第二十話 最悪の月末
「……よしっ!」
慌しい月曜の朝を乗り切って、鏡の前で一度大きく深呼吸した後、百合恵は自分の頬を両手で叩いて気合いを入れてから宿直室を出た。そして教室のドアの前で立ち止まり、もう一度深呼吸してからドアを開けた。
「……みんなおはようっ!」
「おはよーございまーす」と返すなり、早速香苗が尋ねた。
「……先生、ヤマっち今日休みなの?」
それは夕べ百合恵が予想した通りの言葉であり、百合恵は思わず微笑みながら夕べ用意しておいた答えをそのまま述べた。
「ええ、そうよ。……八岐くんは山でちょっと怪我をして、今月いっぱいお休みです」
「…………」
(……あら?)
百合恵の予想では、ここで一斉に驚くみんなを落ち着かせてからきちんと説明するはずだったが、残念ながらそれは予想ではなく百合恵の勝手な予定だった。思いの外ショックを受けた香苗達は時が止まったように固まり、ただ呆然と百合恵を見つめていた。慌てた百合恵は、自分の拙い想像力を呪いながらしどろもどろに説明した。
「……えっとね……怪我は大したこと無いのよ!夕べ八岐くんから連絡があって、八岐くんが自分でそう言ったの。……声も元気だったわ!」
これでひとまず無事を伝えたつもりだったが、今月いっぱいならば丸一週間学校を休む怪我が大したこと無いわけが無く、香苗は百合恵が気の毒になるほどか細い声で尋ねた。
「……病院…どこ?」
(!)
百合恵は渡りに船とばかりに、その質問の答えをきっかけにして一気に説明することにした。
「……どこの病院でもないわ!八岐くんは家で安静にしてるから。怪我って言っても山で手と足を打撲しただけなのよ。ただ……普通に走れるようになるまで十日ぐらい掛かるそうだから……全治十日だけど、一週間休めば大丈夫ってことね!」
「……」
最後の言葉には百合恵の思惑が混ざったが、香苗は一時百合恵の瞳をじっと見据えてから、安堵の吐息をついて言った。
「はぁ……チョーびっくりした!先生それ先に言ってよ!」
おそらくどう話しても結果は同じだろう思いつつ、百合恵は苦笑して「…そうね」と素直に認めながら美夏と路子を見た。二人とも安心した表情で香苗を見ていたが、ふと路子が腕を組みながら愉快そうに言った。
「あー…山ってあれか?……きのこ採りとか」
「あ、そーかも!…八岐くんバスできのこの本読んでたし」と美夏が微笑んだところで、ようやく百合恵はほっと胸を撫で下ろしつつ、きっと由之真もどう話そうか苦労したに違いないと思った。
昨夜の電話で由之真は、「どうしたの?」という百合恵の問いに五秒間の沈黙を経てから怪我のことを切り出したが、その時百合恵は「えっ!?」と素直に驚いた。それ故香苗達も同じように驚くと思い込んでいたが、本人の声を聞いた自分と人づてに聞いた香苗達とでは状況が異なるし、今思えば自分の驚きは、由之真のファックスを拾った時から感じていた胸騒ぎが的中した驚きのような気もした。
(……まあ、いっか)
何はともあれ、できるだけみんなを安心させるという最初の難関は突破したと思えた時、朝礼の予鈴が鳴った。
「はい!……じゃあみんな体育館へ行きましょう!」
「はーい!」
「……」
元気に答えて廊下へ向かうみんなの背中を眺めながら、そこに由之真の背中だけが無いことに百合恵は違和感を感じたが、実のところ、香苗達は違和感どころではなかった。
朝礼が終わり、とぼとぼと階段を昇りながら、いつにも増してぶっきらぼうな口振りで路子が切り出した。
「あー……水曜どうすんのさ?」
「……ん゛ー……」と、さも不機嫌そうに呻きながら、香苗は拳で軽く廊下の壁を叩き、また「ん゛ー……」と呻いて俯いた。すると美夏が、無理に笑顔を作って言った。
「あ、あのね、……届けに行ったらダメかな?」
「あー……届けるだけならいいか……」と路子は多少機嫌を戻した声で答えたが、香苗は黙ったまま教室に入り、鼻から大きな吐息をついて教室のドアをぞんざいに閉めた。そして席に着くなり机に突っ伏し、深い溜息をついてから動かなくなった。
「………」
いつも元気な香苗がこんなに落胆している姿をはじめて見た美夏は、かける言葉が見つからず不安げに路子を見たが、路子はなんとも言えない苦笑を浮かべながら首を傾げ、窓に目を向けた。空は今にも泣き出しそうな色をしていたが、何故みんなが……特に香苗がこれほど沈んでいるかと言えば、それは一昨日の土曜から日曜にかけて香苗が中心となって企てていた、ある計画が原因だった。
