一度目の死
俺ことハルフリート・ヴァフレイムには竜騎士の才能がない。ただ、幸いなことに欲しくもなかった。
俺がもし空を駆ける竜騎士になることを夢見ている少年であれば絶望もしよう。だが俺はただ平穏に、俺を想ってくれる女の子と一生を添い遂げられればそれでいい。命の危険と隣り合わせの仕事など、俺にはできる気がしない。
父上も兄上たちも、「竜騎士の義務」を全うするために命を削っている。毎日毎日剣を振り、闘気を高めるために竜神様に祈りを捧げ、世にも恐ろしい魔獣たちと戦い続けている。
悪いがそんなのはごめんだ。凶悪な魔獣に殺される恐怖にさらされ、それでもなお努力し続けられるほど俺の心は強くない。きっと途中で逃げ出したくなることだろう。
だが、この世界で竜騎士の才能を持つ者が魔獣との戦いから逃げることは許されない。魔獣に背を向け「竜騎士の誇り」を失った者は家から追放され、都市全体から白い目で見られる。
それでも魔獣との戦いからは逃げられない。竜騎士の力を持って生まれた者の責務だから、引きずられてでも前線に放り出される。誰からも褒められず認められず、魔獣から逃げたという烙印だけは一生消せないままに戦い続けなければならない。
俺にもし竜騎士の才能があったなら、魔獣から逃げ出して一生後ろ指を指されながら野垂れ死にするか、早々に魔獣に首をはねられていたことだろう。
普段民衆からの尊敬を集め、都市政府からも優遇される特権階級の果たすべき「竜騎士の義務」ということらしい。
そんな竜騎士の家系にありながら竜騎士の才能を持たない俺は、ある意味この世界で一番幸せな存在だといえる。竜騎士としての各種優遇制度を俺自身は受けられないが、家族が裕福なおかげで食べるのにも困らないし、学校にも通わせてもらっている。
竜騎士の役目は一般人を守ることであるからして、竜騎士でない俺は守る対象として家族に蔑ろにされることもない。
至れり尽くせり。きっと前世でいい行いをしたのだろう。ありがとう前世の俺。その徳、存分に使い切らせていただきます。
つまらない話はさておき、俺は今リリアちゃんとデートをしている。リリアちゃんは俺が通う学園のアイドル的存在の女の子だ。華奢な体、ふわふわカールの金髪に空色の瞳。小動物のような顔で上目遣いに見つめられると、これがもうたまらんのだ。日陰者の俺にとって幻想の世界の住人が俺の横に並んで歩いていることが、いまだに信じられない。
しかして、ここまでの流れは非常にいい。カフェで一緒に昼食をとり、買い物をしながら移動。短めの映画を見てカフェで感想を言い合った。このあたりの流れは同じ科に通う友達にアドバイスを貰った。あいつもあれで結構モテるから、デートも数をこなしているのかもしれない。色々相談に乗ってもらったし、今度、竜炉の掃除当番を代わってやろう。
そして、いま歩いているのは天枝港の3番ターミナル。この都市で一番夕暮れが美しい場所で、これから彼女に想いを告げる。
学園の芸術科の中でもひときわ輝きを放つリリアちゃんを、竜器整備科の日陰者がデートに誘うことができたのは本当に幸運と言っていい。
ある朝、いつものように俺が登校途中の彼女に見とれていたら、彼女が持っていたミニ竜騎士模型付きストラップが俺の目の前で落ちてしまったのだ。
その瞬間、俺に電撃が走った。兄上がよく言っていた。女の子と仲良くなるチャンスが来たら、すべてを捨てても逃すなと。俺はすぐにその場に犬のように這いつくばって、落ちてバラけてしまった模型のパーツを集めた。物凄い勢いで床をさらうその時の俺は、さながら餌にくいつく犬だった。
ただ一つの問題は、落ちた模型が手に持った剣先が欠けてしまっていたことだ。リリアちゃんも相当にショックだったのか、拾い集めた俺への感謝の言葉をつぶやきながら、涙目になっていた。
しかしそこは俺の腕の見せ所。普段から機械いじりをしていることがこんな場面で生きるとは人生わからんものだ。
