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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【SFディストピア】仮想の檻

 午前三時。部屋の隅で、男が動かなくなっていた。


 全身を覆うVRスーツ、頭部を包むヘッドセット、体中に這うセンサーケーブル。彼はもう七十二時間、現実世界に戻っていない。


 画面には、栄養チューブの残量が表示されている。あと四十八時間分。排泄処理システムも正常稼働中。バイタルサインは安定。


 藤崎健は、完璧に仮想世界で生きていた。


---


 二〇四九年。完全没入型VR技術が一般化して五年が経った。


 エデンワールド社の開発した「パラダイス・システム」は、五感すべてを完全に再現できる。味覚、触覚、嗅覚、全てが現実と区別がつかない。


 そして、仮想世界では何でもできた。


 空を飛べる。魔法が使える。死なない。老いない。何度でもやり直せる。


 現実世界で冴えないサラリーマンが、仮想世界では英雄になれる。容姿に自信のない女性が、絶世の美女になれる。孤独な老人が、若々しい冒険者になれる。


 最初は、娯楽だった。


 しかし、やがて人々は気づいた。


 現実より、仮想の方が良いと。


---


 藤崎健、三十二歳。独身。


 大学卒業後、中堅IT企業に就職したが、出世コースから外れた。上司からは無能扱いされ、同僚からは馬鹿にされた。


 恋人もできなかった。女性に話しかけても、すぐに避けられた。容姿は平凡、話術もない、収入も低い。


 三十歳を過ぎた頃、健は諦めた。


 現実世界で幸せになることを。


 そして、パラダイス・システムを購入した。


---


 初めてログインした時、健は衝撃を受けた。


 そこは、剣と魔法のファンタジー世界だった。健は、自分のアバターを作成した。


 背が高く、筋骨隆々とした戦士。顔は整っており、目には強い意志が宿っている。


 これが、新しい自分だった。


「ようこそ、エルドリアの世界へ」


 NPCのガイドが微笑んだ。健は、自分の手を見た。力強い手。現実の自分とは全く違う。


「君は、選ばれし勇者だ。この世界を救うために、旅に出るがいい」


 健は、頷いた。


 そして、冒険が始まった。


---


 仮想世界での健は、アレクという名前だった。


 彼は、モンスターを倒し、ダンジョンを攻略し、仲間を集めた。魔法使いの少女エリーゼ、盗賊の青年カイ、僧侶の老人ガルス。


 彼らと共に、健は世界を救う旅を続けた。


 そして、エリーゼと恋に落ちた。


 彼女は、健を見る目が優しかった。戦闘では魔法で援護し、休憩時には楽しく会話した。


「アレク、あなたがいてくれて良かった」


 エリーゼが微笑む。健の心臓が、高鳴った。


「俺も、君と一緒で良かった」


 二人は、星空の下でキスをした。


 健は、生まれて初めて、愛されていると感じた。


---


 現実世界では、健の生活は崩壊していった。


 会社には行かなくなった。最初は有給休暇を使い、次に病欠扱いにしてもらい、やがて無断欠勤が続いた。


 上司から何度も電話がかかってきたが、無視した。メールも読まなかった。


 三ヶ月後、解雇通知が届いた。健は、それを見ても何も感じなかった。


 もう、現実の仕事など、どうでもよかった。


---


 貯金を切り崩して、健はVR生活を続けた。


 パラダイス・システムは、月額課金制だった。基本プランは月五万円。栄養チューブや排泄処理システムを含めると、月十万円。


 健の貯金は、八百万円あった。約六年分。


「六年あれば、十分だ」


 健は、そう考えた。


 六年後のことは、考えなかった。


---


 仮想世界での冒険は、順調だった。


 健たちは、魔王の城に辿り着いた。激しい戦いの末、魔王を倒した。


 世界は、平和になった。


「やったわ、アレク!」


 エリーゼが、健に抱きついた。健は、彼女を抱きしめた。


「ああ、俺たちがやったんだ」


 王様から感謝され、民衆から賞賛された。そして、エリーゼとの結婚式が執り行われた。


 健は、幸せだった。


 こんなに幸せなことは、人生で一度もなかった。


---


 しかし、ゲームには終わりがあった。


 魔王を倒し、結婚した後、物語は終了した。


「アレク、楽しかったわ。また会いましょう」


 エリーゼが手を振る。そして、画面が暗転した。


 健は、ログアウトを求められた。


 しかし、健は拒否した。


「終わらせない。まだ、終わりたくない」


 健は、システム設定を変更した。無限モードに切り替える。


 エリーゼとの結婚生活が、延々と続くモード。


 健は、仮想世界での生活を続けた。


---


 一年が経った。


 健の貯金は、半分になっていた。しかし、健は気にしなかった。


 仮想世界では、エリーゼとの幸せな日々が続いていた。子供も生まれた。娘のアリアと、息子のレオ。


 健は、良い父親だった。子供たちを遊びに連れて行き、物語を読み聞かせ、抱きしめた。


 エリーゼは、優しい妻だった。美味しい料理を作り、健を励まし、愛してくれた。


