歩み寄り、そっと尋ねた。
「…ねえ由くん、デザートどうする?」
「……」
由之真は無言でキッチンをさっと見渡し、キッチンラックの中段にあったバナナと大きなピンクグレープフルーツを手に取った。
(おっ、いいものがあるじゃない!)
それを切って出せば立派なデザートだと思った麻純は、早速バナナとグレープフルーツを切ろうとした。
「照ちゃん、ナイフとまな板借りていい?」
「どうぞー」
麻純がダイニングテーブルでバナナを切り始めると、由之真は冷蔵庫を開いて練乳とブルーベリージャムを取り出した。そして冷凍庫から、照の大好きなハーゲンダッツのミニカップを出して、冷凍ホタテを電子レンジに入れている照に尋ねた。
「照、これいい?」
「…いいよ!」
(なーんだ、アイスがあるならあるって言って!)と思いつつ、麻純は三本目のバナナを切ろうと手を伸ばしたが、由之真はそのバナナをひょいと持ち上げて言った。
「…あとはグレープフルーツを切って、皮を剥いてください」
四人でバナナ二本は少ないのでは?と思いつつも、麻純はレープフルーツを切り始めたが、由之真は勝手知ったる戸棚からジューサーミキサーを出して、タマネギをスライスしている照の横でミキサーのカップを洗った。そしてそれを見てピンと来た麻純は、由之真に尋ねた。
「…フルーツソースを作るの?」
由之真は、ダイニングテーブルにミキサーをセットしながら薄く微笑んで答えた。
「はい。半分はそのままで、残りはアイスのソースにします」
「…そー来たか!」と合点が行った麻純は、ベルーベリージャムを指差して尋ねた。
「これもソースにするんでしょ?」
「はい。二つ作ります」
「ほぉー」と麻純が感心していると、由之真がグレープフルーツの薄皮を丁寧に剥き始めたので、麻純もそれに習った。剥き終わると由之真は、冷凍庫から取り出した氷を二個ミキサーに入れて、次にグレープフルーツを四分の一と、新たに剥いたバナナを半分入れて十五秒ほどミキサーを回した。
「…おー、いい感じね!」
バナナと砕けた氷の加減で、ソースは良い具合にとろっとしていた。由之真はソースを小さなボールに移し、麻純にゴムベラと練乳を差し出した。
「…甘さの調整、お願いします」
「りょーかい!」
由之真がミキサーのカップを濯いでいると、キッチンに香ばしいニンニクとアンチョビの匂いが漂いだした。照は解凍したホタテをオリーブオイルで炒め、軽く白ワインで蒸してからスパゲッティーと和えるつもりだったが、ふと思い立って由之真に尋ねた。
「……由ちゃん、ちょっとバター入れたら喧嘩しないかな?」
由之真はカップの水を切りながら、フライパンの中をちらと見て答えた。
「…別に炒めれば、大丈夫だと思う」
「そっか!」と、照は即座に別のフライパンを火に掛けて、冷蔵庫から無塩バターを取り出した。
(…ホントだったんだ…)
照が料理を始めてからまだ十分と経っていないが、麻純はこの時点で吉乃の言葉が誇張でないことを確信した。しかし何だか少し子供らしくないような……そこはかと残念な気がしたが(…ホントにそういう子なんだ…)と思うことにして、楽しくなってきたデザート作りに気を入れた。麻純はゴムベラに小指に付けて、ソースを舐めてから由之真に尋ねた。
「…こんな感じ?」
由之真はミキサーをセットしてから、ゴムベラに付けた自分の小指をぺろっと舐めた。
「……」
(…練乳入れ過ぎた?)
すぐに答えない由之真に麻純は一瞬焦ったが、由之真はボールを受け取り微笑んで言った。
「…このままシャーベットにしても、きっと美味しいです」
「そ、そーだね!」
由之真はソースを小鉢に移してから冷凍庫に入れて、氷二個とブルーベリージャム大さじ二杯、そしてグレープフルーツ四分の一とバナナの余りをミキサーのカップに入れて言った。
「さっきと同じぐらい回してください」
「りょーかい!」
そして、ミキサーの音とホタテを炒める音が相俟って、キッチンが騒音に包まれた直後だった。
「…ほわっ!?」
「えっ!?」
唐突な麻純の悲鳴に驚き振り返った照は、廊下に佇む人影を見てもう一度はっと目を剥いた。ゆるいウェーブが掛かった黒い豊かな長髪の、由之真より頭一つ高いその人影はキッチンに入り、ややつり目がちだが優しげな瞳に愉快そうな光を湛えながら、由之真の肩に手を乗せて、ややハスキーな声で言った。
「フフッ、そんな泥棒見たみたいに驚かないでよ」
照はフライパンを持ったまま、その人物を睨めつけて言った。
「…ただいまぐらい言ってよね!ビックリしちゃったよ!」
「ちゃんと言ったわよ。それで聞こえなかったんでしょ」と、ミキサーを指差した美しい壮年の女性……石狩貴美は、ミキサーの向こうで苦笑している麻純に、照と良く似た笑みを向けて気さくに言った。
「いらっしゃい!春以来ね。試験休みなのにごめんね」
麻純は小刻みに首を横に振って答えた。
「いえいえ!どーせ暇でしたから。お久しぶりです!」
そして貴美は由之真の肩から手を降ろし、腰を屈めて悪戯っぽい笑みを浮かべながら由之真の顔をじっと覗き込んだ。しかし貴美が何も言わないので、由之真から切り出した。
「…お久しぶりです」
顔を合わせるのは約三ヶ月ぶりだが、照が送る由之真の写メールを毎週見ている貴美は、「…そーねぇ」と素っ気なく返すなり、由之真の脇の下に素早く手を差し入れた。
「あっ」という間に由之真は貴美に抱き竦められ、そのまま持ち上げられた。
「ハハッ!」
「フフフッ!」
由之真の驚いた顔が可笑しくて照と麻純は笑ったが、貴美は突然「ふんっ!」と気合いを込めた。
「うっ」
「!…お母さん?」
強烈なベアハッグの苦悶に気付いた照は一応気に掛けたが、貴美は更に「んーっ!」と締め付けてからようやく由之真を解放した。そして一度盛大な溜息を吐き、赤くなった由之真の顔を意地悪そう睨めつけながら笑って言った。
「……フフッ、危ないことした罰として、今夜は美味しい物いっぱい作ってね!」
由之真は一瞬きょとんとしながらも、すぐに思い当って微笑んで答えた。
「…はい」
「フフフッ!」
(…危ないことって?)
