第十九話 真異のこと 後編
山は風もなく、深々とした暗闇につつまれていた。石狩神社まで車に揺られること二時間半、その後ジープに乗り換え三〇分ほど林道を走ったが、そこから先は徒歩で山道を歩かなければならなかった。照は優奈と博子にヘッドライト付きの工事用ヘルメットを渡して、二人が被り終えるのを待って言った。
「……じゃあ、ゆっくり行きますね。三〇分くらいで着きます。足下に気を付けてください」
小学校の遠足以来山と縁がなかった優奈は、夜の山歩きは少し不安だった。しかし歩き出してすぐのこと、殿を歩く由之真がまた輝きだして、それは優奈がはじめてみた時よりも明るい光だった。一瞬優奈は由之真が光を自在に操れるのかと思ったが、「真異のせいでそう見える」という照の言葉を思い出した。
(……そっか、由くんが光ってるんじゃなくて……真異が……そうしてるんだ……)
優奈はこの時はじめて、あの日車から見たのは由之真ではなく由之真の光であり、その光を見つけたのが自分ではないことに気付いた。そして、自分と同様に真異も光を求めていて、むしろ真異は自分に助けを求めているのでは?と思った時、優奈の胸に強い勇気が芽生えた。
(……大丈夫だよ!一緒に頑張ろうね!)
優奈は元気に腕を振って山道を闊歩した。実のところ、つい今まで優奈の胸には漠然とした淡い寂しさが漂っていた。それは自分に宿るもう一つの魂を実感した時から、その魂に親しみを抱いていたからだが、それを自覚する暇もない目まぐるしい状況の中で、優奈は光を取り戻すことを素直に喜びきれない自分に戸惑っていた。
しかし、もはや庇護されるだけの自分ではないことを知った優奈に迷いはなかった。ただ一方的に真異を移すのではなく、真異を助けることによって自分も助かるという考えは、優奈のポジティブな性格にぴったり合って、心の奥で燻っていた受動的な感覚を能動的な意志に変えた。
そうとなれば、今日のことを胸に刻むべく見られるだけを見て、聞けるだけを聞いて、感じられるだけを感じようと心に決めて、まずは山の香を胸いっぱい吸い込み、サングラスを掛けてから後ろを歩く母親に声を掛けた。
「ねえお母さん、由くん明るすぎて私ライトいらないよ。フフッ!」
博子は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑んで答えた。
「……そんなに明るいの?」
「うん、凄いよ!……ほら、平新橋の外灯と同じくらい!」
「えっ!?あんなに!?」と博子は思わず振り返り、何か由之真を褒めたいと思ったが適当な言葉が浮かばなかった。
「由くん、平新橋の……外灯……知らないよね?」
「……はい」と困ったような笑みを浮かべた由之真が可笑しくて、優奈は口に手を当てて笑った。
「ハハッ!由くんがうちの近所知ってるわけないっしょ!」
「そーよね!ハハハッ」
(フフ……優奈さんの方が、由ちゃんより明るいと思う……)
優奈達の会話に耳を傾けていた照は、神削ぎの儀の成功を確信しつつ、神中りという希有な状況にありながらも心から笑える前向きな優奈に感心していた。そして一同は程無く目的の地に着いたが、優奈はその幻想的な光景に一時心を奪われた。
「……」
そこは昭和の中頃まで炭焼き小屋があった場所であり、テニスコートほどの広々とした空間だった。空間の中心には篝火が一つ柔らかな炎を揺らし、その炎を取り囲むように立ち並ぶ注連縄で結ばれた杭の影が伸びたり縮んだりする様は、まるで篝火の命が蠢いているかに見えた。次に優奈の目には、炎の向こう側の闇に浮かぶ一本の立木が映った。木の根本には一升瓶と果物などが供えられていて、優奈はどうしてか一目でその木に何かが宿っていると感じたが、同時にそれ以上は近寄りがたい異質で威圧的な印象を受けた。そして、何故そう思うのかと自分に問い掛けた時だった。
「優奈!」
「あっ、お父さん!」
右手の奥に設置されたドーム型のテントから父親と哲達が現れたが、その中に一人水色の袴をはいた三十路前後の清楚で美しい女性がいた。父親は家族を愛おしげに眺めてから尋ねた。
「疲れたろ。眠くないか?」
「うん、全然疲れてないし、眠くないよ!」と答えて優奈が袴の女性に目を向けたので、父親は早速女性を紹介した。
「優奈、この人は石狩神社の築根さん。築根今日子さん。儀式の手伝いにきてくれたんだ」
築根は嬉しそうに微笑み、勢い良く右手を差し出して朗らかに言った。
「築根今日子です!よろしくね!」
「……優奈です!よろしくお願いします」と手を握りながら、優奈は我知らずまじまじと築根の額を見つめていた。それに気付いた築根は、手を握ったまま詰め寄った。
「あっ!もしかして見えるのね!さすが神中りっ!ねえ、何色?ねえ?」
優奈は一瞬何のことわからなかったが、すぐに気付いてたじたじと答えた。
「えっ……あ、あの……薄い桃色」
「……ももいろ?」と築根は小首を傾げてから、今度は「哲さん!桃色って何でしたっけ?」と哲に詰め寄った。哲は腰に手をあて、盛大な溜息をついてから答えた。
「……んなの帰ってから自分で調べろよ。お前はちゃっちゃと飯の支度してくれ」
「えーっ、ケチ!」と不満げに言い放ち、次に築根は照に「あ、ねえ照ちゃん!桃色って…」と言い掛けてから、また優奈に詰め寄った。
「そうだ!照ちゃんは何色だったの?見えたんでしょ?」
第一印象を大いに裏切り騒がしく捲し立てる築根に気圧されながらも、優奈は率直に答えた。
「えっと……白かな?」
「白!?……白って?」と築根は再び照に尋ねたが、照は薄く眉間に皺を寄せて、軽く吐息ついて呆れた声で答えた。
「……わかんないけど、築根さん、夜食の準備しようよ。由ちゃん太巻き作ってくれたから」
「えっ、太巻き!?美味しそうね!」と、築根は嬉しそうに照と由之真についてテントへ向かった。哲はもう一度溜息をついてから、目をぱちくりしている優奈に言った。
「……あー、気ぃ悪くしねえでくれ。はじめて神中りに会ったもんだから浮かれちまったのさ。まあ、築根はいっつもあーだけどな」
優奈が親しみを込めた苦笑で答えると、哲は篝火を指さして言った。
「……さて、優奈ちゃん。神削ぎはそこでやる。真異は天と地からは来ねぇから、周りを真異除けの火で囲んで、あの木のとこからしか入って来れねえって寸法だ。……あの木がわかるかい?」
あまりに唐突な説明と質問だったが、優奈はとりあえず質問に答えた。
「……いいえ」
「ん。…ありゃ柊だ。あいつには元々厄除けの力があるから、俺達にとっちゃ重宝なヤツなんだが……」と、哲は不敵な笑みを浮かべながら小声で続けた。
「ホントはな、あいつは自分が一番じゃねぇと気が済まねぇ、我儘なヤツなのさ」
「……」
それは、博子にとっては理解しがたい感覚だったが、既に柊の威圧を感じていた優奈は、合点が行った拍子に思わず哲と似た笑みを浮かべていた。その笑みで優奈の理解を察した哲は、より気軽な口調で続けた。
「フフ……だからあいつは、寄ってくるヤツ誰彼構わず本気で追っ払う!相手が大真異でも容赦しねぇで、バラバラにしちまう!」
「……バラバラにして……祓うんですか?」
バラバラになった真異がどうなるのか無性に気になり、優奈は思わず尋ねていた。哲は一度テントに目をやってから、苦笑を浮かべて答えた。
「いや、その方が手っ取り早いが、今回は還ってもらう。……優奈ちゃん」と、哲は歩き出して手招きをした。そして柊の少し手前で立ち止り、優奈は「…あっ」と小さな驚きの声をあげた。すると父親が優奈の肩に手を置きながら、さも得意げに言った。
「優奈、これ殆どお父さんが植えたのさ!」
柊の向こうには様々な苗木が所狭しと植えられていたが、それは見るからに窮屈そうであり、きっと何か意味があると思った優奈はそれを素直に尋ねた。
「へー……でも、なんでこんなぎゅうぎゅうに植えたの?」
「ああ、それは……」と父親は哲の顔を見て、哲がその続きを答えた。
「……みんな繋げて真異が入りやすくするためさ。終わったら、適当な場所に植え替える」
哲はその場に腰を屈めて、苗木を眺めながら穏やかに続けた。
「……この子等はみんな久久と同じ、いろんな神木の子供等だ。形は小せぇが懐が深いから真異を移すにゃ持って来いなんだが……どーゆーわけか単体じゃダメなくせに、こうして寄せてやるとすんなり真異を受け入れてくれる……」
そして哲は突然優奈に顔を向け、苦笑を浮かべて尋ねた。
「それはこの子等が臆病だからとか、はにかみ屋だとか、まぁうちの女共は好き勝手言いやがるが……優奈ちゃんは何でだと思う?」
「え…」
自分にわかるはずはないと思ったが、その思いに反して急に一つの答えが頭に浮かんできた。
「……寄り添い…合うから」
「……」
哲は少し目を見開き、じっと優奈の瞳を覗いてもう一度尋ねた。
「なんで、寄り添い合うと思う?」
(……くっつき合うから?……ううん、一緒か……なんでくっつくのかな?……)
優奈は苗木を見ながら真剣に考えてみたが、やはり同じ答えしか思い付かなかった。
「わかりません……」
「ん!……俺もてんでわからねぇ!」と哲は立ち上がり、柊を見上げながら言った。
「……こいつらは俺等と全く違う生きもんだ。いくら俺等の理で考えたって、こいつらの理はわからねえ。……けどな、どっちも同じ理の間で生きてる。……優奈ちゃんは、ちょいと片方の理に寄っちまっただけで、飯食ってからそれを元に戻すんだが……」
一拍おいて、哲は急に真面目な口調で尋ねた。
「……大丈夫かい?もし怖かったら、今日じゃなくてもいいぜ?」
(……へ?)
