改札口の少女
それは、いつもどおりの朝のことだった。
朝の通勤途中。会社最寄り駅の改札口。
プラスチックでできたカード型の切符を機械にかざし、改札を抜ける。入社五年目のサラリーマンともなると、学生時代はあんなに嫌だと思っていた通勤地獄の毎日にも、だいぶ慣れてくるものだ。
最近、巷で日増しに強くなっている春の香り。
そんな香りの充満する駅の外の世界へと、颯爽と飛び出そうと足を速めたときだった。ぽつんとたったひとりで駅のコンコースでたたずむ少女の姿が、僕の目にとまったのである。
歳の頃は、小学校入学前の五歳くらいだろうか。
赤いワンピースを身に着けたその少女は、大人たちのせわしない流れをさえぎるようにして、通路の壁の前に棒のように立っていた。まるで夢を見ているかのような目つきをして――。
だが僕は会社へと急がねばならないのだ。就業開始時間も迫っている。気にはなるがそれを振り切り少女の横を通り過ぎようとした、そのときだった。
体が勝手に脳へと命令し、僕は立ち止まってしまったのだ。
――この子、たったひとりでここに?
僕の目の前で繰り広げられる、映画のワンシーンのような光景。壁の前で立ち尽くす少女のすぐ横を、無機質な人の流れがただ行き過ぎてゆく。
流れに逆らう漂流物のような気持ちで、僕は女の子にそっと声をかけた。
「キミ、ひとりなの?」
「……うん」
――危ないな。親は、何をしてるんだろう。
僕が話しかけたのにもかかわらず、少女はこちらを振り向かない。
ただひたすらに壁を見つめている。
彼女の眼の先にあったもの――それは、一枚のポスターだった。秋の紅葉がひらひらと舞う中を疾走する三両編成の汽車が描かれている。真ん中の客車の窓には、外に向かって手を振り、楽しそうに笑う赤い服の少女がいた。
昨年の秋に使われた、鉄道会社の旅行キャンペーン用ポスターらしい。
「この絵を見ているの?」
「……うん」
やっぱり、僕の方に顔を向けない。
この女の子、とんでもない鉄道好きなのだろうか。
「汽車が好きなの?」
「……ううん、ちがうよ。これ、お母さんが描いたから……」
お母さんがこれを描いた? じゃあ、この子のお母さんは画家なのか……。
そう思った矢先だった。
駅員がつかつかとやって来て、突然、そのポスターを壁から剥がしにかかったのである。
「え? そのポスター剥がしちゃうんですか? まだこの子が見ているじゃ――」
「は? この子って……誰です?」
――いなかった。
「いや、さっきまでここにいたんですよ。赤いワンピースを着た、五歳くらいの女の子が――」
若い駅員さんの表情が、不意に曇った。
「実は……何日か前にも、同じことをおっしゃったお客さんがいたんですよ。『あんなところに小さな子をひとりで立たせてたら、危ない』って――。でもですね、そのお客さんの他には誰もそんな子は見ていないんです」
「そ、そんな馬鹿な」
「あ、これは噂なんですけど……」
急に小声になった駅員さん。
「この絵を描いた画家さん、まだ若い女性で小さな女のお子さんがいらっしゃったそうです……。ですが去年の暮れ、つるつる路面でスリップした車が歩道にいたお二人に突っ込むという事故に遭われたそうで……。その画家さん、お子さんと一緒に亡くなられたみたいなんですよ」
僕は思わず息を飲んだ。
「お客さんが見たのは、その画家のお子さんなのかもしれませんね」
駅員さんは、「そんな訳ないか」と乾いた声で笑った。
いや、きっとそうだ――変な確信が、僕の気持ちに芽生えた。
「それなら、このポスターを僕にくれませんか?」
戸惑いながらも僕にポスターを渡してくれた、駅員さん。
貰ったポスターをくるくると丸めて小脇に抱えると、僕は会社へと向かった。
一日の勤務を終え、自宅へと戻る。
あの子はきっと、自分とお母さんの思い出の詰まったポスターがなくなってしまうことが残念で、あそこに立っていたに違いない――。
そんな思いとともに、丸めたポスターから輪ゴムを取り外す。
すると、広げたポスターの裏に意外なものを見つけた。それは、濃い鉛筆で書かれた幼い子どもの文字の並びだった。
『もらってくれて、ありがとう』
――やっぱりな。
全然、不思議とは思わなかった。むしろ当然のことのように思える。
ポスターを自宅の真白な壁にテープでぺたぺたと貼る。
と、そのとき背後に感じた、二つの気配。
ぞぞっとするけど、何だか温かい気配。
二人ともここに来てくれたんだ――。
後ろなど振り返らない。振り返る必要などない。
僕は、いつまでもずっとその絵を眺め続けた。
(おわり)
お読みいただき、ありがとうございました。
5周年を向かえたひだまり童話館を、今後ともよろしくお願いいたします。