【寓話ファンタジー】最終電車
午前0時23分、終電を逃した。
サラリーマンの倉持は、駅のホームで途方に暮れていた。取引先との接待が長引き、気づけば終電の時刻を過ぎていた。タクシーで帰れば1万円以上かかる。明日も朝早いのに。
ホームには他に誰もいなかった。静まり返った駅に、自分の足音だけが響く。
改札に向かおうとしたとき、ホームの電光掲示板が点灯した。
「0:30発 各駅停車 方面不明」
方面不明?そんな表示は見たことがない。
しかし、本当に電車が来るなら助かる。倉持は再びホームに戻った。
0時30分ちょうど、ホームに電車が滑り込んできた。
古い車両だった。国鉄時代の、オレンジ色の電車。今では博物館でしか見られないような型だ。
ドアが開いた。誰も降りてこない。
倉持は恐る恐る乗り込んだ。
車内には数人の乗客がいた。
窓際に座る老婆。スーツ姿の若い女性。学生服の少年。作業着の男性。
全員、うつむいて座っている。誰も顔を上げない。
「すみません、この電車、どこ行きですか?」
倉持が尋ねたが、誰も答えない。まるで聞こえていないかのように。
電車が動き出した。ガタン、ゴトン。懐かしいリズムだ。
倉持は空いている席に座った。疲れていた。今日一日、嫌なことばかりだった。上司に叱責され、取引先からは無理な要求をされ、妻からは冷たいメールが届いた。
「お疲れのようですね」
声がした。隣の席に、いつの間にか車掌が座っていた。いや、車掌の制服を着た老人だった。
「この電車は特別な電車なんです」と老人は言った。
「特別?」
「ええ。普通の人には見えません。この電車に乗れるのは、ある特定の条件を満たした人だけです」
「条件?」
老人は倉持の目をじっと見つめた。
「生きることに疲れた人。人生の終わりを考え始めた人。そういう人だけが、この電車を見つけることができるんです」
倉持の背筋が凍った。
確かに、最近そんなことを考えていた。このまま働き続けて何になるのか。妻との関係は冷え切り、子供はいない。両親はすでに他界。友人と呼べる人間もいない。
「この電車は、どこへ向かっているんですか?」
「終点です」
と老人は静かに答えた。
「すべての終わりへ」
倉持は立ち上がろうとした。しかし、体が動かない。
「降りたいなら、次の駅で降りられます。でも、知っておいてください。次の駅は、あなたが最後に幸せだった場所です」
電車が減速し始めた。
窓の外を見ると、見覚えのある景色が広がっていた。
実家の近くの駅だった。もう何年も帰っていない。
電車が停まり、ドアが開いた。
「降りますか?」
と老人が尋ねた。
倉持は迷った。しかし、何かに引き寄せられるように、ホームに降り立った。
駅を出ると、そこは20年前の風景だった。
商店街には、閉店したはずの店が営業している。子供の頃によく行った駄菓子屋、本屋、豆腐屋。すべてがそのままだ。
倉持は夢遊病者のように歩いた。
実家の前まで来ると、家の中から光が漏れていた。玄関のドアが開いていた。
中に入ると、母の声が聞こえた。
「お帰り。ご飯できてるわよ」
台所に母がいた。10年前に亡くなったはずの母が、エプロン姿で立っていた。
「お母さん……」
「どうしたの?顔色悪いわよ。疲れてるんじゃない?」
倉持は涙が溢れそうになった。
居間に行くと、父が新聞を読んでいた。15年前に亡くなった父が、いつものように座椅子に座っていた。
「おう、帰ったか。今日も遅かったな」
「お父さん……」
夕食の時間。家族三人で、ちゃぶ台を囲む。
母の作った肉じゃが、味噌汁、焼き魚。子供の頃から変わらない味。
「いただきます」
箸を持つ手が震えた。この温もり、この安心感。いつから失っていたのだろう。
食事の後、父が言った。
「なあ、倉持。お前、幸せか?」
「え?」
「今の人生、幸せなのか?」
倉持は答えられなかった。
母が優しく言った。
「あなたはね、昔はよく笑う子だったのよ。夢を語って、目を輝かせて。いつからそんなに疲れた顔をするようになったの?」
「それは……」
