第十三話 みんなの夏 後編
午前七時頃朝食を済ませたみんなは、早速これから出掛けるお墓参りの後の予定について話し合っていた。香苗達はこの旅行で、海水浴をメインにしながら水族館や展望台や科学館を巡ろうとしていたが、今朝活子が何気なく言った「稲森パークセンターってできたんだけど、アスレチックとかバーベキュー広場とかあって、馬にも乗れるんだって。もしバーベキューやるんなら、おばちゃん急いで用意してあげるけど?」という言葉は、折角香苗達が立てた計画に大きな亀裂を作った。そして、アスレチックとバーベキューという言葉は果たしてどの程度信用できるのか?いや、活子が実際に行っていない以上は、おいそれと信用できないのでは?しかしバーベキューは確実に食べられるのでは?などと激論を交わした結果、不確かな情報で貴重な一日を無駄にはできないと判断し、路子はその決議を告げに一階へ降りようとした。ところが活子は、実にカラフルな紙を議会に提出して言った。
「あったよ!これこれ!パンフレット!」
それを見た議員達は全ての予定を反故にして、稲森パークセンター訪問案を採択した。
斯くして香苗達はバーベキューの用意を手伝い、まずはお寺へと向かった。三島家の墓は車で十五分ほどの大きな山寺にあり、路子は墓石に手を合わせながら、やっぱりまだ祖母が亡くなった気がしないことを無言で祖母に告白した。そしてみんなが手を合わせ、墓石に水をかけて帰ろうとした時だった。
ふと由之真が後ろを振り返ったので、百合恵もつられて後ろを見た。その瞬間路子が石段を踏み外し、斜め前にいた香苗の肩に手を掛けてしまった。
「いっ!?」
「わっ!?」
不意に押された香苗は前に倒れ、二人はそのまま階段の下に身を投げ出した。しかし、その瞬間を目の当たりにしていた百合恵は、落ち着いて難なく香苗を抱きとめ、由之真も路子の身体を受け止めた。幸い石段は数段しかなく、由之真と路子はそのまま柔らかいメッシュフェンスに身体をぶつけただけで済んだが、前を歩いていた活子と祖父が慌てて駆け寄った。
「大丈夫か!?」
路子は耳まで赤くしながら、突き飛ばすように由之真から離れて答えた。
「あー、全然大丈夫!香苗、悪い!……八岐も」
「びっくりしたー!」
何ともない三人を見て安心した祖父は、路子の頭を荒々しく撫でながら言った。
「ハハハッ!よかったな路子!寺で転ぶと立てなくなっからな!」
路子は今朝からゆるゆるになっている自分のサンダルを見下ろして、不満そうに呟いた。
「……なんか紐伸びてんのさ……活子おばちゃんサンダル履いた?」
「あっ!」と声を上げたのは百合恵だった。
「ごめんなさい!それ先生だわ!……今朝ちょっと慌てて履いちゃって、ごめんね!」
「あー、いいけど。締めればいいし」と言って路子はサンダルの紐を縛り直した。
そしてみんなは一度家へ戻り、仏壇に線香をあげてから早速稲森パークセンターへと向かった。
去年開園した稲森パークセンターは、アスレチックコースの他、テニスコートやキャンプ場、水遊び用の大きな噴水池など家族向けの施設がてんこ盛りのファミリーパークだった。
「おーっ!いいじゃん!先生、早くアスレチック!」と香苗は目を輝かせて百合恵の手を引いたが、百合恵はみんなを落ち着かせ、幾つかの注意事項を言い渡した。それは危険なので競争はしないことと、みんなで一緒に行こうということだった。香苗と路子はもちろん競争するつもりでいたので、途端に不満な声をあげた。
「えーっ……他の子の邪魔は絶対しないから!」
「うーん……ならいいけど、五つ進んだら待ってること!いい?」
「はーい!」
そしてみんなはスタート地点でスタンプパズルカードを受け取り、いざスタートを切った。第一ゲームの勝者はアスレチックを得意とする香苗だった。日頃体力で路子に敵わない香苗は、丸太吊り橋をおっかなびっくり進む路子に向かって得意げに言った。
「遅いよケンコーユーリョージ!」
「……猿には敵わねーのさ!」
「はっはーん!まっけおっしみーっ!」
しかしいくら路子を挑発しても自分の方が速いので、香苗は途中で競争を止めて、敢えて難しい方法で登ったり降りたり渡ったりすることで、楽しみながらみんなとの歩調を合わせることにした。次はうんていと丸太の一本橋が合体した「空中散歩」という遊戯だったが、何故か大人気で列ができていた。そこで香苗はそのすぐ隣にあった対象年齢八歳以上の丸太登りとターザン滑車が合体した「ターザンロード」という遊戯で遊ぶことにした。
そして香苗がふと丸太の螺旋階段を見上げると、そこには五歳前後の小さな女の子が階段をよろよろとのぼる姿があった。咄嗟に危険を感じて、香苗は後から来る百合恵を見た。百合恵は女の子に気付き、注意して降ろそうかどうか迷った、その時だった。
「……っ!」
突然百合恵の斜め後ろにいた由之真が飛び出し、香苗に向かって跳ね飛んだ。香苗は目をきょとんとさせたが、その時百合恵と美夏と数人の子供が「あっ!」と声をあげ、香苗が上を見上げようとした時、由之真が香苗の肩を押した。
「わっ!?」
よろめきながらも香苗が由之真を見ると、突然由之真の腕に何かが落ちてきて、由之真は足を曲げながらそれを受け止めた。
「うわっ!?」
「八岐くんっ!!」
百合恵はすぐに駆け寄り、立ち上がった由之真と由之真の腕の中にいる女の子を見て安堵の吐息をついた。
「……はぁ……よかった!……」
女の子はかたく目を閉じていたが、香苗の「びっくりしたー!大丈夫?」という声で我に返り、途端に激しく泣き出した。するとどこかにいた母親らしき女性が「アイちゃんっ!!」と悲鳴をあげて駆け寄ってきた。
「アイちゃん!どうしたの?アイちゃん?」
女性は由之真の腕から女の子を奪い取ろうとしたが、女の子は泣きじゃくりながら由之真の首にしがみついて離れようとしなかった。それでも女性が強引に引こうとしたので、百合恵は堪らず声を掛けた。
「落ち着いてください。大丈夫ですから。この子が受け止めましたから」
「……!」
女性はそこではじめて娘が丸太から落ちたことに気付いて絶句した。丸太の基礎はコンクリートであり、打所が悪ければただでは済まないことをようやく理解した女性の胸に、気まずいながらも感謝の念が湧いてきた。そして由之真が女の子の耳元で「もう大丈夫」と囁くと、女の子はぴたりと泣きやみ、由之真は女の子を女性の腕に返した。女性はその子をきつく抱きしめてから、すぐに叱り始めた。
