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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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49/90

【ホラー】笑う道化

 事の発端は、息子の誕生日パーティーだった。


 葉山篤史は三十五歳。妻の澪と五歳になる息子の蓮と、郊外の一軒家で暮らしていた。ごく普通の幸せな家庭。


 蓮の誕生日パーティーには、保育園の友達とその親たちが集まった。庭にはバルーンが飾られ、テーブルにはケーキや料理が並んでいた。


「パパ、ピエロさんまだ来ないの」


 蓮が期待に目を輝かせて尋ねてきた。篤史は予約していたピエロ芸人のことを思い出し、時計を確認した。約束の時間を十分過ぎている。


 その時、インターホンが鳴った。


「おそくなってすみません」


 玄関に立っていたのは、一人のピエロだった。白塗りの顔に赤い鼻、大きな口が描かれている。カラフルな衣装を着て、片手には風船を持っていた。


 だが、何かが違和感を感じさせた。


 ピエロの笑顔が、不自然に固まっている。目が笑っていない。いや、目が合わない。焦点が定まっていないように見えた。


「えっと、ピエロさんですよね」


「はい、ピエロです」


 声も妙だった。機械的で感情がこもっていない。


 篤史は一瞬躊躇したが、息子の期待に満ちた顔を見て、ピエロを中に招き入れた。


 庭に出たピエロは、子供たちの前でパフォーマンスを始めた。風船を配り、簡単な手品を披露する。


 だが、動きがぎこちない。まるで人間の動作を模倣しているロボットのようだった。


 そして、次の瞬間、異変が起きた。


 ピエロが突然、その場に立ち止まる。体が小刻みに震え始める。そして、奇妙な音を発した。


「アハ、アハハ、アハハハハハ」


 笑い声だった。だが、それは人間の笑い声ではなかった。金属を擦り合わせるような、不快な音。


 子供たちが怯え始めた。何人かは泣き出した。


「ちょっと、大丈夫ですか」


 篤史が近づこうとした時、ピエロの体に亀裂が走った。


 文字通り、体が割れた。


 背中から何かが飛び出してきた。それは、もう一人のピエロだった。全く同じ姿、全く同じ笑顔。


 二体になったピエロは、それぞれが別の方向を向いて立った。そして、再び笑い始めた。


「アハハハハハハハハハ」


 篤史は凍りついた。周りの大人たちも、呆然と立ち尽くしていた。


 二体のピエロはゆっくりと動き出した。一体は子供たちに近づき、もう一体は大人たちの方へ向かってくる。


「逃げろ!」


 誰かが叫んだ。


 パニックが起きた。親たちは子供を抱えて家の中に逃げ込んだ。篤史も蓮を抱きかかえ、家に駆け込んだ。


 だが、ピエロは追ってこなかった。


 窓から外を見ると、二体のピエロは庭の真ん中で立ち止まっていた。そして、再び体が震え始める。


 また分裂した。


 今度は四体になった。


---


 篤史は震える手で警察に電話した。


「今すぐ来てください!ピエロが、ピエロが増えてるんです!」


 オペレーターは最初、悪戯だと思ったようだった。だが、篤史の切羽詰まった声に、パトカーを向かわせることになった。


 十分後、警察が到着した。ピエロは八体に増えていた。


「これは一体」