その計画とは、水曜日の放課後に開催する予定だった、由之真の十一回目の誕生会だった。香苗は合同林間学校の前からあれこれ考えていたが、金曜日に帰宅するなり早速路子に計画を打ち明けて、昨日は美夏を交えて三人でどんな会にするか、どんなプレゼントを渡そうかと散々話し合い、もちろん百合恵も仲間に引き入れ、けして由之真に悟られぬよう照とも打ち合わせてみんなで由之真を驚かそう思っていた。
しかし、それが全て台無しとなった今、怪我ならしかたないとわかっていても、胸を躍らせていた間に中止が決まっていたかと思うと悔しくてしかたなかった。せめて由之真の悪口でも言えば少しは気が晴れるかと、香苗は朝礼の間中思い付く限りの文句を心で言い散らしたが、言っている最中はよかったが、却って気分が悪くなっただけだった。
斯くの如く、香苗がふて腐れるのはしかたないと思いつつも、そろそろ百合恵が戻る前に、路子は香苗の脇腹を拳で押しながら言った。
「あー……八岐ん家に届けに行くなら、私も行くけど……」
美夏がすかさず「あ、私も行くよ!」と同意すると、香苗は身を起こしてちらりと路子を見やってから、「……うん」と小さく頷いた。その表情に少し生気が戻った気がした路子は、意地悪そうに口元を歪ませながら人差指で香苗の頬を突っついた。
「……なにさ?……一回は一回!」と香苗がやり返すと、その隙を狙って美夏が香苗の頬を突いて逃げたので、香苗は美夏を捕まえて「うりゃーっ!」と何度も美夏の両頬を突っついた。
「フハハッ!」
「ハハハッ!」と笑い合っているところへ百合恵が戻り、じゃれ合うみんなを優しげに眺めながら張りのある声で言った。
「はい、席について!……それでは、授業を始めます!」
「きりーつ!……礼!……着席!」
そして国語の時間が過ぎて、二時間目の理科で使う十五キロのおもりを美夏と二人で運んでいた時だった。ふと美夏が「ふー、重いねえ。きっと八岐くんなら一人で持てるのに」とおっとりと言った。それは不満ではなく非力な自分に向けた言葉だったが、その時香苗はあることに気付いた。
(そっか……ヤマっちいないんだっけ……)
それは当たり前のことだったが、いままで誕生会のことばかり考えていた香苗にとっては新鮮な事実だった。そして香苗は、由之真がいないとどうなるのかを理科の間に考えてみた。そのせいか、うっかり十五キロの鉄塊を足に落としそうになったが、急に口数が減った香苗の様子を見ていた路子が、咄嗟に香苗の腕を引いた。
ゴドッ!という大きな音が響いて、すぐに百合恵が「大丈夫!?」と香苗の足を見たが、幸いにも足は無事だった。
「あー、ぼーっとすんなよ。足潰れるぞ」
「はは……ごめん!サンキュ!」
「……」
自分の代りに路子が注意してくれたので「気を付けて」と言うだけにしたが、百合恵は自分も注意不足だったと気を引き締めた。そして香苗はそれからも何となく上の空だったが、それは三時間目が終わった直後だった。
「先生、ヤマっちの係みんなでやんないと……先生が全部やるんじゃないよね?」
「!」
百合恵は一瞬目を丸くして驚いたが、それは後ろで耳を傾けていた路子も同じだった。妙におとなしいと思ったらそんなことを……と路子は思わず苦笑したが、そうするわけにいかない百合恵は、苦笑を噛み殺して真面目に答えた。
「……そうね、もちろん先生一人じゃ無理だから、みんなで分担することになるわね」
「じゃあさ、ちゃんと係の表作った方がいいよ!みんなでさ!」
実のところ、百合恵の机の引き出しには夕べ作った係のシフト表が入っていたが、百合恵はそれを出さずに微笑んで言った。
「それはいいアイデアね。それなら、昼休みにみんなで作りましょう」
「おーっ!」とガッツポーズをとって、香苗は早速ノートに線を引き始めた。それからいつもの快活な香苗に戻り、昼休みには和気あいあいと係の分担を決めて、放課後は昼過ぎに降り出した大粒の雨にも負けずに野菜の収穫をした。そして帰り際、美夏が由之真へのプレゼントについて百合恵の意見を求めた時だった。
「……先生。八岐くんの誕生日に、みんなでプレゼント届けに行くんですけど、先生も行きますか?」
「……え」
百合恵は一瞬固まり、次に窓へ目を向けて「んー…」と少し考えてから尋ねた。
「……みんなで、八岐くん家にプレゼントを持って行くの?」
「はい!」と美夏がにこやかに答えると、百合恵は香苗達を見渡してから言った。