「まったくもうっ!心配かけて!ちゃんとお姉ちゃんと一緒に……」と言い掛けた女性は、俄に辺りを見回し始めた。すぐに百合恵はその女性が「お姉ちゃん」を探している事に気付いて、百合恵も辺りを見渡した。しかし考えてみればその子の顔を知らないので探しようがなかったが、その時由之真が丸太の裏側へ回ったので、百合恵は由之真のあとを追った。すると丸太の裏に「お姉ちゃん」らしき少女が蹲っていて、由之真はその少女に手を差し伸べ、微笑みながら言った。
「大丈夫だよ」
「………」
少女は恐る恐る由之真の顔を見上げ、その手を掴んでゆっくり立ち上がった。そして百合恵と由之真の背中に隠れるようにして母親の前に現れた。ところが「空中散歩」の方に目を向けている母親が気付かないので、百合恵は苦笑しながら母親に声を掛けた。
「お母さん……お母さん!この子じゃないですか?」
「……あっ!」
娘の姿を見るなり、母親はまた娘を叱りつけた。
「どこ行ってたのマナミ!!ちゃんとアイちゃん見てなきゃダメじゃない!……マナミ!?」
娘が由之真の陰に隠れようとしたので、母親が娘の肩を掴もうと前に出た時だった。今まで静観していた路子が、突然素っ気なく言った。
「ちゃんと対象年齢書いてあんじゃん」
その言葉は、目を離したのは母親にも責任があるという路子の抗議だったが、言った後すぐに路子はちらと百合恵を見た。しかし路子と同じ気持ちの百合恵は、腕を組みながら無言で母親を見つめていた。みんなに見られ、さすがに自分の非に気付いた母親は返す言葉もなく、ただばつが悪そうに「ありがとうございました。ほら、行くよマーちゃん」と怯える娘の手を引いて行ってしまった。
百合恵が苦笑しながら由之真を見ると、由之真はそれに苦笑を返した。言いたいことを言ってすっきりした路子は、由之真の肩に拳を当てて路子なりに由之真を褒めた。
「ナイスキャッチ!」
「ヤマっち、グッジョブ!」
始めから終わりまで緊張しっぱなしだった美夏が、やっと安心して口を開いた。
「八岐くん凄いよ……だって、あの子落ちる前にもう行ってたもん」
それは百合恵も感じていたが、路子が不敵な笑みを浮かべて由之真の代わりに答えた。
「あー、八岐はたまにエスパーだからな」
「うん!ヤマっちは、たまにマリックだよね」
「ハハハッ!マリックは違うと思うけど」
「……」
もちろんそれは子供のたわいない冗談だったが、百合恵の耳には、香苗達が自分達なりに由之真の変わった性質を受け入れている言葉として聞こえた。しかし、時としてそのような揶揄混じりの比喩は、大きな誤解を生む可能性も秘めていた。それ故立場の違う自分が反応すべきではないと思いつつ、百合恵は注意深く由之真を窺った。すると由之真はすぐに百合恵の視線に気付き、胸についた土を払いながらきょとんと百合恵を見たので、百合恵は少し焦りながら当たり障りのないことを言った
「……大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「そう……良かったわ」
香苗達はその後もアスレチックを堪能して、無事スタンプパズルを完成させた。そしてセンターのロビーで涼んでいた活子達に合流した。
「お爺ちゃーん!ただいまー!」と香苗が手を振ると、「おっ!戻って来やがったな!」と待ちくたびれていた祖父は膝を叩いて立ち上がり、早速みんなはバーベキュー広場があるキャンプ場へ荷物を運んだ。
熱い陽射しのせいかバーベキュー広場は空いていて、みんなは大きな桜の木のすぐ傍のテーブルに陣取り、早速準備に取り掛かった。祖父が炭火用のグリルを組み立てていると、近くにいたキャンパーが種火を分けてくれた。そして由之真がバッグからエプロンを取り出したので、香苗は思わず笑ってしまった。
「ハハハ!ヤマっち、ここでもお料理すんの?」
「うん。切ってないのあるから」
「フフ……ホントに料理が好きなのねえ!」と活子が感心していると、路子がフリースビーを指でくるくる回しながら言った。
「あー、八岐は畑が趣味だし、料理ってより食べるもの作んのが好きなのさ」
「え?……畑が趣味なの?……そうなんだ、フフフ!」
由之真が時折裏の畑を歩いていたことを思い出した活子は、テーブルで牛肉を切っている由之真を愉快そうに眺めた。すると畑という言葉に反応した美夏が、金串に肉と野菜を交互に刺しながら嬉しそうに答えた。
「学校にみんなの畑があるんです。帰ったらみんなでとうもろこし採るんです」
「へー!……他には何を植えてるの?」
「えっと……里芋とか、きゅうりとか、インゲン豆とか、全部で十六種類くらいかな」
「えっ!そんなに作ってるの?………おっきな畑なんですか?」と活子が百合恵を見たので、百合恵は少しはにかみながら答えた。
「そうですね………三島さんの畑の倍はないと思いますけど、授業で使ってる学校の畑なんです」
「はー!凄いわねぇ!……そういえばミッちゃん野菜嫌いだったのに、よく食べるようになったってお爺ちゃんと話してたんだけど、そういう訳だったのね」
路子は途端に頬を染め、そっぽを向きながら素っ気なく答えた。
「別に嫌いじゃないし。……好きでもないけど」
「ハッハッハッ!自分で作ったのは美味いのさ!なあ路子!」と快闊に笑う祖父の言葉に、路子は「……まあね」と素っ気なく答えただけだったが、その答えに満足した祖父は百合恵に缶ビールを差し出して言った。
「先生、どうぞどうぞ!」
百合恵は笑いながら手を振って答えた。
「あ、いえ!午後もみんなと遊びますし……帰り私が運転しますので、活子さんどうぞ」
「えっ………じゃあ、いただこうかな。フフ」
一瞬活子は迷ったが、いつでも子供達を優先する真面目な百合恵に敬意を表するつもりでそのビールを受け取った。そしてバーベキューが始まり、何とも言えない香ばしい匂いが辺りに漂った。
「いっただっきーっ!……んーっ!んまっ!」
「やっぱり外で食べるのって、美味しいよね!」
午前中精一杯身体を動かした香苗達は、夢中になって栄養を補給した。
「まだまだあるから、ゆっくり食べなさいな。フフフ。八岐くんおばちゃんと交替しよ!」
約一キロ持ってきた肉が早々に捌けてしまったので、今度は手羽先とハマグリを焼いた。そしてその時一旦パイプ椅子に座って食べ始めた由之真が、ふと立ち上がって席を美夏寄りに移した瞬間だった。
バチッ!
