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とようけ!  作者: SuzuNaru
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第一話 時計台の夢

 それは穏やかな風が心地好い、春の昼下がりだった。妻はミニ耕耘機のエンジンを切り、畑の向こうの桜並木を眺めながら、首に掛けたタオルで額の汗を拭った。一昨日降った雨があんなに冷たくなかったら、今頃あの道……通称「名合なごの道」……の桜は咲いていたかもしれない。でもこの陽気が続くなら、きっと来週の名合の道は壮観に違いないから、今度来る時はお弁当を持ってこよう、と妻が思った時だった。

(……どこの子かしらね?)

 ふと道行く子供の姿が目に入り、妻は小首を傾げた。その子は不釣り合いな大きめのリュックを背負い、グレーの野球帽を深々とかぶり、クリーム色の薄手のパーカーの上にエンジ色のTシャツを重ね着して、少し大きめの色褪せたジーンズをはいてゆったりと歩いてた。この近所で知らない子供はいないはずだが、妻はその子のゆったりとした歩き方に、何処と無く見覚えがあった。

「……ねえ、あんた」

「……ん?」

 夫は草むしりの手を休めて妻の顔を見上げ、妻が指さす方向に目を向けた。しかしあまり子供に興味がない夫は、怪訝な顔をそのまま妻に戻して尋ねた。

「……何だよ?」

「何って……あの子……あっ!」

 妻は俄に何かを思い出し、しきりに手招きしながら言った。

「あれよ!あの子よ!ほらっ!」

「あの子って誰さ?」と夫が聞こうとした時、妻はその子に向かって声を張った。

「由ちゃんっ!」

 その子は立ち止まり、二人の方へ顔を向けた。その女の子のような可愛らしい顔立ちを見た妻は、「ほーらやっぱり!!」と言うなり、今し方自分で耕したばかりの畑を突っ切ってその子の元へ駆け寄った。

「いやいや!おっきくなって!久しぶりだねえ!……いやね、帰ってきたって聞いてはいたんだけどね………おばちゃんのこと、忘れちゃった?」

 その子がきょとんとしているので、一瞬妻はその子が自分を忘れたのかと思った。しかしその子はすぐに微笑んで答えた。

「……覚えてます。お久しぶりです、田辺のおばちゃん」

「うんうん!あー良かった!」

 少し落ち着きのある少年らしい声になっていたが、それは確かに記憶にある優しい声だった。妻は目尻に皺を寄せて、まるで昨日の続きのような言い方で尋ねた。

「フフフ……今日はどこ行くんだい?」

「……学校です。転校の……」と言い掛けて、その子の言葉は「おーい!」という声に遮られた。二人が声の方へ目を向けると、五〇メートルは離れた畑で誰かが激しく手を振っていた。そして妻が、「フフ、村上さんも見っけたか」と嬉しそうに呟いた時、遅れて到着した夫がその子に優しく声を掛けた。

「元気か?……由坊」

「はい、元気です」

「そうか……これ持ってけ」と、夫はその子に白いビニール袋を二袋手渡した。その子が袋を覗くと、蕪が沢山入っていた。

「……ありがとうございます」

 しかし、後で届ける機会を奪われた妻は、眉間にしわを寄せながら夫の善意を非難した。

「由ちゃんこれから学校行くのに、こんなん持たせてどうすんの?後であげればいいのさ!」

 予期せぬ言葉に慌てた夫は、小走りに駆け寄ってくる女性を指さして言った。

「いや、だって……ほら!村上さんだって……」

「……あんたが持ってるの見たから持ってきたんじゃない!」

 そうこうしている内に村上さんが到着し、村上さんは大きく息を吸って一気に捲し立てた。

「やーっぱり由ちゃんだった!ハッハッハ!なんだかそーじゃないかって思ったよ!カッコ良くなっちゃってもう!随分ぶりだねえ!」

 そして村上さんは丸々と太った春キャベツをその子に貢ぎ、その子は少し困ったような笑みを浮かべながら礼を述べた。



 苦笑混じりに首を傾げつつ、その少女は机で日誌を書いている女性に向かって言った。

「ダメでした……なんか、電源切ってるみたいで……」

 おろして間もない濃紺のセーラー服を着た少女は、長い艶やかな二つ結いの黒髪を肩から前に垂らし、前髪はピンで止めて形の良いおでこを出していた。きりっとした眉と大きく精悍な目は少女のたおやかで健全な性格を表していたが、なんと言っても少女の特徴は、その凛とした気品だった。

 しかしそれは普段のことで、今の少女はその気品を引っ込めて、「……そう」とだけ答えた女性に、きまり悪く言い訳するより外はなかった。

「ごめんなさい……たぶん、由ちゃん歩いてんだと思います。今朝バスで来いって言ったんだけど……先生、時間大丈夫ですか?」

 少女から先生と呼ばれた二十代の女性は、毛先が大きくカールした栗色の長髪を幅広の白いヘアバンドで押さえ、大きくて柔和な瞳が印象的な美人だった。女性は軽く首を横に振り、優しそうに微笑んで答えた。

「ううん、謝らなくていいのよ。時間は大丈夫だから気にしないで。今日は私だけだし、土曜で暇だしね……それより何もなきゃ……」

「……?」

 言い掛けて、ふと女性が窓の外に目を向けたので、少女もその視線を追った。

「……もしかして、あの子?」という女性の問いに、少女は力なく答えた。

「そーです……だからバスで来てって言ったのに……」

 二人の視線の先には、両手に白いビニール袋を提げて校庭を歩く子供の姿があった。その子はゆっくり辺りを見渡しながら、ゆったりと校舎に近づいていたが、ふと立ち止まって校舎を見上げた。それに気付いた女性は、少し得意な気持ちになった。それはその子がこの学校の自慢でもある「時計台」を見て驚いていると思ったからだが、女性は二年前にはじめてこの校舎を訪れた時、自分もその子と同じ場所で立ち止まったことを思い出していた。

 この校舎は……菜畑小中学校小学部校舎は、昭和のはじめに建てられた歴史ある木造モルタル二階建ての小学校だった。七回に及ぶ改築によって外観は殆ど変わっていたが、校舎の西側にある緑の方形屋根ほうぎょうやねの可愛らしい時計台は、補修はされたが昔のままの姿を保っていた。もっとも、時計自体は二〇年以上前に機械が壊れ、メンテナンスの容易な太陽電池式の時計にすげ替えられて、中の機械は放置状態となっていた。

