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とようけ!  作者: SuzuNaru
23/26

第二十三話 祭カブり日 後編

「安いよ安いよーっ!タダですよーーっ!」

「あー、どっちだよ」

「ハハッ、いーじゃん!タダなんだから!」と、上機嫌の香苗が笑って返した時だった。

「お嬢ちゃん、それちょーだい!」

 香苗はにやりと路子を見てから愛想良く答えた。

「まいどありー!一人一本でーす!」

「二人なんだけど…」

「まいどありー!」

 香苗が焼き鳥のつくね焼のような串焼を紙皿に二本のせると、お客は串焼を見ながら尋ねた。

「…これは何そばなの?」

「これが更科さらしなでこっちが梅そば!ちょい梅風味です!」

「へー!梅そばなんてあるの!どうもね!……あ、そっちも美味そう!お姉さんいい?」と、お客は手縫いの割烹着を着た路子に尋ねた。路子はほのかに頬を染めながら、「…どーぞ」と皿にパンプキンパイを二ピースのせた。

「ありがとうねー!」

 お客がにこやかにブルーシートへ戻ると、香苗は新たな串を熱い七輪の上に置いた。すると忽ち香ばしいそばの香が辺りに漂い、路子の食欲をくすぐった。



 百合恵率いる小さなシェフ達が調理を始めてから約三〇分、午後一時半を少し回ってようやく収穫祭が開かれたが、その時お客は昼食後に残った数名を合わせてまだ十五人足らずだった。小学部と畑の関係者だけで少なくとも三〇人は来ると見込んでいた香苗達は少し拍子抜けしたが、その一〇分後には嬉しい悲鳴をあげていた。

「ねえねえ、これなあに?食べていいの?」

「どーぞ!カボチャときのことチンゲン菜のピザです。一人一個です!」

「菜畑風アイリッシュシチュー?……肉じゃがじゃないの?」

「ラムの肉じゃがです。美味しいですよ!」

「これ、いいですか?」

「どうぞどうぞ!焼けてるのはどんどん食べてください!」

「ヤマっちコップとお皿持ってきて!割箸もね!」

「八岐くん、ついでにオーブン見てきて!あと穴開きお玉もお願い!」

「すいません、醤油は……」

「お醤油は……あった!あそこです!」

 中学部の演奏会が終るや否や保護者の半数がどっと傾れ込み、すぐにブルーシートは埋め尽された。そして二時を回る前に第一弾が首尾よく捌けて、一旦落ち着いてからそろそろ第二弾の準備に掛かろうとしていた頃だった。駐車場に停まった軽トラックの荷台から飛び降りた白い動物が目に入った瞬間、路子は叫んでいた。

「……パブロっ!」

「ワフッ!」

 夏の終わり頃から、由之真は時折休日にパブロを伴い畑に来ていたが、香苗達は大らかで賢いパブロとすぐに仲良くなった。特に犬好きの路子はパブロをかわいがったが、パブロも学校では子犬の匂いがする路子に一番懐いていた。しかし今は調理中で人も多く、残念ながらパブロのリードは樹に括られてしまったが、路子は後で自分が焼いたパンプキンパイを少しパブロに食べてもらおうと思った。

「田辺さんこんにちはーっ!」

「ほいこんちは!やってんねー!」

 百合恵は畑の功労者の一人に頭をさげて言った。

「いつも本当にありがとうございます。御蔭様で、大盛況です」

「いやいや、晴れて良かった!こんな来てんなら、もうちっと捕れたらよかった…」と微笑みながら、田辺さんは発泡スチロールの箱を地面に置いて香苗達に手招きをした。

「みんな、来てみ!」

「なになに?何持ってきたの?」

 香苗達が興味津々に箱を見つめると、田辺さんは悪戯っぽい笑みを浮かべて勢い良く蓋を開けた。

「…ふわぁっ!?」

「なっ、なになになにっ!?ヤダヤダ何アレっ!?」

 途端に葵達が奇声を発し、路子の後ろへ回って背中を押した。

「おわっ、お、押すなって!ヤダって!」

「フハハッ!」

 愉快そうな香苗の笑いで害は無いと判断して、路子は勇気を出してガサガサとひしめく不気味な黒い生き物をおっかなびっくり覗き込んだ。するとその中の二匹が素早く箱の内側を這い上がり、箱から飛び出して路子へ向かった。

「おわぁっ!?逃げた逃げたっ!こっちくんなっ!!」

「ちょっ!?きゃあっ!?」

「アハハハッ!!」

 路子と葵達は悲鳴をあげて飛び退いたが、その生き物を家の厨房でよく見ている香苗は、楽しそうにひょいと捕まえて言った。

「カニだよカニ!モクズガニ!何回かウチで食べてるじゃん!」

 しかし、カニの美味しさは知っていても調理法まで知らない路子は、みかど屋で食べた赤いカニが、この黒い毛が生えた不気味なカニと同じとは思えなかった。

「あー…アレ赤かったけど、それ黒いじゃん」

「カニって茹でるとみんな赤くなるのさ!」

「…マジかよ……タランチュラかと思った…」

「ハハッ!なんでタランチュラ持ってくるのさ!ハハハッ!」

「ハハハハッ!」

 路子は耳まで赤く染めながら自分も腹を抱えたが、普段冷静な路子の狼狽ぶりが可笑しくて、みんなが笑った。

「フフッ…でも凄いですね!こんなに沢山捕れたんですか」

 田辺さんは、真っ黒に日焼けした顔を綻ばせて答えた。

「フッフッフッ、ニ六匹っ!何匹か焼いてもいいし、あとはカニ汁がいい!…由坊、作るぞ!」

「はい」

 田辺さんは持参した大きなアルマイト鍋を二つ家庭科室に運び入れ、早速由之真と調理を始めた。その間に香苗はついに外でそばを打ち始め、演奏会の後片付けを済ませた中学部の生徒達が押し寄せて、最初のカニ汁ができる頃には一〇〇人近いお客によって、花壇のブロックが満席になっていた。

「……ふうっ!」

 滴る汗をタオルで拭い、えも言われぬカニ汁の香にも気付かずに、香苗は捏ね終えた円錐形のそばの固まりを真剣な目で見つめてから、「ふんっ!」と気合いを込めて両手でそばを押し潰した。そしてまな板に打ち粉を振り、まずは手で円形に拡げてから麺棒でそばをのばし始めた。

 この麺棒の扱いが難しく、丸くのばすことはできてもそれから『四つ出し』で薄く四角にのばし、その後『本延し』で更に薄くのばすことが最大の難関であり、とにかく香苗はいつも見ている祖母の姿をイメージすることだけに集中した。そしてのばしたそばをたたみ、こま板を当てて祖母から借りたそば包丁で切り始めた時、手に汗握って香苗の実演を見守っていた十数人の観客が拍手を贈ったが、その拍手は香苗の耳には届かなかった。

 香苗はそばを切り終えるなり煮え立つ由之真のパスタ鍋にそっと流し入れ、きっかり五〇秒経ってから井戸水でそばを洗い、もう一度丹念に洗ってから大笊に盛り付けて、家から持参した自家製のそばつゆをドンッ!と長机に置いて言った。