よくわからないが照も笑っているので、きっと由之真が悪戯で危険なことでもしたのだろうと思うに止まり、麻純は自分がしていたことを思い出した。
「…由くん、これも練乳入れる?」
由之真は、食器棚から白い小鉢を出して言った。
「…それはいいです。これに移して冷凍庫に入れてください」
「りょーかい!」
(……)
貴美は目を細くして、それぞれいそいそと作業している三人をゆっくりと見渡した。そして脱いだ上着を椅子に掛け、シャツの袖を捲って言った。
「…よーし!由くん、ベランダに生えてるバジルでドレッシング作って!サラダ作るから!」
「いただきまーすっ!」
麻純はスープを一口飲んでから、早速スパゲッティーが絡んだホタテを口に入れて「んー!」と唸った。軽くバターで炒めたホタテは、ほんのりとした白ワインの香りとアンチョビの程良い塩気によって、得も言われぬ甘さが引き出されていた。
「どうです?」と照が尋ねると、麻純は短時間で四人分のスープとスパゲッティーを見事に作ったシェフを存分に褒め称えた。
「…もーね……照ちゃん私と結婚して、毎日ご飯作って」
「ハハハッ!」
そして一頻り笑ってから、貴美は久しぶりに一人娘の手料理を褒めた。
「確かに美味しいわね……ま、どーせこれも由くんに習ったやつでしょ?」
(どーせこれも?)とカチンと来たが、照は薄ら笑いを浮かべて答えた。
「…違うもんね!ねー由ちゃん?」
「うん、これは初めてだけど、凄く美味しい」
「!…ほーらね!ふふんっ!」と、照は自慢げな顔を母親に向けたが、その顔がみるみる赤く染まっていることには気付かず、一番見たかった娘の表情を見て満足した貴美は締め括った。
「…へー、じゃあホントに腕が上がったのねぇ!ま、由くんの御蔭だけどね」
「そーだけど、お母さんはいっつも一言多いの!」
「あらそう?フフフッ」
「ハハハッ!」
そして、それぞれの皿からスパゲッティーが消え掛けた頃に由之真が席を立ったので、「あ、デザートね?」と麻純も立ち上がった。由之真は食器棚から白い小皿を出して、ミニカップのバニラアイスを大さじで二回掬って皿の中央に落とし、その周りに残ったグレープフルーツとバナナを盛った。そして二種類のソースが混ざらぬよう、アイスの両側のスペースにソースを大さじ二杯ずつ垂らした。
(…こーゆーのどこで覚えるわけ?やっぱテレビ?)などと麻純が感心していると、由之真はアイスのスプーンを差し出して言った。
「…もう一つ作るから、あとお願いします」
「う、うん!」
この期に及んで何を作るのかと驚いていると、由之真は冷蔵庫から六枚切りの食パンを出し、その一枚をトースターに入れてスイッチを押した。食後のコーヒーを淹れていた照は怪訝そうにそれを見ていたが、由之真は固めに焼いたパンを八等分して三角形になった小さなパンを、アイスの隣に二個ずつ添えた。
(ほほー、なるほど!)と思いつつ、麻純はデザートを配りながら気取って言った。
「…お待たせいたしました。本日のデザートは、バニラアイスと…一口パンのダブルフルーツソース添え…私と由くんの合作でございます」
「フフッ、へー、綺麗ね!…では早速!」と、実は甘い物に目がない貴美は、まず紫色のソースをアイスに絡めて賞味した。
「うん!これはコンフィチュールね!こっちは…」と、次はパンに淡いピンクのソースを絡めて口に運んだ。
「んー!甘さがパンにぴったりね!麻純ちゃんも料理好きなのねぇ!」
「えっ…ええまあ、どっちかって言うと食べる方が好きですけど」
合作とは言っても全て由之真の指示通りにしただけで、麻純は特に料理好きではなかったが、取り敢えず否定したり嘘を付くよりも、咄嗟に浮かんだ事実を言っただけだった。するとカップにコーヒーを注ぎながら、照が麻純に同意した。
「私も!お母さんだって食べる方が好きだよね?」
「…まぁそーねぇ、食べるために作るわけだからね」
照は横目でちらと由之真を見てから、無意識に棘のある口調で言った。
「フツーそーだよねぇ?…由ちゃんは違うみたいだけど」
「?…なに?」
突然名を呼ばれた由之真はきょとんと尋ねたが、照は思ったことをそのまま言った。
「由ちゃんは食べるために作るんじゃなくって、作るために作ってるって言ったの」
「?…そんなことないけど」
「あるよ。…いっつもお弁当みんなにあげてんの、私ちゃんと知ってんだから」
「…」
照がそのことを知ったのは由之真の誕生日だが、その時聞いた『ヤマっちのお弁当、いっつもチョー楽しみ!』という香苗の無邪気な言葉は、てっきり残さず食べていると思い込んでいた照に言い知れぬショックを与えた。そして、当時は由之真の介護に夢中で忘れていたが、今はあることが原因であのショックが甦り、それでも照は由之真がすぐに素直に謝れば許そうと思っていた。しかし由之真が押し黙ってしまったので、照は唐突な尋問に呆然とする周囲を忘れて由之真を問い詰めた。
「…一回聞こう思ってたんだけど、折角自分で作ったのに、なんで人にあげちゃうの?」
「……食べきれないから…」
「だったら持って帰ってくればいいっしょ?みんなにあげたりしないで」
「…傷むと勿体ないし…」
「別にあげちゃダメってわけじゃないけど、どのくらい残すかわかんなきゃ、どれだけ詰めたらいいかわかんないじゃん?」
(!…なーる!)