「……えーとね……みんなごめん。先生、話すの忘れてました。……夕べ先生がかけ直したら照ちゃんが出て、先生はいつ頃ならみんなでお見舞いに行っても大丈夫かって、照ちゃんに聞きました。……でも安静にしなきゃいけないから、お見舞いは遠慮して欲しいって。……だから、プレゼントを渡すのは…」来週にしましょう、と百合恵が言い終える前に香苗が何かを呟いてから、走って教室を出ていった。
そしてすぐに美夏と路子が香苗の後を追ったが、一人残された百合恵は、軽く吐息をついてから窓際へ行って中学部校舎へ続く通路を見下ろした。すると案の定、中学部へ向かって猛然と駆ける香苗と、その後を追いかける路子達が見えた。
「………」
おそらく照に直接聞きに行ったのだろうと思いながら、百合恵は由之真の席に座って頬杖をつき、児童達にはけして見せない盛大な溜息をついた。
みんなに話すのを忘れていたとは言ったが、もちろん忘れていたわけではなく、更に百合恵は水曜が由之真の誕生日なのも知っていたし、もしかしたら香苗達が何か用意するしれないとも予想していた。それ故に、電話をかけ直してまで照に尋ねたのだが、身内にお見舞いを断られたら諦めるしかなった。そしてこの事も朝に言うべきだったと後悔したが、朝はとにかく香苗達を安心させることが第一と考え、敢えて言わなかったのが失敗だった。
(……ったく……どーして怪我なんてするのよ……)と心で呟いて、百合恵はそのままみんなの帰りを待つことにした。
中学部校舎に飛び込んだ香苗は、とにかく最初に会った人に聞こうと辺りを見回した。そして階段を下りてきた仲村を見つけるなり、駆け寄って尋ねた。
「あっ、あのっ!……照ちゃん……石狩照さんはどこですか!?」
「えっ!?」
突然現れた香苗達に驚いたが、すぐに仲村は丁寧に答えた。
「……照ちゃん、今日は学校に来てないの。八岐くんが怪我をして、介護するから二三日休むって連絡を受けました」
「………ありがとうございました」と力無く答えて、香苗はそのまま来た道を引き返した。美夏と路子は仲村に軽く会釈してから、香苗の後を追った。
(……?)
仲村はとぼとぼと歩く三人の背中を眺めつつ、これはいつか百合恵に聞いてみようと思った。
小雨の通路をゆっくり戻りながら、ふと香苗が俯いたまま口を開いた。
「……ミチさ…」
「ん?」
「カイゴって……看病のことだよね?」
「あー、そうだな」
香苗は路子に顔を向けて、路子がはじめて聞く弱々しい声で尋ねた。
「……ヤマっち、ホントはスゴイ怪我してんじゃないかな?……」
路子は薄く眉間に皺を寄せ、一度校庭を見てから答えた。
「あー………先生に自分で電話したんだし、大丈夫だと思う。でも……」
一拍おいて、路子は滅多に見せない優しげな笑みを浮かべて言った。
「……聞けばいいのさ」
「……」
香苗は駆け出し、正面玄関から校舎に入ってポケットの財布を出しながら公衆電話の受話器を外した。
『ルルルルル……ルルルルル……ルルルルル……ルルルルル……』
「………」
誰も出なかったが、香苗は受話器を握り締めながら辛抱強く待った。そして十回目のコールが終わった後だった。
『ルルルルル……ルルッ……はい、もしもし?』
「っ!!……あ、あの……御門香苗ですが…八岐くんの家ですか?」
声は確かに照の声だが相手が名乗らなかったので、香苗は緊張してどぎまぎと尋ねた。すると受話器の向こうの人物は、すぐに全てを察したかのように答えた。
『ああ、香苗ちゃん!……あー、ごめんね!今由ちゃん寝てるの……ちょっと怪我しちゃって……櫛田先生から聞いた?』
「……うん、あの………」
『…なあに?』
香苗は傍に立つ美夏と路子を見てから、思い切って尋ねた。
「………ヤマっち……ホントに大丈夫?」
香苗の心配を察した照は、優しく明るい声で答えた。
『……うん、由ちゃんは大丈夫!心配かけてごめんね!……自分で歩いて学校に行けるようになるまでちょっと休んじゃうけど、来週には行けるから。……そうだ!畑とね、あと動物達のこと気にしてたから、由ちゃんの代りにお願いね!……あ、もし夜起きて遅くなかったら、電話させよっか?』
一瞬、「うん」と答えようとしたが、香苗はその時咄嗟に浮かんだ名案の方を選んだ。
「……あ、ううん!ヤマっちには言わないで!……明後日また電話するから!放課後の……三時頃!」
『明後日?……あー!うん、わかった!フフッ!じゃあ、明後日の三時には起きてるようにするね!もちろん内緒でね!』
「うんっ!!」と元気に頷いて、香苗は受話器を置いた。
それは、ずっと誕生日に拘ってきた香苗の意地のようなものかもしれないが、とにかくこれで由之真を祝えるし、ビックリさせることもできるので、香苗は路子達に満面の笑みを浮かべて言った。
