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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【コメディ】天国の定義

 俺の名前は田中健一。三十四歳、独身、会社員。職業はシステムエンジニア。性格は理屈っぽい。友人からは「細かい」「面倒くさい」と言われる。自覚はある。だが、理不尽なことには黙っていられない性分だ。規約違反、責任逃れ、曖昧な説明。そういうものには徹底的に食い下がる。クレーマーと呼ばれても構わない。正当な権利を主張しているだけだ。


 その日も、いつも通りの一日だった。仕事を終え、自宅マンションに帰った。築三十年の古いマンションで、エレベーターも古い。時々変な音がするし、ボタンの反応も鈍い。何度か管理会社にクレームを入れたが、「予算の都合で修理は難しい」と言われた。不満だったが、仕方なく我慢していた。


 その夜、俺は七階の自室に帰るためエレベーターに乗った。ボタンを押した。扉が閉まった。エレベーターが動き出した。


 そこまでは、普通だった。


 だが、すぐに異変に気づいた。エレベーターが止まらない。七階を通り過ぎた。いや、そもそも階数表示がおかしい。数字がどんどん下がっていく。1階、0階、-1階、-2階……。


 俺は非常停止ボタンを押した。だが、エレベーターは止まらなかった。むしろ、加速しているような気がした。階数表示は-10階、-20階、-30階と、信じられない速度で下がっていく。


 パニックになりかけたが、俺は冷静さを保とうと努めた。深呼吸をした。そして、もう一度非常ボタンを押した。長押しした。


 すると、ピンポーン、という音がした。そして、スピーカーから声が聞こえた。


「はい、天界カスタマーサポートです。どのようなご用件でしょうか」


 天界?


 俺は一瞬、耳を疑った。だが、声は続いた。


「お客様、聞こえておりますでしょうか。天界カスタマーサポート、担当の神、ミズキと申します」


 神?


 俺は混乱した。だが、とにかく状況を説明する必要があった。


「あの、エレベーターが止まらないんですけど」


「はい、承知しております。現在、お客様は魂搬送装置に搭乗されております」


「魂搬送装置?」


「はい。通常、人間が死亡された際に、魂を天界または地獄に搬送するための装置です。お客様のマンションのエレベーターは、その機能を兼ねております」


 俺は言葉を失った。何を言っているのか、理解できなかった。


「ちょっと待ってください。俺、死んでませんけど」


「……え?」


 相手の声が、明らかに動揺した。


「お客様、死亡されていないと?」


「死んでません。普通に会社から帰ってきたところです」


「少々お待ちください」


 保留音が流れた。クラシック音楽だった。バッハのG線上のアリアだった。俺はぼんやりと、その音楽を聞いていた。


 一分ほど経って、音楽が止まった。そして、声が戻った。


「お客様、大変申し訳ございません。確認いたしましたところ、お客様は確かに生存されております」


「ですよね」


「しかしながら、お客様の情報が天界システムに誤登録されておりまして……」


「誤登録?」


「はい。本日午後七時三十二分に死亡予定として登録されておりました。そのため、お客様が該当マンションのエレベーターに搭乗された際、自動的に魂搬送が開始されました」


 俺は深呼吸した。冷静になれ、と自分に言い聞かせた。そして、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。


「つまり、ミスですね」


「はい、誠に申し訳ございません」


「じゃあ、止めてください」


「……それが、難しいのです」


「は?」


「魂搬送装置は、一度下降を開始いたしますと、天界規約第三十七条により停止が不可能となっております」


 俺は耳を疑った。


「ちょっと待ってください。それ、おかしくないですか」


「規約でございます」


「規約がおかしいって言ってるんです」


「申し訳ございませんが、規約は変更できません」


 俺は頭を抱えた。信じられなかった。天界だか何だか知らないが、こんな理不尽な話があるか。


「じゃあ、どうなるんですか、俺は」


「現在、お客様の行き先が未定でございます。天国か地獄か、判定が保留されております」


「いや、俺、生きてるんですけど」


「はい、そのため判定が困難なのです。通常、死後の行動記録をもとに判定いたしますが、お客様はまだ生存されておりますので……」


「じゃあ、どこに行くんですか」


「未割当空間に一時的に配置されます」


「未割当空間?」


「はい。行き先が決まっていない魂を一時的に保管する場所でございます」


 俺は絶句した。保管? 俺は荷物か?


