第十一話 幸運の白犬
幸いにも強い台風は村を避けてくれたが、台風の接近に伴う梅雨前線の活性化によって、日曜の昼から海の日である月曜の未明にかけて断続的に大雨が降り続いた。週末東京に行っていた照と由之真が帰宅したのは昼前だったが、その頃には時折青空も垣間見えていた。しかし昼食を済ませた由之真が、雨による畑の被害を確かめるべく学校へ出掛けようとすると、また強い雨が降ってきた。雨は五分程度で止んだが、照はリビングのサッシから空を見上げて言った。
「由ちゃん、この時間だとバスないね……歩いてく?」
「うん、歩いてく」
照は由之真がポンチョを着終えてから尋ねた。
「じゃあさ、田中さん家にお土産届けてくれる?」
「うん、いいよ」
「ありがとう!」と照はキッチンへ走り、竹の皮で包まれた羊羹をビニール袋に入れて由之真に渡した。
「じゃあ、気を付けてね!行ってらっしゃい!」
「行ってきます」
由之真は家の裏へ回り駐車場を通って道路へ出てから、一度立ち止まって空を見上げた。風は南向きに変わっていたが、北の空はまだ分厚い黒雲に覆われ、山は所々煙っていた。由之真は次に名合の沢を見たが、水量はそれ程でもなく、その時は思ったよりも雨は降らなかったのかもしれないと思った。しかし田中家の近くまで来た時、由之真は道路に流木と小さな山女が落ちているのを見つけた。そして名合の沢が一度溢れたのではないかと考えた時、名合の道の守り主が由之真を呼んだ。
「ウォンッ!」
由之真は真っ直ぐ声の主に歩み寄り、その柔らかい白毛を優しく撫でて言った。
「……こんにちはパブロ。元気だった?」
「クォーン、ハッハッハッ!」
パブロは右足で手招きをして、自ら由之真に「お手」をしようとしたが、雨の日は人に触れると叱られることを知っていたので、諦めて地面に足を戻した。しかし由之真は、笑いながら手を差し伸べて言った。
「パブロ…お手」
パブロはすかさず由之真の手に右足を乗せ、言われていないのに今度は左足を上げた。パブロはいつもそうするが、時折由之真はパブロがお手をしてもらいたいのではなく、自分にお手をさせたがっているのでは?と思うこともあった。
「…フフ」
しかし、どうあれ「お手」は命令ではなく握手だと考えていたので、由之真は笑ってその足を握った。そして実のところ、それはまったく的を射た考えだった。
由之真の匂いが漂ってきた時、(息子がやってきた!)とパブロは思った。そして何度も呼ぼうとしたけれど、近頃はあまり騒ぐと家族の者に叱られるので、近くに来るまで我慢していた。すると思った通り息子は真っ直ぐ自分の元に来てくれて、ちゃんと言うことを聞いてくれた。パブロはこんな申し分のない息子はまたとないと、いつも由之真を誇りに思っていたが、何故パブロが由之真を息子だと信じているかと言えば、幾つかの理由があった。
パブロの母親は、天然記念物の秋田犬の母と珍しいホワイトジャーマンシェパードの父を持つ美しい純白の貴婦人であり、蝶よ花よと何不自由なく育てられたせいか、とてもおっとりした性格の母親だった。そしてその母親の性格を見事に受け継いだパブロは、自分が犬かどうかなど考えずに田中家の一員であるとしか思っていなかった。そんなパブロもいつしか不意に母親となる日が来たが、それはひどい難産だった。パブロは半日も苦しみ抜いて、やっとの思いで全ての子犬を産み終えた直後に気を失った。丁度その頃東京から遊びに来ていた近所の幼い子は、その知らせを聞きつけ早速パブロ達を見に来た。しかしパブロと子犬はぐっすり眠っていて、その幸せそうな姿をずっと見ている内にその子の目もとろけてきて、その子はパブロ達と一緒に眠ってしまった。
そして先に目覚めたパブロは、目の前ですやすや寝ているその子を見て唖然とした。
(………これが……私の子?)
自分よりも小さいが、やはりパブロはその子の大きさが信じられず、自分の子供ではないのでは?と疑った。しかしすぐにパブロは、きっとあんなに苦しかったのはこの子を産んだからに違いないと思った。姿は自分よりも家族の者に似ているけれど、なんて可愛いらしい子なんだろう、とパブロが真っ先に舐めた自分の子供が幼い由之真だった。
ところがその子はオッパイも飲まずに何処かへ行ってしまって、パブロはとても心配した。しかしその子はパブロの友達と毎日会いに来てくれたので、パブロは友達がその子を育ててくれていると思って安心していたが、夏が終わりかけた頃、その子はぱったり会いに来なくなった。いつまで経っても会いに来ないので、パブロは友達に尋ねてみたが、友達は悲しそうな目をするだけで教えてくれなかった。そこでパブロは叱られることを覚悟の上で、自分で捜すことにした。この首に付いた冷たくて固い物はとても噛み切れないので、パブロは引きちぎってみようと思い、渾身の力で何度も引いた。すると二日目に杭が抜けて、パブロは鎖を引き擦って走った。何時間も走りに走って探したが見つからず、その内に鎖が木に絡まり、翌日発見された泥だらけのパブロを誰も叱らなかった。
それから他の子供達も段々いなくなって、パブロは独りぼっちになった。時折他の子供達とは会えたが、その子にだけはどうしても会えなかった。パブロはその子の匂いが忘れられず、時々月に向かって呼んでみたけれど、その子は帰ってこなかった。しかしそれは、厳しい冬が終わったある日の早朝だった。
(………?)
