屋根裏ねずみ
木造の家は隙間だらけだ。
太陽の光はその隙間を刺して屋根裏に細くて長かったり、平べったくて薄かったり、そんな色んな光を見せる。私には遥か遠くで洞窟の出口を見る様に・・・光とは希望の様に・・・そう見える。
だけど、私は太陽の下に出る事は出来ない。夜行性なのだ。私はネズミだ。この家に住み付いた。少し大きなネズミ。少し大きい分何か・・・詩的な文章になるのかもしれない。少し大きい分人間を憧れるのかもしれない。
夜行性と言えど、私は気ままな時に寝る。寝たい時に寝て、起きていたい時に起きている。その事に関しては人間よりもずっと自由だという事が解る。少し大きい分、少し考えられる量が他のネズミより多い・・・様な気がする。
まあ、『ネズミの視点で人間が一つの家族を見たら』と言う様な感じで読んでもらえればいいのではないかな?『え~ネズミはそんな事考えないしそんな事しないよ』なんて寂しい事は言わないで欲しい。実際私はこの屋根裏にいるのだから。頭の良いネズミと思ってくれていいだろう。二足歩行で片手に辞書を抱えている様なやつではない。そんな綺麗なネズミとは違う。私は不法侵入して勝手に屋根裏に住み付いている薄汚い大きめのネズミでそれだけなのだ。
秋になるとあの尖って乾燥したいかにも茶褐色の稲の匂いが屋根裏まで漂ってきて、秋を告げる。ここがたいそうな片田舎で田園に囲まれている事が解る。そうそう、秋には虫の音が聞こえるし迷い込んだ蛍なんかもたまにある。冬は寒く夏は暑いし年中じめっとしてせっかく苦労して持ってきた食料は足が付くのが早い厳しい土地にある家だ。
三人家族で、父と母と娘が住んでいる。
母は、専業主婦で今、台所の机で家事の合間の休憩をしている。
何故わかるかって?私は母の真上で天井の隙間から『人間観察』しているからだ。
他の家族は仕事に出ていて、完全に無防備にお茶をすすっている。
母はあくびを一つしてぼーっと特に何を見る事もなく椅子にだらしなく座っていた。そして、たまに目の前に置いてある写真立てを手に取って見詰めてため息を吐く。お気に入りのアイドルの写真でも入っているのか?と私はいつも謎に思う。私の位置からでは、写真に一体何が写っているのか分からないのだ。色々な隙間から試したのだが丁度見えないのだ。謎に思うのは母のため息の種類は仄切ない物の様な気がするからだ。なぜ?そんな見ると悲しくなるような写真を眺めるのか?もしくは『ああ、なんてかっこいいし可愛いのかしら?写真じゃなくて実際会いたいわ・・・はぁ』と言う類のアイドルへ向ける仄切なさなのだろうか?
まあとにかく母は毎日その写真立てを見ては、ため息を吐いていた。
「おい!起きれや!」
母は朝が苦手だ。毎朝父に起こされて慌てて朝食の支度をする。母は天然な所もあって性格はB型のそれであった。
畑をしていて、昼間は殆ど畑をする。夕方6時頃から忙しそうに皿洗いを初めて夕食は7時か8時頃になる。昼間家事は少ししているのだが、殆どテレビを見てお菓子を食べている。内臓脂肪がついて今はETの様な腹になっていた。
「ただいま」
午後3時頃になると娘が帰宅する。
家には誰もいない。母は家の隣の土地で畑をしている。「帰って来て一人だと寂しい気持ちになるから、私もなるべくいる様にするね」自分でそう言っておいて、娘よりも畑に熱心で矛盾している。そう言う所が父や娘に「全くお前ってやつは」と言われるのだ。
私は心の中で娘に『おかえり、今日も仕事、お疲れさん』と言って微笑んだ。微笑んだかどうか?は分からない。ネズミが微笑める動物なのか?分からないが私の気持ちは微笑んでいた。
娘にとって、一日一日の仕事を無事やって来る事は容易な事ではない。
娘は過去に精神病を発症した。幻覚と妄想で生活に支障が出る病気で、発症するまでは家族は気が付く事が出来なかった。症状が安定している時に母が娘の病気が書いてある冊子を娘に読み聞かせているのを聞いたことがある。100人に一人が発症しており、治療には家族の協力が不可欠で、大変難しい病気であった。
娘はケースワーカーさんについてもらい。治療のアドバイスをもらっている。最近は安定していて私も本当に嬉しい。
仕事から帰って来た娘はレコーダーに撮りためたアニメとかドラマとかを見始めた。
