【ポストアポカリプス】最後の図書館
灰色の空から降り注ぐ雨は、酸性の臭いを帯びていた。
壊れた高層ビルの谷間を、一人の男が歩いていく。
名前はカイ。三十代半ば。無精髭を生やし、ぼろぼろのコートを羽織っている。背中には大きなリュックサック。腰にはナイフと、弾の入っていない拳銃。
世界が終わってから、十五年が経過した。
人類の九割が死に絶え、残った者たちも飢えと病と暴力の中で生きている。政府は機能せず、法律は意味を失い、倫理は瓦礫の下に埋もれた。
カイは一人で行動する。仲間を作らない。信じない。
この世界では、他人は敵か、あるいは獲物でしかない。
雨宿りのため、カイは崩れかけたショッピングモールに入った。
内部は薄暗く、湿っている。壁には苔が生え、床には雨水が溜まっている。
かつてここには大勢の人が訪れ、買い物を楽しんでいたのだろう。今は静寂だけがある。
カイは二階に上がり、適当な店舗に入り込んだ。
衣料品店だ。マネキンが倒れ、服が散乱している。
リュックを下ろし、カイは缶詰を取り出した。ラベルは剥がれているが、中身は食べられる。スプーンで掬い、口に運ぶ。味はしない。ただ腹を満たすだけだ。
食事を終え、カイは窓の外を眺めた。
雨は止まない。
遠くで煙が上がっている。焚き火か、それとも何かが燃えているのか。
どちらにせよ、人がいる証拠だ。
カイは近づかないことにした。人に会えば、争いになる。奪うか、奪われるか。殺すか、殺されるか。
だから一人でいる。
その時、カイの耳に微かな音が届いた。
足音だ。
複数。
階段を上がってくる。
カイは素早くリュックを背負い、ナイフを抜いた。店の奥に隠れ、息を潜める。
足音が近づく。
男の声。
「この辺りに誰かいるはずだ」
「足跡があった」
「武器を持ってるかもしれない。気をつけろ」
三人。
カイは壁に背を押し付けた。心臓が激しく打つ。
男たちが店内に入ってくる。
「誰かいるか?」
返事はしない。
男たちが店内を探り始める。
カイは呼吸を止めた。
その時、床が軋んだ。
男たちが振り向く。
「そこか!」
カイは飛び出し、最も近い男の腹にナイフを突き立てた。
男が悲鳴を上げる。
他の二人が銃を構える。
カイは刺した男を盾にし、窓に向かって走った。
銃声。
弾が壁に当たる。
カイは窓を蹴破り、外に飛び出した。
二階から地面へ。
衝撃。痛み。
それでもカイは立ち上がり、走り出した。
背後から怒号が聞こえる。
カイは路地に入り、瓦礫の間を縫って逃げた。
追手を撒いた後、カイは古い地下鉄の駅に身を隠した。
階段を降り、暗闇の中を進む。
地下鉄はもう動いていない。線路には水が溜まり、ホームには錆びた看板が転がっている。
カイは柱に背を預け、座り込んだ。
息が荒い。
左腕に痛みがある。見ると、弾がかすっていた。血が滲んでいる。
カイはリュックから布を取り出し、傷口を縛った。
幸い、深くはない。
しばらく休んでから、カイは立ち上がった。
ここにいつまでも留まるわけにはいかない。
線路を歩き始める。
暗闇の中、カイの足音だけが響く。
どれくらい歩いただろうか。
前方に光が見えた。
出口だ。
カイは光に向かって進んだ。
外に出ると、そこは公園だった。
かつては子供たちが遊んでいたのだろう。ブランコが錆び、滑り台が倒れている。
カイは公園を横切り、その先にある建物に目を留めた。
図書館だ。
三階建ての古い建物。壁は割れ、窓は破られている。
だが、まだ形を保っている。
カイは図書館に近づいた。
入口の扉は開いていた。
中に入る。
薄暗い。
床には本が散乱している。破れたページ、水に濡れた表紙。
カイは本を拾い上げた。
「世界史」
ページをめくる。文字が滲んでいる。
カイは本を床に戻した。
奥に進む。
閲覧室に出た。
そこには、まだ本棚が残っていた。
何百冊、いや何千冊もの本が並んでいる。
カイは本棚に近づき、一冊を手に取った。
「星の王子さま」
カイは本を開いた。
文字が目に入る。
だが、読む気にはなれなかった。
今さら物語を読んで、何になる。
カイは本を棚に戻した。
その時、声がした。
「久しぶりに来客だ」
カイは振り向いた。
奥の机に、一人の老人が座っていた。
白髪。痩せた体。眼鏡をかけている。
老人は微笑んでいた。
「驚かせたかな」
老人は立ち上がった。
「私はこの図書館の管理人だ。名前はタカシ」
カイは警戒した。
「管理人?」
「そう。世界が終わってからも、ずっとここにいる」
タカシは本棚を撫でた。
「この本たちを守るために」
カイは眉をひそめた。
「何のために」
「知識を守るためだ」
タカシは穏やかに言った。
「人類が再び立ち上がる日が来る。その時、この本たちが役に立つ」
カイは嘲笑した。
