【ディストピア】五つ星の呪縛
朝九時、桜庭美羽は自分のレーティングをチェックした。
スマートフォンの画面には、大きく「4.87」という数字が表示されている。その下には、過去二十四時間の変動グラフと、詳細な評価項目が並んでいた。
外見:4.92
性格:4.85
知性:4.81
社交性:4.90
総合評価:4.87
美羽は小さく溜息をついた。また下がった。昨日は4.89だったのに。
「おはよう、美羽」
同僚の声に顔を上げると、営業部の藤崎奈美が笑顔で手を振っていた。美羽は反射的にスマートフォンで奈美のレーティングを確認する。
4.62。
美羽より低い。安心感が広がる。
「おはよう、奈美さん」
美羽は完璧な笑顔を作った。この笑顔は鏡の前で何百回も練習したものだ。口角の上げ方、目の細め方、全てが計算されている。
この社会では、全ての人間にレーティングが付けられていた。
それが始まったのは十年前だった。SNSの普及により、人々は互いを評価し合うようになった。最初は単純な「いいね」だった。やがてそれは星の数になり、コメントになり、詳細なカテゴリー評価へと進化した。
そして五年前、政府はレーティングシステムを正式に社会制度として導入した。
理由は治安の向上だった。評価の高い人間は信頼でき、評価の低い人間は注意が必要だ。シンプルで、わかりやすい。
だが、現実はそう単純ではなかった。
レーティングは人生を左右するようになった。就職、結婚、住宅ローン、子供の進学。全てが評価点で決まる。4.5以上なければ大手企業には就職できない。4.0以下は賃貸契約すら結べない。
そして、3.0を下回ると、「制限市民」に指定される。
美羽は現在二十八歳。大手商社に勤めて五年になる。入社時のレーティングは4.65だった。それから毎日、一秒一秒を評価のために生きてきた。
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昼休み、美羽は同僚たちとランチに出かけた。
レストランに入ると、店員が全員のレーティングをスキャンした。4.5以上の客には特別なサービスがある。美羽たちは窓際の良い席に案内された。
「美羽さんって本当にすごいよね。4.8台をキープしてるなんて」
後輩の松永詩織が目を輝かせて言った。彼女のレーティングは4.32だった。
「そんなことないわ。まだまだよ」
美羽は謙遜した。だが、内心では優越感を感じていた。
「どうやって維持してるんですか。秘訣とか」
「特別なことはしてないけど」
美羽は微笑んだ。
「ただ、常に周りの人を不快にさせないように気をつけてるだけよ」
それは嘘だった。
美羽は毎朝五時に起床し、メイクに一時間をかける。服は必ず前日に選び、コーディネートアプリで評価をチェックする。通勤電車では常に笑顔を保ち、誰かとぶつかればすぐに謝罪する。
会社では上司に気を遣い、同僚には優しく接し、後輩の相談には真摯に答える。飲み会は全て出席し、二次会も断らない。休日はボランティア活動に参加し、その様子をSNSに投稿する。
全ては評価のため。
美羽には恋人がいた。というより、いることになっていた。
相手は同じ会社の営業部長、西園寺拓馬。三十五歳。レーティング4.91。エリート中のエリートだった。
だが、美羽は拓馬を愛していなかった。
これは取引だった。互いのレーティングを上げるための、戦略的パートナーシップ。高評価同士のカップルは、さらに評価が上がる。システムがそう設計されていた。
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その日の夜、美羽は拓馬とディナーデートをした。
高級レストラン。周りの客は全員、4.8以上のレーティング保持者だった。ここは「セレブレート・ゾーン」と呼ばれる特別区画にあり、評価の低い人間は入店すらできない。
「美羽、綺麗だよ」
拓馬が言った。美羽は微笑んで頷いた。
「ありがとう」
会話は滞りなく進んだ。互いに相手を褒め、笑い、楽しい時間を過ごしているふりをする。
食事が終わり、拓馬が提案した。
「そろそろ、結婚を考えないか」