私は淋しそうにテレビを見る娘を困ったような顔で観察していた。『早く畑を切り上げて娘とコミュニケーションをとってくれ母よ』と思いながらため息を吐いた。
娘の症状が芳しくない時、娘が楽しめるからと父が借りて来た映画を見た娘は、その登場人物が自分であると本当に勘違いして「私、行かなければいけない所があるの。合わなければいけない人がいるの」と言って、母や父を連れ出していた。娘は時を選ばず『運命の人探し』に父と母を借り出した。父も母もたじたじで疲れ果てていた。娘の幻覚を否定する事は良い事ではないと思っていた父と母は、なるべく肯定した。しかし、疲れ果てて「こんな時間だから、もういけないよ」と自分たちの都合で結局拒否した。まあ、最初は何でもしてやろうとしたが結局中途半端な決意であった事が良くわかる。
只優しく介抱すれば治ると思っているのだ。普通の病気ならそれは叶うだろう。しかし、娘が患っているのは精神病で、「治癒」と言うより「克服」する。新しい回路を脳の中に作るという本人にとって過酷で時間が掛かる回復の仕方をするものだ。
娘は、主に誰かと結婚しているという妄想と在りもしない自分の罪で家族や知人が罰を受けているのではないか?だから自分は健康で文化的な生活をしてはいけないのでは?と思って飲み水はトイレの水を飲み続ける事もあった。家族が剣山の上に正座させられていると思っている事もあった。
以上のネズミ的観察をへて考察した結果、娘は30歳でいまだに彼氏ができない劣等感と大学を出してもらったのに仕事が長続きせず職を転々としていて、給料も想像と全然違う物であった事に両親に負い目を感じている。あと大学時代の一人暮らしに「自分は何て人とのつながり方が苦手なのだろう」と痛感して一生分の孤独をそこで味わっている。大学時代の写真を見ている所を覗いてみた所、私はそんな事を感じた。
何もかも中途半端で全く思い通りに行かないやってもやって努力しても努力しても、苦しんでも苦しんでもうまく行かない。『自分は何てダメな人間なのだろうか?クソだ』と言う結論に達してしまったのだろう。
『娘よ。まだまだ君は若い。その歳は何でも中途半端なのだ。何をやってもうまくいかないモノなのだ。只そう言うモノなのだよその時代は。けっして解決する事は出来ないし妥協してはならない。しかしそれを折れる事無く腐る事無く続けていれば、歳を経て君は何者かになるのだよ。人間とはそう言うモノだ』そう言ってあげれたら・・・未来は絶望や暗闇や孤独ではなくなっただろう。娘は自分が何者かになる途中の何者でもなくモガク時期を耐えられず心を壊した。
誰か夜の嵐の海原を航海する君たちの位置を少しでも照らして遠くに小さな光を見せる灯台の様な人間がこの世界には少なすぎる。だからそもそも強い者以外の灯台に出会わなかった人間がこの世界を諦める、それが100人に一人いるのだ。社会よ光を示してくれ、弱い者に・・・もう少しだけ。甘やかすのではなく、制度を文句も言われない様に整備するのでなく、僅かそこが何処なのか知らせるだけの小さな明かりでいい・・・。ああ、社会よこの娘に本当の優しさを知らせて欲しい。
私は涙を流して娘にエールを送った。ネズミが涙を流す事が出来る動物なのかは分からないが、私は確かに泣いたような気がした。
6時頃に母は畑を切り上げて、皿洗いを始めた。
それからすぐに、父が帰って来た。
父は「ただいま」と二人に挨拶してすぐに、家の隣の小屋へ行った。たいそう立派な小屋で、父自身が建てた小屋だった。そこで趣味の模型作りを7時頃までする。ネズミ的道はその小屋には繋がっていないが、完成した模型を居間に持って行って酒のつまみにしているのを見た事があった。
7時に母屋の方へ来て風呂に入る。父は風呂があまり好きではなかった。石鹸が嫌いで、体にあざの様な物があって医者に見せた所カビだった。特に問題ないらしくカビを治そうとはしなかった。
8時頃になっても母は夕食の支度が満足にできていないのは毎日の事だ。そうして父に「おい!箸は洗ったか?」「おい、酒のコップは?」「何か?食う物は?」と怒鳴っていた。『昼間のお菓子ボリボリを無くして、早めに支度をして、それから休憩すればいいのに・・・』と私は天井裏からため息を吐いて諦めた。娘には私が思ったような事をアドバイスされていたが母は、直す気が無いのか?自分で理解していても簡単には直せなかった。