俺は彼女に、これくらいであれば1日くれれば直せるから放課後まで待ってほしいと伝えた。俺の迫力にリリアちゃんの目には若干別の種類の涙が溜まっていた気がするが、まあそんなことはないだろう。多分、きっと。
それから俺はダッシュで部室まで走り、工具をそろえ、修復液で剣をつなぎ合わせた。だが、俺のオタク根性がそれだけでは済ませなかった。
模型はよくできているが市販品の域をでないものだ。竜騎士は庶民のアイドルであるうえに尊敬の対象だから、下手なものを作れないという事情もあるのだろう。
だが、俺からすればこだわれる部分がまだまだある。細部の陰影、表情、顔のバランス、髪の毛や服の線。元の模型のコンセプトを壊さないよう気を付けながら味付けをしていった。
俺の渾身の作戦は見事成功し、彼女は飛び上がって喜んでくれた。まあ、何を隠そう模型のモデルとは俺の3番目の兄上だったのだから、市販品よりもリアルに造形できるのは必然ともいえるだろう。
俺の目から見てもアルフレッド兄上は魅力的な人物だ。品行方正、正義の心を持っており、かつ見た目がいいうえに物腰も柔らかだ。柔軟な発想の持ち主で、部下からの信任も篤いと聞く。偉ぶらず、分け隔てなく周囲に接するその態度を見てファンにならない者はいないだろう。男女問わず人気がある。俺とは同じ血を分けた兄弟とは思えないほどかけ離れている。
ともかく、それからも俺とリリアちゃんの交流は続いた。リリアちゃんはアルフレッド兄上の大ファンらしく、俺がヴァフレイムの末弟であると知ってからは話題に事欠かなかった。家族仲は悪い方ではないから、いつも食卓で話していることを喋ればいい。
リリアちゃんは俺にとっては日常の話を、目を輝かせて聞いてくれた。他人の功績を誇ることに思うところはあったが、リリアちゃんも俺の話が面白いと言ってくれているし、きっと俺自身に興味がない、というわけではないだろう。おそらく。
今までのリリアちゃんとの時間が走馬灯のように頭を駆け巡っているあいだ、リリアちゃんは少し緊張したような面持ちをして黙っていた。いつもは彼女の方から色々と話をふってくるので、あからさまなシチュエーションに緊張しているのかもしれない。
夕方最終便の飛竜艇が夕暮れを背にゆっくりと飛来するなか、リリアちゃんは俺が言葉を紡ぐ前に口火を切った。
「お話があります!」
雲の向こう、今にも光の花弁を閉じようとしている空の朱を受けた彼女の顔は、いつにも増して美しかった。彼女のはちみつ色の髪もキラキラと輝いている。リリアちゃんは何か思い悩むように、形のいい眉を小さく寄せながら口に手をあてている。
俺は内心しまった、と思う。そんな、そういうことは男の方から言うことだ。さすがに俺にもそのくらいのプライドはある。俺の意気地がないせいで彼女に恥をかかせてしまってはいけない!緊張でこわばった口の筋肉を無理やり動かす。そんな俺が口を開いたのとリリアちゃんが言葉を紡いだのは同時だった。
「私、アルフレッド様とお付き合いしたいんです!!」
「俺とちゅきあっちくだひゃ!!……ん?」
心に口が追い付かず、化け物のような鳴き声にも似た何かを発してしまった。いや待て、その前に何か彼女から俺の予想とは違う言葉が聞こえた気がしたぞ。
リリアちゃんは俺の口から発せられた奇声を不思議に思ったのか、首をかしげてこちらを見ている。
俺は今何を聞いたのかを確認するために、もう一度確認する。
「え、えっと……ごめん、もう一回言ってくれる?」
よく考えれば奇声を上げた俺のほうが何を言ったかわからんのだから、お前がもう一回言えという話だが。
しかし最重要であった前提が崩れようとしている。そんな馬鹿な……
「え、ええと……私、アルフレッド様のことが本気で好きなんです。ですから、アルフレッド様を紹介してくれないかな、と思って。こんなことをお願いするのははしたないことだってわかっているのですけど……」
聞き違いではなかったようだ。え、リリアちゃんって俺のこと好きじゃないの?兄上に向ける感情は憧れだけで、実際に好きなのはよく話す俺のほう、とかいうことではないのか?