「……ったく!早く来たらいいのに!」

「フフ、しょうがないのよ。誰だってはじめてこの学校見たら、あそこで止まっちゃうわ」

 時間を守ることは大切だが、考えてみればその子がこの学校を訪れたのは今日が最初の日だった。

(そうだ……これから由ちゃんと私は、三年も一緒にここに通うんだ……)と思うと少女のイライラは消えたが、しかし保護者代理としてけじめはつけねばならず、少女はその子と女性が対面する前に、廊下で一言言わなねばならぬと決心した。

 そして二人の想像通り、その子は少し嬉しそうに微笑みながら時計台を見上げていた。しかし突然その微笑は消え、その子の顔は人形のような感情のない表情となり、その目は真っ直ぐ時計台の窓を見据えていた。その窓の向こうには、ぼんやりとした灰色の影が浮かんでいて、左右にゆらゆらと揺らめき、その影がゆっくりと手を挙げ、まるでその子に手招きをしているかに見えた。

「………」

 その子は少しの間時計台の窓を見つめていたが、すぐに自分が何をしに来たかを思い出し、校舎へと足を踏み出した。すると一匹のモンシロチョウがその子の前に現れて「こっちです、いらっしゃい」とその子を誘い、その子が正面玄関の前まで来るとモンシロチョウは消えてしまった。

「私言ったよね?バスで来てって……それに何のためのケイタイなのさ?電源入れなきゃ意味無いっていっつも言ってるじゃん」

 少女は早速廊下でその子を叱りつけた。女性はドアの影でそれを黙って聞いていたが、その口元は愉快そうに歪んでいた。本来今日はその子の祖母が来る予定だったが、祖母の都合が悪くなり、急遽少女が保護者代理を務めることになった。しかし少女がその子と共に来られなかったのは、菜畑小中学校が土曜も各週で三時間授業があるからだが、それでも一旦帰る機会があったことが少女の責任感をつついていた。

(やっぱ戻って連れて来ればよかった……)と少女が思った時、ふとその子は少女から目を逸らして囁いた。

「照……まず先生に挨拶したいんだけど、いいかな?」

 少女が……石狩照いしかりてるがムッとしながら振り返ると、苦笑を浮かべた女性がドアにもたれていた。照は思わず愛想笑いを浮かべてからその子に向き直り、盛大な溜息をついて言った。

「はぁ……もーいーよ」

(お!終わったのね)

 ついに訪れた待望の男子とのご対面に、女性は胸を躍らせた。教員となり二年が過ぎたが、女性は未だ一度も男子を教えたことがなかった。それ故春休み前、二こ下の従弟が来ると照から聞いた時、女性は嬉しさのあまり万歳して、春休み中そのことばかり考えていた。更に先日その子の写真を見て、女性は一目でその子を気に入った。それは約三年前の写真だったが、その写真の少年はまるで少女のように愛らしく微笑んでいて、これならクラスのみんなも気に入るだろうと思った。もっとも、女性のクラスは全員が女子で三人しかいない寂しいクラスだったが、それはさておき、女性がまずは自分から自己紹介しようかと思った時だった。

 その子は少しも物怖じせず、女性の前へ歩み出た。そして帽子を脱ぎながら深々と頭を下げ、とても落ち着いた丁寧な口調で言った。

「遅れてすみませんでした。はじめまして、八岐由之真やまたゆうのしんです」

「……」

 女性はすぐに言葉が出てこなかった。その原因は、由之真の印象が女性の想像を遥かに超えていたからだが、何より驚いたのはその瞳だった。それは細くなめらかな弧を描く眉の下に大きく凛と輝き、一遍の曇りもない清澄で理知的な光を湛えていて、女性がいままで見た中で最も綺麗な瞳だった。

 そしてそれはほんの一瞬だったが、女性の表情が少し固まったことに気付いた照は、由之真の肩を指でつつきながら悪戯っぽく言った。

「由ちゃん、睨んじゃダメだよ」

「……睨んでないけど」と答えた由之真のきょとんとした顔を見て、呪縛が解かれ、女性は軽く息を吐いてからにこやかに言った。

「フフ……凄く真剣な顔するから、ちょっと緊張しちゃったわ」

 そして女性は微笑みながら右手を差し出し、朗らかに言った。

「はじめまして八岐くん!菜畑小中学校小学部へようこそ!……私は八岐くんの担任の、櫛田百合恵くしだゆりえです!これから二年間よろしくね!」

「よろしくお願いします」と由之真がその手を握ると、百合恵は射竦められた仕返しとばかりに力を込めて握りかえした。そして手を離し、満足そうな笑みを照に向けて言った。

「それじゃあ、早速始めましょう!」



 由之真の転入手続きは照が済ませていたので、本来由之真は月曜から登校する予定だった。にも関わらず百合恵が由之真を呼び出したのは、帰国子女である由之真の就学履歴を直接本人に再確認するよう校長から依頼されていたからだが、真の理由は他にあった。

 二人を応接室へ通した百合恵は、由之真に二枚のプリントと赤鉛筆を渡して言った。

「八岐くん。これを読んで、間違いがあったら赤線を引いてください」

「はい」

 そして今度は照に尋ねた。

「照ちゃん、柏葉先生からいただいた栗羊羹あるんだけど、食べる?」

「えーと……はい、いただきます」

「じゃあ切ってくるから、ちょっと待ってて!」と百合恵は職員室へ向かった。

 実のところ、就学履歴の再確認と言っても、校長から渡された書類を由之真に確認してもらうだけだった。しかも校長からは「いつでもよい」と言われていたので、今日である必要はなく、呼び出した真の理由は転入前に一度会って話しがしたかったという、百合恵の個人的な都合だった。そして照はそれに薄々気付いていたが、これから二年も由之真を預けることになるので、顔見知りだが交流は無かった百合恵と懇意になる良い機会だと考えていた。

「由ちゃん、柏葉先生ってね、ずっと私の先生だったんだよ。先週温泉旅行に行ったって聞いたから、きっとそのお土産だと思う」

「……うん」

 そしてそれは、右の席でにこやかに話す照に、由之真が微笑み返した時だった。ふと左から吹いた冷たい風が、由之真の左肩にそっと触れた。由之真は照の顔から書類へ目を戻したが、そのまま照がこの異変に気付かないことを確かめた後、開け放しになっている廊下側のドアへそっと目を向けた。

