【サイコスリラー】道化の影
葛西颯馬は、道化に取り憑かれていた。
それは三年前から始まった。ある朝、目を覚ますと、ベッドの脇に道化が立っていた。赤と白の派手な衣装。大きな赤い鼻。白塗りの顔。そして、笑っているような、泣いているような、不気味な表情。
颯馬は叫んだ。だが、道化は消えなかった。ただ、じっと颯馬を見つめていた。
それ以来、道化はずっと颯馬のそばにいた。朝起きれば、道化がいる。仕事に行けば、道化がついてくる。家に帰れば、道化が待っている。
颯馬は何度も道化に話しかけた。だが、道化は何も答えなかった。ただ、颯馬を見つめ、時折笑い、時折首を傾げるだけだった。
そして、颯馬が気づいたことがあった。
道化の顔が、毎日変わるのだ。
ある日は老人の顔。ある日は若い女性の顔。ある日は子供の顔。道化の衣装は同じだが、顔だけが変わり続けた。
颯馬は恐怖した。この道化は何者なのか。なぜ自分に憑いているのか。
颯馬は精神科を訪れた。医師は颯馬の話を聞き、薬を処方した。だが、薬を飲んでも道化は消えなかった。
「幻覚ではありません」
颯馬は医師に訴えた。
「本当にいるんです。道化が」
医師は首を横に振った。
「葛西さん、それはストレスによる幻覚です。薬を続ければ、きっと良くなります」
颯馬は諦めた。誰も信じてくれない。ならば、自分で何とかするしかない。
颯馬の周りでは、不可解なことが起き始めていた。
颯馬が話した人が、次々と死んでいくのだ。
最初は偶然だと思った。だが、それが続くと、颯馬は恐ろしくなった。
三ヶ月前、颯馬は喫茶店で隣に座った女性と少し話をした。早乙女琴音という名前だった。彼女は気さくに笑い、颯馬と世間話をした。
その三日後、琴音は交通事故で亡くなった。
一ヶ月前、颯馬は会社の同僚、氷室蒼太と飲みに行った。蒼太は明るい男で、颯馬を励ましてくれた。
その一週間後、蒼太は突然倒れ、心臓発作で死んだ。
そして一週間前、颯馬は公園で朝霧楓という女性と出会った。楓は犬の散歩をしていて、颯馬に挨拶をした。颯馬は少しだけ話をした。
昨日、楓は自宅で首を吊って死んでいるのが発見された。
颯馬は震えた。
自分のせいだ。
自分が話した人が、死んでいく。
それは、道化のせいだ。
颯馬は道化を見た。道化は今日も颯馬の隣に立っていた。今日の顔は、楓の顔だった。
颯馬は叫んだ。
「やめてくれ。もう誰も殺さないでくれ」
道化は何も答えなかった。ただ、颯馬を見つめていた。
颯馬は誰とも話さないようにした。仕事は最低限の連絡だけにした。外出も控えた。家に引きこもった。
だが、それでも道化は消えなかった。
ある夜、颯馬は決意した。
この道化を、何としてでも消す。
颯馬はネットで調べた。道化、死神、呪い。様々なキーワードで検索した。そして、ある情報に辿り着いた。
「道化の呪いを解く方法」
それは古い掲示板の書き込みだった。投稿者は匿名で、信憑性は分からなかった。だが、颯馬にはそれしか頼るものがなかった。
書き込みには、こう書かれていた。
「道化の呪いを解くには、鏡の前で自分の名前を三回唱えること。そして、鏡に映る道化に向かって『お前は私ではない』と言うこと」
颯馬は半信半疑だった。だが、試す価値はあった。
颯馬は洗面所へ向かった。鏡の前に立った。隣には道化がいた。今日の道化の顔は、颯馬の知らない老人の顔だった。
颯馬は深呼吸をした。そして、口を開いた。
「葛西颯馬。葛西颯馬。葛西颯馬」
三回、自分の名前を唱えた。
そして、鏡を見た。
鏡には、颯馬と道化が映っていた。
颯馬は道化に向かって言った。
「お前は、私ではない」
その瞬間、道化が動いた。
道化は颯馬の方を向き、口を開いた。そして、初めて声を発した。
「本当に、そうか」
颯馬は凍りついた。
道化が、喋った。
「お前は、本当に私ではないのか」
道化は笑った。
颯馬は後ずさった。
「違う。お前は、俺じゃない」
「では、私は誰だ」
道化は一歩、颯馬に近づいた。
「私は、お前が殺した人々だ」
颯馬は首を横に振った。
「俺は、誰も殺していない」
「本当に、そう思っているのか」
道化はさらに近づいた。
「お前は、覚えていないのか。琴音を。蒼太を。楓を」
颯馬の頭が痛くなった。
「俺は、何もしていない」
「そうか」
道化は颯馬の目の前に立った。
「では、鏡を見ろ」
颯馬は鏡を見た。
そこには、道化の衣装を着た颯馬が映っていた。
颯馬は息を呑んだ。
「これは、違う」
「違わない」
道化は颯馬の肩に手を置いた。
「お前が、道化だ」
颯馬は鏡から目を逸らした。
「違う。俺は、俺だ」
「そうだ。お前は、お前だ。そして、お前は道化だ」
道化は笑った。
「お前が殺したんだ。琴音を。蒼太を。楓を。そして、他の多くの人々を」
颯馬は頭を抱えた。
「やめてくれ」
「お前は、それを忘れている。だから、私が現れた。お前に思い出させるために」
颯馬は叫んだ。
「嘘だ。俺は、誰も殺していない」
道化は静かに笑った。
「では、なぜお前の周りで人が死ぬ」
颯馬は答えられなかった。
道化は颯馬の耳元で囁いた。