その為家の仕事が押して、寝るのは午前1時を大体過ぎていた。風呂と歯磨きをするときには眠りこけていて、鏡を見ながら歯磨きをするがその鏡を派手に床に落として、もう9時に寝ている父をその音で起こして「うるせ」と怒鳴られていた。
「仕事を早めにやって、余った時間で休憩して、早く寝れば早く起きるし、良い流れになるのに」と娘には何度も言われていた。私もそう思う。今は負のスパイラルにはまっている。だから、頭が働かないで可笑しな事を可笑しなタイミングで言うので、父や娘に呆れられているのだ。
飯が終わった時分に、畑の野菜の煮たやつを出してきて「体にいいから食べなさい」と言っているが。確かに体にいいのは分かるが、もうみんな飯が終わっているので誰も手を付けようとしない。タイミングがおかしいのだ。自分は、1時頃に寝るのに、娘が9時ぐらいまで起きていると「早く寝なさい」と言う。何の説得力もない。家事をしていて遅くなるのならわかるが、遅れた家事を慌ててして、そして歯磨きに2時間も掛かっているから、どうしようもない。
父も父で模型作りに必死で、家族と接する時間は少ない。酒を飲み始めると言いたい事しか言わない。自分は怒鳴るくせに、他の家族が喧嘩していると「うるせー!!からやめろ!!」と黙らせた。『喧嘩が無い=家族が幸せ』と思っているらしく、この家族は父の所為であまり深い話が出来なかった。父は本人の事などどうでもよく、父は父らしく、母は母らしく、娘は娘らしく、父には一つの家族の絵が在って、それにそぐわない=家族崩壊と思っているらしく。そうならない様に必死で抑制し押さえつけた。まあ悪い人間ではない。結局家族の幸せを大切に思っているのだが、父の家族の幸せの守り方が、父の家族とは?と言うその絵から外れたら、首根っこを掴んで又キャンパスの中で同じポーズをとらせるという家族の幸せの守り方で、確かにそれは簡単なルールで単純な父には家族を幸せにする秘術を見つけた様な物であったし、外ずらから見たら家族は幸せ円満に見えるだろう。しかし、屋根裏から見たら、言いたい事を言えずに互いの気ごころも分からず同じ家で他人が家族を演じている様にしか見えない。ここに男の子でもいたら、そんな事関係なくルールや秩序をぶっ壊してそれを超えた絆をもがきながら家族に与えるのだが、此処には居なかった。男の子の反抗期は人にもよるが、家族に限界突破させる。
そんな父にとって精神病と言う物は、認識する事すらできなくて、娘に対して、変わらずに接した。どこか旅行でも連れて行けば気分も良くなるだろうと思って、無理やりに、旅行に連れ出して、再発。酒を飲んでいて「親はいつか死ぬんだぞ」と娘に今かけるべきでないプレッシャーをかけて再発。もう一つの趣味のバイクで北海道に一人で言った途中に、家に大黒柱が居ない不安を感じた娘が再発、出発する数日前に娘は再発の兆候があった、箸でトマトを何度も力ずよく串刺しにしていたが、父は「ちょっとイライラしてるのかな?」ぐらいにしか思わずそのまま出発した、北海道へ向かうフェリーの中で再発の電話を受けて、北海道上陸して一番早いフェリーに乗って折り返してきた。『娘が困っているからすぐに駆け付けなければ』とまあいい父親なのだが単純なのだ。
父は娘の病気を理解しようともしなかった。
しかし、父も、家の屋根を直すとか母と娘の車庫を作るとかそう言う事では一般の父親よりも、家族にかなり貢献していた。がこと精神病となると父は無力だったし理解しようとする努力を全くしなかった。
言うなれば我儘なのだ。他の人にとって良い悪いなどは関係なく我儘なのだ。
娘の事は母にまかせっきりで、その母も自分の生活リズムにやられていて、娘が回復する事はこの環境では容易な事では無かった。
しかし、今は落ち着いていて、障害者雇用の仕事も月22日の出勤をして安定している。『よくもまあ回復したもんだ』と私は本当に娘を誇らしく思った。
しかし、父も母も娘に対してありったけの気遣いをしているつもりだろうが、又再発する事は目に見えていた。父も母も気苦労だけはもう辛いぐらいしているのに結果が伴っていない。『はぁ』私は前途多難なこの家族にため息を吐いた。
