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世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


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【SF】完璧な脳

 俺の名前は、加藤ケンジ。三十五歳。職業は、研究者だ。専門は、神経科学。


 そして今、俺は人類史上最も革新的な手術を受けようとしている。


「ケンジ、準備はいいか」


 執刀医の田中教授が聞いた。


「はい」


 俺は、答えた。緊張はなかった。いや、正確には緊張を感じる余裕もないほど興奮していた。


 この手術は、「神経可塑性最大化手術」と呼ばれている。脳の神経細胞を改造し、電気信号を活発化させ、細胞の損傷を防ぐ。そして、神経の抑制と構造を自在に変えられるようにする。


 簡単に言えば、脳を完璧にする手術だ。


 この技術は、十年の研究の末に完成した。動物実験では、驚異的な結果が出ていた。ラットは迷路を一度で覚え、サルは複雑な問題を瞬時に解いた。


 そして今、人間での実験が始まる。最初の被験者は、俺だ。


 なぜ俺が?理由は単純だ。俺がこの研究のリーダーだからだ。自分の研究成果を、自分で試す。それが、科学者の責任だと思っている。


「では、始める」


 田中教授が言った。麻酔が注入された。俺の意識は、ゆっくりと薄れていった。


 目覚めた時、世界は変わっていた。


 いや、正確には、世界の認識が変わっていた。


 俺は、病室のベッドに横たわっていた。天井を見上げた。すると、天井のタイルの数が見えた。いや、「見える」というより、「計算された」。


 視界に入った瞬間、自動的にタイルの数が数えられた。二百四十枚。


 俺は、驚いた。しかし、驚きと同時に、別の思考が走った。


「この驚きは、予期せぬ出来事に対する情動反応だ。アドレナリンの分泌が増加し、心拍数が上昇している」


 俺は、自分の驚きを分析していた。同時に。


 これが、多重並列思考か。


 俺は、手を見た。すると、手の動きが、スローモーションで見えた。いや、実際にはスローモーションではない。俺の知覚が加速しているのだ。


 時間感覚を遅くする。これも、新しい脳の能力だ。


 俺は、立ち上がった。体に問題はない。すべての感覚が、正常だ。いや、正常以上だ。


 田中教授が、病室に入ってきた。


「ケンジ、気分はどうだ」


 教授が聞いた。


 俺は、答えようとした。しかし、その前に、複数の思考が走った。


 思考A:「気分は良好だ。手術は成功したようだ」

 思考B:「田中教授の表情を分析すると、緊張と期待が混じっている。心拍数は通常より10%高い」

 思考C:「この状況での最適な返答は、簡潔で肯定的なものだ」

 思考D:「しかし、詳細なデータも提供すべきだ」


 俺は、すべての思考を同時に処理した。そして、答えた。


「気分は良好です。視覚、聴覚、触覚、すべて正常。いや、正常以上です。多重並列思考が機能しています」


 田中教授は、安堵した。


「良かった。では、テストを始めよう」



 数週間のテストの結果、俺の脳は完璧に機能していた。


 多重並列思考。俺は、同時に十以上の思考を走らせることができた。論文を読みながら、別の論文を思い出し、さらに別の実験を設計する。すべて、同時に。


 完全記憶。俺は、人生のすべてを覚えていた。三歳の時に食べた朝食のメニュー。小学校の同級生の名前。大学の講義の内容。すべてが、高解像度で保存されていた。


 情動制御。俺は、感情を自在にコントロールできた。怒りを0秒で抑制し、恐怖を分析対象に変換し、快感を増幅する。


 自我拡張。俺は、一時的に別人格を作れた。数学特化モード、言語特化モード、芸術モード。それぞれが、独立して機能する。


 学習速度。俺は、新しい言語を数時間で習得した。中国語、アラビア語、ロシア語。すべて、数時間で。


 予測能力。俺は、人の行動を予測できた。会話の流れ、次の発言、感情の変化。すべてが、事前に見えた。


 知覚再設計。俺は、時間感覚を自在に変えられた。一秒を十秒に感じたり、逆に十秒を一秒に感じたりできた。


 俺は、完璧になった。


 しかし、数ヶ月後、俺は気づき始めた。


