【サイコホラー】完璧な隣人
引っ越してきた隣人は、完璧だった。
新築マンションの701号室に越してきた僕の隣、702号室に入居したのは、三十代半ばくらいの男性だった。名前は佐々木健二。穏やかな笑顔で、物腰が柔らかい。
「よろしくお願いします」
と彼は丁寧に挨拶し、手土産に高級な焼き菓子を持ってきた。
最初の一週間は、本当に良い隣人だと思っていた。
物音一つ立てない。ゴミ出しのルールも完璧に守る。廊下ですれ違えば必ず会釈する。
しかし、妙なことに気づき始めたのは二週間目からだった。
僕が朝7時に起きると、必ず佐々木さんも7時に起きる。玄関のドアを開ける音が、僕の15秒後に聞こえてくる。
偶然だと思った。でも毎日続く。
試しに朝6時に起きてみた。すると6時15秒後に、隣のドアが開く音がした。
朝8時にしてみても同じ。必ず15秒後。
ある日、わざと夜中の2時にトイレに起きた。すると――2時15秒後に、隣の部屋の物音が聞こえた。
背筋が寒くなった。
気のせいだと思いたかった。しかし観察すればするほど、奇妙な一致が増えていった。
僕が掃除機をかけると、必ず翌日の同じ時間に隣からも掃除機の音がする。僕が夜にピザを注文すると、翌日の同じ時間に隣にもピザの配達が来る。
僕が週末に映画を観ると、翌週末に隣の部屋からも同じ映画の音声が聞こえてくる。
ある晩、僕は壁に耳を当てた。
隣の部屋から、カタカタとキーボードを打つ音が聞こえる。僕がパソコンを開いた3分後から、必ず同じようにキーボード音が始まるのだ。
試しに立ち上がって部屋を歩き回った。隣からも足音が聞こえてくる。まるで鏡写しのように。
恐怖を感じた僕は、管理人に相談した。
「佐々木さんが、私の生活を監視している気がするんです」
管理人は困ったような顔をした。
「でも、何か迷惑行為をされているわけではないんですよね?」
「いえ、直接的には...でも、明らかに僕の行動を真似しているんです」
「真似、ですか。それは...証明できますか?」
できなかった。ただの偶然だと言われれば、それまでだ。
その夜、僕は決心して佐々木さんの部屋のドアをノックした。
「はい」
と穏やかな声。ドアが開くと、佐々木さんがいつもの柔和な笑みで立っていた。
「あの...お尋ねしたいことが」
「どうぞ、何でしょう?」
「もしかして、私の生活音、聞こえますか?」
「ええ、多少は。壁が薄いですからね」
「それで...私の行動を、真似されていますか?」
佐々木さんの笑顔が、一瞬だけ固まった。
「真似? いいえ、そんな。ただ、良い隣人でありたいと思っているだけです」
「良い隣人?」
「ええ。トラブルにならないよう、あなたの生活リズムに合わせているんです。そうすれば、お互い快適でしょう?」
理屈は分かる。でも何かが違う。
「でも、夜中の2時に起きた時も...」
「あなたが起きたから、私も何か緊急事態かと思って」
佐々木さんは真顔で言った。
「良い隣人というのは、互いを気遣うものです」
会話がどこかズレている。僕は諦めて自室に戻った。
その夜、僕は故意に不規則な行動を取ってみた。
10分おきに立ったり座ったり、電気をつけたり消したり。
隣からも、同じように物音が聞こえてくる。完璧に同期して。
翌朝、郵便受けに手紙が入っていた。差出人は佐々木健二。
『良い隣人になるため、日々努力しています。あなたと完全に調和できる日を楽しみにしています』
僕は引っ越しを決意した。
不動産屋に連絡し、一ヶ月後に退去すると告げた。
しかしその日の夕方、管理人から連絡があった。
「702号室の佐々木さんも、退去されるそうです。奇遇ですね」
「え...いつですか?」
「同じく一ヶ月後だそうです」
嫌な予感がした。
「引っ越し先は聞いていますか?」
「ええ、確か...」
管理人が書類をめくる音がした。
「港区の新しいマンションだとか」
僕が契約した場所と同じだった。
電話を切り、呆然とする。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
ドアスコープを覗くと、佐々木さんが立っていた。いつもの穏やかな笑顔で。
「これからもよろしくお願いします」
と彼は言った。
「隣人として」
僕はドアを開けなかった。開けられなかった。
その夜、僕は不動産屋に電話して引っ越しをキャンセルした。
翌日、管理人から連絡があった。
「佐々木さんも引っ越しをキャンセルされたそうです」
僕は会社を休んだ。すると隣の部屋からも、一日中人の気配がした。
僕が夕食にカップラーメンを食べると、隣からもお湯を注ぐ音が聞こえた。
夜、僕は壁を叩いた。
隣からも、同じリズムで叩き返された。
そして最後に、壁の向こうから声が聞こえた。
「完璧な隣人になれましたか?」
佐々木さんの声だった。
「僕たちは、もう一心同体ですね」
僕は部屋の隅で膝を抱えた。
その時、スマホが震えた。佐々木さんからのメッセージだった。
『今、部屋の隅で膝を抱えていますね。私もです。同じ気持ちを共有できて嬉しいです』
そして添付された写真には、壁を隔てた向こう側で、まったく同じポーズで膝を抱える佐々木さんの姿があった。
カメラはこちらの壁を向いている。
まるで、壁が透けて僕が見えているかのように。
翌朝、僕は荷物をまとめて実家に逃げた。
半年後、結婚を機に別の街に引っ越した。新しいマンションは、妻が選んでくれた。
入居の日、管理人が言った。
「ちょうど隣の部屋も今日入居者が来るんですよ。良い方だといいですね」
引っ越し業者と一緒に荷物を運んでいると、隣の部屋のドアが開いた。
そこに立っていたのは――
「やあ、また隣人になれましたね」
佐々木健二が、穏やかに微笑んでいた。
「完璧な隣人として、これからもよろしくお願いします」
僕の手から段ボールが落ちた。
妻が不思議そうに言った。
「あなた、どうしたの? 顔色悪いわよ」
佐々木さんが妻に会釈した。
「はじめまして。これからお世話になります。良いご夫婦ですね。私も最近結婚したんですよ」
彼が振り返ると、部屋の中から女性が現れた。
その女性の顔を見て、僕は声を失った。
妻とそっくりだった。
髪型から服装まで、全てが同じ。
「これからは、二組で完璧な隣人になりましょう」
佐々木さんがそう言って笑った。
隣の女性も、妻と同じ角度で、同じタイミングで、笑った。
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