ここまで来て何を今更という質問に優奈達は一斉にきょとんとしたが、すぐに優奈は元気に答えた。
「大丈夫です!……フフ、全然怖くないです!」
それはけして強がりではなく、既に覚悟を決めた優奈にとって未知なる不安は好奇心の糧であり、むしろ優奈は不思議なことが起こらないかと密かに胸を踊らせていた。しかし、それがおよそ二時間後に想像を絶する現実となることを知る由もない優奈は、本気を証明するために哲の目を真っ直ぐ見て微笑んだ。哲は一時優奈の瞳を見つめてから、テントへ向かって歩き出した。
「……じゃあまずは腹ごしらえだ!神削ぎは気を減らすからな!」
「はい!」と優奈も歩き出したが、その時ふと冷たい風が首筋に触れて、優奈は思わず立ち止まり、振り返って苗木達を見た。
「……」
闇の奥から流れ込む風にさわさわと梢を揺らす苗木達は、まるで優奈に手を振っているかに見えた。次に柊へ目を移すと、柊は相変わらず近寄りがたい印象であり、優奈はそれが少し残念な気がした。
「……優ちゃん?」という呼び掛けに、優奈は「うん!」と母親の元へ駆け寄った。
由之真の太巻き寿司と築根が作ったきのこ汁は、ここが幽深な夜更けの山中であることを忘れるほどの申し分ない味だった。由之真だけが「気を閉じる」ために、食事も取らず山の暗闇へ出かけたのが少し気掛かりだったが、「由ちゃん山大好きだし、暗いのもへっちゃらだから大丈夫ですよ!」という照の言葉に安心した優奈は、はじめての神中りを前にはしゃぐ築根の質問攻めに困りながらも、奇妙な会食を大いに楽しんだ。そして食後十五分程の休憩を経て、不意に儀式の準備が始まった。
篝火を囲む杭の先端に括られた松明が灯され、篝火は大士郎によって撤去された。杭は篝火があった地点を中心として放射状に、上から見ると北側が抜けた楕円状に九本立てられていて、その抜けた北側には柊が立っていた。照は篝火があった場所に腰丈ほどの八脚の案を設置して、その上に久久の鉢植えを乗せて言った。
「……中はちょっと熱いから、由ちゃんが来たら一緒に入ってください。あとは由ちゃんの指示に従ってください」
そして哲が陣に入り柊の前で座禅を組み、照は哲と久久の間に入り、久久に向かって正座した。大士郎は陣の東側の外で、築根は優奈がいる西側の外で陣に向かって片膝立てて座り込み、博子達はテントの傍で寄り添い合い、固唾を呑んで見守った。そして聞こえるは松明の音のみとなった時、そこは身震いするほどの厳粛な空間と化して、優奈は早鐘を打つ胸を手で抑えながら由之真の登場を待った。ところが一体何処へ行ったのか、由之真はなかなか現れなかった。
(……何してんだろ?)
まだ気が閉じないのだろうか?呼びに行った方がよいのでは?などと気を揉んでいる内に、優奈は松明の中で身じろぎもせず待ち続ける照が気の毒になり、遅い由之真に対して少し苛立ち始めた。しかし、自分のために一人暗闇にいる者を責めるわけにもいかず、とにかく気持ちを落ち着けようと焦りだした。そしてその焦りは、優奈が無意識に胸の奥へ閉じ込めていた感情を呼び覚ました。
(……そうだよ……落ち着かなきゃ……だって由くんが来たら、もう……)
急に浮かんだその思いは、覚悟を決めた時に消えたはずの感情だった。しかし、言わば俎板の鯉である今の優奈にその感情を抑える余裕はなく、それは容赦なく優奈の心を締めつけた。
(やっぱり………寂しい……)
優奈は顔色を失い、一瞬儀式を延期してもらおうかとさえ考えたが、そうしたところでこの壮絶な寂しさから逃れ得るとは到底思えなかった。これがもし友達との別れなら、時を掛ければどうにか気持ちの整理ができたかもしれない。しかし、たとえそれを知ったのが数日前であれ、四年三ヶ月の全てを共にしてきた魂は、優奈にとって友達以上の存在となっていた。
(……どうしよう?……どうする?……わかんないよ……)
優奈は胸の疼きを堪えながら、自分と真異の両方に問いかけたが、心は何も答えてくれなかった。こんな気持ちになる前に、由之真が来てくれていたらと思った。痛くも痒くもないはずだと言った照を、嘘つきだと思った。真異を移して自分も真異も助かるという前向きな意志さえも、凍てつくような寂しさを溶かしてはくれなかった。
(もう……いいや……どうせもう……)と優奈が諦め掛けた時、それは前触れもなく唐突に込み上げてきて、目から溢れ出た。
「……っ!」
優奈は頬を伝う熱い滴を指で拭い、涙で濡れた指を呆然と見つめながら首を傾げた。この時優奈は確かに寂しかったが、泣けばみんなを心配させるだけであり、哲に「全然怖くない」と言い切った手前もあるので、むしろ意地でも泣くまいと思っていた。ところが涙は、そんな主の意向も御構い無しに留処もなく溢れ流れ、顎から地面へ滴り落ちた。
しかし混乱の中で(……私じゃない!)と気付くなり、優奈は自分の腕をそっと抱いて泣きながら微笑んでいた。そして心で(大丈夫……大丈夫だから……)と囁くと、なんと涙はぴたりと止まり、その素直さがあまりに可愛らしくて優奈は鼻を啜って苦笑した。
(……まったくもう、びっくりしたよ!……フフッ……)
ただ本能的に自分より泣き虫の方を庇っただけだが、気付けば寂しさは和らぎ、胸にはまたあの根拠のない気力……いつも優奈を元気にする気力が膨らみ出した。そして、こんな風に感じるられるもこれが最後かもしれないと思うや否や、優奈はその考えを強く否定した。
(……まだだよ!……まだなんにも始まってないし、こんなの全然お別れじゃない!……だってククちゃんに移るだけで……そうだよ!離れるだけ!……離れて……)
それからきっとこの先も、いつまでもこの寂しさは終わらない……という結論に達した時、不意に寂しさの理由に気付いた優奈は、肩を落とし、溜息をついて苦笑した。
寂しいのは、愛おしいからだった。それならもう降参するより他はなく、優奈は何故いままでこんな簡単なことに気付かなかったのだろうと、怪訝そうに首を傾げた。しかし、もう気付いたのだからそれはよしとして、あれこれ思い悩む切っ掛けを思い出した優奈は、ふと我に返ったように辺りを見渡した。
(……そーいや由くん、ホントどうしたんだろ?……みんな心配じゃないのかな?)
