【サイバーパンク】メモリースティーラー
ネオン街の雑踏を抜け、裏路地に入る。雨に濡れたアスファルトが、赤や青の光を反射している。神崎零は首筋に手を当て、埋め込まれた記憶端子を確認した。異常なし。今日の仕事は、これで三件目だ。
「また依頼か」
耳に装着された通信機から、相棒の声が聞こえる。女性の声だ。実際に会ったことはない。おそらく彼女も、本名は明かしていない。この世界では、本名を名乗る者など誰もいない。
「ああ。今度のターゲットは大物だ」
神崎は歩きながら、網膜に投影される情報を読んだ。ターゲットの名前、顔写真、住所、行動パターン——すべてが電脳空間から直接、彼の視覚野に送り込まれる。
名前は橋本修一。四十五歳。大手製薬会社の研究主任。表向きは新薬の開発をしているが、裏では違法な人体実験を繰り返している。そして今、彼の頭の中には、決定的な証拠が記憶として保存されている。
神崎の仕事は、その記憶を盗み出すことだ。
「記憶泥棒」——そう呼ばれる職業がある。脳に直接アクセスし、他人の記憶を抜き取る。技術的には違法だが、需要は尽きない。企業スパイ、証拠隠滅、個人的な復讐——理由は様々だ。
神崎はその中でも、特に腕のいい記憶泥棒として知られていた。成功率九十八パーセント。失敗したのは、十年のキャリアで二回だけ。
「準備はいいか?」
相棒が尋ねる。
「いつでも」
神崎は手首に装着されたデバイスを起動した。小さな画面には、ターゲットの現在位置が表示されている。自宅マンションの十二階。一人でいる。好都合だ。
侵入は簡単だった。
セキュリティシステムをハッキングし、エレベーターで最上階まで上がる。監視カメラの映像は、事前に録画したループ映像に差し替えてある。誰も気づかない。
ターゲットの部屋の前で立ち止まる。電子錠を解除するのに、三秒もかからなかった。
ドアを開ける。
部屋の中は暗い。リビングには、橋本修一が椅子に座っている。眠っているようだ。首筋には、神崎と同じ記憶端子が埋め込まれている。
「さて、仕事を始めるか」
神崎は橋本に近づき、専用のケーブルを取り出した。一方の端子を自分の首筋に接続し、もう一方を橋本の端子に接続する。
瞬間、視界が歪んだ。
神崎の意識は、電脳空間を通じて橋本の脳内に侵入する。記憶の海——それは、膨大な情報が渦巻く混沌だ。幼少期の記憶、学生時代の記憶、仕事の記憶、家族の記憶——すべてがデータとして存在している。
神崎は慣れた手つきで、目的の記憶を探した。人体実験の記録。被験者の名前、実験内容、結果——それらはすべて、橋本の記憶の深層に隠されている。
「見つけた」
神崎はその記憶をコピーし始めた。データが自分の脳に流れ込んでくる。苦痛に歪む被験者の顔、悲鳴、死——それらの映像が、神崎の意識を侵食する。
しかし彼は動じなかった。これが仕事だ。感情は邪魔でしかない。
コピーが完了する。あと数秒で——
その時だった。
突然、橋本の記憶空間が激しく揺れた。
「罠だ!」
相棒の声が響く。しかし遅かった。
橋本の記憶が、逆流してきた。いや、記憶ではない。何か別の——プログラムだ。ウイルス。神崎の脳に侵入し、彼の意識を乗っ取ろうとしている。
「くそ、切断しろ!」
神崎は必死にケーブルを引き抜こうとした。しかし体が動かない。ウイルスが神経系を麻痺させている。
視界が真っ白になる。
そして——
気がつくと、神崎は病院のベッドに寝ていた。
白い天井。消毒液の匂い。耳障りな機械音。
「目が覚めましたか」
医師が近づいてくる。中年の男性だ。白衣を着ている。
「ここは?」
神崎は尋ねた。声がかすれている。
「総合病院です。あなたは三日間、昏睡状態でした」
「三日?」
神崎は混乱した。あの仕事は——橋本は——
「記憶端子の過負荷により、脳に深刻なダメージを受けました。幸い、命に別状はありません。しかし——」
医師は言葉を切った。
「しかし?」
「記憶に障害が出ています。詳しくは検査が必要ですが、一部の記憶が欠損している可能性があります」
神崎は首筋に手を当てた。記憶端子はまだ埋め込まれている。しかし何かが違う。違和感がある。
「私の記憶が——」
「ええ。ただし、どの記憶が失われたかは、あなた自身にしか分かりません」
医師はそう言って、部屋を出て行った。
一人になった神崎は、必死に記憶を辿った。
自分の名前は? 神崎零。
年齢は? 三十二歳。
職業は? 記憶泥棒。
相棒は? ——名前を知らない。声だけの存在。
家族は? ——分からない。
神崎は愕然とした。家族の記憶がない。両親の顔も、兄弟がいたかどうかも、何も思い出せない。まるで最初から存在しなかったかのように。
「くそ、何をされた——」
その時、部屋のドアが開いた。