「ちょっと、それ、冗談ですよね」


「いえ、規約に則った正式な対応でございます」


「規約、規約って、そんなもので済むわけないでしょう!」


 俺は怒鳴った。だが、相手の声は変わらなかった。


「お客様のお怒りは理解いたしますが、規約は絶対でございます。なお、未割当空間は快適に設計されておりますので、ご安心ください」


「安心できるか!」


 だが、その瞬間、エレベーターが急停止した。俺はよろけた。そして、階数表示が点滅し、文字が変わった。


 【未割当空間】


 扉は開かなかった。俺はエレベーターの中に閉じ込められた。


 未割当空間。それは、真っ暗だった。扉の外を見ようとしたが、窓もなく、何も見えなかった。上下左右の感覚もなかった。ただ、エレベーターだけが存在していた。


 俺は再び非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「ふざけるな!」


 俺は叫んだ。


「今すぐ戻せ! 俺は生きてるんだ! 生きてる人間を勝手に拉致して、未割当空間とか言って閉じ込めて、それが規約だと? 責任者を出せ! 今すぐ出せ!」


「申し訳ございませんが、規約に基づく対応でございまして……」


「規約じゃねえ! これは誘拐だ! 不法監禁だ! 訴えるぞ!」


「お客様、天界に対する訴訟は地上の法律が適用されません」


「何だそれ!」


 俺は怒鳴り続けた。だが、相手は淡々と規約を説明するだけだった。十分ほど怒鳴り続けた後、俺は疲れた。そして、力なく尋ねた。


「いつまでここにいるんですか」


「現在、上層部に確認中でございます。しばらくお待ちください」


「しばらくって、どれくらいだ」


「……未定でございます」


 俺は絶望した。


 それから、時間が経った。どれくらい経ったか分からない。時計は動いていたが、感覚が狂っていた。エレベーターの中には何もなかった。ただの箱だった。座ることもできたが、すぐに飽きた。