ふと誰かに呼ばれた気がして、パブロは微睡みから一気に覚めた。起き上がると同時に朝の冷たい風がひどく懐かしい匂いを運んできたので、また夢かと思いつつも耳をそばだて、きょろきょろと辺りを見渡し、くんくんと空気の匂いを嗅いだ。
(……!?)
そして微かだが確かに聞こえた足音の方向へ目を向けると、橋の向こうの朝靄の中に小さな影が見えた気がした。その瞬間、パブロは猛然と駆け出したが、同時に鎖が伸びきって、もんどり打って地面に叩きつけられた。しかしその猛進によって、杭はなんと一撃で抜けていた。パブロは直ぐさま跳ね起き大地を蹴った。白い弾丸は橋のたもとで飛翔し、そのまま小さな影に飛び込んだ。パブロの後ろから飛んで来る鎖や杭を避けるために、由之真は後ろに倒れながらパブロを受け止めた。二人は道路に倒れ込み、パブロはやっとのことで奇妙な呻き声を洩らし、由之真はパブロが幾百もの夢で聞いた懐かしい声で言った。
「ただいま、パブロ」
その声はパブロの耳に、まるでつい昨日聞いたかのように聞こえた。
(………帰ってきた!!)
その瞬間、突然何もかも全てが元通りになった。パブロは由之真に覆い被さり、呻きながら夢中になって由之真の顔を舐めた。その味も匂いもパブロの記憶のままだった。
「……なんにも言わないで行っちゃって……ごめんね」
「クワン!……クゥーウゥーーン!……」
斯くして、パブロにとって由之真は実に手のかかる可愛い息子だったが、今ではもうすっかり安心していたので、由之真が数日訪れなくても平気だった。何故なら息子にお嫁さんが来てくれて、そのお嫁さんがパブロの大好きな友達であり、そしてその友達とはもちろん照のことだが、今日は来ていないけれど、どうして?とパブロが尋ねようとした時だった。
「……あら!こんにちは由ちゃん!どうしたの?パブロとお散歩?」
田中のおばさんはパブロの鳴き方で隣人の来宅に気付いていたが、なかなかチャイムがならないので自ら玄関を開けた。
「こんにちは、これを照が…お土産です」
「あららら!とらやの羊羹じゃないの!いやうちにこんな気ぃ使わなくていいのに!…でもどうもね!照ちゃんに、ありがとうって伝えてね!……お母さんは元気?」
「はい、元気です」
「そう、よかったわね!…あー、そうそう!今朝佃煮作ったんだけど…」とおばさんは玄関に戻ろうとしたが、由之真はそれを止めた。
「あ、いえ。学校に行く途中だから、…帰りにまた来ます」
「…あら、休みなのに?」
おばさんがきょとんとした顔を向けたので、由之真はしかたなく答えた。
「はい、畑を見に」
「そう、フフフッ!田辺さんが言ってたっけねえ。由ちゃんはきっと立派なお百姓になるって。でもあたしはね?由ちゃんなら、もっと凄いことするって言ってやったのよ。フフッ!…ああ、ごめんね!じゃあ気を付けて、帰りにちゃんと寄ってね。パブロも喜ぶから!」
「はい」と答えて由之真はパブロを見た。由之真はもう少しだけパブロと話したかったが、これ以上いればお喋り好きのおばさんがまた話し始めると思って、パブロの喉を撫でながら言った。
「じゃあ、後でまたね。パブロ」
パブロは名残惜しそうに由之真の手を舐めて答えた。
「…ワフッ!」
昨日飼育小屋の作業を済ませていた百合恵は、本来今日はのんびりと夏休み中の指導計画を書く予定だった。ところが書きかけの指導案を職員室に置き忘れ、また夕べの大雨で畑の状態が気になっていたこともあり、どうせなら職員室で書こうと学校へ向かっていた。しかし、ふと百合恵は名合の沢の橋を過ぎたところで車を停め、そして車から降りて橋まで戻り、沢を見下ろして驚いた。
それは赴任以来はじめて見る水量だった。百合恵の記憶では、普段ならどんなに雨が降っても水面から橋まで一メートル以上空いていたが、今日の水位は橋から四〇センチにまで達していた。おそらく下流にある二カ所の水門のどちらかを閉めたからだろうが、何か奇妙な胸騒ぎを感じた百合恵は不安そうな目を下流に向けた。
「……」
しかし許可無く水門を開けるわけにもいかず、取り敢えず百合恵は車に乗って駐車場へ向かった。そして車から降りて樫の木の下を歩く児童の姿を見た瞬間、百合恵は思わず声を掛けていた。
「…八岐くん!」
由之真は振り返って百合恵を見たが、百合恵が何も言わないので歩み寄った。由之真が祝日に学校に来る理由は限られているので、百合恵は呼び止めずに自分が追いかければよかったと思ったが、由之真はポンチョのフードを脱いで言った。
「こんにちは」
「…こんにちは!今日は畑?」
「はい」
由之真が週末東京に行くことを知っていた百合恵は、呼び止めた本当の理由を尋ねた。
「そう、先生も畑を見に来たんだけど、…東京には行かなかったの?」
「お昼に帰ってきました」
「そうなんだ。……お母さんは元気?」
百合恵は一瞬迷ったが、気付いた時には口にしていた。
「元気でした」
ここで止めておけばよかったと後に少しだけ後悔することになるが、この時の百合恵は本心からそう思って尋ねていた。
「そう……あのね、一つお願いがあるんだけど…」
「はい」
