第十四話 金色の夏花
「ありがとうございましたー!」
あと一週間足らずで夏休みが終わる登校日の午後、古びた小さな剣道場に少女達の元気な声が響き渡った。照は面を外し、大きく深呼吸してから湯だつ手ぬぐいで首の汗を拭った。そして防具を片付け、みんなで床を磨いてから、剣道着を着たままプールのシャワー室へ向かっていた時だった。
「照ちゃん!」
照が振り返ると、職員室のドアの前に全運動部の副顧問である仲村勝美が立っていた。仲村は照に手招きをして、微笑みながら尋ねた。
「お疲れさん!……あれ、聞いてくれた?」
「……え?」と照はきょとんとしたが、すぐに思い出して慌てて答えた。
「ああ!……はい、一応……聞くには聞きましたけど……」
歯切れの悪い答えの間に仲村の顔から笑顔が消えたので、照は最後まで話す勇気を奪われてしまった。しかし言わないわけにもいかず、もう一度勇気を出して口を開いた。
「えっと……やっぱりやらないって言ってました」
「そっか……うん、どうもありがとう!」
仲村は腕を組みながら、とりあえず任務を果たした照の労を労いつつ、独り言のようでありながら聞こえるように呟いた。
「うーん、やっぱ照ちゃんでもダメか。あてにしてたんだけど、どうしよっかな……」
「あの……」
「ん?」
照は頭を掻きながら、やや苦笑を浮かべて言った。
「……由ちゃんは、こういうの向いてないと思いますけど……」
しかし仲村は少し得意げな顔で答えた。
「私はそうは思わないわ。八岐くんは運動神経も度胸もいいって櫛田先生から聞いたし、今からやればきっといい選手になると思う」
そう言われて悪い気はしなかったが、照は説明が大変だから家庭の事情を仲村に詳しく言ってなかったことを後悔しながら言った。
「……じゃあ、先生がそれを由ちゃんに直接言ってみたらどうですか?」
「もちろん言ったのよ。それでダメだったから照ちゃんに頼んだんじゃない」
「……そうなんだ」と照は苦笑するしかなかったが、仲村にとっては笑う気になれない事情があった。
瀧沢村立菜畑小中学校中学部の保健体育兼数学の教員である仲村勝美は、太めの眉の下に意志の強そうな精悍な目をしたショートカットの美人であり、いつも快活で小さな事にこだわらない、さばさばした性格の女性だった。しかしそんな仲村にも幾つかの悩みがあり、その一つが男子剣道部の未来だった。
男子部員は現在三年生を入れて六名しかおらず、来年度は小学部からの入学者がいないので団体戦出場は既に断念している状態であり、そればかりか今後二度と団体戦が組めないのでは……と切ないことを考えている内に、いつの間にか仲村は再来年でもいいから、とにかくあと一年だけでいいから団体戦が組みたい!と強く願うようになっていた。
そしてそれは五月の末のこと。仲村は照に二つ下の従弟がいることを知り、そこに希望の光を見出して、早速昼休みに小学部の五年生クラスを覗きに行った。すると教室では児童達と仲村の飲み仲間である同期の百合恵が机を寄せ合い給食を頬張っていた。しかし目当ての男子が見当らないので、今日は欠席かそれともトイレかとしばらく観察していると、覗き見に気付いた香苗が百合恵に通報した。
「……仲村先生、どうしたんですか?」
「あ……櫛田先生、ちょっといい?」
「?」
百合恵が廊下に出て行くと、仲村は腕組みしながら小声で尋ねた。
「あのね……、照ちゃんの従弟の、八岐って子がいるって聞いたんだけど、今日は来てないの?」
百合恵は怪訝な顔をして、首を傾げてから囁いた。
「……八岐くんなら、そこにいるじゃない」
「え?……どこ?」と百合恵が肩越しに親指でさしたガラスの向こうを見ても、そこに男子はいなかった。
「どこって……フフ、一番奥の子がそうよ」
「えっ!?」という驚きの声が廊下に響き、香苗達の目は一斉に仲村と百合恵に向けられた。
「あ!いや……何でもありません!」
仲村は頬を染めながら慌てて両手を振った。香苗達は眉を顰めて仲村と百合恵を交互に眺めたが、すぐにまたお喋りの続きに戻った。
「フフフ……何なの一体?」
「あー…いや……」
仲村は苦笑しながら頭を掻きつつ、できるだけ小さな声で答えた。
「その……男子だと思わなくて」
「フフ……うん」と百合恵は頷き、仲村と同じように小さな声で続けた。
「八岐くんをはじめて見たなら、そう思ってもしかたないかも」
「んー……」
仲村はばつが悪そうにもう一度由之真を見て、実のところ初見ではないことを思い出した。由之真が香苗達と共に歩く姿は幾度か見たことがあったが、その時もてっきりボーイッシュな少女だと思い込んでいた。仲村は苦笑を浮かべて一度横を見てから囁いた。
「あのさ、今日軽くやんない?……おごるから」
二人はつい先週も飲んだばかりだったが、これは何かあると感じた百合恵は、面白そうなので「別におごらなくてもいいわ」とその場で快諾した。そしてその日の午後七時頃、仲村はそば処みかど屋のいつもの席で、百合恵のグラスにビールを注いで言った。
「さてと、まずはお疲れ!」
「お疲れさまー」
まずは当たり障りのないことを話しつつ、どう言おうか仲村が考えていると、厨房から出てきた香苗の祖母が目尻に皺を寄せて言った。
「毎度!ごめんね先生、今日はもうそば終わっちゃったんだわ」
「ああ、いえ!今日は、軽く飲みに来ただけなんで」
すると突然香苗の祖母は、厨房に向かって声を張った。
「良雄!アレ出しな!アレ!」
「……アレって何さ?」と香苗の父親が尋ねると、祖母は右手を額に当てて、左手を振りながら必死に思い出して答えた。
「アレだよ!……あー……そうそうアレだ!……鰹のたたき揚げさ!」
「ああ……竜田揚げな」
一瞬の沈黙の後、今年喜寿を迎えるとは思えない元気な祖母自らが大笑いして言った。
「アッハッハッハッ!、ダメだわー!歳とると物の名前がパッと出てこんねえ!」
そして祖母は一頻り笑ってから、少し曲がった腰を手の甲で叩いて何とも言えない優しい苦笑を百合恵に向けた。その笑みが母親の笑みと良く似ていたので、百合恵は何だかはにかみながらそれに笑顔を返し、照れを隠すかのように突然仲村に話し掛けた。
