無口なヒロインは勘違いされる
勘違いヒロインものが書きたかった。
高校二年生の白河奈央はいわゆる“コミュ障”だった。
どのくらいコミュ障かと言うと、まずもって人の目を見て話すことができない。そもそも話すらまともにできないくらいのコミュ障で、彼女の会話相手といえば母親に父親、あとは弟が全てだった。
と言っても、両親ならびに弟との会話も、「おはよう」「いってきます」「ただいま」「おやすみ」程度……ああ、あとはたまに母親から「ちゃんと勉強やってるの?」という問いかけに「うん」と答えることも含めようか。
とはいえそうまでしても、彼女の一日の会話量が四百字詰め原稿用紙を超えることは無かった。
それがなんの因果か、彼女は乙女ゲームの世界へと転生する。
しかもヒロイン転生。
教室の隅が住処の女子高生から乙女ゲームのヒロインに転生したのだから一見幸運にも思えるが、彼女の立場からすると実はそうでもなかったりするのだから現実はコミュ障に対してかなり厳しい。
ちなみにこれは私見であるが、乙女ゲームのヒロインと言えば、コミュ力全振りのコミュ力オバケ。とにかく手当たり次第にイケメンを見つけては声をかけ、好かれようが嫌われようがなにされようが声をかけ続ける。かけ続けにかけ続けて、そして落とす!
そんな存在こそが乙女ゲームのヒロインであるわけだが、彼女にそんな芸当を期待するのは全くもって無駄である。
何せツ○ッター程度の文字数ですら余らせるくらいに話さない女なのだから。
というわけで彼女はさっそく困っていた。
カテリーナ・エスターライヒ男爵令嬢。
『王子は僕に恋してる』という乙女ゲームのヒロインにして僕っ娘。そして彼女の転生先であった。
ああ、そうそう。彼女はこの乙女ゲームをよく知らない。なぜならそもそもプレイしたことが無かったし、やっているクラスメイト達が周囲に居たには居たが、彼女が会話に交ざることは無かった。
だからまぁ、作品タイトルをぎりぎり知っているくらいで、彼女はこの世界が『王子は僕に恋してる』を基にした世界だと気づくことはなかったし、今後も気づくことはない。ついでに言えば僕っ娘設定もこの瞬間に無意味なものになる。彼女の一人称は「僕」ではなく「私」だったからだ。まぁ、人生で彼女が「私」と口にした回数などたかが知れているのであまり意味のある情報ではないかもしれないが。
と、まぁ、原作のヒロインには程遠い存在とも言える彼女ではあっても、とにかくここは乙女ゲームを基にした世界。
だからこそ彼女はその洗礼を受けることになる。
それがどれほど彼女が望まざるものであったとしても仕方がない。
世界が彼女にヒロイン補正というものを与えたのだから。
『王子は僕に恋してる』の舞台となるフレジャー王立学園への入学早々、彼女はこの補正によって、本作の筆頭攻略対象、アルノー王太子に声をかけられることになった。
「あなたが噂のエスターライヒ男爵令嬢か」
まぁ、コミュ障の彼女にすれば迷惑以外の何物でもないのであろうが、彼女は男爵家の養女である。しかも学問を重んじる家風であるエスターライヒ家の男爵が自ら家臣の家に足を運んでまで迎え入れた才媛という噂までついてきていた。
だから彼女は入学早々悪目立ちをしていたわけだ。
そしてここにきて、王太子からのお声掛け。
それを好機とカテリーナは自らをアピールする。
「これはアルノー王太子殿下。僕の名前を覚えていていただけたのですか?」
と物怖じせずに、王太子に答えた僕っ娘カテリーナ。
そしてそんなカテリーナに興味を持つ王太子。
というのは原作の話。
このコミュ障カテリーナにそんな受け答えは無理である。
というわけで、コミュ障カテリーナは先程からひたすら沈黙を続けていたりする。
そしてここで満を持して悪役令嬢登場。
