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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第十六話 合同林間学校

 好天に恵まれた今年の合同林間学校は、バスで三時間あまりの湖畔にある少年自然の家で行われた。児童達はまずレクリエーションホールで持参したお弁当を頬張り、それから遊覧船に乗って湖の美しさを堪能した。そして午後三時半時頃キャンプ場へ向かい、林間学校の本来の目的であるキャンプ生活がスタートした。

 早速児童達は「林間学校のしおり」を読みながらテントを設営し、およそ三〇分で二〇のテントがキャンプ場に並んだ。香苗はテントに出たり入ったりした後、不満そうな声で言った。

「キャンプなんだからさ、テントで寝ればいいのに」

「あー……まあな。でもトイレ遠いし、虫多いし、夜は寒いし」

 折角設営したテントで寝られないのは残念だが、トイレやお風呂の問題と、今年は蚊が大発生したこともあって、宿泊は自然の家を利用することになっていた。しかし初日の夕食から二日目の昼食まで、食事は全て児童達の自炊で賄わなければならず、児童達にとっては意外に過酷なキャンプだった。自炊とは言っても、児童達はあらかじめ作りたい料理を家庭科の調理実習で練習してあるので、それを練炭やかまどを使って料理するだけだが、ほとんど班がカレーライスか焼きそばの下ごしらえを始める中、香苗達の班ははじめから二手に分かれてそれぞれ違う料理を作り始めた。

 班は六人一組だったが、ただでさえ四人しかいない香苗達のテントに美夏と香苗しかいないので、二小のクラスメートでも仲の良い糸井里子が心配して美夏に声を掛けた。

「ねえ、美夏ちゃん……ミッちゃんと八岐くんは?」

「かまどでカレーピラフ作ってるよ。私は薄切りカボチャと人参のマリネ風サラダ係で、香苗ちゃんはね、夏野菜のエスニックスープ係なの」

「……へー!そんな沢山作るんだ……凄いね」という里子の感嘆に気をよくした香苗は、ここぞとばかり得意げに言った。

「うん!うちはヤマっちいるから何でも作れるし!明日のお昼もいろいろ作るよ!」

 しかし由之真が料理をすることを知らない里子は、少し驚いて聞き返した。

「……八岐くんってお料理すんの?」

(あ……)

 香苗は一瞬しまったと思ったが、特に秘密にしていたわけではないし、このキャンプでバレてしまうに違いないので言ってしまおう思った。

「うん……サトちゃん、ヤマっちのお弁当見たことあるよね?」

「うん、ゴージャスチックなやつだよね?」

「そうそう!あれね……実はね、ぜーんぶヤマっちが自分で作ってんのさ」

「……うそ」

「……マジ」

 その事実はたちどころに一組女子の間に広まり、当然相田葵の耳にも入った。以前の葵なら「やっぱオカマじゃん」とでも言って笑っていたころだが、今の葵はとてもそんな気分ではなかった。それはもちろん休日の事件が原因だが……事件があったその日の内に、葵は母親に伴われて山一書房と担任と校長に謝罪した。次の日の祝日は百合恵と路子達の家へ謝罪に赴いたが、路子と由之真が不在であり、保護者同士の謝罪を済ませた母親は疲れた顔で、「後は葵が二人に直接謝りなさい」と娘に言った。そしてその二日後の今日、葵はまだ二人に謝罪していなかった。

「八岐くんホントにピラフ作ってたよ。カレーピラフ!」

「ウソ!葵ちゃん、見に行こっ!」

「……あたしはいい……カレー見てるから、行ってきなよ」

「うん!ちょっと見てくんね!」

 路子と由之真は言いふらすような性格ではないので、葵はこのまま謝罪せずに済むかもしれないと思った。しかしそれは菜畑小との関わりを自ら断つことに他ならず、それだけは避けなければと葵は焦っていた。

 一昨日百合恵に、「路子ちゃんがね、葵ちゃんが林間学校行けなくなるのかって、心配してたわ」と言われた時、葵は泣いてしまった。それは後悔ではなく、これから永遠に続くと思われた牢獄から抜け出せたという安堵の涙だった。百合恵はしゃがんで、母親より優しい目で微笑んで許してくれた。そしてその時から百合恵率いる菜畑小一同は、葵にとって大切な存在となった。しかし、いざとなるとどうやって謝ればいいかわからず、葵が無意識に鍋をかき回していた時だった。

「……もう火から離しても大丈夫じゃない?」

「!」

 葵の驚いた顔を見て、百合恵は素直に謝った。

「ごめん、びっくりした?でも、美味しそうなカレーね!後で試食に来るから、一口残しておいて」

「は、はい……」

 百合恵は葵に微笑んでから次のテントへ向かおうとした。しかし丁度そこへ戻ってきた班の子が百合恵に尋ねた。

「あっ、櫛田先生!先生らって料理しないの本当?」

 指導する立場の教員達に調理の時間があるはずもなく、教員にはお弁当が用意されていたが、百合恵は違う言い方をした。

「うーん、本当です!だって、みんなのご飯を試食するだけで、お腹いっぱいになっちゃうから!」

「それってなんか狡くない?フフフ!」

「そんなことないのよ!違うご飯を九回も食べるのは、大変なんだから!」

「ハハハ!それチョー大変だ!……あ、葵ちゃんありがとう、交代すんね!」

「……うん」

 急にすることがなくなった葵は、次の班へ向かった百合恵の後を追った。そして思い切って声を掛けた。

「……先生」

「……ん?なあに?」と振り返った百合恵の目を見て、葵はおずおずと囁くように言った。

「あの……まだ………謝ってなくって……」

「……」

 百合恵はすぐに葵の言葉を察して、その口振りから謝罪を拒んではいないと感じた。しかし何故謝れないのか?と尋ねる代わりに微笑んで提案した。

「……じゃあ、今謝っちゃいましょう!ほら、向こうから来るし」

「へ?」と間の抜けた声を出した葵は、百合恵が指さす方向を見た。すると確かに路子と由之真が鍋を持ってやってくるのが見えて、葵は俄に緊張して百合恵と路子達を交互に見ながら尋ねた。

「……い、今ですか?」

「そう、今!ちょろっと行って、ちゃんと二人を見て、ごめんなさい、ありがとうって言うだけよ!」

「……」

 百合恵が三回瞬きをした後、路子達へ真っ直ぐ向かう葵の背中が百合恵の目に映った。

(……!)

