4.欠乏
生徒会選挙まで後七日。
エヴァンは『回』の字型の校舎を角から反対の角に移動していた。エヴァンの兵士科2年1組からアンナのギルド職員科1年の教室へ向かっているのだ。
本来ならば理由がなければ相容れることのない位置にある両科だが、エヴァンは選挙のための軽い挨拶をしに各教室に顔を出すつもりだ。
……という建前でアンナの顔を見に行こうとしているだけだ。
何せ、エヴァンがアンナに一目惚れしてから2週間ほど経つが、あれから一度もアンナの姿を視界に収めることができていない。それは、初恋の男子には大変ひもじく、今のエヴァンは絶賛『アンナ欠乏症』に陥っている。ふざけているように思われるかもしれないが、彼は至って大真面目である。
そんな調子のエヴァンがもうすぐギルド職員科1年の教室に着く時、廊下にいた一人の女子生徒がエヴァンの姿を見て満面の笑みを浮かべる。それは、エヴァンのことを狙う他の女子生徒が見せる媚びや敬意の混じったものとは異なる、親しみの籠った笑みだった。
「イヴくーん!こっちに来るなんて珍しいわね!あたしに会いに来たの?」
『イヴ君』という愛称を呼ばれ、エヴァンはその声の方に目を向ける。その女子生徒はクリーム色の髪をふわふわと揺らしながら、エヴァンの方へ駆け寄ってくる。エヴァンの横に並ぶと、彼女の小柄な体格がより一層際立ち、エヴァンが金髪で髪色が若干近いことで、5歳は歳が離れている妹にしか見えない。
「フィリか。久しぶりだな」
「もぉ、ほんとにそうだよぉ!あたしたちの仲なんだから、もっといっぱい会いに来てよぉ!」
フィリと呼ばれた彼女の本名は『フィリ・セアダズル』。現ギルド総帥『ロウリー・セアダズル』の孫娘であり、本人はギルド職員科1年に所属している。妹ではなく歳も一つしか違わない、エヴァンの幼馴染だ。
エヴァンは幼い頃から冒険者である両親に連れられて王都のギルド本部に顔を出していた。ギルド本部には他にも子連れの冒険者が訪れていて、その子たちと遊びながら冒険から帰る両親を待つことが多々あったのだが、総帥の孫であるフィリもその輪の中に居たのだ。
エヴァンの両親がこの世を去ってからはギルド本部へ行くことはなくなりフィリにも会わなくなったが、前の春にフィリが職業学校に入学したことで再会することになった。
それは正しく運命の再開、二人は一度縁を絶たれてもまた巡り合う赤い糸で結ばれた間柄。……などと考えているのはフィリの方だけだった。
フィリは幼いの頃からイケメンだったエヴァンに特別な想いを抱いていたが、エヴァンからすればフィリは幼いの頃一緒に遊んだ数人の子供の中の一人でしかない。
いや、それで済めばまだマシだった。
フィリと再会したエヴァンは、フィリにどうしようもない欠点を見出している。それは、フィリがアホ過ぎる点だ。幼い頃からフィリの頭の弱さには気付いていたものの、それは10歳に満たない子供であるのを考慮すれば特に気にする点でもなかった。昔よく遊んだ『ギルド職員ごっこ』で、フィリがことごとく他の子達の名前を書き間違えていても、笑って済ませることができた。
しかし……、それが15歳になってもロクに改善されていないと知った時、エヴァンは流石に引いた。余りの無知性さに、お花畑な脳みそに、エヴァンはフィリと会話を成立させることさえ難しいと悟った。
それ以来、エヴァンはフィリを避けてきた。顔を合わせれば懐いた猫のように擦り寄ってくるフィリを避けるのに今の教室配置は都合が良かったが、今はアンナの姿を見にギルド職員科へ近づく必要がある以上、フィリを避けるのが難しくなっている。
しかし、エヴァンもそこまでフィリを邪険にする必要はないと思い至る。フィリがアンナと同じクラスなのだから、教室でのアンナの様子をフィリから聞くことも出来るはずだ。
「フィリ、アンナ・ガーネットという女子生徒は知っているか?」