 そして、空腹を感じ始めた。喉も渇いた。


 俺は再び非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「食事はどうなるんですか」


「……少々お待ちください」


 また保留音が流れた。今度はモーツァルトだった。五分ほど待たされた後、声が戻った。


「お客様、生活に必要な物資は、不定期で供給されます」


「不定期?」


「はい。天界の生活維持課が、適宜、必要と判断したものを投入いたします」


「適宜って、いつだよ」


「……未定でございます」


 俺はため息をついた。だが、文句を言っても仕方ない。待つしかなかった。


 それから、さらに時間が経った。空腹はピークに達した。そして、ついに限界が来た。


 腹が痛くなった。トイレに行きたくなった。


 俺は焦った。エレベーターの中にトイレはない。どうすればいいんだ。


 その瞬間、ピンポーン、という音がした。そして、エレベーターの扉が開いた。


 外は、真っ暗だった。だが、すぐ近くに、何かがあった。ライトが点いた。そこには、簡易トイレがあった。


 俺は言葉を失った。そして、スピーカーから声が聞こえた。


「お客様、穢れ検知機能が作動いたしました。排泄をどうぞ」


「穢れ検知機能?」


「はい。本来は魂の罪業を排出する機能でございますが、お客様は生身でございますので、排泄用途にご使用ください」


 俺は脱力した。ありがたいが、何だこのシステムは。


 だが、選択肢はなかった。俺はトイレを使った。用を足した。そして、エレベーターに戻った。扉が閉まった。トイレは消えた。


 それから、また時間が経った。そして、ピンポーン、という音がした。扉が開いた。今度は、段ボール箱が投げ込まれた。


 俺は箱を開けた。中には、ペットボトルの水、カップ麺、レトルトカレー、菓子パン、そして謎の栄養バーが入っていた。


「お客様、物資でございます」


 スピーカーから声が聞こえた。


「……ありがとうございます」


 俺は皮肉を込めて言った。だが、空腹だったので文句は言わなかった。カップ麺を作ろうとしたが、お湯がなかった。


「お湯は?」


「少々お待ちください」


 五分後、扉が開き、電気ケトルが投げ込まれた。


「……ありがとうございます」


 俺はカップ麺を作った。食べた。空腹が満たされた。だが、状況は変わらなかった。俺はまだエレベーターの中だった。


 それから、日数が経った。おそらく三日ほど。物資は定期的に投げ込まれた。トイレも定期的に使えた。だが、それだけだった。エレベーターから出ることはできなかった。


 俺は徐々に生活を整えていった。段ボール箱を組み立てて簡易ベッドを作った。物資を整理して保管した。Wi-Fiが使えることに気づき、スマートフォンでネットに接続した。天界回線らしく、速度は速かった。