入ってきたのは、見知らぬ女性だった。いや、見知らぬではない。どこかで会ったような——
「神崎さん、大丈夫?」
女性は心配そうに尋ねた。
「あなたは?」
「何言ってるの。私よ、香織」
香織——その名前に、神崎は覚えがなかった。
「すみません、あなたのことを——」
「記憶喪失なの? お医者さん、何か言ってた?」
女性——香織は、涙ぐんでいる。
神崎は困惑した。この女性は誰だ。恋人? 妻? それとも——
「ごめん、本当に思い出せない」
香織は泣き崩れた。
「嘘でしょ。私たち、三年も付き合ってるのに」
三年——神崎の記憶には、そんな事実はなかった。
退院後、神崎は自分のアパートに戻った。
小さなワンルーム。雑然とした部屋。しかし見覚えがある。ここが自分の住処だということは分かる。
神崎は部屋を探った。手がかりを探す。自分が何者なのか、何を失ったのか——
引き出しの中から、古い写真が出てきた。
そこには、笑顔の男女が写っている。男は——神崎自身だ。しかし若い。二十代前半くらいか。そして隣にいる女性は——
香織だった。
「本当に付き合っていたのか」
神崎は写真を見つめた。しかし何も思い出せない。この写真の記憶も、彼女との日々も、すべてが消えている。
スマートフォンが鳴った。相棒からの着信だ。
「神崎、無事か?」
「ああ、なんとか」
「橋本の件は失敗だ。依頼主には謝罪した。お前の分の報酬はない」
「そんなことより、俺の記憶が——」
「知ってる。橋本の記憶空間には、防衛プログラムが仕込まれていた。お前はそれにやられた」
相棒の声は、いつもと変わらず冷静だ。
「俺の記憶は、戻るのか?」
「分からない。記憶のバックアップがあれば、復元できるかもしれない。でも——」
「でも?」
「バックアップを取っていたか? 記憶端子のデータを、定期的に保存していたか?」
神崎は愕然とした。バックアップ——そんなことをした記憶がない。いや、記憶がないから、やっていたかどうかも分からない。
「どうすればいい」
「諦めるしかない。失った記憶は、もう戻らない」
通話が切れた。
神崎は床に座り込んだ。失った記憶——それは、彼の人生の一部だ。香織との思い出、家族との時間——それらがすべて消えた。
彼は、もう完全な「神崎零」ではない。
それから一週間。
神崎は香織と会うことを避けていた。彼女のことを思い出せない以上、会っても意味がない。そう思っていた。
しかしある夜、香織が突然アパートを訪ねてきた。
「逃げないで」
彼女は泣きながら言った。
「私のこと、本当に忘れたの?」
「ごめん」
神崎は謝ることしかできなかった。
「じゃあ、もう一度、思い出してよ」
香織は彼の手を握った。
「私たちの思い出、全部話すから。少しずつでいいから、思い出して」
彼女は語り始めた。
二人が出会ったのは、五年前。小さなバーでのことだった。神崎は仕事帰りに一人で飲んでいて、香織は友人と来ていた。偶然隣に座り、何気ない会話から親しくなった。
最初のデートは、映画館だった。香織が見たがっていたラブコメディ。神崎は興味がなかったが、彼女の笑顔を見て、自分も楽しくなった。
付き合い始めたのは、それから三ヶ月後。神崎からプロポーズした——いや、告白した。公園で、夕暮れ時に。
神崎は黙って聞いていた。
香織の話は具体的で、詳細だった。しかし神崎の記憶には、何も残っていない。まるで他人の人生を聞いているようだった。
「思い出せないか」
香織は悲しそうに微笑んだ。
「ごめん」
「謝らないで。あなたが悪いわけじゃない」
彼女は立ち上がり、ドアに向かった。
「でも、諦めないから。いつか必ず、思い出させる」
そう言って、香織は去って行った。
一人になった神崎は、壁に寄りかかった。
彼女は本当に、自分の恋人だったのか。それとも——
疑念が芽生えたのは、その夜だった。
神崎は香織の話を思い返していた。具体的すぎる。詳細すぎる。まるで台本を読んでいるかのような——
「待てよ」
神崎は記憶端子に手を当てた。もし、橋本のウイルスが記憶を削除したのではなく——書き換えたとしたら?
彼は急いでパソコンを起動し、記憶端子のログを調べた。専門的な知識が必要だが、神崎はそれを持っている。記憶泥棒として十年生きてきた経験が、今役立つ。
ログを解析する。データの流れ、タイムスタンプ、改変の痕跡——
そして、見つけた。
橋本の記憶空間から流れ込んできたデータ。それは単なるウイルスではなかった。新しい記憶——偽の記憶を、神崎の脳に上書きするプログラムだ。
「俺の記憶は、消されたんじゃない。書き換えられたんだ」
神崎は愕然とした。
では、香織との思い出は? 家族との記憶は? それらは本当に存在したのか? それとも、最初から偽物だったのか?
