【ディストピア】感情レンタル
午前六時、目覚ましが鳴る。川島祐介は布団から這い出し、洗面所へ向かった。鏡に映る自分の顔は、三十二歳とは思えないほど生気がない。目の下には深いクマ、口角は下がったまま固まっている。
歯を磨きながら、彼は左手首のデバイスを見た。小さな液晶画面には「エモーションバランス: 17%」の文字。感情残高が低い。当然だ。もう三週間も「素」のままで生きている。
「ああ、また月曜か」
呟いた声には何の抑揚もない。感情が枯渇しているのだ。
川島は五年前から「エモーションレンタル」のサービスを利用している。月額九千八百円で、あらゆる感情を必要なときに必要なだけレンタルできる。喜び、悲しみ、怒り、恐怖、愛情、感動——すべてがサブスクリプションで手に入る時代だ。
彼がこのサービスに登録したきっかけは、職場でのプレゼンテーションだった。大型案件を獲得するための重要な商談。しかし川島は極度のあがり症で、人前で話すと声が震え、頭が真っ白になる。そんな彼を見かねた同僚が教えてくれたのが、このサービスだった。
「感情をレンタルするなんて」
最初は抵抗があった。しかし背に腹は代えられない。彼は「自信」と「情熱」のパッケージを三時間分レンタルした。結果は大成功だった。流暢に話し、クライアントを魅了し、契約を勝ち取った。その日の夜、川島は初めて「達成感」もレンタルした。充実した気分で眠りについた。
それから五年。川島の生活は完全にエモーションレンタルに依存していた。
朝食を済ませ、スマートフォンのアプリを開く。エモーションレンタルの画面には、今日のおすすめプランが表示されている。
『月曜朝の憂鬱解消パック——やる気×3時間、集中力×5時間、適度な緊張感×1時間。合計850ポイント』
川島の残高は12,340ポイント。余裕だ。彼は迷わずタップした。
瞬間、左手首のデバイスが振動し、微弱な電流が神経を通して脳に伝わる。ぼんやりしていた意識が急に鮮明になり、体が軽くなる。やる気が満ちてくる。
「よし、今日も頑張ろう」
その言葉には、今度はしっかりと感情が乗っていた。川島は満足げに頷き、スーツに着替えた。
通勤電車の中、川島は周囲を観察した。サラリーマン、OL、学生——誰もが左手首に同じようなデバイスを装着している。エモーションレンタルの普及率は、都市部では八割を超えているという。
隣に座っている女性は、デバイスの画面を熱心に見つめている。おそらく今日のスケジュールに合わせて、必要な感情をプランニングしているのだろう。
川島自身も同じだ。今日は午後に重要な会議がある。そのために「冷静さ」と「論理的思考」を二時間分予約している。夕方には取引先との飲み会があるので、「社交性」と「愉快さ」を三時間分。完璧なプランだ。
かつて人間は、感情に振り回されていた。怒りで失敗し、悲しみで立ち止まり、恐怖で挑戦を諦めた。しかし今は違う。感情はコントロールできる。必要なときに必要な感情だけを使い、不要なときは感情をオフにする。効率的で、合理的で、完璧な生き方だ。
そう、川島は信じていた。
オフィスに着くと、同僚の田中が声をかけてきた。
「おはよう、川島さん。今日も元気そうですね」
「ああ、おはよう」
川島は爽やかに応えた。レンタルした「やる気」が作り出す笑顔だ。
「ところで、エモーションレンタルの新プラン、もう試しました? 『恋愛感情フルコース』っていうやつ」
「いや、まだだ」
「僕、昨日試したんですよ。三時間で1,500ポイント。ドキドキ感から、胸の高鳴り、相手への執着まで、フルセットで体験できるんです。すごいですよ」
田中は目を輝かせて語った。彼には恋人がいない。いや、正確には「リアルな恋人」がいない。エモーションレンタルには「仮想恋愛パートナー」機能があり、AIが生成した理想の相手と、感情だけはリアルな恋愛体験ができる。
「それ、楽しいのか?」
川島が尋ねると、田中は真顔で頷いた。
「楽しいですよ。本物の恋愛みたいに面倒なこともないし、傷つくこともない。必要なときに必要なだけ、幸せな気分になれる。最高じゃないですか」
川島は何も言えなかった。確かに、田中の言う通りかもしれない。リアルな恋愛は複雑で、面倒で、時に苦痛だ。それなら最初から感情だけをレンタルして、幸せな気分を味わう方が効率的だ。
しかし、どこか引っかかるものがあった。
午後の会議は順調に進んだ。川島は「冷静さ」を発揮し、的確な意見を述べた。上司も満足そうに頷いている。
会議が終わり、デスクに戻ると、スマートフォンに通知が届いていた。エモーションレンタルからのお知らせだ。