 廊下には土気色の肌をした一人の若い女性が立っていた。女性の肌や目鼻はぼやけていたが、衣類は割合鮮明に見えた。女性は頭に豆絞りの手ぬぐいをかぶり、着ている服は濃い灰色の半纏のような着物で、履いているのは赤と白のかすり模様の、足首の見える紺色の短いズボンだった。由之真はそれが「もんぺ」という昔の女性の作業ズボンであることを、本で見て知っていた。

「………」

 由之真がその女性のぼやけた目を見つめると、女性は歩かずに左側へゆっくり移動して、由之真の視界から消えた。

「……照」

「なあに?」

 由之真は照を見て、もう一度ドアの方を見ながら尋ねた。

「……トイレどこかな?」

「ああ、そのドア出てずっと左。保健室の向かい側だよ」

 由之真は立ち上がり、ドアを出て左を見た。すると三〇メートル程先の突き当たりに、まるで陽炎のように揺らめき立つ人影が見えた。

「……」

 由之真はその人影に向かって歩き出した。



 廊下の突き当たりは図書室のドアで、その向こうでは一人の少女が熱心に本を読んでいた。その少女は、頬と同じ色の淡いピンクのトレーナーを着て、白い細い襞飾りが付いたエンジ色の膝丈スカートに紺のハイソックスを履き、降ろせば胸まである長く細い柔らかそうな髪を耳の後ろでお下げにして、前髪は少し愉快そうな光りを湛えた大きな瞳の上で揃えていた。そして少女は薄く眉間に皺を寄せ、桃色の唇を歪めながら首を傾げた。

(……保険の保に似てるよね……ほぜん?)

 少女はノートに「呆然」と書いてから、また夢中になって続きを読んだ。少女は既に一時間あまり、その本の読めない漢字やわからない言葉をノートに書き写していたが、その本は先週五年生になったばかりの少女には少々難解であり、それはとても骨が折れる作業だった。しかし、この行為がなんだか大人っぽいと思っていた少女は、自分がどんどん大人になって行くような気がして、それが嬉しくてこの面倒な作業を楽しんでいた。

(こはく色って……黄色っぽい色だよね)

 所々ルビは振ってあるが、読み方はわかっても意味がわからないことも多く、少女がそれもノートに書き写していた時だった。

ガラガラッ!

「ふわっ!?」

 突然勢いよく目の前のドアが開き、少女は驚きの声を上げた。そして口をぽかんと開けたまま固まってしまったが、それは無理からぬことだった。少女はこの学校の全児童の顔を知っていたが、目の前にいる子は見たことが無く、それはまるで知らない子が突然自分の家に入ってきたようものだった。しかしその子が少女から目を逸らし、ゆっくり図書室を見渡した時、少女はふと我に返った。そしてすぐに持ち前の旺盛な好奇心が、少女の心を支配した。

(……男子だよね?……誰だろ?……あんた誰さ!?)と少女が心で叫んだ時、その子は少女に目を戻して微笑んだ。

(!)

 その途端、少女の心臓は早鐘を打ち、少女は自分の顔が耳まで赤く染まったことには気付かず、相変わらず口を開けてその子を凝視していた。するとその子はちらと少女の手元の本を見てから、静かに言った。そしてそれは、紛れもない少年の声だった。

「……こんにちは」

(やっぱり男子だ!)と思いつつ、少女は慌てて答えてしまった。

「こっ、こんにちはっ!」

 その声は思いの外大きく、一人しかいないのに図書室のルールを思い出した少女は、慌てて口に手を当てた。しかし少年は気にする様子もなく、少女から見て左側を見ながらゆっくりドアを閉めた。

「……」

 少女は唖然としながらも、くもりガラス越しに少年が右の奥を見ているのがわかったが、その方向には突当たりに窓があるだけだった。

「!」

 少年が突当たりへ向かったので、きっと窓から外を眺めるのだろうと思ったが、少女は突当たりの右に時計台へ入るドアがあることを思い出した。しかしドアには「立入禁止たちいりきんし」という振り仮名付きの紙が貼ってあるし、そもそも鍵が掛かっているし、どうせすぐに戻ってくるだろうと本に目を戻した時だった。

ガチャガチャ

「!?」

 微かな音だったが、少女は咄嗟に立ち上がり、急いでドアを開けて左を見た。

「……あっ!ちょっと!」

 そこには鍵が掛かっているはずのドアを開け、中を覗いている少年がいた。少女は慌てて駆け寄って説明した。

「こ、ここは立入り禁止だよ!ドアに書いてあるじゃん!」

 言ったそばから少女は少し強く言い過ぎたかと思ったが、少年は階段の暗い奥を見上げながら静かに尋ねた。

「……うん。でも、この上に何があるの?」

「え?……時計台の機械の部屋があるって、先生が……!」

 つい答えてしまったが、すぐに少女は後悔した。それは余所者に教えて良いか検討しなかったからだが、そんな些細な後悔は次の少年の言葉によって霧散した。

「……入ったことないの?」

 少年は普通に尋ねただけだが、少女にはそう聞こえなかった。その言い方はまるで、「何年もここにいるのに、こんな面白そうな部屋に入ったことがないなんて、信じられない」と言っているように聞こえ、少女は少し不満げな声で答えた。

「……ないよ。立入り禁止だし……ずっと鍵が掛かってたもん……」

 すると少年は少し不満の混じった少女の大きな瞳から目を逸らし、階段の上を見上げ、もう一度少女の目を見て言った。

「……入ってみない?」

「えっ!?」

 その愉快そうな口元から出た言葉は、少女の耳に、まるで大冒険への誘いに聞こえた。もちろんすぐにダメだ言おうとしたが、すぐには言えなかった。何故なら少女はずっと以前から、時計台の機械の部屋へ入ってみたいと思っていたからだが、そう簡単に前言を撤回するわけにもいかず、少女はしどろもどろに答えた。

「……だ、ダメだよ。……だって、立入り禁止なんだから……」

「じゃあ、俺だけ」と言ってにやっと笑い、少女の葛藤など我関せずとばかりに、少年は躊躇無くドアの中へ足を踏み入れた。

「あっ、ダメだってば!」

 少女は咄嗟に少年の服を掴もうと手を伸ばしたが、すぐにその手を引っ込めた。それでも見過ごすことはできないので、しかたなく中へ入ってドアを閉めながら言った。

「……叱られても知んないからね!」



「お待たせー………八岐くんは?」

 栗羊羹を切ってお茶を入れ、意気揚々と応接室へ戻った百合恵は、お盆をテーブルに置きながら照に尋ねた。ソファーにあった広報誌を読んでいた照はハッと顔を上げ、由之真が出て行ったドアを見つめてから答えた。

