第二話 嵐の月曜日
降水確率は二〇%、曇り時々晴という昨夜の予報を裏切り、月曜の朝は土砂降りと雷で始まった。百合恵は駐車場に車を停め、フロントガラスを叩きつける大粒の雨を眺めながら溜息混じりに呟いた。
「……ったく、ちょっとぐらい小降りになってよ」
朝礼の準備や飼育小屋の世話をしなければならない百合恵にとって、月曜の朝はただでさえ忙しい朝だった。加えて今朝はある企みを成功させねばならず、土曜に由之真のことを香苗に知られた時点で、月曜の飼育当番を香苗に代わってもらばよかったと後悔した。
百合恵の企みとは、朝礼で突然由之真を紹介して学校のみんなを驚かせるという子供じみた作戦だが、何故これ程いれこむかと言えば、去年転入生を紹介した時の、目を丸くして驚いていたみんなの顔が忘れられないからに他ならなかった。しかし去年と今年では曜日が異なることがネックとなり、百合恵は頭を捻った末に、やはり由之真をみんなより早く登校させることにした。
そして百合恵が土曜の別れ際、「八岐くん……明後日一〇分早く登校できる?」と尋ね、由之真が快諾してくれた時点で百合恵の企みはほぼ成功したも同然と思われた。しかし今日のバスが定刻運行するとは思えず、それでも百合恵が(どうかバスが遅れませんように……)と祈った時、不吉な雷鳴が轟いた。
ゴゴッ、ゴロゴロゴロ……
百合恵は一瞬身を縮ませ、もう一度溜息混じりに呟いた。
「うー……まあ、いっか」
そして覚悟を決めて、助手席に置いた傘を手に取り校舎へ走った。駐車場から正面玄関までは四〇メートル程度だが、横殴りの雨がひどいので、百合恵は一旦太い樫の木の陰で風向きが変わるのを待った。その時何気なく校庭を見渡した百合恵は、一瞬我が目を疑った。
「……!」
顔はフードで隠れているが、その見慣れぬ格好から、百合恵はすぐにその子が由之真だと思った。その子は傘も差さずに迷彩柄の大きなポンチョを着て、水煙立つ土砂降りの校庭を悠然と歩いていた。そして風向きが変わり、百合恵は正面玄関目がけて駆け出した。
「はっ、はっ……はぁっ!」
百合恵が正面玄関に着くと、その子が前を通り過ぎて児童玄関へ向かったので、百合恵は慌ててその子に声を掛けた。
「八岐くん!こっちこっち!」
フードを脱いだその子はまさしく由之真だったが、その時百合恵は困惑していた。由之真が頼んだ時間より五分早く来てくれたことは嬉しいが、バスの時刻表を把握していた百合恵はまさかと思いながら尋ねた。
「八岐くん……もしかして、歩いてきたの?」
しかし由之真は、ポンチョを脱いでからきょとんとした顔で答えた。
「……はい」
「こんな大雨なんだから、バスで来たらいいのに」と言おうとしたが、百合恵はその言葉を呑み込んだ。そして土曜は由之真を多少時間にルーズな性格と思ったが、その評価は百合恵の中で完全に撤回された。百合恵が「……そう」とだけ言うと、由之真はバッグから突然花束を取り出した。それは咲きかけの淡紅色とクリーム色と純白のチューリップに、香り良い薄紫色のライラックが一房入った花束だった。
「これ……教室に飾ってもいいですか?」
百合恵は花束を受け取り、ライラックの香りにうっとりしながら答えた。
「……もちろん!……照ちゃんから?」
「いえ、今朝俺が庭から摘みました」
「庭って……」と百合恵が問い掛けた時、校長が正面玄関に入ってきた。
「あ、おはようございます!」
「おはようございます。……あら!」と感嘆の声をあげた校長は、目尻に皺を寄せながら優しげに由之真を見つめた。
灰色がかった艶やかな長い髪を後で結い、落ち着いた光に満ちた目の上には上品な眉が弧を描き、鼻はすらりとしいていて、唇は絶えず微笑んでいるかのように優しく、校長はとても感じの良い老婦人だった。
「おはよう。あなたが……八岐由之真くんね?」
由之真はポンチョをたたみながら答えた。
「はい。おはようございます」
校長は一度じっと由之真の瞳を見つめ、すぐに百合恵に向き直った。
「良かったわ!今朝は雨で摘めなかったから、誰か持ってきてくれないかなって思ってたのよ!」
朝礼のテーブルに置く花は校長が持参することになっていたが、この花は自分の花ではないので、百合恵は困って由之真を見た。すると由之真が微笑んだので、百合恵はその笑みを了解と受け取った。
「えっと、じゃあ八岐くん。……とりあえず応接室で待ってて!後で迎えに行くから!」
「……はい」
「あ!」と歩き出した百合恵は、振り返りながら言った。
「校長先生、撮影してもよろしいでしょうか?」
校長はすぐに微笑んで答えた。
「ええ、どうぞ!沢山撮って!」
百合恵が職員室に入ると、柏葉が校長室に置くポットのお湯を用意していた。二人は軽く挨拶を交わし、百合恵は棚から花瓶を出して手早く花を生けた。そして壁に掛けてある飼育小屋と体育館の鍵を取ってから腕時計を見ると、朝礼まであと二〇分を切っていたので、百合恵は慌てて花瓶を携え体育館へ向かった。
ぼちぼち校庭には児童達が現れ、その中の三人連れの中に御門香苗がいた。雨脚は弱まっていたが風はまだ強く、三人は傘を斜めにしながら児童玄関に転がり込んだ。香苗は赤いゴム長靴を脱いで上靴に履き替え、傘立てに傘を放り込んでから元気に言った。
「ミチさ、理科のプリント最後のヤツ見してよ!」
香苗よりも頭半分ほど長身の少女は、少年のようなハスキーな声で素っ気なく答えた。
「あー……国語半分見せるならな」
ミチと呼ばれた長身の少女……天野路子は、その小学生とは思えない発育の良い姿態を隠すかのように、いつもボーイッシュな格好をしていた。今日の路子は紺色のパーカーを着て、膝が擦り切れた兄のお下がりのジーンズを履き、髪はショートカットで遠目から見れば少年に見えなくもないが、たとえどんなにボーイッシュな格好をしても、近くで見れば誰も路子を少年とは見違えなかった。