「…もしできたら、…ちょっとでいいんだけど、お母さんとお話しできないかしら?」
百合恵はただ、由之真が学校で健やかに過ごしていることを伝えたいだけだった。もちろんそれは本人の口から聞いているだろうが、大事な一人息子を預かっている担任として、一度でいいからそうしたかった。
しかし百合恵は、由之真の母親が病みながらも働いてはいるが、二年前に保護者能力を失っているということしか知らなかった。それ故母親の病状さえ知らずに「話したい」と気軽には言えず、百合恵はなんと言えばよいか思いあぐねていた。由之真は少し考えてから、いつものように静かに答えた。
「…できません。でも伯母さんを通してなら、聞くのは聞くと思います」
「それは……喋れないってこと?」
聞けるのに話せないという意味の解釈に迷った百合恵は、はっきり知っておくべきと思って率直に尋ねた。ところが由之真の答えは、百合恵の頭を更に混乱させた。
「普通に喋れます。…ただ、俺を知らないから話しても通じません」
「……知らないって?」
「…」
その時はじめて由之真は目をきょとんとさせた。実のところ由之真は、知っているはずの百合恵がどうして母親のことを尋ねるのか不思議だった。しかし百合恵が母親の病状を知らないことに気付き、合点が行ったこともあり微笑んで答えた。
「ああ、…母さんは記憶障害で、父さんと俺のことをなんにも覚えてないんです」
「!?」
それは百合恵の想像を遥かに超えた答えだった。元気で働いているのに夫と息子の記憶がないとは俄には信じられず、百合恵は尋ねずにはいられなかった。
「…なんにも……全部?」
由之真は言葉を選びながらもう一度説明した。
「いえ、…父さんと会う前のことは覚えてます。それから一昨年までの記憶が抜けてて、…十一年分の記憶がそっくりないだけで、その他は全部覚えています」
「……」
ようやく百合恵は由之真の母親の病状を把握したが、同時に言い知れぬ憤懣が百合恵の胸に生まれた。しかしそれを目の前の、己の運命を微塵も呪わない畑好きの少年に悟られてはならなかった。もし悟られたら由之真を困らせるだけであり、咄嗟に百合恵はそんな由之真を心から賞賛することで、憤懣を心の片隅へ強引に追いやった。そしてそれは見事に成功し、百合恵は微笑みながら答えることができた。
「……そう…わかったわ。ありがとう!」
きちんと伝わっことに満足した由之真も微笑んで答えた。
「はい」
「じゃあ、畑に……?」
不意に由之真が道路の方を見たので、百合恵は由之真の祖母が言った『急に振り返る癖』の話しを思い出した。しかしすぐに百合恵の耳にジャラジャラという音が聞こえ、学校の前の道路に猛然と走る白い犬が現れたと同時に由之真が呟いた。
「……パブロ」
百合恵は由之真がその犬を知っていることにひとまず安心したが、しかし非常に長い鎖をつけたまま駐車場に駆け込んできたパブロを見て、思わず由之真の前へ一歩踏み出した。そして、その瞬間由之真が「あ」と声をあげたが遅かった。百合恵に気付いたパブロは百合恵達を避けて車がない左の方へ流れ、そこで止まろうとした。しかしパブロは止まれても、長い鎖は急に止まれなかった。
「キャンッ!」
幸い杭はなかったが、鎖の先端に付いている壊れた茄子カンが足にぶつかり、パブロは少しよろけてしまった。しかしすぐに由之真に向かって飛びかかってきた。
「ワフッ!」
「ああっ!?」
百合恵は咄嗟にまた由之真を庇おうとしたが、その前に由之真がひょいと前へ出てしまったので、思いの外大きな声をあげてしまった。しかし由之真はパブロを抱き止め、二三歩よろめきながら地面に腰を下ろして言った。
「…パブロ、待って」
「ハッハッハッ」
パブロはすぐに由之真から離れ、お座りをして由之真と百合恵を交互に見た。百合恵は膝に手をつき、かろうじてしゃがみ込むのを堪えながら安堵の息を洩らして言った。
「……はぁ…びっくりした!」
由之真は立ち上がり「…すみません」と百合恵に謝り、今度はパブロを見て少しだけ強い口調でお願いした。
「パブロ、先生を脅かさないで。いい?」
パブロは「…クゥン」と鳴いてから、尻尾を振ってそのお願いを聞き入れた。そして由之真は百合恵に笑顔を向けて言った。
「もう大丈夫です。パブロは賢いから」
百合恵はパブロと同じように、由之真とパブロを交互に見ながら答えた。
「そう?…パブロっていうの?」
しかし名前を呼ばれて「ワフッ!」とパブロが答えた時、百合恵は反射的に半歩後退ってしまった。百合恵には自ら「三大苦手もの」と呼ぶ物があったが、その中の一つが「大型犬」だった。それは単純に幼少の頃、近所で飼われていた土佐犬に突然吠えられて泣いたことが原因だが、繋がれていて吠えなければ怖くなかったし、今は由之真が鎖を持っているので(大丈夫よ!)と心で自分に言い聞かせていた。しかしパブロは明らかに脱走してきたとしか思えないので、いつ飛びかかってくるかわらないという不安は拭えなかった。そしてそんな百合恵の僅かな怯えを、由之真とパブロは同時に察知していた。由之真はパブロの頭を優しく撫でながら答えた。
