【ホラー】笑う道化
事の発端は、息子の誕生日パーティーだった。
葉山篤史は三十五歳。妻の澪と五歳になる息子の蓮と、郊外の一軒家で暮らしていた。ごく普通の幸せな家庭。
蓮の誕生日パーティーには、保育園の友達とその親たちが集まった。庭にはバルーンが飾られ、テーブルにはケーキや料理が並んでいた。
「パパ、ピエロさんまだ来ないの」
蓮が期待に目を輝かせて尋ねてきた。篤史は予約していたピエロ芸人のことを思い出し、時計を確認した。約束の時間を十分過ぎている。
その時、インターホンが鳴った。
「おそくなってすみません」
玄関に立っていたのは、一人のピエロだった。白塗りの顔に赤い鼻、大きな口が描かれている。カラフルな衣装を着て、片手には風船を持っていた。
だが、何かが違和感を感じさせた。
ピエロの笑顔が、不自然に固まっている。目が笑っていない。いや、目が合わない。焦点が定まっていないように見えた。
「えっと、ピエロさんですよね」
「はい、ピエロです」
声も妙だった。機械的で感情がこもっていない。
篤史は一瞬躊躇したが、息子の期待に満ちた顔を見て、ピエロを中に招き入れた。
庭に出たピエロは、子供たちの前でパフォーマンスを始めた。風船を配り、簡単な手品を披露する。
だが、動きがぎこちない。まるで人間の動作を模倣しているロボットのようだった。
そして、次の瞬間、異変が起きた。
ピエロが突然、その場に立ち止まる。体が小刻みに震え始める。そして、奇妙な音を発した。
「アハ、アハハ、アハハハハハ」
笑い声だった。だが、それは人間の笑い声ではなかった。金属を擦り合わせるような、不快な音。
子供たちが怯え始めた。何人かは泣き出した。
「ちょっと、大丈夫ですか」
篤史が近づこうとした時、ピエロの体に亀裂が走った。
文字通り、体が割れた。
背中から何かが飛び出してきた。それは、もう一人のピエロだった。全く同じ姿、全く同じ笑顔。
二体になったピエロは、それぞれが別の方向を向いて立った。そして、再び笑い始めた。
「アハハハハハハハハハ」
篤史は凍りついた。周りの大人たちも、呆然と立ち尽くしていた。
二体のピエロはゆっくりと動き出した。一体は子供たちに近づき、もう一体は大人たちの方へ向かってくる。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
パニックが起きた。親たちは子供を抱えて家の中に逃げ込んだ。篤史も蓮を抱きかかえ、家に駆け込んだ。
だが、ピエロは追ってこなかった。
窓から外を見ると、二体のピエロは庭の真ん中で立ち止まっていた。そして、再び体が震え始める。
また分裂した。
今度は四体になった。
---
篤史は震える手で警察に電話した。
「今すぐ来てください!ピエロが、ピエロが増えてるんです!」
オペレーターは最初、悪戯だと思ったようだった。だが、篤史の切羽詰まった声に、パトカーを向かわせることになった。
十分後、警察が到着した。ピエロは八体に増えていた。
「これは一体」
警官たちも信じられない様子だった。
ピエロたちは整列していた。まるで軍隊のように。そして、一斉に家の方を向く。
全てのピエロが、同じ笑顔を浮かべている。全く同じ角度、全く同じ表情。
「アハハハハハハハハハハハハハハハ」
八体が同時に笑う。その音は共鳴し、空気を震わせた。窓ガラスが振動する。
ピエロたちが動き出した。
家に向かって、ゆっくりと歩いてくる。
「施錠を確認しろ!」
警官の一人が叫んだ。篤史は急いで全ての窓と扉を確認した。鍵はかかっている。
だが、ピエロたちは窓に手をかけた。
力ずくでこじ開けようとしているのではない。ただ、窓ガラスに手を押し当てている。
その瞬間、篤史は理解した。
ピエロの手のひらが、窓ガラスに溶け込んでいく。窓ガラスをすり抜けているのだ。
「まずい、中に入ってくる!」
