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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第十話 ポーリーソ

「I'm Yurie Kushida. Nice to meet you!」

 百合恵は相手の手を放し、作り笑いを浮かべた。何という運命のご都合か、ポーリーン・マリア・ワイルダーと名乗るその異国の女性は、まさしく百合恵の直感通り、たった今見せられた報告書の著者だった。

 ポーリーンはエミリーと似たようなビジネススーツを着て、大きな青いスニーカーを履いていた。目は澄んだ空のように青く、眉は意志の強さを表すかのように凛々しかった。鼻はすらりとしていて、頬に少女のようなそばかすがあり、全体的にはあどけない印象の容貌だった。しかし薄いピンクの口元に浮かぶ不敵な笑みが彼女の抜け目ない性質を表していたが、百合恵はその笑みが彼女に似合っていないと感じた。年齢はよくわからなかったが、百合恵は自分と同じくらいかと思った。

 これは百合恵が後に知ることだが、ポーリーンは入手した個人情報を元に、日本にいる友人に依頼して由之真の転出先を割り出し、判明するや否や日本に飛んできた。しかし役場の観光課で菜畑小を探している時にエミリーと出会ったのは本当に偶然であり、エミリーと由之真の関係を知ったポーリーンは、早速エミリーを盾にしてすんなり入城を果たしたのだった。

 百合恵は校長室へ駆け戻りたい心境だったが、たった今任された役目を投げ出すわけにも行かず、校長が気付いて出てきてくれることを切望しながら応接室へ案内しようとした。ところがポーリーンは百合恵の案内を無視して、カタコトの日本語で単刀直入に尋ねた。

「ドコデスカ?ユーノシン。アイタイデス。イマ!」

(……アポナシで来て、そう言われても……)と思ったが、花壇にいたはずの由之真と会っていないということは、下校したか裏の畑だと考えた。百合恵は由之真が帰っていて欲しいと願いつつ「I look for him. Please wait here. (探してきますから、待っててください)」と言って、事務の石井に渋茶を出すように頼んでから教室へ向かった。しかし教室には由之真のバッグが置いてあり、百合恵がそっと正面玄関を出て畑へ向うと、案の定由之真は畑で草むしりをしていた。駆け寄る百合恵に気付いた由之真は、立ち上がって百合恵の言葉を待った。

「あ、あのね、八岐くん………」

 そして二息おいてから率直に尋ねた。

「ポーリーン……ポーリーン先生覚えてる?……今、職員室にいるんだけど……」

 由之真は一瞬目を丸くしたが、すぐに鋭い目つきに変わり、腰に手を当て横を向いて溜息をついた。それは百合恵がはじめて見る不機嫌な仕草であり、百合恵はすぐに由之真にとってポーリーンが好まざる客であることを悟ったが、気の毒と思いつつも新鮮さを感じていた。そして由之真は不機嫌に呟いた。

「一昨日電話が来たんです。今から行くって。その時は照が出たけど……」

 由之真はそこで言葉を切ったが、その続きは容易に想像できたので、百合恵は同情を含んだ苦笑を浮かべて尋ねた。

「どうする?……約束してないなら、先生は無理に会わなくてもいいと思うけど……」

 百合恵が事情を知っているとは思いもよらず、由之真は一度百合恵を不思議そうに見てから答えた。

「……会います。でも気を付けてください。ポーリーンは何するかわからないから」

(……え?)と思ったが、とりあえず由之真が会うと言うなら、校長に頼まれたとおりにしようと覚悟を決めつつ、とにかく何もかもが突然なので、百合恵はまず落ち着きたかった。由之真は職員室の手前で一旦止まって溜息をついたが、そんな仕草も百合恵にとっては新鮮であり、悪いと思いつつもこの状況を楽しんでいた。しかし、由之真を先に職員室へ入れたのは失敗だった。ポーリーンは由之真を見た途端、「ユーノッ!!」と叫んで駆け寄ってきた。百合恵は咄嗟に割って入ろうとしたが、由之真はポーリーンに左手を挙げ、きっぱりと言い放った。

「Stop it! Do not touchi me!(止まれ!触るな!)」

「っ!?」

 その命令にポーリーンは従ったが、ポーリーンはポケットから慌てて封筒の束を取り出し、それを由之真に差し出しながら百合恵にはわからない早口の英語で言った。

「Look! Letters from everybody! Linda, Will, all of them, wanted to see Yuno! Pictures, also here! (見て!みんなの手紙を持ってきたのよ!リンダもウィルも、みんなユーノに会いたがってたわっ!写真もあるわっ!)」

「……」

 そして由之真が「……you postman?(郵便配達人なの?)」と呟きそれを渋々受け取った瞬間、ポーリーンは由之真に飛びかかり、二人は職員室の床に音を立てて倒れ込んだ。

「なっ!?」

 あまりの出来事に、百合恵は一瞬頭に血がのぼった。

「……ポーリーンッ!!」

「!?」

 その声は思いの外大きく、職員室にいた全員が百合恵を見たが、百合恵は臆せず命じた。

「Release him! Hurry!(放しなさい!早く!)」

 ポーリーンはすぐに由之真から離れ、顔を真っ赤に染めながら由之真と百合恵に謝った。そして騒ぎを聞きつけた校長が現れ、校長はこの有様を見て目を丸くしながら石井に「……どなた?」と尋ねた。時が止まったような職員室で、石井がおずおずと「……ぽ、ポーリーン・マリア・ワイルダーさんです」と答えると、校長は百合恵とポーリーンと由之真を見てから、突然快闊に笑い出した。

「アッハッハッハッ!」

 そして全員が呆気にとられていると、校長は笑いながら手招きをして言った。

「C'est la vie! Come in Miss Wilder. I am the boss. (しょうがないわねえ!おいでなさいな、ワイルダーお嬢さん。私がボスよ)」