実のところ、照の指示から十分も経っていなかったが、その倍は経っていると思い込んでいた優奈は、何かあったのでは?と今度は由之真を心配し始めた。そして、もしそうであれば大変だ!と慌てて築根に声を掛けようとした時だった。
「!」
突然南側の林の方から小さな物音がして、木立の間からひょいと裸足の由之真が現れた。由之真は唖然とする優奈に歩み寄り、Tシャツの前を袋にして入れた物を優奈に見せながら少し嬉しそうに言った。
「おみやげです」
「……これ、なに?……」と、そのずんぐりとしたジャガイモのような物を怪訝そうに覗き見ると、由之真は薄く微笑んで「あけび」と答えてそのままテントへ向かった。
(……あけびって……気を閉じてたんじゃないの?)と思いつつ照を見やると、照は無言で苦笑しながらやれやれと肩をすくめた。優奈はそれが可笑しくて思わず吹き出しそうになったが、その時哲が立ち上がり、声を張った。
「そんじゃあ……やるかいっ!」
哲の号令に照達が「おおっ!」と威勢良く返して、そこへ由之真が駆け戻って優奈に尋ねた。
「……大丈夫ですか?」
それはこっちのセリフと思ったが、優奈は「うん、大丈夫!」と苦笑混じりに答えた。由之真は一時じっと優奈の瞳を覗き込み、それから哲達に目で合図を送り、優奈に手招きをしてすたすたと陣に入って行った。優奈は一度振り返り、博子達に笑顔を向けてから由之真に続いた。優奈は陣の中で照と久久の間に立たされ、由之真は久久の南側へ回り、二人は久久を挟んで向かい合った。
「……」
はじめて写真を見た時は、得体が知れない綺麗な少年だと思った。そして声を聞いてからは、綺麗だけど妙におとなしい、料理好きの変わった子という印象だった。しかしこうして触れあえる近さで対峙して見ると、ゆらめく松明の紅に照らされた由之真は思わず見とれてしまうほど端麗であり、妖艶ですらあった。ふと優奈は、あれほど明るかった由之真の光が消えていることに気付いたが、(……気を閉じたから?)と思っている内に、由之真は久久の幹をそっと握って言った。
「……最初だけ、静電気みたいにビリッとします。怖かったら目を閉じていてください」
それなら目を閉じ方が余計怖いのでは?と思いつつ、優奈は軽く由之真を睨めつけて答えた。
「怖くないから、大丈夫!」
由之真が頷くと、後方にいる哲が愉快そうに言った。
「優奈ちゃん!樹魂燦拝めんのは、神中りと中憑り(なかより)だけだ!存分に見といた方がいい!」
(……ジュコンさん?)と思っていると、今度は築根が言い出した。
「いいなー!私も樹魂燦見たーい!優奈ちゃん、後でどんなだったか教えてね!」
優奈が答えにまごついていると、すぐ後ろで照が盛大な溜息をついて、優奈は緊張感を失いかけた。しかし、ついに由之真がさっと右手を上げて朗々と切り出した。
「……これより八岐由之真が、神中り小林優奈の真異を削ぎ降ろし、現樹神薫蓋樟が子、久久樟に封ずる。……異議ある者申し立てよ」
「異議無しっ!」と全員が声を揃えて答えた瞬間、冷たい風が久久の葉と優奈の髪を揺らし、優奈はぞくっと身を震わせた。
「……」
一拍おいて、由之真は優奈に右手を差し出して静かに言った。
「こう、…左手を出してください。俺が手を掴んだら久久には触らないでください。触ると真異が逆流して、神削ぎは失敗します」
「…うん」と頷き、優奈は震える左手を差し出した。由之真は一時その手を見つめてから、今度は優奈の瞳を見つめて子供っぽい笑みを浮かべた。それにつられて優奈が微笑んだ時、優奈の左手は由之真の右手に握られていた。
「い゛っっ!?」
それは静電気のような軽いショックではなく、バチッ!と目に火花が散ったかのような電撃だった。優奈はきつく目を閉じて反射的に由之真の手を振り解こうとしたが、かろうじてそれを堪え、ふらつく頭を軽く振ってから目を開けた。
「…!」
由之真の両手が二三度ストロボのように瞬き、次の瞬間右手の甲には金色に輝く一筋の細い線が浮かび上がり、線は由之真の手首をくるりと一周してから三本に別れて、更にそれぞれが枝分かれして、まるで朝顔のつるのように由之真の腕を螺旋状にゆっくりと這い上がった。
(……なに?……いま…移ってるの?……)
異様ではあったが、優奈はその光の螺旋がとても綺麗だと思った。同時に真異がちゃんと移っているのか気になったが、手には由之真の温もりがあるだけで、移っているような感触はなかった。しかし螺旋が肘まで達した時、金色の光は忽然と七色に変化して、その精麗な煌めきが優奈の琴線に触れた。
(……)
七色の煌めきは清らかで美しいだけでなく、懐かしかった。咄嗟に優奈は懐かしさを思い出そうとしたが、そう思っただけで忽ち鮮やかな光景が脳裏に浮かんだ。
(……そうだ………虹……)
その光景は優奈がはじめて虹を見た記憶であり、記憶は今までずっと堪えてきた狂おしいほどの願望を呼び覚ました。そしてそれは、優奈の心がもう一度だけ本物の虹が見たいという切望に支配された瞬間だった。
「んっ」と由之真が微かに呻いた直後、煌めく螺旋は急速に由之真の腕を這い昇り、胸元を一気に駆け抜け左肩に達し、由之真の髪がふわりと舞った刹那……。
「…っ!?」
突如由之真の両肩から飛び出した樹枝の如き光の束は、見る間に空中へ舞い広がった。そしておよそ五メートルほど立ち上り、ある特徴的な形となった。
「…………」
その巨大な虹色の光彩は、強いて言えば燦然と輝く昆虫の翅か、或いは二枚の葉のようでもあった。しかし、それはもはや優奈が「美しい」と思えるレベルを遥かに越えた光景であり、ひょっとするとこれはみんな夢なのでは?由之真が宇宙人でないなら妖精では?などとぼんやり思いつつ、優奈は唖然と由之真の顔と光彩を交互に見ていた。すると由之真は、一度久久を見てから愉快そうに微笑んで静かに尋ねた。
「……見えますか?樹魂燦」
樹魂燦が何かを知らない優奈は、由之真の頭上を仰ぎ見ながら尋ねた。
「……ジュコンさんって……これ?」
由之真は軽く首を回らし、ちらと後ろを見て答えた。
「はい……これが優奈さんの真異です」
(………マジ?……)
おそらくそうだろうとは察していたが、この巨大な光彩がずっと自分の中にいたと俄には信じ難く、とにかく今は見えるものを目に焼き付けようと思った。しかしその思いは、次の由之真の問い掛けで遮られてしまった。
「じゃあ、あれは?」
「……え?」と、由之真が見上げた先を見上げたが、そこには無数の小さな光の粒が瞬いているだけで、はじめ優奈はよくわからなかった。しかし、その瞬きには妙に見覚えがある……と思った直後……。
「……あーっ!!」
それは、満天の星空だった。優奈がいままで見たこともない数の星々で、空の全てが埋め尽くされていた。
(……凄い……こんな………こんなに………)
十一歳の誕生日から昼も夜も真っ暗な空は、優奈にとって絶望を突き付ける暗闇でしかなかった。それ故優奈は空を仰ぐことを忘れ掛けていたが、たった今、空が星の住処であり、果てしない宇宙であることを優奈の心は完全に思い出した。優奈は目から溢れる熱い滴にも気付かず、四年三ヶ月間ぶりの星空を無我夢中で貪り見た。しかし、至福の時は続かなかった。