「……ホントは今日はなんなの?」
急にふられて驚いた仲村は、飲み掛けたビールを必死に飲み込み、少し咳き込んでから答えた。
「あのね、ヘンな意味じゃないからね?………八岐くんは、運動神経とかどうなの?」
ヘンな意味という意味はよくわからないが、どうせ由之真のことだと予期していた百合恵は、その保健体育の先生らしい質問に笑って答えた。
「フフ……運動神経はいいと思うわ……まあ、少しだけ……性格的なものなんだけど、競い合うのが苦手みたいだけどね」
「そっか……今時の子って、そういう子多いね」
ただでさえ競技が減っている昨今の体育授業で、たった数名しかいないなら必然的に競技の少ない授業になるのはやむを得ず、仲村はそんな百合恵の苦労を察して言った。
「まあ、児童があれしかいないんじゃ、どうしてもそうなっちゃうかもね」
実際百合恵は体育の授業に頭を抱えてはいたが、由之真の場合は性格に由来するものなので、百合恵は言い直すつもりで答えた。
「他のみんなはちゃんと競争意識あるんだけど………八岐くんは、なんだかいつも下のレベルに合わせちゃうのよ。だから時々みんなに本気出せって叱られてるわ。フフ」
しかしこれだけだと不公平な気がした百合恵は、グラスのビールを飲み干してから、今度は由之真の味方をした。
「でもね、合同運動会のリレーとか、ここって時にはちゃんと本領を発揮するから、私はあんまり気にしていないわ」
「……そう」とだけ答えて、仲村は百合恵のグラスにビールを注いだが、その心は既に由之真獲得に向けて動いていた。そもそも剣道は個人競技だが、仲村の目的は団体戦の参加であり、団体戦はリレーと性質がよく似ているので、そういう時に本領が発揮できるならば問題なしと判断できた。しかし百合恵が警戒する可能性を考えて、仲村は慎重に言葉を選んだ。
「……でもなんかもったいない気がするね……折角の男子なのに」
「うーん……まあそうだけど、根っからそういう子だし」
百合恵はその時既に由之真の変わった個性を見出していたが、ここで畑のことなどを話すと長くなるので、それよりもついに仲村の目的を尋ねた。
「でも……どうして突然八岐くんなの?」
仲村は尚も慎重に答えた。
「あー、ほら、前に話したよね?……あと一人いれば団体戦が組めるって」
それを聞いた百合恵は、仲村の話しが完全に自分の都合であることを知った。そしてここで由之真の事情を説明すれば仲村の考えが変わると思ったが、やはり気軽に話せるようなことではなく、そこで少し様子を見ることにした。百合恵は仲村のグラスにビールを注ぎながら答えた。
「なるほどね……そっか、再来年八岐くんを剣道部に入れたいってわけね?」
「まあ、そーゆーこと!」と仲村は一口飲んで続けた。
「ねえ……八岐くん、剣道とかって興味ないかな?」
「うーん……」
百合恵は腕を組んで、きつく目を閉じ首を傾げてからはっきり答えた。
「一〇〇パーセント、ないと思う」
「あれ?」と目を丸くした仲村に苦笑しながら百合恵は続けた。
「だって、八岐くんが剣道してる姿なんて、全然想像できないわ」
あっけない否定によって一瞬気落ちした仲村だったが、計画は始まったばかりであると思い直し、とりあえずは百合恵の苦笑に合わせて笑った。
「そこまで言う?フフフッ」
そしてそこに聞き慣れた少女の声が割って入った。
「あ、先生ら来てたんだ!まいどありー、こんばんはー!」
百合恵が厨房の奥を見ると、香苗がオレンジジュースを持って立っていた。
「こんばんは、香苗ちゃん」と答えた百合恵は咄嗟に思い付き、香苗に手招きして尋ねた。
「ねえ、香苗ちゃん……八岐くんって、剣道とかに興味あると思う?」
「……剣道?……ヤマっちが?」
香苗は腕を組んでしかつめらしい顔で考えてから、愉快そうに答えた。
「わかんないけど、なんかそれいいかも!」
少し酔いが回ったのか、仲村はその答えに合いの手を入れた。
「そうだよね!いいよね!」
「うん!……ヤマっちが剣道かぁ……へー!」と香苗は無邪気に感嘆したが、百合恵は尋ね方を間違えたと思い、慌てて訂正した。
「いや、そうじゃなくてね?……興味がありそうか、なさそうかなって聞いたんだけど」
しかし時既に遅く、香苗の答えには香苗の願望が組み込まれていた。
「うん、わかんないけど、あたしはヤマっちが剣道やってもいいと思う!」
「そうだよね!やってもいいよね!」
「……ハハハ」と笑いながら、もはや百合恵が為す術なしと諦めかけた時だった。
「はいお待ち!」
香苗の父親は、鰹の竜田揚げをテーブルに置きながら娘に言った。
「香苗、宿題終わったのか?」
「……まだだった!……じゃあ先生、また明日ー!まいどありー!」
「フフ、はいまた明日!」
思いがけぬ助け船にほっと胸を撫で下ろしつつ、百合恵は割り箸を取って言った。
「とにかく、本人に聞いてみたら?」
「うん、そうね」と答えた仲村は、当然そのつもりでいた。そして百合恵の口振りから積極的な協力は望めないと感じつつも、とりあえず十分な手応えを得たと思っていた。
次の日仲村は早速小学部へ赴き、まずは由之真を小学部の剣友会に誘った。小学部の剣友会は中学部の剣道場で練習していて、二年生から四年生までの児童が六名所属していた。しかし由之真は仲村の目を見据えて丁重に断った。そこで仲村は用意していた言葉を使った。
「そう……でもちょっとだけでいいから、今度試しにやってみない?防具はもちろんこっちで用意するから。ほら、照ちゃんもやってるしね」
異性と比較されることを子供は嫌がるが、照の口振りから由之真との仲は良さそうだと感じていた仲村は賭に出た。ところが当の由之真は今朝散々香苗に言われてある程度把握していたので、もう一度仲村の目を見て答えた。
「今は剣道をやりたいと思いません。でもやりたくなったら先生の所へ伺ってもいいですか?」
それはまるで体のいい押売りの断り方であり、「はい」と返す以外にない言葉だった。瞬間的に仲村の胸に微かな怒りが湧いたが、仲村の本質は百合恵と同じであり、その怒りはすぐに奮発心へと昇華した。
(……なるほどそう来たか!言ってくれるじゃない!)
