【スチームパンク】蒸気都市の歯車職人
霧が、街を覆っていた。
蒸気機関の排煙と、テムズ川から立ち上る靄が混ざり合い、ロンドンの街は常に灰色だった。空を見上げても、太陽の姿は霞んでいる。
エドワード・グレイは、工房の窓から外を眺めた。通りには、蒸気自動車が黒煙を吐きながら走っている。歩道には、機械義肢をつけた労働者たちが行き交っていた。
十九世紀末のロンドン。産業革命は、人類に繁栄をもたらした。しかし同時に、格差と汚染ももたらした。
エドワードは、この街で歯車職人として生きていた。時計や機械装置の精密部品を作る職人だ。三十二歳、独身。工房の二階に住み、毎日黙々と仕事をしていた。
彼の手は、魔法のように精密だった。髪の毛ほどの細い歯車を、寸分の狂いもなく削り出せる。その技術は、ロンドン中の時計職人から評価されていた。
しかし、エドワードには秘密があった。
彼が作る歯車には、ただの機械部品以上の何かが宿っていた。
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工房のドアが開いた。
鐘が、カランと鳴る。
エドワードは、作業台から顔を上げた。来客は、若い女性だった。二十代半ばだろうか。質素だが清潔な服を着ている。左手に、小さな懐中時計を持っていた。
「すみません」
女性は、遠慮がちに言った。
「この時計、修理していただけますか」
エドワードは、時計を受け取った。銀製の古い懐中時計。蓋を開けると、文字盤には細かい傷がついている。
「動かないんです」
女性が続けた。
「父の形見なんですが、三日前から止まってしまって」
エドワードは、時計の裏蓋を開けた。中の機構を見る。すぐに問題が分かった。主ゼンマイが切れかけている。それに、脱進機の歯車が一つ、摩耗していた。
「修理できますか?」
エドワードは静かに言った。
「一週間ほどお時間をいただきます」
「本当ですか」
女性の顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます。お代は」
「五シリング」
「分かりました。一週間後に、また参ります」
女性は、深々と頭を下げて店を出た。
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その夜、エドワードは時計の修理に取りかかった。
まず、主ゼンマイを交換する。新しいゼンマイを慎重に巻き込んでいく。次に、摩耗した歯車を作り直す。
エドワードは、真鍮の塊から歯車を削り出した。直径五ミリメートル、歯数十二。顕微鏡を使いながら、一つ一つの歯を精密に仕上げていく。
作業は、深夜まで続いた。
そして、歯車が完成した時、エドワードは不思議な儀式を始めた。
彼は、歯車を手のひらに乗せた。そして、目を閉じて何かを念じる。工房の空気が、わずかに震えた。
歯車が、淡く光った。
一瞬だけ。誰も気づかないほどの、微かな光。
エドワードは、目を開けた。歯車を時計に組み込む。時計を巻くと、秒針が滑らかに動き始めた。
しかし、ただ動いているだけではなかった。
時計は、まるで生きているかのように、温かかった。
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一週間後、女性が工房を訪れた。
「お待ちしておりました」
エドワードは、修理した時計を手渡した。
「動作確認もしましたが、問題ありません」
女性は、時計を受け取った。蓋を開けて、動いている秒針を見つめる。そして、目に涙を浮かべた。
「ありがとうございます」
彼女は、声を震わせた。
「父が、また生きているみたいです」
エドワードは、何も言わなかった。ただ、静かに頷いた。
女性は、五シリングを支払って帰っていった。
エドワードは、彼女の後ろ姿を見送った。時計は、彼女のポケットの中で、確かに鼓動していた。
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エドワードの「秘密」は、彼自身もよく分かっていなかった。
彼が作った歯車には、何かが宿る。それは、機械に命を吹き込むような、不思議な力だった。
この力に気づいたのは、十年前のことだ。
当時、エドワードは父の工房で修行していた。父は、ロンドンでも有名な時計職人だった。厳格で、完璧主義で、息子にも厳しかった。
ある日、父が倒れた。心臓発作だった。
医師は、父の心臓が弱っていると診断した。長くはないだろう、と。
エドワードは、絶望した。
