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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第二十一話 祭カブり日 前編

(……うん!まあまあね……)

 百合恵はゆっくり二歩退いて、満足そうに微笑んだ。そして花瓶を手に取り、持ち上げた瞬間だった。

(……?)

 しばし呆然と花を見つめてから、百合恵は花瓶を机に戻してそわそわと辺りを見回した。

(……えーと………え?)

 そこは古い木造の広い部屋で、やや中央に小さな机と椅子が三つ並んでいて、壁には絵や習字が張ってあり、当然ながらここが『学校の教室』であることを百合恵は知っていた。しかし、確かに見覚えのあるこの教室が一体何処なのか、何故自分が教室にいるのかがわからなかった。

 考えてみればこの時百合恵は、自分自身が何者かすらわからなかったが、とにかく何者であれ『自分は自分』という強い自覚があった。そこで半ば無意識に混乱を避けるために、まずは自分の事よりも、この妙に親しみ深い教室を思い出そうとした。

(……ちょっと待って。……えーと………あれ??)

 しかし、思い出そうとすればするほど、知らないはずはないという焦りが増すだけだった。百合恵は小さな机に触れ、中を覗いたり壁の絵や習字の名前を見たが、その名前をよく知っているはずなのに、誰のものか全く思い出せなかった。

(………どうして……)

 そして、よく知っているばかりかこの教室が自分にとって此の上ない神聖な場であり、四つあるはずの机が三つしかないことに怒りすら覚えるのに何故思い出せないのか?……と、眉間に皺を寄せ苛立たしげに花瓶へ目を戻した時だった。

「………あっ!」

 突然百合恵の脳裏に、幾度も花束を手渡された光景が浮かんだ。その子は毎週必ず花束を届けにきて、それを自分が花瓶に生けたはずだった。きっと今日もそうに違いないと思った百合恵は、その子にさえ会えば何もかも思い出せると信じて廊下へ飛び出した。

(そうよ、あの子!……あの子なら……)

 百合恵は片っ端からドアを開けて、その子を探した。何度も大声で呼ぼうとしたが、その子の顔も名前も、男子か女子かすら思い出せないのが悔しくて、血眼になって探した。

(何処……何処にいるの!?)

 百合恵は激しく息を弾ませながら、猶も部屋を探した。そしてついに正面玄関から外へ飛び出して校庭を見渡したが、桜が舞い散る校庭には人っ子一人おらず、その不気味な静寂にぶるっと身を震わせた。

「………」

 しかし、まだ遠くへは行っていないはず……きっと近くにいる!と信じて百合恵は猛然と駆け出した。もはやここが何処であろうと構わなかった。とにかくその子に会いたい……ただ会いたいと強く願いながら闇雲に走り回った。そして、不意に開けた畑が歪む視界に入った時だった。

(……!!)

 畑の一番奥に佇む、真っ白なTシャツを着たその子の小さな背中に向かって、百合恵は全力で地を蹴った。そしてその子の背中が徐々に大きくなり、あと少しで……。

(っ!?)

 突如辺りの景色が消え去り、その子は瞬時に遠ざかった。

「……まっ……!?……待って!!」

 叫びながら追いかけたがその子は振り返りもせず、いつの間にか前方に現れた灰色の人影に向かって歩き出した。そしてその人影が陽炎の如く揺らめきながら、その子に手招きをしたかに見えた。

「ダメっ!戻りなさいっ!!行っちゃダメっっ!!」

 行ってしまえばもう二度と……と、心臓を掴まれたような喪失感に襲われた百合恵は、ただ幼子のように泣き出したくなった。しかし、けして忘れてはならないことを忘れたという強烈な怒りが失うことの恐怖や絶望を焼き尽くし、感情が限界に達した刹那……。

「……やっ…」

 


「っ!?…………はぁっ……はぁっ……はぁ……」

 一時天井を見つめ、胸を上下させながら枕元の目覚まし時計を見ると、時刻は午前八時を少し回っていた。

「はぁ………はぁ………ふーーっ………」

 まだ少し混乱している頭で全てが夢だったことに安堵しつつ、百合恵はどうして目覚ましが鳴らなかったのかと思ったが、すぐに今日が休日であることを思い出してもう一度安堵の吐息をついた。そして動悸が治まってからゆっくり身を起こし、勢い良くカーテンを開けた。

(……よかった!……最高のお天気ね……)

 窓を開けると澄んだ秋空から柔らかな風が流れ込み、百合恵は立派に役目を果したてるてる坊主を物干し竿から外し、その労を心で労った。そしてパジャマの袖で目尻を拭いつつ、苦笑混じりに呟いた。

「……もうちょっと、普通に出て来て欲しいんだけど……フフ……」

 百合恵にとって夢に児童が現れることは特に珍しいことではなく、むしろ夢の殆どが学校のことであり、夢の中でも香苗達にてんてこ舞いしたり、時には自分が児童になって御門先生の国語や天野先生の体育を受けたりと、目覚めて大笑いしてしまうこともあった。