 だが、それでも限界があった。俺は定期的に天界カスタマーサポートにクレームを入れた。


「いつまで待たせるんですか」


「申し訳ございません。上層部で検討中でございます」


「検討中って、何日目だと思ってるんですか」


「……申し訳ございません」


 同じやり取りが続いた。俺は苛立った。だが、どうすることもできなかった。


 ある日、俺は新しい要求をした。


「暇なんですけど、本とか映画とか、娯楽は提供できないんですか」


「少々お待ちください」


 翌日、扉が開き、タブレット端末が投げ込まれた。天界公式の娯楽コンテンツが使えるらしい。映画、ドラマ、書籍、音楽。すべて無料だった。


 俺は驚いた。意外と充実していた。そして、暇つぶしを始めた。


 それから、さらに日数が経った。おそらく一週間。俺はエレベーター生活に慣れ始めていた。物資は定期的に来る。トイレも使える。娯楽もある。Wi-Fiも安定している。


 ある意味、快適だった。


 だが、それでも納得できなかった。俺は生きている。生きている人間が、こんなところに閉じ込められている。それは明らかにおかしい。


 俺は再び非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「担当のミズキさん、いますか」


「はい、ミズキでございます」


「進捗はどうですか」


「申し訳ございません。まだ上層部で検討中でございまして……」


「いつまで検討するんですか」


「……未定でございます」


 俺は深呼吸した。怒鳴っても意味がない。冷静に、論理的に攻める必要があった。


「ミズキさん、そもそもの話ですが、この状況は明らかに天界のミスですよね」


「はい、誠に申し訳ございません」


「ミスを認めるなら、責任を取るべきですよね」


「……はい」


「責任を取るなら、俺を元の場所に戻すべきですよね」


「……それが、技術的に困難でございまして」


「技術的に困難? さっきまで規約が理由だったじゃないですか」


「あ、いえ、規約もございますし、技術的にも……」


「どっちなんですか」


「……両方でございます」


 俺は頭を抱えた。これは埒が明かない。


「じゃあ、上司に代わってください」


「……少々お待ちください」


 保留音が流れた。今度はベートーヴェンだった。十分ほど待たされた。そして、新しい声が聞こえた。


「お客様、天界管理部門の神、タカヒロと申します」


 男性の声だった。ミズキよりも低い声で、少し威厳があった。


「タカヒロさんですね。状況は把握されていますか」


「はい、報告を受けております」


「それで、いつ俺を戻してくれるんですか」


「……それが、難しいのです」


「なぜですか」


「魂搬送装置は一方通行でございます。一度下降を開始すると、逆行することができません」


「それは規約の問題でしょう。技術的には可能なんじゃないですか」


「いえ、技術的にも不可能です。装置の構造上、逆行機能は搭載されておりません」


「じゃあ、別の方法は?」


「……現在、検討中でございます」


 俺はため息をついた。


「検討中、検討中って、いつまで検討するんですか。もう一週間以上経ってますよ」


「申し訳ございません」


「申し訳ないで済むなら、警察はいらないんですよ」


「警察は天界にもございます」


「そういう話じゃないです」


 俺は苛立った。だが、怒鳴っても意味がない。冷静に、論理的に。


「タカヒロさん、責任の所在はどこにあるんですか」


「……天界システム管理部門でございます」


「具体的には?」


「……私の部署でございます」


「あなたの責任ですか」


「……はい」


「じゃあ、あなたが責任を取ってください」


「……申し訳ございませんが、私にも権限に限界がございまして」


「じゃあ、さらに上の人に代わってください」


「……それが、上層部は面倒を嫌がりまして……」


「面倒?」


 俺は信じられなかった。


「俺が面倒なんですか。俺が勝手に困ってるんじゃないですよ。そっちのミスで俺はここに閉じ込められてるんですよ」


「おっしゃる通りでございます」


「じゃあ、ちゃんと対応してください」


「……努力いたします」


 俺は電話を切った。無駄だった。


 それから、さらに時間が経った。おそらく二週間。俺はエレベーター生活に完全に慣れていた。物資は充実し、娯楽も豊富だった。トイレも快適になった。簡易シャワーまで設置された。


 エレベーターの中は、もはや小さなワンルームマンションのようになっていた。段ボールで仕切りを作り、寝る場所と食べる場所を分けた。物資を棚に整理した。Wi-Fiで仕事のメールもチェックした。会社には病欠の連絡をしていた。