眉は太めでつり気味だが、その下には濃い長い睫毛に縁取られ、少し垂れ目がちの可愛らしい瞳が落ち着いた光りを湛え、鼻は細く唇はふっくらとした桃色で、顔の輪郭は少女らしくなめらかだった。しかし何にもまして路子の特長は、一〇歳にして一五四センチという身長と、既に女性と言ってよいスタイルの良さだった。
「オッケー!」と香苗は軽快に答えて、さっさと教室へ向かった。そんな香苗を横目で見てから、路子は黒い防水ブーツを下駄箱にねじ込みながら、今度は幾分柔らかい口調で自分を待っているもう一人のクラスメートに話し掛けた。
「美夏……香苗、今日なんか変じゃないか?」
美夏と呼ばれた少女……菅原美夏は、大きな鳶色の瞳を一度上へ向けて、独特のおっとりとした口調で苦笑混じりに答えた。
「うーん……昨日からかも。……なんだか、上の空って感じするね」
常に微笑んでいるような可愛らしい口元も、明るい栗色の大きく波打つ髪も、パステルカラーを基調としたファッションも、全てが美夏のおっとりとした雰囲気にぴったり合っていて、美夏は三人の内で最も落ち着いた柔軟な性格の少女だった。それ故美夏の立ち位置は、個性の塊である香苗と路子の仲介役だったが、それは転入以来二人に振り回された末に身に付いた技であり、双方の意見を鑑みた折衷案を出すことに長けていたので、美夏は学級委員長を務めていた。
そんな美夏の素直な感想を聞いて、路子は美夏がこの件には関わっていないと判断した。
「あー……そーだな。まあいいけど」
「うん。きっとなんかいいことあったのかも。時々一人で笑ってるし」
「ハハ、ちょいキモイけどな」
「フフフ!」
二人とも香苗が確実に何かを隠していると踏んでいたが、何か悪いことで悩んでいるわけではなさそうなので、これ以上詮索せずに放っておくことにした。
(……よしっ!次は鳥小屋!)
うさぎ小屋の戸に鍵を掛けながら腕時計を見ると、時刻は八時を回ったところだった。それはいつも通りのペースだったが、一度由之真と打ち合わせる必要があったので、百合恵は急いで鳥小屋を開けた。すると腹を空かせたインコ達が、百合恵目がけて飛び込んできた。
「ちょっと待って!今あげるから!」
百合恵は餌箱の中の殻をビニール袋へ捨てて、餌箱に餌を入れ、飲み水を交換した。そして三つある巣箱の横をそっと覗いて先週孵ったばかりの雛の安否を確認した。それからその隣のチャボ小屋へ移る前に、百合恵は隅に置いてあるポリバケツの蓋を右手で持って、大きく深呼吸してからチャボ小屋に足を踏み入れた。
チャボは雄と雌の二羽しかいないが、百合恵にとってチャボの世話は恐るべき作業だった。それは路子が「ランボー」と名付けた雄のチャボが大変な乱暴者だからだが、ランボーは何故か百合恵にだけ攻撃的で、百合恵が近づくと飛び上がってドロップキックをあびせるという実に迷惑な癖を持っていた。それでも雨の日のランボーは比較的おとなしいので、女騎士は盾を片手にそろそろとランボーに歩み寄り、まずは何とか水を交換した。しかし餌箱に手を掛けた時、ランボーは横目でぎろりと百合恵を睨めつけ、クーックーッと威嚇の声をあげ始めた。
(く、来るの?……来るなら来なさい!)と百合恵が気合いを入れた時、突然辺りに青白い閃光が走った。
(っ!)
百合恵は声にならない悲鳴をあげ、盾を放り投げ、両手で耳を塞いでしゃがみ込んだ。
ゴゴッ…ズズン…ゴロゴロゴロ……
大きな雷鳴が空気を震わせ、百合恵はきつく目を閉じて小さな呻き声を洩らした。怖々目を開けるとランボーは部屋の隅に蹲り、首をきょろきょろと動かしていた。
(……ランボーも雷が苦手なのね……)と、はじめて百合恵はランボーに親近感を抱いたが、とにかく急いで餌を補充し、ざっと藁を見渡し卵の有無を確かめてから逃げるように鳥小屋を飛び出した。そして正面玄関ではなく、近い方の児童玄関から校舎へ逃げ込んだ。たとえどんなに笑われようと、百合恵は雷が苦手だった。小学部の旗ポールの一本が避雷針になっているので建物の中にいれば落雷の心配はないが、心でいくらそう思っても、あの音と振動は百合恵の身を竦ませた。
それは理科の教員をしていた母親に、雷の怖さについて懇々と説明されたのが原因であり、母親は良かれと思ってしたことだが、当時四歳になったばかりの百合恵に雷のメカニズムが理解できるはずもなく、いつも見上げている大好きなお空が、突然凶暴になって命を奪うという恐ろしさだけが心に深く刻まれただけだった。それでも今は流石に幼い頃ほど怖くはないが、しかしやはり恐怖の対象であることには変わりなかった。
(……大丈夫よ!避雷針があるから校舎は大丈夫!)と自分に言い聞かせながら、百合恵は宿直室で服を着替え、由之真がちゃんといることを願いつつ応接室へ向かった。しかし由之真はいるにはいたが、長ソファーに横たわっていた。
「八岐くん?……具合悪い?」
由之真はすぐに起き上がり、微笑んで答えた。
「大丈夫です」
「……そう」
その微笑みに偽りはないと感じた百合恵は、安堵して続けた。
「じゃあね……もうすぐ朝礼の予鈴がなるから、先生一旦教室行って、みんなと体育館へ行って、また戻ってきます!そして一緒に体育館に行って、八岐くんをみんなに紹介するわね。……みんなって言っても三四人しかいないから」
「はい」
「よしっ!じゃあまた!」
そして百合恵は、朝の難関を乗り切った充実感と共に二階の教室へと向かった。
「サンキュ」
路子が国語のプリントを返しつつちらと香苗の顔を見ると、香苗は廊下の方を見ながら生返事をした。
「……うん」
「……」
さっきは気にすまいと思ったが、今度は逆に悪いことでないなら気にしても良かろうと思い、路子は鎌をかけてみることにした。
「……香苗。なにさっきから廊下ばっか見てんのさ?」
「え?……見てないよ?」
香苗の口調に微妙な焦りを感じとった路子は、口元を歪めて愉快そうに言った。
