8.誰かをいたぶらないと死んじゃう病、で死ぬ奴
母方の祖父母と伯父一家は、二世帯住宅を建てて同居していた。
さっきも言ったけど、伯父は母より早く、別の女性と結婚した。そして、わたしより3つ上と2つ下の息子2人がいる。
そして、そのどちらもが父親――伯父の元から消え去った。
地獄を残して。
長男は良いわ。
父親に反抗したのは、高校も終わりに近づいた頃で、云わば自活への道へ飛び込める頃合いだったから。そりゃあ家を出た後の苦労は並大抵じゃなかったろうけど、それをなんとかするだけの力は付けていたわけで、事実、無事に大学卒業して希望の仕事に就職できたし。
だけど、次男はそうはいかなかったの。
兄が父に逆らって家を出た時、彼はまだ中学生だった。親に逆らうことはできても、その庇護の下から出ることは難しい年齢よ。
そして今、彼は18歳。
本来なら高校最後の学年で、大学受験に没頭しながらも、青春真っ盛りの時期を過ごしているはず――なんだけど。
「下の息子、わたしの従弟は、結局高校には行かなかった――いえ、行けなかったのよ」
浩和さんが息を呑んだ。
「そんな家庭で高校進学が無理だった?じゃあ、彼はどうしているんだ?」
「それがねぇ…わたしも伯母から少ししか教えてもらってないんだけど」
今は大分快方に向かっているとは聞いたわ。
「その…家を出されて、今は親戚に預けられているそうよ。少しずつだけど心身ともに回復して、今は大検を目指しているんですって」
「回復?なんだそれは、病気でもしていたのか。だから高校進学をあきらめたのか」
「いや、まぁ病気も…してたんだけどね」
それだけと言っていいわけじゃない。
「従弟は、伯父に――父親に責め殺されかけたのよ。あれは立派な虐待だって、伯母は憤ってたわ」
長男を切り捨てた後、父親は次男を溺愛した。
もっともそう思ってたのは父親本人だけで、事実を知ってる人間は皆、彼が息子にしていたのはただの暴力だと知っている。
初めて話を聞いた時、実の息子によくそんな酷いことができるものだと、怖気をふるったわ。
「元々下の息子は、勉強よりスポーツ好きな男の子だったんですって。だのに、長男が家を出て以来、残った次男に滅茶苦茶な詰込み勉強をさせて、ロクに外にも出さなくなったんだとか」
「動きたい盛りの中学生にか?部活もゲームも、1番楽しい時期だろう」
「サッカーだか野球だか、なんかすごく有名な少年チームで活躍してたのに、無理やりやめさせて厳しいと評判の塾に家庭教師までつけて、ほとんど自由な時間なんてなくなった状態らしかったって。そりゃあ、本人壊れちゃっても無理ないわ」
「!どうなったんだ?」
本当に可哀想な話なのよ。
「順調に成績を上げてたんだけど、無理を重ねたせいか躰に不調が出たところに定期テストがあって、成績がかなり落ちちゃったらしいの。で、伯父が激怒して、以降ほとんど監禁状態で勉強させたり説教したり…ある時とうとう学校で倒れて緊急搬送。診断結果は、肺炎と栄養失調。その少し前に罹った風邪をロクに治療もせず、それどころか睡眠もまともに取れないような生活をさせた上、その頃にはもう食事もできなくなってたらしいから。あと、ストレス性疾患による鬱病も告知されたみたい」
「酷いな。しかし、なんでまた摂食障害まで?」
「食事するたびに、父親がガミガミ説教するんですって。一緒に食べていようが、1人でだろうが、彼がなにかを口にするのを見るたびに、お前がものを食べられるのは自分のおかげだ感謝しろとか、勉強できない者は食う資格がないとか」
ほとんど家に閉じ込められているような生活で、しかもGPS付の携帯だかなんだかを持たされて居所を常にチェックされてた上、1日にランダムに連絡を入れて、すぐに応答しなかったり外出してるのがバレたりすると、帰宅後ものすごい勢いで怒鳴られ、伯父の機嫌が悪い時には殴られもしたらしい。
完全にDVだわ。
「果てには、兄はロクデナシだ母親は役立たずだ、お前も今のままならそうなるに決まっている。嫌なら自分の言うことを聞いて頑張るしかないんだ。とまぁ、追いつめるだけ追いつめて、なんの非もない息子に当たり散らしてたみたいで」