「ハハッ、カンペキじゃんっ!作戦大成功っ!」
路子は歩き出し、肩を震わせながら苦笑混じりに言った。
「あー、何が作戦だよ!さっきまで泣いてたくせして」
「あたしが?泣いてないよ!」
「泣いてたよ」
「泣いてないってばっ!」
「アハハハッ!!」
いつもの雰囲気に戻ったのが嬉しいやら可笑しいやらで、美夏は腹を抱えて大声で笑ってしまった。そして、その愉快そうな笑いにつられて路子と香苗も笑った。
「…ハハハッ!」
「フハハハッ!」
「………」
三人の楽しげな笑い声を聞いて、百合恵は由之真の席から立って自分の机に戻った。すると教室に入るなり、香苗が百合恵に駆け寄って言った。
「先生!明後日の三時にヤマっちに電話するから!照ちゃんが内緒でヤマっち起こしてるって!だから、先生もね!」
よくわからなかったが、おそらく香苗の頼みを聞いた照が手筈を整え、当日の三時にみんなで電話をかけて由之真を驚かそうという企みだろうと思った百合恵は、愉快そうに口元を歪ませて答えた。
「……フフッ、乗ったわ!」
斯くして、百合恵の想像を超えた波瀾の月曜日がようやく過ぎて、一日雨となった火曜日も首尾良く乗り越え、みんなは何の疑いもなく普段より楽しい水曜日が来ると思い込んでいた。しかし、残念ながらその水曜日は普通の水曜日ではなかった。
火曜に降り続いた雨が遠い台風の影響なのは知っていたが、まさか大雨、洪水、強風注意報まで出るとは思いも寄らなかった。
(……お願い……小降りになって……)
フロントガラスに叩きつける雨を眺めながら、百合恵は以前もこんな風になった覚えがある気がしたが、それが由之真の転入日であることを思い出した時、急に雨が小降りになった。百合恵はあの時と同じように傘を開きながら車を出て、一旦樫の木で風を避けたが、念のために一応校庭を見渡した。
(……フフ、いるわけないわよね……)
雨に煙る校庭にはあの時のように由之真の姿はなかったが、今日が由之真の誕生日であることがなんだか不思議だと思いつつ校舎へ走った。そして今日も元気に朝の挨拶を交わし合い、いつものように授業が始まり、滞りなく午前の授業が終わった。ところが、それは「いただきます!」と言った一〇分後だった。
校内放送で教員達が招集されて、百合恵は嫌な予感を否定しながら職員室へ向かったが、予感は見事に的中してしまった。百合恵はとぼとぼと教室へ戻り、きょとんとしているみんなを見渡してから言った。
「えー……みんな食べながら聞いて。………大雨洪水、暴風警報が出ました。今は小降りだけど、この村は二時過ぎから暴風域に入るそうなので、今日は清掃をしないで昼休みが終わったらすぐに下校です……」
「………」
昼休みが終わるのは一時一〇分であり、その知らせは香苗達の耳に「三時に学校から由之真に電話してはならない」という無情な命令に聞こえた。不満の声さえ洩らさず呆然とする香苗達を見ながら、本来こんな事態は児童達にとって嬉しい事態だからこそ、百合恵は何故今日に限ってと思わずにいられなかった。しかし、ふと香苗が路子を見て言った。
「……いま電話したらダメかな?……ヤマっち起きてるかもしんないし」
「あー…そうだな」と相槌を打って、路子は百合恵を見た。百合恵は香苗達が半分以上給食を食べているのを確認してから言った。
「……そうね。じゃあ、かけてみましょうか」
みんなはすぐに一階へ下りて香苗が公衆電話からかけたが、たった三コールで留守電になってしまい、香苗はメッセージを入れずに三十秒待って、留守電が切れてからもう一度かけたが、はやり留守電になった。香苗は少し苛ついた口調で「御門香苗です。一〇分経ったらまた電話します」と言って受話器を置いた。
誰も何も言わずに教室へ戻り、給食の残りを平らげた。そして電話してからまだ八分しか経っていなかったが、香苗が立ち上がったのでみんなも立ち上がった。しかし、また同じ事を繰り返して教室へ戻り、無言で食器を片付けている時に路子が言った。
「……あー……悪いのは天気だし、しょうがないさ……」
「………」
時刻は一時になろうとしていたが、香苗達はもう一度電話をかけて、今度は無言で留守電が切れるのを待ってから受話器を置いた。そしてその時、香苗は一つの決心をした。
「……今日は残念だったけど、三時になったら、みんな家から電話してみましょう。先生も三時半ぐらいに電話してみるわ。……それじゃあ気を付けて、さようなら!」