「……見てたから、聞いてんのさ」
「見てないって」
「見てたよ。見てたんだから」
「だから、見てないってば!」
二人のやり取りを苦笑しつつ眺めながら、美夏は心の中で「一回目」と思った。香苗と路子はこんな言い合いを日に何度もするが、ごく稀に椅子を投げ合うほどの大喧嘩に発展してしまう場合もあるので、美夏はそれを避けるために静観することにしていた。しかし二人の言い合いは、百合恵が教室に入ると同時に終わった。
「みんなおはよう!」
「おはよーございまーす!」
「朝から大雨だけど、今日も一日頑張りましょう!」
「はーい」
そして百合恵が路子に「保険だより」を三枚渡して、残った三枚の内一枚を後ろのコルクボードに貼った時、予鈴が鳴った。
「はい!それじゃあ、体育館へ行きましょう!」
みんなが立ち上がった時、香苗は百合恵が自分を見て微笑んだことに気付いた。香苗はその合図に微笑み返して、自分も内緒を守り通していることをアピールした。朝礼が始まり、今週の連絡や注意事項の後、校長先生のお話が始まり、百合恵はそっと体育館を抜け出した。そして今度もいますようにと願いつつ応接室のドアを開けると、由之真は緊張する様子もなくちょこんとソファーに座って待っていた。
「お待たせ!ちょっと待ってて」
百合恵は職員室からデジカメを持ってきて、張り切った声で言った。
「さあ、行きましょう!」
二人が校舎を出て体育館へ続く渡り廊下の中程まで来た時、ふと由之真が立ち止まった。
「?」
そしてこめかみに手を当てた由之真に、「どうしたの?」と百合恵が尋ねた時だった。
「っ!!」
ゴゴッ!ゴゴゴゴ……ズズズン……
白い閃光のすぐ後に、雷鳴が響き渡った。しかし今度は傍に由之真がいたので、百合恵はかろうじてしゃがみ込むのは堪えたが、由之真の肩を鷲掴みにしていることには気付いていなかった。百合恵はそのまま由之真の背中を押しながら焦った声で促した。
「は、早く行きましょう!」
百合恵が体育館の通用口から中を覗くと、幸いにも校長がまだ話していたので、通用口の手前にあるドアをそっと開けながら囁いた。
「八岐くん、校長先生が見えるわね?……ここからステージの袖に入って、八岐くんはそこで待ってて。校長先生の話が終わったら、先生が前からステージに上がって……手招きしたら、その階段を上がってきて」
「……はい」
百合恵が指した場所はステージの袖に上がる階段の下で、ホールとドアで繋がっているが、ドアが閉まっていてみんなからは見えなかった。ホールにもステージへ上がる階段があったが、突然の登場という演出にしたい百合恵は、由之真をドアからステージの袖に入れた後、自分は通用口からホールに入った。
百合恵が現れると何名かの児童が百合恵を見たが、百合恵が校長先生を見ているので、児童達もステージの上へ目を戻した。しかし香苗だけは、胸を躍らせながらそのまま百合恵を盗み見ていた。
「……では、続きは来週お話しすることにして……皆さん、今週も元気に過ごしてください。以上です」
絶妙のタイミングで話が終わり、百合恵は早速進行係の中学年複式学級担任の望月先生に囁いた。
「あの、校長先生には言ってあるんですが、転入生の紹介を……」
「……ああ、どうぞどうぞ!」
そして百合恵はデジカメの電源を入れながらステージへ上がり、香苗は目を輝かせ、美夏と路子は百合恵が何かをするという気配を感じていた。
「えーと、……みなさん、おはようございます!」
「おはよーございまーす!」
百合恵は咳払いをして、一拍おいてから声を張った。
「……突然ですが、みなさんに転入生を紹介します!五年生です!」
「………おおーっ!」
ホールは一瞬静まりかえったが、すぐに先生方と中学年の児童達が拍手と歓声をあげた。しかし当の五年生達で拍手する者はおらず、百合恵がさっとデジカメを構えたのを見た香苗は、すっと後ろを振り返った。
「………」
案の定、美夏と路子は口をぽかんと開けていた。さも愉快そうな目で自分を見る香苗に対して、路子は眉を顰めながら「……は?」としか言えなかった。百合恵はこの時の美夏と路子の顔を、一生忘れまいと思った。もっとも、この直後に自分に起こったことは忘れたくても忘れられない出来事だが、とにかくシャッターチャンスを逃さなかった百合恵は、満面の笑みを浮かべながら意気揚々と続けた。
「それでは、紹介します!」
百合恵がステージの袖に手招きをした時、由之真は苦笑していた。何度も転校してこういう状況に慣れていた由之真は、自分が特別なことをしなくても百合恵の計画がうまく行けばいいとしか思っていなかった。しかし、児童の驚く顔をあんなにも嬉しそうに撮影する百合恵を袖から見て、由之真は百合恵がかなり変わった先生だと思い始めていた。そしてホールがまた静まり、由之真は真顔を作ってステージの中央へ躊躇無く歩み出た。
「!!」
由之真が百合恵の傍らに立った時、百合恵と香苗と校長以外の全員が息を呑み、百合恵がまたデジカメを構えたことを誰も意識しなかった。美夏と路子は二人とも同じ事を考えていた。それは二つで、まず由之真が男子か女子か区別が付かないことであり、もう一つはとても綺麗な子供だと思ったことだが、それはおそらくその場の全員が感じたことだった。
香苗は胸を高鳴らせ、美夏と路子の顔を見るのも忘れて、なんだか安心しながらステージを見上げていた。香苗は土曜の冒険が疑いのない事実だとわかっていても、由之真の顔を見るまではなんだかずっと不安だった。そんな香苗の顔も抜け目なく撮ってから、百合恵は由之真にもデジカメを向けた。しかし、液晶ファインダーに映る由之真がこめかみに手を当てた時だった。
「っっ!?」
目も眩むばかりの電光が差し込み、一瞬ホールが白い世界となった。次の瞬間凄まじい雷鳴が轟き、体育館全体が揺れた。
ガガッッ!ドシーンッッ!!