「お前は、夜になると変わる。道化になる。そして、人を殺す。朝になると、お前は忘れる。だが、私は覚えている」
颯馬は震えた。
「嘘だ」
「嘘ではない」
道化は颯馬から離れた。
「お前は、もうすぐ気づく。だが、その時にはもう遅い」
道化は消えた。
颯馬は一人、鏡の前に立ち尽くした。
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その夜、颯馬は眠れなかった。
道化の言葉が頭から離れなかった。
自分が、道化なのか。
自分が、人を殺しているのか。
颯馬は否定したかった。だが、確信が持てなかった。
颯馬は自分の手を見た。普通の手だった。血も付いていない。
だが、もし本当に自分が殺しているのなら、証拠は残さないだろう。
颯馬はベッドに横になった。目を閉じた。だが、眠れなかった。
時計を見ると、深夜二時だった。
颯馬は起き上がり、窓の外を見た。街は静かだった。
そのとき、颯馬は自分の姿が窓ガラスに映っているのを見た。
だが、それは颯馬ではなかった。
道化だった。
颯馬は叫ぼうとした。だが、声が出なかった。
道化は笑っていた。
颯馬は窓ガラスから目を逸らした。そして、部屋の鏡を見た。
そこにも、道化が映っていた。
颯馬は部屋を飛び出した。廊下を走った。玄関を開け、外に出た。
街灯の下、颯馬は立ち止まった。
そして、自分の影を見た。
影は、道化の形をしていた。
颯馬は笑った。
もう、逃げられない。
自分が、道化なのだ。
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翌朝、颯馬は目を覚ました。
いつものベッドだった。窓から朝日が差し込んでいた。
颯馬は起き上がり、鏡を見た。
そこには、普通の颯馬が映っていた。
颯馬は安堵した。夢だったのだ。
颯馬は着替え、朝食を食べた。そして、仕事に向かった。
会社へ向かう途中、颯馬はニュースを見た。
昨夜、近所で一人の男性が死んでいるのが発見された。死因は不明。
颯馬は立ち止まった。
その男性の映像を見て、颯馬は震えた。
神宮寺響。
颯馬は、昨日その男とすれ違っただけだった。話もしていない。ただ、すれ違っただけだった。
だが、響は死んだ。
颯馬は走った。会社には行かなかった。家に戻った。
部屋に入り、鏡を見た。
そこには、颯馬が映っていた。
だが、颯馬の目は、どこか空虚だった。
颯馬は笑った。
もう、分かっていた。
自分が、何者なのか。
自分が、何をしているのか。
だが、颯馬は認めなかった。
認めたくなかった。
だから、颯馬は鏡に向かって言った。
「俺は、俺だ。道化じゃない」
鏡の中の颯馬は、笑っていた。
その日の夜、颯馬は再び街に出た。
どこへ行くでもなく、ただ歩いた。
人々が行き交う。颯馬はその中を歩いた。
そして、ふと立ち止まった。
目の前には、若い女性がいた。彼女は携帯電話を見ながら歩いていた。
颯馬は彼女を見つめた。
彼女は気づかなかった。
颯馬は一歩、彼女に近づいた。
彼女はまだ気づかなかった。
颯馬の手が、ゆっくりと伸びた。
だが、その瞬間、颯馬は手を引っ込めた。
颯馬は走った。女性から離れた。
颯馬は公園に辿り着いた。ベンチに座り、頭を抱えた。
自分は、何をしようとしていたのか。
颯馬は震えた。
もう、自分では止められない。
颯馬は空を見上げた。星が瞬いていた。
そして、颯馬は笑った。
道化のように。
数日後、颯馬は再び鏡の前に立った。
鏡には、道化の衣装を着た颯馬が映っていた。
颯馬は笑った。
「やっと、分かったよ」
颯馬は鏡に向かって言った。
「俺が、道化だったんだ」
鏡の中の颯馬は、何も言わなかった。
颯馬は続けた。
「でも、それでいいんだ。俺は、道化として生きる」
颯馬は部屋を出た。
そして、街へと向かった。
次の獲物を探すために。
颯馬の影は、道化の形をしていた。
颯馬は笑いながら、夜の街を歩いた。
誰も、颯馬が道化だとは気づかなかった。
颯馬自身も、本当の意味では気づいていなかった。
ただ、颯馬の中で、何かが壊れていた。
そして、それは二度と元に戻らなかった。
それから一ヶ月後、颯馬は部屋の中にいた。
壁には、何枚もの新聞記事が貼られていた。すべて、死亡記事だった。
颯馬はそれを眺めながら、笑っていた。
「みんな、俺のせいで死んだ」
颯馬は呟いた。
「でも、俺は覚えていない。だから、俺のせいじゃない」
颯馬は鏡を見た。
そこには、道化の衣装を着た颯馬が映っていた。
だが、颯馬はそれを自分だとは思わなかった。
颯馬は、それを「道化」だと思っていた。
自分に憑いている、死神だと。
颯馬は笑った。
「お前のせいだ。お前が、みんなを殺したんだ」
鏡の中の道化は、笑っていた。
颯馬も、笑っていた。
二つの笑い声が、部屋に響いた。
そして、颯馬は再び街へ出た。
道化の影を引きずりながら。
次の獲物を探すために。
颯馬は、自分が何をしているのか、本当には理解していなかった。
そして、それは、誰にも止められなかった。