「それは、えっと……本気の本気で?」
未練がましく確認する。いや、もうわかってるよ正直。だって表情が完全に恋する乙女だもの。今までだってこの顔をしていたことはあった。目を逸らしている自覚も、あった。だが、それでも確認せずにはいられない。
「私、アルフレッド様に助けていただいたことがあるんです。その時にお話させていただいたことが……それだけで好きになってしまうなんて、と思いもしたんだけど……忘れられなくて……」
リリアちゃん曰く、5年前に起こった魔獣の大侵攻の際、逃げ遅れたリリアちゃん家族をアルフレッド兄上が助けてくれたらしい。家族で避難している途中、襲われたところを颯爽と現れて魔獣の攻撃を逸らし、一刀のもとに華麗に切り伏せた、とはリリアちゃんの弁だ。そこから避難所に到着するまで、リリアちゃんを抱きかかえながら懸命に声をかける姿を見て、心打たれたのだという。
はい、具体的なエピソード来ました。まだ会ったことがなくて遠めに見て憧れベースの恋心なら俺にもチャンスがあったが、これは無理だ。あの完璧超人兄上に直に会って話までしちゃってるじゃないか。
アルフレッド兄上は5年前だとちょうど俺の一つ下の年齢だ。その年であの時の大侵攻で戦果をあげているというのは流石の一言だ。そんなことがあって、家族みんなでアルフレッド兄上のファンになってしまって、5年間想いを募らせ続けていたのだろう。そんなところに憧れの人の弟が現れたのなら気持ちが抑えきれなくなったのもうなずける。
そして、今まで学園内でリリアちゃんに浮いた話が一つも、それこそ影も形もなかった理由にも得心がいった。
それから、俺はリリアちゃんにとりあえず聞いてみる、とだけ言ってその場は別れた。「そういえばハル君(俺のあだ名。最初に呼んでくれた時は飛び上がるほど嬉しかった)は何を言おうとしたんですか?」という彼女の無自覚の追撃にも何とか耐えてその場を逃げるように後にした。
「はぁ~あ」
とぼとぼとターミナル横の遊歩道を歩く。数時間前までは二人で手をつないで空を眺めながら歩くことを想像していた道だ。夜空いっぱいに輝く天花を臨みながら、あわよくばキスも……とか考えていたりした。
わかってはいたよ。俺みたいな冴えない男よりもアルフレッド兄上のほうが魅力的なのはもちろんそうだし、自分が憧れている存在とそんな奴が兄弟だとしたら、紹介してくれるかも、と思うのも自然なことだ。いつもの会話からも、彼女が俺のことなど眼中になく、兄上の話を聞きたいがために俺みたいなやつと話してくれていたのもわかってたさ。正直、現実から目を逸らしていたのは否めない。
だけど、だけどさ。俺だって一応頑張っていろいろデートプラン考えたり、自分のことちょこちょこアピールしてみたり、女の子にウケそうな話題勉強したり、リリアちゃんの相談に乗ったりとかしたのになぁ。リリアちゃんは全く俺の好意に気づいていなかったということか……悲しい。俺の好意に彼女が気づいていて、それでいて話をしてくれているのだと勘違いしていた。だから実は俺のことを好きなのかもしれない、と仄かな期待を抱いてしまっていたのだ。
はあ、この虚無感。全くの独り相撲だった。