そんな事を考えながら、今は眠そうに歯磨きをしている母を観察していた私を他のネズミが小突いた。『はい、すいません』私は心の中でそう言った。家族の事ばかりにため息を吐いてはいられなかった。私は体が大きいが他のネズミたちからしたら新人で、いや私の方が長くここにいるのだが、私が来る前にここに住んでいる由緒正しいネズミの一族からは下等に扱われていた。ネズミの寿命は3年程だ。しかし、私は体が大きい分寿命も長いようだった。
私を小突いたネズミは、私に餌を持ってこいと言って恐喝している。私が「今はまだ母が居るからいけない」と伝えると、ネズミは私の足に噛みついて私を急かした。「まったく横暴な」と私が文句をボソッと言うと又噛みつかれた。仕方なく私は天井から下へ抜ける道にいそいそと歩いて行った。しかし、まだ食料を持ってくるつもりは無い。母が寝るまでは、待たなくてはいけない。
ネズミの世界も大変なのだ。「はぁ」「いてっ!」
とある日の事である。私はいつものように下の部屋を観察していた。丁度娘が帰って来たところであった。
娘は、いつものように撮りためたアニメを見ていた。その途中で・・・。
「ごめんなさい」「ごめんなさい」
と繰り返して涙を流した。そうして、無機質に立ち上がって、台所の包丁を出した。大きく振り上げて、自分の太ももを刺そうとした時に丁度、母が来て、走り寄って包丁を止めた。
私は固唾を飲んで見つめ続けた。
「どうしたの?」
母は、娘に抱き着いて必死に腕を抑えていた。
「償わなきゃなの、そうしないとみんな私のせいで殺されてしまう」
娘は妄想の罪を償おうとしていた。
母は必死に「そんな必要はない」と言い聞かせるが、娘は聞き入れなかった。
そうして、もう一度包丁を振りあえて今度は母も抑えきれない勢いがついていた。
「ダメだ!!」
声を持たないが私はそう叫んだ。
不思議な事に娘は包丁をピタリと止めて、母娘共々天井を見上げた。
私は『物音でも立ててしまったか?』と冷や汗をかいてそこにじっとしていた。
「ほら、ネズミさんが見守ってくれているよ」
母はそう言った。娘はそのまま暫く母に抱かれて赤子をあやす様に揺すられて落ち着いた。
発症寸前で、何とか発作は治まった。
ここ最近はそんな事が半年置きごと位に一回程起きた。その度に、母は「ネズミさんが守ってくれているよ」と言って発作は間一髪の所で治まった。何故?ネズミなのだろうか?と私は不思議に思たが娘が何とか持ちこたえてくれればそれで良い。
そう言う事が起きる時は決まって父のいない所でだった。父はそんな日でも普通だった。認識できないのだ。母がその事を話しても、父は「そうか」と言うばかりで意に関していなかった。そんな日も変わらず母を怒鳴った。
私は『母の気も知らないで、まったく!!』と腹が煮えくり返っていたがネズミなのでどうしようもない。
娘は元来良い子で、内向的な性格だったので、妄想幻覚の攻撃的な部分は、他人を傷つける様な物ではなく、自分を呪ったり、自分を傷つけたり、全裸で外に出ようとしたり、するものだった。
とある日の事である。私は又他のネズミに急き立てられて、その日はいつにもまして、私を噛みついてきた。母もいつもより遅くまでうとうと起きている日の事で、仕方なく食料を下に取りに行った。母はもう9割がた座って寝ていた。だから、私は『行ける』と思った。
居間の机に、小包装状態のバームクーヘンが3・4あったので、私はそれを咥えて、すぐに戻ろうとした。がダイニングテーブルに眠りこけていた母が今も寝ている事を確認するため見た時・・・バッチリと目が合ってしまった。その時の私の鼓動を聞かせてあげたいくらい緊張して、私はバームクーヘンを手放し、すぐに食器棚と壁との間の隙間に隠れ身を窶した。いくら大きいからと言って私はネズミだ。とりあえず母からは見えない位置に隠れていたと思っていたのだが・・・。
母は、ゆっくりと私の方へ真っすぐ向かって来て、一度私を見詰めると、冷蔵庫から今日給料日の父が買ってきたハンバーガーを取り出して私に差し出した。
私は唖然として、母の手に持って差し出されているハンバーガーと母の顔を交互に何度も見た。