「おわっ!びっくりしたー!」
突然炭火が弾けて、今まで由之真が座っていた辺りに大きな火の粉が飛び散った。
「あーびっくりした!……みんな大丈夫だった?」
「大丈夫ー!」
炭火が弾けることは時々あるので、みんなは気にせずまた食べ始めた。しかし何気なく由之真の仕草を見ていた百合恵は、瞬間的にあの鉄砲水の日の会話を思い出した。そして不意にポーリーンと由之真の祖母の言葉が浮かんできて、その時突然百合恵の中で、それらの言葉と今日二度もまのあたりにした由之真の行動が組合った。
(……八岐くんは………ホントにめちゃくちゃ勘が鋭いのね……)
そしてそう思った途端、今まで百合恵の中にあったもやもやが霧散した。それは「第六」という序数詞を「めちゃくちゃ」という形容動詞に置き換えただけだが、とりあえず百合恵は「勘」だけは信じていたし、何より自分が実感できたことによって、それを素直に受け入れることができた。
「はー、食べたー!もーダメだー!」
「あら、アイスあるんだけど、もう食べない?」
「食べるー!」
時刻は午後一時半を回っていたが、香苗達は木陰で食休みをしてから二時頃水遊び場へ向かった。みんなはそこでしばらく涼んでから、路子が持ってきたフリースビーを使ってディスクゴルフをしたり、ポニーに乗って遊んだ。生まれてはじめて動物に乗った香苗達は、指導員に注意される程大騒ぎして喜んだ。
「ミチ、学校で一匹欲しいよね」
「あー、一匹じゃなくて一頭だろ。あと一頭だったら寂しくないか?」
「じゃあ二頭で飼ってさ、子馬生まれたらポニ子ってどうかな?」
「あー……雄だったら、ポニ助とか」
子供達の無邪気な想像に耳を傾けていた百合恵は、口と腹を手で押さえて小刻みに震えていた。みんなは最後に植物園に足を運び、見たこともない熱帯植物を夢中になって観察して、四時頃稲森パークセンターを後にした。そしてみんなは無事家に到着し、あとは昨日と同じように夕飯まで自由時間となった。部屋に戻るなり急に疲れを感じた百合恵は、目覚まし時計を三〇分後にセットして仮眠をとった。そしてその時百合恵は、奇妙な夢を見た。
ふと気付くと、百合恵は一人で薄暗い道路をゆっくり歩いていた。辺りを見渡すと両側は暗い杉林で、遠くで微かに蝉の声が聞こえた。道路は前方で右にカーブしていて、そのカーブから体操服を着た低学年の男子が一人、楽しそうにスキップしながら現れた。その男子がすれ違いざま、「こんにちはー!」と元気に挨拶したので、百合恵も「はい、こんにちは!」と元気に返した。自分がどこへ向かっているのかわからなかったが、百合恵が気にせず歩いていると、またすぐに同じようなカーブからさっきと同じような子が現れ、また挨拶を交した。しかしその子がさっきの子とそっくりなことに気付いた百合恵は、咄嗟に振り返った。するとそこには何故か由之真がいて、由之真がきょとんとした顔を向けたので、百合恵は「なんでもないわ」と答えてから前を向いた。
(……え?)
しかし今見た由之真の顔が、はじめて見た写真の顔だったことに気付いた百合恵は、慌ててもう一度由之真を見た。
(………)
ところがそれはいつもの由之真の顔だった。百合恵は少し残念なようなほっとしたような気がして、そこではじめてこれは夢では?と思い、同時に自分の夢に由之真が現れたことが少し愉快だった。しかしそれを由之真に尋ねたらきっと目覚めてしまうと感じた百合恵は、別なことを質問した。
「えっと……八岐くん?」
「……はい」と夢の由之真は、いつものように答えた。
「先生……どこ行こうとして……」と言い掛けたところで、またさっきの子がカーブから現れた。そして百合恵がなんとなく恐怖を感じた時だった。
パンッ
「!?」
音と同時にその子は忽然と姿を消して、驚いた百合恵はすぐに由之真を見た。しかし百合恵の目に映ったのは十五〜六歳の少年の姿であり、百合恵はその少年の目を見ようと……。
「……先生……先生!」
「ん……はっ!?」
「おわっ!……びっくりしたー!」
いきなり百合恵が飛び起きたので、香苗と路子は身を仰け反らせて驚いた。百合恵は目を丸くしながら二人を見て、次に目覚まし時計に目を向けると、横になってからまだ十分も経っていなかった。
「……先生大丈夫?……うんうん言ってたけど、ヤな夢見たの?」
「え……うなされてた?」
「うん、寝てすぐさ、ん〜ん〜って……ちょい怖かった」
「ハハ!そうなんだ、ごめんね」
香苗達によると、百合恵は横になってすぐに寝苦しそうに唸り始めた。はじめ香苗達は放っておこうと思ったが、突然由之真を呼んでから唸りがひどくなったので、もし悪い夢を見ているなら起こした方がよいと判断した。