「はい……パブロは名合の道の田中さん家の犬で、時々俺に会いに来るんです」
「……会いに来るって……こんな風に?」
由之真は苦笑混じりに答えた。
「……いつもは家に来るんだけど、今日はついに学校まで来たから、後でちゃんと言って聞かせます」
(犬に言って聞かせても……)と百合恵が苦笑していると、由之真は長い鎖を自分のベルトに縛って意地悪そうに言った。
「パブロ、これでもう逃げられないよ」
しかしパブロは、「ワフッ!」と嬉しそうに尻尾をばたつかせて答えた。徐々にパブロに慣れてきた百合恵は、いつまでも駐車場で油を売っているわけにはいかないので、元気な声で言った。
「それじゃあ、畑を見に行きましょうか!」
幸いにも作物に殆ど被害はなく、先週耕したばかりの土が樅のトンネルの前の小径に流れ出ていただけだった。畑は小径に向かって緩やかに傾斜しているので、大雨による水の流れが全て小径に集中していた。由之真は小径が川にならないよう、小径と畑の間に溝を掘っていたが、その三〇メートル程の溝が全て流れた土で埋まっていた。それは由之真が思っていたよりも、強い大雨が長く降ったことを意味してた。
「………」
百合恵は腕を組んでどうしたものかと思案した。小径の水は校舎の側溝に流れるようになっていたが、その側溝は学校の側溝の収束地点に近いので、もしこれ以上土が流れて詰まった場合は側溝が溢れる可能性があった。そうなると水はけの悪い菜畑小の校庭が池になるのが目に見えていたので、とにかくこれ以上土が流れないよう小径に流れた土を戻して、埋まった溝を掘り起こし、その土を畑と小径の土留めにしようということになった。
「とりあえず……二人でがんばりましょう!」
「はい」
「ワフッ!」
そして二人と一匹は作業に取りかかった。百合恵は指導計画を書く予定だったが、それは今週中でも構わなかった。自分で立てた予定を先延ばしにするのは良くないが、天災には敵わないのでしかたないと考えた。しかし、たとえどんなに骨が折れる作業に見えても、これはまだ天災ではなかった。
作業は午後二時頃から始まり、二人は汗を滴らせながらとにかく溝を掘った。そして三時半には作業を終えて、職員室で麦茶を飲みながらとらやの羊羹を頬張っていた。
「んー!……美味しい!」
由之真は学校に百合恵がいる可能性を考えて、バッグの中にお土産を入れておいたのだが、作業を始める前に田中家へ電話を掛けてパブロの保護を報告してあったので、後は帰るだけの二人は落ち着いて労を労い合っていた。
「疲れた時は甘い物が一番だけど、これは最高の一番ね!……でもパブロには、やっぱりあげない方がいいのかしら?」
由之真はビニール袋の中から、中ぐらいのトマトを取り出して答えた。
「……これと一緒に、少しならいいと思います」
「じゃあ、少しあげましょう!」
二人は立ち上がり、パブロが繋がれている正面玄関へ向かった。百合恵はもうすっかりパブロを気に入っていた。はじめの内パブロは、二人の作業をずっと静かに見ていた。しかしふとパブロは由之真に歩み寄り、由之真をじっと見つめてから、今度は百合恵に歩み寄って百合恵をじっと見つめた。そしてまた元の位置に戻り、しばらく由之真と百合恵を交互に見ていたが、また百合恵に近づいて作業中の百合恵を見つめた。その仕草が可愛らしいと思った百合恵は、ついにパブロに話し掛けた。
「……なあに?パブロ」
「クゥン、ハッハッハッ」
残念ながら犬語は未修学だったので、百合恵は由之真を見た。それに気付いた由之真は微笑みながら答えた。
「……気に入ったんです。先生のこと」
「え、そうなの?何にもしてないのに?……フフフ」と百合恵は愉快そうに笑ってパブロに言った。
「ありがとうパブロ。私もパブロが気に入ったわ」
「ワフッ!」
そして百合恵は、およそ十数年ぶりに大型犬の頭を撫でることができた。その時ふと、実は自分が犬好きであったことを思い出した。百合恵はただ、好きなのに吠えられたことが悔しくて、無理矢理苦手と思い込んでいただけだった。百合恵が木切れを投げるとパブロは必ず拾ってきて、お手もお座りも百合恵の自由自在だった。これ程まで忠実な犬はテレビでしか見たことがなかったので、百合恵は何故かとても得した気分になり、同時にこんな可愛い犬に恐れを抱いた自分が滑稽な気がした。
「パブロ、おやつよ」
「ワンッ!ハッハッハッ」
由之真はボールに水を入れ、トマトを三つに切って紙の皿に置いた。百合恵もそれを真似て、羊羹を薄く三枚切って皿の上に置いた。パブロはお座りをして、皿と由之真を交互に見ながら待っていた。由之真が「どうぞ」と言うと、パブロは早速食べ始めたが、半分ほど残してまた由之真の顔を見た。そこでまた「どうぞ」と促すと、パブロはまた少し残して今度は百合恵を見た。百合恵にはその行動がとても奇妙に思えた。
「……一遍に食べないように、躾けてあるの?」
「いえ……俺とか照がいる時だけ残します……先生試しに言ってみてください」
「え?……何を?」
由之真が手のひらに文字を書いたので、百合恵は頷いて言った。
