【サイコホラー】境界線
壁が、囁いている。
いや、違う。
壁は囁かない。
わかっている。
でも、聞こえる。
「見ているぞ」
誰が。
誰が見ているんだ。
俺は、部屋を見回した。
誰もいない。
一人だ。
ずっと、一人だ。
でも、声は聞こえる。
壁から。天井から。床から。
あらゆる場所から。
「お前を、見ているぞ」
うるさい。
黙れ。
俺は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
頭の中に、直接響いてくる。
俺の名前は、佐々木拓也。三十二歳。
無職。
いや、元会社員。
三年前に、辞めた。
辞めさせられた。
理由は、わからない。
上司は言った。
「お前、最近おかしいぞ」
おかしい?
何が?
俺は、普通だ。
ちゃんと仕事をしている。
でも、上司は首を振った。
「独り言が多い。誰もいないのに、誰かと話している」
俺は、話していない。
ただ、聞こえる声に答えていただけだ。
でも、それを言っても信じてもらえなかった。
「病院に行け」
上司は、そう言った。
俺は、行かなかった。
病気じゃないから。
でも、会社はもういいと言った。
それで、終わった。
それから、ずっと部屋にいる。
外に出ると、怖い。
人々が、俺を見る。
いや、見ているような気がする。
みんな、俺のことを知っている。
俺が何者か。
俺が何をしたか。
でも、俺は何もしていない。
ただ、生きているだけだ。
なのに、なぜ見る。
なぜ、囁く。
「あいつだ」
「危ない」
「近づくな」
聞こえる。
はっきりと。
でも、見ると、誰も話していない。
みんな、普通に歩いている。
じゃあ、この声は何だ。
誰の声だ。
ある日、能力に気づいた。
夢を、現実にする能力。
最初は、信じられなかった。
でも、本当だった。
俺が夢見たことが、現実になる。
思い描いたことが、現れる。
それは、奇跡だった。
いや、呪いだった。
最初の能力は、コーヒーカップだった。
俺は、コーヒーが飲みたかった。
でも、カップがなかった。
だから、想像した。
白いカップ。
取っ手がついた、シンプルなカップ。
すると、テーブルの上に現れた。
本当に。
白いカップが、テーブルの上に。
俺は、触った。
本物だ。
冷たくて、硬くて、重い。
幻覚じゃない。
本物のカップだ。
俺は、驚いた。
そして、理解した。
俺には、能力がある。
夢を現実にする能力が。
それから、色々試した。
食べ物。
服。
本。
何でも、現れた。
俺が想像すれば、すべてが現実になった。
これは、すごい。
俺は、何でもできる。
お金も、作れる。
いや、待て。
お金を作るのは、犯罪だ。
でも、食べ物なら?
服なら?
それは、いいだろう。
誰も傷つけない。
俺は、能力を使い続けた。
部屋は、物で溢れた。
カップ、皿、本、服。
すべて、俺が作ったものだ。
でも、ある日、気づいた。
部屋に、知らない男がいる。
黒いスーツを着た、背の高い男。
彼は、じっとこちらを見ている。
「誰だ、お前」
俺は、聞いた。
男は、答えない。
ただ、見ている。
「出て行け! ここは俺の部屋だ!」
俺は、叫んだ。
男は、動かない。
ただ、見ている。
その目は、冷たい。
まるで、俺を値踏みしているような。
俺は、怖くなった。
そして、男を消そうとした。
能力で。
消えろ、と念じた。
しかし、男は消えなかった。
なぜだ。
俺の能力は、何でもできるはずだ。
なのに、なぜ消えない。
男は、微笑んだ。
そして、言った。
「お前は、わかっていない」
「何を?」
「お前が何者か」
男は、消えた。
突然、消えた。
まるで、最初からいなかったかのように。
俺は、混乱した。
あれは、何だったんだ。
幻覚か?
それとも、本物か?