警官が銃を抜いた。だが、撃つことを躊躇っていた。相手が人間なのか、そうでないのか、判断がつかなかった。
一体のピエロが完全に家の中に侵入した。
リビングに立つピエロ。篤史たちを見て、笑顔を向ける。
「離れろ」
警官が発砲した。
銃弾はピエロの胸を貫く。だが、血は出ない。穴が開いただけだ。ピエロは動きを止めない。
そして、撃たれたピエロが震え始めた。
また分裂する。
今度は、撃たれたことで分裂が加速したようだった。一体が二体に、二体が四体に。
リビングが、ピエロで埋め尽くされていく。
---
篤史は家族を連れて二階に逃げた。
だが、階段を上がる途中で、既に二階にもピエロがいることに気づいた。壁をすり抜けて侵入していた。
逃げ場がない。
「パパ、怖いよ」
蓮が泣いていた。篤史は息子を抱きしめた。
「大丈夫だ、大丈夫だから」
だが、大丈夫ではなかった。
ピエロたちが、じわじわと近づいてくる。数はもう数えられない。十体、二十体、三十体。
ピエロが篤史の前に立つ。
ピエロは手を伸ばし、篤史の肩に触れた。
次の瞬間、篤史の体に異変が起きた。
体が震える。制御できない。内側から何かが膨れ上がってくる。
「やめろ!やめてくれ!」
篤史は叫んだ。だが、止まらない。
背中が裂けた。
激痛。そして、何かが這い出してくる。
それは、ピエロだった。
篤史の体から、ピエロが生まれた。
篤史は床に倒れ込んだ。意識が朦朧とする中、自分から生まれたピエロが立ち上がるのを見た。
そのピエロは、他のピエロたちと全く同じ姿をしていた。
澪の悲鳴が聞こえた。彼女も同じ目に遭っていた。体からピエロが生まれる。
蓮も。
警官たちも。
パーティーに来ていた全ての人間が、次々とピエロを産み出していた。
---
それから一時間後、家は完全にピエロに占拠されていた。
数は百を超えていた。全て、全く同じ姿。全く同じ笑顔。
篤史は、かろうじて意識を保っていた。体は動かない。激痛が全身を走る。
ピエロたちは、整然と家から出ていった。
街へ向かって歩いていく。
篤史は理解した。
これは終わらない。ピエロは増え続ける。人間に触れ、人間からピエロを産み出し、どんどん増殖していく。
そして、最終的には、世界中がピエロで埋め尽くされる。
篤史の意識が途切れる直前、一つの疑問が浮かんだ。
最初のピエロはどこから来た?
あの予約していたピエロは、結局来なかった。では、誕生日パーティーに現れたあのピエロは、何だったのか。
答えは出なかった。
篤史の意識は、闇に沈んでいった。
---
三日後、東京都心は封鎖された。
ピエロの数は既に一万を超えていた。自衛隊が出動したが、銃撃も爆撃も効果がなかった。むしろ、攻撃することで分裂が加速した。
政府は緊急事態宣言を発令した。国民に対し、屋内に留まり、窓やドアを施錠し、絶対にピエロに近づかないよう呼びかけた。
手遅れだった。
ピエロは壁を透過する。鍵など意味がない。
感染は指数関数的に拡大した。
一週間後、日本全土がピエロに覆われた。生存者は数えるほどになった。
二週間後、感染は海外にも広がった。船や飛行機に紛れ込んだピエロが、各国に上陸した。
各国政府は国境を封鎖したが、無駄だった。ピエロは物理的な障壁を無視する。
一カ月後、人類の人口は半分になった。
そして、二カ月後。
地球上の全ての人間が、ピエロになった。
---
篤史は目を覚ました。
いや、目を覚ましたのかどうかも、わからなかった。
自分が誰なのか、ここがどこなのか、何もわからない。
ただ、笑っていた。
周りには、無数のピエロがいた。全て、自分と同じ姿。
ピエロたちは、ただ立っているだけだった。何もしない。ただ、笑顔を浮かべて立っている。
時折、体が震え、分裂する。数がさらに増える。
だが、もう増やす人間はいない。
ピエロたちは、ただ存在していた。
目的もなく、意味もなく、ただそこにいた。
地球は、ピエロの惑星になった。