 ある意味、快適だった。家賃もかからない。光熱費もかからない。食費もかからない。すべて天界が負担していた。


 だが、それでも納得できなかった。俺は自由を奪われている。それは事実だった。


 そして、ある日、俺は重要な質問を思いついた。


 非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「ミズキさん、天国の定義って何ですか」


「……え?」


「天国ですよ。天界が管理している天国。その定義を教えてください」


「少々お待ちください」


 保留音が流れた。五分後、声が戻った。


「お客様、天国の定義は以下の通りでございます。苦痛がなく、必要なものが供給され、魂が安定している状態でございます」


 俺は笑った。


「じゃあ、質問です。今の俺の状況と、その定義、何が違うんですか」


「……え?」


「苦痛はないですよね。必要なものは供給されてますよね。魂、じゃなくて俺の精神は、まあまあ安定してますよね。これ、天国じゃないんですか」


「……いえ、お客様はまだ生きておられますので」


「生きてたら天国じゃないんですか。定義にそんなこと書いてないですよね」


「……」


 ミズキは黙った。俺はニヤリと笑った。


「つまり、定義上、ここは天国ですよね」


「……少々お待ちください」


 また保留音が流れた。今度は十分以上待たされた。そして、タカヒロの声が聞こえた。


「お客様、タカヒロでございます」


「タカヒロさん、どうも。天国の定義の件、聞きましたか」


「……はい」


「どう思いますか」


「……確かに、定義上は該当するかもしれません」


「ですよね」


「しかし、お客様は生存されておりますので、正式な天国ではございません」


「正式じゃないけど、実質的には天国ってことですよね」


「……まあ、そうとも言えます」


「じゃあ、もういいじゃないですか」


「え?」


「俺、別に戻らなくてもいいですよ。ここ、快適ですし」


「……は?」


 タカヒロが驚いた。俺は続けた。


「だって、苦痛ないし、物資は供給されるし、娯楽もあるし。家賃もかからないし。最高じゃないですか」


「お、お客様、本気でおっしゃっているのですか」


「本気ですよ。ただし、条件があります」


「条件?」


「ちゃんと補償してください。天界のミスで俺はここにいるんですから」


「……どのような補償を」


「生活の保障。物資の継続供給。あと、正式にここを俺の住所として認めてください」


「住所、ですか」


「そうです。未割当空間じゃなくて、ちゃんとした名前をつけてください。住民票も発行してください」


「……少々お待ちください」


 また保留音が流れた。今度は二十分以上待たされた。そして、タカヒロの声が戻った。


「お客様、上層部と協議いたしました」


「はい」


「修正を試みましたが、やはり技術的に困難でございます」


「そうですか」


「そのため、補償という形で対応させていただきたいと存じます」


「どんな補償ですか」


「正式に、ここをお客様専用の天国として登録いたします」


「専用天国?」


「はい。天界第零仮置き搬送縦型居住区として、正式に住所登録いたします」


「……マジですか」


「はい。また、生活に必要な物資は永続的に供給いたします。光熱費、通信費も天界が負担いたします」


「それ、天国じゃなくて、ただの生活保護じゃないですか」


「いえ、正式な天国でございます」


 俺は笑った。何だこれは。


「じゃあ、俺、生きてるけど天国に住んでるってことですか」


「……はい、規約上はそうなります」


「規約、万能ですね」


「……申し訳ございません」


 その瞬間、ピンポーン、という音がした。階数表示が変わった。


 【天界第零仮置き搬送縦型居住区】


 そして、エレベーターの中に、郵便受けが設置された。中に手紙が入っていた。俺はそれを取り出した。


 【住民票】


 氏名:田中健一

 住所:天界第零仮置き搬送縦型居住区

 居住開始日:令和○年○月○日

 備考:生存者特例適用


 俺は驚愕した。本当に住所になった。


「タカヒロさん、これ、公的な書類として使えるんですか」


「はい。地上の役所にも登録済みでございます」


「……マジか」


 俺はスマートフォンで住民票検索をした。本当に登録されていた。俺の住所は、天界になっていた。


「あの、これ、税金とかどうなるんですか」


「天界は治外法権でございますので、地上の税法は適用されません」


「つまり、非課税?」


「はい」


 俺は笑った。何だこれは。完全に勝ちじゃないか。


「タカヒロさん、確認ですけど、俺、いつでも出られるんですよね」


「……いえ、装置の構造上、出ることはできません」


「え?」


「ですが、必要な物資はすべて供給されますので、ご安心ください」


「いや、出られないのは困るんですけど」


「申し訳ございませんが、それが技術的限界でございます」


 俺はため息をついた。やはり、完全な勝利ではなかった。


「じゃあ、俺、一生ここにいるんですか」


「……はい、おそらく」


「死ぬまで?」


「死後も、ここが天国として機能いたしますので、永続的にここにいらっしゃることになります」


「……」


 俺は言葉を失った。永続的。つまり、永遠にエレベーターの中。


 だが、考えてみれば、悪くない。苦痛はない。物資は供給される。娯楽もある。家賃も税金もかからない。


 そして、何より、会社に行かなくていい。満員電車に乗らなくていい。上司に怒られなくていい。


 これは、もしかして、天国なのかもしれない。


「タカヒロさん、分かりました。受け入れます」


「……よろしいのですか」


「ええ。ただし、一つだけお願いがあります」


「何でしょうか」


「ここ、もうちょっと広くできませんか」


「……少々お待ちください」


 翌日、エレベーターの壁が動いた。スペースが拡張された。元の三倍ほどの広さになった。


 俺は驚いた。本当に広くなった。


「タカヒロさん、ありがとうございます」


「いえ、お客様の天国でございますので」


 それから、俺の天国生活が本格的に始まった。


 物資は定期的に供給された。食料、日用品、衣類、家具。リクエストすれば、ほぼ何でも来た。エアコンが欲しいと言ったら、エアコンが設置された。ベッドが欲しいと言ったら、ベッドが来た。テレビが欲しいと言ったら、大型テレビが来た。