「先生、夢でヤマっち何したの?」
寝言で児童の名前を呼んだ気まずさから、百合恵は頭を掻いて話しをはぐらかした。
「ああ……ううん、別に何もしなかったけど……八岐くんと美夏ちゃんは?」
「美夏は家に電話しに行ったけど……八岐はそこ。寝てる」
百合恵が襖の影を覗くと、由之真が畳に寝ころがっていたが、百合恵はその顔に驚いた。
「……ハハハ!ひどい!二人で書いたのね?」
「いや、ほとんど香苗」
「ハハハ!大丈夫だよ先生、水性ペンだし、洗ったらすぐ落ちるから!」
「フフフ……先生はそういう問題じゃないと思うんだけど」
「それより先生、灯台行こうよ!」
「灯台って、稲岬灯台?」
「そう!灯台には入れないけど……」と言い掛けて香苗が由之真を見たので、百合恵と路子もつられて由之真を見た。すると由之真はいつの間にか身を起こし、寝ぼけ眼できょとんと香苗達を見ていた。顔中ラクガキだらけの由之真と目が合った瞬間、香苗達はもはや我慢できなかった。
「……ブハハハハッ!!」
「アハハハッ!!」
「……?」
百合恵は咄嗟に目を逸らしたが、立派な髭を生やして首を傾げた由之真の顔が頭から離れず、心の底から沸き上がるおかしさを抑えられなかった。
「フハハハハッ!洗って!……顔洗ってきなさい!早くっ!ハハハハッ!」
由之真は何となく自分の状態を悟り、何とも言えない苦笑を浮かべて洗面所へ向かった。しかしすぐに美夏のけたたましい笑い声が聞こえてきて、みんなはまた大笑いして、洗面所の鏡を見た由之真本人の笑い声が聞こえた時は頭が痛くなるほど笑い転げた。そしてみんなは、由之真の顔のラクガキがすっかり消えてから稲岬灯台へ向かった。
歩いて十五分ほどの岬にある稲岬灯台は、夜になると自動点灯する無人の灯台だった。フェンスに囲まれているので中には入れないが、周りは開けていて見晴らしが良かった。海から吹き上げる潮風が心地良く、香苗がなんとなく狭い灯台の前へ回った時だった。
「……おわっ!」
香苗はすぐに戻ってきて、路子に報告した。
「ミチ……花束あった」
「あー……そーいやこっから飛び降りた人いるのさ」と路子が手を合わせたので、美夏と香苗も手を合わせた。それに気付いた百合恵が尋ねると、香苗が振り返って神妙な顔つきで答えた。
「あそこに沢山花束があって……飛び降りた人がいるんだって」
「……そうなの」と百合恵も手を合わせた。その時冷たい風が吹いて、美夏が寒そうに自分の腕をさすった。夏とは言えあまり夕方の風にあたるのは良くないと思った百合恵は、美夏の肩に両手を置きながら言った。
「それじゃあ、途中で花火を買って帰りましょう!」
「はーい!」と香苗は元気に歩き出したが、その時ふと由之真が灯台の前へ目を向けたので、百合恵も何気なくその方向を見た。灯台の向こうには、空と海が灰色の雲で繋がっていたが、その手前で笹の葉が一枚だけ風に揺らいでいて、それがまるで手招きをしているように見えた百合恵は少し寒気を感じた。
帰る途中で三島商店が六時で閉まることを思い出した香苗達は、百合恵と由之真を残して先を急いだ。そしてそれは、由之真と共にゆっくり歩いている時だった。ふと百合恵は奇妙な違和感を覚え、すぐにそれが既視感であることに気付いた。
(……そっくりだわ)
自分が今歩いている道がさっき夢で見た道とよく似ているので、百合恵は微かに不安を感じながら辺りを見渡した。すると暗い杉林も前方のカーブまでもそっくりで、違っているのは最初から由之真が傍にいることだった。それだけでも不安は少し和らいだが、目を戻した前方のカーブから不意に子供が現れた瞬間、百合恵の背筋に悪寒が走った。
(!)
それは夢で見た少年とは違う、香苗と似ているおさげの女の子だった。女の子は赤いスカートをなびかせ、楽しげにスキップしながら百合恵達に近づき、そして百合恵の夢と寸分違わぬタイミングで言った。
「こんにちはー!」
百合恵はそれに答えられなかった。それよりも無反応である由之真が不気味に思えて、百合恵は思わずその場に立ち竦んでしまった。すると由之真がそれに気付いて立ち止まり、二人は一瞬無言で見つめ合った。
「……え?」
次の瞬間由之真は百合恵に歩み寄り、百合恵の手を引いて歩き出した。
(……八岐くん?)
そして手を引かれるがままに歩き出し、百合恵が由之真に声を掛けようとした時だった。
(!)
またカーブから子供が現れ、その子の顔が由之真とよく似ていることに気付いた百合恵は息を呑んだ。しかし由之真が急に手を強く握ったので、百合恵が意識を由之真に戻すと、由之真は前を向いたまま囁くように言った。
「……相手にしないで」
(!?)