「無理してない?自分を押し殺して、誰かの期待に応えようとして、本当の自分を見失ってない?」
父が続けた。
「人生は一度きりだ。後悔のないように生きろ。俺たちは、お前が幸せでいてくれることが一番の願いだった」
「お父さん、お母さん……」
両親は微笑んだ。
「もう戻らなきゃ」と母が言った。
「え?」
「あなたの電車が来るわ」
外を見ると、あの電車が停まっていた。
倉持は玄関に立った。振り返ると、両親が手を振っていた。
「また来るよ」と倉持は言った。
母が首を横に振った。
「ここには二度と来られないわ。だから、よく考えて。このまま電車に乗って終点まで行くのか、それとも途中で降りるのか」
「途中で降りる?」
「そう。まだ間に合うわ。人生をやり直すことが」
倉持は電車に乗り込んだ。
車内には相変わらず、うつむいた乗客たちがいた。そして老人の車掌が待っていた。
「決めましたか?」
と老人が尋ねた。
「まだわかりません」
電車が動き出した。
次の駅で、一人の乗客が降りた。窓際に座っていた老婆だった。ホームに降り立った老婆は、若い女性の姿になっていた。笑顔で、誰かを抱きしめていた。
「彼女は選んだんです」と老人が説明した。
「もう一度やり直すことを」
電車は進んだ。
次の駅で、学生服の少年が降りた。ホームには、少年を待つ家族がいた。少年は泣きながら、家族に抱きついた。
「彼もです」
駅を過ぎるたびに、乗客は減っていった。
そして、車内には倉持と、作業着の男性だけが残った。
「あなたは降りないんですか?」
と倉持は男性に尋ねた。
男性は初めて顔を上げた。疲れ切った、しかしどこか穏やかな顔だった。
「俺はもう、戻る場所がないんだ」
と男性は言った。
「家族も、仕事も、すべて失った。もう一度やり直す気力もない。だから、終点まで行く」
「終点では何が?」
「さあな。でも、きっと楽になれる。それだけでいい」
倉持は窓の外を見た。
風景が変わり始めていた。駅が現れなくなった。代わりに、暗い闇が広がっている。
「次はあなたの番です」
と老人が言った。
「でも、駅が……」
「あなたの駅は、これから現れます。そこで降りれば、まだ間に合う。でもそのまま乗っていれば、終点です」
倉持の心臓が激しく鼓動した。
両親の言葉を思い出した。人生は一度きり。後悔のないように。
本当に、このまま終わっていいのか?
妻とはうまくいっていない。でも、一度は愛し合った。もう一度、話し合えないだろうか。
仕事は辛い。でも、本当にやりたいことを諦めただけではないか。今からでも、夢を追えないだろうか。
闇の中に、光が見え始めた。
駅だ。
ホームには、若い頃の自分が立っていた。まだ夢を持っていた頃の、希望に満ちた自分が。
「降ります」
と倉持は立ち上がった。
老人は微笑んだ。
「良い選択です」
ドアが開いた。倉持はホームに降り立った。
振り返ると、電車の中で作業着の男性が手を振っていた。寂しそうな、しかし祝福するような笑顔で。
電車は闇の中へ消えていった。
ホームに立つ若い自分が、倉持に語りかけた。
「久しぶりだな」
「ああ」
「俺はお前だ。お前が忘れてしまった、本当のお前だ」
「わかってる」
「これから、どうする?」
倉持は深く息を吸い込んだ。
「やり直す。全部、ゼロから」
若い自分が笑った。
「それでいい。俺はずっとここで待ってる。迷ったら、いつでも戻ってこい」
光が強くなった。
気がつくと、倉持は元の駅のホームに立っていた。
時計を見ると、0時24分。たった1分しか経っていない。
ポケットから携帯を取り出し、妻に電話をかけた。
「もしもし?こんな夜中にどうしたの?」
「あのさ、明日の夜、時間ある?話したいことがあるんだ」
電話の向こうで、妻が驚いた様子で言った。
「話したいこと?」
「うん。俺たちのこと、これからのこと」
沈黙の後、妻が小さく答えた。
「……いいわよ」
電話を切り、倉持は夜空を見上げた。
星が輝いていた。
生きよう、と思った。本当の自分として。