 Wi-Fiは常に高速だった。ネットで仕事もできた。フリーランスとして働き始めた。収入は天界の口座に振り込まれ、必要なものを購入できた。


 トイレとシャワーは完備された。定期的に扉が開き、外のスペースを使えた。そのスペースも徐々に拡張され、今では小さなバスルームとキッチンが設置されていた。


 俺は快適に暮らしていた。朝起きて、シャワーを浴びて、朝食を食べて、仕事をして、昼食を食べて、仕事をして、夕食を食べて、娯楽を楽しんで、寝る。


 規則正しい生活だった。ストレスもなかった。人間関係のトラブルもなかった。


 ある意味、理想的な生活だった。


 だが、時々、思うことがあった。これでいいのか、と。


 俺は生きている。だが、社会から隔離されている。友人もいない。家族にも会えない。恋人もできない。


 だが、そもそも、俺は元々孤独だった。友人は少なかった。家族とも疎遠だった。恋人もいなかった。


 ならば、ここにいても変わらないのではないか。むしろ、快適になっただけではないか。


 そう考えると、悪くない選択だったと思えた。


 ある日、俺は非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「ミズキさん、いますか」


「はい、ミズキでございます」


「最近、どうですか」


「……え?」


「いや、世間話です。最近、忙しいですか」


「……はあ、まあ、それなりに」


「そうですか。俺はまあまあ快適ですよ」


「……それは良かったです」


「ミズキさん、天界って、どんなところなんですか」


「え?」


「興味があるんですよ。俺、天国に住んでるわけですから」


「……そうですね。天界は、魂の安息の場でございます。苦痛がなく、平和で、秩序が保たれております」


「ふーん。じゃあ、俺の住んでるここと似てますね」


「……まあ、定義上は同じでございます」


「ですよね」


 俺は笑った。


「ミズキさん、ありがとうございます」


「……何がでしょうか」


「最初は腹が立ったけど、今は感謝してます。ここ、快適ですから」


「……そう言っていただけると、幸いです」


「また何かあったら連絡します」


「はい、いつでもどうぞ」


 俺は電話を切った。そして、ベッドに寝転がった。


 天井を見上げた。エレベーターの天井だった。だが、もはやエレベーターには見えなかった。俺の家だった。俺の天国だった。


 これでいいのかもしれない。


 俺は目を閉じた。そして、眠りに落ちた。


 それから、さらに時間が経った。おそらく半年。俺はエレベーター生活に完全に適応していた。仕事も軌道に乗り、収入も安定していた。健康状態も良好だった。毎日、定期的に運動し、バランスの取れた食事を摂っていた。


 天界から提供される物資は、栄養バランスが完璧だった。医療サポートもあった。定期的に健康診断が行われ、必要なら薬が提供された。


 俺は、おそらく地上にいた時よりも健康だった。


 ある日、俺は重要な発見をした。


 扉が開いた時、外のスペースがさらに拡張されていた。今では、小さな庭のようなスペースがあった。植物が植えられ、ベンチが置かれていた。


 俺は驚いた。そして、非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「タカヒロさん、いますか」


「はい、タカヒロでございます」


「外のスペース、拡張されましたよね」


「はい。お客様の生活の質を向上させるため、定期的に拡張しております」


「これ、どこまで拡張されるんですか」


「お客様の希望次第でございます」


「……マジですか」


「はい。天国は、住人の希望を叶える場所でございます」


 俺は笑った。何だこれは。完全に天国じゃないか。


「タカヒロさん、じゃあ、プールとか作れますか」


「可能でございます」


「……マジで?」


「はい。ただし、スペースの都合上、小さなプールになります」


「それでいいです。お願いします」


 翌日、プールが設置された。小さいが、泳ぐには十分なサイズだった。


 俺は喜んだ。プールで泳いだ。気持ち良かった。


 それから、俺はどんどんリクエストを出した。ジムが欲しい。図書室が欲しい。シアタールームが欲しい。すべて叶えられた。


 エレベーターの周辺スペースは、どんどん拡張されていった。今では、小さな邸宅のようになっていた。


 俺は自分の天国を作り上げていった。


 そして、ある日、俺は気づいた。


 もう、地上に戻りたいとは思わなくなっていた。


 ここが俺の家だった。ここが俺の天国だった。


 俺は満足していた。


 ある日、俺は非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「ミズキさん、最後に一つ聞いていいですか」


