第二十四話 沢村の爽秋
一日曇っていた十月最後の金曜日、百合恵は帰りの会が終わるや否や新しい指導案を持って校長室へ向かっていたが、ふと職員室の前で柏葉に呼び止められた。柏葉の話は百合恵が十日掛けて作った御祭の記念アルバムが資料棚にないとのことで、百合恵は職員室にある自分のアルバムを渡してから応接室のドアを開けた。
「…あっと、失礼しました」
ドアを開けた瞬間に女性の声が聞こえて、百合恵は慌ててドアを閉めた。しかし、ドアの掛札は『来客中』になっておらず、ちらりと見えた着物の柄には妙に見覚えがあり、百合恵は少し考えてからドアをノックした。すると「どうぞー」と校長の気さくな声が返り、百合恵はドアを開けた。
「…失礼します。…あ、やっぱり!どうも、こんにちは!」と百合恵が頭をさげると、由之真の保護者である着物の女性はソファーからすっと腰を上げ、深々と頭をさげて言った。
「こんにちは……フフッ、見つかっちゃったわね。お邪魔してました」
その言葉にそこはかと無く疑問を感じつつ校長を見ると、校長は苦笑浮かべて百合恵の無言の問いに答えた。
「…石狩さんはね、今日は個人的な用件でいらしたのよ」
二人の関係を思い出した百合恵は、石狩由貴の訪問が由之真のことではないことに何故かほっとしつつ、「そうですか。では、ごゆっくり」とさがろうとした。しかし由貴は紅葉柄の可愛らしいバッグを手に取って、「いえ、もう帰るところでした」と校長に向き直り、また深々と頭をさげて言った。
「じゃあね章ちゃん。くれぐれも、よろしくお願いいたします」
校長は立ち上がり、これまた慇懃に頭をさげてから苦笑して答えた。
「承知いたしました!…では気を付けて、てっくんによろしく!」
そして由貴は廊下へ出たが、百合恵は正面玄関まで由貴を送りつつ、もし『てっくん』が石狩哲のことならば、自分が思っていたよりも校長と石狩家は親密なのかもしれないと感じた。由貴は特注の大きな草履を履いて、百合恵と会釈を交してから微笑んで尋ねた。
「…もう、聞かれました?」
「え?何でしょう?」と百合恵がきょとんと尋ねると、由貴は少し愉快そうに微笑んで答えた。
「フフッ、ごめんなさい!あの子が自分で言うから、もう少し待っててくださいな」
「…はあ、わかりました!」
そして百合恵は小首を傾げながら、再び校長室へと向かった。『身近な森林環境の観察』とその代替案を含めて四ページある指導案を校長がチェックしている間、百合恵はチェックよりも校長の机にある御祭の記念アルバムの方が気になっていた。指導案の全てに目を通した校長は、眼鏡を外して微温くなった緑茶を啜ってから棚に向かった。そして五年生の年間指導計画書を開き、もう一度百合恵の指導案を見てから言った。
「……どちらも特に問題はないし、振興課の許可はいらないでしょう。…でも主目的が観察なら、コマが足りない分を写真で補ったりはしないで、いっそ三学期の社会のコマを持ってきたらどう?」
提出したのは再来週の総合の指導案だったが、書いている内に三学期の社会の学習内容と重複していることに百合恵も気付いていた。しかし、教科が曖昧になると児童の混乱を招く可能性はあるが、むしろ社会と総合は統合した方が良いと思っていた百合恵にとって、校長の言葉は願ってもない提案だった。
「…はい。丁度前の時間が社会なので、昼休みを挟んで統合できれば良いかと思ってました」
それを聞いた校長は百合恵の思惑を見抜きつつ、長袖長ズボンの百合恵を上から下まで見て尋ねた。
「それでよろしいでしょう。…でも、これから現地調査?」
「はい!今日と明日でコースを決めたいと思います」
校長は苦笑を浮かべながら、二つのアドバイスを送った。
「そう。…とにかく森には充分注意して、特に蜂とマムシがいた場合は即中止です。それとね、授業を遠足にしないように気を付けて」
「はい!」と答えて、百合恵はすぐに指導案を受け取り校長室を出たかったが、案の定校長は御祭の記念アルバムを拾い上げて言った。
「これ、見させてもらいました。さすが櫛田先生、大変良くできてます!」
「…はあ、ありがとうございます!」と、頬を染めつつアルバムを受け取ると、校長は惚けた声でついに百合恵の懸念を切り出した。
「ところで……中学部でちょいと小耳に挟んだのですが、日曜は何やらみかど屋に一泊なさったとか…」
いずれバレるとは思っていたが、百合恵は別な意味で顔を真っ赤に染めながら、「…あー、はい。その…申し訳ありません!」と真顔で頭をさげた。すると校長は、苦笑しながら手を振って言った。
「フフッ!そういう意味じゃないのよ。勤務外だし、みかど屋は昔民宿だったし、子供達に悪影響さえなければ問題ナシです。…今回はね!」
「は、はい!以後、重々気を付けます!…それでは、失礼します」
「はい、気を付けてね」