わからない。
もう、何もわからない。
次の日、母親が来た。
ドアをノックする音。
「拓也、開けて」
母の声。
俺は、ドアを開けた。
母が、そこにいた。
でも、何か変だ。
母の顔が、歪んでいる。
いや、歪んでいるように見える。
目が、大きすぎる。
口が、裂けている。
違う。
これは、母じゃない。
何かが、母の姿をしている。
「拓也、大丈夫?」
母が、聞く。
でも、声が違う。
母の声じゃない。
もっと低くて、冷たい。
「お前は誰だ」
俺は、後ずさった。
「拓也、何を言ってるの。お母さんよ」
「嘘だ。お前は母じゃない」
俺は、ドアを閉めようとした。
しかし、母が手を伸ばした。
その手が、長い。
異常に長い。
まるで、蛇のように。
俺は、叫んだ。
そして、能力を使った。
消えろ、と。
母が、消えた。
いや、消えたように見えた。
俺は、ドアを閉めた。
鍵をかけた。
そして、床に座り込んだ。
震えていた。
あれは、何だったんだ。
母だったのか。
それとも、化け物だったのか。
わからない。
携帯が、鳴った。
母からだ。
「拓也、どうしたの? 急にドア閉めて」
母の声。
普通の声。
俺は、混乱した。
「さっき、来たのか?」
「来たわよ。でも、追い出されたじゃない」
「お前は……母なのか?」
「何言ってるの。病院、行った方がいいんじゃない?」
病院。
また、その言葉。
俺は、電話を切った。
そして、考えた。
もしかして、俺がおかしいのか。
母は、普通だったのか。
俺が、幻覚を見たのか。
でも、はっきり見えた。
歪んだ顔。
長い腕。
あれは、幻覚じゃない。
本物だ。
きっと、何かが母に化けていたんだ。
俺を騙すために。
夜、声が大きくなった。
「お前を、殺す」
誰が。
誰が殺すんだ。
「みんなだ」
「みんな、お前を殺したがっている」
嘘だ。
誰も、俺を殺したりしない。
俺は、何もしていない。
「お前は、危険だ」
「存在してはいけない」
「消えろ」
うるさい。
黙れ。
俺は、頭を抱えた。
でも、声は止まらない。
何十、何百の声が、同時に響く。
俺の頭の中で。
もう、耐えられない。
俺は、能力を使った。
静かにしてくれ、と。
すると、声が止まった。
完全に。
静寂。
やっと、静かになった。
俺は、安堵した。
しかし、次の瞬間、気づいた。
部屋の壁が、消えている。
いや、消えたんじゃない。
透明になっている。
外が、見える。
隣の部屋が、見える。
隣の住人が、見える。
彼は、テレビを見ている。
でも、彼も俺に気づいた。
壁が透明だから。
彼は、驚いた顔をしている。
そして、叫んだ。
何か言っている。
でも、聞こえない。
静寂の中だから。
俺は、能力を解除しようとした。
でも、できない。
壁は、透明なままだ。
そして、隣の住人が、こちらに向かって走ってくる。
怒っている。
俺は、怖くなった。
彼を、止めなければ。
俺は、能力を使った。
止まれ、と。
隣の住人が、止まった。
完全に。
動かなくなった。
まるで、彫像のように。
俺は、安心した。
でも、次の瞬間、彼が崩れ始めた。
砂のように。
体が、砂になって崩れていく。
俺は、叫んだ。
やめろ、と。
でも、止まらない。
彼は、完全に砂になった。
そして、風に吹かれて消えた。
俺は、震えた。
何をしたんだ、俺は。
彼を、殺したのか。
いや、違う。
あれは、幻覚だ。
きっと、幻覚だ。
本物の人間が、砂になるわけがない。
そうだ、幻覚だ。
でも、翌日、警察が来た。
ドアを叩く音。
「開けてください。警察です」
警察?
なぜ?
俺は、ドアを開けなかった。
「佐々木拓也さん、隣の住人が行方不明です。何か知りませんか?」
行方不明。
あの人が。
俺が、砂にした人が。
いや、違う。
あれは、幻覚だった。
幻覚だったんだ。
でも、行方不明?