仲村の心は、もはや一度でいいから由之真に剣道をさせてみたいという意地で満たされ、早くも次の手を考えるべく、由之真に満面の笑みを向けて答えた。
「そう、わかりました!じゃあ、またね!」
由之真は何とも言えない困った笑顔を浮かべながら、意気揚々と立ち去る仲村の背中を見送った。
しかし最も期待していた照の勧誘が失敗に終わり、仲村は焦りを感じていた。双方の気持ちを知っている照は完全に板挟みだったが、なんとか力になりたいとは思っていた。そこで照は、ふと思い付いて尋ねた。
「……櫛田先生に頼んでみました?」
「いや……それはまだなんだけどね……」
それは仲村がたった今思っていたことだったが、百合恵がこの件に関して乗り気ではないという感触があり、仲村にとってそれは最終手段だった。しかし再度照に頼むのは逆効果であると判断して、もうそれしかないと思っていた仲村の背中を照が押してしまった。
「櫛田先生も由ちゃんも、今日は集合日だからまだ学校にいますよ」
「……集合日?」
「裏の畑です。今日はとうもろこし採って畑で食べるって言ってたから、行ったらきっと、とうもろこし貰えますよ」
「へー!……照ちゃんはこれから行くの?」
「行きたいんですけど、私今日、社務所の掃除当番だから」
その畑の生い立ちは知らなかったが、畑のことは百合恵から散々聞かされていたので、行ってみる価値はあると思った。
「……そっか、じゃあ行ってみようかな。……ありがとうね!剣道場は先生が閉めるから、気を付けて帰って」
「はい、さようならー!」
「さようなら!」
仲村はまず二階へ上がり、普段は見ない小学部の裏の畑を窓から見下ろしてみた。すると奥の方に二人の児童が見えたので、仲村は早速畑へ向かった。
中学部と小学部の間の薄暗い通路を抜けると、仲村の目の前に青々とした畑が現れ、それが記憶と違うことに仲村は驚いた。実のところ、仲村が畑に足を踏み入れるのは去年の春に校長から草刈りを頼まれて以来のことであり、これが三度目だった。しかし山から涼しい風が吹いて来た時、生まれてはじめて畑が心地良い場所だと感じて、仲村は足を止めて土の香りを吸い込んだ。そして生き生きとした緑を見渡すと、百合恵とその一味は一番奥の日当たりの良いとうもろこし畑にいた。
「お湯わいたー!」
「はーい!」
滴り落ちる顎の汗をタオルで拭いながら、百合恵は立ち上がって声の主を見た。そして由之真から借りた大きなパスタ鍋から立ちのぼる湯気を見て、調子の悪いエアコンを買い換えずに大型七輪を買ったのは我ながら良い選択だと思った。百合恵はむしった雑草を小径に上げて、手に付いた土を払いながら二人の方へ向かった。
「あー、先生何本?」
「じゃあね………二回に分けて、五本ずつ入れましょう!時間は三分ね!」
そして百合恵は、視界に入った仲村に手を振った。
「珍しいわね、ここ来るなんて」
百合恵の率直な感想に、仲村は苦笑を浮かべて答えた。
「まあね………でも、去年とは全然違うから正直驚いたね。前にみかど屋で随分聞かされたけど、こんな立派になってるなんて思わなかったわ」
美夏と路子は、突然現れたあまり馴染みのない中学部の先生に対して少し警戒していた。しかしみかど屋という言葉と、何より畑を褒められたことによって警戒心は消えて、二人は百合恵と一緒にはにかんだ笑みを浮かべた。そして百合恵は畑を見渡しながら愉快そうに答えた。
「ホント……四ヶ月でここまでにするのは、結構大変だったわね。むしってもむしっても草が生えてくるし、雨で土が流れちゃうし、ちょっと目を離した隙にブロッコリーが虫の餌になっちゃった時は泣きたくなったわ!フフフ!」
そう言えばお盆にそんなことを言っていたと思いつつ、仲村は由之真の姿を探しながら言った。
「とうもろこしの他に、何作ってるの?」
すると百合恵は指折り数えながら、歌を歌うように答えた。
「えーとね……大根人参ネギピーマン、トマトにインゲンさやえんどう、カボチャとジャガイモズッキーニ、茄子にきゅうりに里芋と………あとあったっけ?」
「あー、ニラとししとう」と路子が素っ気なく付け足した。
「へぇー!八百屋ができるね!」
「フフフ……まあ、規模が小さいからちょっとしかとれないけど、八岐くんが直売所に出すとすぐに売れちゃうみたいだし、形は良くないけど味はなかなかよ?」
「ほほー、凄いね!」と仲村は百合恵のバイタリティーに素直に感心しながら、八岐という言葉をすかさず利用した。
「……その八岐くんは?」
その質問に答える前に、百合恵は自分がこの畑の神様の供物であることを思い出し、苦笑してから答えた。
「ああ、八岐くんならついさっき、香苗ちゃんとお供えに行ったわ」
「……お供え?」
「沢村神社です。ほら、あそこに鳥居見えますよ」と美夏が指さす方向を見ると、確かに灰色の鳥居らしきものが檜林の間に見えた。名前は覚えていなかったが、仲村はその神社のことを覚えていた。
「あの神社って……学校の前の神社と合祀したんじゃなかったっけ?」
「うん、そうなんだけどね、でも八岐くんが初物だからって」と百合恵が答えた直後、路子の腕時計のアラームが鳴り、路子は「あっつ!」と鍋から中カゴを引き上げた。するとえも言われぬ甘い匂いが漂い、仲村は照の言葉を思い出した。
「うわ美味そー!ね、私もいい?」
「もちろん!……でもちょっと待って!」と百合恵は路子から中カゴを受け取り、よく水を切ってから、鍋の隣の空いている網に三本のとうもろこしを乗せて言った。
「ちょっと焦げ目を付けてね、お醤油塗って食べるのよ!」
「おー!イケそうね!」