興味津々に静観していた貴美は、やっと照の不満を悟ってそろそろ助け船を出そうと思った。しかし、由之真に困り切った顔を向けられた瞬間「グッ」と吹き出してしまい、照は母親をキッと睨めつけ、低い声で尋ねた。
「…何が可笑しいの?」
貴美は直ぐさま両手を合わせ、「ごめんっ!!…でもほら、勝くんも作ってばっかで自分はあんまり食べなかったし、あー、由くんは勝くんに似て元々食が細いのよ!でもね…」と、今度は既にキッチンに下げられた、二口程残っているスパゲッティーの皿を指差して言った。
「あのくらいだったら、食べちゃってもいいんじゃないの?」
そのスパゲッティーを残した犯人は由之真だったが、実のところ、照は由之真の皿にみんなより二割増しで盛っていた。つまり、ただでさえ少食な由之真がいつもより食べてくれたことはわかっていたが、そもそも由之真の食の細さが気に入らないことと、凄く美味しいとまで言ったのに残したことが相俟って、不満が少しこぼれただけだった。
しかし、どうしてか面と向かって「残すな」と言えない自分がもどかしく、心ならず責めるように問い詰めてしまったが、自分の代りに貴美が言ってくれたので不満は急激に和らいだ。そして由之真がいつものように「はい」と答えれば止し、と照が思った時だった。由之真は一時真顔で照を見つめてからすっと席を立ち、残っていたスパゲッティーをズズッと一気に平らげた。
「……」
静寂の中で、由之真は席に戻ってスプーンを手に取りデザートの残りを食べ始めたが、麻純は「…ちょっとトイレへ」と席を外した。貴美は援護射撃が味方に当たった気分を痛感していたが、照はまだ真っ直ぐ由之真を見据えたまま、今度は幾分穏やかに尋ねた。
「…食べられるんだったら、どーして残すの?」
(まだやる気なの?)と貴美は呆れたが、由之真は困ったような笑みを浮かべて答えた。
「残したんじゃないよ。デザート作ってる内に無くなってたから、もういいかなって思ってただけ」
「……」
貴美にはそれが絶妙な言い訳に聞こえたが、皿を下げた当人は、椅子に深々と背をもたれながら明るく言った。
「…なーんだ、もー食べないと思ったから下げちゃったよ!…でも、由ちゃんはもっともっと食べた方がいいよ!食べないと勝叔父さんみたいにおっきくなれないよ?」
大きくなれずとも特に困らないとは思ったが、由之真は素直に頷いて言った。
「うん。…お弁当もできるだけ食べるよ」
照は俄に頬を染め、嬉しげに微笑んで言った。
「そーだよ!沢山食べて沢山寝れば、すぐに路子ちゃんよりおっきくなれるんだから!…ま、どーしても余ったらあげてもいいけどね!」
「うん」
(…ったく、どっちなのよ?)と苦笑しつつ、これにて一件落着と貴美が胸を撫で下ろしていると、まるで計ったかのようなタイミングで麻純がトイレから戻った。そしてまた和やかに時が過ぎて、午後一時の時報が鳴った時、ふと照が気付いた。
「…そーいやお母さん、時間大丈夫?」
「ああ、ちょっと由くんに話があったから、二時まで休憩もらってきたのよ」
「そーなんだ。じゃあ、紅茶でも淹れよっか?」
「ありがと!」
照がお湯を沸かし、由之真が食器を洗っている間に、貴美は麻純をリビングへ招いて言った。
「…さっきはごめんね。急に始まっちゃって驚いたでしょ」
「あー、いえ、ちょっぴり」
自慢の料理を残されたのが悔しかったのかな?とトイレで考えていた麻純は、逆にこんな妹がいたら毎日面白そうだと思っていたところだった。貴美はソファーに腰掛けて、苦笑しながら小声で続けた。
「あの子はね、由くんにいっぱい食べて欲しいだけなの」
「…そんなに食べないんですか?」
貴美は一度キッチンに目を向けてから答えた。
「……確かに食べない方だけど、心配するほどじゃないわ。…ホントはね、一学期の通知票に『給食を残すことがある』って書かれたのが原因みたいでねぇ、あの子は由くんの背が低いのを、なんだかずっと気にしてるの」
「…でも五年生ですよね?フツーだと思いますけど…」
貴美は大きく頷いて、優しげな苦笑を浮かべて言った。
「……男の子なんて放っといたって、その内竹の子みたいに伸びるのに、このまま少食だとちゃんと大きくなれないかもって、あの子が勝手に心配してるだけなのよ」
まるで子育て真っ最中の母親のような悩みに、麻純は我知らず微笑みながら相槌を打った。
「…フフッ、そーだったんですか」
「うん。それでね、由くんのクラスに一人背が高い女の子がいるんだけど、さっきはその子より大きくなって欲しいみたいなこと言ってたわ。フフフッ、まあクラスったって、由くんの他に女の子が三人しかいないクラスなんだけどね」
貴美はいつもの癖でクラスから連想したことを一言添えただけだが、麻純は俄には信じ難い話に興味を抱いた。
「え、じゃあ由くんのクラスって、四人なんですか?」
「そーよ。私の頃は十五人ぐらいいたけど、まぁ田舎の学校だしね。…あ!そう言えば私の母と純一郎さんのいとこが、その学校の校長先生よ」
「え?……あっ!それってもしかして、章おばさんですか?」
「ビンゴー!」
「へぇーっ!」
菜畑小中学校の校長である朝倉章は、東京出張の際は必ず石倉家に泊まるので、麻純は幾度か章と会っていた。しかし章が小学校の校長であることは知っていても、よもや由之真の学校の校長とは思いも寄らず、このことで麻純は自分と由之真達の関係が輪のように繋がった気がした。そして、丁度そこへ照と由之真が紅茶を運んできたが、貴美の貴重な時間は減らせないので、あとで言って驚かせようと思った。
貴美は紅茶に角砂糖を二個落とし、ダージリンの香りを吸い込んで一口啜ってから切り出した。
「…ねえ由くん、三回忌の返事まだ出してないでしょ」
由之真は一度目を逸らし、もう一度貴美の目を見て答えた。
「……はい。すみません」
「ううん、それはいいのよ。でももし行くならね、…真由はやっぱり行けないみたいだから、私か陽祐が一緒に行こうと思ってるんだけど…」
一拍置いて、貴美は一度照を見てから続けた。
「実はね、月曜日の夕方真由の家に、勝くんの実家のー…由くんの叔父さんがお見えになって…もう再来週だから、どうされるんですかって聞かれたの。…叔父さんのこと覚えてる?」
「…はい。智義叔父さんと雅之叔父さんです」
「うん、見えたのは雅之さんで、由くんには是非三回忌に来て欲しいって言ってたわ…」
「……」