 そして今度は百合恵に向かって愉快そうに言った。

「Good job!(お疲れさま!)」

 ポーリーンは悲しげな目で由之真を見つめたが、由之真はあきれた顔で冷たく言った。

「You're gonna get it.(叱られるよ)」

 ポーリーンとエミリーは校長と共に応接室へ向かい、もちろん百合恵も参加しようとしたが、校長は百合恵の耳に囁いた。

「櫛田先生は、あの子からミス・ワイルダーの事を聞いて。性格とか好きな食べ物とかね」

「……はい」

 百合恵が職員室に戻ると、すぐに教員達がわらわらと寄ってきた。

「ねえ……あの人誰?」

 百合恵は呻きながら一度由之真を見たが、由之真が苦笑しているので手短に説明した。

「えーと……八岐くんの、前の学校の先生ですけど……もちろん私も校長先生も会ったこともないんですが、アポ無しで来たみたいで……私もなんだかさっぱりなんです」

「あれ?……もしかして通しちゃダメでした?エミリー先生の友達だって言ってたんで……」

 百合恵は首を横に振り、苦笑して答えた。

「初対面よ。彼女が勝手にそう言ってるだけ。まったく、フフ……」

 百合恵は由之真に歩み寄って尋ねた。

「八岐くん、もし時間あるなら……ポーリーンさんのこと教えてくれる?」

 由之真は苦笑混じりに溜息をついて答えた。

「……はい。でも、畑放り出してきたから」

 百合恵が畑でポーリーンの性格を由之真に尋ねると、由之真は即答した。

「ローティーンです」

 もちろんそれは子供っぽいという意味だと解釈したが、自分も相当子供っぽいことを自覚していた百合恵は、自分も由之真からそう見られているのでは?と少し心配になった。次にポーリーンの食の嗜好を尋ねると、これまた由之真は即答した。

「ハンバーガーとピザとコーラがあれば、機嫌良かったです」

「……そうなの」

 それは殆ど子供扱いしている口振りだったが、要するにそれらが特に好きなのだろうと解釈した。そして由之真は立ち上がり、鎌に着いた泥を落としながら付け足した。

「あと……ビールが好きでした」

「へー……」

 それならもし機会があれば居酒屋に誘ってみようかと百合恵は思った。しかしふと、何故由之真がそんなことを知っているのかと思ったが、それはプライベートかと思い直して尋ねなかった。由之真はむしった草を草置き場に運び、その上にビニールシートをかぶせて今日の畑作業は終わった。百合恵は綺麗になった畑を見て、改めて由之真に礼を述べた。

「八岐くんありがとう。八岐くんが毎日手入れしてくれるから、あんな嵐でもびくともしない、凄い畑になったわ……」

「……」

 由之真は好きでやってることなので、何とも言えない笑みを浮かべただけだった。

「今ね、シフトを……予定表を作ってるの。……夏休みに入ったら、畑を見る人がいない日が続くでしょう?そうなると折角作った野菜が過ぎるし……もちろん田辺さんが見に来てくれるけど……先生はね、最低でも週に一度はみんなで集まって、夏休みでも畑の手入れをしようと思ってるの……」

 由之真は百合恵を見て、そしてまた畑へ目を戻した。百合恵は指導案に書くべき事を、どうして由之真に話したのかわからなかったが、なんだか由之真と相談しながら指導案を練っているような気がして、それが何故か楽しかった。

「……もちろん、強制じゃないのよ。来れる人だけ来てくれたら、事は足りるから」

 話し終えた百合恵は、すっきりした気持ちで由之真と畑を後にした。由之真はそのまま帰っても良かったが、百合恵と共に職員室へ戻った。そしてもちろんそこにはポーリーンがいた。

「ユーノッ!」

 早速ポーリーンは由之真に駆け寄ったが、今度は抱きつかず、百合恵に右手を差し出した。

 ポーリーンは応接室で、校長と「三つの約束」を交わしていた。それはハグ(抱擁)に慣れていない児童に無闇に触れないこと、学校ではできるだけ日本語を話すこと、そして由之真の邪魔をしないことだったが、とりわけ校長がきつく言いつけたのは「できるだけ離れて由之真を良く見なさい」ということだった。校長は仕事柄、稀にそういう大人がいることを熟知していたが、ポーリーンもその類ではないかと直感した。そしてそれをすぐに確かめるべく、校長はまるで子供をからかうように尋ねた。

「You…… Yunoshin's girlfriend?(あなた……由之真のガールフレンドなの?)」

 それは大人であれば、笑うか聞き流すか、真面目な人なら少々不愉快になる程度の質問だった。しかし初対面で唐突に核心を衝かれたポーリーンは、気が動転してまるで幼子のように頬を染めてしまい、校長はそれを見て確信した。ポーリーンは子供の性質を保ったまま大人になった人種の一人であり、ただ由之真に会いたくて来たのであり、もしかしたら彼女の報告書は、由之真をアメリカに留めるためであり、わざわざ日本に送りつけたのも関わりを保つためではないかと校長は思った。

 そうとなれば、立場さえ弁えれば水をさすことはないので、距離だけは保つよう具体的に注意して、あとは百合恵と由之真にまかそうと考えた。百合恵とポーリーンが握手を交わし終えた時、校長は百合恵を呼んだ。

