【SFドラマ】記憶レンタル
駅前の雑居ビルに「メモリーレント」の看板が出たのは、半年ほど前のことだった。
僕が初めてその店に入ったのは、失恋の痛手から逃れたかったからだ。
三年付き合った彼女に振られ、何もかもが色褪せて見えた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの女性が営業スローガンを言った。
「体験したことのない記憶を、あなたに」
仕組みは簡単だった。
他人の記憶を脳に一時的にインストールし、まるで自分が体験したかのように感じられる。
期間は一日から一週間まで選べる。価格は記憶の質によって変動する。
僕は初回限定の「パリ旅行・三日間」を選んだ。五千円。
ヘッドセットを装着した瞬間、世界が変わった。
セーヌ川のほとり。エッフェル塔の見える小さなカフェ。隣には美しい女性が座っている。彼女の名前はエマ。僕たちは恋人だ。彼女の笑顔、香水の匂い、手を繋いだ時の温もり。全てが鮮明に「記憶」として僕の中にある。
三日後、記憶は消えた。
しかし余韻は残った。現実の失恋の痛みが、不思議と軽くなっていた。
僕は常連になった。
「ピアニストとしてカーネギーホールで演奏した記憶」を買った時は、指が勝手に動き出しそうな感覚に陶酔した。「ヒマラヤ登頂の記憶」では、達成感で涙が出た。実際には自分は何も成し遂げていないのに。
ある日、カウンターの女性が新商品を勧めてきた。
「プレミアム記憶パッケージです。『完璧な人生・三十年分』。お値段は百万円ですが、分割も可能です」
画面に表示された説明を読む。愛する家族、成功したキャリア、世界中を旅した経験、深い友情、充実した趣味。全てが詰まった三十年間。
「これを入れると、どうなるんですか?」
「あなたの脳は、この三十年を実際に生きたと認識します。一週間のレンタル期間中、あなたは二つの人生を持つことになります」
躊躇したが、結局契約した。ローンを組んで。
インストールの瞬間、僕は二つの人生を持つ人間になった。
現実の僕は三十二歳、独身、平凡な会社員。
記憶の中の僕は、美しい妻と二人の子供がいる。大企業の役員で、週末は家族とキャンプに行く。親友たちとは毎月集まり、笑い合う。
どちらが本物なのか、分からなくなってきた。
会社で働いていると、ふと「そうだ、今日は息子の誕生日だ」と思い出す。しかし僕に息子はいない。
会議中、「妻に電話しなきゃ」と考える。しかし僕は独身だ。
一週間後、記憶は消えるはずだった。
しかし消えなかった。
「メモリーレント」に駆け込むと、カウンターの女性は困ったような顔をした。
「稀にそういうケースがあります。記憶が定着してしまうんです」
「どうすればいい?」
「上書き用の記憶をインストールすることもできますが...お勧めはしません」
僕は焦った。存在しない家族の記憶が、日増しに鮮明になっていく。
妻の笑い声、子供たちの寝顔、親友との他愛ない会話。
全てが愛おしく、失ったことが耐え難かった。
「もう一度、同じ記憶を入れてください」
「それは...」
「頼みます!」
女性は深くため息をついた。
「分かりました。しかし二度目は癒着率が上がります。もう元には戻れないかもしれません」
構わなかった。あの幸せな人生を、もう一度。
二度目のインストール。
記憶はさらに鮮明になった。妻の声のトーン、子供たちの癖、親友の冗談。全てが完璧に蘇った。
そして一週間後。
今度は記憶が消えなかっただけでなく、現実の記憶が薄れ始めた。
自分の本当の名前が思い出せない。今住んでいるアパートの間取りが曖昧だ。でも記憶の中の家の間取りは完璧に覚えている。
三度目のインストールをお願いした時、カウンターに立っていたのは別の男性スタッフだった。
「あの女性スタッフは?」
男性は悲しそうな顔をした。
「彼女なら...三号室にいます」
案内された部屋には、ヘッドセットをつけたまま、幸せそうに微笑む女性が椅子に座っていた。点滴が繋がれている。
「彼女も、ですか?」
「ええ。自分の記憶を売って、他人の記憶を買い続けた。最後は現実に戻れなくなりました。でも...幸せそうでしょう?」
確かに、彼女は至福の表情を浮かべていた。
男性が僕に書類を差し出した。
「あなたも同じ道を選びますか? 永久インストール契約です。現実の人生を手放す代わりに、理想の記憶の中で生き続けられます。肉体は我々が管理します」
僕は書類を見つめた。
妻の顔が浮かぶ。子供たちの笑い声が聞こえる。親友が僕の名前を呼ぶ。
「あなたの現実の人生には、何が残っていますか?」
男性が囁いた。
空っぽのアパート。疎遠な家族。特にこれといった友人もいない。成功とは程遠いキャリア。
僕はペンを取った。
サインをする直前、ふと気づいた。
「あの完璧な記憶を売ったのは、誰なんですか?」
男性は答えなかった。ただ、部屋の奥を指さした。
そこには何十台ものカプセルが並び、それぞれにヘッドセットをつけた人々が眠っていた。
全員が、幸せそうに微笑んでいた。
そして僕は理解した。
あの「完璧な人生」の記憶は、誰か一人のものじゃない。数え切れない人々の「幸せだった瞬間」を切り貼りして作られた、人工的なものなのだ。
本物の人生を生きた人間は、誰一人いない。
僕の手が震えた。
それでも、ペン先は書類に向かっていた。
だって、偽物でも。
偽物でも、あれは幸せだったから。
インクが紙に触れる。
僕の名前が――いや、もうすぐ忘れるであろう名前が――綴られていく。
「ようこそ」
と男性が言った。
「本当の幸せの世界へ」
カプセルに横たわりながら、僕は最後に思った。
これは悲劇なのか、それとも救済なのか。
ヘッドセットが起動する。
画面の中で、妻と子供たちが笑顔で手を振っている。
「おかえりなさい」
僕も笑顔で手を振り返した。
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