 そして夏頃から百合恵の夢に幾度か由之真が出演するようになっていたが、夢の由之真は気付くといつも傍にいて、いつも穏やかに微笑んでいるだけで内容は殆ど覚えていないこともあり、百合恵は取留めもない夢に頓着しないようにしていた。しかし、鮮明に覚えている今日の悪夢には百合恵自身に心当たりがあり、気に掛けずにはいられなかった。

(……忘れる………忘れられるって………)

 その心当たりとは由之真の母親のことに他ならないが、百合恵は由之真の母親の病状を知って以来、記憶障害について……取分け夫と息子の記憶のみを失うという特殊な病状について時折考えるようになっていた。しかし、立場が違い過ぎる相手の心情がわかるはずもなく、更に自分の児童とはいえプライベートにこれ以上介入するわけにもいかず、自分にこの問題の答えがないことを百合恵は早々に気付いていた。

 それでも気に掛けてしまうのは、職業柄何よりも真っ先に児童の気持ちを考えてしまうからで、百合恵がこの件について考え始めると、我知らず最後は必ず由之真の身になってしまうのは仕方無かった。

(……怖くないわけ……ない………でも……)と、百合恵は苦笑しながら首を横に振って洗面所へと向かった。ここでいくら自分が思案しても、自分勝手に由之真の気持ちを決めつけてはならず、現時点で百合恵ができることは注意深く由之真を見て行くしかなく、つまり今まで通り接するより他はなかった。

 それよりこんな悪夢を見た直後にも拘らず、百合恵の胸にはまるで勝負に勝ったかのような達成感が漂っていた。それは夢の自分がついにあの子を……由之真を思い出したからだが、たとえ支離滅裂な夢であれ自分が確かにその名を思い出し、目覚めて全てを取り戻したという感覚は思いの外心地良かった。

 ただやはり、いつかは由之真の母親が記憶を取り戻し、夫の死を思い出した時のことを思うと胸がつまるが、その時母親の傍に由之真がいれば何があろうときっと乗り越えられる………と思った時、机の上の携帯電話が鳴った。

「……おはよ!………そうね、今からご飯食べて九時には出るわ。………ええ、鍵は私が持ってるから……うん、今日は大変だけど頑張りましょう!」

 百合恵は鼻唄交りに髪を梳かしてから急いで朝食をかっ込み、九時少し前に玄関のドアを開けた。そして一度大きく秋の朝風を吸い込んで、「……よしっ!!」と気合いを入れて意気揚々と駐車場へ向かった。

 ところで寒露かんろの休日である今日、何故百合恵が朝から張り切っているのかと言えば、それは今日が学校前の神社の秋祭と菜畑小中学校の学校祭である『菜畑祭なはたさい』が偶然重なった、路子曰く『祭カブり日』であり、当然百合恵とその一味はどちらの御祭も力の限り楽しもうとしているからだが………しかしこの時百合恵は、今日はデジカメのメモリーをみんなの笑顔で一杯にして、後に御祭の記念アルバムを作ろうと考えていたが、まさかみんなの一番の思い出が御祭ではなく、『櫛田先生』になろうとは夢にも思っていなかった。



「わーっしょいっ!ドンドンッ!わーっしょいっ!ドンドンッ!わーっしょいっっ!!」

 御神輿が跳ね踊り、子供達の元気な声が青く高い空に響き渡った。百合恵と路子の母親はすかさず休み馬<御神輿を置く台>を御神輿の下に差し入れて、子供達はゆっくり腰を落としながら休み馬の上に担ぎ棒を置いた。そして首に掛けたタオルで滴る汗を拭い、香苗は振り返りながら路子を睨めつけて言った。

「……おもっ!ミチ交代っ!」

 路子は苦笑して、右手で左肩をさすりながら素っ気なく答えた。

「……あー、ヤダ。もー担がね。ぜっったい担がね」

「フハハッ!ウソッぴ!ミチもう何回も担いだもんね!」と香苗がおどけると、路子の斜め後ろにいた少女が買って出た。

「香苗ちゃん代わるよ!あと二つで終わりなんでしょ?」

「うん!吉村さん家行って、石倉医院で最後だよ!」

 香苗は糸井里子に満面の笑みを向けて右手を高々と振りかざし、戸惑う里子が中途半端に上げた右の手の平を勢い良く叩いた。それを見ていた相田葵は、一度ちらと路子の背中を見てから言った。

「……美夏ちゃん、代わるね!」

 正直左肩が痛くて仕方なかった美夏は、少し日焼けした顔を綻ばせておっとりと答えた。

「うん!ありがとう!」

 葵は香苗の真似をして美夏とタッチを交わし、路子の真似をして両手に軽く唾をつけてから右側の担ぎ棒の下に入って左肩を棒に当てた。

(……いたっ!)