「櫛田先生、ちょっと」

「……はい」

 百合恵の椅子に勝手に座って、柏葉の椅子を由之真に勧めるポーリーンを横目に、百合恵は校長の傍へ寄った。

「……なんでしょうか?」

 校長は苦笑を噛み殺し、困り果てた体を装って言った。

「ミス・ワイルダーはね……月神ホテルに四日間滞在するつもりだけど、何も予定はないんですって。……まあ……つまりあの子に会いに来ただけなのよ」

「……そうなんですか?」

 百合恵は嫌な予感がしたが、それは見事に的中した。

「ええ、それでね、どうせだったら日本の小学校を見学したらって勧めたの。そしたら、是非ってことになったから……」

 その瞬間百合恵は目眩がしたが、校長は一拍おいてから少し意地悪そうに微笑んで言った。

「櫛田先生、よろしくね」

(……日本の小学校なら、他にいくらでもあるのに……)と思いつつ、百合恵は少し引きつった笑みを浮かべて力なく答えた。

「……わかりました」

 そんな百合恵を見て、校長は必死に笑いを堪えながら言った。

「大丈夫よ……彼女のことは、あの子から聞いたでしょう?」

「ええ、はい、聞きましたが……」

「何て言ってたの?」

 百合恵は一応小声で答えた。

「……子供っぽい性格で、好きな食べ物は……ハンバーガーやピザだそうです」

 校長もそれに合わせて囁いた。

「フフ、私も同感よ。……むしろミス・ワイルダーは子供そのもの……もちろん、子供に対してね」

「……はあ」

 その言葉は、時折香苗達と本気で遊んでしまう百合恵にとって返答しづらい言葉だった。しかし校長は、百合恵にあってポーリーンに無いものを見抜いていた。それは百合恵がまだ幼い頃、夫を失い、母親役と父親役の一人二役を見事に務めた百合恵の母親から百合恵が受け継いだ「父性」だった。言い換えれば、先程ポーリーンを叱りつけたように、場合によっては相手が誰でも、駄目なものは駄目だとはっきり言えるのが百合恵だった。しかし百合恵自身にまだその自覚はないと考えた校長は、最後にアドバイスをおくった。

「要するに、子供だと思って接すればいいのよ。先生ならそれができます」

「……はあ」

 その時の百合恵はそれを半分冗談だと思っていたが、翌日見学に訪れたポーリーンの姿を見て、それが冗談ではないことを知った。



 膝下を切ったジーンズに緑のTシャツという、普段着過ぎる出立ちで現れたポーリーンは、自分をファーストネームで呼ぶよう香苗達に頼んだ。ポーリーンが遊ぶ気満々で学校に来たのは明白で、それならばいっそ遊ばせてしまおうと思った百合恵は、見学ではなく授業体験に変更した。そして路子はポーリーンがトイレへ行った直後に呟いた。

「あー、マジで意味わかんね……」

 香苗は苦笑しつつ愉快そうに答えた。

「うーん……わかんないけど、面白そうだからいいじゃん!ハハハッ」

 ポーリーンの姿を見て驚いたのは、百合恵よりも香苗達の方だった。突然由之真と似た格好の陽気な外国人女性がやってきて三日間共に過ごすと言われても、口をぽかんと開けて目を丸くするより他はなく、彼女が由之真の前の先生で、みんなと一緒に授業を体験をすると百合恵から聞かされても、(……なんで?)と疑問は深まるばかりだった。しかしはじめの内こそ緊張したが、とにかくポーリーンが陽気なので、打ち解けるまで時間はかからなかった。

 ポーリーンは首を傾げながら一時間目の社会を受けて、二時間目の算数は元気に手を挙げた。三時間目は水着を借りてプールで泳ぎ、四時間目の図工ではハサミで指を少し切った。二十歳半ばの女性が児童と同レベルで授業を楽しむ姿は、傍から見れば異様な光景だが、ポーリーンの容貌が子供っぽいせいもあり、いつの間にかみんなはポーリーンを仲間として受け入れていた。しかし由之真だけは終始冷淡な態度をとり、ポーリーンが話し掛けても答えないことさえあった。もっとも、ポーリーンの方はそれを気にする様子はなかったが、そんな由之真を一度も見たことがない香苗達は、それぞれ少しショックを受けていた。そして給食の時間となり、ふとポーリーンが由之真に尋ねた。

「ユーノ!………ユーノシン。アルデスカ?フォーク」

「ない」

「……」

 香苗はその時はじめて、由之真が「ユーノ」と呼ばれることを嫌がっているのでは?と思い、清掃の時間に路子に尋ねた。

「ミチさ……ユーノって、ヤマっちの昔のニックネームかな?」

「あー……そう思うけど……八岐はなんかヤっぽいな」

「そーだよね!チョーシカトだっけ………ちょっとイイと思って、あたしも言おうかと思ったけど……ダメだね」

「あー、そーだな」

 香苗はゴミをちりとりに掃き入れてからもう一度尋ねた。

「……ヤマっちさ、ポーリーン嫌いなのかな?」

 路子は机の位置を戻してから答えた。

「……嫌いってより、苦手っぽいか。嫌いだったら口も聞かないだろ」

「そーだよね……うん」

 ポーリーンは百合恵と二人で職員室の清掃をしていたが、大変熱心に働き、終わってから百合恵に言った。

「オモイマス。ソウジシマス、ミナサン、タイヘン、ヨイデス!」

 百合恵は一瞬わからなかったが、すぐにアメリカの学校には清掃の時間がないことを思い出した。

「……ああ、そうね……日本の学校では、高等学校まで掃除の時間があるのよ」

「……コトガコ?」

「こうとうがっこう……senior high school」

「オゥ!コートーガッコウ。アリガトゴザイマス!シマス。ソウジ、ワタシノスクール!」

 百合恵は少し考えて、微笑んで答えた。

「……そうね!やってみてください!」

「ハイ!」

 ポーリーンの日本語は単語だけ日本語に置き換えているだけだったが、一生懸命話そうとする姿勢に百合恵は好感を持った。また、時折自分の学校と比較する様子も窺えたので、見学を授業体験に変えてよかったと思った。そして午後の授業も無事終了し、百合恵はこれならあと二日間乗り切れると感じたが、その後にちょっとした問題が起きた。

 問題という程でもないが、放課後百合恵達はポーリーンに自慢の畑を見せていた。はじめの内ポーリーンは学校で農業を営むことを不思議がっていたが、それはそもそもアメリカと日本の農業は規模が異なるし、またアメリカで農業に従事する者は移民系の労働者が多く、ましてや学校で農業を教えることがなかったからだった。しかし、これは元々由之真のアイデアでみんなで作った畑であると聞いた途端、「スバラシイデス!」とお世辞を言った。それでも由之真が畑を作る理由がわからず、ポーリーンは由之真にそっと尋ねた。

「ユーノシン。ナゼ、シマスカ?」

「……eat.(食べるため)」

 野菜を作る理由は、食べるかあげるか売るかしかないので、由之真は素っ気なくそう答えただけだが、ポーリーンはその答えを由之真が貧窮していると勘違いした。

「オゥ!……ナイデスカ?オカネ」

 由之真は少し驚いた顔をして、それから今日はじめてポーリーンに微笑みを向けて答えた。

「 I have. Not to worry. (あるよ。心配無用)」

「ハイ!」

 由之真の笑みを見たポーリーンは有頂天となり、思わず両手を広げて抱きしめようとした。しかし由之真の顔から笑みが消え、ポーリーンは慌てて両腕を引っ込めた。由之真は鼻で吐息をついてから、ポーリーンに優しく言った。

