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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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64/83

【スチームパンク】蒸気都市の歯車職人

 霧が、街を覆っていた。

 蒸気機関の排煙と、テムズ川から立ち上る靄が混ざり合い、ロンドンの街は常に灰色だった。空を見上げても、太陽の姿は霞んでいる。

 

 エドワード・グレイは、工房の窓から外を眺めた。通りには、蒸気自動車が黒煙を吐きながら走っている。歩道には、機械義肢をつけた労働者たちが行き交っていた。

 

 十九世紀末のロンドン。産業革命は、人類に繁栄をもたらした。しかし同時に、格差と汚染ももたらした。

 

 エドワードは、この街で歯車職人として生きていた。時計や機械装置の精密部品を作る職人だ。三十二歳、独身。工房の二階に住み、毎日黙々と仕事をしていた。

 

 彼の手は、魔法のように精密だった。髪の毛ほどの細い歯車を、寸分の狂いもなく削り出せる。その技術は、ロンドン中の時計職人から評価されていた。

 

 しかし、エドワードには秘密があった。

 

 彼が作る歯車には、ただの機械部品以上の何かが宿っていた。


---


 工房のドアが開いた。


 鐘が、カランと鳴る。

 

 エドワードは、作業台から顔を上げた。来客は、若い女性だった。二十代半ばだろうか。質素だが清潔な服を着ている。左手に、小さな懐中時計を持っていた。


「すみません」


女性は、遠慮がちに言った。


「この時計、修理していただけますか」

 

 エドワードは、時計を受け取った。銀製の古い懐中時計。蓋を開けると、文字盤には細かい傷がついている。

 

「動かないんです」


女性が続けた。


「父の形見なんですが、三日前から止まってしまって」

 

 エドワードは、時計の裏蓋を開けた。中の機構を見る。すぐに問題が分かった。主ゼンマイが切れかけている。それに、脱進機の歯車が一つ、摩耗していた。

 

「修理できますか?」


エドワードは静かに言った。


「一週間ほどお時間をいただきます」

 

「本当ですか」


女性の顔が、ぱっと明るくなった。


「ありがとうございます。お代は」

 

「五シリング」

 

「分かりました。一週間後に、また参ります」

 

 女性は、深々と頭を下げて店を出た。


---


 その夜、エドワードは時計の修理に取りかかった。

 

 まず、主ゼンマイを交換する。新しいゼンマイを慎重に巻き込んでいく。次に、摩耗した歯車を作り直す。

 

 エドワードは、真鍮の塊から歯車を削り出した。直径五ミリメートル、歯数十二。顕微鏡を使いながら、一つ一つの歯を精密に仕上げていく。

 

 作業は、深夜まで続いた。

 

 そして、歯車が完成した時、エドワードは不思議な儀式を始めた。

 

 彼は、歯車を手のひらに乗せた。そして、目を閉じて何かを念じる。工房の空気が、わずかに震えた。

 

 歯車が、淡く光った。

 一瞬だけ。誰も気づかないほどの、微かな光。

 

 エドワードは、目を開けた。歯車を時計に組み込む。時計を巻くと、秒針が滑らかに動き始めた。

 

 しかし、ただ動いているだけではなかった。

 時計は、まるで生きているかのように、温かかった。


---


 一週間後、女性が工房を訪れた。

 

「お待ちしておりました」


エドワードは、修理した時計を手渡した。


「動作確認もしましたが、問題ありません」

 

 女性は、時計を受け取った。蓋を開けて、動いている秒針を見つめる。そして、目に涙を浮かべた。

 

「ありがとうございます」


彼女は、声を震わせた。


「父が、また生きているみたいです」

 

 エドワードは、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。

 

 女性は、五シリングを支払って帰っていった。

 

 エドワードは、彼女の後ろ姿を見送った。時計は、彼女のポケットの中で、確かに鼓動していた。


---


 エドワードの「秘密」は、彼自身もよく分かっていなかった。

 

 彼が作った歯車には、何かが宿る。それは、機械に命を吹き込むような、不思議な力だった。

 

 この力に気づいたのは、十年前のことだ。

 

 当時、エドワードは父の工房で修行していた。父は、ロンドンでも有名な時計職人だった。厳格で、完璧主義で、息子にも厳しかった。

 

 ある日、父が倒れた。心臓発作だった。

 医師は、父の心臓が弱っていると診断した。長くはないだろう、と。

 エドワードは、絶望した。

 

 そして、無我夢中で父のために何かを作ろうとした。心臓の代わりになる機械を。蒸気機関の原理を応用した、人工心臓を。

 

 夜通し作業した。歯車を削り、バネを調整し、シリンダーを磨いた。そして、完成した時。

 

