【不思議系ドラマ】忘却カフェ
駅から少し離れた路地裏に、その喫茶店はあった。
「カフェ・オブリビオン」——忘却を意味する名前の店。
看板は色褪せ、窓は曇っている。普通なら入ろうとは思わない佇まいだ。
しかし、本当に苦しんでいる人には、不思議と見つかる店だった。
大学生の藤崎春菜、22歳は、その店の前で立ち止まった。
3ヶ月前、恋人の健太が交通事故で亡くなった。突然だった。朝、「行ってきます」と笑顔で出かけた彼は、夜には冷たくなって戻ってきた。
それから、春菜は壊れた。
授業に出られない。友人と話せない。眠れない。食べられない。
健太との思い出が、四六時中頭を巡る。彼の声、笑顔、温もり。すべてが鮮明すぎて、生きているのが苦しい。
「忘れられたらいいのに……」
そう呟いた時、友人が教えてくれた。
「変な店があるんだって。辛い記憶を忘れさせてくれるカフェ」
最初は信じなかった。しかし、藁にもすがる思いで、春菜はその店を探した。
重い扉を押し開けると、薄暗い店内が広がっていた。
アンティークの家具、古い本が並ぶ書棚、クラシック音楽が静かに流れている。
カウンターの奥に、30代くらいの女性がいた。黒いドレスを着て、長い黒髪を後ろで束ねている。
「いらっしゃいませ」
女性の声は、不思議と心を落ち着かせる響きを持っていた。
「あの、ここは……」
「忘却カフェです。辛い記憶に苦しむ方々に、特別なコーヒーを提供しています」
春菜は席に座った。
女性が近づいてきて、優しく尋ねた。
「何を忘れたいのですか?」
春菜は俯いた。
「恋人が、亡くなったんです。忘れられなくて、苦しくて……」
女性は静かに頷いた。
「おわかりいたしました。少々お待ちください」
女性はカウンターの奥へ消えた。
しばらくして、一杯のコーヒーを持って戻ってきた。
白いカップに注がれたコーヒーは、普通のコーヒーとは違った。微かに光を放ち、まるで星空のように輝いていた。
「これは『忘却のコーヒー』です。一口飲むごとに、辛い記憶が薄れていきます」
「本当に、忘れられるんですか?」
「ええ。ただし、いくつか注意点があります」
女性は真剣な表情で続けた。
「このコーヒーは、辛い記憶だけを選択的に消すことはできません。その人との記憶全体が、少しずつ薄れていきます」
春菜は息を呑んだ。
「全部……?」
「ええ。出会った日、デートの思い出、幸せだった時間、すべてです。悲しみを忘れるには、喜びも忘れなければなりません」
春菜は迷った。
しかし、この苦しみから逃れられるなら。
「飲みます」
カップを手に取り、一口飲んだ。
コーヒーは不思議な味がした。苦くて、甘くて、懐かしくて、切ない。
そして、何かが変わり始めた。
健太の顔が、少しぼやけた。
もう一口飲むと、彼の声が遠くなった。
「あれ……?」
春菜は焦った。しかし、同時に、胸の痛みも和らいでいた。
「もっと飲みますか?」と女性が尋ねた。
春菜は頷いた。
三口、四口、五口。
飲むたびに、記憶が薄れていく。
健太とのデート、一緒に見た映画、手をつないで歩いた道。すべてが霧の中に消えていく。
そして、カップが空になった時、春菜は気づいた。
「あれ、私、なんでここに?」
女性は静かに微笑んだ。
「お帰りの時間ですよ」
春菜は店を出た。
不思議と心が軽かった。何か大切なものを忘れている気がする。しかし、それが何かわからない。
翌日から、春菜は普通の生活に戻った。
授業に出て、友人と笑い、普通に食事をした。
しかし、何かが欠けている感覚が消えなかった。
ある日、大学の図書館で勉強していると、隣に男子学生が座った。
「ここ、いい?」
「どうぞ」
男子学生は参考書を開いた。春菜はちらりと見た。
なぜか、懐かしい感じがした。この人、どこかで会ったことがあるような。
「あの、初めまして?」と春菜は尋ねた。
男子学生は首を傾げた。
「うーん、同じ大学だけど、話したことはないかな」
そうか、気のせいか。
しかし、その後も、春菜は奇妙な体験を繰り返した。
特定の場所を通ると、理由もなく涙が出る。
特定の曲を聴くと、胸が締め付けられる。
特定の食べ物を見ると、誰かを思い出しそうになる。
でも、誰を思い出そうとしているのかわからない。
ある雨の日、春菜は偶然、あのカフェの前を通りかかった。
「あ、この店……」
なぜか入りたくなって、扉を押し開けた。
店内には、あの女性がいた。
「お帰りなさい」
「え?」
「二度目のご来店ですね」
春菜は驚いた。
「来たことあるんですか、私?」
「ええ。3ヶ月前に」
女性は春菜を席に案内した。
「覚えていませんか?あなたは忘却のコーヒーを飲まれました」
「忘却の……コーヒー?」
女性は説明した。辛い記憶を忘れるコーヒー。恋人を亡くした悲しみを消すために、春菜は飲んだのだと。