『新機能リリース! 「感情の記憶保存」——あなたが体験した感情を保存し、いつでも再生できます。大切な思い出の感情を、永遠にあなたのものに』
川島は興味を引かれた。詳細を読むと、このサービスは過去にレンタルした感情の中から、特に印象的だったものを「記憶」として保存できるという。そして保存した感情は、何度でも再生できる。
ふと、川島は三年前のことを思い出した。
父が亡くなった日。葬儀で涙を流す母を見て、川島は何も感じなかった。いや、正確には感じることができなかった。その頃すでにエモーションレンタルに依存しきっていた彼は、「素」の状態では何の感情も湧かなくなっていた。
葬儀が終わってから、彼は「悲しみ」を三時間分レンタルした。そして一人でアパートの部屋で泣いた。父を失った悲しみ、もっと親孝行すればよかったという後悔——すべてがレンタルした感情だった。
「これでいいのか」
そのとき初めて、川島は疑問を感じた。しかしすぐに打ち消した。感情があればいい。それがレンタルであろうと、本物であろうと、感じることができればいいじゃないか。
しかし今、彼はその記憶を思い出し、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
夕方、取引先との飲み会が始まった。川島は予定通り「社交性」と「愉快さ」をレンタルし、場を盛り上げた。冗談を言い、相手の話に相槌を打ち、適度にお世辞を言う。完璧な営業マンだ。
「川島さんっていつも楽しそうですよね」
取引先の課長が言った。
「いやいや、そんなことないですよ」
川島は謙遜したが、内心では「当然だ」と思っていた。社交性をレンタルしているのだから、楽しそうに見えて当たり前だ。
二次会、三次会と続き、川島が家に帰り着いたのは深夜二時だった。ドアを開け、電気をつける。ワンルームの部屋には、最低限の家具しかない。冷蔵庫、ベッド、小さなテーブル。壁には何も飾られていない。
川島はスーツを脱ぎ、デバイスを見た。「エモーションバランス: 8%」。今日一日で感情をたっぷり使った。明日のためにチャージが必要だ。
彼はベッドに横になり、スマートフォンを開いた。エモーションレンタルのポイント購入画面。10,000ポイントで8,000円。彼は迷わず購入ボタンを押した。
瞬間、デバイスが振動し、ポイントがチャージされる。しかし川島は気づいていなかった。画面の隅に小さく表示されている警告文を。
『長期使用による副作用について——本サービスを長期間継続使用すると、自然な感情生成能力が低下する可能性があります』
川島は目を閉じた。疲労感が襲ってくる。しかしそれすらも、彼は「疲労」という感情として認識できなかった。ただ体が重いだけだ。
眠りに落ちる直前、彼はふと思った。
「俺は、幸せなのか?」
しかし答えは出なかった。幸せという感情を感じるには、またレンタルが必要だからだ。
それから一週間後。
川島は会社で異変を感じ始めた。いつものようにエモーションレンタルを使っているのに、感情の効果が薄い。「やる気」をレンタルしても、以前のような高揚感がない。「集中力」も持続しない。
不安になった川島は、エモーションレンタルのカスタマーサポートに連絡した。対応したのは、機械的な声のAIオペレーターだった。
『お客様の使用履歴を確認いたしました。過去三ヶ月間、平均で一日12時間以上のレンタルを継続されています。これは推奨使用時間の三倍です』
「それで、どうすればいいんだ?」
『脳の感情生成機能が低下している可能性があります。一時的にサービスの使用を中断し、自然な感情の回復をお待ちください』
「中断? そんなことできるわけないだろ!」
川島は怒鳴った。しかしその怒りすら、どこか薄っぺらい。レンタルの残り香のような、中途半端な感情だ。
『それでは、プレミアムプランへのアップグレードをお勧めします。より強力な感情刺激により、お客様の症状を緩和できます。月額39,800円——』
「分かった、それにする」
川島は即答した。金のことなど考えている余裕はない。感情がなければ、仕事もできない、人と接することもできない、生きていけない。
プレミアムプランに加入した川島は、さらに強力な感情レンタルを始めた。効果は確かにあった。以前のような、いや、以前以上の強い感情を感じることができる。
しかし代償もあった。
プレミアムプランの感情は強すぎた。「喜び」は躁状態のような高揚になり、「怒り」は抑えきれない激情になった。川島は感情の波に翻弄され、自分をコントロールできなくなっていった。
ある日の夜、川島は自宅で一人、鏡の前に立っていた。