 御神輿初体験の上に右利きの葵にとって、左肩で担ぐ右側の棒は肩に触れただけで痛い棒だった。しかし、今その痛みは単なる痛みではなく、葵は楽な左側を担ぎたいとは思わなかった。それはコースの半分を過ぎた辺りで、全員右利きの香苗達が最初から右側ばかり担いでいた理由に気付いたからだが、その時葵はずっと担ぎ続けていた路子に思わず声を掛けていた。

「天野……交代しない?……」

 路子は一瞬目を丸くしてから、嬉しそうに微笑んで答えた。

「あー……サンキュ!」

 それから路子と葵は一軒ずつ交代して、里子も香苗や美夏と交代するようになり、他の二小の児童達も代る代る右側へ入るようになった。そして、そんな香苗達のやりとりを微笑ましげに見守っていた百合恵が、朗らかな声で言った。

「さあ、もうちょっとだからみんな頑張って!……じゃあ、いっせーのっ!」

「よいしょーーっ!」

 御神輿はゆらゆらと浮き上り、児童達は懸命にバランスを取った。そして揺れが静まるのを待ってから町内会長である石倉医院の院長が、「ピッピッ!……ピッピッ!」と軽快にホイッスルを鳴らすと、そのリズムに合わせて路子の父親が「ドンドンッ!」と威勢良く太鼓を打ち鳴らし、子供達が声を張った。

「わっしょいっ!ドンドンッ!わっしょいっ!ドンドンッ!……」

 子供神輿とはいえ総重量八〇キロの伝統ある立派な御神輿が再びゆっくりと動き出し、勇壮な声が吉村家へと向かった。

「………」

 路子と同じくらい担いでいた香苗は相当疲れていたが、躍動する御神輿を誇らしげに眺めながら、言葉では言い尽せない嬉しさを感じていた。それは今日、「友達みんなで御神輿を担ぎたい!」という一昨年からの念願が叶ったからだが、勿論その念願は、ただ待っていれば叶うようなものではなかった。

 それは急にクラスメートが減った一昨年のこと、香苗は二小のクラスメートを秋祭の御神輿担ぎに誘った。その理由は自慢の御神輿を見て欲しいのと、御神輿を担いだことがない友達に御神輿の楽しさを知って欲しかったからだが、残念ながら「学区も違うし、遠くて疲れる」と断られてしまった。もちろん香苗はめげずに去年も誘ったが、また断られたばかりか、今度は二小に転校した友達まで数人欠席して、もし照の二小の友達が参加しなかったら危うく御神輿が中止になるところだった。

 香苗はその時初めて『どんなにお天気でも、御神輿が中止になることがある』という負の可能性に愕然としたが、それは十月最初の日曜日、ふと何気無く回覧板に目を通していた時だった。

「………ぶーっ!?」

 飲んでいたみかんジュースを吹き出すなり、香苗は回覧板から一枚の紙をむしり取って行先も告げずに家を飛び出した。そして呼び鈴も押さずに路子の自宅に上がり込み、リビングのソファーで子犬と転た寝していた路子に捲し立てた。 

「ミチっ!ヤバイよミチってばっ!!変わったらダメさっ!!そんなの絶対ナシだよっ!!」

「……」

 丁度学校の夢を見ていた路子は、一瞬ここが何処かわからず辺りを見渡し、眉間に皺を寄せながら不機嫌そうに呟いた。

「………あー……チョーわかんね」

「コレだよ、コレっ!!変わっちゃうのさ!あの御神輿じゃなくなっちゃうのさっ!!」と香苗が紙を突き出したので、路子は面倒そうにそれを受け取り、鼻で吐息を付いてから読んでみた。するとそれは一週間後に開催される秋祭のお知らせだったが、最後の方を読んだ瞬間、路子は鋭い目つきでぶっきらぼうに呟いた。

「……なんだこれ……なんでかえるのさ……」

 そこには、「※ 担ぎ手が十六人に満たない場合は、神輿練りのコースを短縮します。尚、今後は四人で担げる超軽量子供神輿に変更したいと思います。つきましては……」と書かれてあり、それは来年どう数えても、担げる子供が十二人しかいないことを知った町内会の苦肉の策だった。

 しかしそれを知る由もない香苗達にとっては、今までずっと……特に背が高く一年生から担ぎ続けた御神輿を自分の御神輿のように感じていた路子には、担ぎ手が足りないから御神輿を変えてしまうという意味が納得できなかった。そこで早速父親に尋ねると、町内会の役員である父親は娘と香苗の顔を交互に見てから、妙に優しげな笑みを浮かべて言った。

「あー……お前らが卒業した後も担ぐ子減ってくしなぁ……俺だってすぐ買うことはねぇと思うけど、そん時はちっちゃい子等だけでも担げた方がいいだろ?」

「……まーね」と力無く答えて、路子はガクリと肩を落とした。しかし、そんな二人に何か優しい言葉を掛けようかと父親が思った時だった。子供が減るなら大人がもっと子供を増やせばいいのにと思いつつも、いないならどうしようもないと諦め掛けた香苗の胸に、突然新しい想いが生まれた。