早速美夏と路子が焼係を買って出てくれたので、百合恵はまたとうもろこしを五本鍋に入れた。そして美味しいとうもろこしの食べ方を論じ合う仲村と美夏達を見てから、神社の方へ目を向けた。檜林の向こうには灰色の入道雲がそびえていて、百合恵はもしかしたら夕方一雨来るかもしれないと思った。この時百合恵は、あと一週間で夏休みが終わる今日という日が、いくつもの思い出の中で生涯忘れられない特別な夏の思い出になろうとは、露も思っていなかった。
蝉しぐれの中に、パンパンッと柏手を打つ音が響いた。社の中には古い農機具が入れてあり、沢村神社は既に神社ではなくなっていた。それでも隣で真剣に手を合わせる由之真に習って、香苗も手を合わせ、二人でもう一度お辞儀をした。そして香苗は「よっしゃーっ!」と気合いを入れ、目の前の色褪せたより紐を躊躇なく握ると、頭上でカラカラと鈴が鳴った。
「じゃあ……あたしらの将来を願って!」とにっこり微笑む香苗に由之真がきょとんとした顔を向けると、香苗は握ったより紐を気合いと共に力一杯振り回した。
「おりゃあっ!」
子供の頭ほどある鈴はガランガランと乱暴に揺さ振られ、突然紐から抵抗感が消えた瞬間、見上げる香苗の顔に向かって鈴が真っ直ぐ落下してきた。
「いっ!?」
咄嗟に頭を手で覆うのが精一杯だったが、鈴は香苗には当たらずバインッ!という音がした直後、ガランガランと離れたところに転げ落ちた。おそるおそる目を開けると、由之真が鈴へ向かって歩いていたので、香苗はすぐに由之真が鈴を叩いて自分を助けてくれたに違いないと思った。
「紐が腐ってたんだよ」
「……そ、そっか……びっくりしたー!バチが当たったのかと思った!」
由之真は苦笑しながら鈴と切れた紐の輪っかを香苗に見せて、それを賽銭箱の上に置いてから、香苗の後ろを回って神社の右側へ向かった。
「あ、待ってよ!」と香苗は慌てて追いかけた。
「……どこ行くの?」
「あのままにしておけないし、脚立か梯子がないか見てくる」
自分が原因とは言え、自分に危害を加えようとした鈴など放っておけばよいものを、律儀な由之真らしい考えだと感心しながら香苗は言った。
「ヤマっちありがとね!ヤマっちは命の恩人だよ!お礼に今度うちの新メニュー持ってきてあげる!」
「……新メニュー?」
「うん!カニそばクリームコロッケ!あたしが考えたんだよ!」
「……カニそばクリームコロッケ?」
「そう!ただのカニクリームコロッケじゃないのさ!おそばが……いっ!!」
由之真が急に立ち止まったので、すぐ後ろで話していた香苗の鼻が由之真の後頭部に追突した。
「もうっ!痛いじゃんかっ!鼻潰れたら責任とってよね!」
赤らむ鼻をさすりながら香苗は猛然と抗議したが、すぐに由之真の雰囲気がいつもと違うことに気付いた。
「……どしたの?」
由之真は薄暗い神社の裏手を真っ直ぐ見つめ、静かに言った。
「……蜂がいるかも」
「ええっ!?ヤダヤダッ!どこさっ!?マジ!?」
香苗は幼い頃アシナガバチに刺され、その痛さと腫れによって丸一日泣き明かした経験があり蜂が大の苦手だった。そしてそれを自慢げに公言していたので、由之真は咄嗟にそれを利用しただけだったが、あまり香苗が怯えるので少し後悔して言った。
「大丈夫、ここにはいないよ」
「蜂はダメだよ!チョーダメ!ヤマっち帰ろっ!死んじゃう時あるんだから!」と言って、香苗は両手で由之真の腕を掴んで引いた。しかし由之真は香苗に笑顔を向けて言った。
「ここは大丈夫だよ。神社とかお寺とかってよく蜂がいるから、いるかもって言っただけ。心配ないよ」
「……なんだ……マジで?」
「うん、マジで」
由之真の笑顔を見た香苗は、やっと安心して由之真の腕を解放した。
「見てくるから、御門さんはここにいて。蜂がいたらすぐに戻ってくるよ」
本当は今すぐにでも帰りたかったが、とりあえず香苗は渋々由之真に従うことにした。
「……うん。気ぃ付けてね」
「うん」
由之真がまた神社の裏手に目を戻すと、二〇メートルほど先に小さな納屋らしき小屋の端が見えた。
「……」
由之真はほんの一拍その小屋の端を見つめてから歩き出し、そしてそれは十歩程進んだ時だった。
『……ナイヨ……』
生ぬるい風と共に、細く小さな震える声が由之真の耳に触れた。そのあどけない声は、先ほど立ち止まった時と同じ、由之真には聞き覚えのない小さな女の子の声だった。香苗は立ち止まった由之真を見て蜂が出たのかと思ったが、その時何かの違和感を覚えた。しかし由之真がまた歩き出したことに気を取られ、急に弱まった蝉の声に気付かなかった。
由之真はそのまま苔むした敷石の上を進んで、小屋の前に着いた。しかし小屋には入口がなく、由之真が檜の木立を抜けてその小屋の反対側へ回ると、枯枝が散乱している薄暗い林道に出た。その林道は杉の伐採のために十数年前に作られた道で、小屋は道路工事に使う道具を保管する小屋であり、神社とは無関係の小屋だった。
小屋の戸には錆びた南京錠がかかっていて、由之真はその鍵を手で持ち上げガチャガチャと引いてみたが、これは鍵がなければ開かないだろうと思った時だった。
『……ナイッテバ……』
先程よりも少し大きな声が由之真の左から聞こえた。だがその声は耳ではなく、頭に直接響く声だった。
「……」
由之真は左を見て声の主を探したが、林道の曲がり角の向こうに暗い雑木林が見えただけだった。今度は右を見たがそこも左側と似た景色であり、鍵に目を戻そうとした時、由之真は戸の右下に立て掛けてある小型の鉈に気付いた。鉈の柄はまだ朽ちていないが、刃は真っ赤に錆びていた。由之真が錠前と柱の隙間に鉈の刃をねじ込むと、錠前は朽ちかけた柱から簡単に剥がれ落ちた。由之真は鉈を左手に持ったまま躊躇せず右手で戸を開けた。戸はギリィという耳障りな音を立てながら四〇センチ程開き、由之真は古びた腐臭と埃に襲われたが、眉一つ動かさなかった。
そしてそれは、不意に吹き込んだ風で埃が払われ、小屋の床が露わになった時だった。
『……ネ?……ハシゴ……ナイヨ……』