「ポーリーン、キュウリ食べる?」

「……キュリ?」

「Cucumber.」

「オゥ!アー……ハイ!」

 由之真は少し過ぎたキュウリを五本ポーリーンに渡すと、ポーリーンは満面の笑みを浮かべて喜んだ。香苗達はそれを見て二人の関係が良くなったと思った。そしてここまでは何の問題もなかったが、授業を終えた照が来た瞬間、ポーリーンの態度が一転した。

「ああ、電話の人!凄い!ホントに来たんだ!……Nice to meet you! My name is Teru Ishikari !」と照は右手を差し出したが、ポーリーンは無表情でその手を握りかえして言った。

「Nice to meet you.……Who are you?」

 たった今自己紹介したばかりの照は一瞬きょとんとしたが、すぐに由之真との関係を問われたと気付いて、少し慌てて説明した。

「えっと……I'm……Yunoshin's……由ちゃん、従姉ってどう言うの?」

「……first cousin.」

「I'm Yunoshin's first カザン!」

 しかしポーリーンは、ただ「 Hmm….(ふーん…)」とだけ言って、なんとそのままその場を去ろうとした。全員が少し呆気にとられ、照は自分の言い方がおかしかったのかと由之真を見たが、由之真はポーリーンに向かって素っ気なく言った。

「Pauline.…… God be with you.(ポーリーン。さようなら)」

 それは「Good bye」の語源である「汝に神のご加護を」という意味の、最後の別れのような「さようなら」だった。もちろん由之真は本気で言ったわけではないが、ポーリーンにとっては冗談に聞こえなかった。ポーリーンは立ち止まり、俄に焦りながら言った。

「Hey Wait! You're kidding me?(ちょっと待ってよ!冗談でしょ?)」

 由之真は答えなかったが、その口元に浮かんだ意地悪そうな笑みを見たポーリーンは、ほっとしながらも由之真を睨めつけ静かに言った。

「……You're so mean!(意地悪!)」

 少しはらはらしてた百合恵ははっきりわからなかったが、由之真がポーリーンをからかい、同時にポーリーンの態度を諫めたように見えた。そして百合恵が思った通り、ポーリーンは照に向かってもう一度手を差し伸べて言った。

「……Sorry. Call me Pauline.(……ゴメンね。ポーリーンって呼んで)」

 照はにっこりと微笑んで、もう一度ポーリーンの手を握って元気に言った。

「えっと、No sorry! Call me Teru!(謝らないで!照って呼んでね)」

 それからポーリーンは機嫌を戻し、学校の先生方やエミリーと共に、駅前の居酒屋でささやかな歓迎会が催された。そこでポーリーンは終始にこやかだったが、エミリーが帰るや否や、少し英語がわかる百合恵にだけ英語で質問し始めた。その質問の殆どは由之真と照のことであり、百合恵は差し障りのないことは答えた。そして宴も終わり、百合恵がポーリーンをホテルに送る道すがら、ふとポーリーンが立ち止まって尋ねた。

「ユリエ……Have you ever seen such his gesture?(百合恵……由之真のこんな仕草を見た?)」

 ポーリーンは両手をゆっくり広げて、一度パンッと柏手を打った。その仕草を見た瞬間、百合恵の脳裏に何かが映った気がしたが、その時は見たことがないと思った。

「あー、No.(ないわ)」

 するとポーリーンは、真顔で百合恵を見つめて言った。

「You know?……Yunoshin has a sixth sense.……and he's fine eidetiker. (あのね……由之真はね第六感を持ってるのよ。そして……優れた直観像能力者なの)」

 第六感という言葉の後がわからず一瞬聞き返そうと思ったが、百合恵はそれよりも第六感という言葉があまりに子供じみていたので、てっきりポーリーンの冗談だと思ってそれに少しだけ付き合うことにした。

「あー、……I don't know. And then?(……知らないわ。それで?)」

 しかしポーリーンは首を横に振って黙ってしまったので、百合恵はポーリーンが酔っていると思った。

「……We have an early day tomorrow so let's get some sleep.(明日は早いから、もう寝ましょう)」

 ポーリーンは確かに酔っていたが、まだ意識ははっきりしていた。しかし百合恵にこれ以上は通じないと考えて、もう一度軽く首を軽く横に振りながら独り言のように呟いた。

「Okey.…… I…… failed. But, ……Okey.(いいわ……私は……失敗しちゃったけど、……いいわ)」

 そして百合恵に手を差し出して、百合恵の目を見て言った。

「アリガトゴザイマス、ユリエ。 See you tomorrow! オヤスミ、シナサイ!」

「フフ……おやすみなさい!また明日!」

 ポーリーンはしっかりとした足取りでホテルへ帰った。百合恵は公舎まで歩いて帰りながら、しばらくの間ポーリーンの「第六感」という言葉が頭から離れなかった。ふと空を見上げると天の川がうっすら見えて、そう言えば明日は七夕で、百合恵は明後日開催される商店街の七夕祭りに招待されていたことを思い出した。しかし同時に去年のことを思い出し、百合恵は耳まで赤くして首を横に振った。去年は浴衣を着て出かけたが、忽ち青年団の若い衆に取り囲まれ、異性に免疫がない女子校育ちの百合恵は這々の体で逃げ帰り、後で仲村に叱られたのだった。そこで百合恵は叱られるくらいなら行くまいと思ったが、明後日はポーリーンの最後の夜なので、もしも彼女が望むならしかたないと覚悟した。しかし翌日の午後、思わぬ展開によって百合恵は七夕祭りには行かずに済むことになった。



 そして次の日は合同授業日だった。ポーリーンはエミリー先生の友人として合同英会話授業に招待され、児童達と共に七夕の歌を歌ったり、ゲームをして大いに楽しんだ。しかし渡された短冊に「Yunoshin」と書いたのを香苗に見られて、「それダメ!名前とかじゃなくって、願い事だよ!ウィッシュ!……ほら、書き直し!」とダメ出しをされてしまった。