「人類が立ち上がる? ありえない。もう終わったんだ」
「そう思うかね」
タカシは首を傾げた。
「君は何歳だ」
「三十五」
「では、世界が終わる前のことを覚えているはずだ」
カイは黙った。
覚えている。学校。友人。家族。平和な日々。
だが、それは遠い昔のことだ。
もう戻らない。
「君の名前は?」
「カイ」
「カイ君。今夜はここに泊まっていくといい。安全だ」
カイは迷った。
だが、外は雨が降っている。地下鉄に戻るのも面倒だ。
「……わかった」
「ありがとう」
タカシは嬉しそうに笑った。
その夜、カイはタカシと食事をした。
タカシは野菜のスープを作った。どこかで栽培しているらしい。
カイは缶詰を分けた。
二人は黙々と食べた。
食事が終わると、タカシは本棚から一冊の本を取り出した。
「これを読んだことはあるかね」
「ドン・キホーテ」
カイは首を振った。
「読んだことはない」
「そうか。では、少し読んでみよう」
タカシはページを開き、読み始めた。
カイは聞いていた。
物語は、狂った騎士の話だった。
現実と妄想の区別がつかず、風車を巨人だと思い込んで戦いを挑む。
カイは思った。
タカシもこの騎士と同じだ。
現実を見ず、妄想に生きている。
人類が再び立ち上がるなど、ありえない。
翌朝、カイは図書館を出ようとした。
だが、タカシが呼び止めた。
「カイ君。少し手伝ってくれないか」
「何を」
「本を整理したいんだ。一人では大変でね」
カイは迷った。
だが、タカシは食事と寝床を提供してくれた。
少しくらいは手伝ってもいいだろう。
「わかった」
「ありがとう」
カイとタカシは一日中、本を整理した。
床に散らばった本を拾い、破れたページを修復し、本棚に戻す。
タカシは本を丁寧に扱った。
まるで宝物のように。
カイは黙々と作業した。
だが、時折、本のタイトルに目が留まった。
「人間失格」「罪と罰」「1984年」
どれも読んだことはない。
だが、タイトルだけで何かを感じた。
夕方になり、作業は終わった。
タカシは満足そうに本棚を眺めた。
「素晴らしい。ありがとう、カイ君」
「別に」
カイは素っ気なく答えた。
その夜も、カイは図書館に泊まった。
三日目。
カイは図書館を出ようとした。
だが、またタカシが引き止めた。
「カイ君。一つ頼みがある」
「何だ」
「屋根が破れているんだ。修理を手伝ってくれないか」
カイはため息をついた。
だが、断る理由もなかった。
「わかった」
カイとタカシは屋根に上った。
破れた箇所を板で塞ぎ、防水シートを張る。
作業中、タカシが話しかけてきた。
「カイ君は、どこから来たんだ」
「北の方」
「家族は?」
「いない」
「そうか」
タカシは黙った。
しばらくして、カイが聞いた。
「あんたは? 家族は?」
「いた」
タカシは遠くを見た。
「妻と娘がいた。だが、もういない」
「死んだのか」
「ああ」
タカシは静かに言った。
「世界が終わった時に」
カイは何も言わなかった。
タカシは微笑んだ。
「だから、この図書館を守っている。妻と娘が愛した場所だから」
カイは胸の奥が痛んだ。
自分にも、かつて家族がいた。
両親。妹。
だが、もういない。
みんな死んだ。
カイは黙って作業を続けた。
一週間が経った。
カイは図書館に留まっていた。
タカシと一緒に本を整理し、修理をし、野菜を育てた。
カイは本を読み始めた。
最初は「星の王子さま」。
次に「銀河鉄道の夜」。
そして「老人と海」。
読むうちに、カイは気づいた。
本の中には、失われた世界があった。
希望、勇気、愛、友情。
かつて人々が大切にしていたもの。
カイはそれらを忘れていた。
いや、捨てていた。
生き延びるために。
ある夜、カイはタカシに聞いた。
「なぜ、こんなことを続けるんだ」
「どういう意味だ」
「本を守って、何になる。もう誰も読まない」
タカシは微笑んだ。
「君が読んでいるじゃないか」
カイは黙った。
タカシは続けた。
「カイ君。人は物語を必要としている。物語がなければ、人は獣になる」
「もう獣だ」
「そうかもしれない。だが、君は違う」
タカシはカイの目を見た。
「君はまだ人間だ。本を読み、感じ、考えている」
カイは目を逸らした。
タカシは言った。
「この図書館は、人間性の最後の砦だ。だから守る」
カイは何も言えなかった。
二週間が経った。
カイは図書館の一室を自分の部屋にしていた。
本に囲まれ、毎晩読書をする。
かつての自分では考えられないことだ。
だが、今は心地よかった。
ある日、カイは窓の外を見た。
雨が降っている。
いつものことだ。
だが、その時、カイは気づいた。
遠くに人影がある。
数人。
武器を持っている。
カイは階段を駆け下りた。