「あなた、いくらここがフレジャー王立学園とはいえ、ご自身の立場を理解できているのかしら?」
と問う悪役令嬢。
そして、
「これはエミーリア・ドライス公爵令嬢。僕が聞いたところによればこの学園は対等を是とする場と伺っていたのですが違いましたか?」
と受ける僕っ娘カテリーナ。
ああ、もちろんこれも原作での話だ。
何せこの世界のコミュ障カテリーナは先程からうつむいたまま沈黙を保っているだけなのであるから。
というわけで、悪役令嬢改め、救世主エミーリア・ドライス公爵令嬢の第一声はこうだった。
「王太子殿下、いくらここがフレジャー王立学園の中とはいえ、王太子殿下に直答できるご令嬢などそうそうおりませんわ。ましてカテリーナ様は博識で知られるエスターライヒ男爵のご息女。礼節を知らぬとは思えませんことよ」
「むっ、それもそうか。いや、これは俺が迂闊であった。いくら対等を是とする学園とはいえ、礼節も必要か。男爵令嬢、許されよ」
というわけで去っていくアルノー王太子とその婚約者であるエミーリア公爵令嬢。そして取り残されるコミュ障カテリーナ。もちろんこの間彼女は一言も発してはいない。まぁ当然か。だってコミュ障だし。
しかし運命の歯車はここに来て大きな狂いを見せる。
本来悪役令嬢としてヒロインである僕っ娘カテリーナと対立するはずだったエミーリア公爵令嬢であったのだが、この世界では大いにコミュ障カテリーナへの好感度を高めることになる。
その証拠にあの場から離れてすぐ、
「王太子殿下、あのように簡単に謝罪などしてはなりません。あの場はカテリーナ様が何もおっしゃらなかったから良かったですが、今後はどうぞお気をつけくださいませ。全ての令嬢がカテリーナ様のように弁えた方とは限りませんので。……いいえ、ほとんどの令嬢がカテリーナ様とは真逆のような方ばかりかもしれませんわね……」
とアルノー王太子に言っている。
要するにエミーリア公爵令嬢の中では、カテリーナは珍しく礼節を知る令嬢という認識なのだ。
単に人と目を合わせられないだけなのを、王族を直に見るのは不敬にあたるからあえてうつむいていた。単に人と会話できないのを、王族に直答するのは不敬にあたるからあえて黙っていた。単に謝られてもなんて言っていいかわからずに黙っていただけなのを、王族は過ちなどおかさない。故にこれは謝罪されるようなことではないし、それを盾に何かをするつもりもない。だから黙って全てを無かったことにすることにした。
ただ単に彼女がコミュ障なだけの行動を、エミーリア公爵令嬢は全て好意的に解釈した結果である。
そしてこれをきっかけに、エミーリア公爵令嬢はコミュ障カテリーナの良き理解者となる。
話したことすらないのにどのあたりが理解できているのかは甚だ疑問ではあるが、とにかく原作よりも遥かに良好な関係を築くことになったわけだ。
「カテリーナ様、本日はお茶会のお誘いにまいりましたの」
と誘うエミーリア公爵令嬢。
そしてもちろん沈黙で返すコミュ障カテリーナ。
いや、首は縦に降っていたから彼女にしては大きな前進か。ついでに言えば、うつむき加減も幾分かましになっている。
これは人類にとっては小さな一歩だが、彼女にとっては大きな一歩である。
というわけで、フレジャー王立学園に入学して一年。
コミュ障カテリーナは礼節を重んじる才媛という名を恣にしていた。
なにせ彼女は養女にして男爵令嬢。基本的に周囲は目上ばかりになるのだから、自分からしゃべらないことは慎み深いが故と周囲が勝手に誤解してくれたのだ。
あとはまぁ、人と会話しない分だけ彼女は時間が余り、他にやることもないからと勉強していたこともある。これはまぁ、悪いことではないだろう。
だからこそエミーリア公爵令嬢は自らの兄である、フリッツ・ドライス宰相令息を紹介する気になったのだ。
