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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【SF】キメラの檻

 近未来。

 人類は「脳融合技術(Neuro-Chimera)」を確立した。

 特定の動物の脳領域を人間の大脳へ統合し、能力を拡張する技術である。

 融合は部分移植ではなく、神経情報の再構築によって行われる。


【第一章:鷹の目】


 俺の名前は、ハヤト。二十八歳。職業は、都市監視官。そして、俺は鷹型融合者だ。


 鷹型融合(Hawk-Chimera)を受けてから、三年が経つ。手術は成功した。俺の視覚野に、鷹の神経情報が統合された。視力は劇的に向上した。俺は今、地上百メートルから、路上の新聞の文字を読める。動体視力も尋常ではない。時速二百キロで走る車のナンバープレートも、鮮明に捉えられる。


 しかし、代償もあった。


 俺は、高い場所を求めるようになった。地上にいると、落ち着かない。息が詰まる。毎日、ビルの屋上に登る。風を感じながら、街を見下ろす。そうしないと、精神が安定しない。


 そして、俺は獲物を探すようになった。いや、正確には「獲物に見える対象」を探してしまう。街を歩く人々を見ると、無意識に動きを追ってしまう。弱っている者、一人でいる者、隙のある者。そういう対象に、視線が固定される。


 これは、鷹の本能だ。俺の人間としての理性は、それを理解している。しかし、本能は抑えられない。


 ある日、俺は屋上で街を監視していた。業務中だ。都市監視官として、犯罪の兆候を探す。俺の鷹の目は、この仕事に最適だ。


 すると、俺は一人の女性を捉えた。彼女は、人混みを歩いていた。しかし、俺の目は彼女を見失わなかった。彼女の動き、表情、仕草。すべてが、鮮明に見えた。


 そして、俺は気づいた。彼女は、怯えている。何かから逃げている。


 俺は、本能的に反応した。獲物を追う本能が、発動した。俺は、屋上から彼女を追い始めた。ビルからビルへ、飛び移りながら。鷹のように。


 俺の理性は、叫んだ。「これは間違っている。彼女を助けるべきだ」。しかし、本能は違った。「追え。捕らえろ」。


 俺は、葛藤しながらも、彼女を追った。そして、彼女が路地裏に入った時、俺は飛び降りた。三階建てのビルから。


 着地は完璧だった。鷹の反射神経が、衝撃を吸収した。俺は、彼女の前に立った。


 彼女は、悲鳴を上げた。俺は、我に返った。


「大丈夫だ。俺は都市監視官だ」


 俺は、バッジを見せた。彼女は、少し安心した表情を見せた。


「助けてください。誰かに追われているんです」

「わかった。安全な場所に案内する」


 俺は、彼女を保護した。そして、警察に引き渡した。業務は、成功した。


 しかし、俺は震えていた。あの瞬間、俺は彼女を「獲物」として見ていた。助けるためではなく、捕らえるために追っていた。俺の人間性が、鷹の本能に侵食されている。


 その夜、俺は鏡を見た。俺の目は、鋭かった。まるで、鷹のようだ。俺は、まだ人間なのか。それとも、もう鷹なのか。


【第二章:狼の群れ】


 彼女の名前は、ルナ。三十一歳。職業は、戦術指揮官。そして、彼女は狼型融合者だ。


 狼型融合(Wolf-Chimera)を受けてから、五年が経つ。彼女の前頭葉に、狼の社会性神経が統合された。彼女は今、群れの思考を共有できる。同じ狼型融合者と、思考を同期できる。言葉を使わずに、戦術を共有できる。


