消えた経営者と少女の涙
夢咲学園大学部医学部。
その講義室の最前列に、ひときわ目を引く学生が座っていた。
黒いロングヘアーに紫のリボン。白衣の下には漆黒のワンピースを纏い、斎宮華蓮はペンを走らせる。
白衣の袖口から覗く指先は、まるで楽器の弦を奏でるように軽やかで、貂蝉教授の言葉を一字一句逃さず記録していく。
「神経伝達の遮断は、痛覚の制御に直結する」
教授の声に合わせ、華蓮の唇がわずかに弧を描いた。
「うふふ、私の教えをしっかり身につけているわね」
かつては聖女として華蓮に仕えた貂蝉が、今は教授として教壇に立つ――。
師と弟子の立場が逆転したその光景は、二人だけが知る秘密の継承だった。
――そう、私の領分。
人体の神経は、糸のように張り巡らされた世界そのもの。
切ることも、繋ぐことも、自在にできる。
講義が終わると、周囲の学生たちは囁き合う。
「やっぱり華蓮さんは別格だね」
才媛にして令嬢。近寄る者を拒む冷ややかな気配を纏いながら。
彼女の家は古くから葬儀社を営み、母は経営者として知られる斎宮芽衣。
だが、その母こそ冥界の女王ペルセポネであり、華蓮は人知れず――魂の選別を学び続けていた。
夕暮れ、葬儀社の応接室。
制服姿の女子高生が、震える声で訴える。
「父は……会社に殺されたんです。過労死だって、誰も認めてくれなくて……」
涙に濡れた瞳が、真っ直ぐに華蓮を射抜いた。
華蓮はしばし沈黙し、やがて静かに口を開く。
「断絶の糸は、必ず悪を断ち切りますわ」
――その頃、都心の高層ビル最上階では、煌びやかなパーティーが開かれていた。
シャンデリアの下で笑い声を響かせているのは、大手企業の幹部・黒川。
彼は部下を使い潰すことで知られていたが、表向きは「辣腕の経営者」としてメディアに持ち上げられている。
グラスを傾けながら吐き捨てる。
「人間なんて替えが利く部品だ。壊れたら捨てればいい」
取り巻きたちは媚び笑いを浮かべ、背後の机には遺族の訴えを握り潰した書類が山のように積まれていた。
だが黒川にとって、それはただの紙切れにすぎない。
「利益を出せば正義だ。弱者の声など、風に消える」
豪語するその姿は、都市の闇そのもの。
シャンパンの泡が弾けるたび、踏みにじられた命の数が浮かび上がるようで――
会場の華やかさは、むしろ不気味さを際立たせていた
夜の街に、雨が降り始めていた。
黒川の豪奢なパーティー会場を見上げる高層ビルの屋上に、一人の影が立つ。
黒衣に身を包んだ華蓮。
昼間は医学部の才媛として講義室に座り、夕暮れには葬儀社の令嬢として遺族に寄り添っていた彼女が、今は「断絶神」としての貌を纏っている。
風に揺れる黒髪を押さえ、華蓮は自身の黒髪を一本抜くと、その髪は銀糸に変色した。
それは人の目には見えない、神経のように繊細な断絶の糸。
彼女が軽く弾くと、隣のビルの監視カメラが一斉に沈黙した。
「……神経も、回路も、同じことですわ」
呟きは雨に溶け、夜の闇に消える。
ビルの非常階段を音もなく降り、裏口の警備員に近づく。
一本の髪の毛が閃いた瞬間、男は声を上げる間もなく崩れ落ちた。
呼吸も心臓も止めてはいない。ただ、声を発する神経だけを断ち切ったのだ。
「苦しみを知る時間を与えるのも、裁きの一部」
華蓮の瞳は冷たく光り、次の標的――黒川のいる最上階へと向けられた。
豪奢なパーティー会場。
シャンデリアの光が一瞬、激しく瞬いたかと思うと、突如として全館が闇に沈んだ。
ざわめきと悲鳴が広がる中、非常灯の赤い光だけが薄暗く人々の顔を照らす。
「な、なんだ……停電か?」
黒川が苛立った声を上げた瞬間、背後から冷たい風が吹き抜けた。
その風に乗って、黒衣の影が音もなく現れる。
「誰だ……!」
取り巻きの一人が叫んだが、次の瞬間、その声は途切れた。
華蓮の指先から放たれた糸が、声帯の神経を断ち切ったのだ。
男は口を開けても声が出ず、恐怖に目を見開いたまま崩れ落ちる。
続けざまに糸が黒川の膝を射抜き、彼は崩れ落ちた。
椅子に座り、黒いヒールの先で顎を持ち上げ、冷ややかに見下ろす華蓮。
「カレンドールよ――
けれど、転生できぬ魂にこの名は不要ですわ。ふふ……」
ふっと漏れた笑い声が、会場全体を凍りつかせた。
黒川は必死に後ずさり、命乞いを繰り返した。
「ま、待て! 俺は悪くない! 会社のために……利益のために……!」
その言葉を遮るように、華蓮の糸が閃光のように宙を走る。
見えざる刃が黒川の周囲を巡り、瞬く間にその身体を縛り上げた。
糸は神経を一本ずつ断ち切り、痛覚だけを残す。
黒川は声にならない悲鳴を上げ、床に崩れ落ちる。
「人を部品と呼んだあなたには、最後に――自分が壊れる痛みを知ってもらいましてよ」
華蓮の瞳が冷たく光り、最後の糸が閃いた。
次の瞬間、黒川の存在は闇に呑まれ、痕跡すら残さなかった。
声も、姿も、記録も――都市から彼の名は完全に断ち切られた。
翌朝、ニュースは一斉に「大企業幹部・黒川、消息不明」と報じていた。
警察もマスコミも騒然とするが、証拠は何一つ残されていない。
――まるで最初から、この都市に存在しなかったかのように。
その頃、葬儀社の小さな祭壇の前で、女子高生は父の遺影に向かって手を合わせていた。
「……お父さん、仇は討たれました」
涙が頬を伝い、静かに床に落ちる。
遠くからその姿を見守る華蓮。
彼女は何も言わず、ただ一瞬だけ目を閉じると、踵を返して夜の街へと歩き出した。
黒衣の裾が風に揺れ、街の灯りを背にしながら、やがて闇に溶けていく。
――断絶神カレンドール。
その名を知る者は、誰一人として彼女を敵に回そうとはしなかった。