迫り来るその子と由之真を交互に見ながら、その子のスキップの足音と自分の鼓動だけが百合恵の耳に響き、その子が由之真の横を通り過ぎた直後……。
「こんにちはー!」
それは紛れもなく由之真の声であり、同時にスキップの足音も消えた。百合恵は生唾を飲み込み、座り込みたい衝動を堪えつつ、ただ由之真の手だけは放してなるものかと必死に足を動かした。すると背後から冷たく生臭い風が吹き付け、ザク、ザク、という雑踏のような足音が百合恵の耳に入った。そして恐怖に囚われた百合恵の心に突然本能的な怒りが芽生えた時、由之真が振り返って言った。
「もう抜けます」
「!」
その優しい微笑みを見た途端、百合恵の怒りは消えていた。そしてカーブに差し掛かった時には足が軽くなり、俄に暑さと蝉の声が戻ってきた。由之真が立ち止まったので百合恵も足を止めると、由之真は百合恵が放してくれない自分の右手を持ち上げながら優しげな声で言った。
「もう、大丈夫です」
「……あ……ああ!」
慌てて由之真の手を放し、百合恵は額の汗を拭って大きく深呼吸した。すると不思議なほど恐怖は和らいだが、とにかくこのパニックを治めない内は何をどう話せばよいかわからなかった。そこで百合恵は、まず自分が見たものを思い出して、それについての自分の見解を見出そうとした。
「ちょっと……待ってね……」
とりあえず百合恵は、次から次へと湧いてくる「?」を少しでも消したかった。腕を組んだり、顎を触ったり、額に指を当てて唸ったり、腰に手を当てて天を仰いだりして考える百合恵の仕草が面白くて、由之真は黙ってそれを見つめていた。そしておよそ一分半が経過した時、ふと百合恵の頭に素晴らしい言葉が浮かび、百合恵は勇気を出してその言葉を口にした。
「……きつね……とか、たぬき?」
「………」
由之真は一瞬目を丸くして驚き、それから少し咳き込むように笑って答えた。
「フフフ……違うけど、殆ど正解です」
笑われたのは不本意だが、しかし百合恵はさっきの体験が自分だけの幻ではないことだけは確かめられたので、次の「?」潰しに取り掛かった。
「……じゃあ、本当はなんなの?」
「………」
由之真は一度じっと百合恵の目の奥を覗き込み、少し考えてから答えた。
「……前と後ろは違います。前は海にいた子で、後ろは灯台にいた人で……」
「タイム!ちょっと待って!それはタイムよ!」
百合恵は手で「T」を作り、聞き捨てならない由之真の言葉を遮った。由之真は歩き出しながら百合恵に言った。
「……行きませんか?みんな心配するといけないから」
「そ、そうね!」
二人は連れだってゆっくり歩き出したが、百合恵が中々タイムを解かないので、ヒントというわけではないが、由之真は百合恵の言葉を使って説明した。
「先生」
「……なあに?」
「前が狐で、後ろが狸だとします。そのどっちも、ただ先生に悪戯しただけだから、そんなに気にすることないです」
それはまさしく次の「?」であり、百合恵はその「?」を追求した。
「……悪戯って……どうして?」
由之真は横を向いて少し考え、真顔で答えた。
「……面白いからだと思います」
「いやいや、そうじゃなくて……どうして先生なわけ?」
由之真はもう一度横を向いて真剣に考え、今度は百合恵に質問した。
「先生は……どんな人に悪戯しますか?」
「……え?それは………」と百合恵は言葉に詰まってしまった。百合恵も小さい頃は相当な悪戯少女だったが、百合恵が悪戯していたのは、主に母親や近所のおばさんやお婆さん達だった。そして彼女たちに共通していたのは、度が過ぎない限り本気で怒らない優しい人達であるという点だった。それはつまり百合恵自身が相手からそう思われたことに他ならないが、かと言って自分との因果関係が判明したわけではなかった。しかし百合恵は自分が焦って答えを見逃している可能性に気付き、もう一度確認した。
「要するに………先生、お化けに化かされたってこと?」
「……お化けじゃないけど、そうです……先生は化かされました」
「……?」
由之真の答えがあやふやなので、百合恵は違う言い方で聞き返した。
「じゃあ……お化けじゃないのに、化かされたってこと?」
由之真は小さく頷いてから、百合恵の目を見て答えた。
「……あれは人の魂で……お爺ちゃんは遊戯する魂と書いて遊戯魂と呼んでます。……そこら中に結構います」
「えっ!?」と百合恵は思わず由之真にすり寄った。それに少し驚いた由之真は、また百合恵が安心する笑顔で言った。
「先生は供物女だし、何があっても殆ど平気です。普通は気が合わないとあんなにはっきり見えないし、こっちが相手に気を合わせることはできないから」
その答えは百合恵の頭上の「?」を巨大化させただけであり、思わず百合恵は眉間に皺を寄せ、母親にしか使わないような不機嫌な声を出していた。
「……くもつめって何よ?」
「あ」と小さく呟き、由之真は軽く口に手を当てた。しかしここではぐらかせば百合恵が不安を払拭できないと思った由之真は、慎重に言葉を選んで答えた。
「先生……畑で祈祷したの覚えてますか?」
「……もちろん、覚えてるわ」
「先生はあの時供物になったから、杏子の木の神様に守られてます」
「……え?……供物って……髪の毛でしょう?」
由之真は苦笑を浮かべて、ばつが悪そうに答えた。
「髪の毛も……です」
「……も?……先生もってこと?」
「はい」
「……」
百合恵は立ち止まり、「……ちょっと、整理しましょう」と言ってまた歩き出し、一度由之真にしかつめらしい顔を向けてから続けた。
「あのね………先生お化けなんて信じてないの。先生はそもそもお化けとか……妖怪とか、狐とか狸は、昔の人がわからないことを納得するために使った……教訓とかをね、子供から大人まで広めるために使った言葉だと思うの。………で!」
そこで百合恵は、改めて由之真の目を見て尋ねた。
「あれがその……人の魂だとしても………結局先生は化かされたわけね?」
前置きと質問が矛盾していると感じつつ、由之真もしかつめらしい顔で答えた。
「……はい」
「なるほど……でも先生は……杏子の木の神様に守られてるから、大丈夫なのね?」
「はい」
「なるほど……じゃあ、八岐くんはどうなの?……大丈夫なの?」
由之真は微笑んで答えた。
「大丈夫です」
「……そう」