なら、本物だったのか。
俺は、本当に人を殺したのか。
いや、わからない。
何が本物で、何が幻覚なのか、もうわからない。
警察は、しばらくドアの前にいた。
そして、去った。
俺は、部屋の中で震えていた。
何が起きているんだ。
俺は、何をしているんだ。
能力が、制御できない。
いや、最初から制御なんてできていなかった。
俺が現実だと思っているものが、幻覚かもしれない。
俺が幻覚だと思っているものが、現実かもしれない。
もう、区別がつかない。
その夜、部屋に人が増えた。
黒いスーツの男が、五人。
彼らは、部屋の隅に立っている。
じっと、俺を見ている。
「お前たちは、何だ」
俺は、聞いた。
誰も答えない。
ただ、見ている。
「消えろ!」
俺は、叫んだ。
能力を使った。
しかし、彼らは消えない。
むしろ、増えた。
今度は、十人。
部屋中に、黒いスーツの男が立っている。
俺は、パニックになった。
どうすればいい。
能力が、効かない。
いや、能力が逆効果だ。
使えば使うほど、悪化する。
でも、使わないと、どうなる。
彼らが、襲ってくるかもしれない。
俺を、殺すかもしれない。
俺は、部屋の隅に逃げた。
そして、膝を抱えた。
震えていた。
男たちは、じっと見ている。
何時間も。
朝になると、男たちは消えていた。
俺は、疲れ果てていた。
一睡もしていない。
体が、重い。
頭が、痛い。
もう、限界だ。
俺は、外に出ることにした。
部屋にいても、何も変わらない。
むしろ、悪化する。
外に出れば、何か変わるかもしれない。
外は、明るかった。
太陽が、眩しい。
人々が、歩いている。
普通の光景。
でも、俺には普通じゃない。
人々が、みんな俺を見ている。
いや、見ているような気がする。
ひそひそ話している。
俺のことを。
「あいつだ」
「危ない」
「逃げろ」
聞こえる。
はっきりと。
でも、みんな普通に話している。
俺のことじゃない、他のことを。
じゃあ、この声は何だ。
幻聴か。
でも、本物に聞こえる。
俺は、歩き続けた。
どこへ行くかもわからず。
ただ、歩いた。
すると、見えた。
公園。
子供たちが、遊んでいる。
母親たちが、見守っている。
平和な光景。
俺は、ベンチに座った。
少し、休もう。
そして、見た。
子供たちを。
彼らは、笑っている。
楽しそうだ。
いいな。
俺も、昔はああだった。
何も心配せず、ただ遊んでいた。
でも、今は違う。
今は、何もかもが怖い。
その時、子供の一人が転んだ。
泣き出した。
母親が、駆け寄った。
抱き上げた。
優しく、慰めた。
子供は、泣き止んだ。
笑顔になった。
俺は、見ていた。
そして、思った。
あの子に、幸せになってほしい。
ずっと、笑っていてほしい。
俺は、能力を使った。
あの子を、守ってくれ、と。
すると、子供の周りに光が現れた。
金色の、優しい光。
それは、子供を包んだ。
まるで、守護者のように。
俺は、微笑んだ。
良かった。
これで、あの子は安全だ。
しかし、次の瞬間、母親が叫んだ。
子供が、消えた。
いや、消えたんじゃない。
光の中に、取り込まれた。
そして、光も消えた。
子供は、いなくなった。
母親は、パニックになった。
周囲の人々も、集まってきた。
みんな、騒いでいる。
「子供が消えた!」
「どこに行ったの!」
俺は、立ち上がった。
何が起きたんだ。
俺は、子供を守ろうとしただけだ。
なのに、なぜ消えた。
俺の能力が、何かを間違えたのか。
それとも、これも幻覚なのか。
わからない。
人々が、俺を見た。
一人が、指差した。
「あの人、何かした!」
「あいつが、子供を消した!」
違う。
俺じゃない。
俺は、何もしていない。
いや、した。
能力を使った。
でも、子供を消すつもりじゃなかった。
守ろうとしただけだ。
人々が、近づいてくる。
怒っている。
怖い。
俺は、走った。
公園を出て、道を走った。