「どうぞ」
するとパブロは残りを全て平らげ、ボールの水を飲んだ。由之真は苦笑を浮かべて百合恵に言った。
「たぶん先生を……俺の家族だと思ったのかもしれません」
そんなに簡単に信頼を得られるものかと思ったが、百合恵がまんざらでもない声で「……そうなんだ」答えた時、ふと由之真とパブロが同時に空を見上げた。
不意に冷たい風が百合恵の髪を揺らし、大粒の雨が降り出した。雨は瞬く間に土砂降りとなり、百合恵はパブロを正面玄関に入れて一旦扉を閉め、水煙をあげる校庭を眺めながら呟いた。
「……土留めしておいて、よかったわね」
由之真は傘立てにパブロの鎖を結び、二人は職員室へ戻った。百合恵は早く帰っておけば良かったと思ったが、由之真が落ち着いた様子で一昨日の新聞を読み始めたので、その暢気な姿に苦笑しながら言った。
「八岐くん、小降りになったら帰りましょう。今日は送るわね。もちろんパブロも」
由之真は少し考えてから答えた。
「……はい」
幸い十分程で雨脚は弱まり、由之真は鎖をベルトに縛って、二人と一匹はすかさず学校を出て駐車場へ向かった。しかしまだ風が強く、百合恵が車の鍵をポケットから出そうとしてうっかり地面に傘を置いた瞬間、突風が傘をさらった。
「あっ!」
傘は舞い上がり、駐車場を飛び越えて道路に落ちた。
「……八岐くん、乗ってて!」と由之真に鍵を渡し、百合恵は傘を追いかけた。その傘は去年香苗達から誕生日に贈られた大切な傘であり、川へ落ちる前になんとしても拾わねばならなかった。そして百合恵に言われた通り車に乗ろうとして、由之真が鍵をドアに差し込んだ瞬間だった。
「!?」
それはかつて由之真が感知した中でも、最大級の圧力だった。咄嗟に由之真は振り返ったが、その圧力は既に掻き消えていた。
「……」
後にはただ静寂が残り、由之真の耳に聞こえるのは自分の鼓動だけだった。パブロを見ると、パブロは微動だにせずただ一点を見つめていた。パブロが見ているのは中学部校庭の西側だが、そこは山から流れてくる支流が名合の沢に合流している辺りだった。
百合恵がやっとの思いで傘に手を伸ばした瞬間、また悪戯な風が、まるで百合恵をからかうかのように傘を奪った。
「……もうっ!」
傘は今度こそ川へ吸い込まれたが、百合恵が橋の上から川を見下ろすと、誰かが水門を開けたのか水位が平常時に戻っていた。そして傘は少し流れてから、なだらかな校舎側の岸辺で止まった。これなら容易に取れると思った百合恵は、風が吹かぬよう祈りながらそこへ向かった。
「………」
由之真はバッグを降ろして膝を折り、全神経を集中して、パブロと同じ目線でパブロと同じ方向を見据えた。パブロは間違いなく何かを捉えているが、由之真には巨大な圧力と風の音が消えたことしかわからなかった。
(………!?)
不意に、ズズッという微かな地響きがして、道路沿いの木々の間に煙が立ち上った時、先に反応したのはパブロだったが、動き出したのは由之真だった。
「パブロッ」と鋭く囁き、由之真は百合恵が行った道路へ向かってパブロと共に猛然と駆け出した。そしてそれは、由之真達が駐車場の花壇を飛び越した直後だった。
ドオォォッッッ!!
橋へ向かって走る由之真達の後方に、五メートルはあろう黒い水柱がそそり立ち、大地が震え、その大蛇の如き水柱は凄まじい怒号をたてながら土石流のように名合の沢を荒れくだった。
ドドドドドッッ!!
(……)
百合恵は、わからなかった。大きな衝撃に驚き振り返って、橋の向こう側で蠢く不気味な黒い壁を見た時、身体が動かなくなってしまった。岸から少し降りて、傘を取ろうとしゃがんで手を伸ばしたままの姿で、百合恵は迫り来る黒い壁から目を逸らせなかった。そして由之真達が黒い壁より二三歩早く橋に着き、由之真の目が百合恵の姿を捉えた刹那、由之真は百合恵目がけて橋を蹴った。そして同時にドゴォォッッ!という声を発し、黒い大蛇は橋に噛みつき、百合恵はそれをただ呆然と見ていた。
(……八岐くん?)と百合恵がぼんやり思った時だった。
ドッッ!
「っっ!?」
由之真の体当たりと、由之真の背中に牙がかかったのはほぼ同時だった。二人はそのまま濁流に飲み込まれたが、直ぐに浮かび上がった。
「ギャンッッ!」
そしてパブロの悲鳴が聞こえた瞬間、何故か二人の身体は岸に向かって移動し、そのまま波に乗るようにして、ふわりと岸に放り上げられた。
(………?)
一瞬の錐揉み状態からすぐに開放され、次に軽い衝撃を受けて自分の身体が停止したことを感じた百合恵は、恐る恐る目を開けた。しかし目の前を流れる濁流を見ても、それが何だかはっきりわからなかった。わかっていることは、由之真が自分に激突したことと、自分が水の中で回転したことだが、何がどうなってどうして自分が岸の上にいるのか百合恵にはわからなかった。
「……いっ!?」
そしてとりあえず起きあがろうと手をついて、右脇腹に鈍い痛みが走った時、百合恵の感情はようやく現実に帰り、同時に激しい恐怖に取りつかれた。しかしその恐怖の対象は、自分の体験ではなかった。
(………八岐くん?……八岐くんは!?)