そして、無我夢中で父のために何かを作ろうとした。心臓の代わりになる機械を。蒸気機関の原理を応用した、人工心臓を。
夜通し作業した。歯車を削り、バネを調整し、シリンダーを磨いた。そして、完成した時。
エドワードは、人工心臓を手に持って祈った。
「父を、助けてくれ」
その瞬間、人工心臓が光った。
驚いたエドワードは、それを父の胸に埋め込んだ。手術は、街の外科医に頼んだ。
そして、奇跡が起きた。
人工心臓は、完璧に機能した。父の心臓を補助し、命を救った。
父は、あと十年生きた。
その間、エドワードは父から全ての技術を学んだ。そして、父が亡くなった後、工房を継いだ。
しかし、エドワードは決して人工心臓のことを誰にも話さなかった。この力のことも、秘密にした。
なぜなら、恐ろしかったからだ。
自分の力が、どこから来るのか。何を意味するのか。それが分からなかった。
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ある日、工房に奇妙な客が訪れた。
背の高い男だった。五十代後半、白髪混じりの髪、鋭い目つき。高価な服を着ているが、どこか不気味な雰囲気があった。
「あなたが、エドワード・グレイか」
男は、低い声で言った。
「はい」
エドワードは、警戒しながら答えた。
「どのようなご用件でしょうか」
「私は、ヴィクター・ハートウェル。産業機械の研究をしている」
男は、名刺を差し出した。
「あなたの噂を聞いた」
「噂」
「あなたが作る歯車は、特別だという噂だ」
ハートウェルは、エドワードを見つめた。
「まるで、命が宿っているかのように動くと」
エドワードは、動揺を隠した。
「ただの職人の技術です」
「そうか」
ハートウェルは、薄く笑った。
「では、私のために、歯車を作ってくれないか」
「どのような」
「特別な歯車だ」
ハートウェルは、懐から設計図を取り出した。
「この図面通りに」
エドワードは設計図を見た。そして、息を呑んだ。
それは、人間の脳の断面図だった。そして、その中に歯車が描かれていた。
「これは」
「人間の思考を制御する装置だ」
ハートウェルは、冷たく言った。
「この歯車を脳に埋め込めば、人間を意のままに操れる」
エドワードは、設計図を突き返した。
「お断りします」
「なぜだ」
「そんなもの、作れません」
「作れないのか」
ハートウェルは、眉をひそめた。
「それとも、作らないのか」
「どちらでも構いません。お帰りください」
ハートウェルは、しばらくエドワードを見つめていた。そして、静かに言った。
「残念だ。あなたの力を有効に使えると思ったのだが」
「私に、そんな力はありません」
「嘘をつくな」
ハートウェルの声が、鋭くなった。
「あなたが作った人工心臓のことは、知っている」
エドワードは、凍りついた。
「どうして」
「調べればすぐに分かる」
ハートウェルは、冷笑した。
「あなたの父親、ジョン・グレイ。彼は、心臓病で死ぬはずだった。しかし、十年も生き延びた。なぜだと思う」
「それは」
「あなたが、人工心臓を作ったからだ」
ハートウェルは、一歩近づいた。
「そして、その人工心臓には、普通の機械にはない何かが宿っていた」
エドワードは、後ずさった。
「あなたの力は、貴重だ」
ハートウェルは、続けた。
「私と協力すれば、素晴らしいものが作れる」
「断ります」
「考え直した方がいい」
ハートウェルは、ドアに向かって歩いた。
「私は、諦めない。いずれ、あなたは協力することになる」
そう言い残して、ハートウェルは去っていった。
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その夜、エドワードは眠れなかった。
ハートウェルの言葉が、頭から離れない。
自分の力を、悪用されるかもしれない。人を操る装置に、使われるかもしれない。
エドワードは、工房の隅にある古い箱を開けた。
中には、父の人工心臓の設計図があった。エドワードが十年前に描いたものだ。
彼は、設計図を見つめた。
この時の自分は、純粋だった。父を救いたい一心で、この装置を作った。
しかし、同じ技術が、人を傷つけるために使われるかもしれない。
エドワードは、設計図を握りしめた。
どうすればいいのか。
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翌日、工房に緊急の客が来た。
若い男だった。顔は青ざめ、息が荒い。腕に血まみれの包帯を巻いていた。
「助けてください」
男は懇願した。
「工場の事故で、腕を失いました。義肢が必要なんです」
