表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界は静かに壊れている【ショートショート集・短編集】  作者: 御影のたぬき


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

101/200

【サイコホラー】影の海に沈む街

街は静かに沈み続けていた。誰も騒がないし、ニュースも取り上げない。ただ地下鉄の階段がぬめり、アスファルトが黒く湿り、診察室の床が朝になるとわずかに濡れているだけだ。私は真壁遼、三十七歳、臨床心理士。専門はカール・グスタフ・ユングの分析心理学で、患者の「影」と向き合うことを仕事にしている。影とは、否認された自己、抑圧された衝動、認めたくない欲望の集積だと私は説明してきた。影は怪物ではない、統合すべきものだと、穏やかな声で語ってきた。

最初に「街が黒い水に沈む夢」を語ったのは藤原葵だった。塔の上に立つ自分、下から手を振るもう一人の自分、「降りてこい」と呼ぶ声。私は頷き、それは影の象徴だと説明した。彼女は安心したように微笑んだ。その一週間後、彼女はビルの屋上から転落死した。事故として処理された。柵の近くに滑った跡があったという。私は深く悲しみ、同僚に「最近の若者は脆い」と語った。だが胸の奥には別の感覚があった。やはり危うかった、という安堵にも似た静かな確信。その感情に私は気づかなかった。気づく必要がなかった。私は救う側なのだから。だが同じ夢を語る患者は続いた。黒い水、沈む街、塔の上の自分。そして数か月のうちに三人が死んだ。浴室での溺死、立体駐車場からの転落、川への投身。共通点は一つ、最後に会ったのが私だったということだ。警察は関連性を否定した。私は評判の良い臨床心理士で、地域講演もしている。誰も疑わない。私自身も疑わない。ただ、夜になると記憶が途切れることが増えた。駅を出たところまでは覚えているのに、次の瞬間、家の玄関で靴を脱いでいる。靴底が濡れている。黒い水の匂いがする。机の引き出しに見覚えのないハンカチが入っている。薄く鉄の匂いがする。私は合理的に説明する。疲労だ。ストレスだ。臨床家にも解離は起こりうる。私は理論で自分を包み、正常という仮面をより強くかぶる。ある夜、洗面所の鏡に背後の私を見た。同じ顔、同じスーツ、だが目が暗い。「お前は本当に理解しているのか」と声がした。影だ、と私は即座に判断した。自己の抑圧が映像化しているのだ、と。しかし影は笑った。「お前は統合を語るが、常に上から見下ろしている。患者の崩壊を、安全な位置から観察している」。否定しようとした瞬間、断片が閃く。屋上の夜風、震える背中、「怖いです」と言う声。私は手を伸ばしている。支えるためか、押すためか。場面が途切れる。次に思い出すのは、静かな地面と、遠くで鳴るサイレンだ。私は何もしていない。私は救おうとしただけだ。だが夢の中で水面に浮かぶ顔が囁く。「先生、どうして手を離したんですか」。

私はユングの理論を思い出す。影は抑圧された人格の一部であり、無視すれば投影として外界に現れる。集合無意識は元型を通して象徴化する。ではこの黒い水は何だ。街という集合体が抱える抑圧の噴出か。それとも、私個人の影が街という舞台に拡張されているのか。塔の上の自分は自我だ。下から呼ぶのは影。統合すれば水は澄むはずだ。だが私は統合を語りながら、影を常に制御対象として扱ってきた。理解し、分類し、治療し、上に立とうとしてきた。影は従属しない。影は主体になる。街の水位は上がる。人々は塔を目指す。「下にいる私が呼んでいる」と言いながら。しかし本当に呼んでいるのは下か上か。私は再び塔の夢を見る。向かいに立つ私が言う。「統合するつもりか?」その声は嘲りを含んでいる。「お前は統合など望んでいない。お前は支配したいだけだ」。足元が崩れ、私は落ちる。黒い水に沈む。冷たく、重く、肺が焼ける。しかし沈んでいくのはもう一人の私だ。水面に立っているのは私のほうだ。どちらが影なのか分からない。もしかすると、最初から塔に立っていたのは影で、沈んでいったのが自我だったのかもしれない。

翌朝、私は診察室にいる。新しい患者が座り、同じ夢を語る。私は穏やかに頷き、「それはあなたの影です」と説明する。ニュースが流れる。“また転落事故”。私はペンを走らせる。黒いインクが滲む。ふと見ると指先がわずかに湿っている。いつの間にか床も濡れている。だが誰も気づかない。患者は安心した顔で帰っていく。私は微笑み続ける。影は統合されない。影は排除もできない。影は私として機能し続ける。私は救う側だ。私は正常だ。私は何もしていない。ただ手を伸ばしただけだ。ほんの少し、力の向きが違っただけだ。街は今日も沈んでいる。水は澄まない。塔の上には、いつも私が立っている。そして下では、誰かが静かに手を振っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
同作者の完結作品

水が死んだ日

― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