 彼女は、特殊部隊の指揮官だ。部下は、全員狼型融合者だ。十人の狼が、一つの群れとして動く。彼女は、アルファだ。群れを統率する。


 しかし、代償もあった。


 彼女は、群れの外にいる人間を、信頼できなくなった。狼型融合者以外の人間は、「他者」だ。群れの一員ではない。だから、信頼できない。


 そして、彼女は階層意識が強くなった。群れの中で、序列を明確にしたがる。強い者が上、弱い者が下。それが、自然だと感じる。


 ある日、彼女の部隊は、テロリスト制圧の任務を受けた。テロリストは、ビルに立てこもっている。人質が十人いる。


 ルナは、部下たちと思考を同期した。言葉は不要だ。彼女の意図は、瞬時に部下たちに伝わる。部下たちの状況も、瞬時に彼女に伝わる。


 彼女たちは、狼の群れとして動いた。静かに、素早く、協調して。包囲し、侵入し、制圧する。


 任務は、完璧に成功した。テロリストは全員捕獲された。人質は全員無事だった。


 しかし、ルナは違和感を覚えた。制圧の瞬間、彼女は興奮していた。獲物を追い詰める興奮だ。テロリストの恐怖を感じて、快感を覚えた。


 これは、狼の本能だ。狩りの本能だ。彼女の人間としての倫理は、それを否定する。しかし、本能は否定できない。


 任務後、ルナは部下たちと食事をした。彼女たちは、群れとして集まった。他のテーブルには、非融合者の同僚たちがいた。しかし、ルナたちは彼らと交流しなかった。


 一人の非融合者が、ルナに話しかけてきた。


「お疲れ様です、指揮官。素晴らしい任務でしたね」


 ルナは、彼を見た。彼は、群れの一員ではない。他者だ。ルナは、本能的に警戒した。


「ありがとう」


 ルナは、短く答えた。そして、視線を部下たちに戻した。部下たちは、彼女の気持ちを理解していた。群れの絆だ。


 その夜、ルナは一人で考えた。彼女は、もう普通の人間として生きられない。彼女は、群れの一員としてしか生きられない。


 それは、幸せなのか。それとも、不幸なのか。


【第三章:タコの腕】


 彼の名前は、ケイ。三十五歳。職業は、プログラマー兼デザイナー。そして、彼はタコ型融合者だ。


 タコ型融合(Octopus-Chimera)を受けてから、二年が経つ。彼の頭頂葉に、タコの分散神経が統合された。彼は今、並列思考ができる。同時に八つのタスクを処理できる。そして、擬態適応能力が向上した。環境に応じて、思考パターンを変えられる。


 彼は、天才プログラマーとして知られている。複雑なコードを、同時に八つ書ける。そして、デザインも同時にできる。一人で、チーム並みの仕事をこなせる。


 しかし、代償もあった。


 彼の人格が、分裂し始めた。八つの思考が、同時に走る。それぞれが、独立している。時々、それぞれの思考が、矛盾する。ある思考は「これをすべきだ」と言い、別の思考は「いや、それは間違いだ」と言う。


 そして、彼は自我の境界が曖昧になった。「俺」とは何か。八つの思考のどれが「俺」なのか。それとも、すべてが「俺」なのか。


 ある日、ケイは会議に出席した。クライアントとの打ち合わせだ。クライアントは、新しいソフトウェアの開発を依頼してきた。


 ケイは、同時に八つの視点から、プロジェクトを分析した。技術的視点、デザイン的視点、ビジネス的視点、ユーザー視点、セキュリティ視点、コスト視点、時間視点、リスク視点。


 すべての視点から、彼は答えを出した。そして、クライアントに提案した。しかし、クライアントは困惑した。


「ちょっと待ってください。あなたの提案は、矛盾していませんか」


 ケイは、気づいた。彼は、八つの異なる提案をしていた。同時に。それぞれの思考が、独立して答えを出していた。


「申し訳ありません。整理します」


 ケイは、八つの思考を統合しようとした。しかし、難しかった。それぞれの思考が、自分の答えを主張する。


 ケイは、頭を抱えた。彼は、もう一人の人間ではない。彼は、八人の人間が一つの体に詰め込まれている。


 会議後、ケイは医師に相談した。融合者専門の精神科医だ。


「人格の統合が難しくなっています」


 ケイは、説明した。医師は、頷いた。


「タコ型融合の典型的な副作用です。タコは、分散神経系を持っています。それぞれの腕が、独立して思考します。それが、あなたの脳に統合されたのです」

「治療法はありますか」

「統合訓練があります。しかし、完全に治すことは難しいです。タコの神経情報は、すでにあなたの脳に定着しています」


 ケイは、絶望した。彼は、もう元の自分には戻れない。


【第四章:象の記憶】


 彼女の名前は、サヤ。四十二歳。職業は、歴史学者。そして、彼女は象型融合者だ。


 象型融合(Elephant-Chimera)を受けてから、十年が経つ。彼女の海馬に、象の記憶神経が統合された。彼女は今、驚異的な記憶力を持っている。一度見たもの、一度聞いたことは、決して忘れない。何十年前のことでも、昨日のように思い出せる。