「…どーぞっ!」

 途端に観客が群がり、『水回し』からおよそ三〇分掛かった約五人前の手打そばは二分で笊から消えたが、観客は「美味しい!」とか「もうお終いなの?」などと感嘆しながら、一口ずつの手打そばに舌鼓を打ち、勝手にそば湯まで飲んでいた。そして、そばを啜った路子を香苗が無言で睨めつけると、路子は真顔でそばを飲み込んでから香苗の目を見て言った。

「あー……ビミョーじゃない」

「…フフッ……ふーーっ!……」

 水の用意に時間が掛かるので手打はこれでお終いだが、生まれて初めて一度に五人前のそばを打った香苗は、大きく息を吐いて額の汗を拭った。そして、こんなことを日に二度もしている祖母は本当に凄いと思いながら、少し不安だったそば打が終わってほっとした。

 しかし、その時はじめて美味しそうなカニ汁の香に気付いた香苗は慌てて鍋へ向かったが、時既に遅く鍋は空になっていた。香苗は寂しげな目を由之真に向けて、溜息混じりに呟いた。

「……あたし食べてないや……」

 すると由之真は優しげな笑みを浮かべて、「カニ汁はもう一つ作ってるけど…」と言ってから、愉快そうに小声で付け足した。

「……田辺さんが七匹とっといたから、終わったら先生の七輪で焼いて、みんなで食べよう」

「!!」

 香苗は忽ち目を輝かせて由之真の胸に拳を当てて、「あっ、忘れてた!」と自分のバッグから大きなタッパーを出して嬉しげに言った。

「じゃじゃーん!昨日思い付いて作ったんだけどさ、何だと思う?」

 由之真がタッパーを覗くと、大きめのつくね焼のような串が三〇本程入っていたが、ほのかなそばの香と、何種類かあることに気付いた由之真はすぐに閃いた。

「……レインボーそば?」

「当ったりっ!!ウチの新メニューの、レインボーそばたんぽ焼っ!」

(……レインボー…そばたんぽやき?…ってなに??)と、聞き馴れぬ響きに葵達はきょとんとしたが、香苗の新メニューが意外にも外れより当たりが多いことを知っていた路子は、眉を顰めながらも心で一本狙うことにした。

「先生っ!ここ使っていい?」

「ええ!火傷に気を付けてね」

 早速香苗は熱い七輪の網に数本置いて、時折筆でそばつゆを塗りながらじっくり焼いた。すると焼き鳥とは異なる香ばしい香が漂って、近くにいたお客が数人寄って物珍しげに尋ねた。

「…これってなあに?」

「レインボーそばたんぽ焼!これは茶そばと桜そば、こっちが柚そばと黒そばです!」

「へー、レインボーなの?……これいい?」

 香苗は満面の笑みを浮かべて、一番自信がある茶そばの串を渡して言った。

「まいどありーっ!一人一本でーす!」

 ほくほくのそばたんぽ焼をお客が頬張り、「……うん!ちょっともちっとしてて美味しいね!」と褒めると、最初に焼いた串は全てその場のお客達に攫われた。香苗が再度焼き始めるとまた一人、また一人と食い手が現れ、その場で食べてくれた人が「もう一本いい?」と尋ねると、香苗は愛想良く、「あとはそば処みかど屋の、夜メニューで注文してくださーい!」と答えて、百合恵と路子は改めて香苗の抜け目なさに感心しつつ苦笑した。

 そして残り僅かとなった時、途中から隣でパンプキンパイを配っていた路子がついに切り出した。

「あー……これと一本トレード。茶そばのやつ」

 香苗はにやりと微笑み、タッパーの蓋を閉めてから由之真の真似をした。

「……終わってからさ、後でみんなで食べよ!田辺さんがみんなのカニとってあるって!七輪で焼くんだって!」

「!……ラジャ」と路子はパンプキンパイを四ピース、ラップでくるんで自分のバッグに放り込んだ。そしてその直後に美夏と由之真がカニ汁二号を持ってきて、会場がまた盛り上がった。群がる客に香苗達が懸命にカニ汁をよそい、時刻は午後三時になろうとしていたが、プラスチックのどんぶりを百合恵に手渡していた由之真の背後にそっと忍び寄る二人の少女がいた。



「あっ、照ちゃんいたよ!……フフッ、ほら、鍋の近くで立って食べてる人!」

 ほぼ同時に気付いていた照は、見る間にどんぶりを平らげて百合恵にお代わりを差し出した築根を眺めながら、深い溜息を吐いて言った。

「はぁ〜……やっぱりお昼からずーーっといて、ずーーーっと食べてたんだ……」

「ハハハッ、食いしんぼクイーンだもんしょうがないよ!折角だし、私らもちょっと食べよ!」

「うん。フフッ、じゃあ折角だから……」と照は少女に手招きをして、二人は身を屈め人込みに紛れながら一旦校舎の方へ向かった。そして由之真達の背後に回り、香苗達に顔を見られぬよう俯きながら横歩きで近づき、あと三メートルの地点で少女がそっと由之真を見た時だった。

(…!)

 鍋の方から鍋の香ではない、微かに甘い花のような香の柔らかい風を感じた少女は、我知らず立ち止まっていた。そしてその瞬間由之真がゆっくり振り返り、それに釣られて振り向いた百合恵によって照のささやかな企みは潰えた。

「……あら、いらっしゃい!」

「あっ、照ちゃんだ!ヤッホー!」

「照さんこんにちはー!」

「ちはーっす」

 照はまた由之真にしてやられたと思いつつ、「…こんにちはーっ!」と香苗達に返してから少女に苦笑を向けたが、少女がじっと百合恵を見ているのですぐに紹介することにした。

「……ああ、櫛田先生!えっと…友達の優奈さんです!」

「……」

 しかし百合恵は答えず、優奈と同じような目で優奈を見つめ返し、一度照と由之真を見てもう一度優奈に目を戻して言った。

「……会ったこと……ないかしら?」

(…?……あっ!)と、照は咄嗟に由之真が落としたファックスを百合恵が拾ったことを思い出した。しかし、自分が社務所から送信したファックスに優奈の顔写真は無かったし、もし百合恵が内容を読んだとしても問題はないだろうと優奈を見ると、優奈も一度照と由之真を見てから百合恵に答えた。

「はい、私も……会ったことありますよね?」

(え?)