由之真の瞳に偽りが微塵もないことを確かめた百合恵は、まだ疑問は沢山残っていたが説明されても疑問が増えるだけなので、とりあえず理由はどうあれ由之真に害がないならよしと思うことにした。しかしどうしても納得いかないことが一つだけ残っていて、それを話して良いかどうかもう一度考えてから口を開いた。
「……あのね……先生さっきの子、夢で見たのよ」
「!」
「……?」
急に立ち止まった由之真が目を見開いて驚いているので、百合恵は少し狼狽した声で尋ねた。
「どうしたの?」
「……いえ」と答えて、由之真は下を向いて歩きながら尋ねた。
「それは……いつですか?」
「え?……ついさっき、昼寝した時だけど……フフ、ちょうど八岐くんがラクガキされてる時よ」
「………」
由之真が何も答えないので、百合恵はまた少し不安になった。しかし由之真は不意に笑顔を向けて答えた。
「それは、正夢ですね」
「まあ、そうね!まさに正夢ね……フフ、でもホントにリアルな夢だったわ……ちゃんと八岐くんも登場して、最後に手を叩いたりして……?」
由之真はまた立ち止まり、今度は両手を軽く広げながら「こうですか?」と悪戯っぽい笑みを浮かべ、百合恵の前で柏手を打った。
パンッ
「……見えなかったけど、音はその通りね……フフフ!」
とりとめもない夢の話しを、夢に現れた当人に話すのはくすぐったかったが、由之真が楽しそうなので話して良かったと思った。そして由之真がはっきりと「正夢」と言ったことで安心した百合恵は、今回の件はこれで一旦区切りをつけようと前を向いた。その時丁度「おーい!」と手を振る香苗達が見えたので、百合恵も由之真も無言で手を振った。香苗達の頭上には桃色に染まりつつある雄大雲がそびえていて、百合恵は胸を震わせながらその荘厳な姿を心に焼き付けた。不思議なことがあったすぐあとなので、蜂蜜色になってきた辺りの空気まで神秘的に見えて、百合恵はまるでお伽の国にいるような気がしてきた。しかしふと雲の下が光ったように見えた瞬間、百合恵は眉間に皺を寄せながら由之真に尋ねた。
「今の……雷かしら?」
「……はい」
三日目は土砂降りで始まり、結局一度しか泳げなかった香苗達は、少しがっかりしながら車に乗り込んだ。しかし科学館や水族館が思いの外面白く、香苗達は由之真が水槽に近づくと必ずセイウチが寄ってきたりイルカに威嚇されたりするのがおかしてくしかたなかった。そして結局大満足の午前中を堪能し、みんなが展望台のレストランでお昼を済ますと同時に太陽が現れ、みんなは早速展望台に駆け上がって海を見下ろした。
「おー!……天使の梯子だ!」
海は雲間から射し込む光を受けて、まるで光の絨毯のように煌めいていた。強風のために張られたロープで望遠鏡まで行けないのは残念だったが、みんなはベンチに座りながら幻想的な光の空間をたっぷりと堪能した。午後は科学館へ戻ってもう少し見学する予定だったが、気温もぐんぐん上がってきたので、ふと百合恵は言ってみた。
「先生……なんだか海に行きたくなってきたわ」
途端に香苗と路子がくるりと振り返り、二人は右手を挙げて言った。
「大サンセー!」
「サンセー!」
美夏も笑顔で答えたが、由之真は読んでいたプラネタリウムのパンフレットを無言でバッグにしまった。そしてみんなは一旦家に戻り、大急ぎで着替えてから稲間海水浴場へ向かった。午前中の雨で砂浜は空いていると思いきや、百合恵達が到着した午後二時過ぎには一昨日と同じように賑わっていた。香苗達はどこかのホテルが企画したビーチフラッグ大会のジュニア部門に飛入り参加して、見事三位に入賞した。そして路子は副賞のスイカを掲げ、不敵な笑みを浮かべて言った。
「リターンマッチ!」
そして第二回スイカ割り大会で優勝したのは、路子と美夏の二人だった。両者優勝の理由は、香苗がスタートラインで気合いを入れた直後、路子と美夏がそれぞれ掠っていたスイカがぱっくり割れてしまったからだった。あっけない幕切れに不満たらたらの香苗だったが、美夏の「私も香苗ちゃんみたいに、ちゃんと割ってみたかったなあ」という一言によって忽ち機嫌を直した。
「フフフ、ちゃんと割ると気持ちいいよー?」
「あー、香苗のは割ったってより、吹っ飛ばしたって感じな」
「いいんだよ!割われたんだから!ハハハ!」
そんな香苗達のやり取りを微笑ましげに眺めながら、百合恵はふと由之真に囁やくように尋ねた。
「ねえ八岐くん………海にいた子って、今もいるのかしら?」
由之真は食べ終えたスイカを置いて静かに答えた。
「……どこにもいません。もう消えました」
百合恵は「どこにもいない」という響きに、そこはかとない寂しさを感じた。
「そう……結構簡単に消えちゃうもんなの?」
「簡単には消えません………消えたのは、先生を助けようとしたから」
「えっ……先生を?どうして?」
消えた理由が自分にあるとは思いもよらず、百合恵は目を丸くして聞き返した。由之真は一度海の方に目を向け、一拍おいてから答えた。
「後ろの狸が、先生を捕まえようとしていたのが嫌だったんだと思います」
その喩えた言い方に殆ど効果はなく、百合恵はすぐに「灯台にいた人」という言葉を思い出して寒気を感じたが、それは怖さよりも気味が悪いという程度の感覚だった。
「……そうなの」と相槌を打って、百合恵は心の中でそっと手を合わせ、もしも全てが由之真の壮大な虚言だったとしても、他の誰かに言わない限り様子をみようと思った。
百合恵は夕べ布団の中で、この件に関しては時間を掛けて考えようと決めていた。百合恵の優先順位は第一に児童の安否なので、百合恵は必要であれば「それは八岐くんの空想の答えじゃない?」と由之真の答えを否定する覚悟すらあった。しかしそうしない理由は、百合恵自らが言い出した「狐と狸」という言葉を由之真が流用したからだった。
実のところ「狐と狸」は、百合恵が由之真の安否を知るために、でき得る限り刺激の少ない方法を探した末に出てきた言葉だった。しかしあの時直ちにそれを流用した由之真の答えは、けして自分を欺いているようには聞こえず、むしろ自分を気遣っていたと百合恵には感じられた。そしてたった今もそう感じた百合恵は、あの体験の真偽と信否はさて置き、由之真がちょっと開いた心の扉の向こう側を、ほんの少し覗いてみたいと思った。
「じゃあ……消えたら、どこへ行くのかしら?」
由之真は軽く首を横に振って、静かに答えた。
「……わかりません」