「Oh oh.……(あらら……)」とポーリーンは素直に書き直したが、はじめに書いた短冊もこっそり笹に吊した。そして合同体育にも参加して、菜畑小フットサルチームを最下位に導いたが、それは由之真が来てからはじめての最下位であり、みんなは無言で車に乗り込みしんみりとした反省会が行われた。

「ポーリーン……ボール怖がっちゃダメだよ。そんなに痛くないんだからさ」

「ンー……ゴメンナサイ……」

「……はじめてだからって、ずっとキーパーじゃなくてもよかったんじゃない?」

 しょげるポーリーンを見兼ねた百合恵が助け船を出したが、その船は路子によってすぐに撃沈された。

「あー、自分でやるって聞かないからさ。八岐が代るって言ったのに」

「うーん……でもまあ、たまには負けるのも悪くないわよ?」

「……」

 沈黙を恐れた百合恵は、速やかに話題を変えた。

「そ、そう言えば、みんな明日の七夕祭りはどうするの?」

「……」

(あれ?)

 百合恵は我ながら上手にすり替えたつもりだったが、それ程まで失言だったかと思い返した時、香苗が口を開いた。

「……先生、明日雨だよ?」

「えっ、そうなの?」

「うん。っていうかさ、ヤマっち言ってないの?」

 ずっと窓の外を見ていた由之真が、きょとんと振り返って答えた。

「……ああ、まだ……忘れてた」

「ハハ、ダメじゃんか!言い出しっぺのくせに!」

 香苗は笑いながら拳で由之真の肩を押したが、さっぱりわからない百合恵はルームミラー越しに由之真を見て尋ねた。

「なあに?どうしたの?」

 由之真は一度香苗を見てから説明した。

「……照が、明日よかったら……うちでお別れ会しないかって」

「……うちって、八岐くん家?」

「はい」

「……」

 百合恵は助手席にいるポーリーンをちらと見たが、ポーリーン惚けた顔で百合恵を見返した。

「えと……もしかしてポーリーンにも話してないの?」

「……はい」

「そう……フフ」

 すぐに百合恵は、今まで冷たくしていたのだから誘い難いのだろうと思った。

「じゃあ、先生が話してもいい?」

 しかし、由之真とポーリーンのまだ少しギコチナイ関係を良くしたいと思っていた香苗は、百合恵がその機会を奪うことを許さなかった。

「先生ダメ!ヤマっちが言わなきゃ。いるんだし」

 確かに香苗の言うとおりだと百合恵は思い直したが、由之真はすぐに路子を見た。しかし路子は顔を逸らし、見られていない美夏も顔を逸らした。わけがわからずきょときょとしていたポーリーンが百合恵に尋ねようと思った時、ついに由之真が言った。

「Pauline. I should be delighted if you manage to attend the お別れ会.(ポーリーン。お忙しいとは存じますが、お別れ会にご出席いただけましたら幸いです)」

 百合恵はその堅苦しい口調に吹き出しそうになったが、「お別れ会」をはじめて聞いたポーリーンは、自分が何に招待されているかわからなかった。

「……オワカリカイ?……ワカリマセン」

 二日に渡ってポーリーンの日本語を訂正し続けてきた百合恵は、条件反射的に答えていた。

「フフ、おわかれかい!……your farewell party! It's tomorrow afternoon. (あなたの送別会よ!明日の午後ね)」

 ポーリーンは、信じられないという顔で恐る恐る聞き返した。

「……Fare……me?」

「そうよ!」

「……Oh,……God……」

 みんなはポーリーンの反応をてぐすね引いて待っていた。もし由之真の家に行けなくても、学校でもできるので間違いなく驚くだろうと思っていた。しかしポーリーンは、口と胸を手で押さえて俯いてしまった。そしてすぐに嗚咽が聞こえ、しんみりムードが一番苦手な路子が尋ねた。

「あー……ポーリーン、来るのか?」

「…んっ……クル…マス…んっ」

「イェーイ!……じゃあヤマっち、明日はチョー凄いのね!」

 おそらく料理のことを言っていると思った由之真は、微笑んで頷いた。百合恵が横目でポーリーンを見ると、ポーリーンは一度顔を上げたが、また俯いてしまった。そして百合恵が、興奮のあまり具合を悪くしたのかもしれないと気遣った時だった。

「……イヤーーーッッ!!」

「っっ!?」

 その歓喜の叫びは、全員の身を強張らせた。

「おあっ!?」

「きゃあっ!?」

「ワオッ!?」

 驚いた百合恵は思わずアクセルを踏み込み、みんなはジェットコースターに乗っているかのようになった。

「先生っ、死んじゃうって!」

「ごっ、ごめんなさい!」

 百合恵は眉間に皺を寄せ、ポーリーンをちらちら睨めつけながら叱咤した。

「ポーリーンッ!!運転中なんだからっ!あんまりびっくりさせないで!!」

「オウッ!ビックリ!ゴメンナサイ!ハハハッ!」

 そして車は学校の駐車場に入り、香苗と美夏はすぐに下校した。路子はボールを体育館に戻して、飼育小屋の掃除をしてから由之真の姿を探した。すると案の定由之真は畑で野菜を見ていた。路子は由之真に歩み寄り、一拍おいてから話し掛けた。

「……あー、八岐さ」

「うん」

 路子は一度目を逸らして、また由之真を見て続けた。

「あー……ポーリーン苦手だったら、私か香苗ん家でやるけど……」

 由之真は少し驚いた顔をしてから、微笑んで答えた。

「……ありがとう。でも大丈夫。苦手じゃないよ」

 由之真は、本当にポーリーンが苦手ではなかった。ポーリーンの明けっ放しな好意や猪突猛進さは確かに少しまごつくこともあるが、周りに人がいなければ問題ではなかった。問題は第三者の目によってポーリーンに害が及ぶことであり、それを避けていたことが路子達には冷たい態度に見えていただけだった。路子は由之真の目を見て、偽りがないと判断してから言った。