「ええ、そう思うんだけど……どこかしら?」

「どこかな?…」と揃って首を傾げた二人が少し可笑しくて、照は苦笑を浮かべて尋ねた。

「でも優奈さん、櫛田先生のこと知らないでしょう?櫛田先生も優奈さんのこと知りませんよね?」

「…うん」

 百合恵は頷き、その名前にも何か引っ掛かるが、もしかしたら互いにどこかで見掛けただけかもしれないと考え、右手を差し出し朗らかに言った。

「はじめまして!櫛田百合恵です!」

「はじめまして、小林優奈です!」と、優奈がその手を強く握って離した時だった。

(…!…あれ?…)

「…優奈さん?」

 突然目から溢れた大粒の滴を慌てて拭って、優奈は「ゴメン、ちょっと…」と言って後退りながら背を向けて校舎の方へ歩き出した。照はすぐに追い掛けたが、百合恵達は何が起きたのかわからずに、とにかくカニ汁をよそい続けた。

「……優奈さん?どうしたの?」

 優奈はハンカチで目を拭ってから、不安そうに覗き込む照に笑って答えた。

「わかんない。なんか急に…でも治まったみたいだから大丈夫!……なんでだろ?フフッ」

「…ホントに大丈夫ですか?」

 その笑顔に偽りは無いと感じた照は一応念を押したが、優奈は苦笑を浮かべながら明るく答えた。

「うん、ホントにもう平気!なんだかわかんないけど、ゴメンね」

「いえ……まあ、多分由ちゃんが関係してると思うけど、あとでお爺ちゃんに聞いてみますね」

 照は安心させるつもりで言ったが、先々週まで神中かみあたりだった優奈に不安は無く、それより気になる二つの内の一つを尋ねた。

「うん……でも、みんなヘンに思ったかな?」

 照は一時目を丸くして、愉快そうに笑いながら小声で答えた。

「フフッ、このまま帰ったら思うかもしれないけど、行きましょう!築根さんにみんな食べられちゃう!」

「うん!」

 百合恵は戻ってきた二人に早速カニ汁を振舞い、照は香苗達に優奈を紹介した。優奈と香苗達はすぐに打ち解けて、香苗達もカニ汁を頬張りながら和気あいあいと過ごした。そして、ぼちぼちお客が減り始めた頃に百合恵が切り出した。

「……よしっ、そろそろアイス出そっか!」

「おーっ、サンセー!」

「じゃあ、机の上を片付けといて。路子ちゃん運ぶの手伝って」

 百合恵は家庭科室の冷凍庫から製氷皿を取り出して、昨日路子と一緒に作った一口パンプキンアイスを二人で試食した。

「……うん、パーフェクツっ!バッチリ固まったわね!」

「んっ!」

 そしてこの時百合恵が何気なく、アイスを製氷皿からステンレスのトレイに出したことが運命の別れ道だった。アイスは製氷皿に入ったままの方が運び易いが、何となくトレイに山積みにした方が美味しそう見えると思った百合恵は、路子と二人で全てのアイスを大きな二つのトレイに移して言った。

「よしっ、行きましょう!」

 百合恵は意気揚々とトレイを持って歩き出し、路子はその後ろに続いた。そして短い坂を降りながら、あと五メートルで机に辿り着こうしていた時だった。

(……?)

 机の向こうには由之真と香苗がいたが、その向こうには照と優奈が、更にその後方にパブロと戯れる築根がほぼ一直線に並んでいるのが百合恵の目に入った。その時点で百合恵は何も意識していなかったが、ふと由之真が体育館の方へ顔を向けると同時に、由之真には背を向けていた照と築根とパブロも体育館の方へ顔を向けたので、百合恵は次の一歩に段差があるのを忘れて体育館に目を向けてしまった。

「……きゃあっっ!?」

「!」

「ほわっ!?」

 宙に舞う無数のパンプキンアイスに襲われた香苗は、叫びながらも咄嗟に持っていた大きな金ザルを前に突き出し、何も持っていなかった由之真はエプロンを両手で拡げた。

ガランガラン……

「……」

 時が止まったような静けさの中で、百合恵の足が躓き縺れた瞬間から全てを見ていた路子が声を張った。

「……ナイスキャッチっ!!」

「…イエーイ!取ったーっ!」

おおーーっ!

 転んだ拍子に百合恵が前へ放り投げたアイスは、奇跡的に殆どが香苗の金ザルに吸い込まれ、残りもほぼ由之真のエプロンに捕まり、地面に落ちたのはたった三個だった。香苗が得意満面に金ザルを高々と掲げると、見ていた者が香苗と由之真に拍手を送り、そして地面に呆然とへたり込んでいる百合恵を見て一斉に吹き出した。

「アハハハハッ!」

 それはけして嘲笑ではなく、奇蹟を成した二人への賞賛とアクシデント自体の可笑しさや、アクシデントの張本人に対する同情が入り交じった笑いだったが、百合恵の耳にはそう聞こえなかった。

(……)

 百合恵は無言でふらふらと立ち上がり、お尻についた砂を払ってゆっくり二人に近づき、一度横を向いて少し考えてから何とも言えない苦笑を浮かべて言った。

「……ありがとう。ホントにありがとう。……でもこの事は作文に書かないでね?……」

「フフッ」と由之真は愉快そうに頷いたが、香苗は首を激しく横に振って言った。

「無理無理無理っ!チョー書くしっ!!」

「ハハッ、私もー!」

「ハハハッ!」

 香苗が宣言した通り、後に百合恵は『ミラクルアイスパス事件』と路子に命名された自分の失敗談だらけの記念アルバムを渋々作ることとなるが、とにかく今は、もう二度と由之真の視線を不用意に追わぬよう肝に銘じつつ香苗が救ったアイスを頬張り、頃合いを見はからって締め括った。

「えー、……御蔭様で、料理は全て売り切れました!本日は本校初のささやかな収穫祭にお越しいただきまして、本当にありがとうございましたっ!」

 拍手が起こり、香苗達が揃って深々とお辞儀をしてから百合恵は続けた。

「……まだわかりませんが、もしまた開催することになりましたら、来年も、どうぞよろしくお願いいたします!」

 すると傍にいた築根が真顔で「先生、来年はお酒ありにしません?」と百合恵に申し出たが、真っ赤になった照が百合恵の代わりに憤然と答えた。

「なに言ってんの!学校でお酒飲んでいいわけないっしょっ!!」

「ハハハハッ!」

 斯くして、およそ六時間に渡る二つの御祭は無事に幕を下ろし、それは最後の照達を見送ってから後片付けを始めた時だった。

 仲村とブルーシートを畳み終えた百合恵は、次にカセットコンロを持って家庭科室へ向かった。そして家庭科室には上がらず、カセットコンロをドアの脇に置いた後、ふと顔を上げた百合恵の目に廊下側の窓の向こうを歩く由之真の横顔が映った。

(……)

 おそらくトイレだろうと思い、百合恵は次を運ぼうと踵を返した。しかし、その時不意に夢で見た由之真の後ろ姿が脳裏を掠め、微かな胸騒ぎを覚えた百合恵は家庭科室に上がった。

(……!)

 百合恵が廊下を覗いた時、由之真は校舎裏に顔を向けながら職員室の前を歩いていた。そして児童玄関から外へ出るのかと思いきや、児童玄関には入らずにそのまま真っ直ぐ東の出入口から校舎を出た。百合恵は何故声を掛けなかったのかと思いつつ、小走りに由之真を追い掛けた。



 校舎を出た百合恵は、誰もいない渡り廊下を見るなりまず校庭側の水道へ回り、素早く飼育小屋を覗いてから次に東の丘へ走った。百合恵は特に焦らず冷静に由之真を探したが、どうしてか由之真が校舎を出た時から東の丘へ向かったと予感していた通り、由之真はなだらかな斜面の中腹にある夏椿の前で、北を向いて佇んでいた。

(……)

 そこはかつて白い子猫を葬った場所で、百合恵は小さく安堵の息を洩らしてから無言で由之真に歩み寄った、その時だった。

「……!?」

 由之真の約十メートル先には三畳程の薄暗い空間があったが、そこに立つ黒い人影に気付いた百合恵は、無意識に由之真の前に立ちはだかっていた。そしてその人影を真っ直ぐ見据え、厳とした態度で可能な限り感情を抑えて言った。

「…失礼ですが、どちら様でしょうか?ここは学校の敷地内です」

「………」

 人影は答えず、百合恵がもう一度尋ねようと思った時にゆっくりと踏み出した。そして木陰から出た人影の顔が露わになった瞬間、百合恵は息を呑んだ。

(!?)

