【奇譚】影の取引
カフェで隣に座った男が、突然話しかけてきた。
「影、売りませんか?」
「は?」
男は名刺を差し出した。
『株式会社シャドウトレード 営業部 黒田』
「影を買い取るビジネスをしています。最近話題なんですよ」
「影を...買い取る?」
「ええ。あなたの影には価値があります」
黒田は僕の足元を指差した。
「特に若い方の影は高値で取引されています」
馬鹿げた話だと思った。しかし黒田が提示した金額を聞いて、考えが変わった。
「三百万円です。今すぐ現金でお支払いします」
「三百万...」
当時の僕は借金まみれだった。
消費者金融からの督促に追われる日々。三百万あれば、全て返済できる。
「影がなくなっても、生活に支障はないんですか?」
「もちろんです。ただ、太陽の下であなたの影が映らなくなるだけです」
それだけ? そんなことで三百万?
僕は契約した。
特殊な機械で、僕の影が「採取」された。本当に足元から影が消えた。晴れた日に外を歩いても、地面に何も映らない。
最初は奇妙な感覚だった。しかし誰も気づかない。人は他人の影など見ていないのだ。
三百万で借金を返済し、新しい生活が始まった。
しかし、一ヶ月後から異変が起きた。
写真に写らなくなった。いや、正確には写るのだが、僕の部分だけがぼやけている。まるで存在感が薄れているかのように。
二ヶ月後、職場で名前を呼ばれなくなった。
「あの...」と上司に声をかけても、上司の視線が僕を素通りする。
「誰かいるか?」
と上司が辺りを見回す。
僕は目の前にいるのに。
三ヶ月後、アパートの契約が「不思議なことに」解除されていた。
「記録にあなたの名前がないんです」と管理会社が言った。
「おかしい! 二年前から住んでます!」
「でも、誰も覚えてないんです。あなたのこと」
家族に連絡した。しかし母の声が冷たかった。
「どなた様ですか?」
「俺だよ! 息子の!」
「うちには息子はいません」
電話は切られた。
慌てて黒田に連絡した。
「影を返してください! 何か間違ってる!」
黒田は冷静に答えた。
「契約書を読まれましたか? 影を失うということは、存在の証明を失うということです」
「そんな説明、聞いてない!」
「小さく書いてありましたよ。影は存在の定着装置です。それがなくなれば、徐々に世界から消えていきます」
「消える...」
「ええ。最終的には完全に。誰の記憶からも、記録からも」
「影を返せ!」
「それは無理です。すでに別の方に販売しましたから」
「誰に!?」
黒田は答えなかった。
それから僕は、影を買った人物を探し始めた。
手がかりは少なかった。しかしある日、街で見かけた。
異様に濃い影を持つ男。いや、二つの影を持つ男。
「あなた...」
と僕は声をかけた。
男は振り返った。五十代くらいの会社員風だ。
「私の影を返してください」
「君の影?」
男は驚いた様子だった。
「ああ、君が元の持ち主か」
「なぜ買ったんですか?」
男は悲しそうに笑った。
「私はもうすぐ死ぬんだ。末期がんでね。でも、影を買い足せば、存在が強化される。記憶に残る。死んでも、人々が私を覚えていてくれる」
「そのために、僕の人生を奪うんですか!?」
「奪う? 私は正当に購入した。君が売ったんだろう」
男は去っていった。二つの影を引きずりながら。
四ヶ月後、僕は完全に透明人間のようになっていた。
誰も僕を認識しない。声をかけても、聞こえていないかのように無視される。
コンビニで買い物をしようとしても、レジの店員が僕を見ない。お金を置いても「誰が置いたんだろう」と首を傾げるだけ。
ある夜、公園のベンチで座っていると、黒田が隣に座った。
「調子はどうですか」
「最悪だ...」
「そろそろ限界でしょう。あと一週間で、完全に消滅します」
「助けてくれ...」
「方法は一つだけあります」
黒田が封筒を差し出した。
「他の誰かの影を買うんです」
「は?」
「あなたが影を買えば、存在が復活します。もちろん、売った相手は消えていきますが」
封筒の中には契約書が入っていた。ターゲットの名前欄は空白だ。
「誰でもいいんです。あなたが選んで、契約を交わせば」
「そんなこと...できない」
「では、消えますか?」
黒田は立ち上がった。
「考える時間はあと一週間です」
六日後、僕は決断した。
街で見かけた若い男に声をかけた。彼には僕の姿が見えていた。消えかけている人間は、まだ認識できるらしい。
「影、売りませんか?」
と僕は言った。
男は怪訝な顔をした。
「何の話ですか?」
「三百万円で買い取ります」
男の目が輝いた。
「三百万...本当ですか?」
契約書にサインをもらった。機械で男の影を採取した。
瞬間、僕の足元に影が戻った。体が実体を取り戻していく感覚。
「あれ...」
男が自分の足元を見て、戸惑っている。
「大丈夫ですよ」
と僕は嘘をついた。
「何も問題ありません」
男は笑顔で去っていった。
一ヶ月後、その男から着信があった。しかし僕は出なかった。
二ヶ月後、着信は止んだ。
三ヶ月後、街でその男を見かけた気がした。しかし誰も彼に気づいていなかった。
彼の姿は半透明だった。
僕は目を逸らして、歩き続けた。
自分の影を見つめながら。
誰かの人生を奪って手に入れた、この影を。
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