美羽は予想していた。タイミングとしては完璧だった。二人が交際を始めて一年。互いのレーティングは安定している。結婚すれば、さらに評価は上がる。
「考えてみるわ」
美羽は慎重に答えた。即答は避ける。少し悩むふりをすることで、相手の評価も自分の評価も上がる。
帰り道、美羽は自分のレーティングをチェックした。
4.88。
上がった。プロポーズのシーンを偶然近くにいた誰かが目撃し、高評価をつけたのだろう。
美羽は安堵した。そして、同時に吐き気を感じた。
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異変が起きたのは、その一週間後だった。
朝、スマートフォンを見ると、レーティングが急落していた。
4.52。
美羽は目を疑った。一晩で0.35も下がるなんて、ありえない。詳細を確認すると、大量の低評価が付けられていた。
コメント欄を見て、美羽は凍りついた。
「桜庭美羽は偽善者」
「全部演技」
「本性は最悪」
「こんな女に騙されるな」
誰かが美羽の秘密を暴露していた。拓馬との関係が偽装であること。ボランティア活動が評価稼ぎのためだけであること。友人関係が全て計算されたものであること。
投稿者は「匿名」となっていた。だが、美羽には心当たりがあった。
藤崎奈美。
同僚で、美羽が密かにライバル視していた女性。最近、彼女のレーティングが急上昇していることに、美羽は焦りを感じていた。
会社に出勤すると、周りの目が変わっていた。
誰も美羽に声をかけない。すれ違う時、明らかに距離を取る。エレベーターに乗ろうとすると、中にいた人々が降りていった。
美羽は震えながら自分の席に座った。
午前中、三件の商談がキャンセルされた。理由は「担当者のレーティングが基準を満たしていない」だった。
昼休み、部長に呼ばれた。
「桜庭君、少し話がある」
部長の部屋に入ると、人事部長も同席していた。
「単刀直入に言う。君のレーティングが規定値を下回った。うちの会社は4.5以上を維持することが雇用条件になっている。現在の君の評価は4.48だ」
美羽は言葉を失った。さらに下がっている。
「一週間の猶予を与える。4.5まで回復できなければ、退職してもらう」
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美羽は必死だった。
SNSで謝罪文を投稿した。ボランティア活動を増やした。道端で困っている人を見つけては助けた。全てを動画に撮影し、投稿した。
だが、評価は上がらなかった。むしろ下がり続けた。
「必死すぎて気持ち悪い」
「もう終わりだね」
「4.5以下の人間は社会に不要」
コメントは容赦なかった。
拓馬から連絡が来た。
「美羽、悪いけど別れよう。君といると僕の評価まで下がる」
婚約は破談になった。それがさらに評価を下げた。
一週間後、美羽のレーティングは4.12まで落ちた。
会社は退職を命じた。美羽は抵抗する気力もなく、辞表を提出した。
それから一カ月、美羽は仕事を探した。だが、どこも雇ってくれなかった。評価が低すぎた。コンビニのアルバイトすら断られた。
貯金は底をつき始めた。マンションは追い出され、安いアパートに引っ越した。だが、そこも長くは居られなかった。家賃を滞納し、大家から退去を命じられた。
美羽のレーティングは3.87になった。
そして、ある日、ついに3.0を下回った。
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2.94。
スマートフォンの画面が赤く点滅した。警告音が鳴り響く。
「あなたは制限市民に指定されました」
機械的な音声が告げた。
「公共交通機関の使用、医療機関の利用、金融機関の取引が制限されます。詳細は最寄りの市役所でご確認ください」
美羽は膝から崩れ落ちた。
制限市民。社会の最底辺。人間としての権利を剥奪された存在。
美羽は街を彷徨った。
レーティング3.0以下の人間が集まる地区があった。通称「レッドゾーン」。そこでは、評価など関係なく人々が生きていた。
だが、それは地獄だった。
仕事はない。医療は受けられない。食料は配給制で、最低限の栄養しか与えられない。人々は互いを信用せず、盗みや暴力が日常だった。
