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08話 変装(1)


 フェルタニア公爵領は代々の皇子が国政に関わるための最後の試練として与えられる領地である。豊かで人材も豊富なこの地は比較的統治が容易なのだが、何と言っても仕事量が多い。統治者としての忍耐力、人材を適材適所に配し操る統率力などを身に着けるための試練。若い皇子には決して簡単なことではない。


 今回のロフォース共和国の繊維技術に関する疑惑は、もし事実なら国政に大きく関わってくる問題だ。疑惑が確信に変わり、国家として対処すべき問題だと判断出来た場合、それは宮中預かりとなる。そうなると一領主に過ぎないシリウス様では関わることが出来なくなる。


 領地経営とは関係が無い問題だからこそ、事態の早期発見と情報収集を陣頭指揮した実績が得られれば、国家規模の問題の解決に尽力した地方領主として、シリウス様の宮中での評価は大いに上がるだろう。社交会の姫君令嬢方相手の“遊び相手”ではなく優秀な統率者として新たな賞賛を受けることになる。


 その賞賛を満面の笑顔で受ける彼の姿を想像するだけで胸が熱くなる。




「公爵殿下。イザーク卿の隠密衆が2名ロフォース共和国行きの定期船に、1名が私漁船に無事乗り込めたとの報告が届いております」


「おおっ、誠に結構!後で直接その者たちに感状をしたためよう。其方も見事な采配であった、ロベルト」


「勿体無いお言葉。彼らの日ごろの努力の賜物です」



 昨夜は早めに休めたおかげで何とか感情を整えられた私は、順調に進んでいるロフォース共和国の情報収集計画に相槌を打つ程度には側仕え“アリア”の仮面を被ることが出来ていた。交易船への潜入はイザークの優秀な子飼いたちが万事滞りなく進めているようで、私に手伝えることはほとんどない。せめて、昨日のうちにロベルト卿に渡した自作の反物目利き指南書が彼らの役に立ってくれることを祈ろう。

 後はやんちゃなシリウス様の視察もといお忍びお遊びなのだけど───



「……アリア、例の件だ。準備を任せる」



 ───どうやら本気のようだ。


 私はまた加速した心臓の音を無視し、不本意そうな表情を作り静かに頭を下げた。殿下の優秀な側仕え“アリア”は主人の我侭に辟易としている頭の固い嫌な女なのだ。決して2人切りの港散策を楽しみにしている生娘ではないのだから。


 


 食事を済ませ、自室に戻った殿下は早速と言わんばかりに上着を脱ぎ始めた。



「なっ、でっ、殿下っ!」



 慌てて後ろを向いて抗議の声を上げる。お付の侍女も従僕もいないこの場は、またしても私とシリウス様の2人きりだ。


 また私の目の前で脱ぎ始めるなんて……っ!


 ドキドキと跳ね回る心臓を何とか宥めて、溜息を吐きながらクローゼットに向かう。そして隠してあった例のお忍び衣装を取り出してあげた。どうせコレに着替えたいのだろう。

 人目がないのを確認した私は、昨日のように長々と注意するよりさっさと終ってもらった方が早い、と開き直ることにした。


 ……自分も相当この非常識な環境に毒されてしまっている。



「……こちらをどうぞ」


「おお、懐かしいな。これだこれだ」


「…ッ、半裸のままで私に近付かないでくださいませっ」



 昨日の夜の出来事が頭を掠めて頬が熱を持ち始める。昨夜は暗かったおかげで赤い顔を見られずに済んだが……昼間の今は流石に悟られてしまうだろう。下女時代を思い出して当時のように顔を伏せて平伏の姿勢を取る。これで顔を見られることはない。


 私の言葉が気に食わなかったのか、不機嫌そうに衣装を引っ手繰った殿下がごそごそと後ろで着替える音が聞こえた。昨日の今日だ。私は一切手伝わない。こんな明るい中で彼の素肌なんて見れるわけがない。



「ふん!今日は一人で着替えてやったぞ」


「……お上手で何よりです」



 くすんだ橙色のケープを纏った貴公子がそこにいた。麻を多用した2級品だが、シリウス様が纏うだけでまるで上質な舞台装束のように見える。

 ……やはりこの顔が問題だ。



「……殿下、このカツラをお召しになってください。これでロベルト卿の目も欺けるでしょう」


「む、黒髪にするのか?ほほう、面白そうだ……!」



 私は手早く彼の短い髪の毛を整え、長めの髪のカツラを被せた。少しガラの悪い美男子が出来上がる。どんな髪型でも似合っているのが少し悔しい。



「うむ、上出来だ。これなら私だとわからんだろう」


「恐縮です」


「ではご苦労。其方も自分の変装を済ませて参れ」


「……かしこまりました。少々お時間をいただきます」



 夢ではない。こっそり手の甲をつねって見ても、ちゃんと痛覚は通っている。


 まさか本当にお忍び視察にまで同行させられるとは……


 つまらなそうに溜息を吐いてみても、私の胸中は既に誤魔化しきれないほどの高揚感に支配されてしまっている。


 忘れもしない。初めてシリウス様のお忍びに付いて行き、帝都を2人きりで散策した、あの楽しかった思い出。まるでデートのように一人で盛り上がって人目も憚らずに彼の腕に思い切り抱きついた、思春期真っ只中の子供だった私。


