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ゴールデンウィークまでに  作者: 四色美美
8/12

秩父事件の寺

サイクル巡礼2日目です。

 帰りにもう一度藁葺き屋根の下にいる仁王様に挨拶する。

離れがたかった。

私は後ろ髪を引かれそうになりながら又巡礼道を目指してペタルを踏んだ。





 さっき来た道を逆さに走ると、道標に出る。

聞いた話しによると、地蔵菩薩様だそうだ。



(もしかしたら10番もそうだったのかな?)

ふとそう思った。



その角を左に折れて暫く行くとブレーキ音が聞こえた。



「どうしたの?」



「さっき通り過ぎた道に案内板があった気が……」



「きっと幾つか道はあるのよ。どうする? 引き返す?」



「いや、このまま行こうか? 確か秩父公園橋を真っ直ぐ行った場所だって誰か言ってた気がするな」



「そう、私もそう聞いたわ。きっと信号機の上に表示されていると思うから」



「ごめんね。解っていながら……」

鉄ちゃんは悄気ていた。



「いいよ。迷ったら大変だもの」

先輩相手にタメ口もいいところだ。

でも鉄ちゃんは何も言わずに聞いてくれていた。





 その信号機目指して再度ペタルを踏む。

暫く行くとそれはあった。



何があってもいけないので、自転車から降りて信号機の指示通りに横断歩道を進んだ。



平坦な道が一気に勾配のキツい坂になった。

それは蛇行を繰り返していた。



電動アシスト自転車の満タンの充電で約30キロメートル走れると言う。

観光案内所から25番まで行き、又観光案内所へと戻る距離は目計算で約22から23キロメートル。

楽勝だと思っていた。

だからこそ鉄ちゃんにも乗ってほしかったのだ。

そうすれば、このような坂道へっちゃらだったはずなのだ。





 やっとの思いで、音楽寺の広い駐車場に着いた。



此処はその名の通り音楽にちなんだ参詣も多く、駐車場はだだっ広かった。



私達は一番奥にあるトイレの付近に駐輪した。

身に着けた物を互いに持ち、代わる代わるにトイレに寄った。



参道には季節の花が咲いていた。

秩父事件を起こした農民達が歩いたかも知れない道を踏み締めながら、私はそれらを眺めていた。



そうこの音楽寺こそ、困民党の結集した現場だったのだ。





 23番音楽寺は秩父公園橋から真っ直ぐに行った場所にあった。

でもその道は秩父ミューズパークに続くつづら折りの勾配のきつい坂道だった。

この時ばかりは、電動アシスト自転車を無理強いしなかった自分を責めていた。



楽々昇る後ろで鉄ちゃんの姿が遠くなる。

鉄ちゃんは必死の立ち漕ぎで、私の電気アシスト自転車と勝負しようと思いっきり歯を食い縛っていたのだ。



『これで充分だ』と言いたいのだと解っているから尚更辛かった。





 駐車場は広くて立派だった。

音楽寺と言う名前のせいだろう。

歌手のヒット祈願のポスターなども沢山あった。



さっき輪袈裟などを外してトイレに寄った。

御不浄とも呼ばれるから神聖な物は身に着けない方がよいからだ。



だからなのか、坂の上にあるらしい音楽寺を目指しす私は清々しくなっていた。

秩父事件の所縁の地だと言うのに……



「おん、あろりきゃ、そわか」

聖観音のご真言を唱える。



回向文まで読経した後お礼を言い、梵鐘の脇に立った。



帰り際に鐘を打つことは縁起が悪いとされる。

だからただ……

それを見つめていた。



明治17年11月1日。

西秩父の一角に困窮した農民が武装して集まり吉田地区にある椋神社で蜂起した。



その夜一気に吉田と小鹿野の高利貸しの家を襲撃し、音楽寺の脇にある小鹿坂峠を抜けて梵鐘を打ち鳴らしたと言う。

2日午前中にこの寺で休息したそうだ。



自由民権運動の始まりとされる秩父事件だ。



その梵鐘の近くに秩父事件無名戦士の墓があった。



《われらは秩父困民党 暴徒と呼ばれ 暴動といわれることを拒否しない》

と刻印されていた。



秩父困民党として此処に集結したのは約千人だと聞く。



そっとその墓を見ると、亡くなった方々の冥福をひたすら祈る鉄ちゃんの姿が其処にあった。





 13佛の案内板があったので足を延ばしてみることにした。



(13番には確か13人の聖者が安置されていた。この13佛と何か関係あるのかな?の)が



丁度その時脇の家の方が車で上ってきた。



「すいません。小鹿坂峠は車で越えられますか?」



(鉄ちゃん、もしかしたら車で来る気なの?)