「……そっか、じゃあ明日」

「うん、また明日」

 そして路子は美夏の家へ向かった。由之真は照を待って、照が来ると二人は下校の報告をしに職員室へ向かった。しかし百合恵とポーリーンは校長室で雑談していて職員室には誰もいなかったので、由之真は百合恵の卓上メモパッドに「16:36下校。由&照」と書いて学校を後にした。



 夏の太陽はまだ高かったが、今日の名合の道は涼しい風が吹いていた。照と由之真は歩きながら明日の献立を話し合い、メインはイタリアンにして、デザートは和風にして、テーブルを笹で飾ることにした。

 照がお別れ会を企画したのは、ポーリーンに対する感謝の気持ちからだった。それは由之真が無事に帰国できたのは、ポーリーンのように由之真を大切にしてくれた人がいたおかげだと思っていたからであり、こんな異国の片田舎に会いに来るほど由之真が大好きならば、照にとってポーリーンは会った時から他人とは思えない人だった。もっとも、由之真がポーリーンに素っ気ないのはポーリーンが原因だろうが、大切なことは今とこれからなので、それを詮索する気はなかった。照は指折り数えながら嬉しそうに言った。

「石井さんと柏葉先生も来てくれるから、九人だよ!フフ、帰ったらすぐに下ごしらえしないとね!明日はきっと大変だよ!」

「うん、お婆ちゃんに皿も借りないと」

「そうだね!……あ、エミリー先生も呼んだ方がいいよね?」

「………」

「……?」

 ふと由之真が立ち止まって山を見上げたので、照も足を止めて山を見上げながら尋ねた。

「……どうしたの?」

 由之真は鋭い目つきで少し考えてから答えた。

「……今どこかで地主じしゅが落ちた。……ゆっくりだけど、山が東に動いてる」

「!……地主なだれ?」

「うん」

 地主なだれとは、ある地主が力を失い土地を守りきれなくなった時、その土地を補おうとする周辺の地主が移動することによって地域全体の地主が僅かに移動する現象であり、天災の前兆とされていた。地主なだれ自体はそれ程珍しい現象ではないが、照達がいる名合の道から東は学校の方なので、照は緊張した面持ちで尋ねた。

「……もしかして、前に由ちゃんが祓ったから?」

 由之真は軽く首を横に振って答えた。

「あれくらいじゃ山が動いたりしない。たぶん、もっと奥の大きいヤツだと思う」

 天災である地主なだれは避けようがないが、とりあえず照は胸を撫で下ろして言った。

「そっか……じゃあ気を付けようね」

「うん」と由之真が答えた時だった。ジャラジャラという音と共に前方から白い犬が駆けてきて、二人に向かって吠えた。

「ウォンッッ!!」

「……パブロ!」

 その精悍な犬は、ホワイトジャーマンシェパードと秋田犬の混血種から産まれた子孫であり、体高が一メートルもある立派な体躯の白犬だった。パブロは由之真に歩み寄り、由之真の腹に頭をぐいぐい押しつけて、グフグフ言いながらしきりに長い尻尾をばたつかせた。照はパブロが引き擦る長い鎖の先を見て笑った。

「パブロったら、また引っこ抜いて来ちゃったの?フフフ!」

 実のところ、こうしてパブロが係留の杭を抜いて由之真に会いに来るのは、これが五度目だった。パブロは名合の道の中程にある田中家の飼い犬で、毎朝毎夕由之真に挨拶をする利発で律儀な犬だった。由之真もパブロが大好きなので、毎朝毎夕必ずパブロの頭を撫でていた。パブロは由之真より少し年下で、人間で言えば四十を疾うに過ぎていたが、そんな年齢を感じさせない元気な雌犬だった。由之真は杭と鎖を拾ってパブロの背中を優しく撫でながら言った。

「俺が謝ってあげるから大丈夫。でも、来てくれてありがとう、パブロ」

「ウォンッ!ハッハッハッ!ワンッ!」

 由之真はパブロを撫でながら、照に向かって言った。

「パブロが来たから、地主なだれは大丈夫」

 照は少し考えてから、元気な声で言った。

「そっか!真っ白パブロは幸運の白犬だもんね!ピンチの後にチャンス有りだね!」

「……うん」

 チャンスかどうかはともかく、由之真は微笑んで頷いた。そしてパブロの鎖を巻き上げて、家へ向かって歩き出した。照はいつも由之真の右を歩いていたが、間にパブロが入ってきたので、ふと思いついて由之真の左へ移動してみた。すると案の定パブロがまた割って入ってきたので、照は笑いながら尋ねた。

「フフ、ねえパブロ?もしかしてヤキモチ焼いてんの?」

「……ワフッ!」



 最後の日のポーリーンは、朝からそわそわしたり急に落ち込んだり、明らかに別れの寂しさとお別れ会への期待で情緒不安定だった。しかしどうにか三時間授業が終わり、由之真が帰る間際に「今日はイタリア料理だよ。後から来て」と言うと、ポーリーンは忽ち元気を取り戻し、それ以降はずっとはしゃいでいた。

 香苗達は由之真達と一緒に帰宅し、ポーリーンは百合恵の車に乗って十二時半に学校を出た。百合恵達の他に柏葉と事務の石井も参加したが、由之真達はまだ準備中だった。そこでポーリーンは目隠しをされて、客間で百合恵と待つように言われた。

「うわ……美味しそ……」

 はじめて訪問した石井は、テーブルのピザとパスタ料理を見て驚嘆し、隣の柏葉に囁いた。

「櫛田先生から聞いてたけど、ホントにこれ照ちゃんと王子が作ったんですかね?」

 柏葉はキッチンでオーブンからカルツォーネを出している由之真を見て答えた。

「……うん、見ての通りね……でも、ここでそれは禁止よ?」

「あ」と石井は口を閉じた。柏葉が禁止と言ったのは「王子」という愛称であり、由之真は職員室だけで時折「王子」と呼ばれていた。それは以前柏葉が「櫛田先生、今日も王子様と畑仕事?」と百合恵を少し冷やかしたことが発端だが、もちろん由之真がいる場合は使わない愛称だった。