鏡に映る自分の顔は、もはや彼が知っている「川島祐介」ではなかった。目は虚ろで、表情筋は弛緩し、まるで精巧に作られた人形のようだ。
彼はデバイスを外してみた。
瞬間、世界から色が消えた。
音は聞こえる。目に映る景色もある。しかし何も感じない。窓の外の夜景も、部屋の温度も、自分の心臓の鼓動も——すべてがただの「情報」でしかない。感情という意味が欠落した、データの羅列だ。
「これが、俺なのか」
川島は呟いた。しかし自分の声すら、遠くから聞こえる他人の声のようだった。
彼は床に座り込み、頭を抱えた。考えようとする。しかし何を考えればいいのか分からない。感情がなければ、思考すら働かない。人間は感情で動く生き物だということを、彼は今更になって理解した。
スマートフォンが鳴った。エモーションレンタルからの通知だ。
『あなたの感情残高が危険水準です。今すぐチャージしてください。推奨プラン: 「存在の実感パック」——生きている実感を取り戻しませんか? 3時間9,800円』
川島は震える手でスマートフォンを掴んだ。購入ボタンに指を伸ばす。しかし、タップする直前で止まった。
「待てよ」
ふと、疑問が浮かんだ。
「これを買って、俺は本当に生きていると言えるのか?」
レンタルした「生きている実感」は、本当に実感なのか。それとも、ただの電気信号が作り出す錯覚なのか。
川島は、五年間で初めて、本当の意味で考え始めた。
次の日、川島は会社を休んだ。エモーションレンタルを一切使わず、「素」のままで一日を過ごすことにした。
朝、目が覚めても何も感じない。食事をしても味がしない。いや、味覚はある。しかし「美味しい」という感情がない。ただ、甘い、塩辛い、という情報だけだ。
テレビをつけた。ニュース番組では、エモーションレンタルの新サービスが紹介されていた。
『感情のサブスクリプション、エモーションレンタルが新たな展開を発表しました。今後は「人格のカスタマイズ」機能を追加し、ユーザーは自分の性格そのものを自由に設定できるようになります』
画面に映るインタビュー映像。若い女性が笑顔で語る。
『もう悩まなくていいんです。内向的な性格が嫌なら、外向的な人格をレンタルすればいい。自分が嫌いなら、好きな自分を作ればいい。素晴らしい時代ですよね』
川島は画面を見つめた。何も感じない。しかし、何かがおかしいとは思った。
その「何かがおかしい」という感覚——それは、もしかしたら彼の中に残された最後の「本物」なのかもしれなかった。
午後、川島はスマートフォンを手に取った。そしてエモーションレンタルのアプリを開き、退会ボタンを探した。
しかし、退会ボタンは見当たらなかった。
カスタマーサポートに連絡すると、例のAIオペレーターが応答した。
『退会をご希望ですか? 承知いたしました。ただし、長期使用されたお客様の場合、退会後に重度の感情欠落症候群を発症する可能性があります。最悪の場合、感情が二度と戻らないこともあります』
「それでもいい」
川島は言った。
『本当によろしいですか? 当社には「感情回復プログラム」がございます。月額98,000円で、専門カウンセラーとAIによる——』
「いらない。退会する」
『かしこまりました。それでは退会手続きを——あ、申し訳ございません。お客様は現在、プレミアムプランの年間契約中です。違約金として350,000円が発生いたします』
川島は絶句した。
「そんな契約、した覚えはない」
『利用規約第18条をご確認ください。プレミアムプランへの移行時に、自動的に年間契約となります。お客様は同意されています』
「いつ同意したんだ!」
『三週間前、午前二時十七分です。契約画面の「同意する」ボタンをタップされました』
川島は思い出した。あの夜、半ば錯乱状態でプレミアムプランに加入したときのことを。画面の細かい文字など読まずに、ボタンを押した。
『なお、違約金のお支払いが確認できるまで、アカウントの凍結はできません。サービスは継続され、料金も発生し続けます』
電話を切った川島は、壁に向かって拳を叩きつけた。しかし痛みを感じない。怒りも感じない。ただ、虚しさだけが——いや、虚しいという感情すらなかった。
それから一ヶ月。
川島は違約金を支払うため、必死に働いた。エモーションレンタルは最低限だけ使い、なんとか日常を維持した。
その間、彼は街で多くの人々を観察した。誰もが左手首にデバイスをつけ、誰もが感情をレンタルしている。電車の中、オフィス、レストラン——どこにいても、「本物」の感情を持つ人間はいない。
ある日、川島は公園のベンチで老人と隣り合わせた。その老人は、デバイスをつけていなかった。
「あの、すみません」
川島は思わず話しかけた。