 年齢は照と、背は路子と同程度に見えたが、髪は漆黒のボブカットで、身体にフィットした黒いTシャツに少し大きめのジーンズと黒いスニーカーを履いた異様に色白いその人物の容貌は、一瞬百合恵の頭を混乱させた。細くしなやかな体つきと男女が判別できない中性的で端整な顔立ちは、一目で由之真との血の繋がりを確信させたが、百合恵が最も驚いたのは、もし姉だと紹介されたら自分でも信じてしまうくらい由之真とよく似ていたことだった。

 しかし、似ているのは顔と性別が曖昧な点だけだった。その人物はピンクの風船ガムを膨らましながら両手をポケットに入れたまま、だらけた歩き方でおよそ五メートル手前で立ち止まり、ガムを地面に吐き捨てた。

(……)

 動物達が眠る東の丘は、特に百合恵達にとって神聖な場所だったが、百合恵はこの場に香苗達がいなくてよかったと思いつつ、由之真とは似ても似つかぬ目の前の人物を冷静に見据えた。そして二人は一時見つめ合い、それは不意にその人物が右手で髪を掻き上げた直後だった。

パンッ!

「!?」

 右手を下ろすと同時に左手を振り上げて、縦に手を叩いたのは見えた。しかし、音と共にその人物が陽炎のように揺らいだ気がした瞬間、百合恵の周りに突風が起り木々がざわめいたが、百合恵は少しも風を感じなかった。

(…?)

 奇妙な現象に驚きつつもまだ平静を保っていたが、その人物のハスキーでぶっきらぼうな言葉は、別な意味で百合恵を驚かせた。

「……なんだ……供物女くもつめが…」

(!?)

 百合恵は思わず振り返って由之真を見た。すると由之真は百合恵の無言の問には答えず、百合恵の目を見て微笑んで言った。

「…いとこです」

「それは先に言って!」と言う代りに、百合恵は小さく吐息をついてから「……そう」と答えると同時に由之真が歩み出た。いとことは言え百合恵は一応警戒を解かなかったが、由之真は無言でいとこに歩み寄り、二人は無言で見つめ合った。

「……」

 由之真の顔は見えなかったが、いとこは由之真とよく似た無表情な目で由之真をしばし見つめ、一度ちらと百合恵を見てから由之真に目を戻し、ハスキーな声で静かに言った。

「………ホントに稚児贄ちごにえになったのげ?」

(…?)

 なまりのせいか百合恵にはよく聞こえなかったが、由之真が一度目を逸らしてからいとこの目を見て、苦笑気味に「…うん」と小さく頷いた瞬間……。

「…っ!」

 いとこはその場で左捲きに旋回して、由之真の左頬目掛けて右手を振った。

パーーンッ!!

(えっ!?)

 強烈な破裂音が鼓膜を突いて重い風が吹き荒れたが、百合恵は風に気付かずただ唖然と我が目を疑った。由之真の頬を張ったいとこの右手は、振った勢いと同じ勢いで跳ね返り、いとこの方が逆に二回も旋回しながら三メートル後方に飛び退いた。

(??)

 唐突さも相俟って、百合恵は呆然としかけた。しかし、右手をゆっくり下ろした由之真を見て、張られる前にいとこの右手を叩いたのだろうと自分を納得させようとしたが、いとこの新たな挙動に思考を奪われた。

 いとこは一旦素早く飛び退き、体勢を立て直すなり猛然と由之真に向かって突進し、由之真の手前の立木を蹴って、百合恵が見上げるほど飛び上がった。

「…ちょっ!?」と、百合恵はどうにか由之真を守ろうとしたが、一歩前に踏み出すと同時にいとこの右手が真っ直ぐ振り下ろされた。

パーーーンッッ!!

(!?)

 またしても由之真は動かず、いとこが放り上げられたように宙を舞ったが、それより百合恵の目が捉えたのは破裂音と共に真横に吹いた風だった。実際は由之真の胸から下の景色が一瞬揺らいで見えただけだが、一瞬でもそれが風に見えた百合恵は、咄嗟に目の錯覚だと思った。しかし、百合恵の目は至って健康で正常だった。

パパンッッ!パーンッッ!パンッ!パパンッッ!!

(……)

 まるで踊っているような、日舞を早送りで見ているような感覚だった。由之真は上半身しか動かさないが、いとこは目まぐるしく由之真の周囲を移動しつつ、両腕をひらひらと器用に操り時には両手で、時には左で打つと見せかけて右で打ったりと、前後左右上下くまなく由之真を攻め立てた。

 そしてその全ての手は由之真の手に阻まれ、その度に辺りの空気が揺らいだが、ふといとこの笑みに気付いた百合恵は。二人が争っているのではなく、互いに手を叩き合っているだけのような気がしてきた。しかし、このまま黙って見ているわけにもいかず、そろそろ注意しようともう一歩踏み出したが、その時いとこが二旋回して放った張手を左手で受けた由之真が、はじめて百合恵に身体を向けた。

(…!?)

 それは由之真が転入以来初めて見せた、心から楽しげな笑顔だった。しかし、後に思い返しても首を傾げるばかりだが、この時百合恵は突然胸に生まれた謎の憤りをそのまま口から吐き出していた。

「…いい加減にしなさいっ!!」

「!」

 由之真が振り返ると同時に、いとこはソフトボールを投げるように下から上へ向かって腕を振り上げた。そしてそれは思いの外速く、咄嗟に由之真は右手を上に両手を重ねて張手を受けた。

パーーーンッ!!

 耳を劈く破裂音に弾かれ万歳しながらもんどり打つ由之真と、一瞬百合恵は目が合ったような気がしたが、とにかく抱き留めようと両手を拡げた瞬間……。

ゴオォォォーーッッ!!