「………さっきトイレに行ったんですけど……もしかして、やられたかも」

「……やられたって?」

「すみません!ちょっと見てきます!」と照は廊下に飛び出したが、すぐに一人で戻ってきて、百合恵が少し気に毒になるくらい気落ちした顔で報告した。

「いませんでした。ったく……ちょっと目を離すとこれだ……」

「……どこ行ったのかしら?」

 照は諦めたような苦笑を浮かべて答えた。

「わかんないけど……でも必ず戻ってきます……由ちゃんはすっぽかしたりしないから」

 百合恵は指で自分の顎を触り、一旦視線を逸らしてから言った。

「……じゃあ、探しましょうか」

「あー、必ず戻ってきますから、こーなったらもう、待ってた方がいいと思います。それに戻ってきて誰もいなかったら、すぐまたどっか行っちゃうと思うし……」

「……そう」

 何故か「こーなったらもう」と言う照の言葉に説得力を感じた百合恵は、この校舎は迷うような場所ではないし、実は照とも親しくなりたかったこともあり、とりあえず照の言葉を信じることにした。

「じゃあ、栗羊羹食べよっか!」

「はい!」

 百合恵は照にお茶を差し出しながら、早速自分と照の共通点から切り出した。

「そう言えば照ちゃん、剣道部に入ったのよね?顧問の仲村先生ね、私と同期なのよ」

「あ、そうなんですか!」



 大人一人がやっと通れる薄暗い急な階段は、年度末に清掃済みで埃っぽくはなかったが、いかにも古めかしい臭いが立ち込めていた。少年は何も言わず、しっかりとした足取りで階段を上がり、少女は結局少年の背中を追い、少し口を尖らせながらも心にはわくわくしたものが広がりはじめていた。そして少女が少年に名前を尋ねようかと思った時、急に視界が明るくなって、ついに念願の機械室にたどり着いた。

「……へぇー!……こうなってたんだ!」と思ったことを口に出してしまい、少女は慌ててちらと少年を見た。しかし少年は気にせず天井を見上げていて、少女はほっと息を洩らし、すぐに大きな瞳をくるくる光らせ、ちょろちょろと部屋の中を探索した。

 その部屋は八畳程の広さで、高い天井の約半分が吹抜けになっているL字の部屋だった。校庭側の三本の梁の上に何枚かの分厚い杉板が張ってあり、更にその上にもう一階ある三層構造で、二人が上がった部屋を一階とするならば、時計台の機械部分は二階にあった。二人は早速梯子を登り、少女は機械に被せてあった木綿の布を捲って感嘆の声をあげた。

「おー!これ時計の機械だよね!」

「……うん」

 少年が壁の棚を見ているので、少女もつられてそちらを見た。しかし棚には何も無く、少女はすぐに機械へ目を戻した。下の大きな歯車はかなり錆びていたが、上の方にある小さな歯車は、くすんではいても錆びはなく、少女はその黄金色の歯車が綺麗だと思った。特に機械が好きというわけではないが、少女は何故かその綺麗な歯車がとても気に入り、もしこの機械が捨てられる時は是非この歯車だけでも欲しいと思った。

「……」

 ふと少女は上を見上げて、それから横目で少年を見た。実は最上階へ行ってみたいと思ったが、少女はスカートをはいていて、梯子を上がる時は少年の後ろを、降りる時は少年の前でなければならなかった。しかし少女はちらりと見える鐘がどうしても間近で見たくて、思い切って少年に尋ねた。

「……上は行かないの?」

 少年は少女の問いに無言で答え、すぐに梯子を登ってくれた。

「ほー!」

 最上階には、大きさの違う青銅製の鐘が二つ吊してあった。錆びはないが埃が積もっていて、少女がふっと息を吹きかけると白い埃が舞い上がり、二人は少し咳き込んだ。鐘の周りには洋風で優雅な波形模様があり、右の鐘には「昭和三十二年寄贈 石狩籐七郎」と彫ってあった。少年はそれが自分と照の曾祖父であることを知っていたが、それを少女には言わなかった。

 少女が右の鐘を指で小突くと、カンカンと可愛い音がした。左の鐘を小突くと、コンコンと違う音がした。少女は愉快そうに、カンコンカンコンと交互に叩いた。本当は鐘の横にある金鎚で叩いてみたかったが、金槌は下の機械と連結していてびくともしないし、もし外れたとしても鐘を叩いたら先生に見つかるので、少女が諦めて梯子を降りようとした時だった。

「っ!」

 不意に、ぞっとするほど冷たい風が少女の足に触れた。その風は窓や上の格子から吹き込んだ風ではなく、明らかに部屋の中から吹いてきたので、少女は立ち止まり、思わず後ろの少年の顔を見た。少女の目に微かな怯えを見た少年は、静かに尋ねた。

「どうしたの?」

「……う、ううん」

 少女は何故か一刻も早くこの部屋から出たいと思い、急いで梯子を降りた。しかしあと二段で床に着くという時、さっきより冷たく強い風が吹き上げ、少女の薄手のスカートをふわりと浮かせた。

「!!」

 咄嗟にスカートを押さえようとした少女が、梯子から左手を放した時、体重を掛けていた左足が滑った。次の瞬間腕を伸ばしきって掴んでいた梯子が右手から滑り、右足は梯子に残ったが膝を曲げていたので、少女の重心は一気に後ろへ移動した。

「ほあっ!?」

 床は近いと思い、少女は奇妙な悲鳴をあげながらも必死に左足を開いて二階の床に足を着いた。しかし身体の勢いを殺すことができず、少女はそのまま二歩進んだが、残念ながら三歩目の床はなかった。

「ひっ!?」

 一階の床が見えた瞬間、少女は斜めになりながらも全力でその現実を否定し、その努力は報われ少女の意識は消えた。しかし心で否定できても身体は否定できず、少女は一階に落ちた。しかし、一人では落ちなかった。

 少女の手が梯子から離れた時、既に少年は少女の頭目がけて飛び降りていた。少女がそのまま二階の床に倒れた場合は避ければよいが、少女が足を着いた場合は勢い余って二階には留まれないと考え、少年は少女を救うために自分も一階へ落ちることを選んだ。

 少女が三歩目に入る前に、少年の左手は運良く少女の右手を掴んだ。咄嗟に少年はその手を引いて、前傾姿勢だった少女の身体を起きあがらせ、そして少女の足が二階の床から離れるより先に、少年は床を蹴った。

 少女と少年の距離が無くなり、少女の身体が少年に対して仰向けになった時、幸運にも少女の足が揃っていたので、少年はすかさず右腕でその膝を抱え込み、掴んでいる少女の右手を引き上げた。そしてその手を放し、自分の左腕を少女の背中に滑り込ませ、着地によって曲る自分の膝から少女の背中を守るために、着地と同時に渾身の力で少女を抱え上げた。

ダーーンッ!

