1.背中合わせで同時に叫んだ2人
声が上がったのはほぼ同時だった。
「だからっ、わたしにも事情があるのよ!」
「訳も知らずに勝手なことを言うんじゃない」
背中合わせで立ち上がった男女2人は、思わず振り返って互いを見据えることになる。
ディナータイムのレストラン。
席は瀟洒な衝立で仕切られていたが、高さはそれほどでないので、立ち上がれば上半身は丸見えだ。
それぞれの対面には、これまた男女。今しがたの台詞は、同席している相手に投げかけられた言の葉らしい。
ワインを持ったソムリエが、注ぐ直前の姿勢で固まっている。
――しまった、ヤバい。
2人が同時に思ったかは、定かではない。
「で、そのまま食事もしないで店を飛び出してきたと」
「そうなの」
「前でくっだらないことをほざいた男も、後ろで同じようなことを叫んだ男もほっぽって?」
ちょっと待て。
「前はともかく、後ろは気にするとこじゃ…」
そうよアレはたまたま間近で似たようなやり取りをしていただけなのよ。
「よりによって、その場で鉢合わせたんでしょう。そういうのも縁って奴かもよ」
確実に面白がっている友人を見るにつけ、怒るより先に大声で叫んでのたうち回りたい衝動に駆られる。
「そういうのもこういうのも無いわよ。――もう、今回のことでつくづく思い知ったわ。身勝手な親戚なんて、害にしかならないって」
「だから言ったじゃない」
「別に何とかなると思ってたわけじゃないわ。ただ、あっちの言い分も聞くべきかなって」
甘かったとは思う。義理でも会いになんて行くんじゃなかった。
「でもさぁ」
新しいスナック菓子の封を切りながら、事情を知る友人はしみじみと語る。
「肝心の事情とやらを説明してもいないんでしょう。だったらあっちだってあきらめきれないんじゃない」
うっ…それはそうなんだけど。
「大体ね、それでなくとも面倒くさい状況にずっぽり嵌まってるくせに、さらに増やしてどーすんの。そっちの方ではオマケだけど」
ぐいぐいーっとビールを呷る友人は、実にシビアな現実を指摘する。
「もしもあんたが曾祖父さんの遺言とやらを遂行するって決めたら、今度こそあんた自身が当事者よ。それがバレたら、更にややっこしいことになるじゃない」
「…それは、そうかもしれないけど。実際に財産と地位を約束されてるのは、わたしじゃないのよ」
そうだ。たとえ決定権がわたしにあるとしても、相続権はない。
「いやいや、傍から見ればまさにあんた自身がお宝の鍵じゃん。それに、曾お祖父さんの遺産じゃなくても、祖父様方から譲られるモノだけでも凄いことになってるし」
「…そりゃ。でも、簡単に使えるものじゃないし」
ここしばらくの激動で、なにがなんだかわからないまま流されてしまったけど、よくよく考えてみれば、結局わたしがもらえるものなんて、大して欲しいものじゃない。
「あのねぇ、わかってるの?」
ビール片手に、現実を突き付けてくる友人は、まったく容赦がない。
「資産ウン百億超えの巨大企業、そのトップが誰になるのか。経済界が大注目してる事案の決定権が、外ならぬあんたにあるのよ。ちったぁ、覚悟を決めろっての」
どうしてこうなった。
そんな台詞が何度も何度も行きかっている。
わたしはしがない一般市民だ。
小さな町の一戸建てに住み、地元の高校を卒業して県庁所在地にある大学に通う、どこにでもいる女子大生20歳。
数年前から父親は長期の海外勤務で、母親はそれに同行している。
わたしは祖父母に預けられて、先日無事成人した。
祖父は法律関係の事務所を抱えていて、経済的には何不自由ない生活を送らせてもらっている。
大学は祖父の助けになるため、そっち方面の学部を選択し、在学中に取れる資格をいくつか取ろうと頑張っていた。
なのに。
「桜様、昨日はどちらにおいででしたか?」
「…母方の、親族に呼び出されました。その後、友人の部屋で泊めてもらったんです」
20歳過ぎた女、それも他人の娘に、なんでこんな…。あんたは中学の生活指導かっての。
「そうですか。ですが申し上げたではないですか、外出されるなら一言申しつけ下さいと。外泊となればなおさらです」
「…」