「さよーならー」と返すなり、香苗はすたすたと教室を出て、美夏と路子も教室を出ていった。百合恵はみんなが校門を出るまで、教室の窓から見送った。
「……香苗、速いし」
いくら機嫌が悪いとは言え、集団下校で美夏が息を切らすほど速く歩くのはどうかと思った路子が、二〇メートルほど先を歩く香苗に声を掛けた。香苗は立ち止まり、そのまま二人が追い付くのを待ってから、またすたすたと歩き出した。そしてまた二人との差が開いたが、路子は何も言わなかった。
「……」
路子は香苗の思い詰めたような表情に何かを感じたが、よほど腹を立てているのだろうと思っていた。しかし、この時香苗は怒っているのではなく、ただ一つのことを考えているだけだった。そして香苗は分かれ道で立ち止まって二人が来るのを待っていたが、それなら一緒に歩くのと同じだろうと思いながら、路子は苦笑混じりに言った。
「あー…じゃあ、また明日」
「バイバイ香苗ちゃん!三時に電話しようね!」
「……じゃあね、バイバイ」とだけ言って、香苗は由之真に似た薄い微笑みを浮かべてから去った。その微笑みにまた何かを感じた路子は、ふともしかしたらと思ったが、いくらなんでもそれは無いだろうと思い直して美夏と共に歩き出した。ところが、そのもしかしたらは、もしかしてしまった。
「ただいまー」という娘の声に、事前に電話で集団下校の連絡を受けていた母親は、午後の仕込みの忙しさもあって「はーい、おかえりー!」とだけ答えた。そしてその二〇分後のこと、テーブルの上にあった「ヤマっちの家に行ってきます。すぐに帰ります」という書き置きを見つけた母親は、まずは大慌てで家を飛び出して自転車を確認したが、自転車はあった。次に歩いて二分のバス停へ走ったが時既に遅く、由之真の家の近くを通るバスは十五分も前に出てしまっていた。
途方に暮れた母親は、一瞬車でバスを追いかけようと思ったが、ふと思い立って由之真の家に電話をかけた。しかし留守電だったので、今度は縋る思いで学校に電話をかけた。
「……えっ!?……そうですか……」と答えつつ思わず吹き出しそうになったが、それはさすがに堪えて、百合恵は落ち着いた声で尋ねた。
「あの、今日が八岐くんの誕生日なのはご存じでしたか?」
香苗の母親は、少し苛立たしげに答えた。
『もちろん知ってますよ。先週からずっと言ってましたから……やっぱり迎えに行った方がいいですかね?』
母親がそう思うならば行くべきかと思ったが、百合恵は一拍おいてから諭すように答えた。
「……行き先はわかってますし、バスならこの嵐でも大丈夫だとは思いますが………香苗ちゃんはけして後先考えないような子じゃありませんから、よほど思うことがあって行ったんだと思います」
『……そうでしょうね。ずっと誕生会楽しみにしてましたし……』と母親の言葉が途切れたところで、百合恵はすかさず提案した。
「これから八岐くんの家ではなく、石狩神社の方に連絡して、保護してもらうように頼みます。もし誰もおられない場合は、大至急私が向かいますので、まずはそのままお待ちいただけますか?」
母親は一時考えてから答えた。
『……はい、お願いします』
そして一度電話を切ってから、百合恵は照の家である石狩神社の社務所に電話をかけた。すると社務所の手伝いをしていた照の元気な声が百合恵の耳に響き、百合恵はほっとしながら事情を説明した。
『えっ!?香苗ちゃんが?この嵐に?』
「ええ、三〇分ぐらい前に家を出たそうだけど……十中八九バスだと思うから、何もなければあと十分ぐらいで八岐くん家に着くと思うわ。……申し訳ないんだけど、香苗ちゃんが着いたら私に連絡してくれるかしら?」
『はい、わかりました!じゃあ私は由ちゃん家の方に行って待ってます』
「ありがとう!……あっ、八岐くんは元気?」
照は苦笑を浮かべながら答えた。
『はい、元気です。毎日ぐーすか寝てますよ!』
「フフッ、そう……じゃあ」と一旦受話器を置いて、今の質問は後でもよかったと思いつつ、百合恵は香苗の母親に電話をかけて事の次第を話した。
「……照ちゃんが家で待機してるはずですから、もう繋がるとは思いますが……できましたら、照ちゃんから連絡があるまでもう少しお待ちいただけないでしょうか?」
『……そうですか。……じゃあ、待ってます』と、母親は少し落ち着いた声で答えて受話器を置いた。そして気が気でない母親には悪いが、百合恵はお茶を飲みながらその場で照の連絡を待つことにした。ふと腕時計を見ると、時刻は二時になろうとしていた。
ピンポーン……ピーンポーン……
(……来た来た!)