さらにはモラハラ・パワハラときた。
その時分、伯父は大変なことが起きてたから、かなり鬱憤がたまってたはず。そのせいもあって、自分以外の誰かをいたぶらないと生きていけない病気にでも罹ってたんじゃないかしらね。
「それは、もうまともとは言えないだろう」
「ええ、さすがに学校からも物言いがついて、ドクターストップもかかったわ。あちらの祖父母も危機感をもって、初めて伯父の教育方針に口出ししたけど、伯父は反省どころか、自分の両親にまで怒りを向けたらしいから」
そこでようやく祖父母は、自分たちの自慢の息子が、実はモンスターであると理解したようだ。
「結局次男は、母親の両親が紹介してくれた治療施設に預けられたの。伯父は世間体が悪いとか言って最後まで抵抗してたらしいけど、医者から診断書を見せつけられ、これ以上無理を強いるなら虐待で通報すると言われて、あきらめたんですって」
1年ほど前に、ようやくそこから退院できたらしい。今は母方の実家で生活している。
まぁ、等々力の家に戻すわけにはいかないわね。今は特に。
「…呆れた話だな。しかし、母親は一体なにをしてたんだ?息子たちがそんな仕打ちをされているなら、なにか言いそうなものなのに」
だから、それは。
「逆らえない人だったのよ。まぁ、もうやめて下さいくらいは言ってたみたいだけど、伯父にとって、妻はただの便利道具くらいの意識でしかなくて、いつも怒鳴りつけて黙らせてたみたい。おまけに機嫌が悪い時には手も出してたから、尚更ね」
「許せんな」
ええ、絶対に許せるもんじゃないわ。
家庭では妻子をそこまで追いつめていながら、外では好き勝手しているような外道だもの。
だから、わたしは容赦しない。
「でもね、最終的にとどめを刺したのは、ずっと見下されてた義伯母だったわ。伯父は絶対に認めようとはしないけど、もう彼の前に出世はないし、今の地位だって居心地の良い家だって、そう遠くない内になくなるはずよ」
なんでも伯父の奥さんというのは、あまり我の強くない、大人しやかな性格なんだとか
『こう言っちゃなんだけど、あの弟に付き合うのは、ああいう従順な女の方が良いんじゃないかと思ってたわ』
とは、あの家の現状を説明してくれた伯母の言。
伯父は母にした仕打ちを見ても分かるように、とにかく自己肯定感が強くて、自分に従順な人に対しては鷹揚だけど、そうでない存在には滅茶苦茶当たりが強いらしい。
だから下手に勝気な女性と一緒になってたら、円満な家庭なんて築けやしなかっただろうって。
だけど時を経てみれば、それはまったく違ってた。
もし義伯母が夫を押さえておける気概の女性だったら、今の危機的状況にはならなかったでしょうね。
夫に口答えすらできない義伯母は、伯父が平気で女遊びをするのも止めなかった。
だから伯父は、もうやりたい放題。
休日は家でふんぞり返り、平日は仕事をサッサと部下に押し付け――いや、片づけて、キャバ嬢やら愛人やらとよろしくやってたっていうんだから。
でもって、夜遅く酔っぱらって帰ると、更に妻や次男に対して当たりまくらずにはいられないという悪循環。
中学生の息子に、どんなに遅くなっても起きて待ってろなんて無茶を言うんだから、そりゃあ毒親以外の何物でもない。
「伯父はね、平気でキャバクラとかに出入りしてたらしいわ」
「なるほど、ああいう女性たちは人を持ち上げるプロだからな、それは居心地が良かったろう」
店ではさぞ太い客だっただろうな、と浩和さんはつぶやく。
「で、店の嬢を囲って、生活費の使い込みでもしたのか?」
「いえ、それが…」
縁切りしているとはいえ、血縁のある人のバカさ加減を告げなきゃならないと思うと…どうも口が重くなるというか。
逡巡してたら、お祖父ちゃんが説明を引き継いでくれた。
「その手の店でもつまみ食いはしていたらしいがな、それはある意味誤魔化しで、本命の浮気相手は(なんじゃそら?)別におったんじゃよ」