ああ、そうそう。フリッツ・ドライス宰相令息とはもちろん攻略対象の一人だ。
アルノー王太子よりも一つだけ年上だが、二人は親友と言える関係を築いている。
だからまぁ原作ではアルノー王太子経由で出会うのであるが、コミュ障カテリーナはアルノー王太子とは全く関係が築けていない。
というかアルノー王太子は彼女の声すら聞いたことがないだろう。
というかこの学園には未だ彼女の声を聞いた者がいない。
というわけでヒロイン補正の出番だ。
何せ乙女ゲームというのは複数の攻略対象がいてこそ成り立つのだ。複数いれば一人くらいはプレイヤー好みのキャラがいるだろうからね。
そういうわけだから、この世界では悪役令嬢改め、恋のキューピット、エミーリア公爵令嬢に活躍してもらおう。
「それではカテリーナ様、三日後にお待ちいたしておりますわ」
と、颯爽と去っていくエミーリア公爵令嬢。
原作ではまずもって聞けない台詞であろう。
何せ二人は恋のライバルだったのだから。
しかしこの世界ではライバルではない。何せコミュ障カテリーナがアルノー王太子と会話したことすらないからだ。
さて、時間は三日後に進む。
ドライス公爵邸で開かれたお茶会はさながらお見合い会場のようであった。
なにせ参加者はエミーリア公爵令嬢とフリッツ宰相令息にコミュ障カテリーナだけ。
しかもエミーリア公爵令嬢は自らの兄とカテリーナをくっつける気満々であった。
と言っても、もちろん正妻としてではない。兄の側室としてではある。
まぁ身分的には妥当であるし、カテリーナの性格ならば正妻と争ってお家騒動のもとになることもない。性格は慎み深く、勉強もできる。
いつまでも婚約者すら決めない兄に対して、エミーリア公爵令嬢は、
「お兄様は女性不信なのかしら? 妹の私が言うことではありませんが、お兄様は見目も麗しくおモテになるのに……。これは女性不信に違いありませんわ。ですからまずはカテリーナ様を紹介して、世の中には慎み深い女性がいることを知ってもらいましょう」
と思ったわけだ。
しかしまぁ、世の中には不思議なこともあるし、殿方の好みも千差万別。
コミュ障カテリーナとフリッツ宰相令息との仲はこの日を境に急接近する。
何を思ったか、フリッツ宰相令息はいたくコミュ障カテリーナを気に入るのだ。
ああ、一応言っておくと、フリッツ宰相令息が彼女を気に入った理由はなんとなくわかる。
何せ彼女はコミュ障ではあったが、いじめられた経験はない。
これは割とすごい。
殿方には理解しずらい話かもしれないが、女性の集団意識というのはものすごく強固なのだ。
少しでも集団から外れたと認識されると、それだけで攻撃対象になる。
その点彼女は、会話こそ……ああ、視線を合わせることもできなかったが、持ち前の観察力を駆使して、相手の望むこと、望まざることを瞬時に判断し、それをやってのけることができた。
だから周囲の彼女への評価は、良く言って無害。悪く言って……いや、無害というのも悪い方か。
まぁともか、無害な者を攻撃するものは有害な者として排除されかねない空気を作り出すことに彼女は成功していたのだ。
そんな彼女であるから、フリッツ宰相令息のコーヒーカップが空であれば即座にお代わりを持ってくる。そしてフリッツ宰相令息が考え事に没頭したいときにはそっと席を外す。というようなことをこの世界でも無意識にやっていたのだ。
だからこそ気難しいところもあるフリッツ宰相令息にいたく気に入られることになったわけだ。
こうして時は流れる。
最初は側室としてフリッツ宰相令息と結ばれる予定であったカテリーナではあったが、フリッツ宰相令息がいつまでも正室を決めない為に、跡継ぎを欲した公爵家に妥協が生まれ、フリッツ宰相令息がひどく気に入っているカテリーナを正室として公爵家に迎え入れることが許された。