百合恵は痛みを忘れ、髪を振り乱して辺りを探った。すると由之真は、松の木の根元でパブロと一緒に座っていた。
「……やっ……八岐くんっっ!!」
由之真が直ぐに振り返ったので、百合恵は縋る思いで駆け寄った。そして由之真の前に傾れ込むようにして叫んだ。
「八岐くんっ!八岐くん大丈夫っ!?」
全身びしょ濡れの由之真は、きょとんとを百合恵を見て、いつもと変わらない落ち着いた声で尋ねた。
「……はい。先生は大丈夫ですか?」
「………」
百合恵は答えずその場にぺたりと座り込んだ。そしてすぐに思い出して言った。
「!パブロは!?」
「……クァン!」
パブロは「伏せ」の姿勢のまま、百合恵に少し顔を向けて答えた。百合恵は眉間に皺を寄せ、呻きながら深い安堵の溜息をつき、とにかく全員無事だったことに心の底から感謝した。そして生きている喜びを胸いっぱい吸い込んだ時、由之真が立ち上がり、ベルトに縛った鎖を解きながら言った。
「パブロ、ここにいて。すぐに戻ってくるから」
「……クゥーン」
由之真は鎖を置いて、怪訝な目で自分を見上げる百合恵に言った。
「パブロが少し首を痛めたんで、何か……パブロを運ぶものを探してきます。先生はパブロといてください」
「………あ……」
百合恵の返事を待たずに、由之真は右肩を左手で押さえながら行ってしまった。残された百合恵はすぐにパブロの傍らに寄って、パブロの背中を優しく撫でた。そしてふと目に付いた鎖が、松の木を回っている事に気付いた。よく見ると木の皮に真新しい傷があり、百合恵は自分が岸に打ち上げられた理由と、パブロが首を痛めた原因を何となく理解した。
「………パブロ……ありがとう……」
「……ワフッ」
由之真が当てにしていたのは、橋で濁流の勢いが衰えることと、川が橋の向こうで急激に右へカーブしていることだった。川はカーブの直前までなだらかな岸辺が続いていて、もし百合恵がその岸辺にいてくれたら、流されても遠心力で左岸に寄せられる可能性が高く、あとはロープを投げつけて百合恵を左岸に引き寄せれば良かった。
しかし、もちろんそれはロープがあればの話しであり、残念ながら手元にロープは無く、その代わりにベルトに縛った鎖はあったが、それを解いている時間は無かった。そこで由之真は自分が百合恵に鎖を届けて、それをパブロに引いてもらうことにした。そしてパブロはただ左岸を走ってくれればよいと思いながら、由之真は百合恵が左の岸辺にいてくれることを強く願った。
果たして、百合恵はそこにいてくれた。ところが思ったよりも濁流は速く、由之真は百合恵目がけて橋から飛び降りたが、百合恵がしゃがんだままでいたことも幸運だった。もし立っていたら二人共まともに濁流とぶつかっていたが、しゃがんでいたので水の抵抗を抑えられた。そして由之真が百合恵の背中に抱きつくと同時に、二人は横向きに回転しながら水面に浮かび、あとはパブロが真っ直ぐ走ってくれれば……と思ったが、パブロが松の木を避けて木の外側を走ったので、由之真達とパブロは松の木を支点とした振り子になった。そしてこれが最大の幸運となり、パブロは思い切り首輪を引かれたが、由之真と百合恵はスムーズに岸へ引き寄せられ、更に濁流の波に押し上げられて一気に地上へたどり着いた。
もちろん百合恵はそこまで知る由もなく、今の百合恵の心は、恐怖よりも安堵よりも脱力感に満ちていた。それは本来守るべき立場の自分が逆に助けられたことと、何もできなかった無力な自分を恥じていたからだが、何もかも素直に受け止めるべきと百合恵が思い掛けた時だった。
「ウォンッ!」
「………」
突然百合恵の胸に強い責任感が湧き上がった。今すべきことは自分を責めることではなく、由之真が戻ったらパブロを学校に運ぶことだった。パブロや由之真が怪我をしていたら、保健室で手当をすることだった。洪水があったことを役場に報告することだった。することが山ほどあるのに、自分を恥じている場合ではなかった。すると間もなくして由之真が手ぶらで戻り、苦笑して言った。
「何もありまんでした。でも、これで運べばいいです」
由之真はポンチョを脱いで道路に広げ、パブロをその上に寝かせた。二人はパブロをハンモックのように持ち上げて学校へ向かった。百合恵は途中でコンクリートの橋が少し抉れているのを見てぞっとしたが、とにかく今はパブロを運んだ。しかし保健室特有の匂いのためか、パブロが部屋に入りたがらないので、百合恵は廊下でパブロを見た。
「……怪我はないみたいだし、首も大丈夫みたいね」
「パブロ、もういいよ」と由之真が言うなり、パブロは急に立ち上がって少し首を振ってから言った。
「ワンッ!」
実のところ、パブロは全く平気だったが、由之真が動かぬようお願いしたから我慢していただけだった。
「うわっ!……ハハ!」
百合恵は突然パブロに顔を舐められ、驚いて尻餅をついた。その時ビチャッという音がして、二人は改めて自分達が濡れ鼠であることを思い出した。
「八岐くん……着替え、無いわよね?」
「……はい」