「………」
由之真は一度見開いた目を細めながら、床に散らばる無数の骨、長い髪が絡んだ小さな頭蓋骨、昆虫の死骸、ぼろぼろに破れた薄緑色の布地、そして錆びだらけの太い鎖と、黄色い花柄の小さなビニール靴などを、一つ一つゆっくり見つめてから静かに優しく答えた。
「……うん、ないね」
そして戸を閉める前に、同じように静かに言った。
「約束する。後でまた来るから……必ず来るから、もう少しだけここにいて」
ほんの少しの間を置いて、小さな声が答えた。
『……ホントウ?……』
「うん、本当」
同じように間を置いてから、小さな声は答えた。
『……ワカッタ……マッテル……』
由之真は戸を閉めて、落ちた鍵はそのままにして、鉈を元の位置に戻した。そして神社の裏に戻った時、わっと蝉の声が戻ってきた。香苗がその事に驚いているのを見て、もう一度小屋に目を向けてから、由之真は香苗に向かって歩き出した。
「蜂はいなかったけど、梯子とかもなかったよ」
「そっか……」
「後で先生に言うよ。戻ってとうもろこし食べよう」
「うん!」と嬉しそうに答えて、香苗は由之真の腕を取り元気よく引っ張った。
「あ、戻ってきたわ!」
最初に気付いたのは、おっちょこちょいの香苗がもし怪我でもしていたらと気を揉んでいた百合恵だった。そして首尾良く焼とうもろこしができあがり、みんなは満面の笑みを浮かべてとうもろこしを頬張った。
「そんなに塗ったらしょっぱいだろ!」
「いいの!あたしはこれが好きなの!」
「絶対しょっぱいって。なあ美夏」
「うん、美味しいよね!」
「いや……ああ」
子供達の賛辞を受けて、とうもろこし畑もざわざわと揺らめいていた。それを眺めながら、由之真は路子が焼き過ぎたとうもろこしを頬張り、時折神社の方に目を向けていた。百合恵はそれに気付いてたが、切れた鈴の紐を気にしているのかと思うに止まり、ふと空を見上げると、先程の入道雲が広がりつつあった。その時山から吹いてきた生暖かい湿った風が百合恵の頬に触れ、百合恵はやはり一雨来ると思った。
そしてみんなはとうもろこしを五本ずつお土産にして帰宅した。百合恵は今日の日誌を書くために職員室にいたが、何故か仲村も百合恵の傍で麦茶を飲んでいた。特に共に帰る約束はしていなかったが、小学部の職員室は滅多に訪れないので、仲村は物珍しげにあちこち眺めていた。日誌を書き終えた百合恵は、ふと思い出したかのように尋ねた。
「そう言えば……八岐くんに用があったんじゃないの?」
「ああ、まあ……そうだけど、みんないたしね」
百合恵は自分のグラスに麦茶を注いでから尋ねた。
「……やっぱり、例の剣道部のことよね?直接本人には聞いてみたの?」
「うん……あの次の日に聞いたけどね……見事に玉砕」と仲村が両手を広げておどけたので、百合恵は苦笑した。仲村は一度溜息をついてから続けた。
「……はぁ……照ちゃんにも言ってもらったんけど、ダメだったよ」
「あら……照ちゃんが言ってもダメなら、やっぱりダメなんじゃない?」
仲村は腕を組み、不敵な笑みを浮かべながら答えた。
「うーん……まあ、私はまだ諦めてないけどね」
「……そう」
由之真が剣道をしている姿は想像できないにしろ、由之真が自ら剣道をしたがるのであれば、それはそれで良いと思うし、仲村が諦めないならそれもまたよしと考えて、百合恵はこの一件を傍観しようと思っていた。しかし仲村の唐突な言葉に、百合恵はたじろいでしまった。
「百合恵さ……あんたが誘ってみてくんない?」
「……へ?」
百合恵はそれを一応予期していたので、上手な断り方を準備しておいたはずだった。しかし突然言われて慌てた百合恵は、咄嗟に必要以上の拒否反応を示してしまった。
「それはダメよ!……八岐くんがやりたいって言うならあれだけど、私が誘うはヘンじゃない」
百合恵はすぐに言い過ぎたと思ったが、断られることを確信していた仲村はそれ程気にせず次の手に打って出た。
「いいと思うのよ。……剣道に限らなくても、何かスポーツやらせたら凄い選手になるって思わない?」
「……私はあんまり思わないわ」
またもやすぐに後悔したが、それより百合恵は自分の気持ちに驚いていた。百合恵は由之真の高い運動能力を認めているが、同時にスポーツには向いてないと思い込んでいた自分にはじめて気付いた。そして自分の相反する考えに混乱したが、幸い仲村はそれには気付かず、あくまでも自分の直感にとらわれていた。
「私は思う。あの子なら何をしてもきっといい線行くと思うよ。まあ、私の勘なんだけど」
「それは……そうかもしれないけど……」
百合恵がそれ以上答えあぐねていると、小さなノックが百合恵の耳に入った。
「……はい!」
二人がドアへ目をやると、さっき帰ったはずである渦中の人物が廊下に立っていた。
「………八岐くん……忘れ物?」
由之真の右手には、学校の花壇から摘んだと思われる花束が握られていた。
時刻は午後六時を回り、小学部の校庭に二台の覆面パトカーと灰色のワゴン車が停まっていた。その傍に体育館から持ち出された長机とパイプ椅子が置かれ、仲村が一人でパイプ椅子にもたれていた。学校の敷地でも私有地でもないが、学校のすぐ近くで子供の白骨遺体が見つかったのだから、これは全国的なニュースになると仲村はぼんやり覚悟していた。しかし意外にも警察の動きは落ち着いたものであり、遺体の回収は三〇分ほどで終了して、報道関係者も現れなかった。
それから数分後、仲村は一人の警官に話し掛けられ、そのまた数分後、最後に聴取とケアを受けていた百合恵がワゴン車から降りてきて、無言のままパイプ椅子に座った。そして少し間を置いてから、仲村は疲れた声で言った。
「靴に書いてあった名前から、身元がわかったって。……さっき教えてもらったのよ」
「……そう」