そしてカテリーナは正室として男の子を生み、公爵家の中での立場を盤石なものにする。
なにせフリッツはカテリーナ以外の女性を側に置くことは一切しなかったからだ。
後にフリッツは父の跡を継ぐように宰相になると、カテリーナが生んだ子に宰相の職を譲って引退する。
フリッツ自身も有能であったが、このカテリーナとの子、カールは後の世の教科書に載るくらいの名宰相として記録されている。
そのカールは母カテリーナに対してこのような言葉を残している。
「私の母はひどく無口であった。私は生涯のうち、数える程しか母の言葉を聞いていない。しかし母はよく私のことを見ていてくれた。私の望むことを察し、私の望まざることを察し、時に私の望む通りにしてくれ、時に私の望むことを知りながら敢えてしなかった。まさに人を育てるとはそう言うことなのだろう。私は母にそのことを教わった。しかしまだまだ母には及ばない」
と。
事実カールは多くの優秀な官僚を育成し、大きく国の発展に貢献した。
そしてこのことからカテリーナは賢母と知られ、その出自から公爵夫人へと至った劇的な人生からもよくお芝居の題材にされることになる。
しかしまぁ、なんとも女優泣かせの役であったか。
実の息子にすら「数える程しか母の言葉を聞いていない」と言われるほどのコミュ障である。
彼女の役を演じる女優に台詞はほとんど無い、というか劇によっては全く無かった。
その分、身振りや表情で表現しなければならなかったのだから、その女優の演技力が試されることになった。
“カテリーナ夫人は新人女優の登竜門”
これが彼女を題材にした演劇の文句である。
さて、そろそろ僕の語りも終わることにしよう。
コミュ障がヒロインでも意外に何とかなるものなんだね。
僕も一つ学ぶことができたよ。
僕の代わりにこのカテリーナを演じてくれた彼女に盛大な拍手を送りながら僕はそろそろ去ることにしよう。
この世界は彼女のものだ。
ああそうそう、最後に彼女が結婚する直前のお話でも見てもらおうかな。
どうか皆さん、最後に盛大な拍手をもう一度。
フリッツはいつものようにカテリーナと食卓を囲んでいた。
「ふむ、今日の魚はなかなか好みの味付けだ」
そう言ってグラスに手をかけたフリッツは入っていた水を一気に飲み干した。
それを見ていた使用人はお代わりの水を注ごうとするが、その前にカテリーナが立ち上がり、冷えた紅茶をフリッツのグラスに注いだのだ。
「ふむ」
カテリーナの行動にわずかな疑問を持ったものの、フリッツはそう言って、カテリーナが淹れてくれた冷えた紅茶を口にする。
「どうやらカテリーナは私よりも私の心を知るようだ」
フリッツは濃い味を好んだ。冷えた紅茶が喉を潤すと同時に、口に残ったその味と魚の生臭さを洗い流す。
「おい、あれを」
そう使用人に言うと、フリッツは小さな箱を持ってこさせた。
そして、
「カテリーナ、私と結婚して欲しい。どうだろうか?」
と、小箱を開けて見せる。
虚をつかれたのはカテリーナである。
身分からも自分は側室だとは思っていた。
フリッツの正室として指輪を貰うことはない、と。
だからこそ、このときばかりは、フリッツの顔をまじまじと見てしまった。
前世から見ても、カテリーナがこれほどまでに人と視線を合わせたことがあっただろうか。
わずかにカテリーナの頬に赤みが指す。
すぐにカテリーナは顔をいつものように伏せはしたが、
「はい」
と、確かにフリッツへと答えた。
それは決して大きな声では無かったが、確かにカテリーナの声であった。
「どうやら我が奥方は声も可憐であるらしいな」
フリッツの軽やかな笑い声が公爵邸に広がった。
当方コミュ障。人と視線を合わせて会話するのが苦手です。
視線を合わせられなくてもいい世の中にならないかなぁ……。