 完璧な家族。


 完璧な人生。


 健は、もう現実に戻る理由がなかった。


---


 二年が経った。


 健のアパートの大家が、異変に気づいた。


 家賃は自動引き落としで払われているが、住人の姿を全く見ない。郵便物が溢れている。


 大家は、警察に連絡した。


 警察官が部屋に入ると、そこには動かない男がいた。全身VRスーツに包まれ、栄養チューブに繋がれている。


「生きてるのか、これ」


 若い警察官が驚いた。


「バイタルは正常です。でも、意識はVRの中にあるようです」


 救急隊員が答えた。


「強制的にログアウトさせられないのか」


「本人の同意なしには、できません。VR人権法で保護されていますから」


 警察官は、ため息をついた。


「また、VR廃人か」


---


 健の家族が呼ばれた。


 母親の絹江が、息子の姿を見て泣き崩れた。


「健、健、どうしてこんなことに」


 しかし、健は反応しなかった。VRヘッドセットの中で、別の世界を生きていた。


「お母さん、健はもう戻ってこないかもしれません」


 医師が静かに言った。


「でも、生きてるじゃないですか」


「肉体は、生きています。しかし、精神はVRの中です」


 絹江は、息子の手を握った。冷たく、か細い手。


「健、お願い、戻ってきて」


 しかし、健の意識は、遠い仮想世界にあった。


---


 三年が経った。


 健の貯金は、底をついた。


 システムが、警告を発した。


「残高不足です。あと七十二時間で、サービスを停止します」


 健は、パニックになった。


「待ってくれ、まだ終われない」


 しかし、システムは冷酷だった。


「追加入金がない場合、強制ログアウトします」


 健は、必死で考えた。金を作る方法を。


 しかし、もう三年も現実世界と関わっていない。仕事もない。貯金もない。


 エリーゼが、心配そうに健を見た。


「アレク、どうしたの。顔色が悪いわ」


「いや、何でもない」


 健は、笑顔を作った。しかし、内心は絶望していた。


---


 七十二時間後、システムは健を強制ログアウトさせた。


 健は、突然現実世界に引き戻された。


 目の前には、見慣れない天井。病院だった。


「あ、意識が戻りました」


 看護師が、医師を呼んだ。健は、混乱していた。


「ここは、どこだ」


「病院です。あなたは、三年間VRの中にいました」


 健は、愕然とした。


「三年、だと」


「はい。お母様が、ずっと付き添っておられました」


 健は、横を見た。そこには、老いた母親が眠っていた。


 三年前より、ずっと老けていた。


---


 健は、リハビリを始めた。


 三年間動かなかった体は、筋肉が衰えていた。歩くことすら困難だった。


 母親は、毎日病院に通った。


「健、頑張って。必ず歩けるようになるから」


 しかし、健の心は、ここにはなかった。


 エリーゼのことを考えていた。子供たちのことを考えていた。


 あの幸せな世界。


 あの完璧な家族。


 全て、失われた。


---


 二ヶ月のリハビリで、健は歩けるようになった。


 退院の日、母親が嬉しそうに言った。


「健、良かったわ。これから、またやり直せるわね」


 しかし、健は答えなかった。


 家に帰ると、部屋は三年前のままだった。VRスーツは、警察に押収されていた。


 健は、部屋に一人で座った。


 現実世界は、灰色だった。何の希望もない。何の楽しみもない。


 エリーゼは、いない。


 子供たちは、いない。


 冒険も、栄光も、何もない。


---


 健は、就職活動を試みた。


 しかし、三年間のブランクを説明できなかった。


「VR依存で、三年間仮想世界にいました」


 そう言うと、面接官の顔が曇った。


「申し訳ありませんが、当社では」


 何社受けても、同じ結果だった。


 母親は、心配そうに健を見た。


「健、大丈夫。きっと、良い仕事が見つかるわ」


 しかし、健は知っていた。


 もう、普通の生活には戻れないと。


---


 ある夜、健は母親に言った。


「お母さん、俺、また戻りたい」


「何を言ってるの、健」


「VRの世界に。あそこには、俺を必要としてくれる人がいた。愛してくれる人がいた」


 母親は、息子の手を握った。


「健、あれは偽物よ。本当の人生は、ここにあるの」


「でも、俺にとっては、あっちが本当だった」


 健は、泣いた。


「お母さん、俺、ここでは何者にもなれない。何の価値もない」


「そんなことない」


「あるんだよ。俺は、ずっと負け組だった。でも、あの世界では、勇者になれた。愛される夫になれた。良い父親になれた」


 母親も、涙を流した。


「健」


「お母さん、ごめん。でも、俺、もう耐えられない」


---


 翌朝、母親が目を覚ますと、健の姿はなかった。


 部屋には、手紙が残されていた。


「お母さんへ。今まで、ありがとう。でも、俺には、あの世界が必要です。ごめんなさい。健」


 母親は、警察に連絡した。しかし、健は見つからなかった。


 三日後、健は港の倉庫で発見された。