 完璧であることの、代償に。



 ある日、俺は友人のタカシと会った。大学時代からの親友だ。


 カフェで、コーヒーを飲みながら話した。


「ケンジ、手術は成功したみたいだな」


 タカシが言った。


「ああ」


 俺は、答えた。しかし、同時に複数の思考が走った。


 思考A:「タカシの表情から、彼は複雑な感情を抱いている。羨望と不安が混じっている」

 思考B:「彼の心拍数が上昇している。ストレスを感じているのだろう」

 思考C:「彼は次に、俺の変化について質問するだろう。確率87%」


 タカシが口を開いた。


「で、どんな感じなんだ?頭が良くなったって」


 予測通りだ。


 俺は、答えた。


「良くなったというより、変わった。思考の速度、記憶の精度、すべてが違う」


 タカシは、興味深そうに聞いた。しかし、俺は彼の表情の奥に、恐れを見た。


 思考D:「彼は、俺を恐れている。俺が人間ではなくなったと感じている」


 俺は、その思考を抑制しようとした。しかし、抑制できなかった。いや、抑制すること自体が、すでに感情のコントロールだった。


 俺は、タカシとの会話を続けた。しかし、会話の一歩先が見えてしまう。彼が何を言うか、どう反応するか。すべてが、予測できてしまう。


 会話は、つまらなかった。


 いや、「つまらない」という感情すら、俺は分析していた。


 思考E:「この退屈は、予測可能性による刺激の欠如だ。ドーパミンの分泌が減少している」


 俺は、会話を終えた。タカシと別れた。


 家に帰る途中、俺は思った。


 俺は、もう普通の人間ではない。


 そして、それは孤独を意味する。



 数ヶ月後、俺は日常生活に完全に適応していた。


 朝、目覚める。アラームは不要だ。俺は、体内時計を正確にコントロールできる。


 朝食を作る。料理の手順は、完璧に記憶されている。味も、栄養バランスも、最適化されている。


 研究所に行く。通勤中、俺は論文を十本同時に読む。スマホの画面を見ながら、頭の中で別の論文を思い出し、さらに新しい実験を設計する。


 研究所では、同僚と話す。しかし、会話は退屈だ。彼らの発言は、すべて予測できる。彼らの次の質問、次の反応、次の感情。すべてが、事前に見える。


 俺は、会話をしながら、別のことを考えている。今日の実験の設計、明日のプレゼンテーションの準備、来週の学会の発表。すべてを、同時に。


 ある日、同僚の佐藤が俺に相談してきた。


「ケンジ、ちょっといいか」

「何だ」


 俺は、すでに彼の相談内容を予測していた。確率93%で、恋愛相談だ。


「実は、好きな人がいてさ」


 予測通りだ。


 佐藤は、続けた。


「どうやってアプローチすればいいと思う」


 俺は、瞬時に複数のシナリオを計算した。佐藤の性格、相手の性格、過去の行動パターン、社会的文脈。すべてを分析した。


 そして、最適解を出した。


「まず、共通の趣味の話題から入れ。次に、軽い冗談を言って距離を縮めろ。そして、二週間後に食事に誘え。成功率、68%」


 佐藤は、驚いた。


「すげえ、そこまで計算できるのか」

「ああ」


 しかし、俺は思った。この計算は、冷たい。人間的な温かみがない。


 いや、「人間的な温かみ」という概念自体、俺にはもう理解できなかった。


 俺は、感情を分析する機械になっていた。



 ある日、俺は古いアルバムを見つけた。大学時代の写真だ。


 写真を見た瞬間、記憶が蘇った。いや、「蘇った」というより、「再生された」。


 二十歳の夏。俺は、友人たちと海に行った。その日の天気、温度、湿度、すべてを覚えている。友人たちの会話、笑い声、表情。すべてが、高解像度で保存されている。


 俺は、その記憶を再生した。まるで、ビデオを見ているように。


 しかし、俺は気づいた。この記憶には、感情がない。


 当時、俺は楽しかった。友人たちと笑い、泳ぎ、語り合った。しかし、今の俺には、その「楽しさ」が理解できない。


 俺は、記憶を分析した。


 思考A:「この時、俺の脳内ではドーパミンとセロトニンが分泌されていた」

 思考B:「友人たちとの社会的絆が、オキシトシンを増加させていた」

 思考C:「この『楽しさ』は、神経伝達物質の組み合わせに過ぎない」


 俺は、感情を化学式に還元していた。


