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09話 変装(2)


 気が付くと部屋に散らばっていた七色の光が消えていた。どうやらラメの瓶に差し込んでいた日光がかなり傾いていて瓶の位置から大分ずれていたようだ。

 その意味を一拍置いてようやく理解した私はサーッと血の気が引いた。香水をつけるために胸元をはだけさせていた制服のボタンを急いで閉じ、懐中時計で時刻を確認した。



「嘘……」



 思わず唖然とした。もう1時間近く化粧室に籠ってシリウス様を待たせていたことになる。主人を待たせるなど側仕え失格だ。殿下に偉そうなことを言えた義理ではない。


 慌てて目の前に散らかる化粧品を片付け、最後にもう一度顔を鏡で確認しようとしたその瞬間────




「────其方のその顔は黒髪でも目立つな」


「ッきゃあっ!?」



 私は突然後ろから聞こえてきた声に心臓が飛び出るかと思った。椅子から転げ落ちそうになりながら慌てて後ろを振り返る。そこにいたのは、化粧で彩った今の自分を一番見て欲しかった、私の大切な人。

 お忍び用に私と同じく黒髪のカツラを被っているものの、その顔を、声を、私が見間違えるはずがない。



「なっ、でっ、殿下っ!?」


「…ッ、そっ、其方でも先ほどのような、その……生娘のような悲鳴を上げるのだな」


「きむすっ────」



 生娘のようなって……っ!

 恥ずかしくて頭の、つむじの先まで血が上る。咄嗟に口を押さえても、既に聞かれてしまった自分のはしたない叫び声はもう戻せない。


 羞恥に身体を震わせながら、私は目の前の変質者に根本的な質問を投げかけた。



「あの……殿下?一体何故、殿方のあなた様が女性使用人の化粧室にいらっしゃるのですか……?」



 思わず刺々しい声色になってしまった私を責められる人はいないだろう。

 この部屋の奥にはお手洗いもある。乱れた衣類をここで整える使用人も多く、白粉や香油を塗るために肌をあらわにする場合だってある。身嗜みを整えている時────女性が最も異性に見られたくない姿を晒すこの場所は、場合によっては寝室以上に殿方を入れたくない部屋なのだ。

 私だって先ほどまで、完全に油断しきったあられもない姿で一心不乱に自分の顔にお化粧を施していたのだ。

 それだけじゃない。昔、シリウス様にいい香りだといわれたあの香水を胸元につけるため、ついさっきまで肌着まではだけていて……




 私……一体いつから見られていたの……?




「まっ、待て!泣くなアリア!すまなかった!私はただノックしても其方がいつまで経っても出てこないから心配して!」


「…ッ、泣いてなどっ、おり……おりませんっ……」



 悩んで悩んで、最後だからとやっと決心して身に着けたお母様の形見のお化粧を、こんな最悪な形で見られてしまった。そのことが恥ずかしくて、腹立たしくて、悔しくて……


 嗚咽をぐっと堪えて彼を睨む。

 酷い、本当に酷い。



「お、お忍びの衣装を着ている故、屋敷の者じじょたちに見られる訳にはいかなかったのだ!扉越しに声をかけても返事がないし、扉を開けたら其方は延々と鏡の前で化粧品と格闘しているし……」


「…ッ、そっ……それほどに…?」



 胸を抱いて俯いている私にシリウス様が、聞き過ごせない言い訳を語りだした。

 没頭し過ぎて周囲の音が全く耳に入っていなかったと指摘され、感情の比重が怒気から羞恥に大きく傾く。一体どれほど熱中していたというのか。待たせてしまった殿下に声をかけられても、彼に綺麗になった自分を見て欲しくて一生懸命頑張っている姿を無防備に晒したまま最後まで気付かなかったなんて。

 恥ずかしくて堪らない。今の私の顔は首元まで真っ赤になっているに違いない。



「う、うむ……だっ、だが今の其方の顔は、その……わ、悪くは────無いぞ……?」


「…ッ、ぁ……」



 何故か両目の挙動が落ち着かずどこかソワソワしていた殿下が、突然、お化粧でめかし込んだ私の姿の感想を呟いた。

 ドクンと心臓が大きく鼓動する。

 もし気味悪がられたら……と怖くて中々このお化粧を見せる決心が付かなかった。気付けば殿下はもう届かぬ人となり、絶望こんやくの足音が刻一刻と聞こえてくるようになった。今更だというのに、心の準備すら出来ていないのに、咄嗟の不意討ちで思わず言葉に詰まり固まってしまう。



『悪くは無い』



 乱れた心をどうにか深呼吸で整えた私は、折角の彼の感想を忘れないように何度も胸中でその言葉を反芻した。


 ……本音としては、その感想には少しだけ不満がある。

 褒めているのか貶めているのかすらわからない。もしかしたら感想ですらないのかもしれない。

 だがあの、私に対してだけデリカシーの無いシリウス様が、珍しく私の容姿に関する言葉をくれたのだ。昔のような────不気味だのモグラだの、貶すような言葉で無かっただけで十分だ。



「その……母が残してくれた形見の化粧品で……いつまでも箪笥の肥やしにしていては母に申し訳なく……」



 そんな言い訳じみた説明を、訊かれてもいないのにペラペラと喋る、虚しい自分。本当のことは万に一つも知られてはならないのだ。ただ、勘繰られる前に誤魔化してしまいたかっただけ。

 ……別に、期待を裏切られて拗ねている訳では、決してない。


 物足りない気持ちをこっそりと胸の内に隠し、そっと息を吐いていつもの仮面を被る。

 大丈夫。元々ただの自己満足だったのだ。当時、国中に祝福された亡き母の幸運にあやかってみたかっただけ。勝手に期待して結局自分が傷つくだけに終ったことなんて、もう数え切れないほど経験したではないか。今回もまた、その“いつものコト”なのだ。


 そう言い聞かせて自分を慰めようとする。



 だけど────







「────綺麗だ……」






 ……え?




 低く、艶っぽい声が私の鼓膜を震わせた。

 何を言われたのか理解出来ず、ぼんやりと呆けながら、勝手に顔が目の前のシリウス様の方を向いた。


 今……私、何て言われたの……?


 だが私の両目はシリウス様の顔を捉えることはなく、当の彼は既に化粧室の扉へと向かい歩き出していた。

 殿下のごく自然なその動作に、自分の冷静な部分が、誰もが納得する答えを導き出す。



 ……聞き…違い……?




「何をしている、アリア。さっさと付いて参れ、商人たちに逃げられるかも知れん」


「……ぁ、っは、はい!」



 私は咄嗟に大きな声で返事をして、さっきの言葉を振り払った。パタパタと慌ててシリウス様の後姿を追い駆ける。




 ……聞き違いだ。そうに決まっている。


 叶わない想いを拗らせ過ぎてついに幻聴まで聞こえ始めたようだ。


 私は何も聞こえなかった。

 だから忘れよう。



 忘れて……



 ……





 収集が全く付かない激しい混乱の中、爆発しそうなほど暴れ狂う胸の鼓動のみが────私の記憶に鮮明に残っていた。




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