早速照は「はーい!」と玄関を開けたが、傘も持たずに全身びしょ濡れで佇む香苗を見た瞬間固まってしまった。そして二人は一時見つめ合ったが、先に動いたのは照だった。
「……か、香苗ちゃん、とにかく上がって!身体拭かなきゃ!」
しかし香苗は首を横に振り、赤いリボンが掛けられた紙包みを差し出して言った。
「……すぐ帰るから……これ、ヤマっちに渡してください」
「……」
照は眉間に皺を寄せ、香苗の真剣な眼差しをじっと見つめてから厳とした声で言った。
「ダメ!……このまま帰したら、私が由ちゃんに怒られる。……由ちゃんが怒ったらもの凄く怖いんだから」
「!?」
照の言葉を真に受けた香苗は、目を見開き身をぶるっと震わせた。照は素早く香苗の腕を取り玄関に引き入れ、今度は優しげな口調で言った。
「ほら、靴脱いで。大丈夫だから……まず身体拭かなきゃね」
「……」
香苗は素直に靴を脱ぎ、腕を引かれるがままリビングに入った。照は香苗が多少濡れていると思って用意しておいたタオルを渡して、連絡と着替えのどちらを先にするか一瞬迷ったが、とりあえず香苗は凍えてはいないので連絡を優先した。
「……ちょっと待っててね!」
そして照が百合恵に連絡すると、百合恵は礼を述べてから香苗に代って欲しいと頼んだ。照は香苗に受話器を差し出しながら、微笑んで言った。
「…香苗ちゃん、櫛田先生がちょっとだけ話したいって」
「……」
香苗はおずおずと受話器を受け取り、消え入りそうな声で言った。
「……もしもし」
『…香苗ちゃん、大丈夫?』
「……はい」
百合恵はゆっくりと、優しく言った。
『そう……じゃあ、今からお母さんに電話するから、すぐにお母さんからかかってくると思うわ。……まあ、きっと叱られるけど、大丈夫!』
「……はい」
『じゃあ切るから、待ってて』
百合恵は電話を切り、すぐに香苗の母親に香苗の無事を伝えた。そして、百合恵が電話を切ってから三十秒も経たない内に電話が鳴り響き、照が出ると案の定香苗の母親からだった。
「はい、もしもし………はい………いえいえ!………はい…」
照が微笑みながら無言で受話器を差し出すと、香苗は一時受話器を見つめてから受け取った。しかし香苗は、まるで目の前に母親がいて叱られるのを待っているかのように押し黙ってしまった。息遣いは聞こえたが、香苗が何も言わないので母親は静かに尋ねた。
『……香苗ちゃん?』
「……うん」
母親は息を吸い込み、一拍おいてから一人娘を叱咤した。
『……馬鹿っ!!』
「!!」
照が気の毒になるほど香苗は萎縮したが、目を固く閉じながらも受話器を耳から離さなかった。母親は、今度はありったけの親しみを込めた声で言った。
『……ったく、心配かけて、迷惑かけて………お父さんには言わないけど、あとでちゃんと先生に謝んなさいよ?』
香苗は思い切り鼻を啜ってから答えた。
「……ん」
『うん……じゃあ、照ちゃんに代って』
香苗が照に受話器を渡すと、照は香苗に悪戯っぽい笑みを向けてから言った。
「……代りました」
『ごめんね照ちゃん……八岐くん怪我して大変なのに…』
「いえいえ!ちょっとびっくりしただけです!」
『ったく……ずっとね、ヤマっちびっくりさせるんだって言ってたんだけど……照ちゃんびっくりさせてどうすんのよねえ?……フフッ…』
その少し涙を含んだ声を聞きて、すぐにでも香苗を帰そうかと思ったが、照は香苗を見た時から思っていたことを切り出した。
「……おばさん、あの……」
『なあに?』
「……香苗ちゃんびしょびしょだし、何だか嵐もひどくなってきたし、今日は家に泊めてもいいですか?明日私が一緒に登校しますから……」
『………』
母親は窓の外を眺めながら、このまま迎えに行きたいが、行けば家の者に知られるし、照に誘われたとでも言えば嘘にはならないかと思いつつ答えた。
『……そうねえ、これからもっと荒れるみたいだし……それじゃあお願いね。今度天ざる定食べに来て!』
「はい!責任持ってお預かりします!……じゃあ、香苗ちゃんに代ります?」
『……ううん。行儀良くしなさいって言っといて』
照は受話器を置いて、きょとんとしている香苗に向かって少し愉快そうに尋ねた。
「香苗ちゃん、勝手に決めちゃったけど良かった?」
「……うん」
「じゃあ……由ちゃんもう少し寝かせてあげたいから、まずは一緒に温泉入ってあったまろっ!そんなに広いお風呂じゃないけどね」
香苗は目を輝かせて元気よく「うんっ!」と答えてから、慌てて口に手を当てた。一方、母親は電話を切ってからすぐに学校へかけて百合恵に報告した。
「……良かった。まずは安心ですね」