「……ふぁっ!?」
不意に腰の力が抜けて、優奈は久久の方へ倒れかけた。しかし由之真が手を右へ引き寄せ、同時に照が優奈の身体を支えて、かろうじて久久に触れることなく優奈は照と地面にへたり込んだ。
「…来やがるぞ」
「っ!?」
哲の低く鋭い声が走った瞬間、大士郎の前の松明がボッ!と音を立てて膨らんだ。炎はすぐ元に戻ったが、今度は築根側に立つ何本かの松明が連続して膨らみ、次に由之真の後ろの松明が燃え上がった後はあらゆる方向の松明が燃え盛りだした。自身の異変と事態の急変に優奈はパニックになり掛けたが、直感的に他の真異が来たことを察して気を張った。
「大丈夫です!ここは安全だから!」
「う、うん!」
炎の膨張は勢いを増して陣中は灼熱と化していたが、今まさに自分が狙われていると思うと鳥肌が立った。しかし、照に助け起こされながら、優奈は力を振り絞って立ち上がった。そして由之真にきつく握られた自分の手と輝く樹魂燦に目を向け、(まだ私は神中りだ!)と思った優奈は、最後の最後まで見届けようと気力を奮い起こした。
訳も判らず終わった後の「さようなら」だけは嫌だった。出来るならお別れが言いたかったし、それが叶わぬならせめて離別の瞬間だけでも覚えていたかった。優奈は炎を無視して、全神経を由之真の一挙一動に向けた。由之真は相変わらず無表情に前方を見つめていたが、ふと優奈の視線に気付き、一度薄く微笑んでまた前方を見た。
「……あっ!?」
由之真の視線を追って振り返った優奈は、哲の向こうで青白く光る柊と、柊の向こうでストロボのように光り瞬く苗木達を見て驚きの声をあげた。光が瞬く度に梢が揺らめくのが異様だったが、柊と苗木達が自分を助けてくれていると思うと今度は勇ましく見えてきて、優奈は心で(みんな頑張れっ!)と叫んでいた。
そして、程無くして築根の前の松明が一段と膨らんだ後、柊と苗木達の光が消え失せ、優奈は由之真の手の力が抜けたのを感じた。
(………)
この時優奈は、痛いほど手を握っていたのが由之真ではなかったことに気付いた。そして今が別れの時であり、手を放すべきだと思ったが、手は開いてくれなかった。しかし、優奈が唇を震わせながら俯き、ただ幼子のように泣き出しそうになった時、由之真が静かに口を開いた。
「…優奈さん」
「……!」
恐る恐る顔を上げて、微笑む由之真の頬を伝う小さな滴を見た優奈は、無意識に手を放していた。そしてそれに優奈が気付く前に、由之真は続けた。
「…移します」
「………ん……」
やっとの思いで小さく頷くと、樹魂燦は由之真の身体へ瞬時に吸い込まれ、久久を握る由之真の左腕と久久が輝きだした。
「………」
その時が来たら、ありがとうとかさようならとか言えると思っていたが、言葉が浮かんでこなかった。虹色の光が金色に戻って久久の輝きが増すのを、ただ鼻を啜りながら見ているしかなかった。でも優奈は、由之真の涙の意味がわかっただけでいいと思った。そして、久久の光も徐々に弱まり、優奈が袖で頬を拭った時だった。
『………ズルイ…』
「っ!?」
突如、女性らしき嗄れた声が頭に響き、全員が一斉に由之真を見ると同時に哲が声を張った。
「風繰りっ!!」
しかし、哲が叫んだ時には既に久久を足下に置いていた由之真が、哲達よりも一瞬速く強烈な柏手を打った。
「っっ!?」
由之真の手から、パンッ!と大きな破裂音と目に焼き付くほどの眩い閃光が放たれ、次の瞬間凄まじい旋風が起こった。
ゴオォォッッ
「キャアアッッ!?」
「ちょっ!?…きゃあっ!!」
由之真の傍にいた優奈と照は瞬時に吹き飛ばされ、杭を擦り抜けて築根に激突し、二人をまともに受け止めようとした築根もろとも地面に倒れ込んだ。しかし、照と築根はすぐに跳ね起きて優奈を抱き起こした。
「優奈さんっ!大丈夫っ!?」
「??…うっ、うん!……」と頭を振って起き上がると、博子達が絶叫しながら駆け寄ってきた。
「優ちゃん!!」
「大丈夫か!?」
優奈が無言で頷くと、今度は風で消えかけていた全ての松明が激しく燃え上がり、哲の凄まじい怒号が飛んだ。
「馬鹿やろうっ!!とっとと祓っちまえっっ!!」
「由ちゃんっ!?」
叫びながら照は陣に飛び込もうとしたが、陣の直前で二発目の破裂音と閃光が放たれ、まるで竜巻のような烈風が吹き荒れた。
「ぐっ……由ちゃんっっ!!」
かろうじて杭にしがみつき目を凝らすと、由之真は両腕を広げて南側を向いて立ち尽くし、哲と大士郎は背中を合わせ東西を向いて両腕を広げていた。
(!?)
この時点では何事が起きたのかわからなかったが、由之真があれだけの気を二度も放って猶も構えているならば、もはや自分にできることをするより他はなく、照は優奈達の守護へ戻り掛けた。しかし、哲が聞き捨てならない言葉を叫んだ。
「……由坊っ、祓えねぇなら久久を折れっ!!でねぇと死んでも憑かれるぞっ!!」
(!?)と青ざめたのは、照だけではなかった。
「あっ!優奈ちゃんダメっ!!」
「優奈っっ!?」
「!?」
照が振り返ると、優奈が猛然と横を擦り抜けようとしていた。照は反射的に腕を出して捕らえようとしたが、優奈の勢いに巻き込まれて二人は陣に傾れ込んだ。
「入ってくんじゃねぇっ!!」と言ったが、遅かった。
(っっ!!!)
『ズルイ…ズルイ…ズルイ(タスケテ!)…アナタ…ズルイ…アナタ(クルシイ)…ズルイ…ズルイ(タスケテ!)…ズルイ…ズルイヨ…アナタダケ(オネガイ)…ズルイ…アナタダケ…ズルイ…』
それは地の底から響くような、陰惨な嫉妬に満ちた悲痛な呻き声の重なりだった。
(イヤッ!……やめてっっ!!)
あまりの不快さに優奈は両手で耳を覆ってしゃがみ込んだが、呻きは消えてくれなかった。そしてそれは照にも聞こえていたが、優奈ほどではなく、照は優奈の腕を引き上げながら叫んだ。
「立ってっっ!!優奈さん早くっ!!」
「優奈ーーっ!!」と娘の異変に気付いた父親が、築根を押し退け陣へ飛び込もうとした。
ボオォッッ!!
「!?」
しかし、またも松明が唸りを上げて燃え立ち、そしてまたも破裂音と閃光が走り、烈風が父親を押し戻した。しゃがんでいた照と優奈は吹き飛ばされずに済んだが、照が目を開けると同時に由之真の膝がガクリと落ちた。
「ゆっ!!」と照は咄嗟に駆け寄ろうとしたが、哲に腕を掴まれ、そのまま大士郎に向かって放り投げられた。
「ふわっっ!?」
大士郎は難なく照を抱き留めてすぐに降ろしたが、照は猛然と哲を睨めつけもう一度由之真へ向かおうとした。しかし、すっくと立った由之真を見て踏み止まり、意識を優奈へと戻した。
「……」
優奈は既に立ち上がり、呆然と由之真を見つめていた。久久が折られると思った瞬間頭に血がのぼったことは覚えていたが、陣に入って不気味な呻きに襲われた後は、気付けば呻きは消えて由之真が苦しげに喘いでいた。しかし、何が何だかわからぬ混沌の中で、優奈は久久と由之真に大きな危機が迫っていることだけは感じていた。
「優奈さんっ!早く陣から出てっ!!」
「……」
(優奈さん?)