「そんな……じゃあ、私、誰かを忘れてるんですか?」
「ええ」
春菜は混乱した。
「誰を?どんな人を?」
女性は静かに答えた。
「それは言えません。忘れたのは、あなた自身の選択です」
春菜は頭を抱えた。
「でも、最近変なんです。何かが欠けてる感じがして。誰かを探してる気がして」
女性は一枚の写真を取り出した。
「これは、あなたが忘れる前に預けていったものです」
写真には、春菜と見知らぬ男性が写っていた。
二人は笑顔で、手をつないでいる。
「この人……誰?」
「健太さん。あなたの恋人でした」
春菜は写真を見つめた。
全く記憶にない。しかし、この人を見ると、胸が苦しい。
「私、この人のこと、忘れちゃったんですか?」
「ええ。あなたが望んだのです」
春菜は涙を流した。
「ひどい……私、なんてことを」
女性は春菜の手を取った。
「後悔していますか?」
「わかりません。でも、この人のこと、思い出したいです」
女性は首を横に振った。
「忘却のコーヒーの効果は、元に戻せません。一度消えた記憶は、永遠に戻りません」
「じゃあ、どうすれば……」
女性は別のカップを持ってきた。
「これは『記録のコーヒー』です。飲むと、忘れた人との記憶の断片を、周囲の人々から集めることができます」
「周囲の人々?」
「ええ。健太さんのことを覚えている人たち——友人、家族、知人。彼らの記憶の中に、あなたと健太さんの思い出が残っています。それを、少しずつ取り戻すことができます」
「でも、それは私の記憶じゃない……」
「その通りです。他人の視点から見た、あなたと健太さんです。でも、それでも知りたいですか?」
春菜は迷った。
しかし、この胸の空虚感を埋めたい。
「飲みます」
記録のコーヒーを飲むと、映像が流れ始めた。
友人の視点。
「春菜、本当に幸せそうだったよ。健太君と一緒にいる時、いつも笑ってた」
健太の母親の視点。
「あなたは、息子を本当に愛してくれていました。息子も、あなたを心から愛していました」
健太の友人の視点。
「健太の奴、いつも春菜さんの話ばかりしてたよ。『彼女は俺の太陽だ』って」
記憶が流れ込む。
しかし、それは春菜自身の記憶ではない。他人の目から見た、春菜と健太。
「これじゃない……」
春菜は泣いた。
「私が感じた温もり、私が聞いた声、私が見た笑顔。それが欲しいのに」
女性は優しく言った。
「春菜さん。記憶は、過去を生きるためのものではありません。未来を生きるための糧です」
「どういう意味ですか?」
「あなたは健太さんとの記憶を失いました。しかし、健太さんがあなたに与えた影響は、あなたの中に残っています」
女性は春菜の胸に手を当てた。
「人を愛する心、優しさ、強さ。それは記憶ではなく、あなた自身の一部になっています」
春菜は女性を見つめた。
女性は続けた。
「健太さんを忘れたことを後悔するかもしれません。しかし、あなたは彼との思い出を胸に、これから新しい人生を生きていくのです」
「新しい人生……」
「ええ。健太さんは亡くなりました。それは変えられません。しかし、あなたは生きている。生きて、幸せになる権利があります」
春菜は深く息を吸い込んだ。
「健太さんが生きていたら、何と言うでしょうか?」と女性が尋ねた。
春菜は考えた。
健太の顔は思い出せない。声も思い出せない。
でも、わかる気がした。
「笑って生きろ、って言うと思います」
女性は微笑んだ。
「その通りです」
春菜は立ち上がった。
「ありがとうございました」
店を出る前、春菜は振り返った。
「あの、もう一つだけ。健太さんは、どんな人だったんですか?」
女性は優しく答えた。
「優しくて、面白くて、あなたを心から愛していた人です」
春菜は微笑んだ。
「そうですか。良い人だったんですね」
外に出ると、雨は上がっていた。
虹が空にかかっていた。
春菜は空を見上げた。
健太のことは思い出せない。でも、確かに愛されていた。そして、愛していた。
その事実だけで、十分かもしれない。
春菜は歩き出した。
新しい人生へ。
数ヶ月後、春菜は再びカフェを訪れた。
しかし、店はもうそこになかった。
代わりに、新しいカフェが営業していた。
「あの、前にここにあったカフェは?」と春菜は店員に尋ねた。
「さあ?私が働き始めた時には、もうこの店でしたけど」
春菜は不思議に思った。
しかし、ポケットに何かが入っていることに気づいた。
取り出すと、一枚のカードだった。
そこには、こう書かれていた。
「記憶は失われても、愛は残る。あなたの幸せを願っています——カフェ・オブリビオン」
春菜は微笑んだ。
カードをそっとポケットに戻し、歩き出した。
前を向いて。
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