「………昭和六十二年に他県で行方不明になった女児だって。………なんか、九年前にもうお葬式が終わってて、今日のことは一切他言無用にして欲しいって、遺族の申し出があって……後日その誓約書にサインしてくれって」
「………」
百合恵は顔を上げて仲村を見たが、仲村は百合恵と目を合わせず、軽く首を横に振って続けた。
「あとは、うちらはもう少ししたら帰っていいって……そんだけ」
「……うん」
百合恵は溜息をついて、やりきれないといった顔を地面に向けたが、すぐにまた顔を上げて言った。
「……八岐くんは?」
「校舎……家に電話してくるって」
電話と聞いた百合恵は、警察の次に由之真の祖母に連絡を入れた際、電話に出た祖母が言ったことを思い出した。祖母は百合恵が拍子抜けするほど落ち着いた口調で、由之真が望むなら照を迎えに出すが、由之真が屍を見つけたのはこれで五度目だから、それ程心配することはないと思う、と語った。
「そう……ちょっと見てくるわ」
「うん」
百合恵は立ち上がって、小走りに校舎へ向かった。歩きながら、できることならこれが夢であったらと思わずにはいられなかった。五秒も直視できず目を逸らしてしまったが、あの小屋の床にあった無数の骨と黄色い靴は、おそらく生涯心に焼き付いて離れることはないだろう。それと同時に、それを一人で見つけてみんなが帰るまで胸に納めていた由之真を思うと、たとえ由之真が屍に慣れていようとも、とにかく今は一人にしてはおけないと思った。
陽はまだ薄く差していたが、時計台の上には今すぐにでも零れてきそうな、黒々とした不気味な暗雲が垂れ込めていた。百合恵はまず由之真がバッグを置いた職員室へ戻ったが、バッグはあったが由之真はいなかった。次にもう一度正面玄関の公衆電話を見たが、やはりいなかった。不安に駆られ二階を探そうかと考えていると、不意にトイレの水を流す音が聞こえ、百合恵はほっと胸を撫で下ろした。そしてそれは、自分もトイレへ行こう思って数歩進んだ時だった。
ジャラ……
何かを引き摺るような小さな音が聞こえたので、百合恵は振り返った。
『………ンノママ?……』
(っ!!)
百合恵は息を呑み咄嗟に後退ろうとしたが、身体が言うことを聞いてくれなかった。ジャラ……ジャラ……と何かを引き摺りながら、五〜六メートル離れた先から小さい緑の物体がゆっくり百合恵に近づいてきた。それはつい三時間程前に神社の裏の小屋で見たものであり、その緑のワンピースを着たぼやけた小さな物体は、鎖を引き摺りながら百合恵に迫り、おぞましい震える幼い声で尋ねた。
『……ネェ?……オニイチャンノ……ママ?……』
(……ち、違うっ!違うわっ!!)
全身の毛穴が開き、冷たい汗がどっと噴き出した。叫ぼうとして腹に力を込めても、声は出せず、瞬きすらできなかった。
『……ネェ?……ソウナノ?……』
(違うのよ!お願い来ないでっ!来ないでっ!!)
『……オニイチャント……イッテモ……イーイ?……』
「!?」
その瞬間、百合恵の恐怖に強烈な怒りが混ざった。
『……ネェ?……イイデショウ?……』
(ダメ!ダメよっ!!お願い来ないでっ!!ダメーーッッ!!)
そして、百合恵の感情が限界に達しようとした時だった。カラカラ、という音と共にトイレから出てきた由之真を背後に感じた百合恵は、由之真に向けて力の限り叫んだ。
(逃げてっ!八岐くん逃げなさいっ!!)
しかし声を出したのは、小さな物体の方だった。
『……オニイチャン……』
「……?」
声に気付いた由之真は、濡れた手を白いハンカチで拭いながら声の方向に目を向けた。そこには後ろ向きの百合恵と、薄緑色のワンピースを着た見慣れぬ灰色の少女が立っていた。由之真はその少女に巻き付いている鎖を見て、少女があの小屋の少女であることに気付いた。そして灰色の少女は、既に聞き覚えのある震える声で尋ねた。
『……ネェ?……イコウ?……イッショニ……アイチャント……オニイチャント……』
少女の声の他に荒い息づかいが聞こえたが、由之真はそれが百合恵のものであることに気付いた。
『……オニイチャンノ……ママト……ネ?……』
「………」
由之真は表情を変えずに、一度百合恵と既に目の前に迫った少女を交互に見て、ハンカチを折りたたみながら、小さな子に言い聞かせるよう優しく静かに言った。
「……先生は、俺のママじゃないよ。俺と先生は、どこにも行かない」
「!?」
百合恵は由之真の声が聞こえたが、自分の激しい動悸の音に邪魔されて何を言ったかまでは聞き取れなかった。少女はそのままじっと由之真を見上げ、おずおずと尋ねた。
『………オコッタ?……』
由之真は微かに首を横に振り、微笑みながら静かに答えた。
「……怒ってないよ」
すると少女は満面の笑みを浮かべながら、太陽のような黄色の花を由之真に差し出して言った。
『………アノネ……キレイナ……オハ』
「……」
少女は忽然と消え失せ、黄色の花だけが音もなく床に舞い落ちた。それは由之真が花壇から摘んで小屋に供えた糸葉春車菊だった。由之真はハンカチをジーンズのバックポケットにしまい、その花を拾いながらそっと呟いた。
「……どういたしまして」
ドシッという鈍い音がして由之真が前に目を向けると、百合恵が床にお尻を付けて、両手を突っ張ってかろうじて上半身を起こしていた。由之真は百合恵に歩み寄って声を掛けた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫なわけないじゃない!」とがなろうとしたが、とてもすぐに声を出せる状態ではなかった。百合恵は滝のような汗をかき、震えながらそろそろと後ろを振り返り、やっとのことで「……ふぁ〜……」という情けない息を吐いた。由之真はそんな百合恵を見ながら少し考えて、正面玄関に向かって歩き出した。
(ちょっと!)