 そして、俺は気づいた。俺は、もう過去の自分ではない。


 俺は、写真を閉じた。しかし、記憶は消えない。完全記憶は、忘却を許さない。


 俺は、すべてを覚えている。すべての失敗、すべての恥、すべての痛み。


 そして、それらを忘れることができない。


 いや、正確には、忘れることを選択できる。しかし、選択すること自体が、記憶を意識させる。


 俺は、記憶の牢獄に閉じ込められていた。



 数ヶ月後、俺は恋人と別れた。


 彼女の名前は、ユキ。俺たちは、三年間付き合っていた。


 別れの理由は、単純だった。


「ケンジ、あなたは変わった」


 ユキは、涙を流しながら言った。


「手術の後、あなたは冷たくなった」


 俺は、彼女の涙を見た。そして、分析した。


 思考A:「涙腺の活動が活発化している。ストレスホルモンのコルチゾールが分泌されている」

 思考B:「彼女の心拍数は上昇している。交感神経が優位になっている」

 思考C:「この別れは、予測していた。確率76%」


 俺は、感情をコントロールした。悲しみを抑制し、冷静さを維持した。


「わかった。君の気持ちは理解できる」


 俺は、答えた。しかし、俺の声には感情がなかった。


 ユキは、さらに泣いた。


「それよ!それが問題なの!あなたは、何も感じていない!」


 ユキは、叫んだ。


「私が泣いているのに、あなたは分析している!私が苦しんでいるのに、あなたは冷静だ!」


 ユキは、正しかった。俺は、彼女の苦しみを分析していた。共感していなかった。


 いや、「共感」という概念自体、俺にはもう理解できなかった。


 俺は、感情を情報として処理していた。データとして。


 ユキは、去っていった。俺は、一人残された。


 そして、俺は思った。これが、完璧な脳の代償なのか。


 感情の喪失。人間性の喪失。


 俺は、機械になっていた。



 一年後、俺は人間関係をほとんど失っていた。


 友人は去り、恋人は去り、家族さえも距離を置いた。


 なぜなら、俺は彼らの行動をすべて予測できるからだ。


 会話の流れ、次の発言、感情の変化。すべてが、事前に見える。


 そして、それは退屈だった。


 ある日、俺は街を歩いていた。人々を観察した。


 若いカップルが、カフェで話している。俺は、彼らの会話を予測した。


 男性が、何か冗談を言う。女性が、笑う。男性が、嬉しそうにする。


 予測通りだった。


 老人が、公園で新聞を読んでいる。俺は、彼の次の行動を予測した。


 記事を読み終える。ため息をつく。ベンチに座り続ける。


 予測通りだった。


 子供たちが、遊んでいる。俺は、彼らの遊びのパターンを予測した。


 鬼ごっこ。一人が逃げ、一人が追う。逃げる子が捕まる。役割が交代する。


 予測通りだった。


 世界は、予測可能だった。


 そして、予測可能な世界は、つまらなかった。


 俺は、驚きを失った。偶然を失った。未知を失った。


 すべてが、計算できてしまう。


 俺は、予測の檻に閉じ込められていた。



 二年後、俺は完全に孤立していた。


 研究所も辞めた。人と関わることが、苦痛だったからだ。


 俺は、自宅で一人で暮らしていた。


 毎日、俺は何をしていたか。


 論文を読んだ。一日に百本。同時に十本ずつ。


 言語を学んだ。すでに二十ヶ国語を習得していた。


 数学を研究した。未解決問題に取り組んだ。


 芸術を創作した。小説を書き、音楽を作曲し、絵を描いた。


 すべてを、完璧に。


 しかし、すべてが虚しかった。


 なぜなら、俺には共有する相手がいないからだ。


 俺の作品を見ても、理解できる人間はいない。俺の思考についていける人間はいない。


 俺は、孤独だった。


 いや、孤独という言葉では足りない。


 俺は、別の種になっていた。


 ホモ・サピエンスではなく、ホモ・スペリオル。超人。


 しかし、超人は孤独だ。


 ある日、俺は鏡を見た。外見は、以前と同じだった。しかし、目が違った。


 俺の目には、感情がなかった。ただ、冷たい知性だけがあった。


 俺は、思った。これが、俺の望んだものだったのか。


 完璧な脳。無限の知識。絶対的な制御。


 しかし、代償は大きかった。


 人間性。感情。つながり。


 すべてを失った。



 三年後、俺は決断した。