 自由だったあの頃とは違い、夢も希望も何一つとして無いけれど……5年ぶりの2人きりのお忍び街歩きに虚しい期待を寄せてしまう。私は胸を弾ませ自分の変装のために化粧室へと向かった。




 使用人に解放されている化粧室には鏡と洗面台、椅子とテーブル以外に何もない。化粧品からタオルまで全て持参だ。

 私は自室から手鞄を持ち出してテーブルに広げる。以前のお忍びで準備した黒髪のカツラを被り鏡で自分の姿を確認した。


 現れたのは、黒髪赤目の幸薄そうな女。


 色の対比で只でさえ白い肌が最早石膏像のように無機質に見えてしまう。これはあまり日陰を歩かない方がよさそうだ。

 エスターラント王家の者に決まって現れるこの薄桃色の白髪は、隠れるとガラッと外見の印象が変わる。子供の頃に自分のこの髪のせいであの厳しい王女教育を受けさせられたのだと、随分見当違いな考えをしていたことを思い出し苦笑する。

 皇后様や筆頭側仕えのミレーヌは羨ましがってくださるけれど、今でも自分のこの白髪赤目は好きになれない。

 ……幼い頃にシリウス様に不気味だと罵られたのだから。




 「本当に持ってきてしまった……」



 緊張した手で手鞄の最奥のポケットに入れていた、虹色に輝く貝殻の皮膜を散りばめた美しい化粧箱を取り出す。

 およそ使用人が持つものとしては甚だ不相応な……国宝級の名品だ。海の彼方からやってきた異国の職人が木の樹液を塗り重ねて作った、西海大陸唯一の“螺鈿漆器”と呼ばれる工芸品である。



 亡き母の形見だ。



 小さく深呼吸し、覚悟を決めた私はゆっくりと蓋を取った。

 中に入っているのは当時のシャンディア王国が誇った匠爵たちの最高傑作、『新王妃のための化粧ぞろい』。


 私を産んで直ぐに他界した母は、エスターラント王家の分家であるラルク公爵家出身の姫だった。そんな彼女の、前シャンディア国王────私の父との婚姻の際に王家から譲られたのがこの化粧箱だ。美しいカットクリスタルの瓶や小箱に入っている品々は、今やどれも手に入れることの出来ない一点もの。この世で最も“美”にこだわった国が、最も大事な婚儀の主役となる女性を彩るために作った最後の、究極の化粧品だ。

 そっと瓶の蓋を開ける。窓から差し込む光に照らされ、真珠と白金を砕いた七色のラメがキラキラと輝いていた。



「さっ、流石にこれは……派手過ぎますわね……」



 葛藤を繰り返しながら何とか目立ち過ぎない、お化粧のいい塩梅を探す。紅玉を惜しげもなく砕いて作った鮮やかな口紅。サフラン花のエキスを混合して作った頬紅。大陸最南端の海草の灰を精油で溶いた温白色の白粉。他にも様々な鉱物、有機素材を配合した化粧が整然と化粧箱の中に鎮座している。


 血色を良く見せるために瞼に紅粉で陰影をつけようかしら。でもやりすぎると泣き腫らしているようにも見えてしまうし……


 こんなにもお化粧で色々と悩んだことは王女時代以来だ。つい気分が高揚してしまうのは仕方ないだろう。

 だがそんな自分を冷静に見つめる別の私は、あまりの情けなさに死にたくなるほどの虚無感を覚えてしまう。


 もしかしたら彼との最後の外出になるかもしれない。


 そう思ってつい、この化粧箱を荷物に入れてしまったのだ。

 我ながら未練がましくて笑ってしまう。今更こんなものを身に着けて何になるというのか。もう夢も希望も全てが消え無くなってしまったのに。

 亡き母も、自分の一生に一度の晴れ舞台に身に着けたお化粧がこんなくだらないことに使われて、さぞかし浮かばれないことだろう。


 それでも。


 それでも、私は……








 私にとっては、もう、この日が……一生に一度の晴れ舞台なのだから……




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