三回忌は言わずもがな、実家も由之真の父親である八岐勝之真の生家のことだが、実のところ真由と由之真は、勝之真の死後一度も実家を訪れていなかった。それは真由の治療の為にずっとアメリカにいたからだが、海の向こうの事情を知らない実家は一周忌に来なかった二人をよく思っておらず、そのことは照の耳にさえ入っていた。
もっとも、その一周忌は姻族に無断で実家が勝手に執り行ったもので、当時は貴美達が三度も渡米して二人を支えていたが、心労により無表情となった甥と帰郷を拒否する闘病中の妹を抱えた身では、とても一周忌に行ける状況ではなかった。しかしそれは過ぎたことで、貴美は一旦ゴクリと紅茶を飲んでから続けた。
「…まあ、それでね……最初真由は法事だけなら行くって言って、向こうもそれで了承してくれたの。でも、…そのあと急に遺産の話になったら、遺産なんかいらないし三回忌も行かないって、真由が怒ちゃったんだけど……由くん、お祖父さんの遺産とか遺言のことって聞いたことある?」
由之真はカップを置いて、きょとんと答えた。
「…ないです」
由之真の父方の祖父は、由之真達が渡米した直後の平成十五年の初秋に病死したが、その際慌しく帰国して葬儀に列したことは覚えていても、遺産のことはまったくの初耳だった。
「そーよねぇ…」と呟きながら腕を組み、貴美は月曜に初めて聞いた少々複雑な話をどう伝えようか、麻純に聞かれてもよいものかと思案した。しかし、いずれ確実に由之真自身の問題となるし、今この場にいる麻純にも聞く権利はあると思い、腹を括って前置きから入った。
「…あのね、突然こんなこと聞いたって、すぐに納得できないと思うけど……今は取り敢えず聞いといて欲しいの」
「…はい」
貴美は紅茶を飲み干して、気疲れされぬよう少し気軽な口調で始めた。
「……由くんのお祖父さんが亡くなられる前にね、お祖父さんの遺産をどうするかって、実家で話し合ったんだって。…その時にね、勝くんは長男だけど、家を出るから遺産を放棄することになって、お祖父さんがそのことを遺言状に書くって約束になったらしいんだけど…」
一拍置いて、貴美は少し困ったような笑みを浮かべながら続けた。
「…お祖父さん遺言状書く前に亡くなられてね、結局勝くんに相続権がー…えっと、また勝くんに遺産を受け継ぐ権利ができちゃって、それでー…勝くんは実家に戻って、もう一回ちゃんと遺産を放棄したらしいの。…その時由くんも一緒に帰ってきたのは覚えてるでしょ?」
「…はい。お葬式に行きました」
(あ、由ちゃん送った時のことか!)と、照はその時再び渡米する由之真達を、空港まで急いで見送りに行ったことを思い出した。貴美は無言で頷いてから、今度ははっきり苦笑を浮かべて言った。
「……まあ、その時にお祖父さんの遺産のことは解決したんだけど……今度はね、由くんのお婆さんがー…真由か由くんに、自分の遺産を継いで欲しいみたいなのよ…」
「……」
照と由之真は、無言で目をぱちくりさせながら互いを見合い、またきょとんと貴美を見た。貴美はそれが可笑しくて、吹き出すのを堪えながら続けた。
「…まぁね、私も驚いてすぐに訳を聞いたんだけど、…なんだか知らないけど、黙ってもらってくれの一点張りでねぇ。真由はそういうの大っ嫌いだから、理由もなく受け取れるかって、怒って雅之さんを追い返しちゃったの」
「…そうですか」と呆れたような笑みを浮かべた由之真に、貴美は頷きながら真顔で言った。
「うん。……それでね、一昨日の夜にまた雅之さんが見えたんだけど、…明日の十一時頃、真由のところにね、…本家の方が遺産のことで由くんに直接聞きに来るって」
「えっ!?」と照は思わず驚きの声を上げたが、慌てて両手を振って言った。
「あっ、ごめんなさい!続けて続けて!」
「フフッ、話はこれでお終いよ。…でも……」と、貴美は一度サッシの方へ目を向けてから苦笑して尋ねた。
「ごめんね由くん、別に内緒にしてたわけじゃなくてね、電話じゃ説明し難いから、ちゃんと会って話したかったの…」
実のところ、貴美は遺産のことを一昨日の夕方までは由之真に話すつもりでいたが、そうしなかったのは、得体が知れない八岐の本家の登場が原因だった。本家と聞いて貴美が咄嗟に思い出したのは、忘れもしない照が生まれた平成六年に催された、真由と勝之真のささやかな……本家へ送った招待状の返信が一枚も届かなかった、という曰く付きの結婚パーティーのことだった。
パーティーを明日に控えた夜、八岐家の殆どの者から出欠の返信が届かぬことに痺れを切らした貴美は、当日の料理を仕込んでいた勝之真に相談した。すると勝之真は深々と頭を下げて、本家と分家のやり取りは直接対話が原則で、それ以外電話は元より封書もろくに受け付けないことを初めて明かし、本来自分が本家へ赴く予定が、手違いで適わなかったと陳謝した。
一体何の冗談かと思ったが、その時代錯誤で傍迷惑なしきたりが事実であると知った時、勝之真には悪いが、石狩家に生まれたことを心から感謝したのを貴美はよく覚えていた。それ故に、分家の長男の結婚パーティーにすら来なかった本家が、突然分家の遺産問題に介入してきたことに不穏な胸騒ぎを感じた貴美は、少しでも本家の思惑を調べてから由之真に伝えたいと思った。しかし哲や由貴、章や純一郎などに尋ねても、判ったことは当主の名前くらいだった。
そして、そんな両親の過去と伯母の懸念を知る由もない由之真は、軽く首を横に振り、薄く微笑んで答えた。
「…いえ、ウチのことで、本当にいろいろありがとうございます」
すると貴美は腕を組み、由之真を睨めつけて言った。
「ねえ由くん、そう言うことは、ぜーんぶ済んだ後に言う約束じゃなかった?」
「…はい、すみません」と素直に謝ると、貴美は少し威圧的な声で言った。
「わかればいいの。これから気を付けて」
「フフフッ!」
愉快そうな照の笑いで、貴美は一段落ついたとばかりに吐息をついて言った。
「……まぁね、急に遺産とか言われたってピンと来ないと思うし、どうして急に本家の人が来るのかわからないけど、とにかく明日の十一時頃に来るから、真由のことはあまり気にしないで、由くんの判断で決めていいし、無理に決めなくてもいいと思うしね」
「はい。…来るのは本家の誰ですか?」
「あー…ただ本家の者って言ってたけど、電話で聞いてみる?」
由之真は一度横を見て、少し考えてから答えた。
「…いいです」
「そう…」と貴美は腰を上げたが、すぐに座って言った。
「…由くん、あのね……あともう一個だけあるの」
「はい」
貴美は一度由之真の目を見たが、すぐに俯き、次に照をちらと見てから由之真に目を戻したが、「…あのね……」と、明らかに逡巡しながらまた俯いてしまった。
(…お母さん?)