 大きな音と振動が機械室に轟き、部屋全体がぎしぎしと揺れ、埃がパラパラと振った。幸いなことに少女の背中は守られ、少年の足首と膝も無傷だった。少年はすぐに少女を床に降ろして注意深く顔を覗き込んだが、少女は気を失っているだけだった。

「……ふうっ」

 少年は額の汗を袖で拭いながら大きく息を吐き、そしてすぐに後ろを振り返った。

「………」

 そこには少年が廊下で見た、土気色の肌をした女性が立っていた。



 最後の一切れを口に入れようとしていた百合恵は、そのまま照を見て呟いた。

「何か……倒れたような音だったわね……」

 照は何かが落ちた音に聞こえたが、とりあえず頷きながら答えた。

「……はい」

「……香苗ちゃんがまだ図書室にいるはずけど、二階から聞こえたような気もするし……やっぱり探しに行きましょうか」

 おそらく香苗が二階で何か落としたのだろうが、百合恵の不安そうな目を見た照は百合恵に従うことにした。

「……そうですね」

「じゃあ、私は校舎を見るから……照ちゃんは体育館行って、鍵が掛かっているかどうかだけ見てきて。……とりあえず図書室で落ち合いましょう!」

「はい!」



 少年は静かに立ち上がり、女性のぼやけた目を真っ直ぐ見据えた。そしてさっと両腕を広げ、柏手を打った。

パンッ!

 その瞬間暖かい微風が吹き、女性は壁まで吹き飛ばされた。少年がもう一度両腕を広げると、女性が手で顔を覆ったので、少年はゆっくりと両腕を降ろした。そして少年は、静かではあるが厳とした声で言った。

「……二度としないで」

 女性は顔から手を下ろし、ふるふると首を横に振った。少年は少し考えて、今度は幾分柔らかな声で言った。

「……この子が邪魔だからって、あんなことしたっていいこと一つもない。……誰にも」

 すると女性はうなだれて、ゆっくりと床に沈み始めた。少年はやれやれとばかり吐息をついて尋ねた。

「何して欲しいの?」

 女性は床に沈むのを止めて、一時少年を見つめてからゆらゆらと浮き上がり、そのまま天井に消えた。少年が二階へ上がると、女性は少年が最初に二階で見た時と同じように、壁の棚を見つめていた。

「……」

 棚には最初から何も無かったが、もう一度見てもやはり何も無かった。しかしふと思いつき、棚の下を覗くと、棚の裏に二センチ程の隙間があり、そこにはマッチ箱程度の小さな桐の箱と三つ折りの古い紙があった。箱を棚に置いてまずその紙を開くと、それは鉛筆で書かれた短い手紙だった。

 少年はその手紙を女性に見せたが、女性が首を横に振ったので、手紙を棚に置いて箱を取った。しかし女性はまた首を振り、少年は少し考えてもう一度手紙を取った。すると今度は頷いたので、少年は女性が最初に首を振った理由に気付いた。

「……読めばいいの?」

 女性は頷き、少年は一度手紙に目を通してから静かに読んだ。

「急啓、タヱ殿へ……現在午後二時、小生は三時の汽車にて出立します。……事情により、今出ねばならず、貴女を待てぬことを御容赦願います。……小生は、帰ってまいります。どうかそれまでお健やかに。……七月六日、機械室にて勇二郎より、早々……」

 少年は手紙をたたみ、桐の箱を開けた。箱には銀色の指輪が入っていて、指輪の内側には「pt Y & T」という文字が刻まれていた。少年が箱を棚に置いても女性は指輪を見ようともせず、項垂れて、顔を手で覆っていた。

「……」

 少年は女性を見つめ、一度横を見てから今度は自分の腕時計を見て、そして左手を前に差し出して言った。

「これ見て……今二時半だけど、三時の汽車なら、急げば間に合うと思う」

 女性は顔を上げて、食い入るように腕時計を見つめた。次の瞬間、ゴオッ!という旋風が少年の髪を踊らせ、風はすぐにおさまったが、女性は消えていた。

「……」

 少年は床に舞い落ちた手紙を拾い、箱をジーンズのバックポケットに入れて一階へ降りた。



 読み掛けの本はそのままにして、百合恵はノートを閉じながら言った。

「きっと……香苗ちゃんと一緒ね」

 照は吐息をついて俯いたが、すぐにすまなそうな顔を上げて言った。

「……ごめんなさい先生。……でも、何かちゃんと理由があると思います……」

 百合恵は親しげに照の目を見て答えた。

「そんな顔しないで、大丈夫よ!だって、必ず帰ってくるんでしょう?」

「はい、必ず帰ってきます」

「だったら、そんなに……」

 言葉の途中で百合恵が天井を見上げたので、照もつられて天井を見た。

「………」

 そのまま二人が耳をすましていると、微かに何か物音が聞こえた。その瞬間百合恵が手を叩きながら朗らかに言った。

「わかったわ!二人とも時計台の機械室に行ったのよ!」

「あー!」

 二人はすぐに機械室のドアへ行ってドアノブを捻ったが、ドアは開かなかった。しかし百合恵は二人が機械室へ上ったと確信していた。

「きっと内側から鍵を掛けたのね!待ってて、鍵を持ってくるから!」と百合恵は職員室へ向かって走り出した。照は腕を組み、眉間に皺を寄せて天井を見上げたが、その口元は愉快そうに歪んでいた。