優奈が自分を見ようともしないことに焦った照が、優奈を陣から連れ出そうと思った時だった。
「由坊、もう打ち止めだ。今決めろ。できねぇなら俺がやる」
「……」
由之真の答えを二息待って、哲は躊躇無く久久へ向かった。そして哲が久久に手を伸ばし掛けた時、優奈は全身全霊を込めて叫んでいた。
「……折ってっ!!由くんが折ってっっ!!」
「!」
哲が優奈に目を向けると同時に、由之真は久久へ向かって地を蹴った。哲がそれに気付いた時には、由之真の手が久久に掛かろうとしていた。しかし、手は久久を通り過ぎて、由之真がそのまま地面に手を着いた直後、全ての松明が爆発的に膨張し、辺りは真昼の如く照らされた。
(由ちゃんっ!?)
由之真が地面で前転したと思うなり、次の瞬間由之真は照の頭上にいた。照は宙を舞う由之真の左手に白い何かが握られているのを見たが、それは最初の突風で照が落とた由之真の破魔刀だった。そして由之真は柊の前に落ちるや否や、気合いと共に右手を猛然と内から外へ薙いだ。
「ハッッ!!」
ボアァッッ!!
「!?」
東側の松明が全て南に繋がり靡いて、それが優奈の目に火の大蛇のように見えた瞬間、由之真は左手を真っ直ぐ振り下ろし破魔刀で大地を切った。
ガギィィッ!
火花が飛び散り、由之真がそのまま地面に蹲り、照は反射的に身を乗り出した。
「うっ!?」
全員が強い耳鳴りを瞬間的に感じた直後、刺すような冷気が陣へ吹き込み、いままでどんな風にもけして消えなかった全ての松明が一斉に消えた。そして咄嗟に博子がヘッドライトに手を伸ばし掛けた時、雷鳴の如き地鳴りが轟き、大地が揺れた。
ゴゴゴゴッッ!!
「キャアッッ!?」
「!?地震っ!?」
身体を突き上げる激しい揺れはすぐに止まったが、不気味な冷気と地鳴りは続いていて、暗闇の中で誰もがパニックになり掛けた、その時だった。
「…………ひーふーみーよー…いーむーなーや、ここのーたーりーふーるーえー…ゆーらゆらー……ゆーらゆらーとーふーーるーーえーー……………」
(………由ちゃん……)
それは優しく澄んだ、穏やかな調べの歌声だった。石狩家の子守歌であるこの歌は『一二三の奉』という地主を祀る際に唱う鎮守歌の一つだが、石狩家で育っていない由之真が知っていることの意味が、照と哲の胸に優しく沁み込んだ。
気付けば地鳴りは静まり、冷たい風も凪いでいた。しかし誰も話そうとせず、そのまま十秒ほど静寂が続いた後、シュッとマッチを擦る音が聞こえた。そして哲が最寄りの松明に火を灯し、辺りが照らされた時、疲れ果て柊の下で座り込んでいた由之真を含めた全員がぎょっとして、同じことを思った。
(……誰?)
一体いつの間に現れたのか、由之真の傍には、明るい色のダッフルコートを着た二十代後半と思しきショートヘアーの女性が一人佇んでいた。女性は怪訝そうにきょろきょろと辺りを見渡し、呆然としている照達を見た後、由之真を見下ろした。
「………」
二人は一時きょとんと見つめ合ったが、ふと女性が由之真に歩み寄り、手を差し伸べながら優しく尋ねた。
『…大丈夫?転んだ?』
「……」
由之真は無言で目をぱちくりさせながら左手を伸ばし、女性の手を取ろうとした。
「!?」
手が触れ合った瞬間、女性は忽然と消えた。優奈は自分だけ幻を見たのかと不安になり、思わず照や哲の表情を窺ったが、立ち上がった由之真に哲が声を掛けた。
「由坊……今の誰だ?」
由之真がなんとも言えない苦笑を浮かべながら首を傾げると、今度は照が歩み寄り、由之真の前に立つなり右手を高々と振り上げた。
パーンッ!
「っ!!」
照が理由もなく由之真を叩くとは思えなかったが、それにしても痛そうな張手であり、優奈達はただ目を丸くして二人を見つめた。照は由之真をきつく睨めつけ、どすの利いた声で呟くにように尋ねた。
「……前に言ったよね?……今度お祓いと祈祷一緒にやったらぶっ飛ばすって……私言ったよね?」
ぶっ飛ばすとまで聞いた覚えはなかったが、ここで反論すれば怒りの炎に油を注ぐだけなので、由之真は真顔で小さく頷いてから答えた。
「……ごめん」
しかしそう簡単に怒りは収まらず、照は苛立たしげに眉間に皺を寄せながら、愚痴るように呟いた。
「……いっつもそう……由ちゃんは謝れば済むと思ってる!謝ったって済まないことあんだからね……」
「ごめん……でも、謝れば済むなんて思ってないよ」
「……」
優奈達はハラハラしながら固唾を呑んで見守っていたが、由之真の正直な答えで怒りは急速に静まり、後はちゃんと約束させて許してやろうと照が思った時だった。そんな照の気持ちを知る由もなく、哲は折角引いた怒りの波を引き寄せてしまった。
「……まあ、その辺にしといてやれや。相手は気多真異だ。しょーがねーさ」
(……しょーがない?…)
哲は助け船を出したつもりだったが、その船は照のひと睨みで呆気なく撃沈したばかりか、今度は哲に怒りの矛先が向けられた。
「……だいたいさ、真異のことも言ってなかったし、お爺ちゃんテキトー過ぎだよ!お婆ちゃんにぜーんぶ言うからねっ!」
「なっ!……それとこれとは話し違ーだろっ!」
「…違うけど……」と、照が言葉につかえた時だった。
グゥゥウーーッ…ググゥ……クゥー……
「………」
その音は一番離れていた築根にもはっきりと聞こえて、照の怒りと優奈達の不安を瞬時に吹き飛ばす力を持った音だった。
「…フッ……ハハッ!……ハッハッハッハッ!!」
「ハハハッ!」
哲の高笑いにつられてみんなが笑ったが、一人きょとんと腹をさする由之真の姿は、照でさえ苦笑せずにはいられなかった。しかし、突然由之真がカクンと右に傾き、照は慌てて由之真を支えた。
「由ちゃん?……わっ!」
「……大丈夫!?……あっ!」
駆け寄った優奈は、由之真の顔を見て思わず眉を顰めた。由之真の右の顎から首筋を通って右手の指先まで、無数の葉脈のような、照が叩いた左頬の手形と同じくらいの赤い痣が浮かび上がっていた。優奈は救急車を呼ぶべきだと思ったが、哲が歩み寄り愉快そうに言った。
「おっ!こりゃ見事な樹冠紋だな!……まあ、気多真異ぶん殴ってそんぐれぇで済んで良かったさ。なに十日もすりゃあ消えるし、力も戻る。心配するこたぁねえよ!」
樹冠紋とは、雷にうたれた者の皮膚に浮かび上がる熱傷のような模様だが、身体に入った真異を強引に排除した後に残る痣であり、由之真が柊の前に降りて右手を薙ぎ払った瞬間は、気多真異が由之真に入り込んだ瞬間だった。気多真異は他の真異と同様に気配のような存在で実態はないが、優奈が見た火の大蛇は、まさにその時薙ぎ払われた巨大な気多真異が顕在化した瞬間だった。