『はい……先生、大騒ぎしちゃって、ご迷惑お掛けして本当に申し訳ございませんでした』
母親は電話に向かって頭を下げて、百合恵は軽く首を振りながら苦笑を浮かべて答えた。
「……いいえ!なんにも迷惑じゃありません!香苗ちゃんも私も、今日のことで沢山学びましたしたから。……」
百合恵は受話器を置いて、深く安堵の吐息をついてから窓に目を向けた。風雨は一段と強まり、五分前まで見えていた校庭の桜は既に見えなくなっていて、むしろ香苗がすぐに家を出てくれて良かったと思った。そして、次に香苗と会ったら久しぶりに「お約束」をしなければならないが、前にしたのが由之真とはじめて出会った日であることを思い出し、我知らず微笑んだ。
温泉で暖まった身体を雨に濡らさぬよう、照と香苗は由之真の防水ポンチョを着て由之真宅へ走って戻った。
「ふーっ!すっごい嵐だね……これじゃバスも止まっちゃうかも」
そして、照がポンチョを玄関のフックに掛けた時だった。
「……あっ!?」という香苗の声に振り返ると、電話台の横に腰を下ろして、こちらをきょとんと見ている由之真がいた。
「ああ、由ちゃん起きたんだ!……でも、どうしたの?……」と照が尋ねると、由之真はゆっくりと立ち上がってから答えた。
「……もうすぐ三時だから、電話がくると思って……」
「………」
由之真は一度寝ると簡単には起きないので、照は万全を期すために、みんなから三時に電話がくることを由之真に伝えていた。しかし、電話のことを照にばらされていることにも気付かず、香苗は口をぽかんと開けて呆然と由之真を見つめていた。
「……そっか、フフッ!……あのね、今日は暴風警報が出たから、お昼で下校になったんだって」
由之真は香苗を見ながら、微笑んで尋ねた。
「…そうなんだ」
香苗は由之真の右の頬と首筋、そして右腕全体に淡い桃色の痣があるのを見た時、胸に釘を打ち込まれたような痛みが走った。しかし、由之真のいつもの微笑みを見た瞬間、怒りや安堵を越えた大きな感情が湧いてきて、ただ絶対に泣くものかと思いつつ、頬を真っ赤に染めて微笑みながら元気に頷いた。
「……うん!」
そして由之真は、少し右足を引き摺りながらリビングに入り、照と香苗も後に続いた。
「今カフェラテいれるから、待ってて!」と照がキッチンへ向かい、香苗と由之真はソファーに座るなり、香苗が頬を染めたまま尋ねた。
「……あ、あのさ……びっくりした?」
「うん、びっくりした。電話くるって思ってたから」
「……ハハッ!甘いよヤマっち!フフフッ!」
香苗は愉快そうに笑って、「あっ、これさ……」とテーブルに置いた紙包みを持ち上げ、顔を真っ赤にしながら由之真に差し出して言った。
「はい!……ヤマっち、誕生日おめでと!」
「……ありがとう!」と微笑んで受け取り、由之真は躊躇無く包みをビリビリと破った。そして中身を見て、嬉しそうな笑みを浮かべて尋ねた。
「……こね鉢?」
「うん、そうだよ!おソバのこね鉢!」
それは直径三〇センチ程度の、盛皿にしても良いような小振りな栃のこね鉢だった。早速照が寄ってきて、目を丸くして尋ねた。
「えーっ!?これって高いんじゃないの?」
「ううん!……お婆ちゃんが半額で買ってきたんだけど、あたしがその半額で買ったの!だからそんなに高くないよ!フフッ!」
実のところ、そのこね鉢は香苗の祖母が香苗にあげると言ったものだが、貰いものをプレゼントにするのは嫌なので、一月分のお小遣いを祖母に払って買ったものだった。しかし最初の半額の値段を決めたのは、もちろん香苗の祖母だった。
「へー!……良かったね由ちゃん!マイこね鉢だよ!」と照が嬉しそうに言った時、電話が鳴った。
「はい、もしもし?………あっ、路子ちゃん?………うん、今起きてるよ!………ハハッ!うん、ちょっと待って!」
照は香苗に受話器を差し出し、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「……路子ちゃんから!なんかもう、バレバレみたい!」
「えっ!?」と顔を赤らめ、香苗は受話器を受け取った。
「……もしもし、ミチ?なんで知ってんの?」
路子は意地悪そうな声で言った。
『あー、さっきおばさんから聞いた。つーか、いま美夏と決めた。伝説にして語り継いでやるよ」
「えっ!?なんでさ!?そんなのナシッ!絶対ナシッ!!」
『フハハハッ!ったくフツー行くかよ?台風来てんのに!ハハッ!』
「行く時はあんまり降ってなかったのさ!フフフッ!……あ!ヤマっちと代るね!」と、香苗は由之真に受話器を渡したが、由之真が出た時には美夏に代っていた。
「……もしもし」
『あ、八岐くん!ハッピーバースデー!月曜はちゃんと来てね!じゃーねー!はい、路子ちゃん!』
