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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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22/83

【不思議系ドラマ】忘却カフェ

 駅から少し離れた路地裏に、その喫茶店はあった。

「カフェ・オブリビオン」——忘却を意味する名前の店。

 看板は色褪せ、窓は曇っている。普通なら入ろうとは思わない佇まいだ。

 しかし、本当に苦しんでいる人には、不思議と見つかる店だった。

 大学生の藤崎春菜、22歳は、その店の前で立ち止まった。

 3ヶ月前、恋人の健太が交通事故で亡くなった。突然だった。朝、「行ってきます」と笑顔で出かけた彼は、夜には冷たくなって戻ってきた。

 それから、春菜は壊れた。

 授業に出られない。友人と話せない。眠れない。食べられない。

 健太との思い出が、四六時中頭を巡る。彼の声、笑顔、温もり。すべてが鮮明すぎて、生きているのが苦しい。

「忘れられたらいいのに……」

 そう呟いた時、友人が教えてくれた。

「変な店があるんだって。辛い記憶を忘れさせてくれるカフェ」

 最初は信じなかった。しかし、藁にもすがる思いで、春菜はその店を探した。

 重い扉を押し開けると、薄暗い店内が広がっていた。

 アンティークの家具、古い本が並ぶ書棚、クラシック音楽が静かに流れている。

 カウンターの奥に、30代くらいの女性がいた。黒いドレスを着て、長い黒髪を後ろで束ねている。

「いらっしゃいませ」

 女性の声は、不思議と心を落ち着かせる響きを持っていた。

「あの、ここは……」

「忘却カフェです。辛い記憶に苦しむ方々に、特別なコーヒーを提供しています」

 春菜は席に座った。

 女性が近づいてきて、優しく尋ねた。

「何を忘れたいのですか?」

 春菜は俯いた。

「恋人が、亡くなったんです。忘れられなくて、苦しくて……」

 女性は静かに頷いた。

「おわかりいたしました。少々お待ちください」

 女性はカウンターの奥へ消えた。

 しばらくして、一杯のコーヒーを持って戻ってきた。

 白いカップに注がれたコーヒーは、普通のコーヒーとは違った。微かに光を放ち、まるで星空のように輝いていた。

「これは『忘却のコーヒー』です。一口飲むごとに、辛い記憶が薄れていきます」

「本当に、忘れられるんですか?」

「ええ。ただし、いくつか注意点があります」

 女性は真剣な表情で続けた。

「このコーヒーは、辛い記憶だけを選択的に消すことはできません。その人との記憶全体が、少しずつ薄れていきます」

 春菜は息を呑んだ。

「全部……?」

「ええ。出会った日、デートの思い出、幸せだった時間、すべてです。悲しみを忘れるには、喜びも忘れなければなりません」

 春菜は迷った。

 しかし、この苦しみから逃れられるなら。

「飲みます」

 カップを手に取り、一口飲んだ。

 コーヒーは不思議な味がした。苦くて、甘くて、懐かしくて、切ない。

 そして、何かが変わり始めた。

 健太の顔が、少しぼやけた。

 もう一口飲むと、彼の声が遠くなった。

「あれ……?」

 春菜は焦った。しかし、同時に、胸の痛みも和らいでいた。

「もっと飲みますか?」と女性が尋ねた。

 春菜は頷いた。

 三口、四口、五口。

 飲むたびに、記憶が薄れていく。

 健太とのデート、一緒に見た映画、手をつないで歩いた道。すべてが霧の中に消えていく。

 そして、カップが空になった時、春菜は気づいた。

「あれ、私、なんでここに?」

 女性は静かに微笑んだ。

「お帰りの時間ですよ」

 春菜は店を出た。

 不思議と心が軽かった。何か大切なものを忘れている気がする。しかし、それが何かわからない。

 翌日から、春菜は普通の生活に戻った。

 授業に出て、友人と笑い、普通に食事をした。

 しかし、何かが欠けている感覚が消えなかった。

 ある日、大学の図書館で勉強していると、隣に男子学生が座った。

「ここ、いい?」

「どうぞ」

 男子学生は参考書を開いた。春菜はちらりと見た。

 なぜか、懐かしい感じがした。この人、どこかで会ったことがあるような。

「あの、初めまして?」と春菜は尋ねた。

 男子学生は首を傾げた。

「うーん、同じ大学だけど、話したことはないかな」

 そうか、気のせいか。

 しかし、その後も、春菜は奇妙な体験を繰り返した。

 特定の場所を通ると、理由もなく涙が出る。

 特定の曲を聴くと、胸が締め付けられる。

 特定の食べ物を見ると、誰かを思い出しそうになる。

 でも、誰を思い出そうとしているのかわからない。

 ある雨の日、春菜は偶然、あのカフェの前を通りかかった。

「あ、この店……」

 なぜか入りたくなって、扉を押し開けた。

 店内には、あの女性がいた。

「お帰りなさい」

「え?」

「二度目のご来店ですね」

 春菜は驚いた。

「来たことあるんですか、私?」

「ええ。3ヶ月前に」

 女性は春菜を席に案内した。