 違法なVR機器を装着し、意識不明の状態で。


---


 健は、再び病院に運ばれた。


 しかし、今回は違法機器を使用していたため、脳に深刻なダメージを受けていた。


「意識が戻る可能性は、低いです」


 医師が、母親に告げた。


「ただ、脳波を見ると、彼の意識はまだVRの中にいるようです」


「それって」


「彼は、仮想世界で生き続けています。肉体は、ここにありますが」


 母親は、息子の顔を見つめた。


 穏やかな表情だった。苦しんでいるようには見えなかった。


 むしろ、幸せそうだった。


---


 それから五年。


 健の肉体は、病院のベッドで生き続けていた。


 母親は、毎日見舞いに来た。息子の手を握り、話しかけた。


「健、今日はいい天気よ。桜が綺麗に咲いてるわ」


 しかし、健は反応しなかった。


 彼の意識は、遠い仮想世界で、エリーゼと子供たちと共に、幸せな日々を送っていた。


---


 二〇五〇年代。VR依存者は、社会問題になっていた。


 全国で百万人以上が、現実世界を放棄し、仮想世界で生きていた。


 政府は、対策を講じた。VRの使用時間制限、強制ログアウトシステム、カウンセリングの義務化。


 しかし、効果は薄かった。


 人々は、現実よりも仮想を選び続けた。


---


 ある議員が、国会で演説した。


「VRは、人類を堕落させる麻薬だ。禁止すべきだ」


 しかし、別の議員が反論した。


「現実世界が、VRよりも魅力的であれば、誰も逃げない。問題は、VRではなく、現実にある」


 議論は、平行線だった。


---


 健の母親は、七十歳を過ぎていた。


 もう、毎日の見舞いは辛くなっていた。しかし、それでも通い続けた。


「健、お母さん、もう長くないかもしれないわ」


 母親が、息子の手を握った。


「でも、最後まで、あなたのこと見守るからね」


 健の顔は、相変わらず穏やかだった。


 母親は、涙を流した。


「あなた、そっちで幸せなの」


 答えは、なかった。


 しかし、母親は感じていた。


 息子が、向こうで幸せであることを。


 そして、それが、母親を苦しめた。


---


 母親が亡くなったのは、それから二年後のことだった。


 健は、母親の死を知らなかった。VRの中で、エリーゼと共に、孫の誕生を喜んでいた。


 母親の葬儀には、誰も来なかった。親戚も、もう縁を切っていた。


 健の医療費は、母親の遺産で払われることになった。しかし、それもいずれ尽きる。


---


 二〇五八年。


 パラダイス・システムを運営するエデンワールド社が、倒産した。


 過度のVR依存問題で、政府から業務停止命令が出たのだ。


 システムは、全て停止された。


 全国で、百万人のVR依存者が、強制的に現実に引き戻された。


 しかし、健は、もう戻れなかった。


 違法機器を使用していたため、システム停止の影響を受けなかった。


 彼の意識は、壊れた機器の中で、永遠に同じ幸せな瞬間を繰り返し続けた。


---


 病院の一室で、健の肉体は生き続けている。


 機械が、呼吸を助けている。栄養は、チューブから供給されている。


 誰も見舞いに来ない。


 ただ、機械の音だけが、部屋に響いている。


 健は、幸せだった。


 仮想の世界で、愛する妻と子供たちと共に。


 それが、本当の幸せなのか、偽りの幸せなのか。


 もう、誰にも分からなかった。


---


 数年後、医療費が尽きた。


 病院は、健の生命維持装置を停止する決定をした。


 身寄りもなく、意識も戻らない。これ以上、維持する意味がないと判断された。


 装置が停止された日、健の肉体は静かに息を引き取った。


 しかし、健の意識は、最後まで仮想世界にあった。


 エリーゼと子供たちに囲まれて、笑顔で。


「パパ、大好き」


 娘のアリアが、抱きついてくる。


「俺も、大好きだよ」


 健は、娘を抱きしめた。


 そして、幸せなまま、意識は消えていった。


---


 藤崎健の死は、誰にも悼まれなかった。


 ただ、統計上の一人として記録されただけだった。


「VR依存による孤独死、一件」


 それが、彼の人生の総括だった。


---


 しかし、健は本当に不幸だったのだろうか。


 現実世界では、誰からも必要とされず、愛されることもなく、孤独に死んだ。


 しかし、仮想世界では、愛する家族に囲まれ、幸せな人生を送った。


 どちらが、本当の人生だったのか。


 それは、誰にも答えられない問いだった。


---


 二〇六〇年。


 新しいVR規制法が制定された。


 使用時間は、一日四時間まで。定期的なログアウトが義務化された。


 しかし、闇市場では、違法VR機器が取引され続けた。


 現実に絶望した人々が、仮想の幸せを求めて。


 藤崎健のような人々が、今日も仮想世界に消えていく。


 現実という檻から逃れ、仮想という檻に囚われながら。


 それが、幸せなのか、不幸なのか。


 人類は、まだ答えを見つけていない。

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