その仕草が勝之真の訃報を聞いた時と少し似ていたので、照はその時頭が真っ白になった悲痛な記憶を思い出し掛けたが、幸いにもその前に貴美の口が開いた。
「……あ、明日のことなんだけどね?……やっぱりフェアじゃないから、言っておくね…」
「…?」
貴美は由之真の胸元を見ながら、約一ヶ月も胸に秘めていた言葉をゆっくりと吐き出した。
「…まぁ、その……特に照は落ち着いて聞いて欲しいんだけど、…今回お見舞いに呼んだのはね……私じゃなくて真由なの」
「!」
「えーっ!?」と、案の定照は飛び跳ねるように立ち上がったが、貴美はすかさず手を伸ばして優しく制した。
「お願い照、座って聞いて」
「…ご、ごめん!…」と照が慌てて座り直すと、貴美はずっと静観してくれた麻純に目を向けてから、由之真に目を戻して続けた。
「……あのね、真由は先月一人でロスに行ってきたの。…まあ、何してきたか聞いても全然教えてくれないんだけど、……真由は明日、何かするつもりみたい…」
「……」
由之真は最初に少し目を見張っただけで、またいつものように微動だにせず落ち着いて聞いていた。胸元も動いていないので、これなら話してもよかろうと貴美が思った時、照が尋ねた。
「…何かって?」
「うん、それがね……いくら聞いても、今回は好きにやらせて欲しいって言うだけで、教えてくれないの。…誰にも言うなって言われたけど、なんだか照明とかビデオカメラとか…」と言い掛けて、貴美の言葉は由之真が両手で作った『T』という文字で遮られた。
(…由ちゃん!?)
由之真が誰かの言葉を遮るのを久しぶりに見た照は、目を丸くして由之真を見つめたが、由之真はすぐに手を下ろして微笑んで言った。
「ごめんなさい。でも、母さんがそう言ったなら、そうした方がいいと思います」
(……)
貴美は一時由之真の目を見つめ、よもやその澄んだ瞳の奥底に人智を越えた不撓の魂が宿っているとは思いも寄らず、母親の言葉を頑に信じる由之真に従うことにした。
「…そうね。ごめんね、ヘンなこと言っちゃって」
由之真は微笑みながら首を横に振って答えた。
「いえ、話してくれてありがとうございました」
「…うん!」と、貴美は父親とよく似た快活な笑顔で力強く頷き、勢い良く立ち上がって言った。
「さーてと、そろそろ行くわ!照、お母さん帰りは六時頃になるけど、お父さんは五時頃帰っるって言ってたから、お風呂お願いね!」
「うん!気を付けてね!」
そして貴美は由之真の肩をポンと叩き「晩御飯、お願いします!」と言って、今度は麻純に笑顔を向けて「デザート美味しかったわ!明後日までよろしくね!」と、慌しく上着を羽織って玄関を出て行った。
「ふーっ、終わった!…麻純さん、ありがとうございました!」
麻純は一度咳をしてから、マスクの代りに口に掛けていたタオルを外して言った。
「…いやいや、美味しい晩御飯のために、ちょっとでもお腹空かしとかないとね!」
「フフッ、ウチの築根さんみたい!」
貴美が出掛けた後、照達はこのマンションで最も眺めの良い部屋を掃除していた。この部屋は照の父親の書斎だが、照が最初にドアを開けた時は書斎に見えなかった。照の父親は具体的に言えば……本棚から出した本は二ヶ月に一度まとめて本棚に戻すという、ある意味合理的な精神の持ち主で、いくら埃が積ろうとも全く動揺しない剛胆な男でもあった。
ともあれ、照曰く『お母さんを騙して結婚した人』の部屋を三人掛で片付けること三〇分余り、時刻は午後二時半を少し回っていた。照達は休憩しながら買い物リストを作り、三時過ぎに車で一〇分程の大型スーパーへと向かった。そしてその途中の、長い橋を渡り切った直後だった。
「あ、そこ左に折れてください」
「?…うん」
前方にスーパーの看板が見えたが、照の指示通りに麻純が左にハンドルを切ると、五〇メートル程進んでからまた照が言った。
「…そのカーブの手前の、電柱の辺りに止めてください」
そして車が止まると、照はおよそ二五〇メートル程離れた北に立つ樹木を指差しながら、嬉しそうに言った。
「ほら、あの木が立ってる場所が、真由叔母さんの家です!」
「…へぇー!…あの木も全部家の木なの?」
「そーです。あの家はお爺ちゃんの知り合いの人から借りた家で、周りが全部庭で木が十三本も立ってるんです」
「ほぉー…」
麻純が目を懲らすと、敷地の中心付近に茶色い瓦屋根の小さな平屋が見えたが、小さく見えるのは広い敷地と樹木のせいだろうと思った。そして再び素朴が疑問が浮かんだが、二人が車から降りたので、麻純はエンジンを止めた。麻純は川の少し湿った空気を、ゆっくりと吸い込んで言った。
「……なんか、こっちの方は閑静でのどかな感じだね」
「…はい。夜は結構暗くてちょっと寂しいみたいですけど、真由叔母さん静かな所が好きだから…」
曲がる前の道路の東側は住宅地だが、道路のこちら側には幾つか畑が見えて、遠くで鳴く鳶の声が聞こえた。照はポーチから折畳み式の小さな双眼鏡を出して言った。
「由ちゃん」
「…ありがとう」
由之真は双眼鏡でじっくりと三〇秒程真由の家を見て、「…いた」と静かに言った。
「えっ、見して!」
照が双眼鏡を覗くと、照達がいる南側から見て左端の部屋の中に人影が見え隠れしていた。
「…あっ、いるいる…フフッ…何してんのかな?………麻純さんも見ます?」
「私はいいよ!」と首を横に振りながら、正直麻純は二人の行動が理解できずに先程からずっと同じ疑問を飲み込んでいた。しかし、できれば当人ではなく照に尋ねたかったので、その機会を待つことにした。照は双眼鏡をポーチにしまって言った。
「…じゃあ、行こっか」
スーパーに着くと、照と由之真はまず海鮮コーナーへ向かった。海鮮コーナーは品数も良く、二人はきょろきょろと一通り見回ってから照が麻純に尋ねた。
「…良さそうな牡蠣があるから、寄せ鍋変更して土手鍋ってアリですか?」
「アリアリ!私、牡蠣大好き!」
それから三人は刺身用の魚を吟味して、天ぷらと鍋の食材やその他和牛なども、果して五人で食べきれるのかと麻純が危ぶむ程の買い物を堪能して、ようやくレジに辿り着いた頃には入店してから優に一時間は経っていた。そして車まであと一〇歩という所で、ふと由之真が立ち止まった。
「……柚忘れたから、買ってくる」
「うん」
由之真は照と麻純に買い物袋を手渡して、スーパーへ引き返した。荷物をトランクに入れて、車に乗り込んだ照は腕時計を見て呟いた。
「…四時半か、…お母さん帰ってくる頃に丁度って感じかな…」
「そーだね」と相槌を打ちつつ、麻純は今だと思った。
「……照ちゃんさ…」
「はい」
麻純は一度ちらと真由の家の方向を見て、助手席の照に顔を向けて小声で尋ねた。
「あー…秘密とかならいいんだけど……どうして今日、真由さんの家に行かないの?」
照はきょとんとしながらも、当然の疑問だと思いつつ苦笑を浮かべて答えた。
「……フフッ、別に秘密じゃないですよ!えっとー……」
一拍置いて、照は苦笑したまま続けた。
「真由叔母さんは、あんまり由ちゃんに会いたくないです」
(……?)