むしろやっとバレて気が楽になっと思いつつ、校長室を出た百合恵は火照った顔をアルバムで扇ぎながら真っ直ぐ宿直室に入った。そして今朝の内に用意しておいたデイパックを背負い、膝丈の長靴を履き、軍手をして帽子を深々と被り、「…よしっ!」と気合いを入れてから畑へと向かった。
金曜は照の部活日であり、畑で照を待つ由之真に見られることを百合恵は覚悟していた。しかし畑に由之真の姿はなく、百合恵は微かな違和感を覚えながら秋色に染まった北の森に足を向けた。そしてまず森に入りやすい場所を探しつつ北東の檜林まで歩き、見当をつけていざ森へ入ろうとしたが、薄暗い森の奥を見た瞬間足が止まってしまった。
実のところ、森に入るのが少々不安だった百合恵は、畑に由之真がいたら連れて行こうかとすら思っていた。しかし、それではみんなを驚かすというささやかな企みが潰えてしまうので、意を決してもう一度木立の間を見据えた。そしてふと思い立ち、振り返って杏子の木に向かって二回柏手を打つと、森から穏やかな風が吹いてきた。
「……」
その風を吸い込んだ瞬間、この冒険を図書室で思い付いた時のワクワクが胸に戻り、百合恵はその風に向かって颯爽と歩き出した。
一方その頃由之真は、駐車場で別れたはずの香苗達と共に家庭科室にいた。香苗は黒板に、
ミ マフラー
美 ぬいぐるみ
か 手打そば
ヤ
と書いてから由之真に尋ねた。
「…ヤマっちは?」
由之真はきょとんと黒板を見つめて、たっぷり五秒考えてから「…花」と答えたが、すかさず路子が素っ気なく言った。
「あー、花は毎週持ってくるじゃん。八岐が」
「そーだよね。お料理だっていつもお弁当食べてるし…」と美夏が小首を傾げたところで、香苗が腕を組みながら提案した。
「…じゃあやっぱりさ、みんなで一個にしようよ。先生のプレゼントだってみんな一緒だし」
「あー…やっぱその方がいいか」
「うん、みんなで作った方がいいね。だって八岐くん編み物できる?ぬいぐるみとか作ったことないでしょ?」
由之真は藁で人形を作ったことはあったが、それはとてもぬいぐるみと呼べる代物ではないので正直に答えた。
「…うん」
「あー、じゃあ使う物とかは?」と路子が尋ねると、由之真は頭に浮かんだ物を素直に答えた。
「…竹籠なら作れるけど」
「タケカゴって、竹のカゴ?」と香苗がきょとんと繰り返すと、由之真は苦笑して答えた。
「うん。でも家に沢山あるし、先生がもらってもあまり使い道ないと思う」
「…確かにあんま使わないかも」と、路子は自分がもらった場合を想定したが、美夏は竹籠を想像している内に閃いた。
「…あっ」
全員が一斉に美夏を見つめ、美夏は路子を見て言った。
「…バックは?トートバックとかなら、難しくないよね?」
「あー、トートか。…それなら表にバースデーキルト縫ったりできるな」
「バースデーキルトって?」と香苗が尋ねると、路子はポケットから財布を出した。そして財布の中央に縫われた幾何学的で可愛らしいパステル模様を指差して、微かに頬を染めながら母親に教わったことを話した。
「……こーゆーパッチワーク。バースデーパターンって、一年分のパターンがあるのさ」
「へー!それ誕生日のマークだったんだ!なんかイイじゃん!」
「うん、いいよね!パッチワークなら八岐くんにも縫えるよね?」
「…うん」と由之真が頷き、斯くして来月の第二土曜日に誕生日を迎える百合恵へのプレゼントは決定したが、香苗達にとっての問題はプレゼントの選定よりも次の議題だった。
「うーん……やっぱりロッカーかなぁ…」
「…それか車の上か、…中は無理だし」
「でも雨だったら?先生歩いてくる時もあるし…」
「うーーん……」
去年香苗達が百合恵に傘をプレゼントした時、百合恵はもちろん大喜びで驚いた。しかしその時百合恵は、今後はお金を掛けないプレゼントにして、先生の誕生会は必要ないと申し出た。それは香苗達の誕生日がそれぞれ大型連休や長期休暇中で、自分だけ学校で祝ってもらうことに気兼ねしたからだが、当然ながら香苗達は、年に一度しかない学校での誕生会を奪おうとした百合恵に反発した。
そして結局百合恵の誕生会は継続され、今年は丁度土曜の登校日ということで、授業終了後に家庭科室でケーキを焼いて食べることとなった。そこで香苗達は、先月末の無念を百合恵の誕生会で晴らすことにしたが、プレゼントを渡す方法で驚かすまでは決まったが、どう渡すかが難問だった。
香苗は眉間に皺を寄せ、一つもアイデアを出さない由之真を睨めつけて言った。
「…ヤマっちも何か考えてよね!」
すると由之真は、一度窓に目を向けてから静かに答えた。
「宅配便とかで、家に送るのは?…」
「それじゃ先生見れないじゃん。やっぱ見ないと…」と言い掛けて、由之真の答えに一抹の不安を覚えた香苗は、まさかと思いつつも慎重に尋ねた。
「…そーいやヤマっちさ、先生の誕生日……大丈夫だよね?」
その瞬間美夏と路子も由之真を見たが、残念ながら由之真は一度目を落としてから香苗の目を見て、前回と同じ轍は踏まぬように答えた。
「……ごめん、十日から十二日まで東京に行くから…」
(!)