「ちょっと待ってて!」と言って百合恵は保健室に入り、なにやらゴソゴソと棚を探した。
「……あった!」
百合恵はタオルと児童用の下着を由之真に渡して言った。
「これで拭いて、これに着替えて、先生替えのジャージがあるから……」と言ってる側から由之真がジーンズを脱ぎだしたので、百合恵は目を逸らして宿直室へ向かいながら続けた。
「保健室で着替えてて!今ジャージ持ってくるから」
百合恵は由之真にジャージを渡し、自分も衝立の向こうで着替えながら由之真に尋ねた。
「八岐くん、痛いところはない?」
由之真はジャージをはき終えて、右肩をさすりながら答えた。
「肩が少し痛いです」
「……ちょっと見せて」
由之真は今着たばかりのTシャツを脱ぎ、百合恵に肩を見せた。
「回してみて………痛い?」
「……少しだけ」
表情からみて問題ないと判断した百合恵は、一応湿布を貼っておいた。自分の脇腹は僅かに鈍痛があったが骨に異常はないと考え、今度は由之真と二人でパブロの身体と足を綺麗に拭いた。パブロは気持ちよさそうにされるがままになっていた。
「じゃあ職員室で、ちょっと落ち着きましょう!」
百合恵が腕時計と職員室の壁掛け時計を見ると、時刻は両方とも五時五分前だった。今日は祝日なので、百合恵は役場の宿直室へ電話を掛けた。しかし下流の水田にいた者が既に通報していて、百合恵は橋の損壊だけを報告し、受話器を置いて深い溜息をついてから言った。
「……鉄砲水って言ってたわ……」
百合恵はそれを気味の悪い言葉だと思った。あの橋の状態からみて、今更ながらよく助かったものだと痛感したが、ふと、ソファーに座っていた由之真が静かに言った。
「……沢に流れている、中学部の向こうのタロ沢です。あんなに速かったのは……」
そしてゆっくり東を指さして続けた。
「すぐそこに……何日も水が溜まってたんだと思います」
その「すぐそこ」という響きを聞いた百合恵は、ぶるっと震えながら情けない声を出した。
「……や〜め〜て〜」
由之真はくるっと振り返り、愉快そうに笑いながら首を横に振って言った。
「フフ、すみません。そんなつもりじゃなくて……パブロがよく見つけくれたなって」
「……パブロが?」
「ワフッ?」
由之真は、呼ばれたと思って首を上げたパブロの頭を優しく撫でながら答えた。
「はい……何かあるとは思ったけど、もしパブロが教えてくれなかったら、あんなに近いなんて思ってなかったし………パブロ、お前は凄いね」
「ワンッワンッ!」
「……」
百合恵は一瞬意味がわからなかったが、すぐにその「何か」が鉄砲水のことであることに気付いて尋ねた。
「何かあるって……思ったの?」
「……」
由之真はきょとんと百合恵を見て、苦笑しながら質問に質問で答えた。
「……なんとなく……雨が降る前とか、雷の前とか……ピリッとしませんか?」
「うーん、先生はしないけど……八岐くんはするの?」
「……はい」
「へぇー……それはちょっと便利かもしれないわね」と言いながら、百合恵はポーリーンの言葉を思い出していた。しかし、このくらいならあっても不思議ではない気がしたので、それは百合恵の素直な感想だった。もっとも「このくらいなら」とは百合恵の勝手な目方だが、由之真は首を軽く振って何とも言えない困った笑顔で答えた。
「……五秒前にわかっても、あんまり便利じゃないです」
「フフ!……五秒前じゃ確かにそうねえ。フフフッ!」
その答えを聞いてなんだか安心した百合恵は、笑えた勢いに乗って勇気を奮い起こした。
「……あのね、八岐くん……」
「はい」
百合恵は由之真の目を真っ直ぐ見据えて言った。
「助けてくれて、ありがとう」
「……どういたしまして」と微笑んで答えた由之真に怯みそうになったが、チャンスは今しかないと思った。
「でもね………先生、大事なお願いがあるの」
「……はい」
由之真の瞳に変化がないことを確認してから、百合恵は思いを込めて静かに諭した。
「これから何があっても……まず何よりも、自分の命の方を大切にして……」
この杞憂とも思える願いは、実のところ自分自身に対する願いでもあった。百合恵は、もしも児童の命を危険にさらした自分を許す方法があるならば、今度こそはなんとしても助ける側になることしかないと思った。そのために必要なことが、この自戒でもあり誓いでもある願いだった。由之真は少し考えてから、真顔で答えた。
「……はい」
すると突然百合恵はにやっと笑い、右手の小指を突き出して朗らかに言った。
「じゃあ、先生と八岐くんのお約束その二!自分の命を、何よりも一番大事にすること!いい?」
由之真は一瞬目を丸くしたが、すぐに苦笑を浮かべながら無言で小指を絡ませた。百合恵はしてやったりと笑いながら、愉快そうに調子をとった。
「せーの、オヤクソク!」
そして指を切った瞬間、百合恵は突然込み上げてきた思いに抗えず、由之真の前で顔を手で覆った。
「………」
