【ホラー】井戸の底
祖父の家には、古い井戸があった。
石で作られた、深い井戸。
使われなくなって、何十年も経っていた。
木の蓋がしてあり、近づくなと言われていた。
太郎は、その井戸が気になっていた。十五歳。夏休みを利用して、祖父の家に来ていた。
都会育ちの太郎にとって、田舎の祖父の家は退屈だった。テレビもゲームもない。友達もいない。
だから、太郎は家の周りを探検していた。
そして、裏庭の井戸を見つけた。
「これ、井戸か」
太郎は、蓋に近づいた。
古い木の蓋。苔が生えている。
太郎は、蓋をずらしてみた。
重かったが、動いた。
隙間から、中を覗き込んだ。
暗い。
底が見えない。
しかし、水の匂いがした。
太郎は、小石を落としてみた。
石は、闇の中に消えた。
数秒後、ポチャンという音が聞こえた。
「深いな」
太郎は、興味を持った。
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夕食の時、太郎は祖父に聞いた。
「裏の井戸、いつ頃からあるの」
祖父の箸が、止まった。
「井戸を見たのか」
「うん」
「あそこには、近づくな」
祖父の声は、厳しかった。
「どうして」
「昔から、あの井戸は不吉だと言われている」
祖父は、茶碗を置いた。
「何があったの」
「七十年前、村の娘が井戸に落ちた」
祖父は、遠い目をした。
「救出しようとしたが、見つからなかった」
「死んだの」
「分からない。遺体も、見つからなかった」
祖父は、太郎を見た。
「それ以来、あの井戸には近づくなと、言い伝えられている」
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その夜、太郎は眠れなかった。
井戸の話が、頭から離れない。
娘が落ちて、遺体が見つからなかった。
七十年前。
太郎は、窓から外を見た。
月明かりに照らされた、井戸の蓋が見えた。
太郎は、ベッドから起きた。
懐中電灯を持って、外に出た。
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井戸の前に立った太郎は、蓋を完全に開けた。
重い蓋が、地面に倒れた。
井戸の中は、真っ暗だった。
太郎は、懐中電灯で照らした。
石で作られた壁。
ずっと下まで続いている。
底は、見えない。
太郎は、懐中電灯を井戸の中に落としてみた。
光が、闇を照らしながら落ちていく。
そして、水面に当たった。
ポチャンという音。
光は、水中に沈んでいった。
しかし、消える直前、太郎は何かを見た。
水の中に、白いもの。
人の形のような。
太郎は、目を凝らした。
しかし、もう光は消えていた。
井戸の中は、再び闇に戻った。
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翌日、太郎は村の図書館に行った。
七十年前の新聞を探した。
マイクロフィルムに、記事が残っていた。
『村の娘、井戸に転落。救出できず』
記事には、娘の写真があった。
十六歳の少女。
名前は、花子。
美しい少女だった。
記事によると、花子は水を汲みに行った時、井戸に落ちた。
村人が総出で探したが、見つからなかった。
井戸の水を全部汲み出しても、遺体はなかった。
どこに消えたのか、誰にも分からなかった。
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その夜、太郎は夢を見た。
井戸の中にいる夢。
暗い水の中。
太郎は、沈んでいく。
息ができない。
苦しい。
下を見ると、底が見えた。
そこには、白い服を着た少女がいた。
花子だった。
花子は、太郎を見上げて、手を伸ばした。
太郎は、その手を掴もうとした。
しかし、届かなかった。
花子の口が、動いた。
「助けて」
声が、水の中で響いた。
「寒い」
「暗い」
「一人は、嫌」
太郎は、目が覚めた。
汗びっしょりだった。
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翌朝、太郎は祖父に聞いた。
「花子さんって、どんな人だったの」
祖父は、驚いた顔をした。
「どうして、花子のことを」
「図書館で、記事を見た」
祖父は、ため息をついた。
「花子は、優しい娘だった」
「いつも笑顔で、村の子供たちと遊んでいた」
「でも、ある日突然、いなくなった」
祖父は、窓の外を見た。
「みんな、悲しんだ」
「遺体が見つからないから、葬式もできなかった」
「花子は、今もあの井戸の中にいるんだ」
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その夜、太郎は再び井戸に行った。
蓋を開けて、中を覗き込んだ。
懐中電灯で照らす。
深い闇。
そして、水面。
太郎は、声をかけた。
「花子さん」
返事はなかった。
「もし聞こえているなら、答えて」
沈黙。
太郎は、諦めかけた。
その時、水面が揺れた。
誰も触れていないのに。
波紋が、広がった。
そして、水の中から、声が聞こえた。
「誰」
女性の声。
弱々しい声。
「僕は、太郎。この家の孫です」