香苗達が由之真に大事な当てを外されたのはこれが三度目だが、今回は別だった。由之真が東京へ出かける理由は一つであり、香苗は落胆するより安堵しながら嬉しげに言った。
「なーんだ!そーゆーのは先に言ってよ!ヤマっちいっつもちょっと後で言うんだから!」
聞かれもせずに二週間先のことを話すのは至難の業だが、自分が言葉足らずなのは確かなので、由之真は素直に頷いた。
「…うん、ごめん」
そしてこの時、楽しいことの為なら転んでもただでは起きない香苗が閃いた。
「…そーだっ!…じゃあヤマっちさ……」と香苗が由之真の耳に何かを囁くと、由之真は無言できょとんと頷いたが、路子は苦笑して尋ねた。
「あー、なんで私らにも秘密なのさ?」
「ハハッ!」
森に入った百合恵は、まず藪を漕ぎながら二十メートル程雑木林を突き進み、左前方に見えた空間へ向かった。そこには蛇行しながら東西へのびる道のような窪みがあったが、最近人が歩いたような跡はなかった。
(…獣道?…なわけないか…)と思いつつ、黒い小さなドングリをつけた細長い葉の木に黄色いビニールテープを巻き付けてから、図書室で見つけた古い地図のコピーをウエストバッグから取り出し、取り敢えず百合恵はタロ沢が流れている西へ進んだ。そしてすぐに出会った立派なクヌギをデジカメで撮ってから、クヌギの裏手へ回ろうとした時だった。
「…!?」
百合恵は思わずクヌギに隠れて、辺りを見回してからもう一度その光景を見た。
(……な、何?)
クヌギの西側の落ち葉には直系二メートル程の白い輪があって、何故こんな森に円が書いてあるのかと不気味に感じたが、それはよく見ると笠がほんのり桃色のきのこの連なりだった。百合恵は恐る恐るきのこの輪に近づき、生まれて初めて見る不思議な光景にしばし目を奪われた。
(……これは…ビックリね……)
後に百合恵はそのきのこがサクラシメジで、きのこの輪が『菌輪』という、容易には見られない『フェアリーリング』とも呼ばれる現象であることを由之真の本で知るが、今はともかくデジカメを構えた、その時だった。
「…!」
何かが液晶をさっと横切り、百合恵はリスかと南へ目を向けたが、そこにあった倒木の元へ思わず走っていた。倒木には大小合わせて十数個の黒っぽいきのこが生えていたが、それは百合恵にも馴染みのあるシイタケだった。しかし手の平より大きな笠のシイタケは初めてで、百合恵はこれをみんなに見せたらと思いつつほくそ笑んだ。そして更に倒木の向こうに黄色いきのこの輪を見つけたが、その更に向こうにもきのこらしき白い点々が見えた。
(……)
きのこ採りに来たわけではないので、百合恵は少し落ち着こうとゆっくり辺りを見渡した。すると少し開けた場所に毬栗が見えたが、その栗は何者かに食い散らかされていた。そしてその傍にイノシシらしき足跡を見つけた時は、この森が本当に豊潤な森であることに心から感謝しつつ、きのこや動物の足跡を夢中になって撮った。
しかし、授業の目的は身近な森林の観察であり、百合恵は太い樹木の位置をメモ帳に記して、そこかしこに落ちている様々なドングリを撮りながら先へ進んだ。ところがすぐにあけびを見つけて、無意識に手を伸ばしていた。
(……はっ!?危ない危ない!)と、すんでの所で思い止まり大事な教材を採らなくて良かったと胸を撫で下ろしつつ、とにかく授業まではと堪えながら歩いていると、微かな水音が耳にそっと触れた。
(……丁度いい感じね…)
腕時計を見ると宿直室を出てから既に約三〇分経過していたが、ここまでなら一時間の授業内に往復できると見当をつけて、百合恵は少し戻ってヤブツバキに黄色いテープを貼ってから沢へ向かった。マムシはよく沢にいると言われるため、逸る気持ちを抑えつつ足下を見ながら慎重に沢へ降りた。そして沢に降り立った百合恵は、思わず独り呟いた。
「……これがタロ沢…」
沢の幅は約二メートルで流れの幅は一メートルもないこぢんまりとしたタロ沢は、とてもあの凶暴な鉄砲水になったとは思えぬほど清らかで可愛らしいせせらぎだった。百合恵は軍手を外して沢を跨ぎ、清流を手で掬って冷たい水の匂いを嗅いだ。そして水を啜ってみると、正直味はよく分からなかったが、とにかく冷たくて美味しいと思った。
(……)
予定ではここから真っ直ぐ沢を下り、名合の沢と合流する地点までが今日の冒険のゴールだった。しかし、二〇メートル程上流にある大きな岩を見た途端、どうしてもその岩に登って向こう側を見てみたい衝動に駆られた百合恵は、香苗達もそう思うかもしれないと感じてポケットからストップウォッチを取り出した。そして美夏の歩みを想定しながら、ゆっくりと沢を登った。
(…よしっ!)