いや——もしかしたら、今の記憶こそが偽物で、書き換えられる前の記憶が本物だったのかもしれない。
神崎は混乱した。何が本物で、何が偽物なのか。自分は誰なのか。
その時、スマートフォンが鳴った。知らない番号だ。
恐る恐る出ると——
「よう、神崎。久しぶりだな」
聞き覚えのある声。しかし誰だか思い出せない。
「あなたは?」
「忘れたのか? まあ、そうなるようにプログラムしたからな」
神崎は息を呑んだ。
「橋本——」
「正解。驚いたか? お前が俺の記憶を盗もうとしたから、逆にお前の記憶を盗んでやった。いや、正確には、お前の記憶を俺の都合のいいように書き換えた」
「何のために——」
「復讐だよ。お前に人生を滅茶苦茶にされた奴らの、な」
神崎は理解した。橋本は、神崎の過去の被害者の一人——あるいは、被害者の関係者なのだ。
「お前は今まで、何人の記憶を盗んだ? 何人の人生を壊した? その報いだ」
「待て、俺は——」
「言い訳は聞かない。お前はこれから、偽の記憶と共に生きるんだ。何が本物で、何が偽物か、永遠に分からないままな」
通話が切れた。
神崎は崩れ落ちた。
それから、神崎の人生は狂い始めた。
香織は毎日のように訪ねてきた。思い出話をし、写真を見せ、神崎の記憶を取り戻そうとした。しかし神崎には、彼女が本当に恋人だったのか、それとも橋本が作り出した偽の存在なのか、判断できなかった。
仕事も続けられなくなった。相棒は連絡を絶ち、依頼も来なくなった。記憶を書き換えられた記憶泥棒など、誰も信用しない。
神崎は部屋に引きこもり、ひたすら記憶と向き合った。
何が本物なのか。
自分は誰なのか。
答えは出なかった。
ある日、神崎はふと思いついた。もし、自分の記憶を完全に消去すれば——過去も未来も何もない、ゼロの状態になれば——
「それも、一つの答えかもしれない」
神崎は記憶端子に手を当てた。自分で自分の記憶を消去する。技術的には可能だ。ただし、それを実行すれば、神崎零という人間は消える。新しい、何者でもない人間が生まれる。
それは、死と同じかもしれない。
しかし——
「もう、いいか」
神崎は決断した。
彼はパソコンを起動し、記憶消去プログラムを起動した。カウントダウンが始まる。あと十秒で、すべての記憶が消える。
十、九、八——
その時、ドアが激しく叩かれた。
「神崎! 開けて!」
香織の声だ。
七、六、五——
「お願い、死なないで!」
神崎は手を止めた。
四、三——
「あなたのこと、愛してるの! 記憶がなくても、関係ない! 今のあなたを、愛してる!」
香織の叫び。
二——
神崎は、プログラムを中断した。
カウントダウンが止まる。
彼はゆっくりとドアを開けた。
そこには、泣きじゃくる香織がいた。
「ごめん」
神崎は彼女を抱きしめた。
「俺には、お前のことが分からない。でも——」
「いいの。分からなくても、いい」
香織は彼の胸に顔を埋めた。
「これから、新しい思い出を作ればいい。過去は関係ない。今から、私たちの物語を始めればいい」
神崎は何も言えなかった。
ただ、彼女の温もりだけが、確かに存在していた。
エピローグ。
それから一年。
神崎零は、記憶泥棒を引退した。新しい仕事を見つけ、普通の生活を送っている。香織とは同棲を始め、平凡だが幸せな日々を過ごしている。
過去の記憶は戻らなかった。家族のことも、香織との最初の出会いも、何も思い出せない。
しかし、それでよかった。
今の記憶が本物かどうかは、もう問題ではない。大切なのは、今、この瞬間だ。
ある日、神崎は街を歩いていて、見知らぬ男とすれ違った。
男は一瞬、神崎を見て、何か言いかけた。しかしすぐに黙り、去って行った。
神崎は振り返った。男の後ろ姿——どこかで見たような気がした。
橋本だろうか。
それとも、別の誰かだろうか。
神崎は首を振り、歩き続けた。
過去は、もう関係ない。
そう、自分に言い聞かせながら。
しかし彼の首筋の記憶端子は、今もデータを記録し続けている。今日の記憶、明日の記憶——それらが本物なのか、それとも誰かに書き換えられたものなのか。
それは、神崎にも分からない。
そして誰にも、分からない。
記憶とは、結局のところ、脳内の電気信号でしかないのだから。