美羽は廃墟となったビルの一室で夜を過ごした。
そこで、一人の老人と出会った。
七十代の男性。レーティングは2.31だった。
「あんたも堕ちてきたクチか」
老人が声をかけてきた。美羽は頷いた。
「俺は十年前からここにいる。最初は辛かったが、今は慣れた」
「慣れる、ですか」
「ああ。評価なんてものがどれだけ馬鹿馬鹿しいか、ここに来ればわかる」
老人は笑った。
「俺は昔、大学教授だった。レーティングは4.6もあった。だが、ある日、政府を批判する論文を発表した。それだけで一気に評価が落ちた。あっという間に2.0台だ」
老人は遠くを見つめた。
「評価なんてのは、結局、支配のための道具なんだよ。従順な人間には高い点数を与え、反抗する人間は排除する。それだけのシステムだ」
美羽は何も言えなかった。
「あんたは何で堕ちた」
「偽善者だと言われました」
「そうか」
老人は頷いた。
「なら、今度は本物になればいい」
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それから三カ月、美羽はレッドゾーンで生きた。
配給所でボランティアをした。今度は評価のためではなく、本当に困っている人を助けるために。
病気の子供を看病した。怪我をした老人を介抱した。食料を分け合った。
評価は上がらなかった。だが、美羽は気にしなくなっていた。
ある日、美羽は偶然、藤崎奈美を見かけた。
高級ショッピングモールの前。奈美は相変わらず高価な服を着て、笑顔で友人と話していた。スマートフォンでレーティングを確認すると、4.89だった。
美羽のレーティングを暴露したのは、やはり奈美だったのだろう。
美羽は奈美に近づこうとした。だが、店の警備員に制止された。
「制限市民の方はお引き取りください」
美羽はその場を離れた。
怒りはなかった。憎しみもなかった。ただ、哀れだと思った。
奈美は今、美羽がかつていた場所にいる。評価を維持するために必死に生きている。いつか、ちょっとしたきっかけで、奈美も堕ちるだろう。
そして、同じことを繰り返す。
美羽はレッドゾーンに戻った。
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半年後、転機が訪れた。
政府のレーティングシステムに対する批判が高まっていた。制限市民の数は全人口の三割に達し、社会は崩壊寸前だった。
そして、ついにシステムの廃止が決定された。
ある政治家が言った。
「人間を数字で評価することは、人間性の否定だ。我々は間違っていた」
美羽のスマートフォンに通知が届いた。
「レーティングシステムは終了しました。あなたの評価は削除されます」
画面から数字が消えた。
美羽は、何も感じなかった。
喜びも、安堵も、何もなかった。
ただ、空虚だった。
レッドゾーンの人々は歓喜した。自由だと叫んだ。だが、美羽は知っていた。
評価は消えても、差別は消えない。
かつて制限市民だった人間を、社会は簡単には受け入れない。レーティングという可視化されたシステムがなくなっただけで、人々の心の中の評価は変わらない。
美羽は廃墟の窓から外を見た。
朝日が昇っていた。新しい時代の始まり。だが、美羽には何も新しくは見えなかった。
人間は変わらない。
システムが変わっても、人間の本質は変わらない。互いを評価し、序列をつけ、優劣を競う。それは人間の本能なのかもしれない。
美羽は立ち上がった。
レッドゾーンには、まだ助けを必要としている人がたくさんいた。評価がなくなっても、彼らの苦しみは消えない。
美羽は配給所に向かった。
そこには、あの老人がいた。
「おはよう」
「おはようございます」
美羽は笑った。
それは、かつての計算された笑顔ではなく、心からの笑顔だった。
評価のための人生は終わった。
これからは、自分のための人生を生きる。
美羽は、ようやく自由になった。
数字に縛られない、本当の自由を手に入れた。
それは、全てを失った代償だった。だが、美羽は後悔していなかった。
失ったものは多かった。だが、得たものもあった。
本当の自分。
それだけで十分だった。
朝日を浴びながら、美羽は歩き続けた。
評価のない世界で。
ただ人間として。