 突然目の前に葵が現れたので、路子と由之真はきょとんと立ち止まった。葵は顔を上げて、すまなそうに二人を見てから静かに言った。

「………ご、ごめんなさい……ありがとう……」

 自分は不在だったが、葵が家に来た時点でこの件は終わったと思っていた路子は、戸惑いながらも苦笑して答えた。

「あー……うん」

 そして由之真が穏やかに微笑んで頷いた瞬間、葵は走り去った。路子が由之真に苦笑を向けると由之真が微笑んだので、路子は照れ隠しに素っ気なく言った。

「あー、腹減った」

 路子が心配していた香苗のスープは中々のできあがりで、美夏のサラダも美味しかった。由之真と路子のチキンカレーピラフは言うまでもなく、香苗が「うまっ!」を連発するので、周りの班の子が味見をしている内に、危うく先生の試食分がなくなるところだった。一口食べた百合恵が「うん、美味しいわ!……明日は何作るんだっけ?」と尋ねると、香苗はにやりと笑って元気に答えた。

「朝はクレープと中華サラダ!お昼はオニオンスープとトマトのスパゲッチーッ!」

 それはなんだかキャンプっぽくない料理だったが、周りの班の児童達は少し羨ましいと思った。それからみんなは施設に戻ってお風呂に入り、そして定番のキャンプファイヤーが始まった。普段は見ない大きな火に興奮した児童達は、大はしゃぎでマイムマイムやジェンカを踊った。しかし火の勢いが一段と激しくなった頃、由之真が輪からすっと抜け、それに気付いた香苗はすぐに声を掛けた。

「……ヤマっち、大丈夫?」

「うん……ちょっと休憩して、また来るよ」

 由之真は休憩所へ向かい、葵の隣のパイプ椅子に腰を下ろした。謝ったばかりで気まずいながらも、葵は何か話し掛けようと思ったが、一度目を合わせたきり結局何も言えなかった。そして十分程して、由之真はキャンプファイヤーへ戻って行った。葵は幼い頃に火事を見てから大きな火を見ると竦んでしまうのだが、火の勢いも衰えてきたので、思い切って席を立ち、足を前に出してみた。すると意外にも足はすんなり前へ動いた。

「……」

 葵はあまり火を見ないようにしながら、キャンプファイヤーへ向かってゆっくりと歩き出した。



 翌朝ラジオ体操の後、児童達はすぐに朝食の準備に取掛かった。香苗達の班は苺とバナナとチーズの三色クレープと、キャベツとレタスの中華風サラダを作った。そして隣の葵達の班が作ったホットケーキと半分トレードし合った。

「ん!くるみとアーモンドのうまっ!葵ちゃんやるじゃん!」

 香苗は蜂蜜たっぷりのホットケーキを頬張りながら、制作者の葵を遺憾無く褒め讃えた。いつもならここで自慢する葵だったが、自慢する代わりに香苗が作ったチーズのクレープを口に詰め込むんで「んーんー、んー!」と唸ってみんなの笑いを誘った。一夜明けて、葵は何かが変わっていることを感じていた。それはほんの些細な変化だが、昨日よりも何だか居心地が良くなっているような気がして、みんなの笑い声が嬉しかった。

 そして朝食を済ませた児童達は、軽登山に出かけた。およそ一時間半で山頂に到着し、そこで記念撮影をしてから、帰りは湖に注ぐ美しい渓谷沿いの遊歩道を散策しながら下山した。遊歩道はゴール手前一キロの地点から二コースに別れていたが、どちらのコースを通っても同じ湖畔にたどり着けるようになっていた。教員達は事前の下見でそのコースは確認していなかったが、距離的に問題ないと判断した一組担任の松本は、何気なくそのコースを選択した。しかしこれが運命の分かれ道になろうとは、この時由之真ですら知る由もなかった。

 意気揚々と歩く松本のペースが速かったのか、いつの間にか後ろの二組を随分引き離してしまい、一組は橋の近くの少し開けた場所で、二組が追いつくのをのんびり待っていた。橋の向こうの駐車場にトイレが見えたので、ずっとトイレを我慢していた里子は、松本の許可を得てから橋を渡った。そして今思えば、それは香苗だからこそ気付いたのかもしれないが、香苗が何気なく橋を渡る里子を見ていた時だった。

「!」

 それは二匹の大きなスズメバチだった。スズメバチは里子を追いかけるように橋の向こうへ消えたが、香苗が咄嗟に傍にいた由之真を見ると、由之真は目を見開いて橋の向こうを凝視していた。そして由之真は香苗を見て、少し鋭い口調で言った。

「御門さん、蜂のスプレー貸して。早く」

「えっ……う、うん!」

 香苗の提案により菜畑小一同は各自蜂撃退用のスプレーを持っていたが、香苗は迷わずウエストポーチから自分のスプレーを出して渡した。それに気付いた路子は、怪訝そうに尋ねた。

「……どした?」

「ミチ……今、蜂がさ…」と言い掛けた時、由之真が百合恵の前を横切りながら、百合恵を見ずに早口で言った。

「トイレ行ってきます」

(……?)