 エドワードは、人工心臓を手に持って祈った。

 

「父を、助けてくれ」

 

 その瞬間、人工心臓が光った。

 

 驚いたエドワードは、それを父の胸に埋め込んだ。手術は、街の外科医に頼んだ。

 

 そして、奇跡が起きた。

 

 人工心臓は、完璧に機能した。父の心臓を補助し、命を救った。

 

 父は、あと十年生きた。

 

 その間、エドワードは父から全ての技術を学んだ。そして、父が亡くなった後、工房を継いだ。

 

 しかし、エドワードは決して人工心臓のことを誰にも話さなかった。この力のことも、秘密にした。

 

 なぜなら、恐ろしかったからだ。

 

 自分の力が、どこから来るのか。何を意味するのか。それが分からなかった。


---


 ある日、工房に奇妙な客が訪れた。

 

 背の高い男だった。五十代後半、白髪混じりの髪、鋭い目つき。高価な服を着ているが、どこか不気味な雰囲気があった。

 

「あなたが、エドワード・グレイか」


 男は、低い声で言った。

 

「はい」


 エドワードは、警戒しながら答えた。


「どのようなご用件でしょうか」

 

「私は、ヴィクター・ハートウェル。産業機械の研究をしている」


 男は、名刺を差し出した。


「あなたの噂を聞いた」

 

「噂」

 

「あなたが作る歯車は、特別だという噂だ」


 ハートウェルは、エドワードを見つめた。


「まるで、命が宿っているかのように動くと」

 

 エドワードは、動揺を隠した。

 

「ただの職人の技術です」

 

「そうか」


 ハートウェルは、薄く笑った。


「では、私のために、歯車を作ってくれないか」

 

「どのような」

 

「特別な歯車だ」


 ハートウェルは、懐から設計図を取り出した。


「この図面通りに」

 

 エドワードは設計図を見た。そして、息を呑んだ。

 

 それは、人間の脳の断面図だった。そして、その中に歯車が描かれていた。

 

「これは」

 

「人間の思考を制御する装置だ」


 ハートウェルは、冷たく言った。


「この歯車を脳に埋め込めば、人間を意のままに操れる」

 

 エドワードは、設計図を突き返した。

 

「お断りします」

 

「なぜだ」

 

「そんなもの、作れません」

 

「作れないのか」


ハートウェルは、眉をひそめた。


「それとも、作らないのか」

 

「どちらでも構いません。お帰りください」

 

 ハートウェルは、しばらくエドワードを見つめていた。そして、静かに言った。

 

「残念だ。あなたの力を有効に使えると思ったのだが」

 

「私に、そんな力はありません」

 

「嘘をつくな」

 ハートウェルの声が、鋭くなった。

「あなたが作った人工心臓のことは、知っている」

 

 エドワードは、凍りついた。

 

「どうして」

 

「調べればすぐに分かる」


 ハートウェルは、冷笑した。


「あなたの父親、ジョン・グレイ。彼は、心臓病で死ぬはずだった。しかし、十年も生き延びた。なぜだと思う」

 

「それは」

 

「あなたが、人工心臓を作ったからだ」


 ハートウェルは、一歩近づいた。


「そして、その人工心臓には、普通の機械にはない何かが宿っていた」

 

 エドワードは、後ずさった。

 

「あなたの力は、貴重だ」


 ハートウェルは、続けた。


「私と協力すれば、素晴らしいものが作れる」

 

「断ります」

 

「考え直した方がいい」

 ハートウェルは、ドアに向かって歩いた。

「私は、諦めない。いずれ、あなたは協力することになる」

 

 そう言い残して、ハートウェルは去っていった。


---


 その夜、エドワードは眠れなかった。

 

 ハートウェルの言葉が、頭から離れない。

 

 自分の力を、悪用されるかもしれない。人を操る装置に、使われるかもしれない。

 

 エドワードは、工房の隅にある古い箱を開けた。

 

 中には、父の人工心臓の設計図があった。エドワードが十年前に描いたものだ。

 

 彼は、設計図を見つめた。

 

 この時の自分は、純粋だった。父を救いたい一心で、この装置を作った。

 

 しかし、同じ技術が、人を傷つけるために使われるかもしれない。

 

 エドワードは、設計図を握りしめた。

 

 どうすればいいのか。


---


 翌日、工房に緊急の客が来た。

 

 若い男だった。顔は青ざめ、息が荒い。腕に血まみれの包帯を巻いていた。

 

「助けてください」


 男は懇願した。


「工場の事故で、腕を失いました。義肢が必要なんです」

 

 エドワードは、男の腕を見た。肘から先が完全になくなっていた。

 