「キャアッ!!」
「ウワーッ!!」
窓ガラスはビリビリと震動し、低学年の児童達は柏葉にしがみつき、中学年の児童達は全員路子達に身を寄せ、路子は不安げに校庭の方を見ながら呟いた。
「……近いな」
「うん……びっくりしたー」と香苗が答えた時、バラバラバラッ!という激しい音が鳴り響き、全員が天井を見上げた。しかし香苗はハッと思い出してステージの方へ目を戻した。
(……ん?)
ステージの上には少し前屈みにちょこんと何かに腰を掛け、きょとんとしている由之真がいた。由之真は香苗と目が合うとすぐに苦笑し、自分の腹を締付けている腕を掴みながら囁いた。
「……先生、苦しいです」
「……へっ!?」
丁度天井の音が鳴り止んだ時であり、その間の抜けた声は静けさが戻った体育館に響き渡った。それでもまだ由之真の囁きの意味に気付き、落ち着き払って腕を解けば良かったが、無我夢中で由之真にしがみついたことを思い出した百合恵は、顔を真っ赤に染めて万歳しながら、狼狽しきった声をあげた。
「ああっ!ごっ、ごめんなさい!ごめんなさいっ!!」
由之真は苦笑しつつ百合恵の膝から腰を上げたが、もうこれ以上は堪えられなかった。
「……フフフ!……アハハハッ!」
「!」
その澄んだ笑い声は、自然の脅威に縛られたみんな心を解き放ち、みんなの笑いを誘った。
「ハハハハッ!アハハハハッ!」
(う〜)と百合恵は顔を赤らめたまま、一際大声で笑う香苗を恨めしそうに睨めつけてから由之真を見た。すると由之真は、苦笑しながらも少しすまなそうな目をして言った。
「……すみません」
「……!」
すぐに大切なことを思い出した百合恵は、自分のちっぽけな羞恥心をかなぐり捨て、右手を高々と上げて元気な声を張った。
「えー、みなさん!ちゅーもーく!」
みんなは笑いながらステージに注目した。百合恵は一度由之真を見て、それからみんなに目を戻して続けた。
「ちょっとだけアクシデントがありましたが、改めて紹介します!ロサンゼルスから転校してきた、八岐由之真くんです!そして八岐くんは、先月卒業した石狩照ちゃんの従弟です!」
その瞬間ホールはどよめき、百合恵は大満足の笑みを浮かべながら誇らしげに由之真を見た。由之真は半歩進み、苦笑しつつも明朗な声で言った。
「八岐由之真です。よろしくお願いします」
するといち速く香苗が手を叩き、そして全員が拍手をして一年ぶりの転入生を歓迎した。
「……お疲れさん!」
校舎へ戻る途中の百合恵に、柏葉が愉快そうに声を掛けた。
「転入生のことは聞いてたけど、朝礼で紹介するって知ってたらビデオ持ってくればよかったわ!」
「……ハハ…」と百合恵は力なく苦笑しながら、失態を撮られなくてよかったと思った。ふと百合恵が空を見上げると、いつの間にか雷雨はすっかりおさまり、雲間から青空さえのぞいていた。
「こっちだよ!」
香苗が階段を通り過ぎた由之真に声を掛けと、由之真は振り返って答えた。
「……うん、バッグ置いてあるから」
「そっか」と香苗がその場に留まったので、路子は香苗に素っ気なく言った。
「……行ってる」
「うん」
そして路子は、階段を上り切るなり切り出した。
「……知ってたな、アレ」
美夏は神妙に頷きながら答えた。
「うん……っていうか、もう会ってたんじゃない?だって、そーじゃなきゃあんな風に話したりしないし」
路子は大きく頷き、不敵な笑みを浮かべて言った。
「……つーかコレだな。昨日から変だったの」
「うん……きっと先生とグルだよ」
二人が教室に戻って香苗を待っていると、すぐに自慢げな香苗が由之真と共に現れた。早速路子は香苗を問い詰めようとしたが、不意に由之真と目が合ってしまい、それに気を取られた隙に去年の転入生が口を開いた。
「香苗ちゃん知ってたんでしょ?昨日教えてくれてもいいのに!」
香苗は笑って誤魔化しながら言い訳した。
「ごめんごめん!ホントはさ、おとついすぐに電話しようと思ったんだけど、先生がさ、みんな驚かそって言ってさ……ハハハ!」
「……」
無邪気に笑う香苗を見て、路子は少し癪に障ったが、お喋りな香苗が昨日丸一日秘密を守り通したという努力に免じて、今回は許してやることにした。
「あー、いーだしっぺは先生か……ならあの雷は、うちら驚かそうとしたバチが当たったのさ」
「ハハハ!……でも先生って、あんなに雷嫌いだったんだね」と笑いながら、美夏は香苗の顔を見た。香苗は苦笑を浮かべながら愉快そうに答えた。
「うん!ずっと前、ちょっと嫌いだって言ってたけど、そーゆーレベルじゃないよね!ハハハ!」
そして香苗は由之真を見て尋ねた。
「……最初にきゃーって言ったのって、先生だよね?」
あの時既に百合恵の膝に座っていた由之真は、苦笑混じりに答えた。
「……うん、先生だよ。びっくりした」
「ハハハ、やっぱり!」
「ハハハハッ!」
みんなは朗らかに笑い合い、美夏はついさっき由之真に出会ったばかりだが、これならすぐに打解けるだろうと感じた。それは路子も同じであり、とりあえず由之真に関して無警戒な香苗を信じることにした。そしてその時花瓶を抱えた百合恵が教室に入ってきて、みんなは愉快そうな顔を百合恵に向けた。みんなの笑みを見た百合恵は、元気な声で言った。
「はい!みんな席について!」
そしてすぐに百合恵は「八岐くんの机は、これね」と言って、教員用の机の陰から由之真の机を持ち上げ、それを美夏の机の隣に置いた。
(あんなとこに隠してたのか!)と、路子は百合恵の用意周到ぶりに呆れながらも感心した。そして百合恵は教卓に寄り掛かり、座ったばかりの由之真に手招きをした。
「八岐くん。黒板に名前を書いて」
「はい」
