春
この人がいい、そう思ったのは、私がまだ五つか六つの時だった。
春たけなわの、風が少しだけ強い、土砂降りの快晴の朝のことだった。
桜が咲いたぞと言って、悪友が私のもとを訪ねてきた。健太のやつがこうしてくるのは、大抵私を外に連れ出そうとしている時だ。案の定その日も、大人たちから言ってはいけないと言われていた領境いの崖へと連れていかれた。
崖を挟んだ隣りの領には、白く霞んで見えるくらいに桜が咲いているという。笑いながら追いかけっこをして、私達は森の中を走っていた。
だがそこで健太はあしをすべらせたのだった。
頭上の木々が途切れ、視界がひらけたことに気を取られたのだろう。派手な音を立てて転げ落ちていく健太に、瞬間、肝を冷やした。
着物を脱ぐのももどかしく鳥形へと姿を転じると、急いで崖下へと舞い降りた。しかし、再び人間の姿に戻り様のもとに駆け寄ってみれば、元気にあくたいをついていたので、私は思わず吹き出してしまった。
浅い谷間を、笑い声がこだまする。憎々しげに頭を押さえていた健太は、ふと私の肩越しに上を見て、口を閉ざした。健太の視線を追った私は、そこで世にも美しいものを見た。
この崖を超えてしまえば隣りの領である。その隣りの領には、健太が言った通り、見事な桜が咲いている。
満開に咲き誇るその桜の下に、ひっそりと立つ人影があった。
金色に光る、しゃらりと流れる髪飾り。
柔らかそうな髪の毛は、一族の者には珍しい、薄い茶色の巻き毛であった。きょとんと私と健太を見下ろす瞳の色も、透き通るように淡い。長いたもとは薄紅色。桜模様を散らしたそれは、その幼い娘によく似合っていた。
風が吹いた。
淡い水色の空に、桜の花が舞い散った。