 警官たちも信じられない様子だった。


 ピエロたちは整列していた。まるで軍隊のように。そして、一斉に家の方を向く。


 全てのピエロが、同じ笑顔を浮かべている。全く同じ角度、全く同じ表情。


「アハハハハハハハハハハハハハハハ」


 八体が同時に笑う。その音は共鳴し、空気を震わせた。窓ガラスが振動する。


 ピエロたちが動き出した。


 家に向かって、ゆっくりと歩いてくる。


「施錠を確認しろ!」


 警官の一人が叫んだ。篤史は急いで全ての窓と扉を確認した。鍵はかかっている。


 だが、ピエロたちは窓に手をかけた。


 力ずくでこじ開けようとしているのではない。ただ、窓ガラスに手を押し当てている。


 その瞬間、篤史は理解した。


 ピエロの手のひらが、窓ガラスに溶け込んでいく。窓ガラスをすり抜けているのだ。


「まずい、中に入ってくる!」


 警官が銃を抜いた。だが、撃つことを躊躇っていた。相手が人間なのか、そうでないのか、判断がつかなかった。


 一体のピエロが完全に家の中に侵入した。


 リビングに立つピエロ。篤史たちを見て、笑顔を向ける。


「離れろ」


 警官が発砲した。


 銃弾はピエロの胸を貫く。だが、血は出ない。穴が開いただけだ。ピエロは動きを止めない。


 そして、撃たれたピエロが震え始めた。


 また分裂する。


 今度は、撃たれたことで分裂が加速したようだった。一体が二体に、二体が四体に。


 リビングが、ピエロで埋め尽くされていく。


---


 篤史は家族を連れて二階に逃げた。


 だが、階段を上がる途中で、既に二階にもピエロがいることに気づいた。壁をすり抜けて侵入していた。


 逃げ場がない。


「パパ、怖いよ」


 蓮が泣いていた。篤史は息子を抱きしめた。


「大丈夫だ、大丈夫だから」


 だが、大丈夫ではなかった。


 ピエロたちが、じわじわと近づいてくる。数はもう数えられない。十体、二十体、三十体。


 ピエロが篤史の前に立つ。


 ピエロは手を伸ばし、篤史の肩に触れた。


 次の瞬間、篤史の体に異変が起きた。


 体が震える。制御できない。内側から何かが膨れ上がってくる。


「やめろ!やめてくれ!」


 篤史は叫んだ。だが、止まらない。


 背中が裂けた。


 激痛。そして、何かが這い出してくる。


 それは、ピエロだった。


 篤史の体から、ピエロが生まれた。


 篤史は床に倒れ込んだ。意識が朦朧とする中、自分から生まれたピエロが立ち上がるのを見た。


 そのピエロは、他のピエロたちと全く同じ姿をしていた。


 澪の悲鳴が聞こえた。彼女も同じ目に遭っていた。体からピエロが生まれる。


 蓮も。


 警官たちも。


 パーティーに来ていた全ての人間が、次々とピエロを産み出していた。


---


 それから一時間後、家は完全にピエロに占拠されていた。


 数は百を超えていた。全て、全く同じ姿。全く同じ笑顔。


 篤史は、かろうじて意識を保っていた。体は動かない。激痛が全身を走る。


 ピエロたちは、整然と家から出ていった。


 街へ向かって歩いていく。


 篤史は理解した。


 これは終わらない。ピエロは増え続ける。人間に触れ、人間からピエロを産み出し、どんどん増殖していく。


 そして、最終的には、世界中がピエロで埋め尽くされる。


 篤史の意識が途切れる直前、一つの疑問が浮かんだ。


 最初のピエロはどこから来た?


