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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【不条理ドラマ】透明人間症候群

 朝、目を覚ますと、誰も自分を見ていなかった。

 椎名透は布団から起き上がり、リビングへ向かった。母親が朝食を作っていた。父親は新聞を読んでいた。

「おはよう」

 透は挨拶をした。だが、誰も返事をしなかった。

 母親は透の方を見ることなく、皿を並べた。父親は新聞から目を離さなかった。

 透はテーブルに座った。目の前には味噌汁とご飯と焼き魚が並んでいた。透は箸を手に取り、食事を始めた。

 誰も透に話しかけなかった。

 それは昨日も、一昨日も、そしてその前も同じだった。透はいつからか、家族に無視されるようになっていた。いや、無視ではない。存在しないものとして扱われていた。

 透明人間のように。

 透は食事を終え、学校へ向かった。玄関を出ると、近所の人とすれ違った。透は会釈をしたが、相手は透を見ることなく通り過ぎた。

 学校へ着くと、クラスメイトが騒いでいた。だが、透が教室に入っても、誰も気づかなかった。透は自分の席に座り、授業が始まるのを待った。

 教師が入ってきた。出席を取る。

「青木」

「はい」

「石川」

「はい」

 名前が次々と呼ばれる。だが、透の名前は呼ばれなかった。透は手を挙げようとしたが、やめた。どうせ、誰も見ていないのだから。

 授業が始まった。透はノートを開き、黒板を写した。だが、教師は透の方を一度も見なかった。質問もされなかった。

 昼休み。透は一人で弁当を食べた。周りでは友人同士が楽しそうに話していた。透はその輪に入ることができなかった。

 いや、入ろうとしたことはあった。だが、誰も透の声を聞かなかった。まるで、透がそこにいないかのように。

 透はいつしか、自分が本当に透明人間になったのではないかと思うようになった。

 鏡を見ると、自分の姿は映っている。手を見れば、手は見える。だが、他人の目には、透は映っていないようだった。

 放課後、透は図書館へ向かった。そこでなら、一人でも不自然ではなかった。透は本棚の間を歩き、適当な本を手に取った。

「透明人間の心理学」

 透はその本を開いた。そこには、こう書かれていた。

「透明人間症候群とは、他者から認識されないと感じる心理状態を指す。実際には他者は本人を認識しているが、本人がそれを感じ取れない状態である」

 透は本を閉じた。

 違う。自分は本当に見えていない。誰も自分を見ていない。声も聞こえていない。

 透は図書館を出た。夕暮れの街を歩いた。人々が行き交う中、透は誰とも目を合わせることがなかった。

 家に帰ると、母親が夕食を作っていた。透は「ただいま」と言ったが、返事はなかった。

 透は自分の部屋に戻った。机の上にはスマートフォンが置いてあった。透は画面を開いた。

 SNSを見る。友人たちの投稿が流れていた。楽しそうな写真。笑顔。コメント欄には「いいね」が並んでいた。

 透は何も投稿しなかった。投稿しても、誰も反応しないことが分かっていたから。

 透はベッドに横になった。天井を見つめた。

 自分は、いつから透明人間になったのだろう。

 透はそれを考えた。

 思い返せば、中学生の頃からだったかもしれない。クラスで目立つ存在ではなかった。友人も少なかった。だが、それでも何人かは話をしてくれた。

 高校に入ってから、それが少しずつ減っていった。気づけば、誰も透に話しかけなくなっていた。

 透は、自分に何か問題があるのだと思った。だから、努力した。明るく振る舞おうとした。笑顔を作った。話しかけた。

 だが、誰も応えなかった。

 透の声は、誰にも届かなかった。

 そして今、透は完全に透明人間になっていた。

 ある日、透は街で一人の男に出会った。

 男は三十代くらいだろうか。黒いスーツを着て、サングラスをかけていた。透が歩いていると、その男が突然声をかけてきた。

「君、見えているね」

 透は驚いて立ち止まった。誰かが自分に話しかけたのは、何ヶ月ぶりだろう。

「え」

「君は、透明人間症候群だろう」

 男は笑った。

「私もそうだった。だから、分かる」

「あなたも」

「ああ。だが、今は違う」

 男はサングラスを外した。その目は、どこか空虚だった。

「私は、この症候群を治す方法を見つけた」

「治す方法」

「そうだ。君も、透明人間をやめたいだろう」

 透は頷いた。

「では、ついてきてほしい」

 男は透を連れて、雑居ビルの中へと入った。エレベーターで七階まで上がり、一つの部屋の前で止まった。

「ここだ」

 男は扉を開けた。中には白い部屋が広がっていた。壁も床も天井も、すべてが真っ白だった。

「これは何ですか」

「認識強化ルーム。ここに入れば、君は他人に認識されるようになる」

「どうやって」

「簡単だ。君の存在を、この部屋が増幅する。そして、それを外に放出する。すると、他人は君を無視できなくなる」