それはまったく予想外の答えであり、麻純は無意識に尋ねていた。
「…なんで?」
照は二〇メートル程前を歩く、由之真よりやや年下の少年を指差して言った。
「…麻純さん、あの子知ってますか?」
「え?」
何を言い出すのかと思いつつも、麻純はその少年を見て答えた。
「……ううん、知り合い?」
「いいえ、今初めて見た全然知らない子ですけど、…たぶんこんな感じじゃないかって、お父さんが言ってました」
「……」
その言葉で麻純は何か判り掛けたが、同時にこれ以上知りたくない気がして、照の前に何か言おうと思ったが言葉が見つからなかった。そんな麻純の動揺を知る由もなく、照は笑みを浮かべたまま、麻純が知りたくないことを伝えた。
「……真由叔母さんは結婚したことも覚えてないから、叔母さんにとって由ちゃんは、知らない子と一緒で、会いに行っても……いままで一回もちゃんと話したことないんです…」
「……」
こんな時は余計なことを言わず、ただ相槌でも打てばいいことくらい判っていた。しかし、どうしてかそうしたくなくて、麻純は懸命に言葉を探し、閃いた瞬間言っていた。
「…で、でも明日はアレでしょ?…真由さんが呼んだって言ってたよね?」
照はきょとんと麻純を見てから、嬉しげに微笑んで答えた。
「はい!だから私あの時、凄くビックリしちゃったんです!」
「フフッ、そーだったんだ!」と、やっと心から相槌が打てた時、スーパーから出てきた由之真が麻純の視界に入った。麻純は袖でそっと右目を拭いながら言った。
「…あ、来た来た!」
「言っとくけど、今日は駄洒落禁止だからね!」
「……」
たった今いそいそと靴を脱いだばかりの男性は、自分を睨めつけ指差す愛娘を、一時きょとんと見つめてから腹を抱えた。
「アハハハッ!!お帰りぐらい言ってもいーだろ!」
「ハハッ、お帰りっ!」と照が笑って答えると、男性はドスドスと照に迫ると思いきや、そのままキッチンに飛び込んで声を張った。
「由っっ!!……はれ?」
しかし、息子同然に思っている目当ての少年はキッチンにおらず、代りに麻純が目を丸くして驚いたが、男性が麻純に目もくれずリビングへと向かおうした、その時だった。
「…お帰りなさい」
静かな落ち着いた少年の声に「はっ!?」と振り返り、男性はトイレから出てきた由之真に詰め寄って、由之真の頭をぐりぐりと激しく撫で回しながら、まるで宝物を見つけたようにはしゃいだ。
「由っ!ハハッ!由だっ!!ハハハッ!」
紺のパンツにグレーのツイードジャケットを羽織り、アルミのアタッシュケースを持った割と細身で騒々しい壮年の男性……石狩陽祐は、たっぷり五秒も由之真の頭をぐらぐらと揺さ振り、目を回した由之真に若々しい声で言った。
「よく来たな!またちょっとおっきくなったんじゃないか?」
「…はい…」と由之真がふらつきながら答えると、「うんうん!」と満足そうに頷いて、陽祐はキッチンで苦笑している麻純に向かって右手を差し出した。
「暫く振りだねぇ!元気?」
あまりにあけすけな笑顔に眩しそうな苦笑を返しながら、麻純はその大きな手を握った。
「…はい!ご無沙汰してました!」
「うんうん!おっ?由っ!今日のディナーはなんだい?」
しかし、いい加減落ち着きたかった照は、由之真が答える前に父親を牽制した。
「それは後のお楽しみっ!もーお父さんうるさいから、早くお風呂入って!沸いてるから!」
「…」
陽祐は一時怪訝そうにまじまじと娘を見て、次にもの悲しげな顔を麻純と由之真に向けて囁いた。
「言い方が貴美とそっくり…」
麻純は辛うじて吹き出すのを堪えたが、それが口答えに聞こえた照は、三ヶ月振りの再会で興奮しただけの父親に向かって追討ちを掛けた。
「当り前っしょ!お母さんの子なんだから。つまんないこと言ってないで、さっさとお風呂に入る!」
「…ハイハイ」と陽祐は肩を落とし、とぼとぼと寝室へ向かった。
(…久しぶりで照れちゃった?)