「みかどさん……みかどさん……」

「……ん?」

 少女はゆっくり目を開き、優しげに自分の名前を呼ぶ者を見た。

「……あっ!」と、いきなり少女が飛び起きたので、片膝を着いていた少年は身を退きながら尋ねた。

「大丈夫?」

「………はれ?……あ、あたし……」

 少女は怪訝そうに二階を見上げ、目をぱちくりさせながら少年に言った。

「あたし……落っこちたって……思ったけど……」

 少年は微笑んで、朗らかに請け合った。

「うん、落ちたよ」

「………」

 その言葉が信じられない少女は、自分の腕や足を見たり、力を入れてみたりした。しかし見た限り傷一つ無く、どこも痛くないので、少女は狐につままれたような顔を少年に向けて呟いた。

「……だって……」

 少年は立ち上がり、愉快そうに微笑んで言った。

「もう降りよう」

「……うん」

 理由はわからずとも、とにかく無事だったことを受け入れようと思ったが、ふと少女は自分が名前を呼ばれたことを思い出した。そして、(……なんで知ってんの?)と思いつつ、とりあえず少女は立ち上がろうと、無意識に自分の傍に立っていた棒を握って力を掛けた。

ガゴッ!

「ふわっ!?」

 棒は少女に向かって勢いよく倒れて、少女は床に尻餅をついた。そして一拍おいて、ガギンッ!という大きな音が頭上で響き、少女が思わず頭を手で覆うと、ガリガリガリッという耳障りな音が機械室に響き渡った。

「な、なに?なに!?」

 自分が何かしたと思った少女は、慌てて立ち上がり傍らに立っている少年に近寄った。

ジャララララッ!

「ひゃあっ!?」

 突然柱の横に垂れていた二本の鎖がうねり出し、少女は悲鳴を上げて少年の腕にしがみついた。うねりはすぐに止まったが、今度は二階からギリギリギリッという奇怪な音が響き、そしてその音が止んだ直後……。

カーーーン!コーーーン!

「!!」

 それは百合恵がドアノブに鍵を差し込んだ瞬間だった。突然の響きに仰天した百合恵と照は、口をぽかんと開けて天井を見上げた。

カーーーン!コーーーン!

「………」

 少年と少女は共に天井の鐘を見つめていたが、少女が唖然としているのに対して、少年は目を細めて嬉しそうに微笑んでいた。

カーーーン!コーーーン!

「………」

 少年と同じように田辺のおばちゃんも目を細め、その美しい鐘の音にうっとりと耳を傾け、音が途絶えてから夫を見て言った。

「……懐かしい音だねえ、あんた」

「……ああ」と、夫は学校の方から目を離さずに答えた。しかしふと何かを思いつき、愉快そうな目を妻に向けて言った。

「なあ……由坊がなんかやったんじゃないか?」

「あ!……フフフ!そうかもねえ!あんなおとなしそうな顔して、あの子はやんちゃだったから!」

「ああ、悪戯小僧だった!……ハッハッ!」と嬉しそうに請け合って、夫は学校の方へ目を戻した。妻の目に村上さんの姿が入ったが、村上さんも同じように学校の方を眺めていた。おそらくはその時、その近辺にいた全ての人間が学校の方を見ているに違いない、と田辺のおばちゃんは思った。

 百合恵はドアを開けずに、鍵をポケットにしまいながら笑って言った。

「フフ……やってくれるわね……フフフッ!」

 照は保護者代理として、まずは盛大な溜息をついてから謝罪した。

「……すみません……時々やっちゃうんです」

 そして一度天井を見上げてから百合恵に向き直り、今度は石狩照として言った。

「きっとこれから先生、大変かもしんないけど……由ちゃんをお願いします」

 百合恵は満面の笑みを浮かべ、軽く自分の胸を叩いて請け負った。

「ええ!望むところよ!フフフッ!」



「……どうしたの?」

 少女が俯いたまま階段を降りようとしないので、少年は少女に問いかけた。しかし少女が答えないので、少年は少し考えてから提案した。

「……全部俺のせいにすればいいよ」

「!」

 しかし少女は少年を睨めつけ、猛然と言い放った。

「そんなのナシ!あたしがやったんだから!」

 少年は少し驚いた顔をして、僅かに微笑んで言った。

「じゃあ、二人のせいにしよう。誘ったのは俺だし」

 今度の提案は少女の性格に適っていたので、少女は頬を染めながら渋々頷いた。

「……うん」

 少女は階段を降りながら、こんな悪戯をしでかしたのだから、きっと校長先生や親にもひどく叱られるだろうと思ったが、後ろの少年も一緒だと思うと少しは不安が和らいだ。しかしドアを開け、少女の瞳に百合恵の顔が映った時、少女は再び怯えてしまった。

 百合恵は腰に手を当て、できるだけしかつめらしい顔で由之真と少女を交互に見てから、できるだけ重々しく言った。

「……さて、まずは香苗ちゃん……」

 少女は……御門香苗みかどかなえは、消え入りそうな声で答えた。

「……はい……」

 元より注意はしてもこの程度のことで叱るつもりなどなかった百合恵は、その心細い声に胸が疼き、同時に吹き出しそうになるのをぐっと堪え、今度は幾分柔らかく言った。

「……一年生の時、機械室は入っちゃダメだって言われなかった?」

「……言われました……ごめんなさい……」

 しかし百合恵の忍耐力もそこで力尽き、百合恵は右手の小指を立てて愉快そうに言った。

「じゃあ香苗ちゃん、その先生はもうお辞めになったし、先生と改めて約束しましょう!」

「はい………へ?」ときょとんとした香苗がおかしくて、百合恵はついに笑ってしまった。

「フフフッ!……先生と香苗ちゃんのお約束、その一六!先生の許可無く、機械室には入らないこと!いい?」

 てっきりあれやこれや尋問されると思い込んでいた香苗は、そう簡単に百合恵の笑みを信じられず、恐る恐る尋ねた。

「……そんだけ?」

「ええ、そうよ?」

「……お母さんや……校長先生に言わないの?」

 百合恵は一瞬目を丸くして、それから必死で笑いを噛み殺した。それがなんであれ、少女の真剣な心配事を笑って茶化してはならないことを、百合恵は十分心得ていた。

「もちろん言わないわ。言わなくても耳に入るかもしれないけど、消防団のやぐらに登って半鐘を鳴らしたわけじゃないし、心配しなくても大丈夫よ!いざとなったら先生が味方するわ!」