 香苗は路子を睨めつけ、考えを整理せず思うままに言った。

「じゃあさ……全部回んなきゃ!」

 それは、もし今年限りで御神輿が変わってしまうなら、せめて今年は全てのコースを精一杯担ぎたいという願いであり、その願いは瞬時に路子へ伝わった。

「……美夏ん家行くぞ!」

「んっ!」

 二人の想いは、去年担がせてもらえなかった美夏に伝わり、三人は最低でも担ぎ手を二〇人は集めて大人達をビックリさせようと誓い合った。そして、その日の内に二小へ転校した元のクラスメートに頼み込んで、自分達を含めてなんとか十六人は担げることがわかり、ひとまず胸を撫で下ろした。しかしドタキャンの可能性があるので、香苗達は翌日も学校で頭を捻り合い、丸一週間休んでやっと登校してきた由之真にも相談してみた。

 ところが、こともあろうに完全に当てにしていた由之真の答えは、一瞬にして香苗達の想いを踏み躙った。

「……ごめん、御神輿には行けない」

「……えーーーっっっ!?」

(!?)

 その強烈なブーイングの三重奏は、一階のトイレから出たばかりの百合恵の耳に届いた。慌てて階段を駆け上がると、すぐに「なんでさっっ!!」という香苗の怒号が廊下に轟き、てっきり路子と香苗が久しぶりに大喧嘩を始めたと思った百合恵は、急いで教室に飛び込んだ。しかし百合恵の目に映った光景は、百合恵の予想を遥かに超えていた。

(…へ??)

 香苗は顔を真っ赤にして拳を堅く握り締め、眉をつり上げ目を剥いて、今にも飛び掛からんばかりに猛然と由之真を睨めつけていた。そして路子も眉間に深い縦皺を作って由之真を見据えていたが、路子の右手は香苗の左腕を掴んでいた。しかし百合恵が一番驚いたのは、虫も殺さぬ美夏の顔まで怒りに満ちていたことであり、あまりに想定外な三対一に一瞬途方に暮れかけた時だった。

 由之真はいつもと変わらぬ表情で、いつものように静かに答えた。

「……日曜は近所の稲刈り手伝うから。倒れた稲が芽を出すと、米がダメになるし……」

「………」

 それは先週十一歳になったばかりの児童のセリフとは思えぬが、実に由之真らしい言葉であり、食材にとことんこだわる『そば処みかど屋』の子の怒りを瞬時に鎮める力を持った言葉だった。香苗は一時まじまじと由之真の目の奥を見つめ、一度窓の外に目を向けてから、今度は一転して心配そうな面持ちで言った。

「……そっか、…それってダメだよね……あ、ダメってヤマっちじゃなくって、お米の方!」

 由之真は、薄く微笑んで頷いた。

「うん」

 そして香苗の腕から力が抜けた時、香苗と同じように不満が霧散した路子は香苗の腕を放したが、ふとあることに気付いて思わず尋ねていた。

「あー……じゃあ、菜畑祭もか?」

(……ちょっと、どーゆーこと?)

 実のところ菜畑祭は、去年までは中学部の吹奏楽部による演奏会や学年対抗合唱コンクールが開催される菜畑小中学校の一般公開日であり、特に小学部が参加するイベントは無かった。それ故児童達にとっては、中学部を自由に見学できる他はそれ程有意義な日ではなく、既に四年も見学している香苗達にとっては少々物足りない日でもあった。

 しかし、今年の菜畑祭は一味違っていた。今年は百合恵の思い切った発案で、学校の畑で採れた野菜を使った料理を振舞う収穫祭を催す運びとなり、それは一ヶ月も前に告知済みで、今週の総合の時間にはみんなで献立などを話し合うことになっていた。

 ところが、誰よりも畑に貢献した畑の主が来ないとなれば、あれもこれも予定が狂いかねず、(まさか、忘れたわけじゃ……)と百合恵までも固唾を呑んで由之真の答えを待ち、一旦落ち着きかけた場がまた張り詰めた。すると由之真は、一度美夏の後ろのコルクボードに張ってある『Let's Enjoy 菜畑祭!!』というプリントに目を向けてから、きょとんと百合恵を見て尋ねた。

「……小学部の菜畑祭は、午後からじゃないんですか?」

「!…ええ、そうよ!」と百合恵がにこやかに答えると、由之真はきょとんとしたまま路子に目を戻し、珍しく少し心細い声で言った。

「稲刈りは昼前に終わる予定だから、沢山料理したいけど……」

「……ふーーーっ!」と、香苗達は揃って盛大な安堵の息を洩らしたが、すかさず美夏が「ホントに?八岐くん来ないと意味無いんだからね!怪我で休んだりとかはダメなんだからね!」と念を押した。意味が無いという意味はよくわらなかったが、由之真は少し困った笑みを浮かべて答えた。