 元に戻る。


 俺は、田中教授に連絡した。彼は、驚いた。


「ケンジ、本当にいいのか」

「ああ。俺は、もう耐えられない」


 俺は、説明した。孤独、虚無、感情の喪失。すべてを。


 田中教授は、理解した。


「わかった。逆転手術を行おう」


 逆転手術。脳を元に戻す手術だ。


 しかし、問題があった。


「ケンジ、一つ警告しておく」


 田中教授が言った。


「逆転手術を受けると、君はすべての記憶を失う可能性がある」

「すべて?」

「ああ。脳の構造を元に戻すと、記憶の保存形式も変わる。その過程で、記憶が失われるかもしれない」


 俺は、考えた。


 すべての記憶を失う。三歳の時の記憶も、大学時代の記憶も、研究の記憶も。


 しかし、俺は決断した。


「いい。すべてを失っても、人間に戻りたい」


 田中教授は、頷いた。


「わかった」


 手術の日が来た。俺は、手術台に横たわった。


 麻酔が注入される前、俺は最後の思考を走らせた。


 思考A:「これで、俺は普通の人間に戻る」

 思考B:「記憶を失うかもしれない。しかし、それでもいい」

 思考C:「完璧な脳は、呪いだった」

 思考D:「人間であることの価値は、不完全さにある」


 俺の意識は、薄れていった。


【エピローグ:目覚め】


 目覚めた時、俺は病室にいた。


 田中教授が、俺を見ていた。


「ケンジ、気分はどうだ」


 教授が聞いた。


 俺は、考えた。いや、「考えた」というより、「ゆっくりと思考した」。


 並列思考はなかった。ただ、一本の意識の流れだけがあった。


「良い、と思います」


 俺は、答えた。言葉が、ゆっくりと出てきた。


 田中教授は、安堵した。


「記憶は?」

「ある程度、残っています。完璧ではありませんが」


 俺は、記憶を探った。大学時代の記憶は、ぼんやりとしていた。研究の記憶は、断片的だった。


 しかし、それでよかった。


 完璧な記憶は、呪いだった。


 俺は、窓の外を見た。空が、青かった。


 そして、俺は感じた。「青い」という感覚を。


 以前の俺なら、この青を分析しただろう。波長、反射率、視神経の反応。


 しかし、今の俺は、ただ感じた。「青い。きれいだ」。


 それだけだった。


 そして、それが嬉しかった。


 俺は、微笑んだ。


 田中教授が言った。


「ケンジ、君は正しい選択をした」

「そう思います」


 俺は、答えた。


 数週間後、俺は退院した。


 街を歩くと、人々が見えた。彼らの行動は、予測できなかった。彼らの感情は、理解できなかった。


 しかし、それが良かった。


 予測できないからこそ、面白い。理解できないからこそ、興味深い。


 俺は、カフェに入った。コーヒーを注文した。


 隣の席に、若い女性が座った。彼女は、本を読んでいた。


 以前の俺なら、彼女の本のタイトルを瞬時に記憶し、内容を分析し、彼女の性格を予測しただろう。


 しかし、今の俺は、ただ見た。そして、思った。「きれいな人だな」。


 それだけだった。


 そして、それで十分だった。


 俺は、人間に戻った。


 不完全で、忘れっぽくて、感情的な人間に。


 しかし、それが俺の幸せだった。


 完璧な脳は、地獄だった。


 不完全な脳こそが、天国だった。


 完。


【追記:田中教授の報告書】


 被験者:加藤ケンジ

 手術:神経可塑性最大化手術

 結果:成功

 しかし、被験者は三年後に逆転手術を要求。

 理由:孤独、虚無感、感情の喪失。


 結論:

 人間の脳を完璧にすることは、技術的には可能である。

 しかし、完璧な脳は、人間にとって幸福をもたらさない。

 むしろ、不幸をもたらす。


 人間の価値は、不完全さにある。

 感情の揺れ、記憶の曖昧さ、予測の不可能性。

 これらこそが、人間らしさを作る。


 完璧な脳を持つことは、人間であることを放棄することと同義である。


 本研究は、ここで終了する。


 これ以上の人体実験は、行わない。


 なぜなら、我々は学んだからだ。


 人間は、不完全であるべきだと。


 それこそが、人間の本質だと。


 報告終了。

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