由之真は黒板に歩み寄り、チョークを左手で掴み、そのまま左手で「八岐由之真」と綺麗な字で書いてからチョークを置いた。全員がその事に気が付いて、百合恵は振り返った由之真にすかさず尋ねた。
「……左利き?」
「両手使いです」
「……そう」
それはあまり聞き慣れない言葉だが、とりあえず百合恵は先へ進むことにした。
「さて!……みんな驚いたと思うけど、今から改めて簡単に自己紹介して、それから授業をします。……あとは、学校の決まりやクラスの係のことは、みんなが休み時間に八岐くんに教えるって感じでいいかしら?」
「はーい!」
「じゃあ一人ずつ立って、名前と係と……あと趣味を言ってください!えーと、まずは路子ちゃんから。はい拍手ー!」
路子は面倒そうに立ち上がり、それでも一応ちらちら由之真を見ながら素気なく言った。
「あー……名前は天野路子。係は体育と保険と飼育。あと一応、すること無いけど児童会長と学級副委員長。趣味は……あー、読書とゲーム。終わり」
しかしその素っ気ない自己紹介に物足りなさを感じた香苗が、勝手にフォローを入れた。
「ミチ、手芸得意じゃん。ミチってこー見えても、編み物とか凄い上手なんだよ!」
(こー見えてもって何だよ?)と思いつつ、いつもなら自分の女性らしい部分を指摘されるのを嫌がる路子だったが、この時は何故か否定しなかった。
「はい!じゃあ次は……美夏ちゃん!拍手ー!」
美夏は立ち上がり、少しはにかみながらおっとりとした口調で言った。
「えっと、名前は菅原美夏です。えっと、英語と図書係で、あと児童会副会長で、学級委員長です。あと……えっと趣味は、漫画を読むことです。私も去年転校してきたんだけど、この学校はとってもいい学校です!」
「はい、次は香苗ちゃん!拍手ー!」
香苗は元気良く立ち上り、少し照れくさそうに頭を掻いてから元気な声を出した。
「えーと、御門香苗です!飼育係と図書係と総合係で、児童会と学級会の書記です。趣味は新メニュー作りと読書です!あと、家はみかど屋っていう、チョー美味しい本格手打のおそば屋です!天ぷらもチョー美味しいです!終わりです!」
抜け目ない宣伝に苦笑しつつも感心しながら、百合恵は最後の由之真に向かって言った。
「じゃあ、改めて八岐くん!拍手ー!」
由之真は立ち上がり、落ち着いた口調で言った。
「八岐由之真です。趣味は……料理と園芸です」
(料理と……園芸?)と、みんなは同時に心で呟いた。そんなみんなの疑問を余所に、由之真は一拍おいて続けた。
「……照が言ったとおり、ここは良い学校だと思います。これからよろしくお願いします」
「……はいっ!じゃあ授業をはじめましょう!」と百合恵が机の上の教科書に手を伸ばした時、香苗が不満な声をあげた。
「えー、先生は?」
百合恵はきょとんと自分を指さして答えた。
「え?……自己紹介?先生も?」
「あー、先生だけやんないのはズルだな」とすかさずフォローした路子の言葉が決め手となり「……わかったわ!」と百合恵はみんなに向き直って小さく咳払いをした。
「……えー、高学年複式学級担任の櫛田百合恵です。係は全ての係の補佐係と、月曜の飼育係担当です。趣味は………映画鑑賞です。以上です!」
実のところ、これという趣味がなかった百合恵は適当に言って誤魔化したが、二年前百合恵が赴任してきた時の挨拶を覚えていた香苗には通用しなかった。
「先生趣味違うじゃん!三年の時、なんかカッコイーこと言ってよね?ミチ」
「あー…言ってた!なんだっけ?」と路子は美夏を見たが、その時自分はいなので、美夏は苦笑しながら小首を傾げた。百合恵はいい加減に言ったことを後悔しつつ答えた。
「趣味が変わったのよ!」
「勝手に変えちゃダメだよ!カンドーしたんだから!」
「えー?」と困りつつも、感動したとまで言われて自分でも気になった百合恵は、腕を組んで眉間に皺を寄せながら、二年前の自己紹介の光景を思い浮かべた。
(うーん……確かあのスーツ着て、みんなの前で……)と、そこまで思い出した時、突然言葉が浮かんできた。
「……あ」
「なになに?」
それは今の百合恵からすれば青臭い言葉であり、一瞬百合恵は話すのを躊躇した。しかし今も同じ気持ちだったので、百合恵は頬を染めながら勇気を出して言ってみた。
「えーとね、……先生の趣味は、……一生懸命、楽しく生きることです!」
「おー!」と香苗達は手を叩いて感嘆した。
「……ハハハ」とばつが悪そうに苦笑しながら(それは趣味じゃないでしょ!)と自分にツッコミを入れつつ、百合恵はとりあえずみんなにウケたのでよしと思うことにした。しかし由之真だけが真顔であることに気付いた百合恵は、冷や汗をかきながら急いで教科書を手に取った。
「はい!じゃあ授業を始めます!……二六ページの一行目からね。……前の時間は、主人公が実はお婆ちゃんで、主人公に結婚を申し込んだ大工さんがお爺ちゃんだったのは覚えてるわね?このページから最後までは、この物語の大事なまとめで、起承転結の結です。ここをじゃあ……路子ちゃん」
「げっ!」
「げ、じゃなくて?」
「……はい」
香苗達は休み時間を使って、学校の規則や係のことを由之真に説明した。そして昼の時間となり、みんなは机を寄せてお弁当を広げた。菜畑小中学校は月曜と金曜が弁当持参日で、もちろん由之真にもそれは伝えてあった。
「うわスゴっ!」
香苗は由之真のお弁当を見て驚きの声をあげた。それは使い込まれた漆塗りの小型の三段お重で、下段にはご飯がぎっしりと、中段と上段には見事なおかずが入っていた。しかしどう見ても由之真の身体には合わない量であり、美夏は自分なら二人分あると思った。
「へー、本格的なお弁当ね!」と百合恵が感心していると、由之真は上段のおかずをみんなに差し出した。
「食べきれないから。よかったらどうぞ」