「っ!?」

「!?」

「!」

 突如吹き上がった竜巻の如き凄風せいふうによって、学校の裏山が吠えた。由之真はまるでその風に乗ったように、立っているのがやっとの百合恵の前へ、音もなくふわりと舞い降りた。



「……な、なに?…今の」

 長机の足を畳んでいた美夏は、不安げに校舎を眺めてから路子に近寄った。路子は小首を傾げながら香苗を見て答えた。

「あー…風だと思うけど、マジで凄かったな」

「うん、ビックリした。……あれ?……ヤマっちと先生は?」

 百合恵が家庭科室へ向かってから三〜四分しか経っていなかったが、家庭科室へ入る百合恵を何気なく見ていた路子は、その時思ったことを答えた。

「あー、トイレだろ」

「…うん…」と香苗は一旦頷いたが、すぐにカセットコンロを持ち上げて言った。

「……あたしちょっと見てくる。ヘンな音してたし…」

 路子は頷いてから、紐で縛った薪の残りを持って香苗と二人で歩き出した。それを見た美夏は、慌ててゴミ袋を持って二人を追い掛けた。



「……」

 風は一瞬で和らぎ、舞い散る木の葉を残しただけだった。百合恵の心配を余所に、由之真はいとこと並んで北の森を見上げていたが、ふといとこが囁くように言った。

「……今の……成ったのが?」

 由之真は、一度畑の方へ目を向けて静かに答えた。

「…うん。俺も地成じなり風だと思う……」

「……」

 いとこは清澄な空気を吸い込んで、ちらと校舎を見てから由之真に真顔で言った。

「まあいい。…由ちゃ、かしましいの来っから言っとぐ。大婆おおばばの言付け」

「…うん」

「……分家は大人おどなしくしてろ。今度勝手にやったら破門だがら」

(八岐くんって、分家の子なの?)という百合恵の素朴な疑問に、由之真は静かに答えた。

「……うん」

「……」

 真顔で頷いた由之真の目の奥を覗き込んでから、いとこは別れも告げずに校舎へ向かって歩き出した。しかし、すぐに立ち止まって振り向き様に尋ねた。

「由ちゃは、石狩んなんのげ?」

「!」

 その唐突過ぎる質問には百合恵も驚いたが、由之真は口をぽかんと開けながら目を丸くして、一度百合恵を見てから「……わかんない…」と首を横に振った。

「……」

 いとこは少し愉快そうに口元を歪めて歩き出したが、ふと思い出した百合恵が尋ねた。

「…あの、校舎に入りましたか?」

 面倒そうに鼻で吐息を吐きながら、いとこは振り返り夏椿の根本を指差し、苦笑を浮かべて言った。

「入ってねぇよ。そごの白いねごっ子どずっと遊んでだだげ」

(……ねごっこって、猫よね?…)

 そこにはかつて由之真が置いた白い墓石はかいしがあるだけで、百合恵は少し薄気味悪い気がしたが、最初の挑発的な態度よりずっと友好的に思えたので、あまり馴染みのないハスキーな訛言葉を信じることにした。

「…そうですか。どうも…」

 そしていとこが再度歩き出すと、今度は香苗の大きな声が響いた。

「あっ!いたいたーっ!!」

 百合恵と由之真はいとこに続いて丘を降り、当然ながら香苗達は、由之真とそっくりな人物を見て唖然と目を見開いた。

「……」

 香苗達の好奇の目を気にせずに、いとこは香苗と擦れ違い様に意地悪そうな笑みを浮かべて囁いた。

「……由ちゃ大嘘つきだがら、騙されんなよ?」

(!?)

「ヤマっちは嘘つかないよ!」と言い返す代わりに、香苗は「フンッ!」と鼻息荒く顎を突き出したが、その時由之真が明朗に言った。

あきらちゃん、またね」

「……」

 いとこは……八岐彰は一瞬足を止めたが、すぐにそのまま歩き出した。香苗と路子は彰の背中を睨めつけてたが、水道で見えなくなるとすぐに香苗が尋ねた。

「ヤマっち、だあれ?」

 由之真は、苦笑気味に答えた。

「…父さん方のいとこの彰ちゃん」

「へぇー…イトコなんだ…」

 その答えで最初の驚きは一応収まったが、いとこが来ていたならどうして言ってくれないのか?どうして東の丘にいたのか?歳は幾つなのか?等の新たな疑問が増えてしまった。しかし、今日は公開日だから誰が来ても不思議はないと思うに止まり、それよりも香苗は彰を見て浮かんだ二番目の疑問を素直に尋ねた。

「……男子だよね?」

(え、男子でしょ?)

 初対面の時はともかく、由之真と彰の行為を見ていた百合恵は確実に男子だと思っていた。そして一瞬聞いた声と口調で香苗達も男子とは思っていたが、『彰ちゃん』という呼び方に引っ掛かっていた。しかし、由之真はきょとんと百合恵を見てから首を傾げて言った。

「……どっちかな?ずっと男だと思ってたけど……」

(は?)と全員思ったが、香苗は腹を抱えながら尋ねた。

「ハハッ!なんで知らないのさ?イトコなんでしょ?」

「うん。でも……聞いたことないし、ずっと前にちょっと遊んだだけだから…」

「ハハハッ!」

 途端に百合恵達も吹き出して、その言い分けが妙に由之真らしいと感じた路子は言わずにいられなかった。

「ハハッ!チョー八岐っぽい!ハハハッ!」

「だってヤマっちだし!フハハハッ!」

「ハハハッ!」

 話が逸れたのを機に、百合恵はこの場を収めることにした。

「フフッ……それじゃあ、後片付けして早く焼ガニを食べましょう!」

「おーっ!カニカニっ!」



「……んーっ、うまっっ!!」

 田辺さんが生きたカニに串を刺して、カニの動きが止まった時は残酷だと思ったが、七輪でじっくり焼いたモクズガニは絶品だった。はじめは離れて見ていた路子もオレンジに染まったカニの甲羅をしげしげと眺めて、「…なんでこんな赤くなるのさ?」と呟いてから、カニ味噌をスプーンですくって口に入れた。

「あー…めっちゃ味濃いな」

「うん、ご飯欲しくなるよね!」

 そして路子は麦茶を飲んでから、今度は自分でそばつゆを塗って焼いたレインボーそばたんぽ焼を齧って言った。

「……これイケる。やっぱ茶そばだな」

「フフッ、路子ちゃん茶そば大好きだもんね」

 路子はにやりと微笑み、つゆを塗った半分まで食べてから由之真に尋ねた。

「あー、八岐これは?」

 既に路子のパンプキンパイを平らげて、百合恵の傍で井戸水を飲んでいるパブロを見ながら由之真は答えた。

「……そのくらいなら大丈夫」

 早速路子は串からそばたんぽ焼を取り外し、パブロに駆け寄って言った。

「パブロ、ほら!そばたんぽ!」

「ワフッ?」と一鳴きして、パブロはくんくん匂いを嗅いで路子の手からそばたんぽ焼を受けとり、よく噛んでから飲み込んだ。

「ワフッ!ハッハッハッ」

「フフフッ」と路子は嬉しげにパブロを撫でると、百合恵がパブロに言った。

「よかったねパブロ。…でもカニが食べられなくてホントに残念ね」

「…ワフッ!」

 カニが焼けた時、路子はパブロにカニを与えてよいか由之真に尋ねた。しかし、火を通したカニは少しならよいが、少しでは満足しないから与えない方がよいと言われ、代りにそばたんぽ焼を与えることにした。パブロは尻尾をぐるぐる回して路子の手を舐めたが、路子が「あー、もうお代わりないよ」と言うと、まるで言葉が通じたようにパブロは水を飲んだ。

 路子はそんな素直なパブロと本当は校庭で遊びたかったが、路子のペットの本には『食後の散歩は控えましょう。』と書いてあったし、さすがにみんな疲れていて、由之真ですらずっと腕を組んでパイプ椅子から動かないので、遊ぶのは今度にすることにした。

 そしてパブロと田辺さんを見送って、百合恵が炭火を消して、全員で学校の戸締まりをして、やっと全てが終わった時は午後四時半を少し回っていた。百合恵はみんなを駐車場に集めて、帰りの会を始めた。