百合恵は砂でお城を造っている香苗達の方を見てから、そっと尋ねた。
「八岐くんは………いつからお化けがわかるようになったの?」
由之真は少し首を傾げてから答えた。
「……お化けはよくわかりません。でも三歳の時………近所のお婆ちゃんと話してたら、それは生きてる人じゃないって、父さんに言われて………四歳まで意味がよくわかりませんでした」
「……もしかして、お父さんもそうだったの?」という質問に、由之真は困った笑顔を浮かべて答えた。
「どっちもです」
(どっちもって……お母さんもってこと?)と百合恵が思った時、突然香苗が飛び込んできた。
「先生!何時に帰るの?」
帰る時間を決め忘れていた百合恵が「あ!」と腕時計を見ると、時刻は既に午後四時を回っていた。
「……そうね、もうそろそろ帰りましょう」
「えー!もうちょっとでできるから!先生もヤマっちも手伝ってよ!」と香苗が指さす方向を見ると、どう見ても「もうちょっと」ではできそうもない大きなお城が築城中であり、路子が大きな池まで掘っていた。しかし完成すれば気持ちが良さそうなので、百合恵は立ち上がって朗らかに言った。
「よし!みんなで作りましょう!」
そして三〇分後に見事な菜畑城が落成し、みんなで記念撮影をしてから海を後にした。今日は旅行最後の夜なので、最後の最後まで遊び尽くしたい香苗は、風呂上がりに百合恵に尋ねた。
「先生、今日は眠くなるまで起きててもいい?」
「うーん……」と百合恵は腕を組んで考えたが、香苗達は今日も散々動いたので、どうせ遅くても十一時には電池が切れるだろうと予想した。
「……いいわ。でも明日七時にちゃんと起きなかった人は、算数の宿題を出します!」
「イエーイ!」
香苗は夕食後の花火を終えると、勝手知ったる物置から古い人生ゲームを出してきて言った。
「みんなでやろうよ!みんなでさっ!お爺ちゃんも!」
「……よし、やるか!」
斯くして居間で人生ゲーム大会が始まり、それは全員がゴールするまで一時間以上もかかった長いゲームとなった。しかし仕切り役を買って出た百合恵が上手に盛り上げたおかげか、香苗達は飽きるどころか二周目もやろうと言い出した。祖父はもうギブアップしていて、百合恵は活子と落ち着いて話がしたかったので、その誘いは断ろうと思った。しかしできるだけ子供達を遊ばせたかった活子は、ビールを持ち上げながら微笑んで言った。
「お爺ちゃんはもう寝るみたいだから、みんな二階に行ってやらない?」
「おー!受けて立つ!」
そして二回目の人生ゲーム大会が開催され、今度は「逆ワープ」や「いただきマス」などの新ルールを設けたせいで、最後の由之真がゴールした頃には十時半を過ぎていた。ところが香苗達はあくび一つせず今度はUNOで遊びだし、このままでは明日まで遊ばれてしまうと感じた百合恵は、すかさず提案した。
「みんな、いつでも寝られるように布団敷いてやったら?」
みんなはこの提案に乗せられたが、エスカレートするばかりであり、流石に活子も退散してしまった。そして百合恵がどうしようかと思案した時、ふと香苗が言い出した。
「そう言えば美夏ちゃんさ、ミチの新しい怖い話聞いた?」
「新しいのって……救急車の話じゃなくって?」
「うん、もっと新しいヤツ……マジ怖いよね、ミチ」
「あー、嘘んこだけどな。怖いのは怖い。……聞くか?」
「うん!聞きたい!」と怪談好きの美夏は目を輝かせた。そこで路子がちらと百合恵を見たので、百合恵は苦笑を浮かべて言った。
「それなら、みんな先にトイレに行っといた方がいいんじゃない?」
「そうだ!行こ行こ!」
路子の怪談は殆どが父親の作り話であると路子本人が公言していたので、それなら害はないと判断した百合恵は、とりあえずみんなが落ち着いてよかったと思っていた。しかし由之真はトイレから戻るなり、突然ティッシュを小さく丸め始めた。
「……ヤマっち何やってんの?」
由之真は丸めたティッシュを片方の耳に詰めながら答えた。
「……怖い話苦手だから、もう寝ようと思って」
「えっ!!」と香苗達は思わず大きな声を出してしまい、慌てて口に手を当てた。
「ヤマっち、怖い話しダメなの?マジで?」
「うん、マジで」と真顔で答えた由之真に、「へー!」と全員が改めて驚いたが、一番驚いていたのは百合恵だった。もちろん怖い以外の理由も考えられるので、これは是非とも後で聞いてみたいと思った。そして路子の怪談がはじまった。
ある寒い夜のこと、看護師である路子の父親が遅番に出ると、午前三時頃にナースコールが鳴った。しかしその個室は空いているので、路子の父親は同僚の看護師からドアの施錠を確認するよう頼まれ、渋々その個室へと向かった。ドアにはきちんと鍵が掛かっていたが、一応部屋の中を確かめて異常がないことを確認した父親は、そのままナースステーションへ戻った。すると看護師が顔を真っ青にして路子の父親に言った。
「……天野さんが戻るまで、ずーっとコール鳴ってましたよ……ホントに誰もいなかったんですか?………おわり」
「おー……二回目だけど、やっぱ怖っ!」
「うん……怖いね……」
話はそこでぷっつり終わっていたが、子供達にとって怖い思いを楽しむだけならそれで十分だった。百合恵はナースコールが壊れていただけでは?と思ったが、それよりも路子の父親が妙な理由を付けずに、ちゃんと子供向けの話にしていることに安心した。そして次は香苗がお婆ちゃんから聞いた昔の怖い話をして、美夏は先週読んだ児童向けの怪奇雑誌の中で一番怖いと思った話をした。意外にも美夏のおっとりした口調は怪談に合っていて、百合恵も少し怖いと思った。そして美夏の話が終わった後、不意に香苗が言った。
「次、先生の番だよ」
「えっ」
急にふられて驚いた百合恵は、自分を指さしながら答えた。
「……先生も話すの?」
「そうだよ!みんな話したんだから!」
「うーん………じゃあ先生の話の後、みんなが寝るなら、先生最近聞いた不思議な話をするわ」
「おー!してして!」
実のところ、香苗達は眠くなってきていたので、この取引を素直に受け入れた。そして百合恵は由之真が先に寝たことをいいことに、知り合いの先生から聞いた作り話であるという前置きをしてから、場所や登場人物の設定を変えて、昨日の出来事をもとに新しい話を作った。