 その由之真らしからぬ態度に、百合恵が戸惑いを覚えた時だった。由之真は二三歩歩きながら帽子を深々と被り直し、突如橋へ向かって走り出した。

「!」

 そしてすぐに香苗が百合恵に囁いた。

「先生、サトちゃん行ってから、蜂が飛んでって、そんでヤマっちが見に行ったの!」

「……」

 百合恵は児童達を動揺させぬよう、小声で尋ねた。

「……蜂って、スズメバチ?」

「うん、こんくらいのおっきいヤツ。二匹か三匹」と言って、香苗は人さし指と親指で四センチ程の大きさを示した。それが蜂嫌いな香苗の誇張であっても危険なことには変わらず、百合恵は俄に緊張し、由之真を追うべきか、それとも児童達を先へ進めるか戻らせるかを思案した。

「……路子ちゃん、相田さん、ちょっと来て」

 由之真が駐車場に入った時には既に遅く、トイレの周りを数匹のスズメバチが飛び回っていた。

「……」

 トイレは左約十メートルの地点にあり、由之真はまずトイレとは逆の方向へ少し歩いたが、蜂は由之真に反応しなかった。そのまま由之真はゆっくり弧を描くようトイレの正面に回ったが、それでも一匹が興味を示しただけだった。

(………)

 巣がトイレの向こう側にあると見当を付けた由之真は、スプレーをバックポケットにしまった。この数ならスプレーで撃退できるが、同時に毒を撒き散らして仲間を集めようとする。集団で襲われたらスプレーが何本あろうと意味はないので、由之真は今スプレーを使うべきではないと判断した。そして由之真が気を溜めながら、ゆっくりと両手を広げた時だった。水を流す音の後、ドアを開け、手を洗う音がして、何も知らない里子がトイレから出てきた。

「……っ!?」

 不意に現れたスズメバチを見た里子が、反射的にしゃがみ込もうとした瞬間、由之真は柏手を打ちながら溜めた気を一気に放った。

パンッ!

「!?」

 熱い衝撃波に身を強ばらせた里子の横目に映ったのは、宙に舞う誰かの白い帽子だった。そして由之真の気に身体を貫かれた百合恵は、迷わず声を張りあげた。

「みんな戻って!来た道を戻りなさい!!」

「!?」

 たった今蜂が出た場合の誘導を指示されていた路子と葵は、百合恵の豹変に驚きつつもみんなの中に飛び込んで叫んだ。

「みんなこっち!スズメバチだよ!」

「おら走れっ!刺されるって!」

「走りなさいっ!逃げなさいっ!」

 児童達は大混乱したが、「こっちだよ!こっち!」と走り出した香苗と美夏につられて我先へと来た道を戻りだした。

「???」

 松本は事態の急転について行けず、転んだ児童を助け起こしながら、とにかく児童達と共に走った。そしてそれは、百合恵が橋に目を向けた時だった。

(……やっ!?)

 里子を両腕で抱えた由之真が橋の向こうから現れ、由之真はそのまま橋から三メートル下の川に飛び降りた。そして水しぶきが上がってすぐ川からスプレーの煙が吹き出し、それを見た百合恵も無我夢中で川へ降りてスプレーのチップを押した。由之真は流れながらスプレーを噴射し続け、橋の下をくぐってそのまま下流へ流されて行った。百合恵もスプレーを噴射しながら、意を決して橋の下の深みに潜った。

 一組は四〇メートル程走ったところで二組と合流し、そのままコースの分岐点まで戻ることにした。その途中で松本は百合恵がいないことに気付き、バッグから防虫スプレーを出して走って引き返した。しかし橋の周りに人気はなく、よもやと思いながら橋を渡ろうと思った時だった。

「松本先生ーー!こっちでーーす!」

「!」

 縋る思いで松本が川下へ走ると、橋から五〇メートル程下流の岸に、全身ずぶ濡れの百合恵達が座っていた。百合恵と里子はぴったり身を寄せ合い、百合恵は里子の濡れた頭を優しく撫でていた。

「……大丈夫ですか?」

「ええ!大丈夫です……ぎりぎりセーフでした」と苦笑して、百合恵は水際を指さした。

「……!」

 水際にはキイロスズメバチの死骸が十数匹浮かんでいて、その内の数匹はまだ生きて蠢いていた。松本はようやく平静を取り戻し、たった数分前の自分達がまさに危機一髪だったことを思い知り愕然とした。そして安堵の吐息をついて、里子に何か優しい言葉を掛けようとした時、松本の携帯電話が鳴った。

「……あっ、箱崎先生!みんなは………そうですか!いやよかった!こっちは……あ、櫛田先生と代わります!」

 百合恵は里子を抱いたまま携帯電話を受け取り、明るい声で言った。

「櫛田です。………ええ、大丈夫です!誰も刺されてません。…………ええ、こちらはこのまま湖へ………はい、みんなに大丈夫だって伝えてください。……はい!」

 百合恵は松本に携帯電話を返してから、里子に優しく尋ねた。

「……里子ちゃん、歩ける?……先生負んぶしようか?」

 里子は赤い目を手の甲で拭ってから、小さな声で答えた。

「……歩けます」

 そして百合恵から離れて立ち上がり、濡れたTシャツを絞っている由之真をちらと見てから、足下の水際に浮かぶグロテスクな蜂の死骸を見て身震いした。それを見た百合恵は、立ち上がって言った。

「もう大丈夫よ里子ちゃん!スズメバチの警戒範囲は十メートルぐらいだから、ここまで来れば安心!……ね?八岐くん」

 急にふられた由之真は一瞬きょとんとしたが、すぐに「はい」と請け合った。

 里子は不安というより、まだ頭が混乱していて自分が助かった経緯を飲み込めずにいた。里子がはっきり覚えていることは、目の前に現れたスズメバチと、目の端に映った帽子と、誰かに抱えられ激しく揺さぶられ、その後水に落ちて夢中で泳いだことであり、あとは我に返ると百合恵にきつく抱きしめられていた。とにかくやっと動き出した頭でわかったことは、あの時見えた帽子の持ち主が由之真であるということだった。