岩は肩ほどの高さで、これなら周りの岩を伝って香苗達も登れると踏んだ百合恵は、思い切って傍の石に右足を掛けた。そして次の石に左足を乗せて、体重をかけた時だった。
「…っと!」
右足の石がぐらりと後ろに揺れて、百合恵は右足を離して前のめりになりながら岩に両手をついて踏ん張った。しかしこの体勢では岩に登れず、一旦降りて再度チャレンジすることにした。この時百合恵は、沢は浅いし濡れることはないだろうと岩を突き放して後ろに飛び降りた。ところが確かに水深は十センチ足らずだったが、水の中には良く滑る丸い石があった。
「…ふわっ!?」
左足を前に滑らせた百合恵は、咄嗟に上半身を捻って辛うじて尻餅だけはつかずには済んだが、そのまま水中へ手と膝をついてしまった。
バシャッ!
「……フフッ、フフフッ!」
百合恵はすぐに立ち上がり、びしょ濡れの袖と膝を見て独り笑ってしまったが、この体たらくを誰かに見られなくて良かったと思いつつ、どんな小さな沢でも油断は禁物と肝に銘じながらもう一度岩を睨めつけた。そして今度は首尾良く登頂して、ついに岩の向こう側を見渡すことができた。しかし、景色は両岸に色づきはじめた双子の楓が美しい以外は下流と似たようなもので、百合恵が楓を撮ってから降り口を探そうと足下に目を向けた時だった。
(……?)
羊歯に覆われて気付かなかったが、北西から岩の下に流れ込む小さな支流が見えた百合恵は、その支流を目で辿った。するとすぐに白い流れが目に留まり、一旦ストップウォッチをメモリーしてから少し考え、またストップウォッチを押して岩の向こう側へ慎重に降りた。
ゆっくり支流を登ると、支流は左へ大きく曲がり十メートルほど進んだ先に一メートル程の細い滝があった。その滝の発見だけでも充分だが、岩の上から見た流れとは違っていて、更に奥へと進もうとその滝を上がった瞬間だった。
(…!)
それはまさしく百合恵が岩から見た白い流れだった。流れはさらさらと鳴きながら、約十五メートル北の苔むした斜面を稲妻形に流れ落ち、百合恵は足下に注意しながら斜面にそっと近づいた。そしてデジカメを構えたが、シャッターは切らずにデジカメを下ろして斜面を見上げると、斜面の上には頭ほどの白い石があった。
「……」
斜面は段になっていて無理すれば登れそうな気がしたが、自分にこの美しい水苔を踏む勇気はないと思うや否や、百合恵は支流を下って一度滝で振り返り、もう一度白い流れを目に焼き付けてからタロ沢へ戻った。そして森から沢へ降りた地点でストップウォッチを止めると、岩に登るまでは約五分で、トータルでは約十八分掛かっていた。
(……岩までは大丈夫ね…)
もちろん百合恵は、あの白い流れと白い石をみんなに見せたいと思った。しかし、それではタロ沢から北の森に入って畑へ抜けるという二時間目のコースに支障を来す為、あの斜面の披露は次の機会に回すことにして、ストップウォッチを押してタロ沢を下った。
タロ沢の下流は美しく歩き易かったが、それでも樹木の写真を撮りながら名合の沢に着くまで約一〇分掛かった。しかし、これなら登りを考慮しても余裕をもって授業内に収められると考え、百合恵は大冒険の余韻を噛み締めつつ意気揚々と駐車場の方へ目を向けた、その時だった。
(…!?)