「柏葉先生、石井さん!これつけるの手伝って!」

「ハイハイ!」

 香苗は二人に折り紙で作った短冊を渡し、由之真が切ってきた笹に吊した。美夏と路子は、これまた折り紙で作った鎖を部屋の天井から垂らした。

「八岐、これここに画鋲で貼っていい?」

「うん」

 路子は壁に大きな画用紙を貼って、その周りをティッシュペーパーで作った花を飾り、リビングはまさしくお別れ会という雰囲気となり、由之真がカルツォーネを並べ終え、照がサラダボールを置いて全ての準備が整った。

「オッケーイ!」

 香苗がポーリーンと百合恵を迎えに行って、ポーリーンはもう一度目隠しをされてリビングに現れ、そして目隠しが外された。

「……Oh,…God……」

 壁に貼られた画用紙には、「Thank you Pauline! Hope to see you again soon! Bye-bye!(ポーリーンありがとう、また会えるといいね!バイバーイ!)」と書かれてあり、その下に六人が手を繋いでいるイラストが描かれてあった。

「Oh,……」

 ポーリーンの表情が俄に泣き出しそうになったので、路子がすかさず言った。

「サッピー(泣き虫)ポーリーン!泣くなら食ってからな!」

「Not soppy!……But…クテカラ?(泣き虫じゃないわよ!……でも…クテカラって?)」

 目から滴を溢れさせながら、ポーリーンは路子に言い返して聞き返した。百合恵は笑いながら路子の言葉を伝えた。

「フフ!She said、んー…… Finish eating. After you can cry as much as you want! (彼女はね、えーと……食べてから泣け!って言ったのよ)」

 ポーリーンは泣き笑いながら答えた。

「Oh! Yeah!……クテカラ!クテカラ!I got it!(わかったわ!)」

「フフフ、もうみんなさ、お腹空いたし食べながらにしようよ!プレゼントとかも」

 時刻は午後一時を過ぎていたので、照の提案に反対する者はいなかった。

「おーっ!食べよー!すごっ!美味そーっ!!」

 飾り付けにてんてこ舞いだった香苗達は、ちらちらとは見ていたが、あらためてテーブルの料理を見て感嘆した。テーブルには二種類のスパゲッティーとピザ、ほくほくのカルツォーネ、いろんなソーセージといろんな野菜料理、パンとチーズやその他とにかく美味しそうなものがずらりと並んでいた。

「Wow! スゴッ!スッゴーッ!」

 そしてポーリーンが席に着き、お別れ食事会がはじまり、みんなは和気あいあいと食事とお喋りに勤しんだ。三〇分ほどしてからエミリーが到着し、その後すぐに坂倉商店から照が注文しておいた冷えた瓶ビールが届いた。ポーリーンとエミリーは昨日も二人で飲んでいたが、早速栓を抜いてビールを飲み始めた。実は百合恵も飲みたかったが、帰りにみんなを送るので麦茶で我慢しながら香苗に言った。

「香苗ちゃん、今の内に渡した方がいいんじゃない?」

「あっ、そーだ!」

 香苗達は、朝ポーリーンに見つからぬよう図書準備室に隠して、帰る時こっそり持ってきたプレゼントを取りに由之真の部屋へ向かった。

「ポーリーン!……ジャジャーン!」

「……Oh!, My God! Very very very cute……ナハタショ!!」

 それは文字盤がなければそうとはわからないが、実に可愛らしい小学部校舎のぬいぐるみだった。香苗達は昨日、それを深夜までかかって作った。香苗がデザインして、美夏が色を決めて、路子が図面を書いて、三人で縫ったので真っ直ぐ立たないが、ポーリーンにとっては最高のプレゼントだった。

「おわっ!?」

 突然ポーリーンに抱きしめられた香苗は、驚いて何か文句を言おうとしたが、ポーリーンはすぐに香苗を放して今度はいきなり美夏を抱きしめた。

「ひゃあっ!?」

「!」

 路子は咄嗟に百合恵の後ろに回ったが、ポーリーンは美夏を放して路子を睨み、ゆっくりと路子に近づいた。一瞬路子は由之真の方に逃げようと思ったが、おそらくポーリーンは諦めないだろうと観念した。そして少しでも逃げた報いとして、思い切り強く抱きしめられた。由之真は大皿を運んでいたので難を逃れたが、ポーリーンは由之真も抱きしめたかった。しかしここで機嫌を損ねたらラストハグ(お別れの抱擁)まで拒否されるおそれがあり、それだけは何としても避けたかった。

 そして百合恵からのプレゼントは、手作りのカラフルな在学証明書と在学二日目までのアルバムで、柏葉と石井からは先生方からの寄せ書きと校章が入った手ぬぐいだった。

「昨日と今日の写真は後から送るから、住所を……ちょっ!?」

 ポーリーンは百合恵にも抱きつき、柏葉と石井にも抱きついて、また泣き笑いながらお礼を述べた。そこに照が口やすめの手作りアイスを持ってきたので、ポーリーンは急いで席に戻って泣き笑いのまま言った。

「フフ……クテカラ!」

 アイスは抹茶アイスと杏子のシャーベットだった。あまりの美味しさに香苗は冗談で「おかわり!」と言ったが、丁度人数分しかなく、由之真はまだ手を付けていない自分の抹茶アイスを差し出した。

「ウソだよヤマっち!ウソっぴ!」と香苗は慌てて否定したが、ポーリーンが「It's Mine!(もーらい!)」と手を出したので、香苗がその手を軽く叩いてみんなは笑った。一頻り笑ったあと香苗は急に思い出し、バッグから金色の折り紙を貼った星形の短冊を出して言った。

「ポーリーン、これにお願いごと書いて!名前じゃなくて、ウィッシュだからね!」

「ハハ、Okey! Boss!」

 ポーリーンは早口の英語で百合恵に何かを尋ねた。それは日本語でどう書くのかという質問だったが、肝心の部分がよく聞き取れず、百合恵は思わず由之真を見た。由之真は無言で立ち上がり、電話の前のメモ帳に何かを書いてからそれをポーリーンに渡した。そこには「みんながげんきでありますように。かならずここへもどれますように。ポーリーン」と書いてあった。ポーリーンは嬉しそうにそれを受け取り、一生懸命その字を短冊に書き写した。最後の「ン」が「ソ」になったのはご愛敬と言うことで、香苗は椅子に上がって笹の一番上にその星の短冊を飾った。路子はそれを見上げながら美夏に呟いた。