かつて人間と呼ばれていた存在は、もういない。残っているのは、笑顔を浮かべた道化だけだった。
ピエロたちは今も増え続けている。
そのうち、地表が全てピエロで埋まるだろう。
いや、それでも止まらない。海に入り、地中に潜り、空を飛び、どこまでも広がっていく。
やがて、地球そのものがピエロになる。
そんな未来が、もうすぐそこまで来ていた。
---
ある研究施設の地下、最後の生存者たちが隠れていた。
千住紗也加は微生物学者だった。三十八歳。彼女は、このピエロ現象を科学的に解明しようとしていた。
だが、何もわからなかった。
ピエロは生物ではなかった。だが、無機物でもなかった。物質を透過し、無限に複製される。既存の物理法則では説明できない存在だった。
「これは、もしかしたら」
紗也加は、ある仮説に辿り着いた。
ピエロは、ミームなのではないか。
情報そのもの。概念の具現化。人間の集合無意識が生み出した、恐怖の象徴。
ピエロという存在は、もともと人間の心に恐怖を植え付ける存在だった。不気味の谷。笑顔の裏に隠された何か。
その恐怖が、何らかの形で実体化したのではないか。
だが、それならば、どうやって最初のピエロが現れたのか。
紗也加は、過去の記録を調べた。
最初の目撃例。葉山家の誕生日パーティー。そこに現れたピエロ。
予約していたピエロとは別の、正体不明のピエロ。
紗也加は、一つの可能性を思いついた。
もしかしたら、最初のピエロは存在しなかったのではないか。
人々の恐怖が集まり、ピエロという形を取って現れた。集合無意識の具現化。
それが真実なら、このピエロは人類が生み出したものだ。
自分たちの恐怖が、自分たちを滅ぼした。
紗也加は、その結論に絶望した。
だが、諦めなかった。
もし、ピエロがミームなら、対抗する方法があるかもしれない。
紗也加は、最後の希望に賭けた。
ピエロへの恐怖を消す。それができれば、ピエロは消えるかもしれない。
だが、どうやって。
その時、施設の扉が破られた。
ピエロが侵入してきた。
数十体のピエロが、研究室に流れ込んでくる。
「やめろ、来るな」
研究員たちが叫んだ。だが、ピエロは止まらない。
一人、また一人と、ピエロに触れられていく。そして、体からピエロが生まれる。
紗也加も、ついにピエロに触れられた。
体が震える。
意識が遠のいていく。
最期の瞬間、紗也加は理解した。
これは、終わらない。
人類は、自らの恐怖に飲み込まれた。
そして、それは不可逆だった。
紗也加の体から、ピエロが生まれる。
研究施設は、ピエロで埋め尽くされた。
地球上、最後の人間がいなくなった。
---
それから十年。
地球は静かだった。
ピエロたちは動かなくなっていた。増殖も止まった。
ただ、そこにいるだけ。笑顔を浮かべて、立ち尽くしている。
風が吹いても、雨が降っても、ピエロは微動だにしない。
まるで、彫像のように。
かつて人類がいた痕跡は、徐々に消えていった。建物は崩れ、道路は草木に覆われ、車は錆び、風化していった。
だが、ピエロだけは残った。
永遠に笑い続ける、道化たち。
それは、人類が最後に残した遺産だった。
恐怖の記憶。
自らを滅ぼした、笑顔。
そして、宇宙から地球を見ると、奇妙な光景が広がっていた。
地表全体が、カラフルな色彩で覆われている。
無数のピエロたち。
地球は、巨大なピエロの惑星になっていた。
笑い声は、もう聞こえない。
ただ、沈黙が支配していた。
永遠の静寂。
そして、もし宇宙のどこかに他の知的生命体がいたとしたら、彼らはいつか地球にたどり着くだろう。
そこで見るのは、無数のピエロたち。
彼らは不思議に思うかもしれない。
これは何なのか。なぜ、こんなにも多くの道化がいるのか。
だが、答えを知る者は、もういない。
ピエロたちは、永遠に笑い続ける。
それが、彼らの存在理由だから。
それ以外に、何もないから。
地球は、笑顔で満たされた、死の惑星になった。