「八岐くん……ありがとう……帽子、弁償するね」と里子が由之真に囁くと、由之真は苦笑して答えた。

「うん……でも帽子はいいよ。あご紐しなかった俺が悪いから」

 百合恵は里子の背中に手を添えて、由之真に意地悪そうな笑みを向けて言った。

「そうよ!八岐くんはいっつもあご紐しないんだから!ちゃんとしないとダメよ!」

 由之真は苦笑を浮かべて「……はい」と答え、少し場が和んだのを感じた百合恵は、朗らかに言った。

「さて!じゃあ松本先生、行きましょう!」

 そして四人は湖畔へと向かった。しかし五分程歩いた頃、由之真の手のひらが異様に赤いことに気付いた百合恵は、思わず声を上げて由之真に駆け寄った。

「八岐くん!」

「!」

 驚いた里子達は振り返り、荒々しく由之真の手を取る百合恵を見つめた。

「刺されたの?どうして言わないの!?」

 百合恵の剣幕に押されつつ、由之真は首を軽く横に振ってから真顔で答えた。

「違います。刺されてません。これは……その……大丈夫です」

「………」

 歯切れの悪い答えに疑問を感じた百合恵は、由之真の目の奥をじっと覗き込んだ。しかしそこには僅かな焦りはあっても、偽りの色は見えなかった。

「……痛くはないのね?」

「はい、一時間くらいで元に戻ります」

「……そう」と答えた百合恵は、とりあえずこの事を頭の片隅にしまいつつ、騒ぎ立てたことを謝った。

「……勘違いでした。お騒がせしてすみませんでした」

 松本は心底ほっとした苦笑を浮かべて答えた。

「いえいえ!とにかく行きましょう。着替えないと風邪ひきますから」



 百合恵達が湖畔に着く前に、香苗達が大急ぎで湖畔を回って迎えに来た。そして香苗と葵は息咳き切って里子に駆け寄った。

「……サトちゃん大丈夫?」

「うん、大丈夫!……びちょびちょだけどね、フフフ」

 香苗は里子の肩に手を掛けて、みんなが無事であることを心から喜んだ。

「よかったーっ!チョーよかった!あたしも汗でびしょびしょだよ!みんなでお風呂入ろっ!……あ、ヤマっちは一人で入ってね!」

「ハハ!八岐くん一人でかわいそー!」

「ハハハハッ!」

 そして百合恵は、無事に児童達を誘導してくれたみんなを褒めた。

「路子ちゃん、葵ちゃん、香苗ちゃんも美夏ちゃんも、ありがとうね!」

「イエーイ!」

 路子は照れくさそうに頷いて、由之真の肩を拳で押しながら言った。

「あー、八岐。その内グッジョブ賞やる」

「ハハハッ!それいい!帰ったらさ、ヤマっちと先生にグッジョブ賞やろ!」

「フフ!先生なんにもしてないんだけど、ありがとう。フフフ!」

 里子は笑い合うみんなを見てとても安心したが、何より嬉しかったのは葵が来てくれたことだった。葵はびしょ濡れの里子と腕を組み、「よかったね!」と微笑みながら何度も言ったが、葵が時折見せるようなわざとらしさは微塵も感じられなかった。そして湖畔では、大きな拍手が百合恵達を出迎えた。ところが里子を助けたのが由之真ではなく百合恵になっていて、教員達は開口一番百合恵を褒め称えた。百合恵はそれを訂正しようとしたが、由之真はさっさとみんなと行ってしまうし、自分も早く着替えたかったので、苦笑しながらそそくさと香苗達の後を追った。

 時刻は正午を回り、本来であれば今頃はキャンプ場で昼食の準備をしている時間であり、百合恵はお風呂に入るつもりはなかった。しかし松本が、「クラスは私が見ますから、櫛田先生は身体あっためた方がいいですよ!こっちは任せてください」と言うので、百合恵は大浴場に入った。大浴場には濡れたわけではない香苗達と葵も入っていたが、もし自分が里子の友達なら自分もそうするだろうと思った百合恵は、香苗達を黙認した。香苗は里子を安心させようと、一生懸命蜂について語っていた。

「怖いのはさ、アシナガとスズメだけだよ!ミツバチとかは刺すと自分が死んじゃうから、乱暴にしなきゃ刺さないんだって!あとクマちゃんも怖そーだけど、ホントはおとなしい子なの。そんで追っかけて来るのはオスで、オスは針がないから刺せないんだって!」

 それはかつて、蜂を怖がる香苗を安心させようと百合恵が教えた知識だったが、所々香苗オリジナルの言い回しになっていたので、里子は不思議そうな顔で香苗に聞き返した。

「……クマちゃんって?」

「クマバチ!あの黒くてでっかくて丸っこくて、黄色い服着てる子だよ!」

「へー!お姉ちゃんよく知ってんねぇ!」

 突然一般客の知らないおばさんが割って入ってきたが、香苗は得意げに答えた。

「うん!だってあたし、アシナガバチに刺されたことあるし!」

 このままでは「香苗の蜂物語」を一から聞かされると感じた路子は、すかさず話の腰を折った。

「だからさ、刺されたの自慢すんなって」

「いーじゃんか、チョー痛かったんだし!」

「ハハ、あー、香苗蜂怖いクセに、ホントは好きだろ?」

 香苗は腕を組み、しかつめらしい顔つきで考えてから答えた。

「うーん……痛いのはヤだけど、クマちゃんはもこもこしてて可愛いじゃん!ハハハッ」

「クマちゃんて、ぬいぐるみかよ。ハハハ」

 百合恵はいつまでも香苗達の会話を聞いていたかったが、あまりのんびりしていられないので、頃合いをみて話し掛けた。

「……みんなさ、お腹空いてないの?」

「あっ!そうだ、ご飯作んなきゃ!」と香苗は立ち上がり、男湯に声を掛けた。

「ヤマっちー、もう上がるよー!」

 しかし返事はなく、由之真はとっくに上がってキャンプ場へ向かっていた。そして香苗達がテントに着く頃には、すっかり下ごしらえが終わっていた。

「おー!流石ヤマっち!カンペキじゃん!」

「つーかさっさと作るぞ!腹減ったし、時間ないし」

「おー!」

 四人は遅れを取り戻すために、絶妙なチームワークでテキパキと調理した。そして見た目は多少疎かだが、およそ二五分程で予定通りのスパゲッティーを作り、周りの班が食べ終えて遊んでいる間香苗達はキャンプ最後の食事をゆっくりと堪能した。それからキャンプ終了式が始まり、児童達は名残惜しそうにテントを解体した。塵一つ残さずゴミを拾い、お世話になったかまどと七輪を綺麗に掃除して、最後は各班一本ずつ記念樹を植えて二日間に渡ったキャンプ生活が無事終了した。レクリエーションホールに向かう途中、ふと香苗は路子に呟いた。