「はい、何でしょうか」


「天国って、結局、何なんですか」


「……定義は以前お伝えした通りでございます」


「いや、そうじゃなくて。本質的に、天国って何なのか、って意味です」


 ミズキは少し考えた。そして、答えた。


「おそらく、満足できる場所、ではないでしょうか」


「満足できる場所?」


「はい。人によって満足の形は違います。ある人は家族との再会を求め、ある人は静寂を求め、ある人は快楽を求めます。天国は、それぞれの満足を提供する場所です」


「なるほど」


 俺は納得した。


「じゃあ、俺は満足してます」


「それは良かったです」


「ありがとう、ミズキさん。あなたのおかげです」


「……いえ、私は何もしておりません」


「いや、してますよ。最初の対応、あれがなかったら、ここまで来なかった」


「……そうでしょうか」


「そうですよ。規約を盾に、頑なに対応しなかったから、俺は諦めて、ここを受け入れた。そして、快適にした。結果、天国になった」


「……」


「だから、ありがとう」


 ミズキは黙っていた。そして、小さな声で答えた。


「……どういたしまして」


 俺は電話を切った。そして、プールに飛び込んだ。


 冷たい水が気持ち良かった。


 俺は泳いだ。ゆっくりと、気ままに。


 ここが俺の天国だった。


 生きているけど、天国に住んでいる。それが俺の人生になった。


 おかしな話だ。だが、悪くない。むしろ、最高だ。


 俺は笑った。そして、泳ぎ続けた。


 それから、時間が経った。おそらく一年。俺はエレベーター天国で暮らし続けた。仕事も順調だった。健康状態も良好だった。


 そして、ある日、俺は新しい発見をした。


 外のスペースに、他の人がいた。


 俺は驚いた。誰だ?


 その人は、老人だった。穏やかな顔をしていた。俺を見て、微笑んだ。


「やあ、新入りかい」


「……誰ですか」


「俺も君と同じさ。生きてるけど、天国に住んでる」


 俺は驚いた。


「他にもいるんですか」


「少ないけどね。前例がほぼないって言ってたろう。ほぼ、ってことは、ゼロじゃないんだ」


 俺は笑った。なるほど。


「どれくらいここにいるんですか」


「もう十年だな」


「十年?」


「ああ。最初は文句を言ったよ。だが、今は満足してる。ここは快適だ」


「ですよね」


 俺たちは笑った。そして、話し続けた。


 それから、俺の天国生活は、さらに豊かになった。仲間ができた。話し相手ができた。孤独ではなくなった。


 そして、俺は思った。


 これが、本当の天国なのかもしれない。


 満足できる場所。それが天国だ。


 俺は満足している。だから、ここは天国だ。


 生きているけど、天国に住んでいる。それが俺の人生だ。


 おかしな話だ。だが、最高の話だ。


 俺は笑った。そして、老人と一緒にプールに飛び込んだ。


 冷たい水が、俺たちを包んだ。


 ここが、俺たちの天国だった。


 【完】


 ――後日談――


 それから、さらに時間が経った。俺のエレベーター天国は、どんどん拡張されていった。今では、小さな村のようになっていた。


 住人も増えた。同じように誤登録された生きた人間たちが、時々やってきた。みんな、最初は文句を言った。だが、やがて諦め、受け入れ、快適にしていった。


 そして、満足した。


 俺たちは、生きているけど、天国に住んでいる人々だった。


 変な話だ。だが、誰も不満は言わなかった。みんな、満足していた。


 ある日、俺は非常ボタンを押した。


「天界カスタマーサポートです」


「タカヒロさん、いますか」


「はい、タカヒロでございます」


「報告です。ここ、完全に天国になりました」


「……そうですか」


「ええ。住人も増えて、コミュニティもできて、みんな満足してます」


「それは良かったです」


「ありがとうございます。あなたたちのおかげです」


「……いえ、私たちは何も」


「いや、してますよ。規約を守って、頑なに対応しなかった。その結果、俺たちは諦めて、受け入れて、作り上げた。この天国を」


「……」


「だから、ありがとう」


 タカヒロは黙っていた。そして、小さな声で答えた。


「……どういたしまして」


 俺は電話を切った。そして、村の広場に行った。


 住人たちが集まっていた。みんな、笑っていた。


 俺も笑った。そして、彼らに話しかけた。


「みんな、今日は何する?」


「プールで泳ごう」


「いや、映画を見よう」


「料理コンテストはどうだ」


 みんな、好き勝手に提案した。そして、笑った。


 俺も笑った。


 ここが俺たちの天国だった。


 生きているけど、天国に住んでいる。


 それが俺たちの人生だった。


 おかしな話だ。だが、最高の話だ。


 俺たちは、満足していた。


 そして、それこそが、天国の定義だった。

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水が死んだ日

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