【ディストピア】痛みを買う者たち
午前三時の歓楽街に、その店はひっそりと佇んでいた。看板には「ペインシフト・センター」とだけ書かれている。窓ガラスには目隠しのフィルムが貼られ、中の様子は一切見えない。
店の奥の個室で、水無瀬涼介は診察台に横たわっていた。三十二歳。大手広告代理店の営業部長。左手首には銀色の端末が巻かれている。
「では、転送を開始します」
白衣の技師がタブレットを操作すると、涼介の端末が青く光った。
次の瞬間、涼介の表情が歪んだ。全身を焼けた鉄で突かれるような激痛が走る。呼吸が乱れ、冷や汗が噴き出す。
「うっ、ぐぅ」
涼介は歯を食いしばった。痛みは三分ほど続き、やがて波が引くように消えていった。
「お疲れ様でした。今回の痛覚データは末期癌患者のものです。報酬は十五万円になります」
技師は事務的に告げた。涼介は荒い息を整えながら、端末の表示を確認する。口座に振り込まれた金額を見て、小さく頷いた。
「次の予約は」
「三日後の同じ時間で承っております」
涼介は立ち上がり、ふらつく足取りで店を出た。
この技術が実用化されたのは五年前だった。神経インターフェース技術の発展により、人間の痛覚を電気信号として抽出し、他者に転送することが可能になったのだ。
当初は医療分野での応用が期待された。手術中の患者の痛みを軽減する。慢性疼痛に苦しむ人々を救う。そういった崇高な目的のために開発された技術だった。
だが、現実は違った。
痛みを感じたくない富裕層と、金のために痛みを買う貧困層。そういった構造が瞬く間に形成された。癌の痛み、出産の痛み、事故の痛み。あらゆる苦痛が商品として売買されるようになった。
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涼介がこの仕事を始めたのは、半年前だった。
きっかけは借金だった。父親の事業が失敗し、連帯保証人になっていた涼介に二千万円の債務が降りかかった。正規の仕事だけでは到底返済できない額だった。
最初は躊躇した。だが、初めて痛みを受け取った時、涼介は奇妙な感覚を覚えた。
それは解放感だった。
日々の重圧、将来への不安、人間関係のストレス。そういった精神的な痛みに比べれば、肉体的な痛みは驚くほどシンプルだった。始まりがあり、終わりがある。明確で、わかりやすい。
涼介は週に二回、痛みを買うようになった。
ある時は交通事故の衝撃。ある時は火傷の灼熱。ある時は骨折の鈍痛。痛みの種類によって報酬は異なるが、癌や難病の痛みは特に高額だった。
半年で涼介は八百万円を稼いだ。だが、代償もあった。
体重は十キロ落ち、顔色は土気色になった。同僚たちは涼介の変化に気づいていたが、誰も理由を聞こうとはしなかった。
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ある夜、涼介は常連客の一人と顔を合わせた。
個室の待合室で、五十代の男が座っていた。痩せこけた体、くぼんだ目。涼介と同じ、痛みを買う者の顔だった。
「初めて見る顔だな」
男が声をかけてきた。涼介は軽く会釈した。
「半年前から」
「そうか。俺は三年だ」
男は自嘲するように笑った。
「三年も続けると、もう普通の痛みじゃ物足りなくなる。最初は軽い怪我の痛みで満足してたんだがな。今じゃ末期癌クラスじゃないと金にならない」
「体は大丈夫なんですか」
「大丈夫なわけないだろう。でも、やめられない。金が必要だからな」
男は淡々と語った。
「息子の治療費だ。小児白血病でな。毎月百万かかる。保険じゃ足りない。だから俺が痛みを買う。皮肉なもんだ。息子の痛みを消すために、他人の痛みを買ってる」
涼介は何も言えなかった。
「お前は何のために痛みを買ってる」
「借金です」
「そうか」
男は立ち上がった。
「忠告しておく。この仕事は麻薬と同じだ。一度始めたら、もう戻れない」
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それから一カ月後、涼介は限界を感じていた。
体は悲鳴を上げていた。慢性的な倦怠感、原因不明の頭痛、不眠。医者は過労とストレスだと診断したが、涼介は本当の理由を知っていた。
人間の体は、これほどの痛みを受け続けるようには作られていない。
だが、借金はまだ千二百万円残っていた。
ある日、涼介は会社で倒れた。救急搬送され、検査の結果、重度の自律神経失調症と診断された。医師は即座に入院を勧めたが、涼介は拒否した。
入院すれば収入が途絶える。痛みを買えなくなる。
その夜、涼介は再びペインシフト・センターを訪れた。
「今日は特別な案件があります」
技師は涼介を別の個室に案内した。そこには見たことのない装置が設置されていた。大型の機械と、全身を覆うスーツ。
「これは新型の転送装置です。従来のものより遥かに高精度で、より強い痛覚データを転送できます」
「報酬は」
「一回五十万円です」
涼介は息を呑んだ。通常の三倍以上の額だった。
「ただし、リスクもあります。痛みの強度が通常の十倍になります。最悪の場合、ショック死する可能性も」
技師は淡々と説明を続けた。
「転送元は、拷問を受けている政治犯です。某国の秘密警察が関与しています。データは闇ルートで入手したものです」
涼介は黙っていた。
「どうされますか」
沈黙が続いた。涼介は自分の手を見つめた。震えている。恐怖なのか、期待なのか、自分でもわからなかった。
「やります」