「…さてと……みんな今日は本当にお疲れ様っ!みんなの力で御神輿も収穫祭も、大大大成功でしたっ!……よく最後まで頑張ったわ!先生は、みんな凄いと思います!」

 みんなは満面の笑みを浮かべて微笑み合い、次に百合恵は振り返り、最後の最後まで手伝ってくれた親友に向かって言った。

「仲村先生!今日は最高にありがとうございました!」

「ありがとーございましたっ!」とみんなが揃って頭をさげると、仲村は照れ臭そうな苦笑を浮かべて言った。

「いえいえ!こっちこそ凄いもん見せてもらったし、楽しくて美味しかった!フフフッ!」

 するとすかさず路子が、「あー、先生のアレはサイコー」と言ってみんな笑ったが、当然アイスを放り投げたことは最後に言われると覚悟していた百合恵は、開き直って言った。

「先生アレは疾っくの昔に忘れました!みんなも急いで忘れましょう!」

「フハハッ、チョー覚えてるじゃん!ハハハハッ!」

 そして一頻り笑ってから、百合恵は腰に手を当てて、胸を張って朗らかに言った。

「……よしっ!それじゃあ収穫祭を終わります!みんな気を付けて、さようなら!」

「さよーならーーっ!」

 斯くして、みんなの祭カブり日は終わったが、もう一つだけ重要な仕事が残っていた百合恵は、たった今さよならを言って後ろを向いた由之真に声を掛けた。

「八岐くん」

 由之真だけでなく香苗達も振り返ったが、百合恵は由之真の目を見て言った。

「……大分疲れてるみたいだし、家まで送ってくわ」

 すると珍しく由之真が「はい」と素直に答えると、香苗は一時真顔で由之真を見つめてから歩き出し、由之真に手を振った。

「じゃあねヤマっち、また明後日!」

「また明後日」と、由之真が手を振ると香苗は微笑んでから前を向いたが、すぐに振り返って言った。

「来年は絶対御神輿来てよねっ!絶対だからねっ!」

 由之真は大きく頷いて、愉快そうに微笑んで答えた。

「うん、わかった」

 百合恵と仲村と由之真は、香苗達が駐車場を出るまで見送ってから車に乗った。



 疲れのせいか、車中は時折仲村が御神輿の事を尋ねた程度で、百合恵はゆっくり東の丘の出来事について考えることができた。しかし、一つ一つを思い返す度に疑問が増えるだけで、何をどこまで尋ねようかと考えている内に赤い鳥居が見えてきた。百合恵はルームミラーに目を向けながら後部座席に尋ねた。

「……八岐くん、起きてる?」

「…はい」

(………?)

 仲村はてっきり家まで送り届けるものと思っていたが、百合恵は神社へ登らず車を駐車場に止めた。そしてすぐに由之真がドアを開けて言った。

「……ありがとうございました。さようなら」

「さようなら!」と元気に返したのは仲村だけで、百合恵はエンジンを止めてシートベルトを外し、「ごめん、ちょっと待ってて!」とドアを開けた。前にも似たようなことがあったかと仲村が小首を傾げていると、百合恵は黙って立っている由之真に、「…ちょっと話したいことがあるんだけど……行きましょう」と言って、鳥居の方へ向かった。

「………」

 聞きたいことは山程あるが聞くべき事は多くなく、百合恵が最も知りたいことは由之真の安否であり、百合恵はゆっくり階段を踏みながら幾つか選んだ質問だけを簡潔に尋ねるつもりだった。その質問とは彰との関係と幾つかの奇妙な現象についてだが、もう一つ、百合恵以外誰も気付かなかった由之真のある変化だった。

 しかし、それを尋ねるのはこれが二度目であり、前回のようにはぐらかされたくなかった百合恵は、多少プライバシーに踏み込んでも覚悟を決めて切り出そうと、自分と歩調を合わせて歩く由之真を見て息を吸い込んだ、その時だった。

「……今日は、驚かせてすみませんでした」

(!)

 思わぬ先手を打たれた百合恵だったが、それなら逆に好都合と話しを繋いだ。

「……ううん、驚いたけど謝ることはないわ。…その、ちゃんと紹介して欲しかったけど…」

 しかし、やや苦笑混じりな由之真の答えは、百合恵の読みを見事に外した。

「…俺も驚きました」

 意味が分からず、取り敢えず百合恵は「…そうなの?」と相槌を打ったが、なんと由之真は転入以来はじめて自ら身内のことを話し出した。

「……彰ちゃんは八岐の本家の人で、本家と分家は先代から関りがないみたいですけど、……八岐と石狩もそうだから、直接会うしか連絡しようがないんです」

(……)

 内心驚きつつも、百合恵は由之真が彰の訪問を知らなかった理由を知ったが、それより八岐家と石狩家が先代から関りがないという事実に囚われた。先代と聞いて百合恵の頭に浮かんだのは照の祖父母だったが、その祖父母がもし先代だとしたら、現在交流が無いはずの石狩家に八岐を名乗る由之真がいることが奇妙に思えてならなかった。

 そして、ただでさえ目まぐるしかった由之真の生活環境が、実は想像以上に複雑であることを今更ながら痛感したが、むしろ今まで焦らず接してきたことが間違っていなかったことに安堵しつつ、百合恵は何かに感謝を込めながら明るく尋ねた。

「……そっか。でも、それなら今日は日曜なのに学校に来たってことは、きっと誰かが菜畑祭のことを伝えたんじゃないかしら?」

 今度は百合恵が思った通り、由之真は微笑んで静かに答えた。

「……俺もそう思います」

 そしてその時丁度神社の門に辿り着き、百合恵は由之真の目を見てから、次にジーンズのボケットに入れたままの手を見ながらしゃがんで言った。

「…手を見せて」

「……」

 一拍置いて、由之真はゆっくりとポケットから両手を出して、赤く染まった手の平を無言で百合恵に見せた。百合恵は由之真の右手を取り、そこに優しく右手を合わせると、由之真の手は自分の手よりぬるかった。

「…痛くないの?」

「はい、大丈夫です。一時間くらいで治ります」

 それを既に知っていた百合恵は、小さく頷きながら由之真の目の奥を見て尋ねた。

「…うん……彰ちゃんは?」

 由之真は一瞬目を見開き、少し愉快そうに微笑んで答えた。

「大丈夫だと思います。彰ちゃんは俺よりずっと強いし」

「そう……うん」

 その笑顔に心から安堵した百合恵は、由之真と彰の行為と奇妙な現象については今知る必要はないと感じた。百合恵はそっと手を離し、立ち上がって朗らかに言った。

「……八岐くん、今日は本当にありがとう!みんな美味しかったけど、特にあの太巻きは毎日食べたいくらいだったわ!…じゃあ、また明後日!」

 期せずして丁度半年前に由之真と出会った時のように、百合恵は右手を差し出した。そしてそれは、由之真がその手を握ろうとした瞬間だった。

「はい、また……っっ!?」

「…?……どうしたの?…あらっ!」

 突然息を呑み、目を見開いて己の手を見つめる由之真に驚くと同時に、百合恵は声を上げた。そして、もう一度由之真の手を取り確かめてから嬉しそうに言った。

「…治ってるわ!よかったわね!」

「………」

 しかし、猶も呆然と手を見つめる由之真に不安を抱いた百合恵は、慌てて由之真の両手を握って尋ねた。

「…八岐くん?…大丈夫?」

 そこで初めて由之真は手から百合恵に目を移したが、また手を見てから百合恵に目を戻し、今度はさも不思議そうな目で食い入るように百合恵を見つめた。至近距離から怪訝な目付きで凝視された百合恵は、心配しつつも薄く眉間に皺を寄せて尋ねた。