「え、いいの?」
「うん。残して持って帰りたくないから」
「そっか、じゃあいただきー!」
「私もー」と香苗と美夏は、早速さやいんげんの生ハム捲きを口に放り込んだ。
「……んまっ!」
「うん!生ハム美味しいね!」
「ミチも食べなよ。マジ美味いよ!」
生ハムメロンが苦手な路子は、生ハムと聞いただけでためらっていた。しかし巻かれてあるのは割と好きな野菜なので、おそるおそる口に入れてみた。
「……ん」と路子は軽く頷き、それを飲み込む前にカリフラワーの田楽を確保した。そんなやり取りを眺めつつ、百合恵は後で由之真に食べ切れるお弁当を持ってくるよう注意しようと思った。しかし百合恵が遠くて届かないと思った香苗は、百合恵の前にお重を差し出した。
「先生も、はい!」
「先生はいいわ」と百合恵は咄嗟に断ろうとしたが、いつもお世辞にも美味しいとは言えない業者のお弁当にうんざりしていた百合恵の舌は、その誘惑に勝てなかった。
「……じゃあ、いただきます………うん!」
それは思っていた程クセのない、優しい味だった。茹でたさやいんげんを生ハムで巻いただけでなく、中に甘めのソースが絡めてあり、それがさやいんげんの甘さを引き立たせ、同時に生ハムの塩気を中和していた。
「……美味しいわ!八岐くんのお婆さんって、お料理上手なのね」と言った直後に百合恵は少し後悔したが、誰も百合恵の懸念には気付かなかった。
昼食の後は清掃の時間まで各係に従事するか、校庭や体育館で遊んだり好きなことをする時間だった。その日係がなかった香苗と路子は、去年美夏にしたように、由之真に飼育小屋を案内することにした。幸いにも美夏は香苗達が育てた動物達を気に入ってくれたが、由之真もそうとは限らないので、香苗は緊張した面持ちで尋ねた。
「……嫌いな動物とかっている?」
由之真は微笑んで即答した。
「いないよ」
香苗達は「飼育記録帳」を片手に、全ての動物達の名前を由之真に披露した。そして清掃の時間となり、由之真には雑巾とバケツが与えられた。香苗達の教室は本来三〇人入る教室だが、普段から人が少ない代わりに汚れも少ないため、通常の清掃は黒板と机を拭いて教室と廊下の掃くだけでよかった。
ふと、周りに誰もいなくなった時、香苗はロッカーに箒をしまいながら、隣でぞうきんを絞っている由之真をちらと見た。そして香苗は、夕べから気になっていたことを小声で切り出した。
「あ、あのさ……」
由之真はバケツの水を流しながら香苗を見た。
「あ、アメリカでさ……何て呼ばれてたの?」
由之真は少し考えてから答えた。
「……先生以外は、ヤマとかヤマータとか」
本当はその他にも幾つかの呼び名があり、由之真はそちらの方でよく呼ばれていた。しかしそれはみんなが知らなくてよい言葉だったので、由之真は言わなかった。
「ふーん……ヤマータってちょっと変わってるね」
「……日本人の名前って、発音し難いんだと思う。由之真は長いし、由だけだとみんな振り返るから」
「へー……」
香苗はよくわからなかったが、とにかく本題に入ろうと決心した。
「あのさ……勝手に考えたんだけどさ……」
「……?」
香苗の頭は早く言わねばという思いに囚われ、自分が顔を赤くして怒っているような顔をしていることに気付かなかった。それでも香苗は勇気を出して、ついに本題を切り出した。
「……や、ヤマっちって……呼んでもいい?」
由之真は一瞬きょとんとして、その言葉を繰り返した。
「……やまっち?」
夕べ香苗は、由之真をどう呼んだらいいかわからない自分に気付いた。はじめは百合恵と同じように「八岐くん」と呼ぼうと思ったが、なるべくなら名前の方で呼びたかったので、無難に「由くん」にしようとさっきまで思っていた。しかし「ヤマータ」という響きを聞いた時、咄嗟に浮かんだのが「ヤマっち」であり、香苗は迷わずそれを選んだ。
「あー……ヤならいいんだけど……」
しかし由之真はにやっと笑い、愉快そうに答えた。
「ううん、ヤじゃないよ。そんな風に呼ばれたことないから、新鮮だと思っただけ」
「そっか……よかった!」
由之真が嬉しそうなので、香苗は我ながら良いニックネームだと満足した。しかし、路子には不評だった。
「山田とかならわかるけど、八・岐でヤマタじゃん。なんか変じゃないか?」
「……じゃあ、どんなのがいいのさ?」
「それは……わかんないけど」
「じゃあ、ヤマっちでいいじゃんか」
二人の会話を聞きながら、由之真は苦笑して言った。
「……好きに呼んでくれたらいいけど」
「そーだよ。元々みんな好きに呼んでるんだし」
結局学級委員長のおっとりとした鶴の一声で、香苗はヤマっち、路子は八岐、美夏は八岐くんと、それぞれが呼びたいように呼ぶこととなり、由之真の方は御門さん、天野さん、菅原さんと呼ぶことに落ち着いた。普段名字で呼ばれる機会が少ない三人は、その呼び方は新鮮だし公平なので、特に不満は感じなかった。そして午後の授業も滞りなく終了した。
「はい!じゃあ国語のプリントは明日まで、理科のプリントは水曜までね!……それじゃあみんな、さようなら!」
「さよーならー!」
しかし帰りの挨拶を済ませても帰宅する者はおらず、みんな係の仕事についた。美夏は図書室で貸し出し係に、路子は来週の新体力テストや検診の説明を受けるために保健室へ行った。教室には百合恵と香苗と由之真が残り、百合恵は由之真に尋ねた。
「八岐くん、係の説明してもらった?」
「はい」
「もう何か決めた?」とは尋ねたが、係は英語と総合しか残っていないので、百合恵は何か新しい係を由之真に提案しようと思っていた。しかし由之真は廊下の方を見て、少し考えてから答えた。
「……校舎の裏の畑は、誰の畑ですか?」
(……え?)