「…十日も!?…ったくもう!……治ったら二週間家事当番だからねっ!いいねっ!?」
「……うん」と困ったような笑みを浮かべた由之真を見て、優奈は心底ほっと胸を撫で下ろした。そしてわらわらと寄ってきた博子達に、哲が深々と頭を下げて言った。
「すまねえ、小林さん。俺が油断した。……ありゃ気多真異って、二十年以上前に出たっきりの火を怖がらねぇ珍しい大真異なんだが、よもや出やがると思わなかった俺の手落ちだ。……だがまあ、由坊がこの山の神に祀ったから、もう心配いらねえさ!」
父親は哲の瞳を見つめ、そして由之真を見てから答えた。
「……そうですか……でも由くんは、……本当に大丈夫なんですか?」
「ん!……腹減ってるだけだろ?」
「…うん」と頷くと、すかさず築根が割って入り、両手を合わせてすまなそうに言った。
「ごめん由くん!太巻き美味しくって……全部食べちゃった。……きのこ汁も……」
すると由之真の腹が不機嫌そうに「クゥー」と答えて、どっど笑いが起こった。そして、一頻り笑ってから哲が言った。
「……さて!……照、久久持ってきてくれ。由坊、そのままでいいから締めるぞ!」
照は由之真が最後まで守り抜いた久久を拾い上げ、「よかったね」と優しげに呟いてから、優奈に久久を渡した。そして由之真は、優奈と久久を一時見つめてから静かに言った。
「……これにて八岐由之真が、小林優奈の神削ぎの儀を終う。……異議ある者申し立てよ」
しかし、築根が「異議無し!」と言おうとして息を吸い込むと、照が素早く右手を挙げて毅然と言った。
「異議ありっ!由ちゃん一人で、お祓いと祈祷を一緒くたにやるの絶対禁止っ!……あと築根さんの食べ過ぎも禁止!」
「へっ!?」と築根が間の抜けた声を出したが、すぐに哲が笑いながら言った。
「ハハッ!そりゃ異議じゃねえだろ。後で言えよ!」
「いーの!」と、照は手を挙げたまま由之真を睨めつけた。由之真が苦笑を浮かべながら「…承認」と答えると、すぐに築根が「えーっ!?」と不満の声をあげたが、哲がまた笑いながら言った。
「フフッ!由坊、締めてくれ」
由之真はたっぷり十秒掛けて、震える右手を持ち上げた。そしてかろうじて「パンッ」と柏手を打つと、柔らかい微風が久久の葉と優奈の髪を揺らし、辺りにほのかな木の香が漂った。哲は腕を組み、満足そうに全員の顔を見渡してから朗らかに言った。
「…うーしっ!築根、大士郎、テントたたんでくれ!由貴がソバ打って待ってる。早く帰ってしこたま飲むぞっ!」
「おおっ!」
二人が早速テントへ向かうと、博子が優奈に歩み寄り、後ろからそっと優奈を抱きしめながら囁いた。
「………優ちゃん……大丈夫?……」
「うん!大丈夫だよ!」と元気に答えて、優奈は空を仰ぎ見ながら嬉しそうに言った。
「ほらっ、見てよお母さん!凄いよね……こんなにいっぱい星見たの、はじめ………お母さん?」
急にきつく抱きしめられて、優奈は少し驚いた。博子はすぐに答えず、優奈の首筋に強く頬を押しつけ、「……そうね……凄いね……」と震える声で呟いた。
実のところ、博子は照と優奈が吹き飛ばされるまでは儀式を冷静に見ていたが、その後の目まぐるしい展開にはついて行けなかった。それ故優奈の口から聞くまで半信半疑であり、みんなで笑い合っている時も不安を抱えたままだった。しかし、久しぶりに娘の口から「星」という言葉が聞けた瞬間、不安は全て喜びに変わった。
「……お母さん、苦し……」
「ああ!ゴメンゴメン!フフフッ……」と優奈を放し、博子は袖で目を拭いながら夫を見た。夫はただ優しげに微笑み、軽く頷いてから星空を見上げた。そしてふと、いつも晴れた日の夜は天体望遠鏡を覗いていた中学生の頃を思い出し、帰宅したら物置から望遠鏡を出そうと思った。そんな優奈達をそっと見守り、築根達がテントをたたみ終えた頃に照が尋ねた。
「……優奈さん。ククちゃんどうします?」
「え?……どうって?」
優奈がきょとんと聞き返すと、照は頭を掻きながら苦笑して答えた。
「あれ?言ってませんでしたっけ?……ククちゃんを植える場所は優奈さんが決めていいんです。ここに植えてもいいし、優奈さん家の庭でもいいし、どこでも好きなとこに決めてください」
「…そうなんだ!……今決めるの?」
「いつでもオッケーですけど、もしここがいいなら、今植えちゃった方が早いかなと思って……」
「……」
優奈は久久を見つめながら考えてみた。もしも自分の家の庭に植えれば毎日会えるが、あまり広い庭ではないし空気も山より汚れているので、ここの方が良いと思った。しかし今すぐは別れ難く、ここは山奥過ぎて簡単に会えなくなると思いつつ答えた。
「……あのね、もう少し考えもいい?」
「もちろん!」と、照はにこやかに答えて付け足した。
「じゃあ、決まるまでククちゃんお願いします!世話の仕方は、帰ったら詳しく説明しますね!」
「うん!ありがとう!」
そして帰り支度が整い、みんなで柊と苗木達や山の神様に礼を述べてから林道に止めた車へ向かった。車に着くと哲が来て、とりあえずあけびで空腹を凌いでいた由之真に、粽を一つ渡して言った。
「……晩飯の余りだが、由貴が作った粽だ。あけびよりはましだろ!」
「よかったね!」と照は早速ボトルポットを開けて熱いお茶を注ぎ、優奈達は由之真が食べ終わってから石狩神社へと向かった。
走り出してすぐ由之真が寝息をたて始めたので車内は静かだったが、ふと優奈が口を開いた。
「……照ちゃん……」
「…はい?」
「……」
優奈は一瞬迷ったが、やはりどうしても気になって尋ねた。
「あの……コート着た人見たよね?」
「はい、見ました」と気さくに答えて、照は優奈の疑問を察して付け足した。
「……あれはー……あの人は、真異に取り込まれた神中りの人です」
「えっ……真異に…取り込まれたの?」
照は一度由之真に目を向けてから、苦笑を浮かべて答えた。
「はい……気多真異のことは、私あんまり知らないんですけど……神中りの人が事故にあって急に亡くなった時とか……普通はすぐに魂が離れるのに、その前に他の真異がくっついて閉じ込められる場合があって、……それを気多真異って言ってます」
実のところ、照は今言ったことの他に、気多真異が人の魂を合わせ持ち人の性質が混じることによって火を怖がらなくなることと、閉じ込められた魂がその苦しみから怨霊化することを知っていたが、それを今の優奈に伝える必要はないと思った。
「………」
片や優奈は照の説明を聞きながら、あの時の光景を思い出していた。しかし、あの女性が閉じ込められているようには見えなかった。
「じゃあ……閉じ込められたけど……出られたの?」
照はにこやかに頷き、もう一度由之真を見て答えた。