「……どうしたの?…先生の顔に何かついてる?」

「………」

 由之真は静かに溜まった息を吐き、もう一度自分の両手を見下ろしてから、今度は何とも言えない苦笑を浮かべながら少し眩しそうに百合恵の目を見て呟いた。

「………先生は……凄い…かも……」

 百合恵は俄に由之真を睨めつけ、腕を組んで不満げに言った。

「んー、やめてください!八岐くんにまでからかわれたら、先生ホントに四面楚歌よ!そしたらもう、徹底的に戦うわ!」

 思わず出てしまった宣言だが、由之真は可笑しそうにクスクス笑いながら軽く首を横に振り、百合恵はそれを了承と受けた途端に照れ臭くなった。

「…フフッ、フフフッ」

「フフフッ」

 そして百合恵はふと由之真の家の方へ目を向けて、桃色に染まった高い空を見上げてから言った。

「……それじゃあね!…」

「はい、さようなら……あ」

「…?」

 百合恵が振り返ると、由之真は自分の右手を見てから言った。

「……あの……一応、これは誰にも言わないでください…」

「…話すわけないじゃない」と喉まで出掛かったが、百合恵は急に閃いて小指をぴんと立て、意地悪そうに由之真を睨めつけて言った

「じゃあね……八岐くんと先生のお約束その三!……先生はこの事を誰にも言わないこと!」

(……?)

 自分の約束を『お約束』にする意味がわからず一瞬きょとんとしたが、由之真は苦笑しつつも「…はい」と小指を絡ませた。

「フフッ…せーのっ、オヤクソク!」

 百合恵は指を離し、かつて由之真とした『お約束その一』を思い出しながら、その時とそっくりな笑みを浮かべた。そして二人は本日四度目となる別れの挨拶を交し、百合恵は階段を降りた。

「………」

 由之真は百合恵の姿が見えなくなるまで、微動だにせず百合恵から目を逸らさなかった。



「……ゴメンゴメン!お待たせーっ!」

 結局家まで送ったのだろうと思いつつ、仲村は上機嫌で戻った百合恵に笑みを返して尋ねた。

「…そんでどーすんの?」

 百合恵はエンジンを掛けて、いつものように答えた。

「んー、そうね。ちょっと早いけど直行する?」

「もちろん!帰ってお風呂入ったら、あんた絶対寝ちゃうよ」

 その言葉で学校を出る前からくたくたなのを思い出した百合恵は、ハンドルを切りながら苦笑した。

「フフッ、確かに寝るかも……でも、それなら私の部屋で飲んだ方がいいかな?」

 仲村は、眉を顰めて百合恵を見ずに答えた。

「あららん?…今日は天ぷら奢ってくれるんじゃなかったの?」

「ハハッ、もちろん!今日はもう勝美様々よ!明日は休みだし、好きなだけ飲んで食べてちょーだい!」

「フフッ、よーし……松茸の天ぷらって肌に良いらしいのよ!一回食べてみたかったんだよね!」

「うーーん……オッケー!」

 こうして二人の女性教員は、一旦公舎に車を置いてからいつものそば屋へ向かい、いつもの席で互いの疲れを労い合った。しかし、百合恵は翌朝二日酔いの頭痛を堪えながら、由之真のシャワーや二刀流のエピソードを肴に六本目のビールをオーダーしたところまではどうにか思い出せたが、百合恵が目覚めた部屋はみかど屋の宴会部屋だった。



「あ、お帰り由ちゃん!」

「…ただいま」

 照はすぐに受話器を耳に当てて、嬉しそうに言った。

「ああ、ごめん!今ちょーど由ちゃん帰ってきたとこ!………うん!………うんっ!わかった!……ん!お休み!あ、お父さんによろしく!」

 受話器を戻してリビングに入ると、由之真は早速キッチンで鍋の蓋を開けていた。

「今日は優奈さんが作ったチキンカレーだよ!さっきお風呂に行ったから、戻って来たらみんなで食べよ!」

「…うん」と由之真が振り返ると、照は一度電話の方を見て少し考えてから言った。

「……あのね由ちゃん……さっきの電話お母さんからなんだけど、まだね、思い出したりはしてないんだけど、真由まゆ叔母さん随分体調良くなってきたから、来月ならまた来てもいいって。…私が櫛田先生に話すからさ、来月学校休んで一緒に行かない?」

 由之真はほのかに頬を染め、穏やかな笑みを浮かべて答えた。

「……うん、行こう。先生には自分で話すよ」

「うん!」

 そして由之真は、リビングのローテーブルに置かれた久久くくに目を向けて言った。

「…優奈さんは?」

(!)

 珍しく由之真が上の空であることに気付いた照は、愉快そうに答えた。

「フフッ、さっき優奈さんお風呂入ってるって言ったじゃん!」

 由之真は一瞬きょとんとしてから笑って答えた。

「……思い出した。フフッ」

「フフフッ!」

 何かあったとは感じたが、悪いことではないなら由之真が自分から話すのを待とう思いつつ、照は優奈の経緯を話した。

「…そうそう!優奈さんね、今日いきなし学校来たの!しかも一人で!…私ビックリして唱いながら吹き出しそうになっちゃった!フフフッ」

「…そうなんだ。俺もビックリしたよ」と由之真が答えると、照は意地悪そうに口元を歪ませて言った。

「ふーん、そーは見えなかったけど!……あ!あのさ……」

「?」

 優奈の話題になったことで急に思い出した照は、腕を組んで小首を傾げてから切り出した。

「今日ね……優奈さん、由ちゃん見たら突然涙出ちゃってさ、すぐに止まったけど、お爺ちゃんに聞いたらわかんないから由ちゃんに聞きけって。…何か気が付いてた?」

 由之真は照から目を逸らし、一時久久を見てから静かに答えた。

「……気が付かなかったけど、それは俺じゃなくて……たぶん、先生のせいだと思う」

「え?先生って…櫛田先生?」

「うん」と小さく頷く由之真に怪訝そうな目を向けながら、照は慎重に尋ねた。

「……どうして?」

 すると由之真は、誰もいない廊下に目を向けてから真顔で囁いた。

「……誰にも言わないなら話すよ」

(!?)