照より幾分長く生きている麻純には、両者の心境が何となく判る気がした。しかし、そんな麻純の視線を感じたのかどうか、聞かれもせずに「…あれぐらい言わないと、お父さんすぐ調子に乗るんですよ!どーせすぐ復活するし…」と照が言った直後、「おーっ!」という驚きの声が部屋中に響いた。そしてすぐ陽祐が飛んできて、嬉しげに報告した。
「部屋がすっっごい片付いてて、ビックリしたよっ!ありがとう照っ!」
照は眉を顰めながらも、満更でもない口振りで言った。
「…みんなでやったの!早くお風呂入って!」
「うんうん!」と、陽祐は鼻唄交じりにバスルームへと向かった。そしてようやくキッチンに平和が戻ってほっとした所為か、麻純は照に苦笑を向けて言った。
「…フフッ、陽祐さんって、あんな陽気な人だったんだね」
(!)
てっきり麻純が陽祐を知っていると思い込んでいた照は、(危ない危ない!)と今夜の掟を麻純に教えた。
「…陽気なのはいいんですけど、……麻純さん、ウチのお父さん駄洒落無視すると、みんながわかんなかったと思って、駄洒落の解説する人なんですよ!だから一応禁止令出しましたけど、もしお父さんがヘンなこと言っても、ただ頷くだけにしてください。お父さんそれで満足するから!」
「…フハハッ!」
実の父親に対しての酷い言い様に麻純は思わず吹き出したが、確かに駄洒落の解説ほど空しいものはないので腹を抱えながら請け合った。
「そっか、陽祐さん駄洒落マンなんだ!フフッ、わかった!」
そして三人は中断していた料理に戻り、陽祐が長風呂から上がる頃には、由之真が豪華な天ぷらを揚げていた。そしてそれを見た陽祐は、由之真に向かって言った。
「おーっ!さすが由、美味そうだよ!……こーゆーのを天賦らの才って言うんだな!」
その瞬間麻純と照は静かに頷いたが、照は一応もう一度つっけんどんに釘を刺した。
「……今日は禁止って言わなかったっけ?麻純さんいるんだからね!」
「あっ、そっか!ごめんごめんっ!」と、娘に嫌われたくない陽祐は素直に謝り、その後は酔い潰れて眠るまで一度しか駄洒落を言わなかったが、その一度にかなりの破壊力があったことを、麻純は後々まで忘れなかった。
程無くして貴美が戻り、リビングのテーブルには由之真が作った天ぷらとお刺身の盛り合わせや、照と麻純が用意した石狩鍋や、貴美の好きな和牛のミニステーキなどが勢揃いして、陽祐が乾杯の音頭を買って出た。
「えー…久々に照と由の手料理が食べられのは、ホントに嬉しいよ!麻純さんも、どうもありがとう!…負けたよ!この食う膳の料理に僕は完敗だ!…それじゃあ、乾杯っ!」
この駄洒落は陽祐がお風呂で考えた会心のダブル駄洒落であり、貴美と照の頷きを見て満足した後は楽しいお食事とお喋りが待っているはずだった。しかし照と貴美は頷かず、ぶるっと身を震わせながらげんなりした声で言った。
「…か〜んぱ〜い…」
そしていただきますの後、駄洒落の品評会というよりは糾弾会が始まった。
「…別に言うのはいいけど、TPOってあるでしょ?乾杯ぐらいは普通にやるのが一般常識よね?ねぇ麻純ちゃん?」
麻純は一旦摘んだ海老天を放し、作り笑いを浮かべながら「…は、はあ…」と答えてから掻揚げを摘んだ。
「ハハハ…、あー…思い付いたらつい出ちゃったんだよ!」
「嘘でしょ。いつか言ってやろうと狙ってたんでしょ」
「ハハハ…、あー…でもほら、由にはウケたよ!」
確かに由之真は最初からずっと満足げに微笑んでいるが、その理由を知っていた照は呟くように言った。
「由ちゃんはみんないるから嬉しいの。…ったく、猛吹雪で遭難レベルの寒さだよ…」
「うっ…」
打たれ強さが取柄の陽祐もこの痛烈な評価にはよほどこたえたのか、陽祐は一度肩を落とし、それでも笑顔で頭を下げて言った。
「ハハ……悪かった!この通り!そろそろ許してくれ!頼むから!」
「……フハハッ!」
貴美と照は揃って吹き出し、貴美は麻純に手を合わせて言った。
「ごめんね麻純ちゃん。このくらい言わないと、この人は懲りないのよ!でもまあ、これで今日は安泰ね!さっ、折角のご馳走なんだから、みんなじゃんじゃん食べて食べて!私はなんにも作ってないけど!」
照と似た様な口振りに思わず苦笑を浮かべながら、麻純は海老天を摘んで言った。
「フフッ!いただきまーす!」
その後は和気あいあいと、銘々料理に舌鼓を打ちながら歓談していたが、ふと陽祐が思い出して言った。
「あ、そうそう!アレだ…由の先生って、かなり面白い人だな!美人さんだし」
「え?お父さん櫛田先生に会ったの?」と照が尋ねると、陽祐は「ううん」と首を横に振り、貴美を見て言った。
「あのアルバム、何処にしまったっけ?」
「……ああ、机の一番下の引出しよ」
由之真が三ヶ月前に仕込んでくれた柚酒を、再会の嬉しさのあまりハイペースで呷っていた陽祐は、ふらふらと書斎に行って引き出しから冊子を一部持ってきたが、その冊子の『二つの秋祭の日』というタイトルを見た照は驚いた。
「あれ?由ちゃん送ったの?」
「送ってないよ」
「…ん?言わなかった?」と貴美が照に尋ねると、照は一度由之真を見てから「…うん、聞いてないよ」と答えたが、その冊子はもちろん百合恵が作ったお祭の記念アルバムだった。貴美はこのアルバムがここにある理由を簡潔に説明した。
「そっか。これね、先月末に櫛田先生が直接送ってこられたのよ。二冊も。それで一冊は、できたら真由に渡して欲しいって手紙に書いてあったから、一応渡したけど……じゃあ先生からも聞いてないのね?」
由之真は、きょとんと答えた。
「はい。明日お礼を言います」
照や由貴から百合恵のことを聞いていた貴美は、送ったことを言わなかったのはきっと気遣いだろうと思いつつ、「…そうね」と優しげに頷いてからアルバムを麻純に見せて言った。
「これこれ!これが由くんの学校よ!ボロっちぃでしょ」
「ボロっちぃは余計だよ!自分だって通ってたクセに」
「ハハッ、へぇー、可愛い学校ですね!時計台があるんだ」
「もう壊れちゃったけどね、私が中学卒業するまで、時計の鐘が鳴ってたわ」と貴美は懐かしい目をしたが、照が落ちをつけたした。
「そんでその鐘、由ちゃん悪戯して鳴らしちゃってさ!初めて学校行った日なのに、由ちゃん櫛田先生に叱られたんだよね!」
「フフフッ、うん。鳴らしたのは俺じゃないけど」
(!)