母は「あ!そっか」そう言って、ハンバーガーを床に置いた。手で差し出したままだと警戒して食べないだろうと気づいたのだろう。
『毒か?殺鼠ざいが入っているのか!!?』
と思ったが、私もかなりの空腹で、ハンバーガーを齧り付かずにはいられなかった。
「ああ~まだ腐ってないハンバーガー」
去年の正月の寿司の食べ残し以来の感動に私は無我夢中にハンバーガーを食べた。
母は、私を優しく撫でて「いつも見守ってくれてありがとうね」と言った。
何故?母はネズミにこんなに感謝するのか?頼りにするのか私には理解できなかった。
母は私がバームクーヘンを咥えて持っていく所を優しく微笑んで頷いて私を見逃してくれた。
『へへ、どうだ!!』
屋根裏に持ち帰った新鮮なハンバーガーとバームクーヘンを見た。ネズミの一族は「こいつはスゲー!!お前よくやったな!!」と私を褒めて、私は鼻高々であった。しかし、人間に姿を見られるのは御法度であって、一歩間違えば駆除されていたかもしれない。只母が寝ぼけていたから助かったものの、今後は気をつけなければいけない。「おお、桑原桑原」
そんなこんなでこの家族はいびつにしかし、時間を止める事無く過ごしていた。私も家族を見て、喜んだりイライラしたり、悲しんだりしたが、やっぱり『あれ』が一番私を感動させた。
娘ももう36歳と成っていた。その日は土曜日で、娘は何処かへ出かけていた。そして昼過ぎに客を連れて再び家の玄関に立っている。よそよそしく改まった様にチャイムを鳴らして玄関の擦りガラスに映っていたのは二人だった。
「ごめんください」
そう言って入って来た人間に私は目を見張った。
男だ。娘は男を連れて来たのだ。
父と母は男と娘を客間に通した。『通りで客間の掃除をいつもより丁寧にして座布団が四つ置かれていたわけだ』事前に言っていたのだろう。
娘と見知らぬ男、父と母は向かい合って座って、母は満面の笑みを作っていた。父は照れくさそうに男と目を合わせなかった。
『おお!!言うのか?』私は期待した。娘を自由にする言葉を・・・。
「娘さんと結婚しようと思っていまして」
『おおお!!言ったー!!』
父も微笑んだ。
「そうですか。まあ、よろしくお願いします」
母は肝心な事を聞く、ネズミもそれは気になる所だった。
「病気の事は知ってるわよね・・・」
すかさず男は迷いなく答える。
「はい。知っています」
「そう・・・大丈夫そう?」
その質問に娘も男を窺う。
「初めは、少し驚きましたが、娘さんと結婚したいと思う気持ちは変わらないので」
「そう」
「一緒に苦労していきたいと思ってます」
場は笑った。
男の顔からは、娘の病気を想像だけで受け入れると言った感じでは無くて、一度娘の発作を実際に経験してそれでもと言う顔をしていたので、ネズミは緊張していた顔をだらしなく綻ばせて、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「良かったな・・・ほんと良かった・・・幸せにな・・・この先も色々と在ると思うが幸せにな」
今まで娘は男に苦労してきた。自分に自信が無いため自分よりも下のランクの男を選んでしまうのだ。ヤリ目の男や、「精神病なんて全然気にしないよ」と言うが実際逃げていく男など。まあ、正直言って精神病を発症している女と共に生きようとする男など居るはずもない絶世の美女と言う訳でもないから、結婚など絶対にできなくて、このいびつな環境で一生過ごして、両親が居なくなったら、狂人として生きていくのだろうと娘の将来を嘆いていたが、違った。
私は百足やげじげじやカマドウマが闊歩する天井裏なのに、春の草原に気持ちいい風が私をなぜる様に仰向けに寝転んで手を頭にして、うたた寝でもしてしまいそうなそんな清々しい気持ちで、草の茎でも噛んでいる様だった。
そうして、娘はこの家を出て家の中は静かになった。暫くしてから父は定年退職し自分の趣味に没頭し、母は変わることなく家事をした。しかし、なぜか?娘が居なくなって暫くして母は、家事の休憩にいつも通り見る写真立てを見て今度は泣いていた。静かに涙を流すのだ。父が来るとそれを拭ってバレない様にした。
何故?泣くのだろうか?『娘に良かったね』と思って泣いているのだろうか?