百合恵は何故か見捨てられた気持ちになり、腹が立ったおかげで声が戻ってきた。
「ちょっ……まっ……」
由之真が振り返ると、百合恵は力一杯恨めしそうな目で由之真を睨めつけながら、震える声で必死に訴えた。
「……ん…待って!……腰が……抜けちゃって……」
それから百合恵は汗でびしょ濡れになった服を着替えるために、由之真に支えられながらたっぷり三〇秒かけて保健室へたどり着いた。そして廊下に出ようとする由之真を慌てて呼び止めて、衝立の後ろで待つよう頼んだ。
「えーと……ちょっと話しがあるから、ベッドに座って待ってて」
「はい」
百合恵はTシャツを脱いでタオルで汗を拭ったが、考えてみれば替えの衣類は宿直室に置いてあるので、はじめからそちらへ行くべきだった。しかし濡れたTシャツをもう一度着るのは嫌だし、一人で廊下に出るのは嫌だし、とにかく今は一人になりたくなかった百合恵はとりあえず白衣を出して着た。そして深々と椅子の背にもたれて、深呼吸してから口を開いた。
「……八岐くん」
「はい」
「あ……あれっていうか……見た?」
「はい」
「………」
衝立の向こうで平然と答える由之真に恨めしそうな目を向けながらも、百合恵は怖さに慣れたと思っていた愚かな自分に呆れていた。しかし意識が自分に向いたことにより、百合恵の心は落ち着きを取り戻してきた。
「じゃあ……あれは……また悪戯なの?」
「……違います。でも、気にしなくても大丈夫です」
説明を放棄された気がした百合恵は、思わず少し不満げに言い返していた。
「……気にしなくていいって言われても、気になるわよ……」
「………」
しかし由之真が答えないので、百合恵は衝立の横から由之真を覗いて尋ねた。
「……どうしたの?」
由之真は一度横を向いて、苦笑気味に答えた。
「あの子は……なんにも怖がってなかったし、花のお礼に寄っただけだと思います」
「………そうなの?」
「はい、たぶん」
「……そう」
興奮していたわけではないが、百合恵は由之真の答えを聞いた瞬間、自分の中の恐れや怒りが急に和らいだのを感じて戸惑った。そして、花のお礼に来るならもう少し穏当に来て欲しかったと思いながら、由之真も「あの子」も怖がっていないなら、もはや自分も怖がる必要はないと強く感じた。しかしやはり、これで済ますにはあまりに強烈な事件であり、とりあえず百合恵は急がずゆっくり整理しようと思ったが、どうしても一つだけ気になることがあった。そしてそれをどう尋ねようかと思った時、ガラッ!と勢い良く保健室のドアが開けられた。
「キャーーッッ!?」
「!?」
百合恵は無意識に思いもよらぬ素早さで、衝立の向こうにいた由之真にしがみついていた。しかしこの事態に最も驚いたのは、遅い二人の様子を見に来た仲村だった。
「な……何してんの?」
ベッドの上で由之真の腰にしがみついている白衣の百合恵を見て、仲村の頭に一瞬だけよからぬことがよぎった。
「……え?……ああ、なんだ!勝美………はあっ!ごっ、ごめんなさいっ!!」
ようやく自分の行為に気付いた百合恵は、慌てて胸元を手で押さえながらベッドの影にしゃがみ込んだ。白衣の下襟はスーツのジャケットと同じ形状であり、Tシャツを脱いで着るのは如何なものかと思われた。百合恵は気恥ずかしさのあまり床板を剥がして床下に飛び込みたい心境だったが、由之真はしがみつかれた時に驚いたまま、頬を染め万歳しながらきょとんと仲村を見つめていた。
パトカーは既に引き上げていて、長机とパイプ椅子もきちんと畳まれ体育館の軒下に置かれていた。いつの間にか雲は消えて、校庭は桃色に染まり、夏の夜の臭いが漂い始めていた。
「まったく……私だったからよかったけど、他の人だったら大問題だからね?」
「ハハ……ごめん!」
仲村は百合恵のことを、多少おっちょこちょいだが正直者だと思っていたので、「汗が気持ち悪かったから着替えよう思ったんだけど、替えの服を忘れてて、脱いだのは着たくなかったから、白衣を着たのよ」という言い訳に呆れはしたが、疑おうとは思わなかった。しかしいくらおっちょこちょいでも、万一あの姿を警官にでも見られていたら立場を悪くする可能性があっただけに、仲村は注意と心配の両方を込めて念を押した。
「笑いごっちゃないんだから。本気で気を付けなさいよ?」
「うん!これからは気を付けるわ!」と素直に反省しつつ、百合恵は校庭に降り掛けた由之真を呼び止めた。
「あ、八岐くん!送るから!」
由之真は立ち止まり、振り返って答えた。
「……照がバス停に迎えに来るので、バスで帰ります」
「それなら……そのバス停まで送るわ」
「……」
由之真は無言で百合恵の目を見た。百合恵はそれが柔らかな拒否だと思ったが、百合恵としても譲る気がない意思を無言の笑顔によって返した。由之真は百合恵の後ろに立つ仲村に目を向け、そして百合恵に目を戻して答えた。
「……じゃあ、バス停までお願いします」
道中仲村は、由之真への気遣いと自分と百合恵の気を紛らわすためか、ずっと由之真に話し掛けていた。それはスポーツの嗜好や、どんなテレビを見ているかなどのたわいない会話だったが、由之真がスポーツに疎く、テレビは主に料理番組を見ていることを知った仲村は、益々由之真という児童がわからなくなっただけだった。百合恵は百合恵で、仲村が話してくれている間に自分の頭を整理していた。今日の事件では腑に落ちない点が多々あり、いくら遺族の申し出で他言無用とは言え、何か釈然としない気持ちだった。しかし、まずは由之真の心身が無事であれば、今日のところはよしとしようと思った時、百合恵の視界にバス停が入った。百合恵はバス停の横に車を止めて、後部座席に話し掛けた。
「……照ちゃんより先に着いたみたいだけど、どうしよっか?途中で照ちゃん拾って、家まで行く?」
由之真はすぐにドアを開けながら答えた。
「ここでいいです。ありがとうございました。さようなら」