「そーです!……フフ……ククちゃんを折れば、真異が戻って気多真異が入る隙間なんて埋まるのに……由ちゃんが気多真異から神中りの人を無理矢理出しちゃったんです。……だからきっとあの人は、由ちゃんにお礼を言いに来たのかも……」
「……」
真異が抜けて魂に隙間ができるのは、優奈だけではなかった。中憑りである由之真も身体に真異を入れる以上は久久に移す際に隙間が生じ、それを狙って他の真異が来ることは十分予期できた。しかし、由之真の隙間は優奈よりも圧倒的に早く埋まり、更に由之真が一人で真異を祓える力を備えていることが哲の油断を誘った。
優奈は照の話しがよくわからなかったが、あの時はただ、どうしても久久を折るなら、せめて由之真に折って欲しくて叫んでいた。今考えても何故そう思ったのかわからないが、ただ一つわかることは、自分よりも由之真の方が久久を折りたくなかったということだった。
「……」
優奈は他にも、地震のことや由之真が歌った歌のことも聞きたいと思っていたが、今はそれがわかっただけでいいと感じながら、心からの感謝を込めて言った。
「……ありがとう」
照は嬉しそうに微笑みながら、首を振った。
「いえいえ!お礼を言うのはこっちです!……神木の子等がみんな力をつけたし、ククちゃんなんて神中りの大真異が入ったし、きっと立派な御神木になりますよ!」
御神木と聞いて、優奈は急に久久を植える場所を思い付いたが、それはもう少ししてから言おうと思った。その後は石狩神社に着いたらどうするか、どこで日の出を見るかなどをみんなで和やかに話し合った。
一方、哲の車中は殆ど会話が無かったが、山を抜ける頃に築根が呟くように口を開いた。
「……哲さん」
「…ん?」
一拍おいて、築根は眉間に皺を寄せながら、ルームミラーを見据えて尋ねた。
「……由くんなんであんな危ないことしたんですか?……下手したら、もうこの世にいませんよ?」
哲は少し間を置いてから、視線を変えずに言った。
「……あー、そーだなぁ……大士郎、なんでだと思う?」
「由之真様は、ただ祓いたくなかっただけだと思います」と即答すると、哲は苦笑しながら愉快そうに請け合った。
「だよなぁ。……あいつはホント、かっちゃんと真由を足して二で割ったヤツさ……」
そして、ルームミラーに映る不機嫌そうな築根の目を見て続けた。
「築根………末技だが、ありゃ『稚児贄の儀』の変則技だ。……違うのは、稚児が自分の破魔刀で自分で地主を祓って地主なだれを起こし、それに気多真異だけを吸い込ませただけだが、祓った地主も落ちる前に『一二三』で祀っちまったし、大士郎が言ったとおり由坊は何一つ祓っちゃいねえ。……とにかくあいつはかっちゃんに似ちまって、とんでもねぇ祓い嫌いなのさ!……フフッ」
それでも築根は納得行かず、ルームミラーを睨めつけながら尋ねた。
「……変則技だって、稚児贄は禁儀ですよ!……っていうか哲さん、終わり良ければ全て良しでいいんですか?大ちゃんもそう思ってんの?」
「!……」
哲と大士郎は一瞬見つめ合い、哲が愉快そうに大士郎に尋ねた。
「……大士郎、そう思ってんのか?」
大士郎は軽く首を振り、薄く微笑みながら答えた。
「……いえ………『数多、祓うなかれ』……勝之真様の信義を由之真様が継ぐ限り、自分はただ、その義を護るのみです……」
しかし、築根は真っ暗な窓に目を向け、苛立たしげに呟いた。
「……そりゃ祓わずに済むんなら、それに越したことないけど……やっぱり危ないわよ!……由くんはもうちょっと、照ちゃんの身になってあげなきゃダメですよ!」
ようやく築根の本音を知った哲は一瞬きょとんとしたが、すぐに優しげな笑みを浮かべて言った。
「そーだなぁ……まあ、お前にゃぁ随分感謝してる。これからも照を助けてやってくれ」
築根は軽く吐息をついてから、少し意地悪そうな口調で答えた。
「……クビになるまで言われなくてもそーしますっ!…でも、哲さんだってちゃんと由くんに、ビシッと言ってくださいね!……照ちゃんじゃないけど由くんってホント、謝ったらなんでも済むと思ってるふしあるんだから!」
「おっ!?、お前あれ聞こえたのか!いい耳してやがるな!ハッハッハッ!」と一頻り笑ってから、哲は急に思い出したかのように言った。
「……ところでよ?……あの結構別嬪な神中りの御影(みかげ--魂)、あれは流石におったまげたな!……普通よ、なだれに巻き込まれた御影なんて、問答無用で地主にふっ飛ばされて逝っちまうのに………逝くには逝ったが、なんでわざわざ由坊んとこに出たんだ?……俺はてっきり由坊の縁だと思ったが違うみてぇだし……大士郎、どう思う?」
「……あれは…………」と、大士郎はたっぷり十秒考えてから答えた。
「わかりません。……築根殿は、どう思われた?」
「へっ!?わ、私にわかるわけないじゃない!………あ、でも……」と言い掛けて黙ってしまったので、哲が問い質した。
「……なんだ?なんでもいいぞ。胸張って言え!」
築根はきつく目を閉じて、首を傾げてから答えた。
「うーん……もしかしたらですけど、地主がそうしたのかなって……ほら、地主は由くんの鎮守を受け入れたわけですよね。ってことは由くんの祓いたくないって気持ちを受け入れたわけだから、御影を弾かなかった。………御影の方は、思いを遂げたから逝ったのかなって思いました……」
「……御影の思いってなんだ?」と哲が静かに尋ねると、築根は俯き、少し考えてから答えた。
「………あの人、なんにもわかってない感じでしたよね?……だから、何か知りたくて由くんに話し掛けたんだと思うんですけど、あの人が知りたいことを、由くんが答えたと言うか……その……手を………」
自分でも支離滅裂だと諦め掛けたが、築根は思いきって言った。
「ただ……手を取ってくれる人を探してて、それが叶ったから逝ったのかと……」
哲は神社の駐車場に車を停めてエンジンを切り、一拍おいてから言った。
「……地主が由坊の意を汲み、御影の本望を……由坊に叶えさせたか。……ん、無くはねぇな!まあ、地主はんなこと考えちゃいねえが、地主にとっちゃそれが一番効率的だったのかもしれねえ。大士郎、本儀の録は今の解で頼む。解者は俺じゃなくて築根でな!」
「はっ!」
「……へ?……冗談ですよね?」と築根はきょとんと尋ねたが、哲はドアを開けながら愉快そうに答えた。
「ハハッ!冗談じゃねぇよ!お前の解と名は、お前が死んだ後も残る。解に恥じぬよう精進しなきゃな!」
「……はいっ!」
優奈達は、由之真宅のキッチンで朝ご飯を作りながら日の出までを過ごした。そして日の出一〇分前のアラームを止めて、久久を持って眺めの良い東の畑へ向かった。
(……っ!)