「エモーションレンタル、使ってないんですか?」
老人はゆっくりと顔を上げ、穏やかに微笑んだ。
「ああ、あれか。使わんよ」
「どうしてですか?」
「わしはもう八十だ。長く生きてきて分かったことがある。人間は、悲しみがあるから喜びを知る。苦しみがあるから幸せを感じる。辛いこともあったが、それがあったからこそ、今の穏やかさがある」
老人は遠くを見つめた。
「感情ってのは、人生そのものだ。レンタルした感情で生きるのは、他人の人生を生きるようなもんだ。わしは自分の人生を生きたい。たとえそれが辛くても、悲しくても、な」
川島は何も言えなかった。老人の言葉が、胸に——いや、感情のない彼の胸の奥の、何か別の場所に響いた。
「若いの、お前さんはまだ間に合う。自分を取り戻せ」
老人はそう言って立ち去った。
川島は一人、ベンチに座り続けた。
その夜、川島は決断した。
違約金35万円。貯金を切り崩し、なんとか支払った。そしてエモーションレンタルを退会した。
デバイスを外した瞬間、世界が灰色になった。
川島は覚悟していた。これから先、何も感じられない日々が続くかもしれない。感情が戻る保証はない。それでも、彼は自分の人生を取り戻したかった。
一週間、二週間、一ヶ月——川島は感情のない毎日を過ごした。
仕事は辛かった。クライアントと話すとき、笑顔を作るのに必死だった。しかしそれは、感情のない笑顔だ。相手はすぐに気づく。
「川島さん、最近元気ないですね」
「大丈夫ですか?」
心配されるたびに、川島は「大丈夫です」と答えた。それは嘘だったが、真実でもあった。大丈夫ではないが、それでいいのだと、彼は思い始めていた。
二ヶ月目のある朝。
川島は窓を開けた。春の風が部屋に流れ込む。
その瞬間——ほんの一瞬だが——彼は何かを感じた。
気持ちいい。
それは微かな、本当に微かな感覚だった。しかし確かに、彼自身の感情だった。
川島は呆然と立ち尽くした。そして、目から涙が零れた。
悲しいのか、嬉しいのか、自分でも分からない。ただ、涙が止まらなかった。
それは、三年ぶりの、本物の涙だった。
それから半年。
川島祐介は、少しずつ感情を取り戻していった。完全ではない。以前のように豊かな感情ではない。しかし確かに、彼自身の感情だ。
小さな喜び。小さな悲しみ。小さな怒り。小さな安らぎ。
それは、エモーションレンタルがもたらす強烈な感情と比べれば、あまりにも小さく、儚いものだった。しかし川島にとって、それは何よりも大切なものだった。
ある日、川島は街を歩いていて、巨大な広告を見た。
『エモーションレンタル 新サービス——「完全人格置換プログラム」あなた自身を、理想の人間に』
広告には、笑顔の人々が映っている。誰もが幸せそうだ。誰もが完璧だ。
川島は立ち止まり、その広告をじっと見つめた。
そして、初めて明確な感情を感じた。
恐怖だ。
あの世界に戻ることへの恐怖ではない。あの世界が、これから先も広がり続けることへの恐怖だ。
いつか人類は、全員が感情をレンタルし、本物の感情を失うのかもしれない。いつか人類は、全員が「完璧な人間」になり、不完全な自分自身を捨てるのかもしれない。
そのとき、人間は人間でいられるのだろうか。
川島は広告から目を逸らし、歩き出した。
不完全で、不器用で、感情も乏しい自分。しかしそれが、彼自身だ。
彼は、自分の人生を生きることを選んだ。
五年後。
エモーションレンタルは、世界最大手の企業となった。利用者は全世界で三十億人を超え、多くの国では感情のレンタルが「当たり前」の時代になった。
その一方で、川島のように退会する人々も少数ながら現れた。彼らは「感情自然主義者」と呼ばれ、時代遅れの人間として社会から疎外されることもあった。
しかし彼らは、自分たちの選択を誇りに思っていた。
川島祐介は、今もひっそりと生きている。感情は完全には戻らなかった。しかし彼は、小さな喜びを大切にし、小さな悲しみを受け入れ、不完全な自分として生きている。
ある日、彼の元に一通のメールが届いた。差出人は「エモーションレンタル カスタマーサポート」。
『お客様へ——長らくご利用いただき、ありがとうございました。このたび当社は「感情回復支援プログラム」を無料で提供することになりました。過去に退会されたお客様を対象に、失われた感情を取り戻すお手伝いをいたします』
川島は、そのメールを削除した。
彼にはもう、必要なかった。
窓の外では、春の雨が降っている。川島はその雨を見つめ、ふと思った。
「雨の音って、こんなに優しかったんだな」
それは、エモーションレンタルでは決して得られない、彼だけの、本物の感情だった。