 それは照にとって、久しぶりの内緒だった。由之真は父親を亡くして以来、たとえ身内であれ誰かに何かを頼むことさえ殆ど無くなり、何事も黙って自分で決めて行うような子になったが、照はそれが少し寂しかった。それ故この瞬間は照にとって嬉しい瞬間だったが、あまり言いたくなさそうな口振りから一抹の不安を感じつつも、気付いた時には言っていた。

「……なに?」

 ところが由之真は、急に苦笑を浮かべて普通に言った。

「先生、異廻人ことねりだと思う」

「……は?」

「櫛田先生は、たぶん異廻人だよ」

「…………」

 照はぽかんと口を開けたまま、一度ゆっくり横を見てからもう一度由之真を見て、それでも何も言えなかった。

 異廻人ことねりは神中りの転生形態の一つだが、元より希有な神中りの中で極々希に真異と融合して転生する御影みかげが在り、その御影の持ち主である異廻人の発見は大吉兆である。と、四百年以上続く石狩神社に伝わる『真異録まことのろく』には記されてはいたが、照はまるで御神木が人に生れ変った『現人神あらひとがみ』ような人間が本当にいるとは思っていなかった。

 それ故あれ程朗らかで茶目っけな百合恵が、こともあろうに神中りや気多真異けたまことより希少な存在とは到底信じ難く、照は動悸を手で抑えながら最大の疑問を由之真にぶつけた。

「……なんで…わかるの?」

 異廻人の特徴は、大真異レベルの魂が潜在するだけの人……つまり自覚症状が皆無な神中りのようなもので、普通の人と変わらないことだった。それ故異廻人の感知は、たとえ地主や真異を捉える由之真でも不可能で、百合恵は百合恵にしか見えないはずだった、しかし、由之真は首を傾げながら静かに切り出した。

「……今日彰ちゃんが来て、久しぶりに風弾かぜはじきして遊んだんだけど…」

「えっ!?あきらちゃんって本家の?…あ、ゴメン!続けて!」

 その反応によって、由之真は彰の件に照が関与してないことを確信した。しかし、由之真が帰った時に由之真の手を確認していた照は、由之真の話に疑いを抱きはじめた。そしてそんな照の心を知ってか知らずか、由之真は自分の手を見ながら薄く微笑んで続けた。

「…うん。……その時先生もいて、急に地成り風が吹いたんだ」

(!?)

 数百年に一度地主の格が上がる時に吹き荒れる地成り風は、哲でさえ遭遇していない希な現象であり、照は素直に驚いた。しかし、それを百合恵に見せたことは照の疑いを一層深めたが、由之真はもう一度自分の手を見てから少し愉快そうに苦笑して言った。

「……でも、その時はただの偶然だと思ったけど……さっき先生がちょっと触ったら、風弾きの痕が消えた…」

(!!)

 この瞬間に自分の疑念が霧散したことを照は自覚したが、それでも問わずにはいられなかった。

「……マジで?」

「うん、マジで」

「………」

 照は目を丸くしてぽかんと口を開け、由之真をまじまじと見つめてから独り言のように言った。

「……そう言や……会ったことあるとか言ってた……」

「うん。まだ身体が真異を覚えてるんだと思う」

「……先生も…言ってた……」

「うん。わからなくても全部見えたんだと思う」

「……」

 全ては由之真の仮説だが、ほぼ全てに合点が行った照はソファーに座り、放心したような顔で「はぁ〜……」と盛大な溜息を洩らしてから、今度は心配そうな面持ちで尋ねた。

「……じゃあ、どうすんの?」

 由之真は、優しげに微笑んで答えた。

「どうもしないよ。なんにも悪いことないし。…ただ……」

「……なに?」と照が身を乗り出すと、由之真は何とも言えない苦笑を浮かべて言った。

「先生になくても、俺に何かあるかも。供物女にしたのも、祀ったのも俺だし」

 照はごくりと唾を飲み込み、小声で尋ねた。

「…何があるの?」

 由之真は一拍おいて、真顔で答えた。

「いい事」

「……ハハハハッ!まったくもーっ!心配して損しちゃったよ!ハハハハッ!!」

 一気に緊張が解けた照は、ソファーに寝ころび腹を抱えて心から笑った。そして、悪いことがないならこの件についてはもう忘れるのが一番だと思ったが、一つだけ気になることがあり、笑いが収まってからそれを尋ねた。

「…フフッ……でもさ、なんで急にそうなっちゃったんだろ?……だって先生を供物女にしたのが由ちゃんだって、それまでずっと普通だったよね?」

 実のところその疑問は、由之真が百合恵と別れてからずっと抱いていた疑問だった。この時由之真は百合恵と地成り風の関係を考えていたが、何れにせよ百合恵が異廻人であれば、地成り風の原因が百合恵であることは間違いないと思っていた。

 しかし、そうであるならば今まで何事も無かった地主が突然変わったのは、百合恵本人が突然変わったことに他ならず、その変化の原因がさっぱりわからない由之真は、小首を傾げながらその通りに答えた。

「……うん…たぶん何か、先生が急に変わったんだと思うけど……全然わかんない」

(……)

 その答えを聞いて照の心にある想いが生まれたが、軽く頭を横に振っただけでその想いは霧散して、代わりに百合恵に対する親近感が膨らむのをどうすることもできなかった。そして照の大らかなる心は、楽しげに言った。

「ふーん…まあ、どーぜ由ちゃんのせいだね!てゆーか、絶対由ちゃんのせいに決まってるね!」

 すると案の定、由之真はきょとんと尋ねた。

「……なんで俺のせいなの?」

 照は少し頬を染め、両手を腰に当て胸を張り、鼻で笑ってから勝ち誇ったように言った。

「フンッ……教えてあーげないっ!フフッ!」

「…フフッ」と由之真が呆れたように笑ったところで、突然築根の呑気な声が響いた。

「こんばんわーっ!カレー食べに来たよーん!」

「げっ!」

 途端に照は眉間に皺を寄せながら立ち上がり、現れた築根を睨めつけて言った。

「来たよーんじゃなくって、築根さんは向こうで食べるんでしょ!?」

 すると築根は、にこやかに微笑んで答えた。

「うん、向こうでも食べるよ?でもね、私に内緒で美味しいもの食べようったって、そーはいかないの!」

 それでも照は客があろうとなかろうと食いしん坊の築根を追い返そうと思ったが、築根の後ろで苦笑している優奈と愉快そうに微笑む由之真に免じて、「威張ってる意味全然わかんないし!もうっ、太ったって知らないからね!」と言うだけで築根の参加を許した。しかし、今回ばかりは天も照に味方した。

「築根さん、カレー結構甘口に作ったから、築根さんのだけ辛くします?」

 それは一片の邪気無き、ごく自然な思いやりからの言葉だったが、築根は喜んで答えてしまった。

「ありがとっ!私辛い方が好きだから、大辛でお願いしまーす!」

「はーい!」と、優奈は築根のカレーを別の器に移し、棚にあった『大辛(ハ)』と書かれたオレンジ色のスパイスを、築根のカレーにパッパッパッと振りかけた。しかし、その瞬間隣でナンを焼いていた照が、「っ!?」と息を呑んだ。

(……?)

 優奈が不安げに照を見ると、照は無言で築根のカレーを見つめてから「……大丈夫!築根さん辛いの好きだし、きっとこのくらい平気ですよ!」と小声で言って、にこやかに築根のカレーをぐるぐるとかき混ぜた。そして首尾良くナンが焼けて、食卓が整った。

「それじゃあ、せーのっ」

「いっただっきまーーすっ!」と、いの一番にちぎったナンでカレーをすくい、築根はそれを勢いよく口頬張った。

「………んぶーーっ!?」

 それ以来築根には、たとえ甘口だと言われても、カレーを食べる時は必ず一舐めしてから食べる癖がついた。



祭カブり日 終わり

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