学校の駐車場から出てきた照と由之真を見た瞬間、百合恵は一時固まってからキョロキョロと身を隠す場所を探したが、遅かった。照は由之真に顔を向けていたが、由之真が明らかに自分を真っ直ぐ見ていることに気付いた百合恵は、内心観念しつつそ知らぬ顔で歩き出した。
「あっ、先生!…?」
頑丈そうなデイパックを背負い、冬にしか履かない膝丈の長靴と軍手に帽子という姿だけでも充分妙だったが、さすがに両袖と両膝を濡らした百合恵を無視できなかった照は、容赦なく心配そうに尋ねた。
「…どうしたんですか?」
百合恵は歩みを止めず、にこやかに答えた。
「うん、…ちょっと調べごと!気を付けて帰ってね!」
これで切り抜けたはずだったが、「さよーならー!」と返したのは照だけだった。
「…先生」
(!)
百合恵は立ち止まり微笑んで振り返ると、由之真は百合恵に歩み寄り、真顔で言った。
「…来月の十日から十二日まで、母さんに会いに行こうと思います」
(!?)
思いも寄らぬ言葉に驚きつつも、百合恵は照の微笑みを見てから尋ねた。
「……えっと、十日から十二日って……金曜から日曜ね?月曜は登校できるの?」
「はい、日曜日の昼に帰ってきます」
「そう!わかりました!」と微笑んで頷きながら、百合恵はその三日間にあるイベントを思い出していた。しかし咄嗟に浮かんだのは香苗達のことで、これは必ず一波瀾起ると思うと同時に尋ねていた。
「…でも、みんなには言った?」
すると由之真は、まるで百合恵の懸念を察したかように苦笑して答えた。
「…はい、言いました」
百合恵は胸を撫で下ろしつつ、「そう!良かったわ!」と思わず本音が出たことには気付かず嬉しげに続けた。
「あっ、そうそう!八岐くん、明日きのこの本貸して欲しいんだけど、いい?」
「はい、持ってきます」
「ありがとう!じゃあね!」と今度こそにこやかに別れ、百合恵は早速職員室に戻って指導案を若干手直ししてから帰路についた。そしてその夜ベッドの中で、(どうか再来週の授業まで、あのきのことあけびが採られませんように!……あと絶対そんな夢を見ませんように!)と強く願ってから眠った。
百合恵は翌日の午後も森へ入る予定だったが、二日続いた雨のせいできのこ達には会えなかった。しかし十一月が始まった日、百合恵は帰りの会でついに発表した。
「それじゃあ最後に、…来週の社会と、総合の時間について連絡します」
時折社会と総合の時間が入れ替わることがあり、みんなは特に構えず続きを待った。すると百合恵は、一旦校庭を見てから張りのある声で一気に言った。
「…えー、来週の総合は社会の時間を使って、全部で三時間の授業にします!そして最初の二時間は、身近な森林環境を観察します。観察する森は学校の裏山です!」
「……」
みんなは揃って廊下へ目を向けてから、香苗がきょとんと尋ねた。
「…裏山って、北の森?」
香苗達の反応が薄いことを予期していた百合恵は、用意していた言葉を微笑んで言った。
「そーです。北の森はね、古い地図では沢村の森って言うらしいけど、みんなはあの森に入ったことある?」
香苗は軽く首を横に振ってから、「…マムシいるから入っちゃダメって、一年の時に言われたよね?」と路子に尋ねると、路子は「うん」と小さく頷いてから美夏を見たが、美夏はきょとんと小首を傾げた。しかし、香苗の言葉を就任直後に校長から言われていた百合恵は、満足そうに大きく頷いてから本題に入った。
「…そうね。先生もこの学校に来た時にそう言われました。…でも本当は、駄目じゃないの!」
「?」
百合恵は腰に手を当て、一人一人を見渡して言った。
「もちろんマムシは怖いけど、みんなもう五年生だし、きちんと準備して山の約束を守れば大丈夫!それにね…」
焦らすつもりはなかったが、百合恵は森の方へ目を向けてからさも愉快そうに言った。
「先生この前探検したんだけど、凄い森だったわ!」
「えっ!?どんなだったの?マムシいた?」と、香苗が席から勢い良く立ち上がったところで今回の発表に満足しつつ、百合恵は意地悪そうに口元を歪めて答えた。
「マムシは全然いなかったけど、どんなだったか言っちゃってもいいの?」
「あっ!言っちゃダメ!絶対言わないで!」と香苗は首を振り、嬉しそうに全員とタッチをした。
実のところ、路子と美夏は噛まれたら死ぬと教えられたマムシが怖くて、山は好きだが少々不安だった。しかし、全然いなかったという百合恵の言葉を素直に信じて、それぞれ来週の探検に思いを馳せた。元々山好きな由之真は、先週の百合恵の様子やきのこの本のことに合点が行ったこともあり、愉快そうな目で百合恵を見た。百合恵はそんな視線に気付いていたが、とにかくみんなの楽しみが作れたことに安堵しながら締め括った。
「それじゃあ来週も連絡するけど、水曜までに厚手の長袖長ズボンと、学校指定の雪長靴と雨ガッパを用意してください!一つでも忘れたら中止です!」
「はーい!」
そして木曜を経て三連休に入り、香苗達は映画を見たり読書をしたり、せっせとトートバッグ作りに勤しんだり、百合恵は教員会に出席し、日曜はきのこ達に会いに出掛けたりとそれぞれが有意義に連休を過ごしながら週が開けて、ついに探検の日がやってきた。
澄み切った秋空の下、百合恵は鮮やかに染まった森の入り口で立ち止まり、人差し指をピンと立てて言った。