その予期せぬ問いに、百合恵は戸惑いながら答えた。
「……そこは……んー、役場から学校が管理をまかされてるから、学校の畑よ」
すると由之真は、今度は百合恵の目を見て尋ねた。
「今は誰も使ってないんですか?」
「……そうね。去年の夏まで校長先生が野菜を作っていたけど、足を悪くなさってからは誰も使ってないわね」
由之真はもう一度廊下に目を向けてから尋ねた。
「見てもいいですか?」
「……畑を?」
「はい」
由之真が畑を見たがる理由はわからないが、見て悪い理由はないので、とりあえず百合恵はその申し出を許可した。
「……ええ、もちろん」
すると香苗が、「じゃあ、あたし案内したげるよ!」と言って、椅子から腰を上げた。元より香苗は由之真に学校の周りを案内しようと思っていたので、由之真が畑のことを言い出した時からうずうずしていた。ふと百合恵は、もしかしたら由之真が男子らしく校舎の裏を探検したいのかと考え、ドアへ向かう二人に声を掛けた。
「ああ、奥の私有林には、入らないようにね!」
「はーい!」
「あ、こっち!こっちの方が近いよ」
由之真は校舎の東側にある飼育小屋の裏を通って畑へ行こうと思っていたが、とりあえず香苗の言葉に従った。由之真が校庭に目を向けると、数人の児童が水たまりで遊んでいるのが見えた。雨は午前中に上がって時折陽も差していたが、今はまた分厚い灰色の雲が空を覆っていた。風はなく、湿り気を帯びた春の空気は少し肌寒く、辺りは雨の染み込んだ土の匂いに満ち、校庭の桜並木は薄く青白いベールを纏っていた。
二人が中学部校舎へ向かう舗装された小径を歩き、中学部校舎と小学部校舎の間にある校舎裏へ通じる道に差し掛かった時、由之真はふと足を止めた。
「……?」
香苗が振り返ると、由之真は今朝百合恵が雨よけに立ち寄った樫の木に歩み寄り、左手でその太い幹を叩いた。
「わっ!」
由之真は軽く叩いただけだが、その時丁度梢の下にいた香苗の頭に大粒の滴がパラパラと降りかかった。
「……もう!」
「ごめん」と由之真は素直に謝ったが、その口元は愉快そうに歪んでいた。
「畑はこっち!」
「うん」
二人は校舎と校舎の間にある通路へ入った。通路の両側には高い樅の木がそそり立ち、その道は常に薄暗いので、香苗達は「樅のトンネル」と呼んでいた。そして樅のトンネルを抜けると、目の前に目的の畑が広がっていた。
「………」
由之真はゆっくり周囲を見渡し、畑に沿った小径に足を踏み入れた。小径の両側はタンポポに覆われ、畑の中は色とりどりの小さな春の花が咲き乱れていて、中央には木が一本立っていた。畑は全体的に見ると、小学部校舎側の杉並木を底辺にした歪んだ台形で、西側の杉林の前には梅と桜と柿の木があって、柿の傍には手押しポンプ式の井戸があった。小高い丘になっている東側には、白や桃色の花の木が何本か立っていて、北側は鬱蒼とした森だった。そして北東に見える檜林の間に灰色の丸太らしきものが見えた時、由之真は足を止めた。
「………」
由之真が檜林を黙って見ているので、香苗は百合恵の言葉を思い出した。
「あっちは私有林だから、行っちゃダメだよ?」
「うん、行かないよ」と答えつつ、由之真は檜林から目を逸らさずに尋ねた。
「……神社があるのかな?」
「うん、あるよ。あの奥に昔の沢村神社があるけど、今は学校の前の神社に移っちゃったって、前に先生が言ってた」
「……そう」と答えて、由之真は井戸へ向かった。井戸は厳重に密閉してあり、手押しポンプはビニール袋で二重に保護されていた。香苗はポンプを触りながら、得意げに言った。
「この井戸の水さ、夏でも冷たくて美味しいんだよ!」
「そうなんだ」と微笑んで答えてから、由之真は畑に足を踏み入れた。そして二人は畑の真ん中で立ち止まり、由之真はゆっくりと周りを見渡した。由之真が見終わるまで待ってから、香苗はふと尋ねた。
「……ヤマっち、この木なんだか知ってる?」
「杏子の木」
「そうだよ、よく知ってんね」
「家にもあるから」
家と聞いて、香苗は夕べ浮かんだもう一つの疑問を思い出した。
「ふーん……そーいやヤマっちの家ってさ、どの辺なの?」
「石狩神社。照の家」
「えっ!?……照ちゃん家に住んでるの?マジで?」
「うん、マジで」
香苗は目を丸くして驚きながら、嬉しそうに捲し立てた。
「へぇー!あたしね、照ちゃん家に遊びに行ったことあるんだよ!ミチと美夏ちゃんと一緒に行ったこともあるし、裏の川で泳いだりして、あと木のブランコで遊んだっけ!あのブランコまだあるの?」
「うん。壊れてたけど、直したよ」
「!」
由之真が嬉しそうに微笑んだので、香苗はすぐに「乗りたい!」と言おうとしたが、すんでの所で思い止まった。それは幼く見られてしまうのが嫌なのと、一度も男子の家で遊んだことがないという不安からだが、考えてみれば照の家なので香苗は勇気を出して尋ねた。
「……今度、行ってもいい?」
そんな乙女の勇気を知る由もない少年は、気軽に「うん」と答えて歩き出し、すぐにしゃがんで何かをしはじめた。
「……どうしたの?」
「アスパラ」
「アスパラ?……あ!アスパラガスだ!あっ、こっちにも!」
よく見ると背の高い雑草に紛れてアスパラガスの列があり、由之真はパキパキと折りはじめた。香苗は勝手に取ってはいけないと思ったが、どう見ても誰も世話をしていない畑だし、誰も使っていないという百合恵の言葉を思い出して、香苗も由之真に習って折りはじめた。そして二人はすぐに両手一杯のアスパラガスを収穫した。
「でもこれ……どうすんの?」
「校長先生に届けるよ」
「そっか!……?」
ふと由之真が空を見上げたので、香苗も空を見上げた。空には何もなかったが、香苗が由之員に目を戻すと、由之真は少し愉快そうな目をして「すぐに降ってくる」と言うなり走りだしたので、香苗も走って由之真の背中を追った。すると樅のトンネルを抜ける時に大粒の雨が落ちてきたが、二人は本降りになる前に正面玄関に転がり込んだ。丁度そこへ通り掛かった路子は、二人が大事そうに握っている緑の束を見て怪訝そうに尋ねた。
「……それどーしたのさ?」
香苗はアスパラガスを見せつけながら、さも得意げに答えた。
「アスパラガース!裏の畑にいーっぱいあった!ヤマっちが見つけたのさ!」
「へー……それどうすんのさ?」
「校長先生に届けるの。校長先生のだし!」と言って香苗と由之真は校長室へ向かった。路子は小首を傾げながら、嬉しそうに歩く香苗の背中を眺めた。