「ミチ……今度はさ、ちゃんとテントで寝たいよね」

「あー…そーだな」

 もしもまたみんなでキャンプをするなら、今度は必ずテントで寝てやろうと心に決めながら、香苗は次のクラス対抗男女混合ダブルドッヂ大会に意識を集中した。

 ダブルドッヂは文字通りボールを二個使ったドッヂボールだが、同時に二つのボールを投げたり受けたりはできないので、真剣勝負というよりパニックを楽しむのがこのゲームの醍醐味だった。児童達は登山の疲れもなんのそのでダブルドッヂを楽しみ、一クラス二チームが出るトーナメント戦を制したのは、路子率いる一組のAチームだった。

「勝ったー!イエーイ!」と香苗と里子はハイタッチを交わし合い、路子は最後まで共に戦い抜いた葵に声を掛けた。

「相田、グッジョブ」

「あ、天野もね!」と葵は勇気を出して微笑みながら答えた。実のところ葵は、路子の名前を殆ど呼んだことがなく、ましてや笑い合って話すようなことは一度もなかった。もちろんそんな葵の勇気を知らない路子は、ただ嬉しそうに「おう!」と答えただけだったが、葵はその瞬間をいつまでも忘れなかった。

 それから夕食までの三〇分は自由時間となり、香苗達が葵達の班とトランプをしている時、部屋を訪れた松本が里子を呼んだ。

「糸井、ちょっと」

「……?」

 松本は苦笑を浮かべながら里子に言った。

「糸井……お昼にな、先生糸井のお母さんに連絡したんだよ。もちろん無事だって伝えたんだが、心配だから会いに来るって……いま連絡あって、ロビーに来てるそうだ」

「えっ!お母さん来てんの!?」と里子は目を丸くして驚いたが、すぐに顔を真っ赤にして俯きながら呟いた。

「なんでここまで来るかな……もう、チョー恥ずかし……」

「そりゃ、糸井が大事だからさ。まあ、ちょっと行って、元気な顔見せてくればいい」

「……はい」と里子はとぼとぼとロビーへ向かった。松本は次に百合恵を探して、娘を助けてくれた恩人に直接礼を述べたいという里子の母親の申し出を伝えた。百合恵は松本に何とも言えない苦笑を向けて、「……来てるんなら、行くしかないですよね?」と独り言のように呟いたが、松本も「……はあ、そうですね」としか答える他はなかった。

 百合恵達がロビーに着くなり、「じゃあねお母さん!明日帰るからね!」と言って、娘が心配ではるばる駆けつけた母親を置いて、里子は部屋へ戻って行った。残された母親は、これ以上ないほど悲しげな顔のまま、百合恵に深々と頭を下げて言った。

「本当に……何とお礼を申したらいいか……櫛田先生がいらっしゃらなかったら、あの子がどうなってたかと思うと……この度は本当にありがとうございました」

 この際百合恵は、本当のことを話そうかと思った。しかし由之真の困った顔が浮かんできて、それはそれで見てみたい気もしたが、そこを堪えて母親の意識を自分から逸らした。

「いえ……私は当然のことをしただけです。その……里子ちゃんはもう心配ないですよ。さっきなんかドッヂボールで大活躍して、みんなで大喜びしてました。今は友達と一緒に、一分一秒を楽しむ方が大事なんですよ」

「……そうですか!」と母親は愛娘の活躍に破顔一笑したが、今度はお返しとばかりに、担任そっちのけで百合恵をほめそやして帰って行った。一難去って、百合恵は溜息混じりの苦笑を松本に向けた。しかし今回の件を笑い事で済ませられない松本は、神妙な顔つきで百合恵に言った。

「櫛田先生……ホントに助かりました。実際、あの時櫛田先生がいなかったらって思うと、冷や汗出ますよ……」

 それは予定にないコースを選択した松本の、感謝の言葉を使った自責の念の告白だった。しかし今はまだ林間学校の真っ直中であり、そんな心理状態で満足な指導はできないと感じた百合恵は、松本の不安を払拭しようと思った。

「……私もです。でも、……あの時はたまたま二人が気付いてくれたのが全てだと思います。私がいたとかじゃなくて、誰も気付かなければ松本先生も私も立場は同じですから。……とにかく、気を抜かないようにしましょう!」

 松本は一度百合恵の目を見てから、明るい声で答えた。

「……そうですね。まだ終わってないし、家に帰るまでが遠足でしたね!」

 それはそうだが少し違うと思いつつ、とりあえず百合恵は松本に元気が出たのでよしと思うことにした。



 林間学校最後の夕食はバイキング料理であり、児童達は食事を作らなくてよいことに心から感謝しながら、好きな料理を好きなだけ頬張った。エビフライとビーフステーキとミニカレーが重なり並ぶ香苗のトレーを見た路子は、横目で香苗を見ながら呟いた。

「あー、香苗。それ全部食べろよ。絶対な」

 香苗は嬉しそうに、ステーキをフォークで半分に切りながら答えた。

「……ミチ、ステーキ半分食べるよね?」

「……」

 路子が思った通り、香苗は美味しそうな料理を沢山並べてみたいだけだった。しかしここで甘やかしては香苗のためにならないと感じた路子は、実のところ食べても良かったのだが、みんなの手前断腸の思いで香苗を突き放した。

「食べない。自分が持ってきたら、自分で食べなきゃダメさ」

 しかし香苗は、「じゃあヤマっち、はい!」と言って目の前の由之真の皿にステーキをひょいとのせた。その瞬間みんなは一斉に「あっ」と声をあげ、香苗はきょとんとみんなを見回してから尋ねた。

「……ヤマっち、いらない?」

「やる前に聞けよ!八岐、無理しなくていいぞ」

 路子はすかさず香苗を批難し、みんなは由之真の反応に注目して、その場は一瞬静まり返った。しかし由之真はステーキと香苗と路子を順番に見てから、何とも言えない困った笑みを浮かべて答えた。

「……大丈夫。ありがとう」

「ハハハッ!」

 由之真の顔がおかしくて、葵達は思わず笑ってしまった。何故かウケているので香苗も一緒に笑っていたが、路子は納得いかなかった。しかし、とりあえずみんなが本当に愉快そうなので、それにつられて路子も笑っていた。そして夕食が終わり、児童達はレクリエーションホールへと向かった。ホールのステージには、おそらく百合恵が書いたと思われるヘタな習字で「きもだめし」という垂れ幕が掛かっていて、百合恵を含めた三人の教員がパイプ椅子に座っていた。