 彼女は、歴史学者として成功した。膨大な資料を、すべて記憶している。引用も、正確にできる。彼女の論文は、高く評価されている。


 しかし、代償もあった。


 彼女は、すべてを覚えている。忘れたいことも、忘れられない。過去の失敗、恥ずかしい記憶、痛い経験。すべてが、鮮明に残っている。


 そして、彼女は過去に囚われるようになった。現在よりも、過去を大切にする。新しいことを学ぶよりも、過去を振り返ることを好む。


 ある日、サヤは娘と口論した。娘は、二十歳の大学生だ。娘は、サヤに不満を述べた。


「お母さん、いつも過去の話ばかりするわね」

「過去は、大切なのよ」

「でも、私は今を生きたいの。お母さんは、いつも昔の話をする。それに、私が子供の頃にした失敗も、いつまでも覚えている」


 サヤは、反論しようとした。しかし、娘の言葉は正しかった。サヤは、娘が五歳の時にした小さな失敗を、今でも鮮明に覚えている。そして、時々それを話題にする。


「ごめんなさい。でも、私は忘れられないの」

「それは、わかるわ。でも、お母さん、過去に囚われすぎている」


 娘は、悲しそうに言った。そして、部屋を出て行った。


 サヤは、一人で座っていた。記憶が、次々と蘇ってくる。娘の子供時代、夫との出会い、両親との思い出、学生時代の友人。すべてが、まるで昨日のことのように鮮明だ。


 しかし、それは幸せなのか。すべてを覚えているということは、幸せなのか。


 サヤは、わからなくなった。


【第五章:猫の跳躍】


 彼の名前は、リョウ。二十三歳。職業は、パルクール選手。そして、彼は猫型融合者だ。


 猫型融合(Cat-Chimera)を受けてから、一年が経つ。彼の小脳に、猫のバランス神経が統合された。彼は今、驚異的な空間把握能力と反射神経を持っている。どんな高さから落ちても、完璧に着地できる。狭い場所でも、正確に動ける。