先生を通さず校長室へ行く機会は殆どないので、香苗は少しも臆せず校長室のドアをノックした由之真は度胸があると思った。校長はアスパラガスを見て驚き、二人に御礼を言ってから十本だけ受け取り、残りを二人の手に戻して言った。
「はい、これはお駄賃」
「やった!ありがとうございます!」
校長は微笑み、畑の方を見ながら言った。
「あと……ニラも植えたかしらねえ?もし何か生えてたら、持って帰っていいから」
ニラはあまり好きではなかったが、香苗は一応元気に「はい!」と答えた。そして校長室を出てすぐに、香苗は由之真に提案した。
「山分けにしようよ!」
「うん」
二人が教室に戻ると、美夏と路子が帰り支度をしていた。香苗は二人にアスパラガスを見せながら、また得意げに説明した。
「校長先生がお駄賃だって、こんなにくれてさ!ヤマっちと山分けしたのさ!」
「へぇー!これってスーパーの三束分くらいあるよね。アスパラガスってスーパーで買うと一束二〇〇円とかだよ」
「げ、そんなにすんのかアスパラって」
「うそっ!これで六〇〇円もするんだ……へー!」
もちろんそれは形が揃った売り物で、流通コストなどを含めた値段だが、それを知らない香苗達は素直に驚いていた。百合恵は日誌をつけながら、是非この話題は社会の時間に利用しようとメモを取りつつ、見知らぬ吉村さんから土曜にいただいた野菜を思い出し、やはり何かお返しをすべきでは?とも思った。
「うちら帰るけど、香苗は?」
「うん、あたしも帰る。ちょっと待ってて」
香苗はいそいそと帰り支度を済ませ、元気な声で言った。
「センセーまた明日ー!」
「はい、また明日!気を付けてね!」
「ヤマっち、バイバイ!また明日」
「バイバイ」
そして香苗は、照れ笑いを浮かべてから教室を出て行った。それを見逃さなかった百合恵は、やはり由之真の存在は効果絶大だと感じた。女子しかいない中に突然男子を放り込めば、必ず性差の問題が起こり得ることは想像に難くないが、その問題は子供の成長に欠かせないプロセスの一つであると百合恵は考えていた。この先どう転ぶかはわからないが、まずは転校初日を無事に切り抜けた由之真を心で労いつつ、百合恵は香苗達のような素直な子に恵まれた幸運を感謝していた。
しかしその時不意に由之真が自分を見たので、百合恵は思わず愛想笑いを浮かべた。そして由之真が百合恵に歩み寄り、百合恵が「どうしたの?」と尋ねようとした時、突然教室に白い閃光が走った。
「っ!」
ゴロゴロゴロ……
百合恵は眉間に皺を寄せ、一度窓の外を睨めつけ、そのままの顔つきで由之真の顔を見た。今朝のことを思い出した由之真は、吹き出すのを堪えながら言った。
「先生に……お願いがあります」
「……なあに?」
「もし校長先生が使わないなら、裏の畑をお借りしたいと、校長先生に話していただけませんか?」
雷のせいか、或いはそのかしこまった口調によるものか、一瞬百合恵は何のことかわからず、頭の中で由之真の言葉を反芻しながら聞き返した。
「………えっと………借りたいって、どういうこと?」
それは文字通り畑で野菜を作りたいという意味であり、由之真はいつまでに草を刈って耕せば、どんな種を蒔いて、どんな苗を植えて、いつごろ収穫できるのかを簡潔に説明した。説明の間中百合恵は惚けた顔をしていたが、説明が終わるとまた眉を顰めて尋ねた。
「……耕すって、どうやって耕すつもりなの?」
「家に小さな耕耘機があるから、家の人に運んでもらいます」
「……そのとうもろこしとか、ズッキーニの苗とかはどうするの?」
「農協に注文します」
「………」
テキパキと答える由之真を見て、ようやく平静を取り戻した百合恵は、ふとあることに思い当たった。
「もしかして、……野菜作りしたことあるの?」
「はい……昔、父さんと畑を作りました。家でも野菜を作ってます」
「……そうなの」と同時に新たな疑問が浮かんだ。
「でも……家に畑があるなら、どうして学校で野菜を作ろうと思ったの?」
「………」
由之真はきょとんとして、少し考えてから答えた。
「一昨日畑を見た時……ここで野菜が作れたらなって思いました」
それは答えになっていないが「……そう」とだけ答えて、百合恵はそれ以上由之真を問い詰めなかった。それは百合恵の頭にある考えが生まれたからだが、百合恵は慎重に言葉を選んで言った。
「……わかったわ、とりあえず校長先生と相談してみるわね。……でも、思い通りに行かない場合もあるってことは、わかっていてね」
「はい、お願いします」と頭を下げて、由之真は帰った。教室の窓から校庭を歩く小さな姿を眺めながら、百合恵は由之真という児童がとても創造的な感性を持っているのではないか?とこの時初めて感じた。
百合恵は帰宅後、考えをノートにまとめてから校長に電話を掛け、まず由之真に頼まれたことを報告した。そして百合恵の予想通り、校長はすぐに快諾した。
『フフフ、それは渡りに船だわね。今日あの子等がアスパラを持ってきてくれて、実際あの畑をどうしようかと思ってたのよ。あの子がやったことあるなら、私はやらせても良いと思いますよ』
「そうですか、わかりました。あの……それでですね、相談というか………お願いがあるんですが……」
『……なんでしょう?』
百合恵は考えをまとめたノートを見ながら、懸命に説明した。百合恵の相談とは、総合の時間を使って耕稼から販売までの本格的な農作業を、児童達に一から実体験させたいというものだった。校長は少し考えてから答えた。
『………そうねえ、あの子に経験があるなら可能でしょうね。………いいでしょう。指導計画と、新しい指導案と、毎月報告書を提出してください。後は、櫛田先生のよろしいようになさって結構です。でも畑は大変だから、気張り過ぎないようにね』
「はい!ありがとうございます!」
百合恵は携帯電話を切ってから、「よしっ!」と気合いを入れた。既に百合恵は総合の時間を使って児童達に農作業を体験させていたが、それは児童達にとって楽しい経験で終わっているとしか思えず、それでも得るものは多いが、本当の農作業は自然との戦いであることを伝えたいと思っていた。もちろんそれはけして容易なことではなく、これから幾多の困難が待ち受けているに違いないが、とりあえず百合恵は缶ビールの蓋を開けた。
「……ふうっ!」
そして早速この喜びを分ち合おうと本棚からクラス名簿を取り出したが、電話では相手の顔が見えないので、百合恵は名簿を本棚に戻した。
終わり