とある日の夕食の事である。父は母の夕食の支度の遅さにいつも通り怒鳴っていた。それに母は怒鳴り返した。何かしらのうっぷんでも溜まっていたのだろうか?
二人は怒鳴り合いの喧嘩になって、泣きじゃくった母が、言った。
「まだ、ネズミが居るのよ!!屋根裏に!!」
「あん!!?なら、駆除業者を呼べばいいだろう?!!」
「・・・・・・」
次の母の言葉に私の脳の中で何か記憶の帯の様な物がすごい速さで巻き上がって来るのを衝撃と共に感じた。
「正気なの?あなたの息子でしょ!!」
「・・・・・・・・・・・」
ああ、思い出した・・・・・私はこの家の息子だった。ネズミじゃない。
父は一瞬動きを止めて力なく口を開けた。
母は、なんで娘が出て行ったのに息子を呼び戻さないのか?と父に怒りさえ感じていたのだった。
父の中ではもう解決した問題で、父はすっかり忘れていた。それが父だ。
そう、遥か遠くの様な気がする・・・。
娘は私の妹だ。
妹が精神病を発症している時、私はネズミの真似をして笑いを誘った。そしたら、妹は少し落ち着いた。
妹は私に「ネズミは四本足で歩くのよ」とか「ネズミは普通のご飯は食べないのよ」とか「ネズミは屋根裏で暮らすの」などネズミのクオリティーを私に求めてきて「ネズミが屋根裏で見守ってくれているだけで私は安心する」そう言われたので、私はネズミになるしかなくて・・・。
不思議な事に私がネズミの生活をすると妹の病気は寛解した。私が下に降りてくると症状が悪化した。だから私はネズミとして生きる他なくて・・・。
父は私の人生よりも、妹の為と言うよりも、只厄介な問題が解決する事を選んで
「仕方ないな・・・申し訳ないがそうしてくれるか?」
と言った。
単純なのだ恐ろしいぐらいに単純な男なのだ。
母は何も言えなかった。
「もういいのよ・・・降りてきて」
母は天井に向かってそう言った。
私はいつも食料を取りに行く道からいそいそと降りていく。光が眩しくて目を完全に開ける事が出来なかった。光の筋に埃が舞っている事が綺麗だった。
姿を現した私に、二人は絶句して母は泣き崩れ父はその場で震えた。
今人間に戻ってみると、ネズミでは、大したことのない体の欠損した部分が酷く愛おしく思った。
指は壊死していて何本か無かった。今になって頭が異様にかゆいので虱か蚤が湧いている。呼吸器は、埃とカビなどにやられて、ヒューヒュー呼吸するたびに鳴った。秋の枯れた弱弱しい木の様な私を見て、父は自分の罪を知った。解決すべき問題を厄介だから自分にはできないからと言って無視した罪だ。それに打ちひしがれている。
「何か?欲しい物はある?」
母は私にそう聞いた。
私はいつも母が見ている写真立てを見つけて近づいて手に取った。
家族4人が笑いあって写っていた。
ああ、あの頃に戻りたい。成すべき事がまだ訪れないあの時に、互いの人間的問題を知らないあの頃に・・・戻りたかった。
何も起きなければ只家族と言うだけで笑い合えるあの頃、父は十分偉大な父であって、母も包容力を持っていると思えたあの頃・・・・。
私は、父の様になりたいと思った。