「……もう一度確認します!香苗ちゃん、一番大事なことは何でしょう?」
「足下をよく見て、ゆっくり歩くこと!」
「はい!じゃあ美夏ちゃん、授業の目的は何でしょう?」
「森をよく観察することです!」
「はい!じゃあ八岐くん、きのこがあったらどうしますか?」
「…観察します」
「はい!それでは森に入ります!」
「おーっ!」
そして森へ入って五分後、香苗達は百合恵のレクチャーを受けながら、メモ帳に木の名前を書いていた。
「…次はあの大きな木。あの木は何でしょう?」と百合恵がクヌギを指差すと、香苗は元気な声で答えた。
「ドングリの木!」
「そーです!名前はクヌギ、…夏はカブトムシが集まったり、秋はリスがドングリを採りにくる木ですが、人にとってはどんな木なのか後で調べましょう!」と説明しつつクヌギに辿り着いた瞬間、香苗は路子の肩を揺すった。
「…っ!…ミチミチ!」
「?……っ!?…なんだ?…」
期待通りに見つけてくれた香苗達に、百合恵はほくそ笑みつつ早速説明しようとした。しかし無邪気な美夏が、その仕事を奪った。
「あ!アレってきっと妖精の輪っかだよ!私本で見たことある!」
(……)
「妖精の輪っか?凄いじゃん!」と香苗達は一目散にきのこの元へ走ったが、百合恵は気を取り直して言った。
「…その通り、それはフェアリーリングとも言われる現象です。でも山のお約束その二!山でしゃがむ時は、必ず周りを良く見てからしゃがむこと!」
「そーだった!」と香苗達は慌てて立ち上がって辺りを見渡したが、すぐに路子が驚きの声をあげた。
「おっ!…アレなに?」
「?…うわでかっっ!!」
香苗達は巨大シイタケを発見したが、百合恵と由之真が追い付く前に「あっ!あっちにも!」と新たなフェアリーリングを見つけ、百合恵の想像以上にはしゃぎ回った。百合恵はあと三本の樹木を説明してから自由観察時間にする予定だったが、説明は後回しにして少し小高い場所に立って声を張った。
「はい、しゅーごーっ!」
そして百合恵は路子にデジカメを手渡し、腕時計を見て言った。
「それでは今から十五分、一人十枚まで、自分が気に入った木やきのこの写真を交代で撮りましょう!…それから一人三〇個!穴が開いてなくて、なるべく違う種類のドングリを拾いましょう!先生が見えない場所には行かないで、しゃがむ時は気を付けて!」
「はーーいっ!!」
みんなは思い思い木やきのこを撮って、互いも撮り合った。そして、高い木の枝にいた二匹のリスの撮影に成功した路子は、その功績を称えてリス見っけダービーに二ポイントが付与され、現在八ポイントで二位の香苗に並んでしまった。
「ミチスゴっ!ヤッタじゃん!」
「いーなーっ!路子ちゃん、後でリスの写真ちょうだいね!」
顔を赤らめ無言で頷いた路子は、あまりの嬉しさにその後しばらくにやにやしていた。香苗達が騒いでいる間、百合恵と由之真はそれぞれドングリを拾っていたが、ふと由之真が立ち上がって地面を凝視していることに気付いた百合恵は、まさかマムシかと気を引き締めて由之真に近づいた。
幸いにも由之真が見ていたものはマムシではなかったが、微動だにしない由之真に何かを感じた百合恵は慎重に尋ねた。
「……八岐くん、このきのこ知ってるの?」
由之真はきのこから目を逸らさずに答えた。
「はい。ホンシメジだと思います」
「!…ホンシメジって、あの…マツタケより美味しいきのこ?」
みかど屋の裏メニューで一度食べた切りだったが、その名前はさすがに百合恵も知っていた。由之真はようやく百合恵に顔を向けて、苦笑気味に答えた。
「…はい。美味しいきのこです」
(…やっぱり採りたいのね…)
百合恵は腕を組み、眉間に皺を寄せてホンシメジを見下ろした。この授業はあくまでも自然の観察力を深めることが主目的であり、後の授業に使うドングリとあけび以外は採らない予定だった。それ故森へ入る際に釘をさしたのだが、百合恵は気持ちが揺らぐ前に心を鬼にして小声で言った。
「…八岐くん、今は授業中だから……放課後に先生とまたきましょう」
すると由之真は、嬉しげに微笑んで答えた。
「…はい。ありがとうございます」
百合恵は放課後も五時までは勤務時間だが、自分は授業の写真を撮って由之真がきのこを採る分には問題ナシかと思いつつ、取り敢えず足下のドングリを拾った。
そしてみんなは樹木の説明を受けながらあけびを採り、ヤブツバキまで来たところで百合恵が言った。
「はい、じゃあみんな耳を澄まして…」
「……あっ!タロ沢?」と、微かなせせらぎに気付いた香苗に、百合恵は大きく頷いてから答えた。
「そう!このすぐ先に午後に観察するタロ沢が流れていますが、そろそろ学校に戻って給食を食べましょう!」
「はーーいっ!」
香苗達は帰り道もゆっくりと観察しながら歩き、美夏がイノシシの足跡を見つけて驚きつつ学校へ戻り、午後の探検に向けてもりもり栄養を補給した。
「うーん……美味しいけど、やっぱりあけびって不思議な味だね…」
美夏は去年一度食べたあけびの味を思い出しながら、もぐもぐと口を動かした。
「あたしはこの味大好きっ!もっと食べたいくらい!」と、香苗はティッシュに種を出してから百合恵に尋ねた。
「先生、この種畑に蒔こうよ!」
(!)