「義肢は、専門の職人がいます」


 エドワードは、住所を教えようとした。


「そちらに行かれた方が」

 

「いいえ」


 男は、首を振った。


「あなたに作ってほしいんです」

 

「なぜです」

 

「噂を聞きました」

 男は、真剣な目でエドワードを見た。

「あなたが作る機械には、魂が宿ると」

 

 エドワードは、ためらった。

 

 しかし、男の目を見て決心した。

 

「分かりました。作りましょう」


---


 エドワードは、一週間かけて機械義手を製作した。

 

 真鍮とスチールで骨格を作り、歯車とバネで関節を組んだ。指は、五本全て独立して動く。掌には、圧力センサーを組み込んだ。

 

 そして、最後の仕上げ。

 

 エドワードは、義手を両手で包んだ。目を閉じて、祈る。

 

「この手に、力を与えてくれ」

 

 義手が、淡く光った。

 

 エドワードは、目を開けた。義手を男の腕に装着する。神経と接続し、蒸気圧で動作するように調整した。

 

「動かしてみてください」

 

 男はゆっくりと義手を動かした。指が、滑らかに曲がる。掌が、開閉する。

 

 男は泣いた。

 

「感覚があります」


 彼は、震える声で言った。


「まるで、本物の手のように」

 

 エドワードは、微笑んだ。

 

「良かった」

 

 男は、何度も何度も礼を言った。そして、十ポンドを支払った。通常の義手の倍の値段だったが、男は喜んで払った。

 

 男が去った後、エドワードは自分の手を見つめた。

 

 この力は、人を助けるためにある。

 

 そう、確信した。


---


 しかし、ハートウェルは諦めなかった。

 

 数日後、工房に三人の男が押し入ってきた。

 屈強な男たちだった。明らかに、雇われた荒くれ者だ。

 

「エドワード・グレイだな」


 一人が、凄んだ。


「ハートウェル様の依頼を、受けてもらおうか」

 

 エドワードは、後ずさった。

 

「断ると言ったはずです」

 

「選択肢はない」


 男は、鉄棒を手に取った。


「大人しく従え」

 

 エドワードは、作業台の引き出しを開けた。そこには、護身用のリボルバーがあった。

 

 しかし、撃つ前に、男たちが飛びかかってきた。

 エドワードは、殴られて床に倒れた。意識が遠のく。

 

 その時。

 

 工房の機械たちが、動き始めた。

 

 旋盤が、勝手に回転する。プレス機が、上下する。蒸気機関が、唸りを上げる。

 

 男たちは、驚いて立ち止まった。

 

「何だ、これは」

 

 機械たちは、まるで意志を持っているかのように、男たちを攻撃し始めた。

 

 旋盤のハンドルが、一人の顔面を殴った。プレス機が、もう一人の足を挟んだ。蒸気機関のパイプが外れて、高温の蒸気が噴き出した。

 

 男たちは、悲鳴を上げて逃げ出した。

 

 工房は、再び静かになった。

 

 エドワードは、床に座ったまま、呆然としていた。

 

 機械たちが、自分を守ってくれた。

 

 まるで、生きているかのように。


---


 翌日、エドワードは工房を閉めて、ある場所に向かった。

 

 ロンドン郊外にある、王立科学アカデミー。

 

 彼は、アカデミーの会長、サー・チャールズ・ウィンストンに会いに来た。

 

 ウィンストンは、七十歳を超える老紳士だった。しかし、目は鋭く、知性に満ちていた。

 

「エドワード・グレイ君」


 ウィンストンは、エドワードを応接室に通した。


「君の噂は聞いている」

 

「はい」

 

「そして、君の力についても」


 ウィンストンは、真剣な顔で言った。


「機械に命を吹き込む力」

 

 エドワードは、驚いた。

 

「ご存知なのですか」

 

「長年、科学を研究していれば、世の中には説明できないことがあると分かる」


 ウィンストンは、窓の外を見た。


「君の力は、その一つだ」

 

「私は」


 エドワードは、ためらいながら言った。


「この力を、どう使えばいいのか分かりません」

 

「なぜ、ここに来たのか」

 

「助言が欲しいんです」


 エドワードは、ハートウェルのことを話した。  


「悪用されるのが、怖いんです」

 

 ウィンストンは、しばらく沈黙していた。そして、静かに言った。

 

「エドワード君。力そのものは、善でも悪でもない」

 

「しかし」

 

「使う者の心が、善か悪かを決める」


 ウィンストンは、エドワードを見た。


「君の心は、善だ」

 

「どうして、そう言えるのですか」

 

「君は、人を助けるためにこの力を使っている」


 ウィンストンは、微笑んだ。


「それが、証拠だ」

 

 エドワードは、胸が熱くなった。

 