「ご自分のお立場を自覚なさってください。どのような危険があるかわからないのですよ」
「…、…」
眼鏡をきりりと持ち上げて説教―いや忠告をかますこの男性は、この家に長く務める執事さんだ。
そして、この度の大騒ぎの渦中にいる1人でもある。
「この後、浩一郎様のご一家がお会いしたいと申し入れがありました。宗次様と奥様からのご招待もありましたが、どちらを先になさいますか?」
どっちも嫌よ。
「三千夫様からも、お約束を取りたいと―」
「全部、断って下さい」
もういい加減、つき合うのが嫌になって来た。
「1度実家に戻ります。明後日まで叔父様方一家とはお目にかかりません」
そうだ、もういちいち欲ボケどもに付き合うのはやめよう。
「桜様?!」
「木下さん、わたしはこれ以上生活を引っ掻き回されるのはご免よ」
「――それは」
「それでもあの人たちをないがしろにできないって言うなら、伝えておいて」
幼少時から何十年もこの家に仕えている彼に、酷なことは言いたくないけど仕方ない。
「わたしはお金目当ての結婚なんてしません。ついでに言うなら、誰と結婚しようとも、自分の持ち分を譲る気はありませんから。わかってくれないなら、こっちにも考えがあるわ」
真っ直ぐ目を見て言ってやると、いつもきっちりした姿勢を崩さない木下執事が、ぐっと眉間にしわを寄せた。
「じゃあ、行ってきます。あ、行き先がもう1つあったわ。先にそっちに行くから、実家に連絡を入れたいなら、早めにした方がいいわよ」
「…それは、どちらで?」
「公的機関よ。個人的な用事だから、代理人は立てないわ」
あとはもう何も言わずに玄関をくぐる。
拉致?誘拐?やれるもんならやってみろってのよ。
これ以上、金持ちの身勝手につき合ってたまるもんですか。
事の起こりはお祖父ちゃんがわたしに向けた頼み事だった。
「桜、弟と連絡を取ろうと思う。突然で悪いが、使いに立ってくれんか」
「え?弟?」
初めて聞いた言葉に、お茶碗を持ったまま呆然としてしまった。
「ああ、もう50年も会っていないがな。わしの、双子の弟だ」
そんな人がいるなんて知らなかった。
一緒にいたお祖母ちゃんも同様。だけど、さすがに知ってはいたみたい。すぐに『本気なの、今になって!?』と叫んでた。
母の方は知っていたけど、1人息子だった父の親戚なんて、生まれてこの方聞いたこともなかったから。
「今の内に、会ってきちんと始末をつけておきたいんだよ」
いろんな意味があったんだと思う。だけど、結局は会いたかっただけなんだろう。
わたしにはわかる。ただ、それだけだったんだと。
だけど。
それがどんな大騒ぎを引き起こすかなんて、わかる訳がなかった。
まさかお祖父ちゃんの実家が、日本でも有数の大企業を経営する一家だなんて知らなかったんだもの。
始まりは江戸時代だという会社は、我が大学の先輩たちもこぞってエントリーシートを提出している優良企業だ。
そしてなんとこの会社、今現代でも同族経営。
代々社主となってその会社を動かしているのが、祖父の実家。華藤家。
実はわたしも華藤姓を名乗っている。
当然よね。家を出たとはいえ、祖父は名字まで捨てたわけじゃない。父もわたしもずっと華藤だ。
華藤桜。やたら花々しいこの名前が、わたしの本名なんである。
お祖父ちゃんの実家について初めて知ったわたしは仰天したけど、だからって尻込みするわけにはいかない。
流石に正面から訪ねて行っても相手にされないだろうと、親しくしている弁護士さん経由でアポイントを取った。本当、親戚付き合いとは思えないウザさ。
申し込んでから実に1ヵ月近くかかったけど、兎にも角にも約束を取り付けることが出来た。
戸籍謄本とスマホに録画したお祖父ちゃんのメッセージを携えてわたしは華藤本家へ乗り込み、お祖父ちゃんそっくりな大叔父さんに面会が叶った。
てっきり伝言か何かで済まされるかと思いきや、大叔父さんはすぐにお祖父ちゃんに直接会うためお屋敷を出発して、双子の兄弟は50余年ぶりに再会を交わした。
その時の涙・涙の感動劇については割愛する。そこまではわたしも良かったなで済んでた、とだけ言っておきましょう。
問題はその後。