そう私には、次は車で楽したいと言っているように聞こえたのだ。

でも残念ながら其処は車では無理だと言うことだった。



秩父困民党が越えて来た小鹿坂峠は、今もなお厳しい道なのだろうと思った。





 10月28日信州より援軍を得た秩父自由党は、圧制政府を改革するために秘かに同士を糾合していた。



秩父自由党は物価下落による生活苦を打破したかったのだ。

そのために高利貸しを襲撃し、打ち壊しをしようとしていたのだった。



それは、善美なる立憲政体を目指してやってきた二人を困惑させ信州へ戻ろうと思っていた。

だけど、許してはくれない。



苦悩する二人は中心部に組みすることにした。





 一足早く蜂起していた風布の自由党員と交流し、今の秩父市内へ進軍を開始したのだった。



秋田事件、群馬事件。

それ以前に沢山の蜂起事件は存在している。その中でも、秩父事件最大級だとされる。

それは、秩父が生糸の生産が中心だったからに外ならない。



松下デフレ下の生糸下落が、民衆を苦しめたのだ。

それ故困窮し、遂に蜂起に走ったのだ。





 明治7年に結成された愛国公党代は、『国民に政治的自由を補償し国会を創設、人権尊重の憲法を制定せよ』と主張。

これが自由民権運動の口火をきることになった。



深刻な農村不況は養蚕地区の秩父ではとりわけひどかった。

高利貸しの借金でがんじがらめにされた農民達は、裁判所や警察郡役所に請願したが受け入れられず農民3千は困民党を結成するにあたった。



困民党は今の秩父で当時は大宮と言った郡役所を占拠ら東京進攻すら図ったが政府が繰り出す軍隊によって4日に潰減、埼玉県下で361名が逮捕され8名が死刑になった。





 23番に集合した千人以外、幾千もの人たちが捕らえられ死刑などをかせられた。

それが明治10年代の最大級の蜂起と呼ばれている由縁だ。



秩父自由党は困民党と呼ばれ、今なお秩父の人達の胸の奥に生きているのだ。





 秩父霊験記は畠山基国の家来内山源蔵だった。

源蔵は病の母から託された御影を兜の中に収めて出陣した。

そのお陰で武士の誉も勝ち取った。

戦の後、母共々出家して観音様を供養したと言う。





 13人の聖者が山の松風の音を菩薩の音楽のように聞いたことから名付けられたそうだ。

だから多くの音楽を志す人達が集まる。

峠の中腹にあり秩父市内が一望出来る。

もしかしたら、雲海も見えるかも知れない。





 納経所で御朱印いただいた後、秩父公園橋へと向かう信号に出ていた。



私は其処を曲がらずに真っ直ぐに走っていた。

23番にいる時にエーデルワイスのチャイムが聴こえたからだった。



(お昼はあのスーパー内にあるお休み処)

勝手にそう決めていた。



女将さんのオニギリと無料のお茶。それだけあれば充分だと思ったからだった。

そう、そのチェーンのスーパーは食事が出来るスペースがあるはずなのだ。



(お昼も過ぎた頃たから丁度いい)

私はそう思っていた。



でも、そんな考えは打ち消された。

そのスペースは混雑していたのだ。

何も購入しない私達は肩身を狭くしながら急いで腹ごしらえをするしかなかった。



「ごめんね」

小さく呟くと、鉄ちゃんは首を振った。



鉄ちゃんは私の後を追い掛けて来ただけなのだ。

だから余計に後ろめたかった。





 又公園橋を渡りその交差点を右に行く。



24番法泉寺は、左久良橋を越えて更に行った場所にあった。



駐車場の反対側にお休み処を備えた売店があった。

私達はその奥のスペースに自転車を置かせてもらうことにした。



(よし、此処で私の力を試してみるか?)


117段ある急な階段を数えながら一気に昇る。

山門に一礼してから下を見て、札所11番を思い出した。

確実に此方の方が長いけど……



「やれば出来るね」

思わず私は言った。

でも隼は何が何だか解らないようで、盛んに首を傾げていた。





 「おん、あろりきゃ、そわか」

聖観音のご真言だった。



観音堂は木立に囲まれており、其処を渡ってくる風が心地良かった。



秩父霊験記は恋ヶ窪の遊女だった。

武蔵の国の恋ヶ窪に信心深く、口の中の腫れ物が治らず苦しんでいる遊女がいた。

秩父の僧が楊枝を渡し、白山観音に祈るように言った。

これに従った遊女の腫れ物は治ったそうだ。





 納経を済ませ、同じ階段を又数えながら降りる。

すると116段になっていた。

階段と言う物は上段は数えないそうで、正式な数は116段だと言うことだそうだ。





 札所25番久昌寺は巴橋の信号を右に折れた坂の上にあった。

駐車場に自転車を止め、朱塗りの仁王門それぞれに一礼する。

その先の坂の上にこじんまりとした本堂があった。



「おん、あろりきゃ、そわか」

此処も聖観音のご真言だった。



秩父霊験記は奥野の鬼女だった。

身重でありながら追い出された女は鬼女となり洞窟で出産した。

母の死後、旅の僧の助言で観音様の御名を唱えた。

その僧が持参していた観音様が御本尊になったそうだ。





 沼のその奥にも沼があった。

其処へと行ってみることにした。



「これも行田から贈られた物かな?」

ポツンと鉄ちゃんが言った。



「行田?」



「ホラ、さきたま古墳群と古代蓮のある市だよ。40年位前に、古代の地層から発見された種から発芽したそうだよ。全国に贈られているそうだから、きっとそうだと思うよ」



「へぇーそうなんだ。鉄ちゃん物知りだね」



「まあな」

鉄ちゃんは笑っていた。



でも此処でタイムアップだった。

既に4時近くになっていたのだ。



「もう返しに行かないといけないね」



「えっ、もうそんな時間?」



「確か5時までに自転車を返さなければいけないんだったわね? だったら早く行きましょうよ」

私は立ち上がった。






明日より電車と徒歩にて巡礼します。

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