すると「えっ」という声の後、路子が出た。
『あー……八岐、大丈夫か?』
「うん、大丈夫」
『そっか……あー………おめでと。じゃあ、…ブッ、ツー、ツー、ツー……』
「………」
お礼を言う間もなく切られてしまい、由之真は首を傾げながら受話器を戻した。由之真が「もしもし」と「大丈夫」しか言わなかったので、香苗は怪訝そうに尋ねた。
「あれ?……切られちゃったの?」
「うん」と、由之真が困ったように微笑んだのが可笑しくて、照と香苗は腹を抱えて笑った。
「フハハハッ!」
「フフフフッ!」
そして一頻り笑った後、照が言った。
「じゃあ、おやつにホットケーキでも作ろっか!」
「おーっ!サンセーっ!」
照と香苗は姉妹のように和気あいあいとホットケーキを作り始めて、由之真はソファーに座ってそれを眺めていたが、いつの間にかうとうとと眠ってしまった。ふとそれに気付いた香苗が、小声で照に言った。
「照ちゃん、ヤマっち寝ちゃった」
「え?…あ、ホントだ!」と照は由之真に歩み寄り、由之真の肩を揺すって言った。
「由ちゃん、寝るなら布団で寝ないと!由ちゃん?」
照はやれやれと肩をすくめて言った。
「ダメだこりゃ!……由ちゃん一回眠るとしばらく起きないから……まあ、眠れば眠るほど治るからいいんだけどね」
(……そーなんだ……)と香苗が思った時だった。突然電話が鳴り響き、照は「はいはーい!」と受話器を取った。
「はい、もしもし……あっ、先生!…………あー、由ちゃん今……あっ!」
一度寝たら起きないはずの由之真が目をぱっちり開けていたので、照は思わず驚きの声をあげた。
『……どうしたの?』
「いえ、フフッ、たった今由ちゃんが起きました!代りますから、少々お待ち下さい!」
そして照は保留ボタンを押してから由之真に言った。
「由ちゃん、先生だよ!」
「うん」
由之真はゆっくりと電話に近づき、受話器を取った。
「……由之真です」
由之真の声を聞いた百合恵は、ほっと息を洩らしてから言った。
『……八岐くん、お誕生日おめでとう。……香苗ちゃんとは会えた?』
「ありがとうございます。御門さんは、いま照とホットケーキ焼いてます」
『フフッ、そーなんだ。フフフッ……じゃあ、ゆっくり休んでしっかり治してね!』
「はい」
由之真は受話器を置いて、それからは起きていたが、ホットケーキを食べて照達が後片付けをしている内にまたソファーで眠ってしまった。しかし、ずっとソファーで寝かせておくわけもいかず、照と香苗は次に由之真の目が覚めるまでテレビを見たりゲームをして遊んだ。すると由之真は丁度夕ご飯の頃に目覚めて、ご飯を食べてから今度はちゃんと布団に入り、照と香苗は客間に布団を敷いて今夜は早めに寝ることにした。
(……)
香苗は天井を見つめながら、いま自分が由之真の家にいることが不思議な気がした。とにかく香苗は、あれだけ楽しみにしてたのに結局何も出来ずに終わってしまうのがどうしても許せなかっただけだった。急いで家に帰って、プレゼントを持って丁度来たバスに乗ったけれど、バスを降りた途端に傘が風で飛ばされて、無我夢中で神社の階段を駆け上った。そして、照が出てきた時には全てが叶った気がして、あとは由之真に会えなくてもいいと思ったが、叱られた後は大好きな照と一緒にお風呂に入り、由之真の痣を見て死ぬほど驚いたり安心したりしている内に、美味しいホットケーキにありつけて、あったかい布団に入って………と、ここまで考えて意識を失ったが、次の日香苗は三八度の熱を出して学校を休んだ。
しかし、その次の日には登校して、さすがに合同授業の体育は百合恵に休ませられたが、もはや完全にいつもの元気あり過ぎな香苗に戻っていた。そして駐車場で解散して、大騒ぎだった香苗達の今週は終わったが、次の日百合恵は、由之真の代りに飼育小屋の世話をするために学校を訪れた。
(……?……!!……)
車から降りた百合恵は、駐車場に停めてあった見覚えのあるジープを見た途端、畑へと走った。そして樅のトンネルを抜けて由之真の姿を見つけた時、百合恵は立ち止まってそのまま無言で由之真を見つめた。
(………まったく……みんながどれほど心配したと…………)
由之真は少しぎこちなく歩きながら嬉しそうに野菜を見ていたが、不意に百合恵の目に熱いものが込み上げてきて、それはどんなに袖で拭っても後から後から湧いてきて、ついに百合恵は諦めて思い切り鼻を啜った。
「……」
音に気付いた由之真がきょとんと振り返り、二人の目があった時また百合恵の目から大粒の滴がこぼれ落ちたが、百合恵は苦笑を浮かべて言った。
「………おかえり……」
終わり