お祖父ちゃんたちは2人だけで随分長いこと話し合っていた。
積もる話もあるだろうと遠慮していたのが運の尽き、だったのよねぇ。その場にいたら、断固として阻止していたわ。
だって無茶苦茶だもの。
お祖父ちゃんと大叔父さんの双子は、ようやく成人したばかりの女子大学生に、愛情の一片もない政略結婚をしてくれ、なんてとんでもないことを言い出した。
華藤の本家と経営するコングロマリット、華陽グループを救うために、必要なんだとか。
なんの冗談?と思ったわよ、最初は。
でも、冗談でも引っ掛けでもなかった。100%本気の話だった。
かくて、わたしは下手をしたら日本の経済界が激震するかもっていう騒ぎのど真ん中に放り込まれた。
それでなくてもいろんな事情を抱えてるってのに、どうしてこんなことになっちゃったのかなぁ。
この騒動、元を糺せば曾お祖父さんのせい。
曾お祖父さん。当然ながらお祖父ちゃんたちの父親だ。
この人、20年ほど前に亡くなったそうなんだけど、とんでもない遺言を残していった。
遺した本人は良かれと思ってのことだったんだろうけど、死んだ後にはなんのフォローもできないってことを、ちゃんと弁えておいてほしかったわよ、まったく。
もちろん表には出してはなかったわ。でもわかる人にはわかってたから、そろそろ株価とかにも影響が出始めていたんだって。
だからって、ねぇ。
どうしてわたしにお鉢が回ってこなきゃならないんだか。
曾お祖父さんの遺言は、簡単に言えばこうだった。
“女の曾孫を娶った男の曾孫に、自分が個人所有している資産を譲渡する”
この個人資産の中に一族で経営している日本有数企業の株式がかなり含まれているわけで、まぁ要するに遺言に従って従妹と結婚した華藤家男子が次期当主――引いては次期の社長に選出される確率大というわけ。
無茶苦茶だと思う。
100年くらい前ならともかく、今の時代にそんな理由で企業トップ就任なんて、現実が見えてないと思うのはわたしだけじゃないはずよ。
だけどこれは故人の意思だ。
それに会社や一族の共有財産じゃなくて、飽くまで個人の財産を相続させるための遺言なんだから、法的にも通用しちゃうんだな、これが。
今現在会社のトップに立っているのは大叔父さん。
数年前に会長に退いたけど、株式はがっちり握って、今の社長である長男を抑えている。
だけど曾お祖父さんの遺言に従って孫の誰かに株式が渡れば、父親の分も相まってそっちに最終決定権が移る。
その辺りの詳しいことはさすがにややこしすぎるので割愛するけど、要は先代が遺した会社資産を誰が継ぐかで過半数が変わるから、皆が固唾をのんでいる状況なのよね。
そこで重要になるのが、曾お祖父さんの女曾孫。彼女が誰を夫に選ぶかで、未来が決まると言っていい。
華藤家の本家は大叔父さんの直系。彼には3人の息子がいる。
長男の浩一郎氏、次男の宗次氏、三男の三千夫氏。
彼らはそれぞれ家庭を持ち、子供も何人かいる。
華藤家の次代を担う世代の子供たち――とは言っても、もう成人済みのいい歳した人たちだけどね。いわゆる現役世代。
だけど。
なんと何人もいる孫たちの中で、女の子は1人だけだったの。
次男の宗次さんの長女、華藤和泉さん。
その他は全員男。
これがどういうことかわかる?和泉さんは華藤の次代を決定する、誰よりも重要なお嬢様になったってことよ。
そのせいでか。
物心ついた頃からチヤホヤご機嫌取りな人たちに囲まれていた彼女は、ものの見事に自分が1番の女王様になってしまった。
我儘放題・自分勝手・自己中心。こんな言葉がぴったりな女性になってしまった次代の当主夫人(予定)。
正直言って彼女を妻にして幸せになれるのは、いろんな意味でドMな男だけでしょうね。
しかもだ。
和泉さん本人だけじゃない、その母親も実に厄介な存在になってしまった。
次男の宗次さんの妻、渚さんは元々さほど裕福じゃない一般家庭の出身だそうで、学歴も職歴も極めて普通――の、やや下の方にいた人だったらしい。
それが30年近く前、華藤の次男と出会って恋愛関係になり、結婚までこぎつけたんだそう。大金持ちの次男夫人なんて玉の輿だから、当時はさぞ周りから羨ましがられたことでしょう。