背後から、怒声が聞こえる。
追いかけてくる。
俺は、必死で走った。
路地に入った。
そして、隠れた。
ゴミ箱の陰に。
息を殺した。
足音が、近づいてくる。
そして、通り過ぎた。
俺は、安堵した。
でも、すぐに絶望した。
俺は、何をしたんだ。
子供を、消した。
殺したのか。
いや、わからない。
幻覚かもしれない。
でも、みんなが見ていた。
なら、本物だ。
俺は、人殺しだ。
いや、違う。
わからない。
もう、何もわからない。
俺は、路地で丸くなった。
どうすればいい。
帰れない。
警察が、家に来るかもしれない。
でも、ここにもいられない。
寒い。
お腹も空いた。
俺は、能力を使った。
食べ物が、欲しい。
すると、手元にパンが現れた。
俺は、それを食べた。
美味しい。
いや、味がしない。
これは、本物か。
それとも、幻覚か。
わからない。
でも、食べた。
お腹は、まだ空いている。
もっと、食べよう。
俺は、また能力を使った。
もっと食べ物を。
すると、パンが山のように現れた。
俺は、それを見て笑った。
こんなに要らない。
でも、ある。
俺が作った。
俺の能力で。
そこに、黒いスーツの男が現れた。
また、あの男だ。
「お前は、まだわかっていない」
「何を?」
「お前の能力は、呪いだ」
「呪い……?」
「お前が現実だと思っているものは、幻覚だ」
「嘘だ」
「お前が幻覚だと思っているものは、現実だ」
「違う」
「お前は、世界を壊している」
「黙れ!」
俺は、男に向かって叫んだ。
そして、能力を使った。
消えろ、と。
男は、笑った。
そして、言った。
「お前が消すべきは、俺じゃない」
「じゃあ、誰だ」
「お前自身だ」
男は、消えた。
俺は、震えた。
俺自身を、消せ?
それは、死ねということか。
でも、それが正しいのかもしれない。
俺は、危険だ。
存在してはいけない。
消えるべきだ。
でも、怖い。
死ぬのは、怖い。
まだ、生きていたい。
でも、生きていれば、誰かを傷つける。
子供を消した。
隣人も、殺したかもしれない。
次は、誰を殺す。
母か。
友人か。
知らない人か。
俺は、止められない。
能力が、制御できない。
なら、どうすればいい。
俺は、立ち上がった。
そして、歩き始めた。
どこへ行くかもわからず。
ただ、歩いた。
街は、夜になっていた。
街灯が、灯っている。
人々は、少ない。
静かだ。
でも、声は聞こえる。
壁から。
地面から。
空から。
「殺せ」
「壊せ」
「消せ」
うるさい。
黙れ。
俺は、耳を塞いだ。
でも、声は消えない。
橋に、辿り着いた。
川が、流れている。
暗くて、深い。
俺は、欄干に手をかけた。
ここから、飛び降りれば。
すべてが、終わる。
能力も。
声も。
苦しみも。
すべてが。
俺は、欄干に登った。
風が、吹いている。
冷たい。
でも、心地いい。
俺は、目を閉じた。
そして、思った。
これでいいのか。
これが、正しいのか。
その時、声が聞こえた。
「やめろ」
振り返ると、母がいた。
本物の母。
歪んでいない、普通の母。
「拓也、何してるの!」
母は、泣いていた。
「降りて! お願い!」
俺は、母を見た。
本物だ。
これは、本物の母だ。
幻覚じゃない。
でも、わからない。
もう、何が本物で何が幻覚か、わからない。
「お前は、本物か」
「何言ってるの! お母さんよ!」
母は、手を伸ばした。
「拓也、手を取って」
俺は、迷った。
これは、罠かもしれない。
母に化けた、何かかもしれない。
でも、母の目は、本物だ。
愛情が、そこにある。
俺は、手を伸ばした。
母の手を、取った。
温かい。
本物だ。
俺は、欄干から降りた。
母が、抱きしめた。
「良かった……良かった……」
母は、泣いていた。
俺も、泣いた。
何年ぶりだろう。
泣いたのは。
「拓也、一緒に病院に行きましょう」
母が、言った。
「病院……」