「……うん」

 そして御神輿の担ぎ手が一人減って香苗達のお尻についた火が、この騒動の経緯を知った百合恵に飛び火して、元より是非とも神社の秋祭に参加しようとしていた百合恵は、その日の夜に二小の松本へ電話を掛けた。

「……はい!御神輿は割と本格的なものですし、きっとみんなの良い体験になると………ええ!お昼までですが、昼食が出ますので用意しなくて大丈夫です。あ、もちろん全て無料ですから!」

 この時点での『昼食』は、御神輿の後に神社で振舞われる郷土料理のことだったが、とにかく松本は合同林間学校の恩返しとばかりにこの要請を快諾し、翌朝すぐに自分のクラスの児童達に話した。

「えーっと……櫛田先生からの連絡で、今度の日曜日だけど、菜畑小の近くの神社で御祭があるそうです。そこで、御神輿の担ぎ手を募集中なんだけど、担いでくれる人にはお昼ご飯が出て、あとは……ああ!町内会からお菓子と文具券が貰えるそうだから、行きたい人がいたら先生に…」と言い掛けた時、葵と里子が手を挙げていた。

「やったーっ!先生、ウルトラグッジョブッ!!」

 結果を聞いた香苗達は万歳して喜び合い、そして絶好の御神輿日和となった今日、松本が運転してきたマイクロバスから六名もの児童達が降りてきて、御神輿の担ぎ手は香苗達が目指した二〇名を一人超えてしまった。香苗達の予想通り、大人達は大いに驚きながら二小の児童達を拍手で迎え入れ、早速一人一人にハチマキと祭半纏を手渡した。

 宮出し<やしろから御神輿を出す儀式>を眺めながら、路子の父親は悪戯っぽい笑みを浮かべて路子達に言った。

「あー……お前ら、よく集めたな!」

 路子はほのかに頬を染め、不敵な笑みを浮かべて素っ気なく言った。

「あー……ウチらなめんな」

「フハハハッ!」

 斯くして、香苗達は来年も葵達に来てもらえるよう担ぎ難い右側の担ぎ棒を積極的に担ぎながら、きっと今頃田圃で頑張っている由之真の分まで精一杯家々を練り歩き、そしてついに最後の石倉医院へ向かう時が来た。

 香苗は水筒の水を一気に飲み干し、ハチマキを締め直しながら気合いを入れた。

「……担ぐっ!!ミチ!美夏ちゃん!行くよっ!!」

「おうっ!」

「うんっ!」

 すぐに香苗は右側の先頭へ入ろうとしたが、そこには最後まで担ぐつもりだった里子がいたので、空いていた左側の先頭に入った。そして香苗の後ろに美夏が入り、ついさっきもう担がないと言った路子は、バランスをとるためにサッと左側の最後尾である葵の隣に入った。

 これで担ぎ手が八人揃ったが、二小の児童が御神輿の横できょろきょろしているので、もっと担ぎたいのだろうと感じた美夏が、「こっち低いから、こっちに入ったらいいよ!」と前の方に招き入れ、最後は少々窮屈だが十人で担ぐこととなった。

「うっしゃーっ!みんな行くよっ!!」

 香苗の意気込みに、みんなが「おーっ!」と応え、そして百合恵が声を張った。

「それじゃあ、ラストッ!……いっせーのーーっ!」

「よいしょーーっっ!!」

 小さな十の肩に勢い良く突き上げられ、御神輿はすっくと浮いてぴたりと止まった。

「ピッピッ!……ピッピッ!ドンドンッ!わっしょいっ!ドンドンッ!わっしょいっ!ドンドンッ!わっしょいっ!ドンドンッ!……」

 最後は得意な右肩で、更に十人で軽くなったこともあり、香苗は嬉しさのあまりこのまま走り回りたい気持ちになった。しかしその衝動は次なるイベントへ向けることにして、香苗達は石倉医院まで約五分の道程を元気一杯練り担ぎ、程なくゴールである石倉医院の駐車場にたどり着いた。

「わっしょいっ!ドンドンッ!わっしょいっ!ドンドンッ!わーっしょいっっ!!……ドドンッ!」

ワーーーッ!!

 駐車場に集まった観客と病棟の窓からも拍手で迎えられ、みんなは満面の笑顔で両手を振って応えた。そして万歳三唱の後、町内会長が子供達を御神輿の周りに座らせて、一人一人の顔を眺めてから深々と頭を下げて言った。

「えー、……御神輿は遊びじゃない。神様を運んで、収穫に感謝してお祝いする大事な立派な仕事です。……二小のみんな、よく来てくれたね。本当に、本当にありがとう!菜畑のみんなもお疲れ様!」

 すぐに拍手が起こり、葵達は思いも寄らぬ感謝の言葉に全員はにかんで俯いてしまった。そして町内会長は、拍手が静まるのを待ってから言った。

「それじゃあ今年は……香苗ん坊が締めてくれ!」

 香苗は一瞬きょとんとしたが、すぐに「ほいっ!」と跳ねるように立ち上がり、みんなも立ち上がった。そして香苗は二三歩出て振り返り、嬉しそうな笑みを浮かべながら両腕を広げて言った。

「……それではっ、お手をハイシャークっ!」

 大人達も手を広げ、一本締めをしたことがない葵達も少しどぎまぎしながら路子達の真似をして腕を広げた。香苗は込み上げる嬉しさを噛み殺し、無理矢理真面目な顔を作って、その顔がまた笑顔に戻る前に思い切って声を張った。

「……ヨォーーおっ!」

パパパンッ パパパンッ パパパンッ パンッッ!