香苗の単純な思惑を察した百合恵は、一瞬目を丸くしてから苦笑を噛み殺して真面目に答えた。
「……残念だけど、あけびは実がなるまで何年も掛かるの。それにつる性の植物だから畑は無理だけど、烏瓜のフェンスの近くなら、種を蒔いてもいいと思うわ」
「へー、あけびって何年も掛かるんだ…」と、香苗が空になったあけびを見つめて妙に感心していると、その姿を落胆していると思った路子が言った。
「あー…また採りに行けばいいし」
「…そーだね!先生、また行くんでしょ?来年も!」
さすがに一年後のことは約束し兼ねたが、取り敢えず百合恵は思ったことを素直に答えた。
「もちろん!一回見ただけじゃただの遠足になっちゃうし、これから二ヶ月に一度は森の変化を観察しに行きます!」
しかし、その言葉が二ヶ月毎の遠足の約束にしか聞こえなかった香苗達は、「イエーイっ!」とタッチを交して喜び合った。
(……まあ、いっか)
何であれ楽しもうとする香苗達をそうさせた張本人は、軽く吐息をついてから黙々とあけびを食べる由之真を見た。すると由之真は、種を出してから百合恵に尋ねた。
「…種と皮をもらっていいですか?」
途端に香苗が嬉しそうな顔を由之真に向けたが、百合恵も何故か嬉しくてすぐに答えた。
「ええ、もちろん!でも皮はどうするの?」
「油炒めか、天ぷらにします」
平然と答える由之真がなんだか可笑しくて、百合恵は思わず「ふっ」と少し吹き出してしまったが、香苗は我慢できなかった。
「フハハッ!さすがヤマっち、何でも食べるし!でもあけびって皮も食べられるんだ!美味しいの?」
由之真は軽く小首を傾げてから、苦笑して答えた。
「…お爺ちゃんとお婆ちゃんは美味しいみたいだけど、苦いと思う」
「ハハッ、そっか!ヤマっちが苦いならチョー苦いね!ハハハッ」
そして昼休み、香苗達は百合恵に見られぬよう家庭科室で秘密の会議を開き、百合恵はそれに何となく気付きつつそ知らぬ体を装いながら清掃の時間が過ぎて、みんなは元気に手を振ってタロ沢へと向かった。
「……おーっ、チョー水綺麗じゃん!」
「雨で濁らなければ、タロ沢の水は飲めます!でももう少し上流に行ってから飲みましょう!」
「はーいっ!」
名合の沢は幾度となく観察して泳いだこともあったが、タロ沢の入り口の木に近所の人が書いた『まむし注意』というな不気味な古い看板が掛けてあったので、香苗達は一度もタロ沢に入ったことがなかった。そしてそれは先々週までの百合恵も同じであり、だからこそ百合恵は図書室で沢村山の地図を見つけた時、この授業を思い付いた。
児童達にとって未整備の森が危険なのは当然だが、百合恵は『マムシがいるから』という半分脅すような理由で森に入ることを禁ずるのは中学年迄と思っていた。危険を理解できる高学年ならば、マムシがいる森はけして怖いだけではなく、豊かな森であることを実感できると考えたからこそ、百合恵は生まれて初めて単独で森に足を踏み入れた。
そして今タロ沢をゆっくりと登りながら、百合恵は水の匂いを吸い込んでから声を張った。
「あの赤い紅葉は楓の仲間のイロハ紅葉。一番真っ赤になる紅葉です!向こうの高い木は学校の前にも立ってる榛の木。榛の木はとても丈夫な木で、昔は皮や果実で糸を染めたそうです!」
みんなは鮮やかなタロ沢の木々を見上げては、それぞれ樹木の名前と特徴をメモ帳に書き留めた。そして百合恵が最初に降り立った地点に近づいた時、意外に目敏い美夏が小さな淵の底で揺れる大きな影を見つけた。
「……あっ!さかなさかなっ!」
「…えっ、どこどこ?……うわでかっ!!」
森林の観察は瞬時にして大きな山女魚の観察になったが、香苗達がいくら騒ごうと悠然と漂う山女魚の背中を百合恵も熱心に観察した。そして山女魚に別れを告げて上流へ進み、大きな岩に辿り着いた瞬間、案の定香苗が百合恵に尋ねた。
「先生、登っていい?」