だけど世の中そうそう甘くはない。
いざ嫁いでみれば、皇室とも縁のある名家のお嬢様である長男夫人や、最高学府を卒業して成功した女性実業家である三男の妻、というセレブ相嫁たちに挟まれて、随分悔しい思いをしたみたい。
それが一転して、遥か高みにいたはずの義姉妹や貧乏人の成り上がりと見下してきた華藤関係者が、こぞってへりくだるようになった。唯一の女児を産んだ自分に。
それまでの鬱憤を晴らすかのように、高飛車になるのもしょうがない。
つまり母娘そろって厄介な存在になっちゃったわけだ。
我儘妻と意地悪姑がセットになる結婚なんて、誰がしたいだろう。だけど和泉さんとの結婚を拒否するということは、華藤の中でトップ争いから降りるということを意味している。
曾お祖父さんの遺言によると、女曾孫から夫に選ばれるも拒否した場合は、財産は一切分けてもらえないと明記されているらしい。
とは言え、曾お祖父さんのお金なんてもうとっくの昔に大叔父さんが抜かしてるんだけどね。
それでも遺産の大半である株式を放棄するということは、対外的に当主を拒否したとみなされる。だから、和泉さんからの逆プロポーズがあったら、好悪の情はさておき、受けざるを得ない。という状況だったの。
今までは。
そこに降ってわいたのが。若い頃家を飛び出してずっと音信不通になっていた曾祖父の長男。と、その孫娘。
つまりおじいちゃんとわたしだ。
突然現れた、曾お祖父さんのもう1人の曾孫娘。
たちの悪い家族もいない、礼儀作法・金銭感覚・学歴・性格・常識――その一切が、通常仕様。
特別高貴な血筋を引いていなくとも、特に優れていなくても、その人格と頭脳に問題なしの、まともな女性。
華藤の一族は、あっという間に盛り上がった。――盛り上がってしまったのよ、迷惑なことに。
傍若無人な母娘をこれ以上のさばらせないためにも是非なんて言われて、思わず叫びたくなったわよ。ふざけんじゃないって。
だけど。
みんな怖いくらいに真剣だった。よくよく聞けば、もうタイムリミットが近くて危機感が半端じゃない状況らしい。
タイムリミットとは、和泉さんが結婚相手を決める期限。
彼女は今25歳だ。もちろん昨今結婚年齢はもっと上がってるし、出産可能な年齢だって広がってる。ただ結婚相手を決めるだけならまだまだ余裕はあるでしょう。
だけど、この場合そういう問題じゃない。華藤の次期社長を決定する選択だと思えばギリギリなんだそう。
3兄弟の子供たちの内1番年嵩なのは、浩一郎さんの長男・浩和さん。長男の長男で、今28歳。その下に、夏彦さん26歳と智司さん22歳、という弟が2人いる。
2代続けての3兄弟とは、すごい男系家族よね。
で、宗次さんの所が和泉さんと弟の和馬さん、21歳。三千夫さんの所に寛さんと匠さん23歳の双子の兄弟、その下涼さん17歳。
以上、男曾孫は計7人なんだけど。
誰が選ばれるにしろ、そこからトップに立つための教育やらシフトが始まるわけで、それを考えるともうそろそろ決定して欲しいっていう時期なんですって。
何よりそこをキチンとしてくれないと、(弟の和馬さんを除いた)他の5人が婚活に入れない――どころか、恋愛すら堂々と出来ない有様なんだから、そりゃあいい加減にしてくれと言いたくもなるでしょうね。
まぁ、どうせ裏でよろしくやってる奴もいるんでしょうけど。
さらには、何だかんだ言っても内々の話であるこの件が、会社に影響を及ぼし始めたってこともある。
日本有数の企業を掌握する一族の次代たちなんだから、事情を知らない人たちから見れば、政略結婚の相手としては垂涎ものだわ。
そりゃもう何年も前から、縁談が山ほど来てるらしい。けど、曾お祖父さんの遺言のせいで、どれも受けるわけにもいかなくて、見合い1つできないでいるんだそう。
正面から断れば理由を完全に隠せるわけもなく。
そんなわけで、じわじわと内情が世間に知れ渡り始め、和泉さんの存在がますます注目され、さらに彼女の傍若無人ぶりに磨きがかかり…華藤の評判にも影響が出てきた。
いろんな意味で、もう限界。
だからと言って、わたしに何をどうしろって言うの。