「ありがとーございましたっ!」

ワーーーッ!

 盛大な拍手が起こり、神社を出発してから約一時間半、時刻は午前十一時半を少し回って今年の神輿練りが無事終了した。秋祭は宮入り<御神輿を社に戻す儀式>後も大人達の宴会という形で日没まで続くが、いつもなら香苗達はここで解散して遊びに行くか、或いは神社の宴会に出てお昼ご飯を食べてから学校で遊んでいた。

 しかし、今年の御祭はまだ前半が終わったばかりであり、香苗は大人達からジュースとお菓子と文具券が入った手提げ袋を受け取りながら早く学校へ行きたくてうずうずしていたが、香苗にはもう一つ、どうしてもしなければならないことがあった。

「……」

 大人達の手によってトラックの荷台に積まれた御神輿に目を向けてから、香苗は町内会長に歩み寄って言った。

「……石倉先生」

 町内会長はきょとんと振り返った。

「ん?…どうした?」

 香苗は神妙な顔つきで、町内会長の目を真っ直ぐ見て尋ねた。

「あの……来年もみんな来たら……御神輿変ったりしないよね?」

「……」

 この時既に路子の父親から香苗達の奮闘を耳にしていた町内会長は、一時目を丸くしてから愉快そうに微笑んで答えた。

「そんなことしたら、バチ当たる!……新しいの買っても神輿はずっと大事にとっといて、担げるようになったらまた担ぐさ。変えるんじゃなくて、増やすんだ!」

「……イエーーイッ!!」

 香苗は目を輝かせ、路子と美夏や百合恵ともハイタッチをしてから、状況がわからずきょとんとしている葵達に向かって嬉しそうに捲し立てた。

「みんな来てくれなかったら、今年は半分だったのさっ!でも来てくれたからぜーんぶ回れたし、また来てくれたら御神輿担げるから来てよねっ!来年はヤマっちだって、絶対ぜーーったい来るしっ!そーだ早く行こっ!きっとヤマっちもー来てるよっ!!」

 由之真が稲刈りで御祭に来ないことは御神輿が始まる直前に聞いていたが、御神輿の顛末を詳しく知らない葵達は一体何が半分で全部なのかさっぱりわからず、里子は目をぱちくりさせながら反射的に、「…う、うん!」と頷いて百合恵を見た。

 久しぶりに香苗の嬉しさメーターが振り切れる瞬間をまのあたりにした百合恵は、腹に手を当て吹き出すのを堪えながら言った。

「……それじゃあみんな、み、宮入り見てから次の御祭へ行きましょう!」

「おーーっ!」



 仲村のポケットが震えたのは、一年生の合唱コンクールが終わってから約二〇分後のことだった。仲村は運んでいたパイプ椅子を駐車場の樫の木に立て掛けて、ジャージのポケットから急いで携帯電話を取り出した。

「もしもし!……ああ、うん!………そっか、こっちも予定通り。………えっ、十五人!?マジで?」

『ええ、マジよ。二小関係は十一名だけど、石倉医院の方もいらっしゃるのよ。だからテーブルだけにして、やっぱり校庭にブルーシート敷いた方がいいかしら?』

 仲村は、たった今運んできたパイプ椅子を見下ろして答えた。

「んー……今日は風ないし、天気もいいしその方がいいね。…それより、材料とか足りるの?」

『材料は大丈夫!午後に田辺さんからも届くし、とりあえずテーブルとかは帰ったらやるから、八岐くんが来たらすぐ始められるように、七輪とね…』と言い掛けた時だった。

「おっ!」

『…なあに?』

 白いタオルで髪を拭いながら中学部校舎から出てきた由之真に気付いた仲村は、およそ十五分程前の光景を思い出しながら答えた。

「ああ、八岐くんなら疾っくに来て、今シャワー浴びて戻ってきたとこ!」

『え?…シャワーって?』

「フフッ、後で話すよ。八岐くんと代わる?」

『……ううん、あと…そうね、十…五分くらいで帰るからって言っといて。じゃあ、よろしく!』

 百合恵は今朝仲村を乗せて一旦学校に寄ってから御祭へ向かったが、百合恵の『帰る』という言葉にそこはかと無い違和感を覚えつつ、仲村は苦笑して答えた。

「オッケ、じゃあね!」

 そして中村は携帯電話をポケットに戻し、悠然と歩いてくる由之真に目を向けてもう一度苦笑した。

 十一時過ぎには稲刈りを終えた由之真が来ると聞いていた仲村は、合唱コンクール終了後に小学部校舎の児童玄関へ向かった。しかし、児童玄関の前には野菜てんこ盛りの大きな手提げ袋が二つとバックパックが置いてあったが由之真の姿はなく、さて何処へ行ったやらと思った時だった。

(……!)