はじめ麻純は由之真のことを、内気だが温和な少年だと思った。しかし、由之真と真由の関係を知り、更に黙々と天ぷらを揚げる姿が酷く大人びて見えたことに圧倒されたのか、料理開始からはあまり声を掛けていなかった。ところがたった今、初めて聞いた由之真の笑い声はまるで幼子のようにあどけなく耳に響き、急に見た目も幼く見えてきて、どうしてか由之真をもっと笑わせたくなった麻純はすかさず合の手を入れた。
「…ふーん、もしかして由くんって、ホントは結構悪戯っ子?」
照は力強く頷いてから薄く眉間に皺を寄せ、由之真を睨めつけて愉快そうに言った。
「由ちゃんはとんだ悪戯小僧ですよ!前に比べたら減ったけど、時々きやらかすんだから!」
「あら?それは誰かさんも一緒でしょ?由くんと一緒に悪戯ばっかりしてたクセに!」と、咄嗟に貴美が由之真側に回ると、折角話題を持ってきたのに蚊帳の外だった陽祐が、すかさず照側に回った。
「照よりずーっと由の方が酷かったよ!帽子にでかい蜘蛛入れたのと、万年筆のインク赤にすり替えたのは一生忘れないからな!」
「フフッ、ごめんなさい」
「ダメだ、絶対に許さんっ!ハハハッ!」
そして宴はアルバムを肴に盛り上がり、大笑いは適わずとも、麻純は幾度か由之真を笑わせた。
「じゃあ、おやすみ!」
「おやすみなさーい!」
時刻は午後十時半を回り、照と由之真は客間に布団を敷いて眠ったが、それは丁度日が変わる頃のことだった。ふと目を覚まし、隣の布団で身体を起こしている由之真を見た照は、トイレにでも行くのか、或いは戻ってきたところか思った。しかし動く気配がないので、まさか座ったまま眠っているのかとそっと声を掛けた。
「……由ちゃん?」
一拍置いて、由之真は黄色い常夜灯に照らされた顔を、ゆっくりと照に向けて静かに言った。
「……照…」
起きていたのはほっとしたが、その徒ならぬ何かを秘めた問い掛けは、照の鼓動を速めた。
「…どうしたの?」
「明日……」と言い掛けて、由之真は一度顔を戻してからもう一度照を見て、今度は薄く微笑みながら言った。
「…明日母さんが好きにやるなら……俺もそうするよ」
(……)
照はすぐに昼間の話を思い出すと同時に、明日真由がしようとしていることを自分が貴美に尋ねたことを思い出した。そして、いつも殆ど不言実行の由之真が自ら口に出す意味を察した照は、明日に何があろうとも、全てをこの目に焼き付けようと心に決めて答えた。
「……うん。…でも、喧嘩はしちゃダメだよ?」
「…母さんと喧嘩なんかしないよ」と由之真が苦笑を浮かべて答えると、照は眉を顰めながら挑発的な口振りで言った。
「わかんないよ?真由叔母さん結構気が短いし、キレるとすーぐデコピンするし」
息子は母親のことを、短気ではなく決断が早いと思っていた。しかし、照の言葉を聞いた由之真の胸に、ある懐かしい痛みの記憶が浮かんだ瞬間言ってた。
「…あの時はごめん」
あの時とは、かつて照が由之真の背中に大きなカナヘビを入れる悪戯をした日の夜、全裸の真由が悲鳴を上げて脱衣所を飛び出す騒ぎとなった時のことだが、真由はカナヘビを家に持ち込んだ照を頭ごなしに叱り付け、強烈なデコピンで泣かせてしまった。しかしその一時間後、照の悪戯の後にカナヘビと遊んでいて逃げられた真犯人がいたことが判ると、真由は照に深く謝罪してから、生き物と遊んだ後始末を怠った息子のお尻を思い切り引っ叩いた。
そして次の日の朝、照は由之真からお詫びのしるしに綺麗な勾玉を贈られて、おでこの痛みは吹き飛んだ。照が真由に泣くほど叱られたのは、後にも先にもそれきりだったが、その一度きりの冤罪の思い出が胸を熱くして、照はその熱を由之真にぶつけた。
「…ダメ!一生許してあーげない!マジで痛かったんだから!」
由之真はきょとんとして、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべながら愉快そうに言った。
「……じゃあ、許さなくていいから、あの玉返して」
「ダメに決まってるっしょ!一回貰ったら私のもん!フフッ…もう寝よ、明日は長いし…おやすみ」
「…おやすみ」
(……)
とは言うものの、照はすぐには眠れずぼんやり天井を見つめながら、あることを思い出していた。それは真由の病状に関することだが、ことが少々複雑な故にスーパーの駐車場では容易に話せなかった、真由の奇妙な片頭痛のことだった。
記憶障害とほぼ同時期に発症したその片頭痛は、徐々に悪化する発作のトリガーが『由之真との対面』でありながらも、長期間対面を断つと再発し、且つその発作を鎮める為に対面が必要という、多分に精神的な症状だった。そしてこの症状は、在米中医師達から『BORN(bonds of remain neutral.=不即不離(即かず離れず)の絆)』と名付けられ、貴美達には母子の絆の表出に思えたが、叔母にとっては文字通り頭痛の種でしかないのでは?だから由之真と会いたくないのでは?と、照は時折懸念していた。
もっとも、この片頭痛は昨年暮れから徐々に緩和して、夏の対面では約四〇分間共に過ごせるまでに回復していたが、おそらく発作を気にしてか、黙々と書類に目を通す真由の姿を由之真も静かに見つめるだけで、結局二人が言葉と視線を交すことはなかった。そしてその時二人を別室で眺めながら、母子の絆が消え掛けている気がしたことをふと思い出した照は、そんなはずはないと心で強く否定した。
(……大丈夫……きっと……明日晴れるといいな……)
するとあのお見舞いの夏の夜、ずっと嬉しそうに料理をしていた由之真の姿が、まるでつい昨日のことのように目に浮かんできて、その暖かな記憶と共に照は静かに目を閉じた。
つづく