「別?」
「ああ、それもキャバクラ嬢など問題にならんほど不味い相手がな」
ため息交じりに告げるお祖父ちゃん。気持ちはわかる、物凄く。
「相手は、会社の中におった」
「それは!上司が部下を愛人になど、とんでもない醜聞じゃないですか」
「違う」「違うわ」
わたしとお祖父ちゃんの声が重なった。
醜聞?そんな甘いモンじゃないわ。
「違う?会社の若い女性従業員に手を出したとかじゃないんですか?」
まぁ社内で不倫、なんて言われりゃそう考えるのが普通か。
「若くて華やかな女は、それこそキャバクラで見繕っていたようだな。あの男が裏で付き合っていたのは、40近いベテラン秘書だそうだ」
「は?秘書?」
「そうだ。君なら分かるだろう、社長や常務・専務といった役員付の秘書が、どれほどの社外秘や部外秘に通じているか。付き合いによっては私事も筒抜けだ」
「…まさか」
「そのまさかだ。相手は社長の秘書で、秘書室ではリーダー格の女性だった。社長がまだ役員として中堅どころの地位にいた頃から、大小様々なサポートをしていたとかで、信頼熱い関係だったらしいな」
そんな人を懐に入れていれば、そりゃあ出世の役に立ったでしょうね。
チラッと聞いたんだけど、かなり美魔女なバリキャリアラフォー女性だったとか。
「信じられません。社長の筆頭秘書といえば、スケジュールの管理から人事関係への根回しまで、ありとあらゆる会社上層部の動きを把握している存在だ。そんな人間が不倫の挙句、私情で秘匿情報を漏らすなんて、立派な背信――いや、内容や状況によっては、犯罪行為にもなり得る」
浩和さんのこめかみが引きつってる。
まぁ彼にしてみれば、自分や身内にそんなことが起きたら恐ろしいことになるって、実感として分かるんでしょうね。
「しかし事実だ。言い訳しようもないほどの証拠を突き付けられて、事はあっという間に公になった。そして訴訟騒ぎだ、家庭が壊れるのも当然だな」
「訴訟?弱気な奥さんがとうとうキレたんですか」
そうだったらまだマシだったんでしょうけど。
「まぁ結局はそうなったが、最初に訴訟を起こしたのは別人だ」
「というと?」
「不倫相手の――秘書の夫が妻の浮気相手を訴えたんだ」
「!」
そう、つまり伯父はいわゆるW不倫ってやつをやらかしていた。
まぁ、本来のW不倫は、夫と妻がどちらも浮気っていうパターンらしいから、微妙なんだけど。
「不倫相手の夫というのは、写真家だかなんだかの仕事をしておって、経済的には妻の収入が主だったらしいな。仕事柄時間が不定期だったせいか、妻の素行に気づくのが遅かった。だが、きっかけさえあれば…」
あとはもう言わずもがな。
かの愛人は、今やどうなっているのか聞くのが怖い。仕事も結婚も、ぜぇんぶパァになったそうだから。
それが、ちょうど2年くらい前、従弟が体調を崩して成績を下げた頃のことらしい。
息子を必要以上に責め苛んだのは、愛情なんかじゃなく、ただの鬱憤晴らし。
私の母にした仕打ちといい、子供たちへの態度といい。
伯父はもっとも大切にしなければならない人間を蔑ろにして、自滅の道へ転がり堕ちたのだ。
自分自身は散々蔑ろにされ、息子たちも理不尽に遠ざけられた。
妻にはロクに着飾る機会も与えないくせに、外では派手ななりをした若い女にカネを落とす。
主婦なら夫の世話と家を快適に保つことだけを考えていろと言って、外出すら厭な顔をするクセに、自分はキャリアウーマンな他所の奥さんとよろしくやって、ルール違反な出世。
義伯母がキレたのも無理ないわ。
アレよ。普段穏やかな人が、一旦腹を据えて怒り顕わに攻撃に転じると、歯止めが効かないってやつ。
伯父は妻を見くびっていた。なにもできないバカな女で、自分がいなければ生きて行くことすら覚束ないと。
そんなこと、あるわけないのに。
「義伯母がまず最初にやったのは、家出による家事の放棄よ」
「当然だな」
浩和さんは大きく頷く。
「それから夫に離婚通達、その愛人に不貞訴訟」
妻の反乱としては、よくあること。だけどこの後からがすさまじかったのよ、本当に。