 あの予約していたピエロは、結局来なかった。では、誕生日パーティーに現れたあのピエロは、何だったのか。


 答えは出なかった。


 篤史の意識は、闇に沈んでいった。


---


 三日後、東京都心は封鎖された。


 ピエロの数は既に一万を超えていた。自衛隊が出動したが、銃撃も爆撃も効果がなかった。むしろ、攻撃することで分裂が加速した。


 政府は緊急事態宣言を発令した。国民に対し、屋内に留まり、窓やドアを施錠し、絶対にピエロに近づかないよう呼びかけた。


 手遅れだった。


 ピエロは壁を透過する。鍵など意味がない。


 感染は指数関数的に拡大した。


 一週間後、日本全土がピエロに覆われた。生存者は数えるほどになった。


 二週間後、感染は海外にも広がった。船や飛行機に紛れ込んだピエロが、各国に上陸した。


 各国政府は国境を封鎖したが、無駄だった。ピエロは物理的な障壁を無視する。


 一カ月後、人類の人口は半分になった。


 そして、二カ月後。


 地球上の全ての人間が、ピエロになった。


---


 篤史は目を覚ました。


 いや、目を覚ましたのかどうかも、わからなかった。


 自分が誰なのか、ここがどこなのか、何もわからない。


 ただ、笑っていた。


 周りには、無数のピエロがいた。全て、自分と同じ姿。


 ピエロたちは、ただ立っているだけだった。何もしない。ただ、笑顔を浮かべて立っている。


 時折、体が震え、分裂する。数がさらに増える。


 だが、もう増やす人間はいない。


 ピエロたちは、ただ存在していた。


 目的もなく、意味もなく、ただそこにいた。


 地球は、ピエロの惑星になった。


 かつて人間と呼ばれていた存在は、もういない。残っているのは、笑顔を浮かべた道化だけだった。


 ピエロたちは今も増え続けている。


 そのうち、地表が全てピエロで埋まるだろう。


 いや、それでも止まらない。海に入り、地中に潜り、空を飛び、どこまでも広がっていく。


 やがて、地球そのものがピエロになる。


 そんな未来が、もうすぐそこまで来ていた。


---


 ある研究施設の地下、最後の生存者たちが隠れていた。


 千住紗也加は微生物学者だった。三十八歳。彼女は、このピエロ現象を科学的に解明しようとしていた。


 だが、何もわからなかった。


 ピエロは生物ではなかった。だが、無機物でもなかった。物質を透過し、無限に複製される。既存の物理法則では説明できない存在だった。


「これは、もしかしたら」


 紗也加は、ある仮説に辿り着いた。


 ピエロは、ミームなのではないか。


 情報そのもの。概念の具現化。人間の集合無意識が生み出した、恐怖の象徴。


 ピエロという存在は、もともと人間の心に恐怖を植え付ける存在だった。不気味の谷。笑顔の裏に隠された何か。


 その恐怖が、何らかの形で実体化したのではないか。


 だが、それならば、どうやって最初のピエロが現れたのか。


 紗也加は、過去の記録を調べた。


 最初の目撃例。葉山家の誕生日パーティー。そこに現れたピエロ。


 予約していたピエロとは別の、正体不明のピエロ。


 紗也加は、一つの可能性を思いついた。


 もしかしたら、最初のピエロは存在しなかったのではないか。


 人々の恐怖が集まり、ピエロという形を取って現れた。集合無意識の具現化。


 それが真実なら、このピエロは人類が生み出したものだ。


 自分たちの恐怖が、自分たちを滅ぼした。


 紗也加は、その結論に絶望した。


 だが、諦めなかった。


 もし、ピエロがミームなら、対抗する方法があるかもしれない。


 紗也加は、最後の希望に賭けた。


 ピエロへの恐怖を消す。それができれば、ピエロは消えるかもしれない。


 だが、どうやって。


 その時、施設の扉が破られた。


 ピエロが侵入してきた。


 数十体のピエロが、研究室に流れ込んでくる。


「やめろ、来るな」


 研究員たちが叫んだ。だが、ピエロは止まらない。


 一人、また一人と、ピエロに触れられていく。そして、体からピエロが生まれる。


 紗也加も、ついにピエロに触れられた。


 体が震える。


 意識が遠のいていく。


 最期の瞬間、紗也加は理解した。


 これは、終わらない。


 人類は、自らの恐怖に飲み込まれた。


 そして、それは不可逆だった。


 紗也加の体から、ピエロが生まれる。


 研究施設は、ピエロで埋め尽くされた。


 地球上、最後の人間がいなくなった。


---


 それから十年。


 地球は静かだった。


 ピエロたちは動かなくなっていた。増殖も止まった。


 ただ、そこにいるだけ。笑顔を浮かべて、立ち尽くしている。


 風が吹いても、雨が降っても、ピエロは微動だにしない。


 まるで、彫像のように。


 かつて人類がいた痕跡は、徐々に消えていった。建物は崩れ、道路は草木に覆われ、車は錆び、風化していった。


 だが、ピエロだけは残った。


 永遠に笑い続ける、道化たち。


 それは、人類が最後に残した遺産だった。


 恐怖の記憶。


 自らを滅ぼした、笑顔。


 そして、宇宙から地球を見ると、奇妙な光景が広がっていた。


 地表全体が、カラフルな色彩で覆われている。


 無数のピエロたち。


 地球は、巨大なピエロの惑星になっていた。


 笑い声は、もう聞こえない。


 ただ、沈黙が支配していた。


 永遠の静寂。


 そして、もし宇宙のどこかに他の知的生命体がいたとしたら、彼らはいつか地球にたどり着くだろう。


 そこで見るのは、無数のピエロたち。


 彼らは不思議に思うかもしれない。


 これは何なのか。なぜ、こんなにも多くの道化がいるのか。


 だが、答えを知る者は、もういない。


 ピエロたちは、永遠に笑い続ける。


 それが、彼らの存在理由だから。


 それ以外に、何もないから。


 地球は、笑顔で満たされた、死の惑星になった。

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