 児童達はきもだめしの内容を知らされていなかったが、どうせ先生やきもだめし係がお化けの格好をして脅かす程度だろうと高を括っていた。しかし各班に一つずつ配られたミニライトと地図を見た児童達は、俄にざわめきだした。

「はい!静かにー!静かにちゅーもーく!」

 きもだめし係担当の百合恵は、しんと静まり返ったホールで小さな鈴をチリリンと鳴らしてから、明るい声で言った。

「えーと、きもだめしのコースは、この鈴を鳴らしながら、お地蔵様の足下に置いてある番号札を取って来るだけです。注意事項は二つ!コースには幾つかの明かりがあるけれど、暗いのでそのミニライトで足下を照らしながら、注意して歩いてください。あと……途中で二カ所、ヘンなお化けがでるかもしれませんが、先生が折角作ったお化けの服を笑わないでください!」

「ハハハハ!」

 ネタの暴露によって不安が和らいだ児童達を眺めながら、百合恵は不敵な笑みを浮かべて続けた。

「はい、ちゅーもーく!……その前に、ただコースを歩くのも芸がないので、先生達がちょっとだけ怖い話をして、それを聞いてから出発します!」

 その時ホールの照明が薄暗くなって児童達は寄り添い合い、すぐに怖い話が始まった。

 トップバッターである箱崎の話は、この湖には首を討たれた落ち武者の生首が現れ、その怨霊を鎮めるために作られたのが、この湖畔のお地蔵様であるという話だった。もちろんそれは作り話だが、児童達を震え上がらせるには十分の威力があった。次の松本の話は前の学校での恐怖体験だったが、これは学校にまつわる怪談をよく知っている児童達を怖がらせるまでには至らなかった。しかしホールの照明がまた一段暗くなったので、児童達の中には既に啜り泣く子さえいた。そして取りの百合恵は、他の学校のきもだめしで起こった不思議な事件を話した。

 ある小学校の臨海学校で、男女ペアが海岸沿いの遊歩道を歩くきもだめしが行われた。先生が自分のクラスの点呼を取ると、いつの間にか違うクラスの子が一人混じっていた。その子のクラスは既に出発していたので、先生は自分のクラスにその子を参加させて、無事にきもだめしを終えた。しかしその子をその子のクラスへ連れて行くと、その子の先生は腰を抜かして驚いた。何故ならその子は風邪をひいて、臨海学校には来ていない子だった。

 百合恵は二呼吸置いてから、声のトーンを落としてゆっくりと話した。

「………じゃあその子は誰なの?って、みんな一斉にその子を見たの。……するとね、その子は「あーあ、見つかっちゃった!」って言って、みんなが見てる前で、すーっと消えちゃったの……もちろん、先生が慌ててその子の家に電話したんだけどね、その子はちゃーんと家にいたんだって。………おしまい」

「………」

 児童達はすぐに辺りを見回して、互いの存在を確かめ合った。そしてそこで照明が明るくなり、児童達の安堵の吐息を聞いた百合恵は、また不敵な笑みを浮かべた。実のところ百合恵は、このきもだめしに大きな仕掛けを用意していた。それはコースのA地点からD地点の四カ所にきもだめし係を潜ませて、たわいのないお喋りをさせるというだけだったが、その仕掛けはきもだめしが終わった後にじわじわと効いてきた。

「違うよ!話し声は最初の明かりのとこだよ!」

「うそ……お地蔵様の後じゃないの?」

「え?……うちらお地蔵様の前で聞いたけど……」

 それぞれ違う場所でお喋りを聞いた児童達は混乱し、それこそ百合恵が仕組んだ心理作戦とは知らずに、怖さの反動もあって班同士が言い争うまでになった。しかしきもだめし係の香苗が真相を暴露した瞬間、百合恵は児童達から「櫛田先生はやっぱりヘン」という不名誉なレッテルを貼られ、教員達は半ば呆れ気味に百合恵を褒めた。

「いやよく思い付きますよ。みんな櫛田先生のことだけは、ずっと忘れませんね」

 百合恵は勝ち誇った笑みを浮かべながら胸を張って答えた。

「みんなが驚く顔を見るのが、私の趣味ですから!」

 一方その頃、香苗達の班の部屋では別のトラブルが発生していた。それは百合恵の不思議な話が終わった後、怖い話が苦手な由之真が平気でいるのを訝しんだ路子が、ふと由之真に声を掛けた時だった。由之真が答えないので、路子が由之真の肩を突くと、由之真は耳から耳栓を取り出した。香苗ならすぐに何かを言うだろうと思ったが、路子はどう言えばよいかわからず、きもだめしの間中ずっと由之真と口を聞かなかった。部屋へ戻ってからも一人で機嫌を悪くしていたので、同じ部屋だった葵は心配して美夏に尋ねた。

「ねえ、美夏ちゃん……天野どうしたの?」

「あー、えっと……」と美夏はそっと路子を見てから小声で言った。

「……八岐くんと、なんだかちょっと喧嘩してるんだけど、大丈夫だと思う」

 喧嘩の理由を聞くまでの仲ではないと感じた葵は、内心やきもきしつつ、「……そうなんだ」と答えるしかなかった。しかしこのままでは就寝前の楽しい自由時間が台無しになりそうなので、あしらわれることを覚悟して何か声を掛けようかと思った時、香苗がきもだめし係から意気揚々と戻ってきた。そして香苗は、不機嫌そうな路子を見るなり躊躇無く尋ねた。

「ミチどーしたのさ?あたしに話せ。歯痛いの?」

「……痛くねーし。なんでもねーよ」

「あっそ。いーよ、美夏ちゃんに聞くから」と香苗は美夏に尋ね、美夏は香苗に事の次第を簡潔に話した。すると香苗は腹を抱えて笑いだした。

「アハハハッ!ヤマっち、チョービビリ過ぎっ!ハハハッ!」

 そしてその笑い声を聞きつけた隣の部屋の女子が、「なになに?」と寄ってきて、またもや由之真の噂が一組に広まった。はじめの内路子はいい気味だと思って一緒に笑っていたが、ふとあることに気付いて香苗に言った。