 透は部屋を見つめた。

「本当に、効果があるんですか」

「もちろんだ。私がその証拠だ」

 男は笑った。

「では、入ってくれ。三十分ほどで終わる」

 透は躊躇した。だが、このままでは何も変わらない。透は部屋の中へと入った。

「では、始める」

 男が扉を閉めた。透は真っ白な部屋の中に一人残された。

 そのとき、部屋が光り始めた。壁から、床から、天井から、すべてが白い光を放ち始めた。

 透は目を閉じた。光が強すぎた。

 やがて、透は自分の体が熱くなるのを感じた。心臓が激しく鳴った。息が苦しくなった。

 これは、何だ。

 透は叫ぼうとした。だが、声が出なかった。

 光がどんどん強くなっていく。透の体が溶けていくような感覚があった。

 そして、すべてが白くなった。

 透が目を覚ましたとき、男が目の前に立っていた。

「終わったよ」

 透は立ち上がった。体は軽かった。何かが変わった気がした。

「これで、君は誰にでも見えるようになる」

「本当ですか」

「試してみればいい」

 透は部屋を出た。エレベーターで一階まで降り、外に出た。

 街を歩く。人々が行き交う。

 透は一人の女性に話しかけた。

「すみません」

 女性は透を見た。

「はい」

 透は驚いた。見えている。声が聞こえている。

「あの、道を教えてもらえますか」

「ええ、どちらへ」

 女性は笑顔で答えた。透は適当な場所を言い、女性が道を教えてくれるのを聞いた。

 効果があった。

 透は女性に礼を言い、歩き始めた。心が軽くなった。これで、もう透明人間ではない。

 家に帰ると、母親が出迎えた。

「おかえり」

 母親が話しかけてきた。透は涙が出そうになった。

「ただいま」

 透は母親を抱きしめた。母親は驚いたが、透の背中を撫でた。

「どうしたの、急に」

「何でもない。ただ、嬉しくて」

 透は笑った。

 その夜、透は久しぶりに家族と夕食を共にした。父親も、母親も、透に話しかけてくれた。透は嬉しくて、何度も笑った。

 翌日、学校へ行くと、クラスメイトが透に声をかけてきた。

「おはよう、椎名」

「おはよう」

 透は嬉しくて、大きな声で返事をした。

 授業中、教師が透の名前を呼んだ。

「椎名、この問題が分かるか」

「はい」

 透は答えた。教師は頷いた。

 昼休み、友人たちが透を誘った。

「一緒に食べよう」

「うん」

 透は友人たちと弁当を食べた。楽しかった。笑いが止まらなかった。

 透明人間ではなくなった。

 透は、やっと人間に戻れたのだと思った。

 しかし、それから一週間後、透は気づいた。

 自分が、他人に見えすぎていることに。

 街を歩いていると、誰もが透を見る。すれ違う人が、皆、透の方を振り返る。店に入ると、店員が透を凝視する。

 最初は気のせいだと思った。だが、それは日に日に強くなっていった。

 学校でも、クラスメイトが透をじっと見る。授業中、教師も透ばかりを見る。透が何をしても、誰かが見ている。

 それは、恐怖だった。

 透は再び、あの雑居ビルを訪れた。男に会いに行った。

「おかしいんです」

 透は男に訴えた。

「みんなが、僕を見すぎる」

「ああ、それは副作用だ」

 男は平然と言った。

「認識強化は、完全にコントロールできない。だから、少し強くなりすぎることがある」

「じゃあ、どうすればいいんですか」

「元に戻すしかない」

「元に」

「そう。透明人間に」

 透は固まった。

「でも、それじゃあ」

「君は透明人間が嫌だったんだろう。だが、今は逆に見られすぎて嫌だと言う。つまり、君が求めているのは、適度に見られることだ」

 男は肩をすくめた。

「だが、それは難しい。人間は、見えるか見えないか、どちらかしかない」

 透は黙った。

 男は続けた。

「君が本当に求めているのは、他人に認識されることではなく、他人に受け入れられることだ。だが、それは技術では解決できない」

 透は俯いた。

「では、どうすれば」

「自分で見つけるしかない」

 男はそう言うと、透に背を向けた。

「もう来ないでくれ」

 透は街を歩いた。どこへ行くでもなく、ただ歩いた。

 人々が透を見る。透は目を逸らした。

 公園に着くと、透はベンチに座った。誰もいない公園で、ただ座っていた。

 空を見上げると、雲が流れていた。

 透は、自分が何を求めていたのか分からなくなっていた。

 見えることか。見えないことか。

 それとも、ただ普通に生きることか。

 透には分からなかった。

 ただ、一つだけ分かっていた。

 自分は、誰かに認められたかったのだと。

 だが、それは技術では手に入らないものだった。

 透はベンチから立ち上がり、再び歩き始めた。

 見られることにも、見られないことにも慣れるしかなかった。

 そして、いつか、自分を本当に見てくれる人に出会えることを願いながら、透は夜の街を歩き続けた。

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