 微かに聞こえた水の音に、飼育小屋の近くの水道を思い出した仲村は、すぐにそこへ向かった。そして水道で頭を洗っている児童の姿が目に入った時、仲村は声を掛けるのも忘れて立ち止まってしまった。その子はもはや泥んこではなく、まるで泥の上で転げ回ったかような全身灰色の泥人間だった。

 仲村の気配に気付いた由之真は、手で髪を絞りながらきょとんと振り向き、唖然としている仲村に微笑んで言った。

「……こんにちは」

 そこで仲村は我に返り、呆れたように笑いながら答えた。

「フフフッ、こんにちは!……どうしたのそれ?田圃で転んだ?」

 由之真は泥まみれの自分の足を見下ろしてから、仲村と同じような呆れた笑みを浮かべて答えた。

「……四回倒れました」

「アハハハハッ!」

 きっと泥を拭く間も惜しんで来たのだろうと思いつつ、仲村は一頻り大笑いしてから尋ねた。

「フフ……あー、着替えはあるの?」

「あります」

 仲村は一度軽く頷いてから踵を返し、手招きをして言った。

「じゃあ来て!中学部にシャワーあるから!」

 そして、約一〇分でシャワーを浴びて戻ってきた由之真に微笑みながら尋ねた。

「……さっぱりした?」

「はい、ありがとうございました」

「どーいたしまして!」と元気に答えて、早速百合恵の言葉を伝えた。

「……今ね、櫛田先生から連絡あって、あと十五分ぐらいで来るって。七輪出しといてって言われたんだけど、家庭科室?」

 仲村は金曜の夜、御祭から戻るまで由之真をサポートして欲しいと百合恵から頼まれ、それを内心楽しみにしていたが具体的な指示は受けていなかった。その原因は、百合恵が御神輿組の昼食の段取りを由之真に一任していたからだが……もっとも、それは総合の時間に「ヤマっちが何作るか当てっこしよっ!」と香苗が言い出したからだが……由之真はタオルを畳みながら答えた。

「……七輪は宿直室です。廊下にある台車で運んでください」

「他には?」

「あとは家庭科室にあるものと、正面玄関にあるレンガと一升瓶です」

「…オッケ!」と仲村が小学部校舎へ向かって歩き出したので、由之真も仲村に続いた。仲村は預かった鍵で児童玄関を開けながら、ふと思い出して言った。

「……あっ、そう言えば石倉医院の方も来られるから、全部で十五人だって!…手伝おっか?」

 仲村は料理の手伝いを申し出たつもりだったが、由之真は少しも驚かず手提げ袋を拾い上げながら答えた。

「……じゃあ、これ家庭科室までお願いします」

 コンテナ室も兼ねた家庭科室には校庭側に大きな扉があり、由之真が扉を開くと澄み切った空から降ってきた清澄な風が家庭科室を通り抜けた。扉の前にはカセットコンロと大きなクーラーボックスが二台ずつ、三枚のレンジガードと蓋に『10』と書かれた大きな土鍋が二つ、そして薪らしき流木の束と備長炭などがあり、これはとても一度では運び切れないと仲村が感じた時だった。

シュッ

(?…!) 

 何かを擦ったような物音に目を向けると、それはいつの間にか白い大きなエプロンを掛けた由之真が、エプロンの帯を腰で蝶結びにした瞬間だった。そして由之真はエプロンのポケットから校章入りの手ぬぐいを取り出し、それを数歩歩く間に被るや否や、既に鍋が載っている二つのガスコンロを同時に点火し、間髪を容れず蛇口を捻って野菜を洗い始めた。

「……」

 それは一見どこの家庭でも見られるありふれた仕草だが、一瞬の勝負を見極める剣道部顧問の目は、それが幾年もの反復を経て身に付いた仕草である事を見抜いた。すぐに仲村は、由之真が主婦の如く料理に慣れ親しんでいることを実感したが、それよりも由之真の手ぬぐいが男子剣道部の面下めんしただったらと、由之真が防具を着て戦う勇ましい姿を想像してみた。

「……グッ」

 しかし、その想像と現実のエプロン姿があまりに懸け離れていて、仲村は思わず少し吹き出してしまった。すると由之真がきょとんと顔を上げたので、仲村は目を逸らしつつ苦笑して尋ねた。