「香苗、バラしたのお前だからな。私じゃないから」

「え?……あ!どうしよう?……ヤマっち怒るかな?」

 ここまでバラしたのだから、美夏以外その場にいた誰もが由之真は怒るだろうと思った。しかし路子は愉快そうに口元を歪ませて答えた。

「あー、いや八岐は怒らせたって怒んないけど、そーゆーことじゃないし」

 二人の会話について行けない葵達だったが、香苗は腕を組んで少し考えてから言った。

「よし!ミチ、先に謝りに行こう!」

「なんで私が行くのさ?香苗がバラしたんだから、一人で行けよ」

「ミチだって悪いじゃんか!ちょっとのズルで、ずっとシカトしたんだから」

「それは……八岐がズルしたからさ」

「じゃあヤマっちが悪いんだから、謝んなくていいじゃん」と香苗が自分の提案を自分で否定したところで、美夏が苦笑しながらおっとりと言い出した。

「最初にバラしたの私だから、私が謝ってくるね」

 しかし香苗と路子は慌てて答えた。

「それはダメだよ!あたしが聞いたんだから!」

「悪くないのに、美夏が謝ったらヘンだろ」

「じゃあ三人で行こう。きっと八岐くん、何だかよくわかんないくせに、うんって言うと思うよ。フフフ」

「ハハッ、絶対そーだ!」

「あー、一〇〇パーだな。じゃ行くか」と三人は和やかに部屋を出て行った。結局葵達は香苗達の会話がよくわからなかったが、葵は苦笑しながら愉快そうに言った。

「フフフ……八岐って変わってるけどさ、あの子等も結構変わってるよね」

「……うん」と頷きながら、里子は一昨日から感じていた葵の変化を確信した。

 葵は今まで散々香苗達を、「生意気」とか「うざい」とか、相部屋の班が決まった先週の金曜などは「サイアク!」とまで言っていた。しかし葵の態度は明らかに一昨日の火曜から変わりはじめ、昨日の夜は苦手なキャンプファイヤーに参加して、部屋では里子が危惧していた諍いは起こらず、常に葵は穏やかだった。そして今日はいろんな事があったが、まるで今までずっとそうしてきたかのように、自分達は何度も笑い合い、互いを気遣い合うまでになっていた。

(……急にどうしちゃったんだろ?)

 里子は葵の急変が不思議でならなかったが、今の葵の方が前の葵よりずっと好きなので、それは今知らなくてもいいと思うことにした。

「……でも葵ちゃん、一番変わってるのって、やっぱ櫛田先生じゃない?」

「アハハッ!うん!櫛田先生が一番ヘンだ!ハハハハッ」

 香苗達は男子の部屋へ行く前に、ロビーで一人何かを読んでいる由之真を見つけた。由之真は文字がびっしり書かれてある白い紙を一心不乱に読んでいて、香苗達が目の前に来ても気付かなかった。

「ヤマっち、それ何?」

「……家から来たファックス」とだけ答えて、由之真はその紙を折りたたんでジーンズのバックポケットにしまった。もしかして邪魔をしたかと思いつつも、香苗は由之真に目的を告げた。

「ヤマっち、あのさ……ヤマっちが怖い話チョー苦手なの、みんなに言っちゃった……ごめん」

 案の定由之真は目をぱちくりさせてから、にこやかに「うん」と答えたが、その途端三人が笑い出したので、よくわからないまま由之真も微笑んでいた。そこへ風呂上がりの百合恵が現れて言った。

「……みんなもうすぐ消灯時間だから、部屋に戻ってね。おやすみなさい」

「はーい、おやすみなさーい!」

「じゃあねヤマっち、また明日ー!」

「うん……また明日」

 百合恵はみんなが部屋へ向かうのを見届けてから自室へ戻ろうとした。しかし、ふと由之真は通路の手前で立ち止まり、振り返ってみんなの背中を見て、次に百合恵を見て僅かに微笑んでから通路に消えた。

「……」

 この時百合恵は奇妙な不安を感じたが、それが虫の知らせであることを知るのは、次の日だった。



 香苗達が部屋へ戻ると、葵達は早速由之真の反応を尋ねた。

「……怒んなかった?」

「うん、全然。笑ってたよ。ハハハ」

「ふーん……ねえ、ミっちゃん。さっき八岐くん怒んないって言ってたけど。ホントに怒んないの?」

 香苗達と気軽に話せるようになった里子は、次は菜畑小の中心人物についての情報を得ようと試みたが、路子は何故か少し照れながら素っ気なく答えた。

「あー、わかんない。……八岐が怒ったとこ見たことないから、そー思っただけ」

 そしてこれ以上由之真のことで質問されないよう、話を美夏に流した。

「美夏、八岐が怒ったとこ見たことある?」

「えっ……うーん」

 美夏は腰に手を当てて、薄く眉間に皺を寄せて考えてから答えた。

「……一回だけ、それっぽいかなって思ったことあるけど、わかんないや」

「えっ!?」と素速く反応したのは香苗と路子だった。

「なになに?いつさ?」

「えっと、アレだよ……ポーリーンが来た時。八岐くんずっと、不機嫌だったと思うけど……怒ってはいなかったと思うけどね」

「あー!」と香苗と路子は納得したが、ポーリーンと由之真の関係を知らない葵は、香苗達に詰め寄った。

「なあに?ポーリーンと八岐ってどうしたの?」

「あー、そっか。相田等知らないよな。ポーリーンって八岐の前の先生なのさ」

「えーっ!?」

「声でかいっつの!」

「ごめっ!」

 それから香苗達は他の子達には内緒ということで、ポーリーンと由之真の関係と、由之真の家でのお別れ会と、最後はみんなで行った海のことや学校の畑の話をした。普段話す相手がいない香苗達は、葵達が自分達に興味を抱いてくれたことが嬉しかったが、それは葵達も同じだった。葵達は四人しかいない香苗達のクラスを、きっと退屈で寂しいクラスだと思い込んでいた。しかし香苗のスイカ割りの話は、沖縄の真っ青な海で泳いだ自分の体験より楽しげに聞こえて、葵は心底香苗達が羨ましいと思った。