 彼は、パルクールの世界チャンピオンだ。ビルからビルへ飛び移り、壁を駆け上がり、宙返りをする。すべてが、完璧だ。


 しかし、代償もあった。


 彼は、気まぐれになった。計画を立てても、すぐに変える。興味が移りやすい。集中力が続かない。そして、他人に依存しなくなった。一人で行動することを好む。


 そして、彼は夜行性になった。昼間は眠く、夜は活発になる。生活リズムが、完全に逆転した。


 ある日、リョウはトレーニング中だった。夜の街を、自由に走り回る。ビルの屋上から屋上へ、飛び移る。風を感じながら、体を動かす。これが、彼の幸せだ。


 すると、彼は一人の女性を見かけた。彼女は、路地裏で何かを探していた。リョウは、興味を持った。猫の好奇心が、発動した。


 彼は、屋上から降りて、彼女に近づいた。音もなく。猫のように。


「何を探しているんですか」


 リョウが声をかけると、女性は驚いて振り返った。


「あなた、いつの間に」

「今、来ました。何を探しているんですか」

「財布を落としたんです」

「手伝いましょう」


 リョウは、彼女と一緒に財布を探した。しかし、五分後、リョウは興味を失った。彼の注意は、別のものに移った。空を飛ぶ鳥だ。


「あ、鳥だ」


 リョウは、鳥を追い始めた。女性を置いて。女性は、困惑した顔をした。


「ちょっと、待って」


 しかし、リョウはもう行ってしまった。彼の興味は、鳥に移っていた。


 これが、猫の本能だ。気まぐれで、興味が移りやすい。リョウは、それを自覚していた。しかし、抑えられなかった。


【第六章:交錯】


 ある日、五人の融合者が、同じ場所に集まった。政府の研究施設だ。融合者の定期検査のためだ。


 待合室で、彼らは出会った。ハヤト、ルナ、ケイ、サヤ、リョウ。それぞれが、異なる動物と融合している。


 最初は、誰も話さなかった。しかし、やがてサヤが口を開いた。


「みなさんも、融合者なんですね」

「ええ」


 ルナが答えた。他の三人も、頷いた。


「融合後、変化を感じますか」


 サヤが聞いた。ハヤトが答えた。


「感じます。俺は、高い場所を求めるようになりました。そして、獲物を探す本能が出ます」

「私は、群れを求めます。そして、他者を信頼できなくなりました」


 ルナが言った。ケイも、続けた。


「私は、人格が分裂しています。八つの思考が、同時に走ります」

「私は、すべてを覚えています。忘れたいことも、忘れられません」


 サヤが言った。リョウも、加わった。


「俺は、気まぐれになりました。そして、夜行性になりました」


 五人は、沈黙した。それぞれが、同じ問題を抱えていた。人間性の喪失だ。


「私たちは、まだ人間なんでしょうか」


 サヤが、静かに聞いた。誰も、答えられなかった。


 その時、医師が現れた。


「みなさん、検査の準備ができました」


 五人は、それぞれ検査室に向かった。検査は、脳スキャンと心理テストだ。融合の進行度を測定する。


 ハヤトの検査結果は、問題なかった。融合は安定している。しかし、医師は警告した。


「あなたの鷹の本能は、強まっています。注意してください」

「わかっています」


 ハヤトは、答えた。しかし、心の中では不安だった。


 ルナの検査結果も、問題なかった。しかし、医師は言った。


「あなたの社会性は、狼型融合者にのみ向いています。非融合者との交流を、意識的に増やしてください」

「努力します」


 ルナは、答えた。しかし、それは難しいと感じていた。


 ケイの検査結果は、警告が出た。人格統合度が、低下している。


「このままでは、人格崩壊の危険があります。統合訓練を受けてください」

「わかりました」


 ケイは、答えた。しかし、絶望していた。


 サヤの検査結果は、問題なかった。しかし、医師は言った。


「あなたは、過去に囚われすぎています。現在に目を向けてください」

「わかっています」


 サヤは、答えた。しかし、それは不可能だと感じていた。


 リョウの検査結果も、問題なかった。しかし、医師は言った。


「あなたの注意欠陥が、悪化しています。集中力訓練を受けてください」

「わかりました」


 リョウは、答えた。しかし、すでに興味を失っていた。


 検査後、五人は再び待合室で会った。そして、自然と会話が始まった。


「俺たち、支援グループを作りませんか」


 ハヤトが提案した。


「支援グループ?」

「そうです。融合者同士で、経験を共有する。互いに支え合う」

「いいアイデアですね」


 サヤが賛成した。他の三人も、頷いた。


 こうして、五人の融合者による支援グループが誕生した。彼らは、毎週集まることにした。


【第七章:支援グループ】


 最初の集まりは、カフェで行われた。五人は、それぞれの経験を語った。


 ハヤトは、獲物を追う衝動について話した。ルナは、群れの外の人間を信頼できないことを話した。ケイは、人格分裂の苦しみを話した。サヤは、過去に囚われる辛さを話した。リョウは、気まぐれで集中できないことを話した。