「……つーかこれ、クリスマスツリーだろ」

 美夏は「ハハハ、そうだね」と笑ったが、その場にいた殆どの者がそう思っていた。しかしポーリーンと百合恵は、違うことを考えていた。

 たった五日前のこと、すぐに切られることを覚悟してポーリーンは国際電話を掛けた。しかし電話に出たのは知らない少女であり、由之真は出かけていた。居ても立っていられなくて、飛行機に乗って日本に着いたはいいが、電車を何本も乗り換えて、やっとのことで由之真の故郷にたどり着いた。突然訪れたら迷惑だろうと思ったけれど、思ったより由之真が優しくて、みんな明るくて親切で、夢中になって楽しんだ三日間だった。そしてそれは百合恵も同じだった。目まぐるしく騒がしい、実に楽しい三日間だった。とにかく百合恵は、忘れ得ぬ体験としてみんなの心に残ればそれでいいと思った。

 お別れ会は四時過ぎに終り、最後に由之真はポーリーンに小さな巾着を渡して、薄く微笑んで言った。

「This is Omamori. See you Pauline. ……Take care.(これは御守り。ポーリーン、またね。……気を付けて)」

 それはあっという間だった。ポーリーンは跪いて御守りを受け取るなり、由之真を抱きしめた。そしてゆらゆらと優しく揺すってから、今度はそのまま立ち上がってぐるりと由之真を振り回し、降ろしてから額にそっとキスして囁いた。

「…Listen, my shiny boy. ……I always come to meet you.……I promise.(聞いて、眩しい子……必ず会いに来るわ……絶対)」

 由之真は苦笑を浮かべながら、優しく答えた。

「Okey, then,… I'm here.(うん、じゃあ…ここにいるよ)」

 そしてそれは、ポーリーンが百合恵の車に乗ろうとして由之真に背を向けた時だった。

(……由ちゃん?)

 人前では滅多にしないが、由之真は照の横で両手を上げ、軽く柏手を打った。

パンッ

「!?」

 音に気付いて振り返ったのは、ポーリーンと百合恵だけだった。ポーリーンはすぐに一昨日の晩と同じように両手を広げ、由之真に向かって微笑みながら手を叩いた。由之真は軽く右手を振り、ポーリーンは元気に腕を振ってから百合恵を見て、不敵な笑みを浮かべた。百合恵は苦笑を返しただけだったが、一昨日ポーリーンが言ったことを由之真がしたということはわかった。それと同時にまた「第六感」という言葉が頭に浮かんだが、今は運転に集中しようと思った。

 斯くして、丸三日間吹き荒れた台風はようやく海の向こうへ過ぎ去った。しかしその爪痕は深く、美夏は水曜日まで自分の席の左隣に机がないことに慣れなかった。路子は自分が名付けたオカメインコの雛の「ピーちゃん」を「サッピーちゃん」と改名した。香苗は時折躓いて転んだりしていたが、ふと思い立ち、「あのさ、みんなでポーリーンに手紙書こうよ!英語でさ!」と言い出した。みんなはそれぞれ一生懸命十行程度の手紙を書いて、それを百合恵に添削してもらった。みんなの手紙に目を通した百合恵は、しかつめらしい顔をして言った。

「……うん、みんな頑張ったわね!……あと、日本語の手紙も添えて送りましょう!そうすればポーリーンも、きっと日本語の勉強になるから」

「おー、そっか!先生冴えてるー!」と香苗は百合恵の機知を褒めたが、実のところその機知は、間違いだらけの英文を校正してみんなのやる気を削ぎたくなかった百合恵の苦肉の策だった。そして週末になる頃には、みんなはすっかり元気を取り戻していた。それはあと一週間で夏休みが始まるので、みんなそれぞれ夏休みの目標や遊ぶ計画を立て始め、否応なしにドキドキしてきたからだった。そして放課後、百合恵が持ってきた市民プールのチラシを見ていた香苗が、ふと路子に尋ねた。

「……ミチ、去年海行ったっけ?あたし行ってないや」

「あー……お婆ちゃん家には行ったけど……あ、忘れてた!」

 今度は路子が思い出して香苗に尋ねた。

「お爺ちゃんがさ、また香苗連れて来いっつってるけど、来るか?」

 香苗は俄に目を輝かせて答えた。

「決まってんじゃんっ!美夏ちゃんは?行くよね?」

 急に問われた美夏は、慌てながらも自分の意思を伝えた。

「えっ?……えっと、行きたい!でも、お母さんに聞いてみるね」

「うん!大丈夫だよね?ミチ」

「あー、全然大丈夫」

 何が大丈夫かはさておき、香苗は突然立ち上がって百合恵の元へ駆け寄った。

「先生!先生も行こうよ!どーせならみんなで行った方がいいよ!」

 もちろん香苗達の会話を聞いてた百合恵は、そういえば久しく海に行っていないとぼんやり考えていたところだった。しかし、よもや自分が誘われるとは思いも寄らずに面食らったが、それでも辛うじて聞いてなかった体を装った。

「……え?どこに?」

「ミチのお爺ちゃん家!海のすぐ近くのおっきな家!」

 路子の実家が海のそばにある大きな家であることは、去年読んだ路子の絵日記で知っていたが、百合恵にはその期待に満ちた瞳の光を今ここで消すことはできなかった。

「えーと……先生は夏休みも学校あるし………まあ、でも……考えてみるわ」

「イエーイ!マジで考えてね!チョーマジで!!」とガッツポーズを取った香苗は、そのまま走って教室から出て行ってしまった。

「ハハハッ!」

 香苗の行方を知っていたみんなはただ笑い合い、百合恵はまさに台風一過で夏本番という気がしてきた。しかしこの時本物の台風が村に近づいていたことを、百合恵は知らなかった。



終わり

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