すっかり暗くなった空を見て、俺は一筋の涙を流す。夜空に輝く星、天樹の花が俺を慰めてくれているような気がする。一人で見ようと、天花の美しさは変わらない。いっそ残酷ですらある。
俺たちが暮らすこの都市は、「天樹」と呼ばれる巨大な樹の枝の上に建てられている。
天に根差し、遥かな大地に向かって枝を伸ばす大樹は日々成長を続け、人々の生活領域を拡大させている。明確な歴史的資料が残っている時代から数えておよそ1000年間、人間はいくつもの枝の上に数百、数千の都市を築き、暮らしている。
天に根を張る天樹が無数に枝を伸ばし続ける一方で、そのどれも大地に到達した記録はない。「枝枯らし」のせいだ。またの名を「魔獣」と呼ばれる者たち。大地の奥底から出でて瘴気をまき散らして枝葉を枯らし、人間を食い殺す人類の敵だ。
天樹の歴史は魔獣との戦いの歴史である、とは物心ついて学校に通い始める子供が最初に習うことだ。大地への近さによって危険度は違うが、俺たちは常に魔獣におびえながらの生活を強いられている。
だからこそ魔獣に対抗する竜騎士たちは尊敬を集める。膂力や生命力で圧倒的に劣る人間たちが、竜神様からの加護を受けて戦う。その姿に人々は希望を見出し、己の無事が彼らの献身によって支えられているのだと胸に刻む。
そういうわけで、俺たちの精神的な階級構造のトップ層には竜騎士が存在している。制度上も様々な優遇政策が布かれているので、実質ほとんどの都市民と比較して上位に属するわけだが、基本的に一般都市民と竜騎士の間に差別意識はない。
竜騎士の絶対数は少ない。そしてその能力が発現した瞬間から、徹底的に「都市に身を捧げる」という理念を叩き込まれる。だから竜騎士が都市民に横暴な振る舞いをすることはないし、万一そのようなことがあった場合、基本的には竜騎士としての力を生涯封じられるか、人的被害を伴った場合は死罪となる。仮に死罪を免れたとしても、犯罪者の烙印を押された状態で一般の都市民として罪を償わなくてはならない。都市によって刑罰の多寡は変わるが、凡そ違いはなかろう。竜騎士が霊力を込めて指を一振りするだけで、俺たち一般市民が死に至るほどの威力が出せるのだから。
竜騎士は都市民に対して慈愛の心をもって接し、都市民も竜騎士に対して敬意を払う。そういう構造が成り立っている。
そんなわけで、一般の都市民たるリリアちゃんが竜騎士代表のようなアルフレッド兄上に心惹かれるのは至極当然なのだ。
俺は空高く輝く星、天花を眺めながら再度ため息をついた。欄干に頬杖をつき、流れる雲に視線を落とす。この遥か向こうには、穢れた大地が広がっている。落ちれば当然死に至るが、生活圏の枝の周りは風の霊術が施してあるから、下層の枝を抜ける前にどこかの枝に引っかかる。そして警邏隊の竜騎士にしこたま怒られて家に帰され、もう一回ずつ家族に怒られるのが関の山だろう。以前誤って落ちた馬鹿が同じ経験をしている。
やめだやめだ、馬鹿なことを考えるのは。リリアちゃんと上手くいかなかったからといって、命を投げ出すのは俺たちを命がけで守ってくれている竜騎士たちに申し訳がたたない。
俺が手を出すには、リリアちゃんは高すぎるところに咲いている。そう、遥か天樹の根に近い場所に咲く、あの花のように……あの花の……ん?何だあれ。あの星、やけに明るくないか?