エドワードは、男の腕を見た。肘から先が完全になくなっていた。
「義肢は、専門の職人がいます」
エドワードは、住所を教えようとした。
「そちらに行かれた方が」
「いいえ」
男は、首を振った。
「あなたに作ってほしいんです」
「なぜです」
「噂を聞きました」
男は、真剣な目でエドワードを見た。
「あなたが作る機械には、魂が宿ると」
エドワードは、ためらった。
しかし、男の目を見て決心した。
「分かりました。作りましょう」
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エドワードは、一週間かけて機械義手を製作した。
真鍮とスチールで骨格を作り、歯車とバネで関節を組んだ。指は、五本全て独立して動く。掌には、圧力センサーを組み込んだ。
そして、最後の仕上げ。
エドワードは、義手を両手で包んだ。目を閉じて、祈る。
「この手に、力を与えてくれ」
義手が、淡く光った。
エドワードは、目を開けた。義手を男の腕に装着する。神経と接続し、蒸気圧で動作するように調整した。
「動かしてみてください」
男はゆっくりと義手を動かした。指が、滑らかに曲がる。掌が、開閉する。
男は泣いた。
「感覚があります」
彼は、震える声で言った。
「まるで、本物の手のように」
エドワードは、微笑んだ。
「良かった」
男は、何度も何度も礼を言った。そして、十ポンドを支払った。通常の義手の倍の値段だったが、男は喜んで払った。
男が去った後、エドワードは自分の手を見つめた。
この力は、人を助けるためにある。
そう、確信した。
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しかし、ハートウェルは諦めなかった。
数日後、工房に三人の男が押し入ってきた。
屈強な男たちだった。明らかに、雇われた荒くれ者だ。
「エドワード・グレイだな」
一人が、凄んだ。
「ハートウェル様の依頼を、受けてもらおうか」
エドワードは、後ずさった。
「断ると言ったはずです」
「選択肢はない」
男は、鉄棒を手に取った。
「大人しく従え」
エドワードは、作業台の引き出しを開けた。そこには、護身用のリボルバーがあった。
しかし、撃つ前に、男たちが飛びかかってきた。
エドワードは、殴られて床に倒れた。意識が遠のく。
その時。
工房の機械たちが、動き始めた。
旋盤が、勝手に回転する。プレス機が、上下する。蒸気機関が、唸りを上げる。
男たちは、驚いて立ち止まった。
「何だ、これは」
機械たちは、まるで意志を持っているかのように、男たちを攻撃し始めた。
旋盤のハンドルが、一人の顔面を殴った。プレス機が、もう一人の足を挟んだ。蒸気機関のパイプが外れて、高温の蒸気が噴き出した。
男たちは、悲鳴を上げて逃げ出した。
工房は、再び静かになった。
エドワードは、床に座ったまま、呆然としていた。
機械たちが、自分を守ってくれた。
まるで、生きているかのように。
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翌日、エドワードは工房を閉めて、ある場所に向かった。
ロンドン郊外にある、王立科学アカデミー。
彼は、アカデミーの会長、サー・チャールズ・ウィンストンに会いに来た。
ウィンストンは、七十歳を超える老紳士だった。しかし、目は鋭く、知性に満ちていた。
「エドワード・グレイ君」
ウィンストンは、エドワードを応接室に通した。
「君の噂は聞いている」
「はい」
「そして、君の力についても」
ウィンストンは、真剣な顔で言った。
「機械に命を吹き込む力」
エドワードは、驚いた。
「ご存知なのですか」
「長年、科学を研究していれば、世の中には説明できないことがあると分かる」
ウィンストンは、窓の外を見た。
「君の力は、その一つだ」
「私は」
エドワードは、ためらいながら言った。
「この力を、どう使えばいいのか分かりません」
「なぜ、ここに来たのか」
「助言が欲しいんです」
エドワードは、ハートウェルのことを話した。
「悪用されるのが、怖いんです」
ウィンストンは、しばらく沈黙していた。そして、静かに言った。
「エドワード君。力そのものは、善でも悪でもない」
「しかし」
「使う者の心が、善か悪かを決める」
ウィンストンは、エドワードを見た。
「君の心は、善だ」
「どうして、そう言えるのですか」
「君は、人を助けるためにこの力を使っている」
ウィンストンは、微笑んだ。
「それが、証拠だ」
エドワードは、胸が熱くなった。
「では、私は」