「いーなー!あたしスイカ割りしたことないから、一回やってみたいよ」

「じゃあさ、今度はみんなでスイカ割ろうよっ!ミチん家の実家でさ!」

「あー……まあいーけどさ」

 もちろん葵達は香苗達の言葉を真に受けたわけではなかったが、もし本当に来年誘われたら、是が非でも参加しようと思った。

 翌日児童達はゆっくりと起きて、朝食の後はお世話になった施設を隅々まで清掃した。それから昼食までレクリエーションホールでゲームをして遊び、昼食を取り、丸二日間過ごした少年自然の家に別れを告げた。そしてバスは無事二小に到着し、児童達はそこで解散した。

 葵達は百合恵の車まで香苗達を見送り、路子が車に乗り込む時、葵ははじめて路子にさよならの挨拶をした。

「……じゃあね、またね」

「……おう、バイバイ」

 百合恵は微笑みながらそのやり取りに耳を傾けつつ、何気なく助手席の由之真を見た。百合恵の視線に気付いた由之真は、一度百合恵を見て、そしてまた窓の外へゆっくりと顔を向けた。

「……」

 その仕草に何かを感じた百合恵が由之真の視線を追うと、駐車場の奥に見覚えのあるジープが停まっていた。しかし、まさかここへ由之真の祖父が来るはずはない思った百合恵は、エンジンを掛けながら朗らかに言った。

「さてと!帰りましょう!」

「おーっ!」

 予定では保護者達が学校へ迎えに来ることになっていたが、三〇分早く学校に着いた百合恵達は飼育小屋の点検をしたり畑を見回って時間を潰した。

「あ!来た来た!」

 そして時間通り迎えに来た路子と美夏の母親を入れて記念撮影をしてから、百合恵は出発した時と同じようにみんなを整列させて言った。

「それでは林間学校を終わります!みんな気を付けて、さようなら!」

「さよーならーっ!」

 みんなが駐車場を出るのを見送ってから、百合恵は由之真に声を掛けた。

「八岐くんは、照ちゃんと一緒に帰るの?」

「……あれに乗って行きます」と由之真が指さした方向には、また見覚えのあるジーブが停まっていた。

「あれって……八岐くんのお爺さん?」

「いえ、大士郎さんです」

「そう……じゃあ、気を付けて」

「はい、さようなら」

 由之真は駐車場を出てすぐに振り返り、一度ゆっくり小学部校舎を眺めてからジープへ向かった。ジープは由之真を乗せると、名合の道とは反対方向へ走り去った。その全てを見ていた百合恵の胸に、また言い知れぬ不安がよぎったが、百合恵はそれを疲れの所為にして大きく深呼吸をした。そしてそれは、公舎に着いた百合恵が車から降りようとした時だった。

(……なに?……これ……)

 おそらく由之真が落としたのであろう、助手席に落ちていた四つ折りの白い紙を開いた百合恵は、その紙に書かれてある文章を読んで愕然とした。それは現在十四歳の「小林優奈こばやしゆうな」という少女のプロフィールと、過去四年間に渡る通院歴であり、何より百合恵が驚いたのは、これが夕べ由之真宛てに送られたファックスであるということだった。

(………)

 奇妙な胸騒ぎを感じた百合恵は、すぐに由之真の家へ電話を掛けた。しかし留守番電話になっていて、照の携帯電話にも繋がらず、百合恵は眉間に皺を寄せながら由之真の祖父母が住まう社務所の方へ電話した。すると従業員らしき女性が出たので、すぐに由之真の所在を確認した。

「あの、菜畑小中学校の櫛田と申しますが……八岐くんか照ちゃんは、そちらにおられますか?」

『……ああ!由くんの先生ですね!えーとですね……二人とも出てますが、少々お待ち下さい……』

 保留のメロディーが流れ、百合恵は無意識に部屋をうろつき、そして一分ほどしてから従業員が言った。

『……どうもお待たせしました!えーとですね、照ちゃんがすぐにそちらへ電話しますので、こちらは切らせていただきますね』

「あっ、わかりました!ありがとうございます!」

『はい、失礼いたします』

 とりあえず電話が繋がることに安心した百合恵は、一度大きく息を吐いてそのまま照の電話を待った。そしてまた一分ほどして百合恵の携帯電話が鳴った。

『あ、もしもし照です。こんばんはー』

「……こんばんは照ちゃん。あの……八岐くんはいるかしら?」

 照は少し間を置いてから答えた。

『………由ちゃんは、ここにはいませんけど、何か用事がありましたら私に言ってください。後で伝えますから……』

 一瞬百合恵は迷ったが、やはり言った方がよいと判断した。

「そう……あのね……八岐くんが車にファックス忘れてったんだけど……」

 しかし百合恵の言葉は、『えっ』という照の驚きの声によって遮られた。

「……どうしたの?」と尋ねると、照は少し言い難そうに答えた。

『先生それ……誰かに見せました?』

「……ううん、見せてないわ」

『そうですか……じゃあ、それは破いて捨ててください。もう必要ないんで』

「……わかったわ」

『……他に何かありますか?』

 百合恵は由之真と少しでも話したかったが、これ以上は過干渉であると考え、知っておいた方が良いと思うことを一つだけ尋ねた。

「あの………八岐くん、お母さんの所へ行ったの?」

『……いいえ。由ちゃんのお母さんは元気ですよ』

「そう……ありがとう。じゃあ、八岐くんによろしくね」

『はい。わざわざありがとうございました』と照は電話を切り、百合恵が携帯電話の着信記録を見ると、照が掛けてきた電話番号は非通知だった。

「………」

 百合恵は軽く吐息をついてから携帯電話を机に置いて、由之真が忘れたファックスをクシャクシャと丸めてゴミ箱へ放った。そしてベッドに寝ころび天井を眺めながら、この件について自分ができることを考えてみたが、何も思いつかなかった。しかたがないので、百合恵は林間学校で撮った写真を整理ようとデジカメに手を伸ばしたが、その時呼び鈴が鳴った。

 百合恵がドアを開けると仲村が立っていて、仲村は悪戯っぽい笑みを浮かべながら言った。

「お疲れさん!どう?明日休みだし、今からみかど屋行かない?みんなの話聞かせてよ」

 百合恵は友達のありがたさを身にしみながら、満面の笑みを浮かべて答えた。

「フフフッ!凄い話あるわよ!」



終わり

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