俺の視線の先、ターミナルの向こうの夜空に、ひときわ輝きを放つ星が見える。しかしそんな星は俺の記憶にはない。レグルスもフォーマルハウトも、あんなに炎のように輝いたりはしないはずだ。
ぼーっと眺めていると、その星は少しずつ輝きを増していく。そしてそれ自体も大きくなっているような気がしてきた。いや、事実大きくなっている。よく見ると、ふらふらと動いている。
「星じゃ、ない?」
星だと思っていたものは夜空にジグザグに炎の尾を引きながら、ものすごいスピードで落ちてくる。先ほどまで豆粒のような大きさだったのに、今ではその輪郭もよく見える。飛竜艇だ。飛竜艇が火に包まれている。
艇を曳いているのは1頭の飛竜。全身が青いうろこでおおわれている風竜だ。ということは、かなり位の高い艇のはず。俺も一度だけ都市長が乗っているのを見たことがある。
その時は泰然自若としていて、空を舞う姿も落ち着き払っていた。しかし、この飛竜は錯乱しているようで、完全に制御を失っている。口からはよだれが落ち、曳いている艇をなんとか引きちぎろうと躍起になって羽を動かし、尾を振り乱している。
飛竜がもがくように勢いをつける。今までで一番の加速。ターミナルに向かって一直線に突っ込み、都市の防壁風に飛竜が激突する。風の霊術に体が押し戻されそうになるが、飛竜はそれに逆らうように体を捩る。
防壁風は魔獣の侵入を妨げるもの。必然的に下方への守りが厚く、上空からの侵入は想定していない。風の流れが緩い場所を縫うように飛竜が狂い飛ぶ。振り乱される艇が風に火の粉をまき散らし、夜空が一層騒がしく照らされる。
防壁風の内側に体をねじ込んだ飛竜は、それでも引きちぎれない艇に業を煮やしたように振り向き、風の息吹を艇に向かって吐きかける。
強烈な風圧にさらされ、炎に包まれた艇はガタガタと音を上げる。それが正真正銘最後の一息となって、ついに艇は飛竜の体から引きちぎられた。
バキ、という音とともに、艇は風を受けて一層火の勢いを強めながら自由落下を始めた。
俺の頭上だ。いまさらながら、俺は走り出した。映画を見ているような気分から現実に急激に引き戻される。相変わらずの阿保さ加減、危機感のなさだ。
熱風が頬を撫でる。遅れて生命の危機を感じた体が冷たい汗を噴出させる。しかし、すべてが遅い。せめてもと体を前に投げ出して直撃を回避しようとする。
果たして宙を舞ったのが自分の意思なのか、背後からの熱波によってなのか、もはやわからない。視界が白く染まり、爆発音が頭を突き抜けるように響く。体中を走る感覚が痛みなのか熱さなのか、それすらわからないまま吹き飛ばされる。
キーンという耳鳴りの中、一転して暗くなった視界。うっすらと目を開けると、そこは遊歩道脇の林のなかだ。体中が痛い。何とか命を拾えたのは、茂みに放り込まれたからだろう。
飛竜艇が落ちた場所を見る。赤く燃え盛りながら黒煙を吐き出している。大きさは飛竜の倍ほどはあっただろうか。自立飛行もできるタイプだったから、20人は軽く乗船できる。動力系に引火したのだろう。炎は大きく、俺がいる林の木にも燃え広がっている。今すぐにでもこの場を離れなければならない。
体を起こそうと力を入れた瞬間、激痛が走る。立てない。怪訝に思ってみてみると、右脚があらぬ方向を向いている。己の脚が潰れてしまった事実に恐怖の声が出る。しかし、実際に響いたのは、ひゅう、ひゅうというかすれた吐息だけ。息を吐くだけで、まるで針玉を吐き出しているかのような錯覚に陥る。
耳鳴りがやまない。右耳は完全に聞こえず、かすかに聞こえる左耳がかなたで警鐘が鳴っている音をとらえた。助けがくるはず、助けてくれ。死にたくない。
俺はまだやりたいことが、やらなきゃいけないことがあるんだ。脳裏に兄上の顔が浮かぶ。あんたに誇れるようなことを俺はまだ出来ていない。誰か、誰か!!!
俺の声にならない叫びに呼応するように、燃え盛る炎の中からそれは現れた。焼き尽くされた煤の塊のように見えるが、それは人間のように二本足で立っている。人間か?