「太郎」
「あなたは、花子さんですか」
沈黙。
そして、答えが返ってきた。
「そう。私は、花子」
太郎の背筋が、寒くなった。
本当に、いる。
井戸の中に、花子がいる。
「助けてほしい」
花子が、言った。
「私は、ここにいる」
「七十年も」
「寒くて、暗くて、怖い」
「お願い、助けて」
太郎は、どうすればいいか分からなかった。
「どうやって助ければ」
「来て」
花子が、言った。
「井戸の中に、来て」
「え」
「ここに来れば、会える」
「そして、一緒に出られる」
太郎は、躊躇した。
井戸の中に入る。
それは、危険だ。
しかし、花子を助けたい。
太郎は、決断した。
「分かった。行く」
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太郎は、ロープを用意した。
木に結びつけて、井戸の中に垂らした。
そして、ロープを掴んで、井戸に入った。
足が、壁に触れた。
冷たい石。
太郎は、ゆっくりと降りていった。
周りは、真っ暗だった。
懐中電灯を口に咥えて、両手でロープを握った。
下へ、下へ。
どれくらい降りたのか、分からなかった。
やがて、足が水に触れた。
冷たい。
氷のように冷たい。
太郎は、水の中に入った。
膝まで。
腰まで。
胸まで。
太郎は、周りを見回した。
懐中電灯で照らす。
狭い空間。
石の壁に囲まれている。
そして、前方に、白い影が見えた。
人の形。
花子だった。
白い服を着た少女。
長い黒髪。
青白い顔。
花子は、太郎を見て、微笑んだ。
「来てくれたのね」
「はい」
太郎は、震えながら答えた。
「ありがとう」
花子が、手を伸ばした。
「さあ、一緒に上がりましょう」
太郎は、花子の手を掴んだ。
冷たかった。
氷のように。
そして、重かった。
まるで、鉛のように。
太郎は、ロープを引いた。
しかし、体が上がらなかった。
花子が、重すぎる。
「おかしい」
太郎は、花子を見た。
花子の顔が、変わっていた。
笑顔ではなく、悲しい顔。
いや、怒った顔。
「嘘つき」
花子が、言った。
「助けるって、言ったのに」
「え」
「一緒に出るって、言ったのに」
花子の手が、太郎の腕を強く掴んだ。
「あなたも、ここにいて」
「一緒に」
太郎は、恐怖を感じた。
ロープを必死で引いた。
しかし、花子は離さなかった。
それどころか、引っ張った。
下へ。
水の中へ。
太郎は、水に沈んでいった。
口に、水が入ってきた。
苦しい。
太郎は、花子の手を振りほどこうとした。
しかし、力が強かった。
水が、太郎を包んでいく。
意識が、遠のいていった。
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その時、上から声が聞こえた。
「太郎!」
祖父の声だった。
ロープが、引っ張られた。
太郎の体が、上がっていく。
花子は、まだ掴んでいた。
しかし、徐々に手が緩んでいった。
そして、離れた。
太郎は、水面から出た。
空気が、肺に入ってきた。
祖父が、太郎を引き上げた。
井戸の外に。
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太郎は、地面に倒れた。
激しく咳き込む。
祖父が、背中を叩いた。
「大丈夫か」
「はい」
太郎は、震えていた。
祖父は、井戸の中を覗き込んだ。
そして、急いで蓋を閉めた。
「もう、二度と開けるな」
祖父の声は、厳しかった。
「あの井戸には、花子がいる」
「彼女は、もう人間ではない」
「七十年も井戸にいたら、心が壊れるんだ」
「誰かを道連れにしようとする」
太郎は、何も言えなかった。
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翌日、太郎は東京に帰った。
祖父の家には、二度と来なかった。
しかし、時々、夢を見た。
井戸の夢。
暗い水の中で、花子が待っている夢。
花子は、いつも同じことを言った。
「また、来てね」
「一緒に、いてほしい」
太郎は、目が覚めると、汗びっしょりだった。
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十年後、祖父が亡くなった。
太郎は、葬式のために村に戻った。
祖父の家は、誰も住まなくなっていた。
太郎は、裏庭に行った。
井戸は、まだそこにあった。
蓋も、そのままだった。
太郎は、井戸に近づいた。
蓋の隙間から、中を覗き込んだ。
暗い。
しかし、水の匂いがした。
そして、声が聞こえた。
「太郎」
花子の声。
「久しぶり」
「また、来てくれたのね」
太郎は、蓋から離れた。
「今度こそ、一緒に出ましょう」
花子の声が、続いた。
「ずっと、待っていたの」
太郎は、走って家に戻った。
翌日、太郎は村を離れた。
二度と、戻らなかった。
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しかし、花子は今も井戸の中にいる。
誰かが来るのを、待っている。
誰かが、蓋を開けるのを。
誰かが、中に入ってくるのを。
そして、一緒に。
永遠に。
井戸の底で。