「ええ!でもその石は動くから、そっちの石から登って」と百合恵が答えるや否や、香苗はひょいっと岩を飛んで瞬く間に岩へ登り、次いで路子と美夏がそろそろと岩へ登った。しかし、由之は登らずに北西の白い流れの支流の方を見ていたので、百合恵はもしかしたら由之真があの斜面を知っているのかもしれないと感じた。
「先生、あっちには行ったの?」
香苗が上流を指差すと、百合恵は首を横に振ってきっぱりと答えた。
「沢のコースはここで終わりです!少し戻って、森を通って学校に戻ります!」
香苗はもう少し上流へ行ってみたかったが、また行けると思い直して元気よく「はーい!」と答えた。それからみんなは森を通り、路子が動物の糞を見つけたり、なんと美夏が既に一粒も無い山葡萄を見つけたりしながら畑へと辿り着き、誰一人怪我もなく無事に沢村の森の探検が終わった。
そして次の時間、みんなはドングリを洗って本や図書室のパソコンでドングリを調べて今日の授業が終わったが、百合恵と由之真がきのこを採りに森へ入ると聞いて、結局全員でもう一度森へ向かった。
「……八岐、これは?」
「シャカシメジ。大丈夫」
「…ヤマっち、これは?」
由之真は香苗に近づき、そのきのこを採って笠の裏を見てから答えた。
「……チチアワタケ。大丈夫」
「イエーイ!きのこゲーット!」
思った通り放課後はきのこ採り合戦になったが、それにしても百合恵は由之真のきのこの知識に舌を巻いた。あまりにも自信たっぷりに答える由之真に、「もしかして八岐くん、あの本のきのこ全部覚えたの?」と百合恵が尋ねると、由之真は苦笑しながら、「はい。でも写真と本物は違うから、迷ったら毒だと思ってます」と答えた。
百合恵はその言葉を信じることにしたが、他のきのこは採らずにホンシメジしか採らない由之真が不思議な気がして、みんなの写真を撮りながらそれを尋ねようかと思った。しかし、結局尋ねないまま学校へ戻り、そして次の日の放課後、百合恵が図書室へ向かっていた時だった。
「……やったーっ!カンセーっ!」という香苗の嬉しげな声を聞いた百合恵は、その声は聞かなかったことにして、図書室には入らずに慌てて職員室へ引き返した。
しかし百合恵の想像通り、家庭科室では百合恵の誕生日プレゼントが完成していたが、香苗は由之真を睨めつけて悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「……ヤマっち、後は頼んだよっ!」
「うん」と愉快そうに頷いて、由之真はバッグを背負った。
「じゃあねヤマっち!また月曜日!」
「八岐くんバイバーイ!お土産はいらないからね!」
「あー、気ぃ付けてな」
実のところ、由之真は畑に寄ってから帰ろうと思っていたが、そんな雰囲気ではないので「…うん、バイバイ」と言って家庭科室を出て職員室へ向かった。
「失礼します」
そして由之真は百合恵に近付き、静かに言った。
「…今日はもう帰ります」
水曜と金曜以外は特に帰りの報告は必要なかったが、いつも下校時間まで畑にいることが多い由之真は帰りの報告が習慣になっていた。そしてそれは百合恵も同じであり、百合恵はいつものように答えた。
「そう、じゃあ気を付けて、さようなら!」
「はい、さようなら」と言ってドアへ向かう由之真の背中を眺めながら、百合恵は我知らず声を掛けていた。
「……八岐くん」
「?」
きょとんと振り返った由之真に、百合恵は微笑んで言った。
「……いってらっしゃい。お母さんによろしくね!」
由之真は、薄く微笑みながら静かに答えた。
「…はい、いってきます」
由之真が職員室を出た後、百合恵はふと思い立って職員室を出て正面玄関から校舎を出た。そして駐車場を歩く由之真を眺めながら拳を握り締め、どうか悪いことが何もないようにと強く願った。すると由之真は不意に立ち止まり、樅のトンネルの方を見てからすぐに百合恵に顔を向けた。
(……)
二人は一時見つめ合い、百合恵が手を振ると由之真は右手を上げたが、その直後家庭科室の窓がガラッと開いて香苗の元気な声が響いた。
「ヤマっちーーっ!バイバーーーイっ!」
終わり