 その尤もらしく聞こえる説明と助勢に満足した香苗は、忽ち元気を取り戻し、嬉しそうに少年を見てから百合恵の小指に自分の小指を絡ませた。

「せーのっ、オヤクソクッ!」

 照と由之真は苦笑しながらそれを見ていたが、百合恵はすぐにまたしかつめらしい顔を由之真に向け、これまた重々しく言った。

「さて、次は八岐くんね……」

 すると由之真も、負けず劣らず真面目な顔を百合恵に向けて答えた。

「はい」

 百合恵は今度は人さし指を顔の前で真っ直ぐ伸ばして言った。それは大切なことを話す時の、百合恵の癖だった。

「八岐くんは……今日会ったばっかりだから、お説教は無しだけど………」

(ヤマタって言うんだ……)と香苗は思った。

「次からは、そうはいかないからね!」

(次って……この子……)と香苗は思ったが、そんな香苗の考えを余所に、由之真はこれ以上ないほど慇懃に深々と頭を下げて謝罪した。

「ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「!」

 由之真が少しでも怯むことを期待していたが、この態度を本気にした百合恵は慌ててしまった。

「いや、だから、今日はいいのよ!そんな迷惑じゃなかったし……次からね!」

(やっぱり……)と香苗の胸は高鳴りだしたが、照は慌てる百合恵を横目で見つつ、(あーあ、早速由ちゃんに騙されてる)と思っていた。

「とにかく八岐くん、……確認の続きしましょう!」と百合恵が歩き出したので、照と由之真も歩き出した。しかしすぐに百合恵は立ち止まり、立ち尽くしている香苗に声を掛けた。

「香苗ちゃん、もう帰る?」

 香苗は少しどぎまぎしながら答えた。

「あっと……もう少し……います」

「じゃあ、図書室の鍵は、先生に直接返してね」

 するとその時少年が振り返り、香苗は何故か元気よく答えた。

「はい!」



「……ふうっ……」

 図書室に戻った香苗は、机に突っ伏して考えてみた。時間にすればたった二〇分ほど機械の部屋へ行っただけなのに、なんと凄い大冒険だったか……少なくとも香苗にとっては大冒険だった……しかも殆ど叱られずに済んだので、香苗は何かとても得をした気分だった。そしてあのヤマタという子はきっと転校生だろうと思うと、また胸が高鳴りだした。

 入学した時の香苗には同級生が七人いたが、三年生の終わりまで五人が転校して、香苗は両親から転校してもよいと言われていた。しかし香苗は、このおんぼろ校舎を自分の家のように思っていたし、転校したらすぐ隣の中学部へ通えなくなるし、そうなると学校で飼っている動物達や、もちろん先生とも別れなければならず、そんなことは到底許せなかった。

 だから四年生になってすぐに女子が転校してきた時は、百合恵と一緒に万歳するほど嬉しかった。そして五年生になって間もない今日、まだそうとはっきり決まったわけではないが、もしかしたら同級生がまた一人増えると思っただけでも目眩がするほど嬉しかった。

「……カンペキじゃん」と呟きながら、香苗はぱっと身を起こし、窓際へ行って桜の木に囲まれた小さな校庭を見渡した。

(……まだいるかな?……こっそり行って……ううん、そうだ!)

 何かを閃いた香苗は、バッグから携帯電話を取り出した。しかし少し考えてから、携帯電話をバッグへ戻し、そして椅子に座って本を開いたが、足をぶらぶらさせつつ、なにやらにやにやし始めた。



「じゃあ……二番目と三番目に転校した順番が逆なのね?」

「はい」

 百合恵はプリントをクリアファイルにしまい、照と由之真に微笑んで言った。

「はい、お終い!二人ともご苦労様でした!」

 三人は立ち上がり、百合恵は職員室へ行きかけながら、ふと入り口に置いてある白いビニール袋を見て尋ねた。

「ああ……それどうしよっか?もう少し待ってくれたら、車で送るけど」

 照はちらと由之真を見てから答えた。

「……大丈夫です。二人で持って帰ります」

「でも、ちょっと大変じゃない?」

「あ」と小さな声を上げて、由之真は一番大きなビニール袋を百合恵に差し出して言った。

「これは……吉村さんが先生にって」

「え……吉村さんって?」と百合恵が怪訝そうにその袋を覗くと、春キャベツ二個と菜の花と、蕪とアスパラガスが入っていた。照は苦笑しながら百合恵の疑問に答えた。

「吉村のおばさん、先生のこと知らないと思うけど、たぶん由ちゃんがお世話になるからってことですよ」

「……そうなの?……でも、こういうの頂いちゃいけない決りなのよ」

「そうなんですか?……じゃあもし由ちゃんがロールキャベツ作って持ってきても、先生食べないんですか?仲村先生いっつも、私が作ったおにぎり食べるけど……」

 照の言葉をたとえとして受けた百合恵は、エプロン姿でロールキャベツを作る由之真を想像し、その想像が後に現実となるなど夢にも思わず苦笑して答えた。

「うーん……厳密には食べちゃいけないんだけど、もしホントに作ってきてくれたら、喜んで食べるわ」

「じゃあ、貰ってもいいんじゃないですか?近所の人のお裾分けですよ」

 原則として公務員と保護者の贈答は禁じられているが、吉村さんは由之真の保護者ではないし、お中元やお歳暮でもないし、これは最近料理をしない自分に対する何かの啓示かもしれないと、百合恵は自分を納得させた。

「……じゃあ素直にいただくわ。それじゃあ、気をつけて」

「はい。じゃあ失礼します。さようなら」

「はい、さようなら!」

 百合恵が正面玄関で二人を見送っていると、二人は校庭で一度立ち止り、時計台を見上げてから校門の向こうへ消えた。百合恵が職員室に戻ると、鍵を持ってきた香苗が百合恵に尋ねた。

「先生……あ、あの子、名前なんていうの?」

 百合恵は一瞬目を丸くしてから、逆に尋ねた。

「……知らないで一緒に遊んでたの?」

 香苗は頭を掻きつつ、はにかみながら答えた

「え?……まあ、うん……」

 実のところ、百合恵は由之真の転入を秘密にしておいて、みんなをあっと驚かす小さな企みを練っていたので、お喋りな香苗に知られたことを残念に思いつつも、早速香苗を企みに巻き込もうと思っていた。しかし名前さえ聞いていないならば話しは別であり、香苗が何も知らないと踏んだ百合恵は、からかうような目つきで探りを入れた。