「アンナ?あぁ、あのおばかさんのことね!」
「おばかさん?」
エヴァンは耳を疑った。ジルや他の生徒から聞いた話では、アンナはとても賢い女子だと評判だったのだから。兄バカのジルだけならまだしも、不特定多数の人から間違った評価をされるのは考えにくい。
「そうよ。イヴ君目当てで生徒会になんて入ろうとして、そんなのおばかさんでしかないでしょ」
「!?ぼ、僕目当てで生徒会に!?本当か!?」
それまでの思考が全て吹き飛ぶようなフィリの言葉に、エヴァンは食い気味にフィリに迫る。そんなエヴァンにフィリは怪訝そうにジト目を返した。
「え?だって女子が生徒会に入ろうとする理由なんてそれしかないし。ていうか、なんであのおばかさんのことをそんなに気にするの?まさか、気があるなんてことはないわよね?」
フィリからの探り入れに、エヴァンは冷静さを欠いていたのに気付く。フィリにすら感付かれそうになるほど、自分はアンナのことになるとまともでは居られなくなる、と。
落ち着いて考えれば、フィリが客観的に物事を考えられるはずがない。適当に考え、根拠も無しに口を開く、それがフィリだ。今も、生徒会に入る理由がエヴァン目当てしかないという恋愛脳甚だしい思考のみで話をしている。
フィリの話は9割聞き流すべきと決め、エヴァンは興奮した気持ちを溜息と共に放出する。
「いや、彼女の兄に、生徒会に入ったらよろしく、と頼まれただけだ。他意は無い」
「ふーん、そういうことかぁ。でも、あんまり優しくして勘違いさせちゃダメよぉ?既にイヴ君の溢れ出る優しさオーラに、ワンチャンあるかも!?なんて思ってるばかな子たちがいっぱいいるんだから」
完全に正妻気取りで忠告するフィリ。しかし、エヴァンの方はフィリにそんな気があるとは気付いていない。いかに学業の成績が優秀でも、恋愛については歴一か月未満の初心者なのだから仕方ないと言えば仕方ない。
フィリとの会話を早めに打ち切り、お目当ての教室へと足を踏み入れた。
瞬間、ざわつく教室内。2年の教室よりはマシではあるものの、エヴァンの評判は1年のクラスにまで轟いている。
「え!?あれってエヴァン様!?」
「どうしてこんな端の教室なんかに?」
女子生徒たちは戸惑いながらも学園の王子の突然の訪問に頬を赤らめる。ギルド職員科は女子生徒の割合が多く、その興奮具合で教室内の気温が一気に上昇するほどだ。
そんな色めきにも既に慣れたエヴァンは動じない。教壇の中央に向かいながら教室を見回す。
見つけた、窓際で光を浴びて美しく輝く赤い宝石の髪。ざわめきに釣られてエヴァンに向いている青い瞳。しかしそこには他の女子生徒のような浮ついた感情は見当たらず、目の前の枝に留まったトンボでも見るかのようだ。
対するエヴァンはその姿を見ただけで頬が緩みそうになり、悟られないよう舌を噛んで何とかポーカーフェイスを保っているというのに。
3秒ほどの時間を集中力でもって引き延ばし、スッとアンナから視線を外す。できることならずっと目を合わせていたいが、周りに気持ちを悟られないようにするには3秒が限界だった。それでも、アンナを求めていたエヴァンの目的は達成されたと言える。
エヴァンは満たされた心のままに教卓の側に来て、今度は一人一人に目を合わせつつ、建前の方を終わらせに掛かる。
「すまない。急に来てしまい、驚かせたようだな。僕は兵士科2年のエヴァン・ザッカリアだ。次の生徒会選挙で生徒会長に立候補しているから、良ければ信任に投票して欲しい。もちろん、気に入らなければ不信任でも構わないから、よく考えてくれ」
そう言い残し軽く頭を下げると、エヴァンは速やかに教室を後にした。背後から「もちろん信任です~!」「目合っちゃった、最推し確定ぃー!」などと黄色い歓声が上がったが、それを気にするエヴァンではない。
今のエヴァンの心にあるのは、前よりも近くで見れたアンナの姿だけなのだ。