「タカシ! 人が来る!」
タカシは本を閉じた。
「何人だ」
「五人くらい。武装している」
タカシは立ち上がった。
「ここに隠れよう」
「戦わないのか」
「戦っても無駄だ。やり過ごそう」
カイは迷った。
だが、タカシの言う通りだ。
二人は奥の書庫に隠れた。
扉が開く音がした。
男たちの声。
「誰かいるか!」
「本がたくさんあるな」
「燃やして暖を取ろう」
カイの体が硬くなった。
本を燃やす。
そんなことは許せない。
だが、タカシがカイの肩を押さえた。
「我慢しろ」
カイは歯を食いしばった。
男たちが本を集め始める。
ページを破り、積み上げる。
そして、火をつけた。
炎が上がる。
煙が立ち上る。
カイは耐えられなかった。
飛び出そうとした。
だが、タカシが止めた。
「ダメだ」
「でも!」
「命の方が大事だ」
カイは涙が出そうになった。
本が燃えていく。
物語が、知識が、灰になる。
男たちは笑っていた。
「暖かいな」
「もっと燃やそう」
カイは拳を握りしめた。
男たちが去った後、カイとタカシは書庫から出た。
閲覧室は焼け焦げていた。
床には灰が積もっている。
本棚の一部が崩れている。
タカシは膝をついた。
何も言わない。
ただ、灰を見つめている。
カイは胸が張り裂けそうだった。
自分が止めていれば。
戦っていれば。
だが、タカシは正しかった。
戦えば、二人とも死んでいた。
カイはタカシの肩に手を置いた。
「すまない」
タカシは顔を上げた。
涙を流していた。
「いいんだ。君は悪くない」
タカシは立ち上がった。
「まだ本は残っている。書庫の本は無事だ」
「そうだな」
「また始めよう」
タカシは微笑んだ。
カイも頷いた。
その日から、カイとタカシは図書館の再建を始めた。
焼けた本棚を撤去し、新しい棚を作る。
書庫の本を運び出し、並べ直す。
カイは夜遅くまで働いた。
本を守るために。
いつしか、カイにとって図書館は大切な場所になっていた。
ここには、失われた世界がある。
そして、未来への希望がある。
三ヶ月が経った。
図書館は少しずつ元の姿を取り戻していた。
カイは毎日本を読んだ。
「カラマーゾフの兄弟」「百年の孤独」「ユリシーズ」。
難しい本もあったが、読み進めた。
そして、カイは気づいた。
自分が変わったことに。
かつては他人を信じず、奪い、殺すことも厭わなかった。
だが、今は違う。
本を読み、考え、感じることができる。
人間らしさを取り戻した。
ある日、タカシがカイに言った。
「カイ君。お願いがある」
「何だ」
「この図書館を、君に託したい」
カイは驚いた。
「俺に?」
「ああ。私はもう長くない」
タカシは咳をした。
最近、体調が悪そうだった。
「君なら、この図書館を守れる」
カイは首を振った。
「俺には無理だ」
「そんなことはない」
タカシは微笑んだ。
「君は変わった。本を愛し、守ろうとしている」
カイは黙った。
タカシは続けた。
「この図書館は、人間性の砦だ。君がそれを守ってくれ」
カイは目を閉じた。
そして、頷いた。
「わかった」
それから一ヶ月後、タカシは眠るように息を引き取った。
カイはタカシを図書館の裏庭に埋葬した。
墓標には、木の板に名前を刻んだ。
「タカシ。図書館の守護者」
カイは黙祷を捧げた。
そして、図書館に戻った。
カイは一人で図書館を守り続けた。
本を整理し、修理し、新しい本を探しに出かけた。
時折、旅人が訪れた。
カイは彼らに食事と寝床を提供し、本を勧めた。
最初は誰も興味を示さなかった。
だが、何人かは本を読み始めた。
そして、変わっていった。
カイはそれを見て、確信した。
本には力がある。
人を変える力が。
五年が経った。
図書館には、常に数人の人が滞在するようになった。
彼らは本を読み、語り合い、学び合った。
小さなコミュニティができた。
カイはそれを見て、思った。
タカシが正しかった。
人類は再び立ち上がる。
少しずつ、一人ずつ。
この図書館から。
ある日、カイは一人の少女に出会った。
十歳くらい。両親を亡くし、一人で彷徨っていた。
カイは少女を図書館に連れて行った。
食事を与え、寝床を用意し、本を渡した。
「星の王子さま」
少女は本を開いた。
目を輝かせて読み始めた。
カイはそれを見て、微笑んだ。
未来がある。
この少女が、そして次の世代が、世界を再建する。
本と共に。
カイは窓の外を見た。
雨は止んでいた。
雲の切れ間から、光が差し込んでいる。
カイは思った。
世界は終わったのではない。
新しい世界が、今、始まろうとしている。
この図書館で。
カイは本棚に向かった。
そして、一冊の本を手に取った。
「希望」というタイトルだった。
カイはページを開き、読み始めた。