「この力を、恐れるな」
ウィンストンは、立ち上がった。
「そして、信じるんだ。自分の心を」
エドワードは、深く頷いた。
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その夜、ハートウェルが再び工房を訪れた。
しかし、今回は一人ではなかった。二十人ほどの武装した男たちを連れていた。
「エドワード・グレイ」
ハートウェルは、冷たく言った。
「最後のチャンスだ。協力するか」
エドワードは、作業台の前に立っていた。
「断ります」
「そうか」
ハートウェルは、手を上げた。
「ならば、力ずくで」
男たちが、一斉に動いた。
しかし、その時。
工房中の機械が動き出す。
時計が一斉に鳴り始め、歯車が猛烈な速度で回転し、蒸気機関が咆哮した。
そして、エドワードがこれまで作ってきた全ての機械装置が、意志を持って男たちを攻撃した。
義手が男の顔を殴った。時計の針が槍のように飛んだ。歯車が刃のように回転しながら襲いかかった。
男たちは、次々と倒れていった。
ハートウェルは、恐怖に顔を歪めた。
「化け物め」
エドワードは、静かに言った。
「これが、私の力です」
「貴様」
「私は、この力を人を助けるために使います」
エドワードは、ハートウェルを見据えた。
「決して、悪用させません」
ハートウェルは、逃げ出そうとした。
しかし、機械たちが彼を取り囲む。
エドワードは、警察を呼んだ。
ハートウェルと手下たちは、全員逮捕された。
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事件の後、エドワードは工房を再開した。
しかし、以前とは違っていた。
彼は、もう自分の力を恐れなかった。この力を、人のために使うと決めた。
貧しい人々のために、無償で義肢を作った。病気の人々のために、医療機器を作った。
エドワードの名声は、ロンドン中に広まった。
そして、彼の工房には、今日も多くの人々が訪れる。
希望を持って。
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ある春の日。
工房に、一人の少女が来た。
十歳くらいだろうか。汚れた服を着て、裸足だった。左目に包帯を巻いている。
「おじさん」
少女は、小さな声で言った。
「目を、作ってくれませんか」
エドワードは、少女を見た。
「目」
「工場の事故で、失ったんです」
少女は、涙を浮かべた。
「もう一度、見たいんです」
エドワードは、膝をついて少女の目線に合わせた。
「作ってあげよう」
「でも、お金がありません」
「いらないよ」
エドワードは、優しく微笑んだ。
「君の笑顔が見られれば、それで十分だ」
少女は、泣きながら抱きついてきた。
エドワードは、少女を抱きしめた。
そして、心に誓った。
この力を、正しく使い続けようと。
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二週間後。
エドワードは、機械義眼を完成させた。
ガラスのレンズに、精密な歯車機構。神経と接続し、視覚情報を脳に伝える。
そして、最後の仕上げ。
エドワードは、義眼に祈りを込めた。
「この目に、光を与えてくれ」
義眼が、淡く輝いた。
少女に装着すると、少女は声を上げた。
「見えます」
彼女は、涙を流した。
「見えます、おじさん」
エドワードは、微笑んだ。
「良かった」
少女は、何度も何度も礼を言った。そして、跳ねるように帰っていった。
エドワードは、工房の窓から少女の後ろ姿を見送った。
霧の街、ロンドン。
蒸気と煤煙に覆われた、灰色の街。
しかし、エドワードには見えた。
この街の、小さな光たちが。
彼が作った機械たちが、人々に希望を与えている。
それは、小さな光かもしれない。
しかし、確かに輝いていた。
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その夜、エドワードは作業台に座った。
新しい依頼の図面を広げる。今度は、車椅子だ。
彼は、歯車を削り始めた。一つ、また一つ。
夜が更けても、彼の手は止まらない。
工房には、機械の音だけが響いていた。
そして、エドワードの手から生まれる歯車には、確かに命が宿っていた。
それは、彼の心の温かさだった。
人を想う、優しさだった。
機械に魂を吹き込む、愛だった。
蒸気都市の片隅で、一人の職人が今日も働いている。
誰かの幸せのために。
誰かの笑顔のために。
それが、エドワード・グレイという男の、生き方だった。