「……ホントのホントに知らないの?」

「うん、ホントのホント!」

 百合恵は一拍おいてから、肝心なことは抜かして教えた。

「八岐くんはね、照ちゃんの従弟で、名前は八岐由之真っていうのよ」

「えっ!?……照ちゃんのいとこなんだ……へー!」

 照に従弟がいてもおかしくないが、四年間も姉のような存在だった親しい照から一度も聞いたことがなかったので、香苗は素直に驚いた。次に香苗は「転校生?」と尋ねようと思ったが、何故かそれは後回しにして違うことを尋ねた。

「……何年生?」

 百合恵は口元をにやりと歪ませ、本当は「気になる?」とからかいたかったが、他の言い方を選んだ。

「香苗ちゃんと同い年だから、香苗ちゃんと同じだと思うけど」

「……ふーん……」と香苗は普通に答えたつもりだったが、百合恵は香苗の表情の変化を見逃さなかった。

 百合恵の誘導的な言葉にまんまと乗せられた香苗は、ここに来て自分の確信に自信を失いかけていた。ただ一言「転校生?」と尋ねれば済むのだが、「違う」と言われて落胆するのは嫌なので、香苗はどうしてもその一言が言えなかった。しかし、香苗の反応を十分楽しんだ百合恵は、ついに香苗を企みに巻き込むことにした。

「……ねえ香苗ちゃん。内緒にできるなら、教えてあげるけど……」

「なに?……あたし、絶対誰にも言いません!」

 突然敬語に変わったのがおかしくて、百合恵は吹き出すのを堪えながら重々しく囁いた。

「八岐くんはね……明後日からこの学校に通うのよ」

「やっぱり!絶対そーだと思った!」

「シーッ!」

「!」

 今この校舎にいるのは香苗と百合恵だけだが、香苗は慌てて自分の口を両手で塞いだ。そして百合恵は愉快そうな目をしながら、ついに企みを打ち明けた。

「ねえ……みんなの驚く顔、見たくない?」

 香苗は目を輝かせて、何度も頷きながら囁いた。

「うん!うん!見るっ!」



 この時間の名合の道は、山から吹き下ろす風で少し肌寒かった。二人はそれぞれ景色を眺めながら、殆ど会話もせずに春の中をゆっくり歩いていた。照はふと立ち止まり、鞄から山吹色のカーディガンを取り出して由之真に差し出した。

「……着る?」

「ううん、大丈夫」

 照はそのカーディガンに袖を通しながら尋ねた。

「由ちゃん……鐘は見た?」

「……うん、見たよ」

「そっか。あの鐘ね、曾お爺ちゃんが寄贈したんだよ」

 由之真は微笑んで答えた。

「うん。そう書いてあったよ」

「あ、やっぱり読んだんだ!私もね、卒業する前に機械室にこっそり入ったんだよ。私はバレなかったけどね!フフフ」

 照は嬉しそうに微笑みながら続けた。

「でも由ちゃんの方が凄いよ!……だって鳴らしちゃうんだもん。フフフフッ!……先生も私もびっくりしてさあ……でも、そう言えばどうやって鳴らしたの?壊れてんのに……」

「……鳴らしたのは俺じゃないけど……一階にレバーがあって……たぶん鐘だけ鳴らすレバーで、壊れてなかったんだと思う」

 そういう装置があっても不思議ではないが、照は機械室の様子を思い出しながら言った。

「……ふーん、そんなのあったんだ」

「うん。壁際だから……」と言い掛けて由之真は立ち止り、照も足を止めた。由之真はジーンズのポケットから小さな木の箱と紙を出した。

「……なにそれ?」

「二階の棚の裏に置いてあった」

「……機械室の?……持って来たらダメじゃん」

 由之真は苦笑して、少しばつが悪そうに答えた。

「……先生に渡そうとか思ったんだけど、忘れてた」

「………」

 由之真が理由もなく物を持ち出すとは思えなかったので、機械室で何かがあったのかもしれないと感じたが、それよりも照は目の前の古い紙に興味を抱いた。

「それって手紙?……読んだの?」

 由之真は無言で頷き、また苦笑を浮かべて答えた。

「……でも照は読まない方がいいかも……読んでもいいけど」

「……?」

 しかし手紙に目を通した照は、確かにその通りだと思った。全ては過ぎ去ったことだが、照はこの別れの手紙が誰にも読まれなかったことを想像して、少し目を潤ませながら尋ねた。

「やっぱり……戦争の時のことかな?」

 由之真は桜を見上げながら、少し考えてから答えた。

「……どうかな?それっぽいと思うけど、わからない」

「……それは?」

 由之真は無言で箱を手渡した。箱の中身は照の予想通りだったが、それでもやはり照の涙腺は開いてしまった。しかし照はすぐに指輪の文字に気付き、手の甲で目を拭いながら驚きの声を上げた。

「……あっ!!由ちゃんこれプラチナだよ!ほらっ!ここにptって書いてあるじゃん!」

「うん、そう思うよ」

「どうしよう?……やっぱ先生に言うか、交番に届けた方がいいよね?……だってプラチナだよ!?」

 照はプラチナが金より高価なことしか知らなかったが、目の前にある物が金より高価であるというだけで、照にとっては興奮する価値があった。由之真はプラチナかどうかは関係ないと思ったが、照の意見に同意した。

「……俺が明日、交番に届けてくるよ」

「じゃあ、私も一緒に行く!明日は買い出しするし!」

 そして二人は歩き出し、いつの間にか照の涙腺は閉じていた。照は買い出しのことを思い出したついでに、冷蔵庫の中身を思い浮かべながら尋ねた。

「……由ちゃん、今日のお夕飯なあに?」

「……ご飯がいいなら桜エビの天ぷら。パスタがいいならエビチリパスタ」

「んー……天ぷら!」と元気に答えて、照は由之真の右手を掴んで楽しげに言った。

「ねえ由ちゃん、今思い付いたんだけどさ……今度の土曜か日曜、お花見しない?みんな誘ってさ……先生とかも誘って、ここか家でさ……そんで私お稲荷さん作るから、由ちゃん天ぷら作ってよ!」

 由之真は、照の単純な連想に苦笑しながら請け負った。

「……うん、大勢じゃないなら、いろいろ作ろうか」

「うんっ!」



終わり

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