「覚えていませんか?あなたは忘却のコーヒーを飲まれました」

「忘却の……コーヒー?」

 女性は説明した。辛い記憶を忘れるコーヒー。恋人を亡くした悲しみを消すために、春菜は飲んだのだと。

「そんな……じゃあ、私、誰かを忘れてるんですか?」

「ええ」

 春菜は混乱した。

「誰を?どんな人を?」

 女性は静かに答えた。

「それは言えません。忘れたのは、あなた自身の選択です」

 春菜は頭を抱えた。

「でも、最近変なんです。何かが欠けてる感じがして。誰かを探してる気がして」

 女性は一枚の写真を取り出した。

「これは、あなたが忘れる前に預けていったものです」

 写真には、春菜と見知らぬ男性が写っていた。

 二人は笑顔で、手をつないでいる。

「この人……誰?」

「健太さん。あなたの恋人でした」

 春菜は写真を見つめた。

 全く記憶にない。しかし、この人を見ると、胸が苦しい。

「私、この人のこと、忘れちゃったんですか?」

「ええ。あなたが望んだのです」

 春菜は涙を流した。

「ひどい……私、なんてことを」

 女性は春菜の手を取った。

「後悔していますか?」

「わかりません。でも、この人のこと、思い出したいです」

 女性は首を横に振った。

「忘却のコーヒーの効果は、元に戻せません。一度消えた記憶は、永遠に戻りません」

「じゃあ、どうすれば……」

 女性は別のカップを持ってきた。

「これは『記録のコーヒー』です。飲むと、忘れた人との記憶の断片を、周囲の人々から集めることができます」

「周囲の人々?」

「ええ。健太さんのことを覚えている人たち——友人、家族、知人。彼らの記憶の中に、あなたと健太さんの思い出が残っています。それを、少しずつ取り戻すことができます」

「でも、それは私の記憶じゃない……」

「その通りです。他人の視点から見た、あなたと健太さんです。でも、それでも知りたいですか?」

 春菜は迷った。

 しかし、この胸の空虚感を埋めたい。

「飲みます」

 記録のコーヒーを飲むと、映像が流れ始めた。

 友人の視点。

「春菜、本当に幸せそうだったよ。健太君と一緒にいる時、いつも笑ってた」

 健太の母親の視点。

「あなたは、息子を本当に愛してくれていました。息子も、あなたを心から愛していました」

 健太の友人の視点。

「健太の奴、いつも春菜さんの話ばかりしてたよ。『彼女は俺の太陽だ』って」

 記憶が流れ込む。

 しかし、それは春菜自身の記憶ではない。他人の目から見た、春菜と健太。

「これじゃない……」

 春菜は泣いた。

「私が感じた温もり、私が聞いた声、私が見た笑顔。それが欲しいのに」

 女性は優しく言った。

「春菜さん。記憶は、過去を生きるためのものではありません。未来を生きるための糧です」

「どういう意味ですか?」

「あなたは健太さんとの記憶を失いました。しかし、健太さんがあなたに与えた影響は、あなたの中に残っています」

 女性は春菜の胸に手を当てた。

「人を愛する心、優しさ、強さ。それは記憶ではなく、あなた自身の一部になっています」

 春菜は女性を見つめた。

 女性は続けた。

「健太さんを忘れたことを後悔するかもしれません。しかし、あなたは彼との思い出を胸に、これから新しい人生を生きていくのです」

「新しい人生……」

「ええ。健太さんは亡くなりました。それは変えられません。しかし、あなたは生きている。生きて、幸せになる権利があります」

 春菜は深く息を吸い込んだ。

「健太さんが生きていたら、何と言うでしょうか?」と女性が尋ねた。

 春菜は考えた。

 健太の顔は思い出せない。声も思い出せない。

 でも、わかる気がした。

「笑って生きろ、って言うと思います」

 女性は微笑んだ。

「その通りです」

 春菜は立ち上がった。

「ありがとうございました」

 店を出る前、春菜は振り返った。

「あの、もう一つだけ。健太さんは、どんな人だったんですか?」

 女性は優しく答えた。

「優しくて、面白くて、あなたを心から愛していた人です」

 春菜は微笑んだ。

「そうですか。良い人だったんですね」

 外に出ると、雨は上がっていた。

 虹が空にかかっていた。

 春菜は空を見上げた。

 健太のことは思い出せない。でも、確かに愛されていた。そして、愛していた。

 その事実だけで、十分かもしれない。

 春菜は歩き出した。

 新しい人生へ。

 数ヶ月後、春菜は再びカフェを訪れた。

 しかし、店はもうそこになかった。

 代わりに、新しいカフェが営業していた。

「あの、前にここにあったカフェは?」と春菜は店員に尋ねた。

「さあ?私が働き始めた時には、もうこの店でしたけど」

 春菜は不思議に思った。

 しかし、ポケットに何かが入っていることに気づいた。

 取り出すと、一枚のカードだった。

 そこには、こう書かれていた。

「記憶は失われても、愛は残る。あなたの幸せを願っています——カフェ・オブリビオン」

 春菜は微笑んだ。

 カードをそっとポケットに戻し、歩き出した。

 前を向いて。

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