 それぞれが、深刻な問題を抱えていた。しかし、互いに理解し合えた。なぜなら、彼らは同じ状況にいるからだ。


「俺たちは、孤独じゃないんですね」


 ハヤトが言った。


「そうです。私たちは、理解し合えます」


 サヤが答えた。


 しかし、問題もあった。ルナは、他の四人を「群れの一員」として認識し始めた。彼女の狼の本能が、彼らを仲間と見なした。


 そして、ルナは無意識に、序列を決めようとした。彼女は、自分がアルファだと感じていた。他の四人は、下位だ。


 ハヤトは、それに気づいた。彼の鷹の目は、ルナの微妙な態度の変化を捉えた。ルナは、上から目線で話している。


「ルナさん、俺たちは平等です」


 ハヤトが言った。ルナは、驚いた。


「もちろんです。何を言っているんですか」

「あなたは、無意識に序列を作ろうとしています」


 ハヤトの指摘に、ルナは気づいた。彼女の狼の本能が、支配しようとしていた。


「ごめんなさい。気をつけます」


 ルナは、謝った。しかし、本能は簡単には抑えられない。


 一方、ケイは八つの視点から、グループを分析していた。そして、それぞれの視点が、異なる結論を出していた。


 ある視点は「このグループは有益だ」と言い、別の視点は「このグループは危険だ」と言う。ケイは、混乱した。


「ケイさん、大丈夫ですか」


 サヤが心配そうに聞いた。ケイは、頭を抱えた。


「八つの思考が、同時に走っています。統合できません」

「深呼吸してください。一つずつ、整理しましょう」


 サヤは、ケイを助けようとした。彼女の記憶力は、ケイの発言をすべて記録していた。そして、それを整理して、ケイに提示した。


「あなたの八つの思考を、私が記録しました。これを見て、統合してください」


 ケイは、サヤの助けを借りて、思考を統合した。少しずつ、整理されていった。


 しかし、その時、リョウが突然立ち上がった。


「ごめん、飽きた。外に行きたい」


 リョウは、猫の気まぐれに従った。彼は、カフェを出て行った。


 残った四人は、困惑した。しかし、理解もした。それが、リョウの本能だ。


「追いかけるべきでしょうか」


 ハヤトが聞いた。ルナが答えた。


「いいえ。彼は、一人でいたいのです。猫は、群れを作りません」


 四人は、そのまま話を続けた。リョウは、外でビルの壁を登っていた。


【第八章:崩壊】


 支援グループは、数ヶ月続いた。しかし、やがて問題が表面化した。


 ケイの人格分裂が、悪化した。ある日、彼は会議中に突然八つの異なる言語で話し始め、高速で言語が切り替わり続けた。それぞれの思考が、独立して外部に表現されたのだ。


 彼は、病院に搬送された。医師は、警告した。


「このままでは、人格が完全に崩壊します。融合の逆転手術が必要かもしれません」

「逆転手術?」

「はい。タコの神経情報を、脳から除去します。しかし、リスクがあります。記憶喪失、認知機能の低下、最悪の場合は死亡」


 ケイは、選択を迫られた。このまま融合を続けて人格崩壊するか、逆転手術を受けてリスクを取るか。


 ケイは、数日間考えた。八つの思考が、それぞれ異なる答えを出した。しかし、最終的に、彼は決断した。


「逆転手術を受けます」


 手術は、成功した。タコの神経情報は、除去された。ケイは、元の人間に戻った。しかし、並列思考能力は失われた。彼は、もう天才プログラマーではなかった。


 ケイは、支援グループに報告した。


「俺は、逆転手術を受けました。今は、普通の人間です」

「よかった」


 ハヤトが言った。しかし、ケイは複雑な表情をしていた。


「よかったのかどうか、わかりません。俺は、能力を失いました」

「でも、人間性を取り戻しました」


 サヤが言った。ケイは、頷いた。


「そうですね」


 しかし、ケイの心は、空虚だった。彼は、並列思考の世界を懐かしんでいた。


 一方、リョウは支援グループから離れていった。彼の猫の本能は、集団を嫌った。彼は、一人で夜の街を走ることを選んだ。


 そして、サヤは過去に沈んでいった。彼女は、現在よりも過去を生きるようになった。娘との関係は、悪化した。娘は、家を出た。


 サヤは、孤独になった。しかし、彼女には記憶があった。過去の幸せな記憶が、彼女を支えた。


 ルナは、さらに群れに依存するようになった。彼女は、非融合者との交流を完全に断った。彼女の世界は、狼型融合者だけになった。


 ハヤトだけが、バランスを保とうとしていた。彼は、鷹の本能と戦いながら、人間としての理性を保とうとした。


【第九章:選択】


 ある日、ハヤトは重大な決断を迫られた。


 彼は、屋上で街を監視していた。すると、彼は一人の男を捉えた。男は、銃を持っていた。そして、人混みに向かっていた。


 ハヤトは、本能的に反応した。獲物を追う本能だ。彼は、屋上から男を追った。


 男は、広場に入った。そこには、数百人の市民がいた。男は、銃を構えた。


 ハヤトは、飛び降りた。五階建てのビルから。着地し、男に向かって走った。


 男は、銃を撃った。しかし、ハヤトの動体視力は、弾丸の軌道を捉えた。彼は、回避した。


 ハヤトは、男に飛びかかった。鷹が獲物に飛びかかるように。男を押し倒し、銃を奪った。


 市民たちは、歓声を上げた。ハヤトは、英雄になった。