その薔薇色の曙雲は、優奈が幾百もの夢で見た雲とそっくりだった。いつもならここで目が覚めてカーテンも開けずに部屋の電気をつけるだけだったが、優奈は少し気が抜けた声で母親に言った。
「……お母さん、ほっぺつねって」
「え?…どうしたの?」
「いいから早く」と頬を向けると、博子は怪訝そうに夫を見てから優奈の頬をつねった。
「……痛い痛いっっ!!…もうっ、そんなに強くつねんなくていいのにっ!」
「だってつねったら痛いに決まってるでしょ!フフッ」
すると、二人の下手な漫才に目を細めていた父親が優奈に頼んだ。
「……優奈、ちょっとお父さんのほっぺたつねってくれ」
「え……フフッ!」と、優奈は力を込めて父親の頬を捻った。
「……あイテテテッッ!!……このっ!…ハハハッ!じゃあ次は……」
「フハハッ!」と、二人は意地悪そうに口元を歪めながら博子を睨めつけたが、博子は後退りながら手で頬を隠した。
「私はいいわよ!さっき自分で……あっ、ほら!」
「…あっ!」
振り返ると桃色の雲が見る間に金色に輝いてきて、ついに訪れる感動の瞬間に優奈は目を見開いた。
「……わっ!?…っと!」
しかし、雲間から放たれた陽光が眩しくて顔を背けた拍子に、優奈は仰け反って倒れかけた。
「…大丈夫か?」
「うん!……眩しくって、びっくりした!」と目を瞬きながら、優奈は足下に置いた久久を拾い上げて、もう一度朝日に目を戻した。
(…………)
ところが、たったいま仰け反るほど眩しかった朝日は、もう柔らかい輝きに変わっていた。優奈の予想ではもっと感動的で嬉しいはずだったが、事前にはしゃぎ過ぎたのか、星が見えた時ほどの興奮はなかった。そこで優奈は、もしかしたら真異と嬉しさを半分こしてしまったのかと思ったが、そう思った途端に久久が香った。
優奈は久久の香を胸いっぱい吸い込んで、全ての恵みの根源が放つ膨大なエネルギーを自分の全部で受け止めた。そして太陽の全てが見えた時、不意に優奈は何かが繋がったような気がしたが、それが何かはわからなかった。
(……嬉しい?……私はね……嬉しいんだけど……なんか、よくわかんない……でも……)
きっといつかわかるに違いないと思いながら辺りを見渡すと、朝の澄んだ風が土の匂いを運んできた。由之真の畑は、朝の光を浴びて瑞々しく輝いていた。樹木達の梢では、鳥達が朝のお喋りに勤しんでいた。畑のあちこちに色とりどりの花が咲き乱れていて、どうして今まで気付かなかったのだろうと、ちょっぴり損した気持ちになった。照が縁側で手を振っていたので、優奈も手を振った。すると築根の脳天気な声が、朝の静寂を切り裂いた。
「てーるちゃーんっ!」
「……はーい!」
「もう始めるよーっ!みんな連れてきてねーっ!」
「はーい!」と答えてから、照は優奈に目を戻し、微笑みながら頷いた。
「……」
優奈は一時照を見つめ、朝日を背にして生涯の友へ向かって歩み出した。そして、優奈達が折角作った朝食を持って石狩家を訪ねると、宴はとっくにたけなわだった。
「小林さん!ささっ!こっちゃこっちゃ!!」
「優奈ちゃん!あれ話して!樹魂燦樹魂燦!!」
「はじめまして博子さん、由貴と申します!今日はゆっくりしてってくださいね!」
早速それぞれがそれぞれに捕らえられ、優奈が知らない数人の大人達を交えて大騒ぎとなった。知らない大人達は皆神木の苗木達の持ち主で、優奈は散々感謝されたが、どう答えて良いかわからず困り果てた。そしてその後は温泉に入ったり、久久の世話を教わったり、温室の苗木達を見て回っている内に気付けば午前十一時を回っていた。そして優奈達が宴会場に戻ると、父親は高いびきをかいてごろ寝していた。
「……お父さん!由貴さんが布団敷いてくれたから!ちゃんと着替えてから寝てね!」
「……ん?……あー……んっ!……」と、父親は満足そうに頷いて客間へ向かった。それを見送りつつ、博子が大きなあくびをして言った。
「フフ……お母さんもう限界だわ。優ちゃんは?まだ起きてる?」
「うーん……お風呂で寝ちゃいそうだったけど、なんか目が冴えちゃって……私もう少し起きてる」
「そう、じゃあお母さん先に寝るわね。おやすみ」
「おやすみー!」と母親を見送ったところで、照が優奈に声を掛けた。
「優奈さん、眠くないなら庭で花でも摘みませんか?……築根さんが戻ってくる前に」
嫌ではないが、切りがない築根の質問攻めに困っていた優奈は、「うん!行こっ!」と愉快そうに答えて玄関へ向かった。
二人は思い思いに花を摘みながら境内を一周して、由之真宅の前まで来た時ふと優奈が尋ねた。
「……由くんって、大丈夫なの?」
「はい、さっき見たらぐーすかぴーでした」
しかし優奈は、もう一度照の目を見て尋ねた。
「……それ、マジだよね?」
照は一瞬きょとんとしてから、微笑んで答えた。
「マジですよ!……ちょっと樹冠紋が顔まで伸びてたけど、さっきお爺ちゃんに聞いたら、それは早く治るからだって。…眠るのが一番いいみたい」
「そうなんだ……」と、ほっと胸を撫で下ろした直後、とてつもない睡魔が優奈を襲った。
「…っと!?」
突然ふらりと寄り掛かってきた優奈に驚いたが、照は静かに尋ねた。
「……優奈さん?どうしたの?」
「………ごめ……急に……眠くて…………」
「えーと……じゃあうちで寝ましょう!……頑張って!すぐそこだから!」
優奈は照に肩を借りながらリビングに辿り着いたが、照が客間に布団を敷いている内に力尽きてソファーで意識を失った。そして目覚めたのは日もとっぷりと暮れた頃で、優奈は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。
(……あ……由くん家だっけ……)と思い出すと、玄関の方から由之真の声が聞こえてきた。
「………はい、……です。………はい、……はい……」
(…よかった……ホントに……)と、声を聞いて由之真の無事を確かめた後、また安心して眠ってしまい、次に優奈が目覚めた時は朝だった。
「おはよう、優ちゃん!……照ちゃんが朝ご飯作ってくれたから、早く顔洗ってらっしゃい!」
「……うん」
そして優奈達は朝ご飯を食べてから、通勤ラッシュを考慮して少し早めに家を出ることにした。しかし、出発まで十分を切っても由之真が現れず、どうしても一言直接お礼が言いたかった優奈は気を揉んだが、結局由之真は現れなかった。
「……じゃあ、気を付けて。植える場所が決まったら、いつでも連絡ください」
久久を植える場所は殆ど決まっていたが、折角覚えた久久の世話を無駄にしたくないので、優奈はもう少し一緒にいることにした。
「うん!メールするね!……あと……ううん……」
「……」
山を降りた際に由之真がすぐに寝てしまったので、優奈は儀式が終わってから由之真と一言も話していなかった。それがとても心残りだったが、今無理に起こしてもらわなくても(どうせククちゃん持ってくるし、その時に……)と思いつつ、優奈が玄関を出た時だった。ふと呼ばれた気がして、優奈は振り返った。
「……忘れ物?……?」
優奈が自分の後ろを見ていることに気付いて振り返ると、その数秒後に由之真がリビングから現れた。
「……あ、起きたんだ!今帰るとこだよ!」
「うん」と頷き、由之真は右足を引き摺りながら玄関に近づいた。
「……!」
由之真の顔を見た優奈は一瞬眉を曇らせたが、すぐに玄関に入って微笑みながら用意していた言葉を言った。
「………由くん……昨日はありがとう……」
由之真は薄く微笑みながら、相変わらず静かに答えた。
「…はい」
そしてもう一つ用意していた「チキンカレー美味しかった!また食べたいな」という褒め言葉が、「チキンカレー……今度作り方教えてね!」に変わってしまって少し顔が熱くなったが、取り敢えず気が済んだ優奈が、「じゃあね!」と言って再び玄関を出ようとした時だった。
「あー、よかった!間に合ったー!」といきなり築根が現れて、優奈に白いビニール袋を差し出した。
「はいこれ、忘れ物よ!」
「……あ!」
優奈が袋を覗くと、それは由之真が採ってきたお土産のあけびだった。しかし優奈が「ありがとうございます!」とあけびを受け取るや否や、照が厳とした声で言った。
「それ、待った」
「……?」
照は無言で優奈から袋を受け取り、中身を覗いて尋ねた。
「……優奈さん食べました?」
「ううん。…帰ってから食べようと思ってたけど…」
「………」
少し間を置いて照がゆっくり築根に顔を向けると、築根も同じようにゆっくり顔を逸らした。
「……」
そして照は表情を変えずに、妙に優しい口調で尋ねた。
「築根さん?……私数えたから覚えてるけど、由ちゃん九つ採ってきて一個食べたから、八つあるはずだよね?………なんで四つしかないの?」
築根は一度俯き、それから突然振り向いて、手を合わせながら弁解した。
「………わっ、私じゃないわ!最初に食べたのは哲さんよ!……私も…食べちゃったけど……ごめんなさいっ!!」
「……」
優奈達は無言で小刻みに震えながらこの寸劇を見守っていたが、照が由之真に顔を向けて諦めきった声で「……食いしん坊にも程ってあるよね?」と呟いた時、我慢の限界を超えた。
「……グッ……アハハハハッッ!!」
「フハハハハッッ!!」
真異のこと 終わり