今にも崩れ落ちそうに不安定な歩みで黒い塊は俺のほうに向かってくる。一歩一歩前に進むたびに黒い欠片が体から剥がれ落ちる。剥がれ落ちたその奥に赤く火傷した肌が見える。痛々しい傷跡に俺はむしろ安心をおぼえる。得体のしれない存在ではなく、目の前に立っているのが人間だとわかったからだ。剥がれ落ちた欠片は地面に落ち、少しずつ霧消していく。
目の前まで黒い人間が来る。よく見れば、体を覆っている黒いなにかは鎧のような様相を呈している。すでに半分以上が剥がれ落ち、その下から赤く爛れた肌が見えている。顔の右半面から灰色に濁った瞳が俺を射抜く。
「タスけ……くれ!」
何とか絞り出した声でそいつに助けを求める。そいつは俺と同じくらいひどい有様だが、俺と違い立って歩けている。この茂みの中に人が倒れていることくらいは知らせてくれるかもしれない。只者ではないことは確かだが、ほかに頼れる人間がいない今、すがるしかない。
一縷の望みにかけて呼びかけるが、俺の声が聞こえているのか、その瞳からはうかがい知れない。
「……とか……」
そいつは俺を見て、微かに笑ったような気がした。心から安堵したかのように、そいつは深く息を吐いた。同時に、そいつが纏っていた黒い鎧がすべて霧のように形を崩す。そして体の周りを大きく渦を巻く。黒い竜巻の中からそいつが再び現れると、その手には一本の黒い剣が握られている。
真っ黒な刀身は明かりをすべて飲み込むような暗い色をしている。剣を逆手に持ち変え、男は這いつくばる俺の背中に切っ先を向ける。
「やめろ……」
俺は再び恐怖に包まれる。なぜだ。俺なんか殺してどうなる。なぜこんな仕打ちを受けなければいけない。クソッたれ、ふざけるなと、突拍子もなく現れた死神の理不尽さに心の中で悪態をつく。
俺はかろうじて無事な両手で這うように男から遠ざかろうとする。しかし、体の方向を変えることすらままならない。背後から迫る凶刃の気配が背中をなぞる。黒い死神は、ゆっくりと俺の心臓に背中側から狙いを定めたらしい。
「ヤ、めろ!や……!!」
最後の言葉は、声にならない。冷たい感覚が俺の背中を貫く。刃が深く、おそらくは心臓に到達する。
瞬間、強烈な衝撃が体全体に広がる。心臓が破裂したのかと思ったが、それにしてはドクドクという鼓動はむしろ大きくなっているように感じる。視界がチカチカと明滅する。あまりの衝撃の強さに意識が遠のくなか、俺は背中越しに俺を殺した死神を見る。
そいつが満足げに笑っているのが見える。肩の荷が下りたような顔だ。手に持った剣はいつの間にか消え失せている。
「やっと終われる」
濁った瞳に喜色をたたえながらそいつは言う。
体の内側が熱い。心臓から広がった衝撃が体の中をつたい、内側から体を作り変えているかのように、意思をもってうごめいている。
ボコボコと血が沸騰しているようだ。視界が赤く染まる。全身の傷口から血が噴き出す。そしてそのあとから黒い粘性の液体がにじみ出る。それは生き物のようにうねり、血を追い出すように傷口から顔を出すと、再び体のなかに戻っていく。
俺の体中すべての傷口が内側から切り裂かれ、今まで以上に血が噴き出す。2度、3度。
「――――――!!」
獣のように咆哮する。火傷で焼かれた喉を切り裂くように空気が振動する。自分の血で溺れそうになるが、それすらも、俺の中に入った「何か」が掻き出していく。俺は今俺としての形を保てているのか?何か別の化け物になり果てているのか。
痛い、痛い、痛い。
己の頭の中が赤と白と黒が巡り、頭の中までもかき回されているかのうようだ。
やめてくれ。俺の中に入ってくるな。
俺の願いとは裏腹に、俺の中をうごめく「それ」は容赦なく俺の中の血と肉を食い破っていく。
あたりが俺の血の海になったころ、やっと地獄は終わりを告げる。傷口から顔を出していた黒い粘液は顔を見せなくなり、体中をはい回る感覚もやんだ。そして、痛みで引き戻された意識が遠のいて、視界はどんどんと狭まっていく。
俺は何かを考えることもできず、ただただすぐそこまで来ている死の足音に耳を傾けることしかできない。
言葉を発するどころか、何かを考えることすら億劫で、俺は意識を保とうとするのをやめる。
(兄上、ごめんなさい。俺はあなたと語った夢をかなえることができませんでした)
兄上は許してくれるだろうか。不出来で、何もかも中途半端で、意地も勇気もなかったこんな俺を。
黒く塗りつぶされる視界の中、
「次はお前の番だ」
黒い剣を俺に刺した死神がいう。満足げに笑みをたたえたそいつは、ボロボロの体で膝をつく。
なんのことだ、そう言おうとして細かく息を吐く。むなしく空に消えた俺の最後の息の向こう、死神が灰のように崩れ去り、跡形もなく消え去るのが見えた。