「あー、えーっと……お昼ご飯ってなあに?」

 由之真は、少し愉快そうに微笑んで答えた。

「……みんなには内緒です。すき焼き風芋煮鍋と太巻きとか……鍋はもう一つ、まだ決めてません。あと、天野さんの手作りマロンアイス」

 つい今し方までの自分ならきっとその言葉を疑っていたと思いつつ、仲村も愉快そうに答えた。

「……フフッ!デザートまで付くなんて、なんか凄そうね!先生の分もよろしく!」

「はい」と、答えながらもてきぱきと手を動かす由之真の邪魔をせぬよう、仲村も早速作業に取り掛かろうと廊下へ向かったが、ふとドアを出てから尋ねた。

「……なんで内緒?」

「みんなで当てっこしてるんです」

「そっか。フフッ!」

 この時仲村は、これから百合恵達が到着する十数分足らずに垣間見た光景が、百合恵ですら見たことのない貴重な光景であることを知らなかった。

 台車が小さかったので三度往復する羽目になったが、まず七輪とレンガと一升瓶を運び、次にクーラーボックスとカセットコンロ等を運ぼうと家庭科室の扉の外に台車を置いた。その時ふと由之真に目を向けた仲村は、いつの間にかテーブルに出現した大きな野菜の笊を見て漠然とした違和感を覚えたが、この時は由之真が左手で切っている葱を見ながら(…左利きなんだ)と思うに止まった。

 しかし、最後の土鍋は手で運ぼうと、手ぶらで戻った時だった。

「……!?」

 没頭している所為か由之真は仲村に気付かず、右手で春菊を、左手で白菜をリズミカルに手早く切っていた。そして先程の笊の隣に、三分前には無かったもう一つの野菜の笊が増えていて、由之真はその笊に切った野菜を素早く盛り付けると、即座に野菜をまな板に置いて、また両手に包丁を持って瞬く間に野菜を切り終え笊に盛り付けた。

「………」

 その器用というか奇妙な二刀流に唖然としていると、由之真ははっと振り返り、すぐに包丁をまな板に置いて無言で仲村を見つめた。驚かせたと思った仲村は、由之真が置いた包丁を見てから微笑んで尋ねた。

「ごめん、びっくりした?……でも、いつもそんな風に切ってるの?」

 二本の包丁を使うことは、けして一般的ではないが異常とまでは思えず、むしろ巧みに見えたので褒めようとしていたし、そうすれば少しは子供らしく得意がるかもしれないと思った。しかし由之真は一度目を伏せ、すぐに顔を上げて仲村の目を見て答えた。

「いえ……急いでる時だけです」

 その口振りから一瞬何かを感じたが、仲村は取り敢えずにこやかに「…そっか、でも凄い技だね!初めて見た!」と褒めた。しかし、由之真はいくらかはにかんだような笑みを浮かべただけで、今度は右手で普通に野菜を切り始めた。この時仲村は何となく(もしかして……見られたくなかった?)と思ったが、とにかく運んでしまおうと土鍋に手を掛けた時だった。ふとあることに気付いた仲村は、まじまじと由之真の手元を見て尋ねた。

「……八岐くん、左利きじゃないの?」

 由之真はきょとんと顔を上げて少し考えてから、かつて百合恵に答えた時と同じ言葉を使った。

「……両手使いです」

 仲村は薄く眉間に皺を寄せ、猶も尋ねた。

「両手って……じゃあ、箸とか鉛筆は?」

 両手が利く生徒は希にいて、その多くが幼年期に箸としょを右に矯正された先天的左利きであることを仲村は知っていた。それ故に左で字を書くならやはり左利きで、もし右で書くなら次は矯正経験の有無を尋ねるつもりだったが、由之真の答えはそのどちらでもなかった。

「どっちも学校では右で、家では左です」

「!……そう」

 それは敢えて左右をまんべんなく使っているという意味に受け取れるが、仲村は何故そうするのかを問うよりも、両手が利くと聞いた時から一番知りたかったことを尋ねた。

「…じゃあさ……ボール投げるのはどっち?蹴るのは?」

「両方です。蹴るのも」

「へぇーっ!…イイね!」と感嘆しつつ、仲村は急にワクワクしてきた胸を静めようと、大きく息を吐いて腕を組んだ。

 体育の教員である仲村にとって、両手足が自在に利くという希な個性は、男子剣道部の団体戦出場という悲願を一時忘れさせる逸材だった。そして、とにかく一年半後には由之真のあらゆる可能性を思う存分授業で見出せる……と、仲村は我知らず嬉しげに微笑みながら異様に目を輝かせて由之真を見つめていた。

(……?)

 香苗の怒号に動じない由之真も、俄に目の色を変えた仲村には怯んだのか、時間も惜しいので「…料理します」と言ってそそくさと作業に戻った。仲村は「うん!頑張って!」と、二つで十キロはあろう土鍋を軽々と持ち上げて溌剌とした声で言った。

「他に運ぶのない?先生何でも運ぶよ!」

 由之真は目をぱちくりさせながら、壁際にある二つの長机を指差して言った。

「……じゃあ、その机も…」

「オッケ!」



つづく

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