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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【ホラー】応答

 引っ越してきたその日、隣の部屋から聞こえてきたのは、規則正しいノック音だった。


 コン、コン、コン。


 三回。必ず三回。


 間隔は、きっかり五秒。


 午後十時から、午前二時まで。毎晩、欠かさず。


 木村拓也は最初、壁掛け時計でも落ちているのかと思った。しかし、四時間も続くはずがない。


 そして、五日目の夜。


 ノックが、拓也の部屋のドアに変わった。


---


 拓也が303号室に引っ越してきたのは、十月の初めだった。


 駅から徒歩十五分、築三十年の古いアパート。家賃は四万円と格安だった。


「前の住人は、どうして出て行ったんですか」


 拓也が大家に尋ねると、老婆は曖昧に笑った。


「さあ、転勤とか言ってたかねえ」


 拓也は気にしなかった。安ければ、それでよかった。


---


 隣の302号室には、誰が住んでいるのか分からなかった。


 表札はなく、郵便受けには「302」とだけ書かれていた。


 拓也は、一度だけ廊下で隣人とすれ違った。


 痩せた男だった。年齢は四十代か、五十代か。顔色が悪く、目が落ち窪んでいた。


 拓也が会釈すると、男は無表情のまま通り過ぎた。


 その時、男の服から、かすかに土の匂いがした。


---


 ノックが始まったのは、引っ越して三日目の夜だった。


 拓也がベッドに入ろうとした時、壁の向こうから音が聞こえてきた。


 コン、コン、コン。


 三回。そして、五秒の沈黙。


 コン、コン、コン。


 また三回。


 拓也は、壁に耳を当てた。音は、確かに隣の部屋から聞こえていた。


 何かを叩いている音。ドアか、壁か、床か。


 拓也は、イヤホンをして音楽を聴いた。しかし、ノック音は音楽を貫通して聞こえてきた。


 コン、コン、コン。


---


 翌朝、拓也は大家に苦情を言った。


「隣の部屋、夜中にずっとノックの音がするんですけど」


 大家の顔が、わずかに強張った。


「302号室、ねえ」


「はい。何とかしてもらえませんか」


「あそこの住人、ちょっと変わった人でねえ。注意はしておくけど」


 大家は、それ以上何も言わなかった。


---


 しかし、ノックは止まらなかった。


 毎晩、午後十時きっかりに始まり、午前二時まで続いた。


 コン、コン、コン。五秒。コン、コン、コン。五秒。


 拓也は、眠れなくなった。目の下に隈ができ、仕事にも集中できなくなった。


「大家さん、まだノックが止まないんですけど」


 拓也が再度苦情を言うと、大家は困った顔をした。


「注意はしたんだけどねえ。あの人、話が通じなくて」


「じゃあ、どうすれば」


「我慢してくれないかねえ。家賃、少し安くするから」


 拓也は、ため息をついた。


---


 五日目の夜。


 ノックの音が、止まった。


 拓也は、ほっとした。ようやく眠れると。


 しかし、午後十時を五分過ぎた頃。


 今度は、拓也の部屋のドアがノックされた。


 コン、コン、コン。


 拓也は、ベッドから跳ね起きた。


 玄関のドアを見る。ドアスコープから廊下を覗いた。


 誰もいなかった。


 しかし、ノックは続いた。


 コン、コン、コン。


 拓也は、ドアを開けた。


「誰だ」


 廊下には、誰もいなかった。両隣の部屋も、静まり返っている。


 拓也がドアを閉めようとした時、足元に何かがあることに気づいた。


 白い紙。


 拾い上げると、そこには几帳面な字でこう書かれていた。


「応答してください」


---


 拓也は、紙を握りしめた。


 応答、だと。


 何に応答しろというのか。


 翌日、拓也は隣の302号室のドアをノックした。


 しかし、応答はなかった。何度ノックしても、中から音はしなかった。


---


 その夜、またノックが始まった。


 今度は、最初から拓也の部屋のドアだった。


 コン、コン、コン。五秒。コン、コン、コン。


 拓也は、ドアを開けた。


「何なんだよ、いい加減にしろ」


 廊下には、やはり誰もいなかった。


 しかし、足元にまた紙があった。


「なぜ応答しないのですか」


 拓也は、紙を破り捨てた。


「ふざけんな」


---


 ノックは、毎晩続いた。


 そして、毎晩、同じメッセージが置かれていた。


