第一話 転生と賢者
(ここは……どこだ……)
俺は聞きなれない周期的な時計の音で目を覚ました。天井は木造のようだ。
壁にはたくさんの本棚が並列に置かれており、中には本が綺麗にしきつめられている。
俺は眠い目を擦りながら寝かされていたソファから起き上がり、近くにあった窓を覗き込んだ。
窓からは青々とした木々が垣間見え、木々の隙間からは木漏れ日が差し込んでいる。
この家は自然に囲まれているのだろう。
窓から差し込む光が網膜を刺激すると、寝ぼけていた俺はこれが夢ではないことをようやく理解した。
会社に遅刻をしても全く動じないずぶとい神経をしている俺だが、
流石に皆目見当のつかない状況に焦らないはずはなかった。
俺は疑念を抱き、辺りを見渡した。
キッチンらしき場所の近くには、いつの時代の物か分からない振り子時計が置かれている。
恐らくあれが俺の睡眠を妨げた元凶だ。
「変な音がすると思ったら、やっぱりこの時計か……ん?」
何やら振り子時計の中が微かに輝いている。俺は違和感を感じ、時計に近付いた。
「この時計……」
どうやら時計には、振り子の代わりにクリスタルのような宝石が使われているようだ。
こんな物は俺の世界には絶対に存在しない。
あの機械じみた声と共に、嫌な予感が俺の脳裏を過る。
その時、部屋の隅のドアが鈍い音を立てながらゆっくりと開き、家主らしき一人の男が姿を現した。
「おや……目が覚めましたか」
肩に六芒星の紋章が描かれた群青色の衣服を纏った若き男はそう言った。
闇のごとき漆黒の黒髪,緑がかった瞳に丸メガネをかけたその風貌は、まるで賢者そのものである。
コスプレの趣味でもあるのだろうか。あまりに現実離れしているその姿に、俺は驚きを隠せなかった。
「すみません。ここは隠れ家……いえ、別荘のような所でして、あいにく客人用のベッドは用意していないんですよ」
俺が時計を見ていたことに気付いた彼は、驚く俺をよそに、淡々と話を続けた。
「あぁ……それ、珍しいですか?それは魔力時計と言って、魔導石を媒介として動く時計です」
「……魔力、ですか……」
俺は眉を顰めた。彼は何を言っているのだろう。あまりに情報量が多すぎて理解が追い付かない。
「魔導石は大気中に存在する魔力を吸収する性質を持っています。その魔力を動力源とすることで、動いているんですよ」
ゆったりとした口調で説明をする彼の表情はいたって真剣だ。嘘をついているようには思えない。
一体、彼は何者なのだろうか。ひとしきり頭の中の整理を済ませると、次々と疑問が湧き始めた。
「……あの、あなたは?」
「私はエストと申します。昨夜、リエルの丘に薬草を摘みに出かけていたところ、近くの草原で貴方が倒れているのを発見しましてね……」
エストはそのように主張するが、俺にはエストに助けられた記憶がない。
俺の真新しい記憶は、事故に合う瞬間と、あの黒い空間で起きた現象だけだ。
どうやら俺はしばらく意識を失っていたのだろう。
「――ところで、紅茶は飲めますか?」
彼は俺に掘り下げる時間を与えんとばかりに、尋ねてきた。
「あ、はい……」
「……そうですか。とりあえずソファにお座りください。今、紅茶を入れますので」
俺は言われるがまま、先ほど寝ていたソファにゆっくりと座った。
これから何を聞かれるのだろう。最終面接を行うような緊張感が俺を襲う。
俺が座ったことを確認したエストは、テーブルを挟んだ俺の向かいのソファにゆっくりと座った。
エストは軽く溜め息をつくと、ソファの前にあるテーブルを人差し指で軽く叩いた。
すると、部屋に謎の重低音が響き渡り、テーブルの上に2人分のティーカップとティーポットが現れた。
「……!!」
マジックなどではない。質量を持った物体が突然目の前に現れたのだ。
現実主義者である俺は、幻想の世界など、所詮誰かの創作物にすぎないと割り切っていたが、
目の前で起きた非科学的な現象を、俺は現実だと受け入れざるを得なかった。
どうやら俺の嫌な予感は的中したようだ。ここは異世界で間違いないのだろう。
エストは慣れた手つきでティーカップに紅茶を注ぎ、俺に差し出す。
「……どうぞ」
「ありがとうございます……」
俺が紅茶を一口飲むと、エストは話し始めた。
「差支えなければ、貴方の名前と出身を教えてくれませんか?
言いたくなければ言わなくても構いませんが……」
俺は戸惑った。彼は信用して良い人間なのだろうか。
俺の元いた世界とは異なる世界の住人である彼に、どこまで話していいのかも分からない。
「僕は輝と言います。出身は……日本という国です。あの……助けて頂いてありがとうございました」
俺は悩んだ末に、軽い自己紹介程度の内容くらいは話そうと考えた。
もし「自分は転生者です!」などと言ったら何をされるかわからないからだ。
とりあえず深く話さなければ問題ないだろう。
「気にしないでください……助けたのはただの気まぐれですから」
冗談を言っているのだろうか。当の本人は少しばかり口角を上げ、薄ら笑いを浮かべている。
「それにしても日本……聞いたことのない国の名前です。私の知らない国があるとは……世界はまだまだ広いですね」
エストは紅茶を一口飲み、軽く溜め息をついた。
「貴方が着ているその服から察するに……このあたりの者ではないようですね……」
俺はエストの指摘で、転生する前のスーツ姿でいることに気が付いた。
どうやら着ていたものは異世界でも反映されるようだ。
「吸血鬼の《魅了》の魔法で気を失って倒れていたのだとしたら、既に血を吸われて死んでいるはず……」
エストはなにやらブツブツと小声で話し始めた。どうやら分析をしているようだ。
「エストさん……?」
「失礼……少し考えこんでしまいました。これ以上、野暮な詮索は致しません」
エストはそう言いながら、何かを悟ったかのような不敵な笑みを浮かべた。
初めて見せるその表情に一瞬恐怖心を感じた俺は、紅茶の入ったティーカップを手に取り、
一気に飲み干した。
「そういえば、この家の近くには何があるんですか?」
「特に何もありませんよ……しいていえばこの森を抜けた先にリエル王国という国があります。
もうお帰りですか?」
エストは立ち上がり、2人分のティーカップをキッチンへ下げながら、俺に問いかけた。
「…………」
何と答えれば良いのだろう。そもそも俺はどこに帰ればいいのだろうか。
日本は間違いなくこの世界には存在しない国なのだが、恐らくエストは、旅行感覚で帰れるような場所にあるとでも思っているのだろう。
別に元居た世界に帰りたいわけではないのだが、
助けてもらったうえにこれ以上迷惑をかける訳にはいかない。俺はすぐにここを去ろうと決断した。
「実は訳あって家に帰る事ができないので、どこかで宿でも探そうかと……」
「――お金はあるのですか?」
俺が話し終わる間もなく、エストは鋭い指摘を行った。
(…………)
俺が先のことを全く考えられていない事を察したのだろうか。しばらくの沈黙がその場を支配した。
「……やれやれ、貴方には困ったものですね……」
俺の曇った表情を確認したエストは、そう言いながら部屋の隅の扉へと消えていった。
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