「おい、相手の夫からも訴えられてたんだろう?」
「さらに、慰謝料請求――までは、まぁよくある話なんだけど」
まさか、ねぇ。
「例の筆頭秘書との浮気、会社の秘事漏洩や裏での談合、邪魔な人を追い落とすための悪事。家に隠してあったそういう全部の証拠を持ち出してね」
「…は?」
「一生出すつもりのなかった切り札を豪快に出して、夫の社会的信用を木っ端微塵にしたわ。会社での立場なんて、もうあって無きがごとしよ」
馘首にはならないらしい。
なんだかんだ言って会社の重要ポストで、更には愛人から情報を得ていた伯父は、会社の裏事情に通じている。要するに、会社上層部さんたちの弱みも色々握っているみたいだから、下手に外へ出したら却って不味いことになるって話だ。
一体、あの人は裏でなにをしてたんだか。
「切り札というのは、証拠か」
いや、それが違うのよ。
「そうじゃないわ、義伯母が夫に最後まで隠していた事実よ。なんでも本当はお墓に入るまで公言するつもりはなかったんですって」
「は?」
「義伯母はね、実はある企業の前社長――現会長の、義理の娘なの」
「な、なんだそれは?!」
まったくだわ。
「貴方なら知ってるでしょう、その会社って言うのは――」
わたしが口にした社名を聞いて、浩和さんの目が見開かれた。
「あの大企業の、会長?確か経団連の重鎮じゃないか。もう80過ぎだが、未だ矍鑠として、自社どころか経済界を抑えている、あの人だろう」
そうなのよ。義伯母はすごい大物と縁がある人だったの。
「義理の娘とは年回りからして、昔の愛人の子とか?」
「違うわ、血のつながりはないの。会長さんが再婚してるのは知ってるかしら?義伯母は、その後妻さんが昔産んだ娘なんですって」
「それは…」
「会長さんがまだ現役社長だった還暦頃に、今の奥さんと再婚したそうなんだけど、後妻になった女もまた2度目の結婚で、前の結婚ではまだ幼かった娘を置いて離婚していたんですって」
母親が娘と離れなくちゃいけなかったなんて、きっと余程の事情があったんでしょうね。
その辺り、会長さん(当時社長)は全て承知の上で結婚したそうで、妻が娘と会えるよう取り計らってくれた。
ただ、その時既に娘は伯父に嫁いでいて、上の息子も生まれていた。
伯父の性格からして、妻が財界の大物と縁があると公表すれば、望まぬ騒ぎを起こす可能性は高い。なので、実母との関係は極力隠す方針を決めたのだそうだ。
それに。
「義伯母は、事情はどうあれ育ててくれたのは父親と義理の母だし、自分もすでに家庭を持っているから、もう深い付き合いはしなくていいって言ったそうよ」
でも、母親が名乗り出てくれたのは嬉しい。できれば誰にも知られないように連絡を取り合いたい。
そう希望すると、実母は快く承知してくれたそうだ。
その後。
夫にも子供たちにも――それどころか実家の父母にも知らせず、義伯母と会長夫妻の交流は、信頼できる人を介して細く長く続いていたんですって。さすがは大物だけあって、そういう人材は確かで、義伯母が腹をくくるまで身内の誰も気づかなかったっていうんだから、大したものよ。
でもそっちの縁をもっと早くに頼っていれば、ここまで酷いことには――と思っちゃうのは、他人事だからなのかなぁ。
義伯母は夫にマウントを取られた生活を強いられていたにもかかわらず、自分の境遇を愚痴ったりは全然しなかったそうだから、無理もない。
けれども。
とうとう夫に愛想をつかした彼女は、敢えてその縁を頼る決心をした。
「義伯母の実家はそこそこ大きくて評判の良い商店なんだけど、伯父が圧力をかけて商売の邪魔をしかねないから、大物の夫を持つ実母にすがったの。彼女としては、離婚と慰謝料、あと次男の親権がすんなり認められれば、くらいの気持ちだったみたいなんだけど、彼女が持ち出した証拠の内容が内容だけに、会長さんが見た途端もの凄いことになっちゃったらしくて。下手したら伯父はもちろん、社内外でお偉いさん大勢の手が後ろに回るんですって」
もう伯父は、会社ごと潰れりゃいいと思う。