「応答してください」


「なぜ無視するのですか」


「私はここにいます」


「あなたも応答すべきです」


 拓也は、警察に相談した。


「隣人からの嫌がらせで」


 しかし、警察官は困った顔をした。


「ノックの音と、手紙だけですか」


「はい」


「それだと、民事不介入なんですよね」


「でも、毎晩ずっとですよ」


「直接話し合ってみてはどうですか」


 拓也は、諦めた。


---


 十日目の夜。


 ノックの音が、変わった。


 今までは、ドアだけだった。しかし、この夜は違った。


 コン、コン、コン。ドア。


 コン、コン、コン。窓。


 コン、コン、コン。壁。


 コン、コン、コン。床。


 部屋中から、ノック音が聞こえてきた。


 拓也は、パニックになった。


「やめろ、やめてくれ」


 しかし、ノックは止まらない。


 拓也は、部屋を飛び出した。


---


 廊下に出ると、隣人がいた。


 痩せた男が、302号室のドアの前に立っていた。


 男は、拓也を見た。落ち窪んだ目で、じっと見つめた。


「あなた、何なんですか」


 拓也が叫ぶと、男は首を傾げた。


「応答、してくれませんか」


 男の声は、か細く、震えていた。


「応答って、何を」


「私は、ここにいます。だから、あなたも応答してください」


「意味が分からない」


 男は、ゆっくりと拓也に近づいてきた。


「応答しないと、確認できないんです」


「何を確認するんだよ」


「あなたが、本当にそこにいるのか」


 拓也は、後ずさった。


「当たり前だろ、俺はここにいる」


「でも、確認できません。応答がないと」


 男の手が、拓也の肩に触れた。


 その瞬間、拓也は悲鳴を上げた。


 男の手が、異様に冷たかった。氷のように。


 拓也は、男を振り払って階段を駆け下りた。


---


 その夜、拓也は友人の家に泊まった。


 翌日、大家に事情を話し、即座に退去を申し出た。


「やっぱり、無理だったかねえ」


 大家は、諦めたように言った。


「あの人、前の住人にも同じことしたんですか」


「ああ。みんな、一ヶ月持たずに出て行くよ」


「なんで、追い出さないんですか」


 大家は、首を横に振った。


「追い出せないんだよ。あの人、もう十五年もあそこにいるんだ」


「十五年」


「ああ。最初は、普通の人だったんだけどねえ」


 大家は、遠い目をした。


「ある日を境に、おかしくなった。誰かが訪ねてきたんだよ。夜中に」


「誰が」


「分からない。でも、その日から、あの人はずっとノックするようになった」


---


 拓也は、その話を聞いて、背筋が寒くなった。


「その訪問者、何者だったんですか」


「知らない。でもね、あの人、こう言ってたんだよ」


 大家は、声を落とした。


「『彼がノックしてきた。だから、私も応答しなければならない。でないと、私がいることを証明できない』って」


---


 拓也は、303号室から引っ越した。


 新しいアパートは、家賃が高かったが、隣人に恵まれた。静かで、平和だった。


 しかし、ある夜。


 拓也が眠りにつこうとした時、ドアからノック音が聞こえた。


 コン、コン、コン。


 拓也の心臓が、止まりそうになった。


 まさか。


 ドアスコープを覗くと、廊下には誰もいなかった。


 拓也は、ほっとした。気のせいだと。


 しかし、ドアを閉めようとした時、足元に白い紙があった。


 拾い上げると、几帳面な字でこう書かれていた。


「私は引っ越しました。あなたの隣に」


---


 翌日、拓也は隣の部屋の表札を確認した。


 何も書かれていなかった。ただ、「402」という部屋番号だけ。


 拓也は、管理会社に電話した。


「隣の402号室、誰が住んでるんですか」


「少々お待ちください」


 数分後、担当者が戻ってきた。


「402号室は、現在空室ですが」


「空室、ですか」


「はい。先月から、誰も入居していません」


 拓也は、電話を切った。


 そして、隣の部屋のドアを見つめた。


 その夜、午後十時。


 ノックが始まった。


 コン、コン、コン。


 壁の向こうから。


 誰もいないはずの、402号室から。


---


 拓也は、再び引っ越した。


 今度は、一軒家を借りた。隣に誰もいない、郊外の一軒家。


 これで、もう大丈夫だと思った。


---


 しかし、三日目の夜。


 玄関のドアが、ノックされた。