「ええ。あなたは、病気よ。でも、治療すれば良くなる」
病気。
俺は、病気なのか。
能力は、病気の症状なのか。
それとも、本物なのか。
わからない。
でも、母が言うなら。
母が、一緒にいてくれるなら。
俺は、頷いた。
「わかった」
病院に、行った。
精神科。
医者は、優しかった。
色々、聞かれた。
声が聞こえるか。
幻覚が見えるか。
能力があると思うか。
俺は、正直に答えた。
医者は、頷いた。
そして、言った。
「統合失調症ですね」
統合失調症。
病名が、ついた。
俺は、病気だった。
能力は、幻覚だった。
いや、本当にそうなのか。
でも、医者がそう言うなら。
きっと、そうなんだろう。
薬を、処方された。
飲み始めた。
最初は、何も変わらなかった。
声は、聞こえる。
男たちも、見える。
でも、数週間経つと、変わってきた。
声が、小さくなった。
男たちが、薄くなった。
そして、ある日、消えた。
完全に。
声も、聞こえない。
男たちも、いない。
静かだ。
本当に、静かだ。
でも、俺は不安だった。
能力は、どうなったんだ。
消えたのか。
試してみた。
コーヒーカップを、想像した。
しかし、現れなかった。
何も。
俺は、安堵した。
能力は、なくなった。
いや、最初からなかった。
すべては、幻覚だった。
俺が作ったものも。
俺が消したものも。
すべて、幻覚。
本当は、何も起きていなかった。
でも、ある日、ニュースを見た。
行方不明の子供が、見つかった。
公園で消えた子供。
森の中で、保護された。
記憶は、曖昧だった。
光に包まれて、気づいたら森にいたと。
俺は、震えた。
あれは、本物だったのか。
俺が、子供を消したのは、本物だったのか。
いや、違う。
偶然だ。
関係ない。
そうだ、関係ない。
隣人のことも、調べた。
彼は、見つかっていない。
行方不明のまま。
警察は、捜索を続けている。
俺は、恐怖した。
俺が、殺したのか。
砂にしたのは、本物だったのか。
いや、わからない。
薬を飲んでいる今でも、わからない。
何が本物で、何が幻覚だったのか。
境界線が、曖昧だ。
もう、永遠にわからない。
俺は、今も薬を飲んでいる。
声は、聞こえない。
幻覚も、見えない。
普通の生活を、送っている。
母と、一緒に。
母は、優しい。
俺を、支えてくれる。
ありがたい。
でも、時々、不安になる。
この現実は、本物なのか。
それとも、これも幻覚なのか。
薬を飲んでいるから、幻覚が見えないだけで、実は今も幻覚の中にいるのではないか。
母も、幻覚なのではないか。
この部屋も、幻覚なのではないか。
本当の俺は、まだ橋の上にいるのではないか。
飛び降りる直前で、時間が止まっているのではないか。
わからない。
もう、何もわからない。
ある夜、黒いスーツの男が、また現れた。
薬を飲んでいるのに。
彼は、笑っていた。
「気づいたか」
「何を?」
「お前は、まだ幻覚の中だ」
「嘘だ」
「この世界は、お前が作った幻覚だ」
「違う」
「お前は、まだ橋の上にいる」
「やめろ」
「もうすぐ、飛び降りる」
「黙れ!」
俺は、叫んだ。
男は、消えた。
俺は、震えた。
これは、幻覚だ。
薬の効果が、切れたんだ。
もっと、飲まないと。
俺は、薬を飲んだ。
たくさん。
そして、横になった。
目を、閉じた。
目が覚めると、病院だった。
白い天井。
白い壁。
母が、そばにいた。
「拓也、大丈夫?」
「ここは……」
「病院よ。薬を飲みすぎて、倒れたの」
そうか。
俺は、薬を飲みすぎた。
危なかった。
でも、生きている。
これは、本物だ。
きっと、本物だ。
そう思いたい。
でも、わからない。
もう、永遠にわからない。
何が本物で、何が幻覚なのか。
境界線が、消えた。
俺の世界には、もう境界線がない。
すべてが、混ざり合っている。
現実と、幻覚が。
そして、俺は、その中で生きている。
永遠に。
境界線のない、世界で。