百合恵が一番怖かったのは、鉄砲水でも由之真を危険にさらしたことでもなく、自分が由之真に畏怖を抱きつつあることだった。恐怖で児童を縛ることは百合恵の最も忌むべき事の一つだが、それよりも自分が児童を怖がることを百合恵は何よりも恐れていた。それは自発的な拒絶であり、自分に対する拒絶はまだ耐えられるが、たとえそれが自分本位な気持ちだとしても自ら児童を拒絶することだけはどうしても許せなかった。しかしその畏怖は指を切った直後に霧散し、その安堵が引き金となり、今まで胸に溜まっていたものが目から吹き出した。百合恵は急いで目を拭って、言い訳をした。
「ごめんなさい…フフフ……安心したら、ちょっと気が抜けて……」
「……クゥーン」
由之真は静かに薄く微笑むだけで、代りにパブロが答えた。百合恵は勢いよく自分の腰を叩いて声を張った。
「さて!……じゃあ帰りましょうか!」
二人と一匹は駐車場へ向かい、百合恵は鍵が付いたままのドアと、地面に落ちている由之真のバッグを見て笑った。
「フフフ!……何だかホントに危機一髪だったのね。ありがとう八岐くん、パブロも!」
「ワンッ!ハッハッハッ」
そして駐車場を出て右へ進んだが、名合の沢と道路が交差している東側の狭い橋の周りにメロンほどの石が幾つも転がっていたので、百合恵達はそれをどけて、橋が壊れていないことを確かめてからその橋を通った。そしてようやく名合の道に入った時だった。
「はぁ!……早くお風呂に入りたいわねえ!」
なんだかもう家に帰ってきたような気がした百合恵は、思わず清々とした声をあげた。そして由之真がすかさず相槌を打った。
「うちで入りますか?」
しかしその口調は、冗談を言っているようには聞こえなかった。
「フフフ!大丈夫よ。帰ってから入るわ」
そして百合恵は愉快な気持ちを続けようと話題を探し、ふと思い付いて尋ねた。
「……そういえば八岐くん、海は行くの?」
先週末の放課後、由之真を誘いに行って戻ってきた香苗が「来週返事するってさ!ヤマっちも来ればいいのに……」と不満げに語っていたのを百合恵はしっかり聞いていたが、自分も誘われていたので由之真の返事に興味があった。しかし由之真は、一拍おいてから答えた。
「日にちがわかってから決めます。でも八月の上旬なら、行こうかと思います」
「……そっか……そうよね」
由之真の答えを聞いた百合恵は、そこではじめて重要なことに気付いた。百合恵も香苗に考えておくとは言ったが、確かに由之真の言う通り日にちがわからなければ予定の立てようがなかった。しかし、おそらくみんなは百合恵の予定に合わせるので、由之真の予定も百合恵の予定次第だった。
「……うーん……なるほど……」と百合恵は眉間に皺を寄せて唸った。そして、これは香苗の言う通りマジで考えなくてはならないと思った時、由之真が言った。
「あの青い屋根の家が、パブロの家です」
百合恵は田中のおばさんに、今日の出来事を手短に説明してお礼を述べた。驚いたおばさんは、きょとんとした顔で由之真をまじまじと見つめたが、由之真が微笑んだので、それを信じてパブロを叱らずに褒めた。そして百合恵と由之真に、鮎の佃煮を渡して言った。
「由ちゃんが来てからなんですよ!この子が逃げるようなったの。逃げたら絶対由ちゃんとこだし、悪さはしないから安心してたんだけど……いやいや!安心しちゃいけないんだけどね、フフフ……今度はぎっちり繋ぎますけど……もしまた追っかけて学校行っちゃったら、ごめんなさいね」
都会ではあり得ない、田舎ならではの大らか過ぎる言葉だが、とりあえず百合恵は「……はあ」と笑って誤魔化した。そして由之真の家に着いたのは、丁度六時を回った頃だった。百合恵は照に挨拶でもしようかと思ったが、大きなくしゃみをした後に寒気を感じたのでそのまま帰ることにした。
「じゃあ、また明日ね」
「はい、さようなら」と背を向けた由之真を、百合恵はふと呼び止めた。
「ああ、八岐くん!」
そして振り返った由之真に、百合恵はお願いした。
「……鉄砲水のことは、どうせ明日みんなわかっちゃうと思うけど………あれは内緒にしましょう」
「……はい……照にも言いません。言ったらきっと凄い怒るし」
由之真がひそひそと答えたので、百合恵は愉快そうに笑って言った。
「フフフ、そうね!……じゃあ」
神社の道路を降りて広い道路に出る時、ふと東の空に虹が架かっているのが見えて、百合恵は車を停めて虹を眺めた。思い返せば、今日の午後は本当にいろんな事の連続で身体がくたくただった。しかし心は清々としていて、あの九死に一生の体験を思い出しても恐怖は微塵も感じなかった。
「……っくしゅんっ!」
百合恵はもう一度盛大なくしゃみをしてからエンジンを掛けた。すると前方から見覚えのあるジープが来たので、百合恵は何故か慌ててアクセルを踏んだ。擦れ違いざまにジープが、プッ!プププッ!とクラクションを鳴らし、百合恵は苦笑しながら、いつかは会う時が来るだろうと覚悟した。そして家に帰ったらお風呂にゆっくりつかって、海のことを真面目に考えて明日香苗達に言おうと思った。しかし残念ながらこの時の百合恵は、これから三十九度の熱を出して、二年三ヶ月に及ぶ無欠勤記録に終止符が打たれることを知らなかった。
終わり