 コン、コン、コン。


 拓也は、泣きそうになった。


「なんで、なんでついてくるんだよ」


 ドアを開けると、やはり誰もいなかった。


 しかし、足元には紙があった。


「私たちは、応答し合わなければなりません。でないと、存在を証明できません」


 私たち、と書かれていた。


---


 拓也は、精神科を受診した。


「幻聴かもしれません」


 医師は、そう診断した。


「ストレスで、実際にはない音が聞こえることがあります」


 拓也は、薬を処方された。


 しかし、ノックは止まらなかった。


---


 拓也は、ある決断をした。


 自分から、ノックで応答することにした。


 その夜、午後十時。


 いつものようにノックが始まった。


 コン、コン、コン。


 拓也は、壁を叩いた。


 コン、コン、コン。


 ノックが、止まった。


 数秒の沈黙。


 そして、ノックが再開した。


 しかし、今度は違った。


 コン、コン、コン、コン。


 四回になっていた。


 拓也は、応答した。


 コン、コン、コン、コン。


 ノックは、また変わった。


 コン、コン、コン、コン、コン。


 五回。


 拓也は、応答し続けた。


 ノックの回数は、どんどん増えていった。


 六回、七回、八回。


 午前二時を過ぎても、ノックは止まらなかった。


 拓也は、壁を叩き続けた。


 叩かなければ、何かが起こる気がした。


---


 翌朝、拓也の手は血だらけだった。


 壁を叩き続けたせいで、皮がむけていた。


 しかし、拓也は満足していた。


 ノックに応答できたから。


 自分の存在を、証明できたから。


---


 それから、拓也は毎晩ノックに応答するようになった。


 仕事は辞めた。応答する時間が必要だったから。


 友人も、家族も、会わなくなった。応答する体力を残しておく必要があったから。


 拓也の部屋の壁には、無数の血痕がついていた。


 そして、拓也は毎晩、笑顔で壁を叩いた。


 コン、コン、コン、コン、コン、コン、コン。


「俺は、ここにいる。ちゃんと、応答してる」


---


 半年後、大家が拓也の部屋を訪れた。


 家賃が三ヶ月滞納されていたからだ。


 ドアを開けると、部屋は荒れ果てていた。


 そして、拓也は壁の前で倒れていた。


 痩せ細り、目が落ち窪み、土気色の顔をしていた。


 まるで、あの隣人のように。


 拓也は、かすかに息をしていた。そして、つぶやいた。


「応答、しなきゃ」


 拓也の手が、弱々しく壁を叩いた。


 コン、コン、コン。


---


 拓也は、病院に運ばれた。


 しかし、数日後、病院を抜け出した。


 そして、古いアパートの302号室に現れた。


 あの隣人が、ドアを開けた。


 二人は、顔を見合わせた。


 そして、同時に微笑んだ。


「ようこそ」


 隣人が言った。


「応答者が、増えましたね」


 拓也は、頷いた。


「ええ。これから、一緒に応答しましょう」


 二人は、それぞれの部屋に入った。


 その夜、午後十時。


 302号室と303号室から、同時にノック音が響いた。


 コン、コン、コン。


 コン、コン、コン。


 そして、その音は、決して止むことはなかった。


---


 数ヶ月後、新しい住人が303号室に引っ越してきた。


 若い女性だった。


 引っ越してきた三日目の夜、隣の部屋からノック音が聞こえてきた。


 コン、コン、コン。


 女性は、最初は気にしなかった。


 しかし、五日目の夜。


 ノックが、彼女の部屋のドアに変わった。


 コン、コン、コン。


 ドアを開けると、足元に白い紙があった。


「応答してください」


 女性は、紙を握りしめた。


 そして、その夜から、女性の運命が変わり始めた。


---


 応答の連鎖は、決して終わらない。


 一度始まれば、増殖し続ける。


 そして、いつか。


 あなたの隣にも、応答を求める者が現れるかもしれない。


 その時、あなたは応答するだろうか。


 それとも、無視するだろうか。


 しかし、覚えておいてほしい。


 応答しなければ、あなたの存在は証明できない。


 応答すれば、あなたは彼らの一部になる。


 どちらを選んでも、もう逃げられない。


 コン、コン、コン。


 今夜も、どこかで、ノックの音が響いている。

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