「では、私は」

 

「この力を、恐れるな」


 ウィンストンは、立ち上がった。


「そして、信じるんだ。自分の心を」

 

 エドワードは、深く頷いた。


---


 その夜、ハートウェルが再び工房を訪れた。

 

 しかし、今回は一人ではなかった。二十人ほどの武装した男たちを連れていた。

 

「エドワード・グレイ」


 ハートウェルは、冷たく言った。


「最後のチャンスだ。協力するか」

 

 エドワードは、作業台の前に立っていた。

 

「断ります」

 

「そうか」


 ハートウェルは、手を上げた。


「ならば、力ずくで」

 

 男たちが、一斉に動いた。

 

 しかし、その時。

 工房中の機械が動き出す。

 

 時計が一斉に鳴り始め、歯車が猛烈な速度で回転し、蒸気機関が咆哮した。

 

 そして、エドワードがこれまで作ってきた全ての機械装置が、意志を持って男たちを攻撃した。

 

 義手が男の顔を殴った。時計の針が槍のように飛んだ。歯車が刃のように回転しながら襲いかかった。

 

 男たちは、次々と倒れていった。

 ハートウェルは、恐怖に顔を歪めた。

 

「化け物め」

 

 エドワードは、静かに言った。

 

「これが、私の力です」

 

「貴様」

 

「私は、この力を人を助けるために使います」


 エドワードは、ハートウェルを見据えた。


「決して、悪用させません」

 

 ハートウェルは、逃げ出そうとした。

 しかし、機械たちが彼を取り囲む。

 

 エドワードは、警察を呼んだ。

 ハートウェルと手下たちは、全員逮捕された。


---


 事件の後、エドワードは工房を再開した。

 

 しかし、以前とは違っていた。

 

 彼は、もう自分の力を恐れなかった。この力を、人のために使うと決めた。

 

 貧しい人々のために、無償で義肢を作った。病気の人々のために、医療機器を作った。

 

 エドワードの名声は、ロンドン中に広まった。

 そして、彼の工房には、今日も多くの人々が訪れる。

 

 希望を持って。


---


 ある春の日。

 

 工房に、一人の少女が来た。

 

 十歳くらいだろうか。汚れた服を着て、裸足だった。左目に包帯を巻いている。

 

「おじさん」


 少女は、小さな声で言った。


「目を、作ってくれませんか」

 

 エドワードは、少女を見た。

 

「目」

 

「工場の事故で、失ったんです」


 少女は、涙を浮かべた。


「もう一度、見たいんです」

 

 エドワードは、膝をついて少女の目線に合わせた。

 

「作ってあげよう」

 

「でも、お金がありません」

 

「いらないよ」


 エドワードは、優しく微笑んだ。


「君の笑顔が見られれば、それで十分だ」

 

 少女は、泣きながら抱きついてきた。

 

 エドワードは、少女を抱きしめた。

 

 そして、心に誓った。

 

 この力を、正しく使い続けようと。


---


 二週間後。

 

 エドワードは、機械義眼を完成させた。

 

 ガラスのレンズに、精密な歯車機構。神経と接続し、視覚情報を脳に伝える。

 

 そして、最後の仕上げ。

 エドワードは、義眼に祈りを込めた。

 

「この目に、光を与えてくれ」

 

 義眼が、淡く輝いた。

 

 少女に装着すると、少女は声を上げた。

 

「見えます」


 彼女は、涙を流した。


「見えます、おじさん」

 

 エドワードは、微笑んだ。

 

「良かった」

 

 少女は、何度も何度も礼を言った。そして、跳ねるように帰っていった。

 

 エドワードは、工房の窓から少女の後ろ姿を見送った。

 

 霧の街、ロンドン。

 蒸気と煤煙に覆われた、灰色の街。

 しかし、エドワードには見えた。

 

 この街の、小さな光たちが。

 

 彼が作った機械たちが、人々に希望を与えている。

 それは、小さな光かもしれない。

 しかし、確かに輝いていた。


---


 その夜、エドワードは作業台に座った。

 新しい依頼の図面を広げる。今度は、車椅子だ。

 彼は、歯車を削り始めた。一つ、また一つ。

 夜が更けても、彼の手は止まらない。

 

 工房には、機械の音だけが響いていた。

 

 そして、エドワードの手から生まれる歯車には、確かに命が宿っていた。

 

 それは、彼の心の温かさだった。

 人を想う、優しさだった。

 機械に魂を吹き込む、愛だった。

 

 蒸気都市の片隅で、一人の職人が今日も働いている。

 

 誰かの幸せのために。

 

 誰かの笑顔のために。

 

 それが、エドワード・グレイという男の、生き方だった。

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