「はい、さようなら!」と返したのは仲村だけで、百合恵は仲村に「ちょっと待ってて」と言ってエンジンを切り、外へ出て由之真に声を掛けた。
「……八岐くん」
由之真は立ち止まり、夕日に照らされ輝く瞳を百合恵の顔に向けた。百合恵は少し考えてから、由之真の目を見て小声で尋ねた。
「……先生、八岐くんのお婆さんにね、……八岐くんが何回か……遺体を見つけたことがあるって聞いたんだけど……それは本当なの?」
「はい、五回目です」と真顔で答えた由之真を、百合恵は信じることにした。
「そう……もう一つ聞きたいことがあるんだけど……」
百合恵は一度由之真から目を逸らし、また由之真の目を見て尋ねた。
「あの時……なんて言ったの?……あの子に」
「……ああ」と由之真は苦笑を浮かべ、小声で答えた。
「先生は俺の母さんじゃないって。あとは……俺も先生も、どこへも行かないって言いました」
「……そう、そんなこと話してたの……そう……」
何故かはわからなかったが、百合恵はその答えが嬉しくて何度も頷いていた。そしてその嬉しさに乗ってしまったのか、少し悪戯っぽい笑み浮かべながら、百合恵は小さく柏手を打って言った。
「フフ……八岐くん、このおまじないしてくれない?何だかね、これすると安心するのよ」
由之真は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。
「……じゃあ一緒に」
「フフフ……せーの!」
パンッ
「!」
ビュゥと不自然なつむじ風が吹き上がり、二人の髪を踊らせた。百合恵は驚いて辺りを見回したが、由之真は振り返って言った。
「……照が来たから、行きます」
百合恵の目にも小径で手を振る照が見えたので、百合恵は慌てて答えた。
「ああ、うん!ありがとうね!……八岐くん、明後日飼育当番だっけ?」
「はい」
「じゃあ、また明後日。さようなら!」
「さようなら」
そして由之真は、車中の仲村に軽く会釈をしてから夕明かりの中へ入って行った。仲村は車に戻った百合恵に、「一本締めするなら、交ぜてくれたっていいのに」と不満そうに言った。確かに端から見れば一本締めにしか見えないと思った百合恵は、エンジンを掛けながら「フフフ!ごめん、急に思い付いたから」と誤魔化した。しかしウインカーを出して、いざアクセルを踏んだ時だった。
「ところでさ!やっぱ百合恵が誘ってみてくんない?百合恵の話なら聞いてくれると思うし!」
「へっ!?」
「おわっ!」
不意を衝かれた百合恵は、思わずブレーキを踏んでしまった。しかし今度は同じ轍を踏まぬよう仲村の弱点をついた。
「だからそれは……誘っといて、ホントは勝美が団体戦したいだけって後で知ったら、私が八岐くんを騙したことになるんだから!」
「うーん……」
百合恵の攻撃は、思った通り正義感の強い仲村の胸をちくりと刺した。その反応を見て、百合恵は前から思っていたことを率直に伝えた。
「あのね……もしかしたら正直に頼めば、案外聞いてくれるかも。八岐くんそういうとこあるから」
「正直にって……全部?」
「そう!というかね、もうみんなバレバレだと思うわ」
「えっ……マジで?」
「マジよ。おとなしそうに見えても、八岐くんはめちゃくちゃ勘が鋭いんだから」と自信たっぷり話す百合恵に、それはもっと早く言って欲しかったと思うや否や、仲村は突然窓から顔を出して叫んだ。
「八岐くーーんっ!!」
照と由之真は振り返り、仲村は更に声を張った。
「あのねー!八岐くんがー、入部してくれたらー、団体戦できるのよーっ!……試しでいいからー、おー願ーーいっ!」
(……なにもここで叫ばなくても)と百合恵は苦笑するしかなかったが、ちぐはぐではあるが仲村らしい決断の早さに心で感嘆した。そしてついにぶっちゃけ作戦に出た仲村に対して、どうせならもっと早く打ち明ければいいのにと思いつつ、照は仲村をフォローした。
「フフフッ……あのね由ちゃん、男子剣道部って今年限りでもう団体戦に出られないんだって。でも仲村先生、あと一年でいいから団体戦に出たいんだって。私が由ちゃん誘ったのも、先生に頼まれたからなの……」
「……うん、そんな感じだと思ってた」と言って、由之真はポケットから手を出して両腕を頭上に挙げた。
「あら!……フフフ!よかったじゃない!」
そのサインの意味をすぐに理解した百合恵は、それがとても由之真らしいと思って心を和ませた。由之真は両腕で大きな三角を作り、そして照と共に横道へ入って行った。
「……よかったの?……三角ってなんなわけ?」と怪訝な顔を向けた仲村に、百合恵はできるだけ真顔で答えた。
「半分了解ってことじゃない?試してみてもいいってことだと思うけど」
「……そうかな?」
仲村はなんだか釈然としなかったが、とりあえず最後にもう一声張った。
「ありがとーっ!」
由之真は軽く左手をあげて民家の陰に消えて行った。その直後に後ろからバスが来たので、百合恵はエンジンを掛けて言った。
「あのね……お腹空いたしみかど屋行かない?香苗ちゃんがね、新メニュー作ったんだって。……お弔いのつもりでお酒飲んだら、バチ当たっちゃうかしら?」
「お通夜みたいに?……フフ、バチは当たんないと思うけど、そうねえ……ちょっと憂さ晴らししよっか。新メニューって何なの?」
「んーっとね……カニそばクリームコロッケだって」
「………カニそばクリームコロッケ?」
「そう……まあ、期待してないけどね。フフフッ!」と愉快そうに笑ってアクセルを踏み込みながら、百合恵が遥か前方に目を向けると、沈み行く夏の太陽に照らされた羊雲が金色に輝いていた。ふと百合恵は、由之真があの子に供えた黄色いコスモスと、あの子の小さな黄色い靴を思い出したが、それは既に百合恵にとって怖い思い出ではなく、生涯忘れ得ぬ大切な思い出になっていた。そして百合恵は、由之真が花壇からその花を摘んだのは、きっと偶然ではないと思った。
終わり