それはある土曜日のこと、五年生の女の子が昼寝をしていて、知らない道で知らない女子に挨拶されるという夢を見た。次の日女の子はクラスのみんなからハイキングに誘われ、眺めのよい崖の上でお弁当を食べた。ところが後から来た人がその崖にはお化けが出ると言ったので、みんなは気味が悪くなって急いで帰ることにした。しかし足の遅いその子と、その子がよく知らない男子がみんなからはぐれて、道に迷ってしまった。そしてその道は夢で見た道とそっくりだったので、夢で会った女子が出てきたら嫌だなあ思った時、その女子が本当に現れた。
「こ〜んに〜ちわ〜!って……」
「………」
ここまでは単なる偶然で終わる話だったが、主人公になりきっていた香苗達は、自分がこれからどうなるのかハラハラしながら真剣に耳を傾けていた。それに手応えを感じた百合恵は、ラストへ向けて一気に語った。
「それがあんまり夢とそっくりだから……その子は怖くなって走って逃げたかったんだけど、また前から……さっきと同じ女の子がスキップで現れて、そしてまた、こ〜〜んに〜〜ちわ〜〜って言ってから、擦れ違う時、ふっと消えちゃったの……」
「………」
「それで前にも後ろにも逃げられないから、その子はついに泣いちゃったの。でも一緒に歩いていた男の子が手を引っ張って歩いてくれたおかげで、その内二人は無事にみんなと会うことができたんだって」
「……おー……よかった……」と香苗が呟いたが、まだ続きがあった。
「でもね………その子が気が付くと一緒に歩いていた男の子がいないから、みんなに聞いてみたんだけど……だーれもその男の子のことを知らなかったんだって………おしまい」
一瞬の静寂の後、香苗は眉間に皺を寄せながら「う〜〜」と唸り、路子は腕を組んで溜息をついてから抗議した。
「……先生、それ怖すぎ」
「え、そんなに怖かった?」と百合恵が美夏を見ると、美夏は深刻な顔で両腕をさすりながら、「……うん」と小さく頷いた。
実のところ香苗達は、自分を助けてくれた子が消えたというバッドエンドにショックを受けて、それが怖さと混ざり合い感情のやり場を見失っただけだった。そしてそれにすぐ気付いた百合恵は、感情移入しやすいよう主人公を五年生の女の子に限定したのは良くなかったと反省した。
「そっか、ごめんね!……でもまあ、作り話だから!」
作り話とは言え、最後に消えた男の子の行方がどうしても気になった香苗は、勇気を出して尋ねた。
「先生……その男の子って、ホントは誰だったの?」
「うーん……ホントに誰も知らない子だったのよ。でも、女の子はその子が助けてくれたと思って、心でちゃんとお礼を言ったんだって……もしかしたら、その子が崖のお化けだったのかもね」
「んー……そっか!いいお化けってこともあるよね!」と香苗が納得して、ようやく怪談は御開きとなった。みんなは連れだってもう一度トイレへ行ってから、香苗が百合恵に言った。
「先生もこっちで寝なよ!先生のせいで怖い夢見そうなんだから!」
「フフフ……わかったわ」
翌朝みんなは約束通り七時に起きて、ゆっくり朝ご飯を食べてから家中を掃除した。そして写真を撮り合い、必ずまた来ることを活子と祖父に約束して、十一時頃帰りの電車に乗った。そして午後三時頃村の駅に着いた時、路子と美夏の母親が車で駅まで迎えに来ていた。帰る方向が同じなので、路子の母親が百合恵と香苗を誘ったが、バスで帰る由之真を一人だけ駅に残すのが嫌だった香苗は、同じ気持ちだった百合恵と共にバスで帰ることにした。
「暑いわね……アイス食べよっか」
「サンセー!」
三人はバス停のベンチに座ってアイスを食べた。楽しかった旅行もついに終わってしまったが、香苗はちっとも寂しくなかった。何故なら明日も畑の集合日でみんなと会えるし、まだ夏休みは半分も過ぎていないからだが、そう思った時、この申し分のない旅行でたった一つ困ることを香苗は思い出した。
「……先生、絵日記帳もう終わっちゃうから、売ってるやつ買って書いてもいいよね?」
「え、もう終わっちゃうの?」
「うん、たぶん旅行ので終わっちゃう」
夏休みの絵日記帳は、百合恵オリジナルの絵日記帳だった。しかし三六ページもあるので香苗の場合は書き過ぎだと思ったが、自分がデザインした絵日記帳が一ページ残らず絵と文章で埋まるのは、百合恵にとって実に嬉しいことだった。
「そう……フフフ、じゃあ先生帰ったらもう一冊作るから、買わなくてもいいわ」
「イエーイ!」
程なくしてバスが来たので、由之真は荷物を背負った。
「じゃあ八岐くん、気を付けてね」
「はい。お世話になりました」
「ヤマっち!また明日!」
「うん、また明日」
そしてドアが閉まって由之真が右手を振り、百合恵も香苗も手を振った。その時ふと香苗は、昨夜の百合恵の怖い話で消えてしまった男の子は、きっと由之真のような子に違いないと思った。しかし、たとえいいお化けであっても由之真がお化けになるのは絶対に嫌なので、香苗は強引に考えを違う方へ向けた。
「先生、写真いつできるの?」
「んーとね……来週の集合日にはプリントアウトしておくわ」と答えたが、百合恵は早速その日の内に、自宅のプリンターで旅行の写真をプリントアウトした。そしてそれは、まず自分が写っている写真をチェックしていた時だった。
「……!」
百合恵が写っている十五枚の内の七枚に、黄色いパーカーを着た低学年の男の子が写っていたが、その男の子は稲森パークセンターの写真にも写っていた。それに気付いた時、百合恵は咄嗟に単なる偶然だと思おうとした。しかしこの写真を撮った人物を思い出した途端に鳥肌が立ってきたので、百合恵はエアコンのスイッチを切り、窓を開けて夏の空気を胸いっぱい吸い込んだ。
「……ふぅ!」
一瞬百合恵はその写真を捨てようかと思ったが、すぐにそれが馬鹿げていると気付き、思わず一人で笑ってしまった。理解できないことを闇雲に恐れて大切な思い出を自ら捨てるのは愚の骨頂であり、少しでも恐れた自分に対して僅かな怒りすら覚えた。そしてその怒りは、百合恵の最大の美点によってすぐに奮発心へと変換され、百合恵は自分が恐怖に慣れてきているのを自覚して、むしろ少し残念な気がしてきた。もうホラー映画を見ても心から楽しめないのでは?とすら感じるほど気が大きくなったが、まだこの二週間後に起こることを知る由もない百合恵は、写真の中でこの上なく愉快そうに笑っている自分を見て呟いた。
「フフ……でもこれ、どうしよう?」
みんなの夏 終わり