 しかし、ハヤトは震えていた。あの瞬間、彼は完全に鷹だった。人間の理性は、消えていた。ただ、獲物を追う本能だけが残っていた。


 もし、男が無実だったら。もし、あれが訓練用の銃だったら。ハヤトは、無実の人間を襲っていたかもしれない。


 ハヤトは、深く考えた。彼は、もう鷹の本能をコントロールできない。いつか、間違いを犯す。


 彼は、決断した。逆転手術を受ける。


 手術は、成功した。鷹の神経情報は、除去された。ハヤトは、元の人間に戻った。視力は、普通に戻った。獲物を追う本能も、消えた。


 しかし、ハヤトは仕事を失った。彼は、もう都市監視官として働けなかった。普通の視力では、役に立たなかった。


 ハヤトは、新しい仕事を探した。そして、カフェの店員になった。普通の仕事だ。しかし、ハヤトは満足していた。


 彼は、人間に戻った。それが、最も大切なことだった。


【エピローグ】


 十年後。


 脳融合技術は、厳しく規制された。多くの融合者が、逆転手術を受けた。技術そのものは、禁止されなかった。しかし、慎重に管理されるようになった。


 ハヤトは、今もカフェで働いている。普通の生活だ。しかし、幸せだ。


 ケイは、普通のプログラマーとして働いている。天才ではないが、満足している。


 ルナは、融合を続けている。彼女は、群れと共に生きることを選んだ。それが、彼女の幸せだ。


 サヤは、融合を続けている。彼女は、過去と共に生きることを選んだ。娘とは、疎遠になった。しかし、記憶が彼女を支えている。


 リョウは、融合を続けている。彼は、一人で夜の街を走ることを選んだ。それが、彼の自由だ。


 それぞれが、異なる選択をした。それぞれが、異なる人生を歩んでいる。


 脳融合技術は、人間に力を与えた。しかし、同時に、人間性を奪った。


 能力と人間性。どちらを選ぶか。それは、個人の選択だ。


 そして、それぞれの選択に、正解はない。


 完。



【追記:二十年後】


 ハヤトは、今では融合者支援センターのカウンセラーとして働いている。かつて融合を経験した者として、現在の融合者たちに助言を与えている。


 ある日、若い融合者が相談に来た。彼は、鷹型融合者だった。二十二歳の青年だ。


「俺は、どうすればいいんでしょうか。獲物を追う衝動が、抑えられません」


 青年は、苦しそうに言った。ハヤトは、自分の過去を思い出した。


「その気持ち、よくわかります。私も、同じでした」

「でも、あなたは逆転手術を受けたんですよね」

「はい。しかし、それが正解だったかどうか、今でもわかりません」


 ハヤトは、正直に答えた。


「融合を続けるか、逆転するか。それは、あなたが決めることです。私には、答えられません」

「でも、何かアドバイスを」

「本能と共存する方法を学んでください。完全には抑えられません。しかし、理解することはできます」


 ハヤトは、青年に自己認識の訓練を教えた。本能を観察し、理性を保つ方法を。


 青年は、真剣に聞いていた。そして、数週間後、再び訪れた。


「ハヤトさん、少し良くなりました。本能を観察することで、距離が取れるようになりました」

「それは、良かったです」


 ハヤトは、微笑んだ。彼は、自分の経験が誰かの役に立っていることを嬉しく思った。


 一方、ルナは、狼型融合者だけのコミュニティを作っていた。彼女は、そこのリーダーだった。約百人の狼型融合者が、彼女の群れに属していた。


 彼女たちは、一つの町を形成していた。非融合者は、そこに入れない。完全に閉鎖されたコミュニティだった。


 しかし、ルナは幸せだった。群れと共に生きることが、彼女の本能を満たしていた。


 ケイは、小さなソフトウェア会社を経営していた。並列思考の能力は失ったが、人間としての創造性を取り戻していた。


 彼は、融合前よりも幸せだと感じていた。一つの思考で生きることの安らぎを、今では理解していた。


 サヤは、記憶の博物館を作っていた。そこには、彼女が記憶しているすべてのことが、記録されていた。文書、写真、ビデオ。すべてが、完璧に保存されていた。


 しかし、サヤは孤独だった。娘は、もう連絡してこない。友人も、ほとんどいない。サヤは、過去の中で生きていた。


 リョウは、今でも夜の街を走っている。パルクールの選手としては引退したが、趣味として続けていた。


 彼は、誰にも縛られない生活を楽しんでいた。猫のように、自由に。


 五人は、もう会わなくなった。それぞれの道を歩んでいる。しかし、時々、互いのことを思い出す。


 あの支援グループで過ごした日々を。互いに理解し合えた日々を。


 脳融合技術は、今も存在している。しかし、より慎重に、より倫理的に運用されている。


 そして、融合者たちは、自分の選択と共に生きている。能力を得て人間性を失うか、人間性を守って能力を手放すか。


 どちらが正しいのか。誰にもわからない。


 しかし、一つだけ確かなことがある。


 人間とは何か。その答えは、一人一人が自分で見つけるしかない。


 完。

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同作者の完結作品

水が死んだ日

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