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スーツを着せられ、装置に接続される。技師がカウントダウンを始める。
「三、二、一、転送開始」
次の瞬間、涼介の意識は白く染まった。
それは痛みではなかった。痛みという概念を超越した、純粋な苦痛だった。全身の細胞が悲鳴を上げる。骨が砕け、肉が引き裂かれ、神経が焼かれる。
涼介は叫んだ。いや、叫ぼうとした。だが、声は出なかった。体が動かない。呼吸ができない。
これは死だ。
涼介は理解した。自分は今、死にかけている。
走馬灯のように記憶が蘇る。子供の頃の夏休み。母親の笑顔。初恋の相手。大学の卒業式。就職。そして、父親の自殺。
全てが無意味だったような気がした。
その時、涼除の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
自分は何のために生きているのか。
借金を返すため。そのために痛みを買う。だが、その先に何がある。借金を完済したとして、それで何が変わる。
涼介は、自分が既に死んでいたことに気づいた。
肉体的にではなく、精神的に。痛みを買い続けることで、涼介は生きることを放棄していた。他人の苦痛を引き受けることで、自分の人生から逃げていた。
痛みが消えた。
涼介は装置から外され、床に倒れ込んだ。全身が痙攣し、口から泡を吹いている。技師が慌てて応急処置を施す。
「大丈夫ですか」
涼介は答えなかった。答えられなかった。
気がつくと、涼介は病院のベッドにいた。
医師の説明によれば、三日間意識不明だったという。脳に異常はないが、しばらく安静が必要だと告げられた。
涼介は天井を見つめた。
病室の窓から朝日が差し込んでいた。眩しかった。こんなにも光が眩しいと感じたのは、いつ以来だろう。
その時、ドアがノックされた。
「入ってもいいか」
声の主は、あの男だった。ペインシフト・センターで会った、三年間痛みを買い続けている男。
「どうして」
「お前が運ばれたと聞いてな。様子を見に来た」
男は椅子に座った。
「息子が死んだ」
涼介は息を呑んだ。
「三日前だ。俺が痛みを買っている間にな。最期に会うこともできなかった」
男の声は静かだった。
「医者は言った。もっと早く骨髄移植をしていれば助かったかもしれないと。だが、俺は金を治療費じゃなく、痛みを買うことに使っていた。息子を救うためだと思っていたが、実際は自分が逃げていただけだった」
男は立ち上がった。
「お前にこれを渡しに来た」
男が差し出したのは、一枚のカードだった。自助グループの案内だった。
「痛みを買うのをやめた人間たちの集まりだ。俺も参加するつもりだ。お前も来るか」
涼介はカードを受け取った。
「考えてみます」
「そうか」
男は病室を出ていった。
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涼介が退院したのは一週間後だった。
会社には休職を申し入れた。借金については、弁護士に相談して債務整理を行うことにした。月々の返済額は減ったが、完済まで十年かかる。
それでも、涼介は痛みを買うことをやめた。
自助グループの会合に参加した。そこには様々な人がいた。痛みを買っていた人、痛みを売っていた人。医療従事者もいれば、技術者もいた。
皆、同じことを語った。
痛みは商品ではない。痛みは人間の尊厳そのものだ。それを売買することは、人間性を売買することに等しい。
涼介は少しずつ回復していった。体重が戻り、顔色も良くなった。夜は眠れるようになり、悪夢も減った。
だが、完全には戻らないことも理解していた。
あの時受けた痛み。拷問の痛み。それは涼介の体に刻み込まれていた。時折、幻痛として蘇る。理由もなく体が痛み出す。
それは、涼介が犯した罪の証だった。
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半年後、涼介は復職した。
営業部長の職は降りて、平社員として再スタートした。給料は半分になったが、それでも構わなかった。
ある日、涼介は街で偶然、あの技師を見かけた。
ペインシフト・センターは既に閉鎖されていた。摘発されたのだ。痛覚データの違法取引で、経営者は逮捕された。
技師は今、コンビニでアルバイトをしているようだった。涼介は声をかけようとして、やめた。
何を言えばいいのかわからなかった。
涼介は歩き続けた。
痛みは消えない。過去は変えられない。だが、これから先の人生は変えられる。
涼介は、ようやくそのことを理解し始めていた。
夜の歓楽街を歩きながら、涼介はふと立ち止まった。かつてペインシフト・センターがあった場所は、今は空きテナントになっていた。
看板の跡が、壁にうっすらと残っている。
涼介は深呼吸をして、再び歩き出した。
痛みを買っていた頃、涼介は自分が強いと思っていた。どんな苦痛にも耐えられる。金のためなら何でもできる。
だが、それは間違いだった。
本当の強さとは、痛みに耐えることではない。痛みと向き合い、それでも生きていくことだ。
自分の痛みから逃げずに。
涼介の左手首には、まだ端末の跡が残っていた。銀色の輪の痕。それは消えることのない烙印だった。
だが、涼介はもう痛みを買わない。
自分の人生を、自分の痛みを、他人に売り渡すことはしない。
そう決めた瞬間、涼介は初めて、本当の意味で自由になった気がした。
朝日が昇り始めていた。新しい一日が始まる。
涼介は、その光の中を歩いていった。




